L-20lonesomelife

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

weblogというコミュニティツール

2020-01-31 22:18:20 | メンタル
ブログをしているとお友達登録の申請がありますが、その方々のページをみると「***カウンセラー」という表題のものがとても多く感じます。
他にも商売っ気満々のページも見ます。
それでも最近カウンセラーがとても多いように思います。
 
精神的に病んでる人がそれだけ多いのかもしれません。
 
でもちょっと多すぎるなと感じます。
 
そういう人たちが多くなって、寧ろネットの社会でも生活感を感じて来てるのです。
いろんな商売がありますから。
ネットでの通販。
ネットでの物々交換。
情報をネットで販売する。
ネットでセキュリティを販売する。
ネットで出会いを売ると婚活広場になる。
 
でも「カウンセラー」ってお話を聞いてくれるだけのような気もするので、ブログを通じてコメントを書きあってる人たちも言ってみればカウンセラーのようなものではないですか。
 
お互いがお互いに気を使う部分があるから。
そこは持ちつ持たれつでいい様に思います。
 
昔々のその昔、主婦たちのコミュニティサイトに「井戸端会議」ってものがありました。
現実社会で奥さんたちが道端で出会ったら何時間も四方山話をベラベラ喋りたくっていたらしい、と。
それは相互間の「カウンセリングサイト(仮想空間)」だったんではのかな、と思うのです。
お金も何もかからない、ただお互いの信頼関係だけで成り立ってる。
いろんなところにそういう場面があったんでしょうね。
 
ネットの中でなくても解消できてたのでしょう。
まぁ、SNSの中でもできなくはない。
そこに、相談料を持ってこられてもなかなか、ねぇ、、。
専門知識があるとは言っても現実社会に通用することはやはり現実の中にあるでしょうから。
 
それにやたらNETの中で商売をしようという意識が見えます。
まぁ、現実の社会、世間でもそういう風潮になってはいます。
 
私の仕事でも感じます。
敢えて紛らわしいものの言い方を言うように強要される時があります。
マイナーな言葉を使うな、と。
ネット内でも同様で、まずはアンケートだけ、と言いながら徐々に誘うこむ話題につなげるのです。
誘導する。
それは商売の鉄則などの本にも書いてるし、心理学にも出てきます。
心が弱い人が断り辛くなるような話し方など。
特にインターネットでは顔を見ないで活字だけで物事を受け答えするから、大胆にそういう行為ができるのでしょうね。
 
ブログというものは言葉の語源はweblogであり、元々は「記録」という解釈。
「日記=ブログ」でもあまり間違ってなかったような気がします。
今はコミュニティツールですね。
それも利害関係も十分に入り込んだツールに発展しました。
 
なので、そこでは実態を明かすような行為は寧ろしないほうが良いような、そんなモノになって行ってるのでしょうね。
たくさんの「イイね」は社会的危険度の度合いを表してる気もしてきてます。
それは現代社会、全てのことに見える世相なのでしょう。
 
開放的な仮想空間ですら危ない社会になるとセキュリティ(防御)が大事になります。
みんな疑ってかからないと怖い。
信じられない友人はあまり欲しくないですね。
なんとなく残念です。
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遠慮は禁物

2020-01-31 07:20:22 | メンタル
自分の場合の遠慮という言葉の定義は「好きなことを我慢する事」=「好きなことをしない」という意味だけが残る
 
なので後は、「好きでない事」「嫌なことをする事」だけが結果的に残ることになる
 
これは自分の進みたい方向とは違う
 
なので、遠慮は禁物である
 
そうする事で良い方向へ進まなければならない


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自分自身への警告

2020-01-30 22:05:15 | メンタル
格言や概念を追いかけるのではなく
もっとシンプルに目の前のことだけに集中しろ
 
自分自身への警告である。
やたら概念を言うことが多い。
逃げの言い訳が多い。
言い訳はかなり複雑だ。
よほど自分は頭がいいのだろう。
という皮肉を言いたい。
言い訳をしても本質は全て見破られてるぞ。
だから、言い訳ではなく素直に自分の頭で分からなかったら「分からない」というべきなのである。
分からない時は「うつ」の時。
落ち着いて考える時間を持たないといけない時期なのだ。
わかるまで行動しない、できない。
それでいい。
わかってから動けばいい。
一つづつ、シンプルに。
 
 
 
 
一緒にいるから気をつかう
 
心労は人間関係に起因することが多い。
人間関係で一番強烈なのは目の前であろう。
人と人と相対する。
目の前で人が言葉を使って自己(事故)の意識を主張する。
それがたいてい食い違う。
食い違いは人を翻弄する。
心労が増幅する。
気を使う必要があるからである。
気を使うというのは自己を否定してることがあるからだろう。
気を使わないと折り合いが合わなくなる。
その時は空間を一つにしないのが得策だ。
一緒にいると気を使うなら、別々の向きに向かって歩き出すといい。
1人の時間はわりと「楽」を産む。


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余暇活動とSNS

2020-01-28 18:46:32 | メンタル
そもそも余暇活動というのは日常から解放されたいからいつもとは違う時間の過ごし方を求める行動ではなかろうか。
自分自身も毎日の仕事や日常の雑務から逃れたいと思うことが多々ある。
通勤時の電車や、スーパーでも買い物もそうだ。
仕事だけでは無い。
日課も同様である。
朝昼晩の食事も毎晩同じ食卓で少しだけいつもと違う材料で食べてもなかなか気分は変わらない。
だから、外食をする。
夕飯をとる場所が違うし、食べるものも違う。
当然、お金もややかかる。
だから、それだけのお金を使ってでも余暇活動としての外食をする。
余暇活動と言う概念よりも一条からの逃避とも言える。
そこに気分の変化があり、何か新しいものが自分を心地良くする。
 
ところで、SNSに於いて多くの人がスマホやパソコンからログインをしている。
You Tube,ブログ、ツイッター、LINE, Instagram、TikTokなど沢山ある。
多くの人が出入りしている。
インターネットの世界はすでに市民権を得ている。
そうなるとそこには多くの時間を費やす日常が現れる。
私がSNSを知った頃は現実社会から逃避するためのネット環境だろうと思っていた。
でも時代はすでに日常の社交場になってきてる。
そして、そこでお金儲けもできるからすでにインターネットの中は現実の社会となってる。
肉体を伴わない現実社会である。
なので、仮想通貨が仮想ではなく物体を持たない実通貨になった。
当然、そこで行き来する人間関係も現実社会となった。
 
外観は見えないけれどそこに生きている人間が存在する。
人と人とが交わる社交場には日常の人間関係があるから嫌な出来事も起こるだろう。
人の世界が面倒だから逃げ込んだネット社会、そこも人のいる人の世なのだ。
もう既にそれは余暇活動とは言えない。
 
人間関係が面倒になったら むしろ、そういうSNSとかではなく、本を読むとか、釣りにくとか、運動をするとかの方がきっと身体は健康になるに違いない。
それでもSNSに入り込みたいという気持ちがあるのであれば、逆に目的は友達が欲しいとか、人が恋しいとかの方だろうな、と思うのである。
それでも、それなら現実の人の方が素直なのではないだろうか。
身体の痛みを伴う実態が目の前にあるからだ。
素直でないのなら、それは自分自身元々が素直でないからだろう。
人は自分のことは関心が強くても他人のことはあまり関心がないから素直になってても対して実害はない。
実害があるとすれば自分自身の強欲から相手が許せないだけなのだと思う。
他人は他人だから。
少々のことは放って於いていいものである。
 
ただ、SNSの頻度が増すと日常になり、
日常になるとログインしなければならないという強迫観念が出てくるのではないだろうか。
SNSだから無責任に言いたいことだけ言ってトンズラできたら楽だろうけれど、それは社会的な避難を浴びる。
SNSの中からつまはじきされる。
最近のニュースではSNSの書き込みでもちょっとした言い方の間違いがメディアに食いつかれている。
そうなると骨の髄まで貪られるほどの攻撃を受ける。
有名人などは標的にされる。
一般の人でも目立ちかた一つで有名人の仲間入りにされてしまい、まるでオモチャにされる。
なので他人のことをあまり言わない方がいい。
ニュースやメディアの記事を見てると、有名になりたいからログインしたいという人もいるのではないか?と思う。
そういう感覚が出てきたら既にネット中毒という病気に侵されてると思うべきなのだろう。
ログインしなければならない、という気持ちなり感覚は寧ろ、そろそろSNSはおやすみの時期だと認識すべきじゃないか、と感じる。
しばらく気にしなかったら気にならなくなる。
病気はそうやって治さなければならない。
一般的に認知されてるのはスマホ中毒とも言うらしい。
 
ところで、最近本を読む時間が増えた。
たいした本ではないからここでは言わないけれど、一冊の本を読んでいたら眠くなる。
そしたら、少しお茶でもして、それから別の本を読む。
また眠くなると、ちょっとだけ眠って、それからまた別の本を読む。
時々運動というか背伸びをしたりする。
別の何かを間に入れないときっと寝てしまうだろうな。
その繰り返しで4冊くらいの本を並行して読んで見た。
焦らず時間をかけて、内容が頭に入らなければ何度でも読み返す。
認知能力が低下してるのか元々悪いのか、何度も読み返す。
読む返すとだんだんと書いてることがわかった気がしてくる。
そうすると、なんとなく自分が前進してるような感覚になってとり落ち着くのだ。
小学校で授業が45分刻みだったのは眠くなるからだろうな、とわかったし、飽きない工夫だったんだなと解る。
大学の授業は90分もあるからダメだなとも思う。
 
本を読み始めてからスマホゲームをいくつかやめた。
やめるという言い方をするほどハマっていたのかなと思った。
そして自分はやはりスマホ中毒者の1人だったんだなと分かった。
Kindleとかもあるけれど、やはり紙の本が一番落ち着く。
以前からあった紙媒体は良い。
なんでか精神的にとても良いと思う。
あらためて精神的にこんないいものが身近にあることを知った。
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歳を感じる日々

2020-01-24 22:08:35 | 日常
今日は昨日に引き続き暖かい。
冬場は体の冷えがキツイので腹巻きをしてる。
また、足も冷えるので靴下を3枚履いてズボン下を履いている。
肌着も2枚着ている。
そうすると結構暖かい。
暖かいけれどやや動き辛い。
動き辛いけれど暖かい。
外出時にはその上に厚手のジャンパーを着る。
そして、首巻きをするから完全防備になる。
最後に皮の手袋をすれば完璧だ。
朝方、出勤時にはまだ寒いので電車を待つ駅のホームでは着ててよかったと思う。
で、職場に着きと最初にトイレに行く。
寒いとトイレが近くなる。
トイレに入るとそこからが随分と面倒に感じる。
いっぱい着てると作業が不便になる。
私は小用でも座ってする。
年齢的なものだとは思うけれど近年やや残尿を感じるからだ。
座って処理する時に沢山着込んでいると排尿スタイルになりにくい。
ジャンパーを脱いで、シャツ二枚を上げて、ズボン下を交互にめくって行かないといけない。
もっと簡単な方法は無いか考えたけれど、無かった。
それだけ防備してるからこその暖かさなのだろう。
処理を終えるとまた元の完全防備に戻さないといけない。
これも割と時間がかかる。
こういうことを繰り返してると、女性が高速道路のトイレに並んで順番待ちをしてるのを見かけた時に、さぞかし大変なのだろうなぁと思うと同時に、文句を言わずに並んでろことにつくづく感心する。

今日から中国では春節だ。
うちの職場も毎年影響を受ける。
結構沢山の人が来る。
それでもって面倒なことが増える。
面倒は嫌だから毎年嫌な時期だ。
でも今年はコロナウイルスで大騒ぎしてるから面倒が少ないのでは無いか、と期待してる。

それに、近々、アルバイトがまた辞める。
もうすでに1人は後二日しか来ない。
でもってもう1人も来月いっぱいで来なくなる。
更に今は巷での人不足が叫ばれている。
その上、うちの会社は賃金が近所より安い。
明確に安い。
絶対安い。
自信がある。
だから、求人をかけててもなかなか従業員の補充はできない。
昨年もそうだった。
昨年はたまたま過去に勤務していた人が別の仕事を辞めて切り替えの時期になったとかで期間的に補充要因として数ヶ月来てくれていた。
でも、その人は既に昨年末に辞めている。
だから、職場には人が居ない。
予想通り仕事はけっこうキツイ。
職場は仕事量をセーブしながら稼働してる状態だ。
自分のような年寄りには体力的にキツイ。
動け!というなら動くのだけれど、一般的には若い人の職場なのでスピードを求められる。
そこがキツイ。
経験者だから問おう理由だけで雇ってもらってるだけの、名ばかりの従業員だが現場は人が不足すると名ばかり行って居られないからとてもハードになる。
年寄りも第一線の戦闘要因だ。
会社にはそりゃあ可哀想だろう、という人も居ない。
言うのはお客だけだ。
見た目も悪い。
そろそろ考えを改めないといけない。
定年が65歳になる上に、70歳まで働く時代。
老人でもできる仕事にシフトしていかないといけないなとも思う。
また別の角度で考えると、生活のしかたそのものも考え直すべきではないかな、とも思う。

今は若い人が生活しやすい都会の暮らしが基準で考えられている。
早い安い美味い、と言う言葉があるくらいに、簡単で迅速で楽な世界が当たり前だと思われてる。
人の生活もある程度年齢を重ねると昔のゆったりした時間の流れと、やや面倒でもボタン一つでは完結しない生活パターンの方がボケも来なくて良いと言うくらいになる。
子供の頃のようにお風呂は薪を焚べて沸かし、ご飯も釜で炊くのも一興だ。
まぁ、そこまでいかなくてもせめて野菜くらいは自分で作って適度な自給自足生活をしたくなる。
夏は暑くても扇風機くらいでいいし、冬はストーブが一つあって炬燵でヌクヌクする程度。
食事も簡単な漬物程度で片付けてて生きていける程度で十分なのだ。
野菜を畑からとって来れれば年寄りの栄養には十分すぎないか。
逆にすることがないくらいではないだろうか。

私の兄は7歳年上だ。
確か来年くらいには70歳になるような事を先日、田舎の母の施設に見舞った時に言っていた。
70歳、毎日何をしてるんだろうか。
と、言うと40キロ離れた、先日まで母が住んでいた田舎に車で言って畑の見回りや田んぼの見回りや雑草取り、旧家の掃除や片付け、今は他人に頼んでいる田んぼで取れたお米の管理などを細々とやって、あとは街に住居に帰って日常の生活をする。
それと、シニアのお付き合いもあるらしいからそこそこ忙しい。
母は年金で高齢者施設に入ってる。
時々というか、ほぼ毎日そこにも顔を出しているらしい。
近所にある施設なので歩いてでもいける距離だ。

自分は郷里にはいないから毎日どころか行けても年に数回だ。
今まで数年は年に一回も顔も見せることはなかった。
10年前、母の心臓は弁が壊れて手術をして何とか今は動いてる。
弁がいつ止まるかは神のみぞ知る。
だから、最近は私の9歳年上の姉は遠方なのに月に一回は顔を出しているらしい。

歳をとるということはどういうことなのか。
改めて考えないといけないな。
落ち着いて意識しないといけない。
宗教をやろうとは思わないけれど、歳を重ねれば見えてくるものがありそうにも感じる。
歳をとったからこそ解ることがあるようにも思う。
田舎の近くの街には同級生たちも沢山いる。
みんながみんな田舎からはるか遠方に出ているわけではない。
還暦同窓会というのを一昨年田舎の近所の街でやったらしい。
そん時の写真をCDに焼いて送ってくれた。
男女数十人もいたろうか。
殆どの顔が誰だか分かった。
みんないい老人の顔になっていた。


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