ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

笑えるG20

2019-06-30 07:00:00 | 政治

米中協議が無事に終わってよかったです。とりあえず「追加制裁しないし、ファーウェイへの禁輸措置も解除」というアメリカのかなりな譲歩で習近平は得意顔なのかな。

 でも狐と狸のばかし合いというか、二人が本当は何を考えているのかなんて誰にもわかりません。もしかしたら「習近平の奴、長くないかも」なんて思っての話かもしれないし。

習近平の健康不安は噂になっていますが、この人、どこで誰とあっても不愉快そうな顔で無表情を貫くでしょ。「中華帝国の覇者」はどんな無礼なことをしてもいいと思っているからだし、中国ではこんな顔をしていないと表情読まれて失墜させられる。それほど怖い国ということですね。

でも、香港問題にも触れなかった、ファーウェイも解除、中国産農産物を大量に買う、こんなトランプ大統領、いくら選挙の為とはいえ人格変わりすぎじゃないの?

「所詮G20は表向きだけ」って思っているのかもしれないけど。

「日米安保条約は不平等」ってトランプは言ってますけど、その通りですよ。でもね、そうさせたのはアメリカだから。歴史を勉強していらっしゃいって感じです。

それから、今回スルーされっぱなしの文大統領、最後にトランプに声をかけて貰ってよかったね。

珈琲飲んでいるところにきて「ツイッター見てる?」って声をかけられたんですって。

28日から始まったG20ですが、プーチンが15分も遅刻して握手しに来た時は本当に腹が立ちました。「待たせる」のが偉い人間のやる事だと本気で思っているんですよね。

習近平の安倍総理スルー事件もあったようですしね。

文大統領はこれで日本とお話するのは終わり。相変わらず徴用工問題ではさらに日本にいやがらせすると言っているし。日本だけでなく世界中からスルーされて・・・まるで鳩山ぽっぽのようですわ。

これなんか笑います。仲の悪いジャイアンに囲まれた猛獣使いですって。

これねーー大阪城をバックに写真撮影。韓国は「秀吉がーー」と怒っていちゃもんつけたけど、結局写真に納まっているんじゃない。国へ持って帰れない写真よね。

今回は安倍昭恵夫人が活躍。配偶者の方々も大満足。でも文大統領夫人はちょい、意地悪されてどんな気分かな。

大阪城をバックに写真を撮る面々。文大統領もいます、

 

日本のおもてなし。夕食会には昭恵夫人は着物で。特に文大統領夫人には親切に見えました。さすが韓流好き?

 

写真撮影でみな並びながらそれぞれ挨拶したり、おしゃべりしているのに、文大統領は独りぼっちでポツン

 

昭恵夫人のおもてなし。とても文大統領の奥様には親しみを見せるも、他の国からは・・・

 

 

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皇室ウイークリー

2019-06-29 08:00:00 | 皇室ウイークリー

ご日程

両陛下

6月21日・・・両陛下 → 離任大使に会う

              港区立麻布保育園

       天皇陛下 → 通常業務

6月24日・・・両陛下 → 第75回日本芸術院授賞式

              

茶会

6月25日・・・天皇陛下 → 通常業務

        両陛下 → 皇嗣両殿下から挨拶を受ける

              フランス大統領夫妻来日について説明を受ける

6月26日・・・天皇陛下 → 通常業務

               勤労奉仕団に会釈

        両陛下 → 外務省から進講を受ける

6月27日・・・両陛下 → マクロン大統領夫妻と会見・午餐

 

秋篠宮家

6月21日・・・両殿下 → ポーランド・フィンランド訪問につき記者会見

6月22日・・・秋篠宮殿下 → 生き物文化誌学会理事会・評議員会,第17回学術大会,第16回総会,交流会出席

6月24日・・・両殿下・眞子内親王・佳子内親王 → 茶会陪席

6月25日・・・秋篠宮殿下 → 第21回日本水大賞・2019日本ストックホルム青少年水大賞授賞式・懇談

        両殿下 → 両陛下に挨拶

6月26日・・・両殿下 → 賢所参拝

6月27日・・・両殿下 → ポーランド・フィンランドへ出発

        眞子内親王・佳子内親王 → 宮中午餐陪席

 保育園訪問したのは「こどもの日」にちなんだものです。

 本当に皇后の「無帽」はやめましょう。みっともない。本当にみっともない。

 「部屋では帽子は脱ぐもんでしょ」って思っているかもしれないけど、公式の場なのだし。ちゃんと帽子をかぶりなさいよ。こういう頑固な性格は歳を重ねるごとにひどくなっていくから、どんどんおかしくなるんじゃない?

服だって城が続いたかと思えば空色ばかりとかね。

 秋篠宮両殿下・ポーランドに到着 

 

天皇皇后学士院授賞式

 

天皇皇后マクロン大統領夫妻と

 

 

 

マクロン大統領の、天皇の手を握りしめるところが何とも・・・・

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2017年マリ・クレール ロシア語版 4

2019-06-29 07:00:00 | 皇室報道

Миф третий

(3つめの神話)

Свободолюбивая Масако стала заложницей Хризантемового трона

(自由を愛するマサコは菊の玉座の囚人になりました)

Итак, Масако влилась в японскую императорскую семью. Народ воспринял ее с обожанием: всегда в модных костюмах, она казалась воплощением нового времени, способным изменить монархию в лучшую сторону.

雅子は皇室に加わり、人々は彼女を崇拝しました。常にファッショナブルなスーツで君主制をよりよく変えることができる、新しい時代を具現化しているように見えました)

 (超訳)マサコは皇室の一員となり国民は彼女を、常にファッショナブルな皇室ファッションで「開かれた皇室」を具現化した存在として崇拝しました。

Но время шло: монархия все не менялась, а вот юная улыбчивая Масако никла на глазах. Выходы в свет становились все реже, а сообщения в прессе о том, что от принцессы, затаив дыхание, ждут наследника (мол, даже сам император ежемесячно интересуется у невестки, не началась ли у той менструация), становились все чаще. Образ «глотка свежего воздуха» меркнул: из прогрессивной принцессы Масако уверенно превращалась в ту, в кого так боялась – дворцовую роженицу. Так, по крайней мере, думала сама женщина и иже ее поддерживавшие. 

しかし、時間が経つにつれ君主制は何も変えませんでした。若いマサコの笑顔は少なくなっていき、成果もあがりませんでした。皇室は彼女の子供を息を止めてまっていると報じられました。皇室メンバーは天皇でさえ、その時期になると毎月義理の娘に興味をもって「生理は来るのか」と聞くほどでした。

「皇室に新風を吹き込む」イメージは色あせて、自信を持っていた進歩的な女性から、マサコ自身が最も恐れるタイプの女性である宮殿で出産する為のプリンセスに変わった・・と、彼女自身も、彼女の回りにいる人もそう思ったのです)

 (超訳)しかし、時間が経っても皇室制度は何も変わりませんでした。「皇室に新風を吹き込む」成果を上げられないマサコからは笑顔が消えました。

皇室は「世継ぎの誕生」を息をひそめるようにして待っていると報じました。天皇ですら「月のものはあるか」と聞くほど。

「元外交官でキャリアウーマン」のイメージは色あせて、進歩的だったマサコは自分がもっと苦手とする、好きではないタイプの女性。「子供を産むだけの存在」になってしまったと、そう報じられました。

 

У Масако долгое время не получалось забеременеть, первая беременность закончилась выкидышем, а спустя восемь лет кронпринцесса родила девочку – принцессу Айко, которая, по закону, не имела права наследовать престол. Рожать же второго ребенка женщина категорически отказывалась. Дело в том, что с первого года в браке у свободолюбивой принцессы начались постоянные депрессии, только углублявшиеся от давления со стороны императорского дворца по поводу наследника. В конце концов, у женщины развивался синдром «пониженной адаптации» к окружающему миру, – из-за этого принцесса и пропускала большинство обязательных мероприятий (по некоторым подсчетам, Масако за время, проведенное в статусе принцессы, посетила только 10% из числа событий, посещенных той же Дианой). Положение усугублялось и тем, что жене наследника запрещалось самостоятельно выезжать, иметь собственное мнение и даже общаться с родителями, не поставив в известность Двор. Неудивительно, что заболевание принцессы с каждым годом только прогрессировало.

マサコは長い間妊娠できなかった。最初の妊娠は流産で終わりました。8年後に彼女は皇位を継承する権利のない女児を出産。マサコは断固として2番目の子を産むのを拒否しました。事実、マサコの憂鬱は結婚した最初の年から始まり、後継者をめぐる皇室の圧力によって深まりました。

結局、マサコは「適応障害」を発症しました。彼女はほとんどの公務から逃れました。(ある見積によるとマサコは皇太子妃になってからの時間、訪問した国はダイアナの10%に過ぎません)

皇太子妃が単独で海外にはいけないということがなお一層状況を悪くしました。自分の意見を持ったり、宮内庁の許しなしに両親とコミュニケーションを取ることことさえ出来なかったので、病状が悪化したのは当然でしょう)

 (超訳)マサコは長い間妊娠できず、最初の妊娠も流産で終わりました。結婚から8年後、彼女は皇位継承権のない内親王を出産しました。彼女は第二子を期待されても断固として断りました。思えばマサコの憂鬱は結婚した年から始まり、「世継ぎ」優先の皇室からの圧力がさらに彼女を追い詰めました。

結局、マサコは敵将障害を発症し、ほとんど公務をしなくなりました。(ある統計によると、皇太子になってから今までの期間、マサコが外国訪問したのはダイアナ日の10%に過ぎなかったそうです)

皇太子妃は単独で海外に行ってはいけないということがさらに状況を悪化させました。

自分の意思を通したり、宮内庁に断らずに親に会うことも許されなかったので、さらに病状が悪化したのは当然だったでしょう)

Столь разительная перемена в самочувствии и характере моментально собрала вокруг Масако армию сочувствующих, усмотревших в ее печальном положении исключительно вину императорского Двора. Между тем, были и те, кто видел обратную сторону этой «скорбной» истории.

 (このようなマサコの健康と人格の変化は彼女の悲しい立場は宮内庁が悪いのだと多くの同情を集めました。その間、彼女の悲しい物語の反対側から見ている人達がいました)

 (超訳)このようなマサコの適応障害による変化は、彼女の悲しい立場を理解しない宮内庁が悪いのだと思う沢山の人々の同情を集めました。でも、反対側から見る人達もいたのです。

Реальность

現実)

Масако ожидала привилегий, но не желала при этом исполнять королевские обязанности

彼女は特権を期待していたが皇室の義務を果たしたくなかった

Жизнь принцессы, а тем более – императрицы, это не только армия прислуги и фамильные драгоценности. Это огромный труд по поддержанию образа символа нации, и будущая супруга кронпринца с ее опытом вращения во властных кругах должна была это понимать. Японские монархи – всегда учтивые и сдержанные – конечно, были не в восторге от индивидуалистки Масако, но все же, вопреки множеству домыслов, девушку приняли.

プリンセスやクイーンの仕事は軍の家来にかしずかれることや、軍を動かしたり宝石に囲まれたりすることだけではありません。国のシンボルイメージを維持する素晴らしい仕事です。そして外務省勤務だった皇太子の配偶者はそれを理解している筈です。日本の君主はいつも丁寧に束縛されている。個人主義のマサコは喜ばず、多くの憶測を読んだけれど、彼女は皇室に受け入れられた)

 (超訳)皇太子妃や皇后の仕事は家来を持つことでも、軍隊の長でも宝石に囲まれることでもありません。国の象徴として存在する素晴らしい仕事があります。そしてそのことは、外務省にいたマサコであれば理解している筈なのです。日本の天皇及び皇族は自分勝手な行動は出来ないこと。

皇室は個人主義のマサコを疑心暗鬼で見ていたし多くの憶測もあったけれど、結果的には受け入れました)

Ей хотелось больше свободы – и она ее, надо сказать, получала регулярно. К примеру, вопреки традиции ей, на самом деле, разрешалось посещать родителей, что она и делала, пропуская некоторые протокольные мероприятия. Доподлинно известно даже, что кронпринцесса не просто игнорировала важнейшие события национального масштаба, но порой даже не «опускалась» до того, чтобы навестить императора Акихито в госпитале, когда тот боролся с раком. Вместо этого Масако предпочитала отдыхать на курортах и тратить миллионы йен на предметы роскоши в магазинах (которые специально для нее закрывали от остальных посетителей). Подданные Империи все это прекрасно видели: в местной прессе все чаще стали появляться критика в духе «принцесса паразитирует за счет налогоплательщиков». 

(彼女はもっと自由が欲しかったーだからその為に、定期的に公務を外すようになり、伝統に反して実家の親とも自由に会うことが許された。皇太子妃が最も国民的行事を無視しただけでなく、天皇ががんと闘っていた時に病院を訪問することすらしなかったことはよく知られている事実です。

その代わりにマサコはリゾートでリラックスし、デパートの高級品に何百万円も費やす事を好んだ(彼女が買い物をしている間、デパートは閉ざされていた)地元の報道機関では「皇太子妃は納税者を犠牲にして寄生している」という考え方がまかりとおっている事態に批判は殺到した。

 (超訳)マサコはもっと自由が欲しかった。だから定期的に公務をサボるようになり、自分の意思だけで実家の親ともどんどん会い始めた。皇太子妃は、天皇ががんと闘っていたときに、それはもっとも大きな国民的関心事だったにも関わらず、見まいにすら行かなかったことはよく知られている。

その代わりマサコはリゾート地で「静養」にでかけ、デパートの高級品に何百万円も費やすことを好んだ(なんと、彼女がデパートにいる間、一般人は入れなかった)マスコミは、「皇太子妃の考え方は税金を使って何をしてもいい」だと批判し始めた。

Императорский двор действительно был чересчур назойлив в вопросах рождения наследника, однако после рождения принцессы Айко давить на Масако  по поводу второго ребенка не стал (в конце концов, в линии престолонаследия был еще и «запасной» принц Акисино, и его жена с куда большим рвением рожала детей). Более того, пока у младшего брата Нарухито не родился сын, Хризантемовый трон готов был рассмотреть вопрос изменения порядка престолонаследия в пользу старшего ребенка – соответствующий законопроект даже был рассмотрен Парламентом (читайте также: «В тени Короны: судьба "запасных" принцев и принцесс Великобритании»). 

宮内庁は世継ぎの件に関しては危機感を抱いていたが、愛子内親王の誕生後、第二子に関してはどれほど圧力をかけなかった。また、皇太子にもし息子が生まれても、あるいは皇太子の弟に皇位が渡るのではなく、長子相続にして順番を変更する議論が検討され始めていた)

 (超訳)宮内庁は世継ぎが誕生しないことに危機感を抱いていたけれど、愛子内親王誕生後に第二子に関しては皇太子妃にうるさくいわなかった。なぜなら、現在の皇位継承順位、皇太子がもし息子を持った場合や皇太子の弟が優先されている順位を長子に継承させよう(つまり愛子内親王に皇位継承権を与えよう)という議論が検討されていたからだ。

Свою обеспокоенность состоянием кронпринцессы выражали и врачи, и Управление императорским домом, и даже сама императрица Митико, как-то заявившая, что она всегда готова поддержать невестку. С просьбами оставить свою супругу в покое в прессе выступал и принц Нарухито, который всячески подчеркивал, что он не собирается делать выбор между вторым ребенком и здоровьем жены.

医者や宮内庁、そして美智子皇后でさえ、皇太子妃の状況に対して懸念を表明していました。美智子皇后も義理の娘を支援する準備が出来ていると以前、宣言していました。皇太子は「雅子妃に一人で記者会見して欲しい」という要求に対して、子供と妻の健康の間でいかなる選択もするつもりはないと強調しました)

 (超訳)医師団も宮内庁も、そして美智子皇后ですら皇太子妃の現状を憂いていました。美智子皇后に関しては自分も以前、流産した経験もあるし、世継ぎのプレッシャーも理解できると、だから支えになると宣言していました。

皇太子はマスコミの「雅子妃の口から説明を」という要求に対し、「二人目は望まないし、今はマサコの健康が第一」と完全に味方であると強調しました。

Но принцессе поддержка семьи, очевидно, была не нужна: ей было больше по душе лечить депрессию на дорогостоящих курортах, в ресторанах и бутиках (в этих местах синдром «пониженной адаптации» каким-то чудесным образом ослабевал). Привыкнуть к новой семье Масако никак не пыталась: напротив, она частенько игнорировала правила этикета, не кланялась старшим и ограничивала общение дочери с остальными членами императорской семьи – в том числе, с двоюродными сестрами – юными принцессами Мако и Како, которые жили в соседней резиденции.

しかしマサコは明らかに家族の支援を必要としていませんでした。彼女は高価なリゾート、レストラン、そしてブティックでうつ病を治療することに賛成でした(これらの場所では奇跡的に適応障害の症状がおさまりました)

マサコは新しい家族に馴染もうとしなかった。彼女はしばしばエチケットルールを無視し、長老たちに屈服せず、近くに住んでいる眞子内親王、佳子内親王と愛子内親王の交流を制限した)

 (超訳)しかしマサコは彼女の夫も夫の弟一家も、舅姑たちにも心を開くことはありませんでした。彼女は高級なリゾートへ行くことや、レストランでの食事、そしてブティックでのみストレスが解消できると思っていたのです。(こういうときはどういうわけか適応障害の症状が出ずにアクティブで欠席なし)

マサコは皇室に馴染もうとしませんでした。エチケットもルールも無視、年上の皇族からの忠告にも頷くことなく、近所に住んでいる秋篠宮一家の眞子内親王や佳子内親王が愛子内親王と交流を持ちがってもそうはさせませんでした。

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行ってらっしゃい皇嗣両殿下 いらっしゃいマクロン大統領

2019-06-28 07:00:00 | 皇室報道

 いよいよG20が始まるということで大坂は戒厳令下のよう。早速習近平も来たし、マクロン大統領も来ましたね。株や為替に重要な影響を与えるG20は無視出来ません。

そんな中、秋篠宮両殿下がフィンランド・ポーランド訪問に出発されました。

訪問国の駐日大使からお見送りを受ける両殿下。

民間機で行くから貴賓室は使えないので、赤坂東邸でのお見送りになったそうです。

皇嗣という立場だから?皇族方のお見送りはなかったのかな。

民間機使用について殿下は「迷惑がかからないよう」とおっしゃったけど、宮内庁がお願いしているのに民間機を利用というのは嘘だと思います。これで専用機を使ったら「皇太子でもないのに」と週刊誌が騒ぐでしょうからね。

とにかくお写真が一杯出てくることを期待して・・・行ってらっしゃい。

そして皇居では両陛下がマクロン大統領夫妻をお出迎え。

マクロン大統領夫人って人気あるんでしたっけ?とにかくめちゃくちゃ年下の夫を持って、若々しくあるようにミニスカートなどを履いているのかなと思うんですけど年齢は隠せないよね。でも、きっとフランスではその隠さないところがいいのかも。

皇后はいつも同じ服を着ているような気がします。

フランス語はお得意分野じゃなかったっけ?それとも通訳のお顔をたてるためですか?

午餐会。皇后はまたも帽子なし。一人だけこういうのでよく平気ですわね。

しかも若い内親王二人に囲まれて・・・でも令和流「私が法律」でしたね。

眞子さまはお綺麗。そして姉妹でお揃いの色で佳子様も。

 やっぱりこの笑顔に癒されるーー

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大草原の小さな家 「遠くで働く父さん」

2019-06-28 07:00:00 | ドラマ・ワイドショー

 遠くで働く父さん 

このお話は非常に頭に残っているというか、印象深くて忘れられず、そして何度も見てしまうものです。

父さんは小麦の収穫を目前にしていました。黄色に実った小麦を見て父さんは「神よ、感謝します」というのですが、その日に大雨。しかもひょうが降って小麦は全滅。

絶望の中で父さんは、仕事を探しに行く事になりました。

旅の途中で発破職人のピーターズと、靴職人のジェイコブに出会います。

この一夜が私は好きです。ピーターズと出会って野宿し、シチューを囲む二人のところに現れたジェイコブ。「腹が減って・・」という彼を快く迎えた二人。

チャールズの靴がパコンパコンしているのを見たジェイコブは新しい靴をぽんとプレゼントします。

そしてピーターズが発破の仕事をやってみないかと誘うのです。

もう二度と危険な仕事はしないと奥さんと子供に約束していたピーターズですけど、しょうがない。これが最後とやってきたようです。

父さんたちは「発破を埋め込む職人」のベテランとして雇われ、毎日カンカンと大きな釘を石に打っていきます。

ピーターズはダイナマイトを仕掛けて爆破する係。

そして家に残った母さんは、町の女性達に声をかけて、残った小麦を収穫します。

「どうやって?」と聞かれると「聖書に書いてある通りよ」と答えます。

小麦をなくしたことは生きるか死ぬかの瀬戸際なんですけど、それを何とか乗り切ろうという家族の絆の強さを感じます。

結構楽しい発破の仕事でしたけど最後に悲劇が・・・・・

ここではピーターズの明るくて前向きなキャラが非常に個性を発揮していました。

そして恐妻家で、その奥さんも肝っ玉母さんでした。

父親を亡くして落ち込むピーターズの息子に「時々寄る」と父さんはいうのです。

子供であっても男一人、母親を守る立場になった息子は強く生きることを決意します。

開拓時代の苦労がしのばれる名作になっています。

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マリ・クレール ロシア語版 3

2019-06-26 07:05:00 | 皇室報道

Кстати, своему будущему супругу, наследному принцу Нарухито японка отказывала дважды (миф об истории их знакомства мы еще развенчиваем ниже), сетуя на то, что ей хочется реализоваться на дипломатическом поприще, но спустя шесть лет все же согласилась. Почему? Этот вопрос до сих пор волнует многих, но, думается, наиболее вероятное объяснение кроется в том, что за эти годы Масако так и не удалось проявить себя в МИДе, зато влюбленный в нее принц не переставал убеждать ее в том, что, став принцессой, она все равно останется дипломатом – просто в не совсем привычном понимании этого слова. 

(ちなみにマサコは皇太子徳仁を2度拒否しました。

(二人のなれそめに関しては下記を参照してください)

彼女は外交分野自己実現したいと訴えましたが、6年後、彼女は皇太子のプロポーズを受け入れました。

なぜ受け入れたか今もって疑問です。でも私はその理由を彼女が外務省で自己実現出来なかったことに原因があると思います。

マサコに恋をした徳仁皇太子は言葉の限りを尽くして説得することをやめませんでした)

 (超訳)小和田雅子は「外務省で研究を続けます!皇太子殿下とは結婚しません!」と言っておきながら6年後には結婚しました。どうしてそんなことをしたのかわかりますか?それは、彼女が外務省で成果を上げることが出来ず、このままでは閑職においやられ、父親の期待に応えられないと思ったからだと思います。

皇太子は普通では考えられないような(つまり嘘の期待を持たせてまで)彼女を説得したのです。

Конечно, на ее месте, любая студентка, изучающая политологию и международные отношения, поделила бы слова Нарухито на два. Ведь какой бы властью не обладала принцесса, она при всем желании не сможет проводить переговоры, составлять важные документы и уж тем более подписывать их от имени своего государства. Единственно доступные ей опции – совершать заграничные поездки и собственной харизмой повышать популярность своей страны за рубежом. Дело тоже благородное, но все же слишком поверхностное для той, у кого якобы была перспектива построить головокружительную дипломатическую карьеру. И, кажется, спустя два года после свадьбы принцесса это поняла, отправившись с мужем на Ближний Восток с государственным визитом, где ее уделом было лишь посещение официальных мероприятий и общение с местными королевскими особами. Неудивительно, что вскоре Масако потеряла к этому интерес, предпочитая попросту пропускать подобные мероприятия. 

勿論、普通の学生であれば徳仁皇太子の言葉を2分割して政治学と皇室外交は違うということが理解できている筈。彼女がどんなに望んでも重要な交渉、重要な文書の作成 、また自国を代表して署名することも出来ないのです。

彼女に唯一出来ることがあるとすれば海外旅行と、自己が持つカリスマ性で国の人気を高めることです。確かにこれらは高貴な仕事ではありますが、目もくらむようなキャリアを築くだろうと期待されていた人にとっては表面的すぎる。

結婚から2年後、雅子妃は夫と一緒に中東訪問しますが、彼女の唯一の仕事は地元の王族とコミュニケーションをとることでした。雅子はすぐにこのような公務に興味を失い、欠席することを好むようになるのは当然のことでした)

 (超訳)勿論、普通の人であれば皇室外交と実際の外交は違うということは理解できた筈なんです。小和田雅子がどんなに望んでも、交渉の場に出ることも、重要な文書作成を任されることも、そして国の代表として署名することも出来ないことはわかりきっていました。

彼女が出来る国際的な仕事といえば、海外に行く事、海外要人をもてなすこと、そしてカリスマ性によって日本人気を高めることくら(まさにダイアナのように)

確かにこれらは皇族でなければ出来ない仕事なのですが、目もくらむようなキャリアを築き、皇室に新風を吹き込むと期待された人にしては薄っぺらだと思われました。

結婚から2年後に雅子妃は徳仁皇太子と共に中東を訪問しますが、彼女の唯一の仕事は王族とのコミュニケーションを図ることで、彼女はすぐにこのような公務に飽きてしまい、出たくないと思うようになるのはむしろ当然のことでした)

«Я до сих пор ищу себя, кем я должна быть. Мне понадобится на это время… При этом я бы также хотела подумать о том, что для меня является делом всей жизни», – как-то призналась Масако, уже будучи кронпринцессой. Нужны ли более веские доказательства того, что Масако, согласившись на брак с будущим императором, на самом деле не жертвовала карьерой? Нет, ведь ее у нее попросту не было. 

「私はまだ自分探しをしています。私は(外交官としてのキャリアを)必要とされると信じています。同時に私にとって人生の仕事とは何かと考えたい」雅子はすでに皇太子妃であったにも関わらずそう言っています。

将来の天皇と結婚することを承諾した彼女が、実際に自分のキャリアを犠牲にしなかったという確固たる証拠が必要ですか?単に彼女はキャリアを持っていなかっただけなのです)

(超訳) すでに皇太子妃になっていたにも関わらず雅子妃は「自分に与えられた仕事は何なのか考えたい」と語っています。将来の天皇と結婚することを承諾した彼女はキャリア云々を語ることがおかしくて、なぜなら彼女はキャリアそのものを持っていなかったのですから)

 

Миф второй

第二の神話)

Принца Нарухито и Масако свел сказочный случай

(徳仁皇太子と小和田雅子のおとぎ話のような出会い)

С наследным принцем Нарухито Масако познакомилась за год до поступления в МИД – в 1986 году – на дипломатическом приеме в честь испанской инфанты Елены. Известно, что на этом мероприятии застенчивому наследнику императорского трона предстояло, наконец, выбрать себе невесту. На прием было приглашено три десятка знатных красавиц из аристократических семей и… безродная Масако, чье имя, по легенде, было наспех вписано карандашом в список приглашенных. Наследник императорского трона был настолько очарован девушкой, что сделал ей предложение, несмотря на то, что Масако была простолюдинкой, а ее дедушка давным-давно стал виновником крупнейшей экологической катастрофы в стране 1953-1956 годов.

1986年、マサコが外務省に入省する前、スペインのエレナ王女のレセプションで二人は出会いました。この出来事で内気な皇太子が将来の花嫁を見つけるに至ったことはよく知られています。

30もの家柄のよい人達が招待されていました。伝説として語られているのですが小和田雅子の名前は鉛筆で急きょ書き加えられました。彼女は平民であり、はるか昔、彼女の祖父が1953-1956年の、国の最大の環境災害事件の当事者であったにも関わらず、皇太子は雅子に魅了されました)

 (超訳)1986年、スペインのエレナ王女のレセプションで小和田雅子と皇太子は出会い、この出会いによってなかなか妃が決まらなかった皇太子が将来の花嫁を見つけたことはよく知られています。

あらかじめ30もの高貴な家柄の人達が招待されていました。

小和田雅子の名前が鉛筆で急きょ書き加えられていたことは今や伝説となっています。彼女は家柄の言い家の出ではないし、彼女の祖父である江頭豊は1953-1956に至る水俣病という日本最大の公害訴訟の当事者であったにも関わらず、皇太子は雅子に一目ぼれしたのです。

 
 

Получилась настоящая история японской Золушки. Изначально намеревавшаяся обрасти связями на дипломатическом приеме, Масако, сама того не подозревая, украла сердце будущего императора. Но современная Золушка, как водится, женщиной была эмансипированной и не пожелала связать себя с дворцовым протоколом, так что в предложении руки и сердца отказывала принцу дважды, причем в последний раз ее семья отправила письменное уведомление об отказе аж в Управление императорского двора – к огромному облегчению монаршей семьи, ведь им безродная индивидуалистка не понравилась сразу. 

それは本当にシンデレラのようなお話です。

マサコはそれとは知らず、レセプションには気軽に参加し、将来の天皇の心を盗みました。しかし現代のシンデレラは宮殿の束縛に身を置くことをよしとしませんでした。だから彼女は皇太子のプロポーズを2度拒みました。雅子の家族が宮内庁にお断り文書を送ったのです)

 (超訳)それは本当にシンデレラストーリーで、雅子はそれとは知らずに皇太子の心を掴んでしまったのですが、現代のシンデレラである彼女は皇室の束縛を受け入れることを拒否、彼女はプロポーズを2度断りました。

女の家族が宮内庁にお断りを入れたのは宮内庁・皇室が根拠のない個人主義者を好まなかったからです

Но Нарухито, без памяти влюбленный в девушку, все не унимался и в 1992 году, предварительно пообещав Масако всегда защищать ее от нападок императорского двора, попытал счастье снова, и японка, наконец, сдалась. В 1993 году они поженились, но уже в день свадьбы суровый императорский двор заставил прогрессивную Золушку надеть на себя тяжелое подвенечное кимоно образца X века. Согласившись на это, Масако впоследствии позволила ломать себя всю жизнь.

しかし、雅子に恋をした皇太子は全てを止めず、1992年、マサコに「皇室からあなたを守る」と約束し、ようやく雅子は諦めました。

1993年、彼らは結婚しました。すでに結婚式の日に厳格な皇室は進歩的なシンデレラに10世紀の重い結婚式の衣装を着ることを強制しました。これに同意することでマサコは彼女の人生の全てを破ることを皇室に許してしまった)

 (超訳)でも、雅子に恋をした皇太子は諦めずに1992年「全力でもってお守りします」と約束し、やっと雅子は結婚を承諾(キャリアを諦めた)

1993年、二人は結婚しました。でも結婚式の日に皇室はすでに10世紀の遺物である重い十二単を着ることを現代のシンデレラに強制し、これを受け入れることでマサコは自分の人生を皇室にゆだねることになったのです)

Вот такая сказочная история с печальным концом. Ключевое слово: «сказочная».

これは悲しい結末のおとぎ話です、キーワードは「素晴らしい」)

Реальность

現実

Масако, наряду с остальными, прошла жесткий отбор, и императорская семья вполне готова была ее принять

(マサコは他の候補者と同様に厳格に選ばれ、皇室は受け入れる準備をしました)

На деле же, несмотря на то, что Масако действительно никогда не лелеяла мечту выйти замуж за принца, попросив вписать свое имя в список приглашенных на тот роковой прием, она все же выставила свою кандидатуру на рассмотрение. Есть сведения, что ее Нарухито и раньше «советовали» в специальном комитете по подбору императорских пассий, ведь девушка идеально соответствовала требованиям, предъявляемым к монаршим невестам: она была моложе 30, ниже 165 сантиметров, не имела пирсинга и татуировок, а, главное, все еще была девственницей. Всего же комитет рассмотрел около 100 кандидатур. Так что, в то, что Масако наивно не подозревала об истинном назначении того приема, верится с трудом.

実際、彼女は皇太子と結婚するという夢を大事しなかったにも関わらず、そのような運命的なレセプションに出席することを頼み、検討中の候補者の中に名前を載せました)

30歳未満、165㎝未満、ピアスやタトゥーなし、は当然。でも皇太子はお妃候補を選ぶ委員会からもっとも重要な事柄について忠告されていたという証拠があります。それは処女であること。合計で100人ものお妃候補が検討されました。

だからマサコがそのレセプションの本当の目的を疑っていなかったわけがないのです)

 (超訳)実際、彼女は皇太子との結婚を真剣に考えもしなかったくせに、そんな運命的なレセプションへの出席を要請し、候補者を検討中の中に自分の名前をいれるようにしたのです。

妃候補の条件は30歳未満、165㎝未満。ピアスやタトゥーなしはいうまでもないのですが、宮内庁では皇太子にもっとも重要な忠告を与えていました。それは相手が処女であることです。

宮内庁は合計で100人ものお妃候補を検討していました。だからマサコはエレナ王女のレセプションの真の目的を何も知らなかったとは言えないのです。

То, что отсутствие аристократического происхождения у девушки могло как-то помешать ей стать невестой будущего императора, тоже не совсем верно, ведь даже сама императрица Митико когда-то была простолюдинкой. К тому же, несмотря на то, что строптивый нрав будущей невестки действительно вызывал у членов императорской семьи некоторые опасения, никто из них не выступал открыто против счастья принца. Еще после Второй мировой войны Хризантемовый трон взял курс на десакрализацию японской монархии: так, к примеру, были случаи, когда супруга действующего императора отправлялась за рубеж «соло», а правитель, несмотря на идею о своей божественности, открыто признавал у себя рак простаты. Так что говорить  о том, что японская монаршая семья – это анахроничный институт, в котором нет места прогрессивным идеям, было бы непростительным обобщением. 

(旧皇族や華族でない女性が将来の天皇の后になる妨げになるというのは真実ではありません。美智子皇后もかつては平民の出だからです。

さらに将来の義理の娘の頑固な気性が皇室メンバーにいくつかの懸念を起こしたという事実にも関わらず、誰も皇太子の幸せに口を挟まなかった。

第二次大戦後、菊の玉座は荒廃に向かった。例えばこんな話が。皇后が一人で海外に行ったり、天皇が彼の神性の考えにも関わらず前立腺を認めたり。ですから日本の皇室は時代遅れの制度であり、そこには進歩的な考え方が許されない場所における一般化でした)

 (超訳)美智子皇后もかつては平民の出であるので、旧皇族や旧華族のででない女性が皇后になる妨げになるというのは真実ではありません。

さらに(天皇皇后は)将来の義理の娘の頑固な性格が、当時の皇族達に「皇太子妃不適格」の懸念を抱いたという事実があるにも関わらず、公然とそれを皇太子に告げる人はいなかった。

(超訳)第二次世界大戦後、皇室は荒廃を目指して進んでいるかのよう。例えば、皇后が単独で(たった一人で)海外に行ったり、「神性」不可欠の天皇が堂々と前立腺がんを告白したり。(天皇皇后にとって)皇室は時代遅れの制度であると言いたい為に、わざと一般化して、いかにも進歩的な考え方が許されない場所のように印象付けた)

В день свадьбы Императорский двор действительно принудил Масако последовать традиции и надеть старинное кимоно на закрытую церемонию. В день же гражданского бракосочетания ей и Нарухито было разрешено переодеться, так что перед народом новоиспеченная супруга принца разъезжала в открытой карете, совсем как европейская принцесса, одетая в белое подвенечное платье и с бриллиантовой тиарой на голове.

結婚式の日、宮内庁はマサコに伝統に従うことと儀式の中で古い着物を着ることを強制しました。パレードでは皇太子夫妻は着替えを許されたので新婚の皇太子妃は白いウエディングドレスとティアラをつけて、ヨーロッパの王女のように開いた馬車で走ったののです)

 (超訳)結婚式の日、宮内庁はマサコに伝統に従い十二単を着るように命令しました。朝見の儀の時、皇太子夫妻は着替えを許されたので新婚の皇太子妃はローブ・デコルテとティアラ姿で洋風に馬車でパレードしたのです。

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2017年マリ・クレール ロシア語版 2

2019-06-26 07:00:00 | 皇室報道

Миф первый

(神話

Выйдя замуж за наследного принца Нарухито, Масако отказалась от головокружительной карьеры

(徳仁皇太子との結婚でマサコは目もくらむようなキャリアを断念した)

Будущая императрица родилась в семье уважаемого дипломата Хисаси Овада, так что несложно вообразить, насколько интересна была жизнь юной Масако, чей отец регулярно брал ее в зарубежные поездки. В детский сад, к примеру, девочка ходила в Москве, старшие классы заканчивала в США, а среди ВУЗов, в которых училась девушка, значатся такие престижные заведения, как Гарвард, Оксфорд и Токийский университет. Так, Масако выучила несколько языков, включая английский, русский, немецкий и французский. 

 Из-за многочисленных поездок характер у будущей принцессы формировался отнюдь не «восточный», а, скорее, «западный». Свойственную японцам скромность, сдержанность и покорность в Масако вытеснили типично западные черты: индивидуализм, стремление к лидерству, фамильярность. Еще в школе, к примеру, девочка организовала женскую команду по софтболу – решение в Японии во всех смыслах революционное, ведь в те годы спорт считался исключительно мужским занятием.

未来の皇后は有能な外交官一家である小和田家に生まれた。父はしばしば彼女を海外旅行に連れていき、その人生がどれほど興味深いかを想像するのは簡単です。

例えば幼稚園はモスクワ、高校はアメリカ、彼女が通った大学はハーバード大学、オックスフォード大学、東京大学など有名なところばかり。

彼女は英語・ロシア語・ドイツ語・そしてフランス語を含むいくつかの言葉を学びました。

度重なる海外渡航のおかげで彼女の考え方は東洋的ではなく、むしろ西洋的に形成された。日本人特有の謙虚さ・自制心・従順さは西洋の個人主義・リーダーシップ・無遠慮にとって代わられた。

例えば学校へ戻ったマサコは男性の為のものと思われていたソフトボールクラブを作りましたが、それはとても革命的なことでした。

 (超訳)小和田雅子は有名な外交官一家に生まれた。父親は何度も彼女を海外に連れてゆき、どれほど興味深い経験をしたであろうということは想像に難くありません。

例えば幼稚園はモスクワで、高校はアメリカで、大学はハーバード・オックスフォード。東大など有名どころばかり通っています。

彼女は英語にロシア語・ドイツ語・フランス語を含む言語を何種類か習得しました。何度も海外生活を送ることによって、彼女の考え方は東洋的ではなく、むしろ西洋的に形成されました。

日本人特有の謙虚さ、自制心や従順さは西洋の個人主義やリーダーシップや無遠慮な態度にとって代わられました。

例えば日本の学校でマサコはそれまで男子部しかなかった女子ソフトボール部を作るという革命的なことを行いました)

Неудивительно, что Масако так нравится западным журналистам: ее личность – это живое воплощение ярчайших заокеанских ценностей. И, конечно же, многим бы хотелось, чтобы такая девушка своими взглядами модернизировала японскую монархию, сделав ее более открытой остальному миру. Так их очаровало и то, что Масако в прошлом была успешным дипломатом, человеком очень уважаемой и интеллигентной профессии.

Но так ли это на самом деле? 

欧米のジャーナリストが彼女を気に入っていることには驚きません。彼女のパーソナリティはまばゆい海外の生き生きとした価値観を具現したから。そしてもちろん、そのような女性が西洋的な価値観を持って皇室を近代化し、皇室そのものを世界に開かれたものにしてくれると期待する向きも多いでしょう。だから彼ら(マスコミ)は過去のマサコが優秀な外交官で非常に尊敬されていたということに魅了されたのでした。

でもそれって本当ですか? 

 (超訳)欧米ジャーナリストが彼女を気に入っているのことには驚きません。彼女の人格はまばゆい海外生活の中で生き生きとその価値観を具現化した存在だったから。

そして勿論、そのような女性が西洋的な価値観を持って皇室を近代化し、「開かれた皇室」を現実のものにしてくれるだろうと思う向きも多いでしょう。だから彼ら(マスコミは)彼女が優秀な外交官で尊敬されていたと盛んに上げ報道したのです。でも、それって本当のことだったのですか?)

Реальность

現実)

Всю жизнь Масако была рядовым работником дипведомства Японии, за которым никогда не значилось особых достижений

(マサコは単なる外務省の1職員に過ぎず、これといった功績を残したわけではありませんでした)

Да, в 1987 году Масако Овада действительно попала в японский МИД – с первого раза, что удается лишь 5% счастливчиков. Однако, будем реалистами: фамилия девушки в руководстве была известна так же хорошо, как фамилия императора, ведь ее отец проработал в дипучреждении несколько десятилетий и даже был послом Японии в ООН. А учитывая то, с каким уважением японцы относятся к семейным связям, представить, что дочку уважаемого работника оставят без должности, просто невозможно. К тому же, девушку взяли просто стажером – такая позиция еще не сулит головокружительной карьеры. Это шанс, который только предстоит реализовать. Одной из ее обязанностей, к примеру, по словам ее бывшего начальника, было развлекать гостей - специально для этого девушка посещала кулинарные курсы, чтобы поразить визитеров многообразием национальной кухни. Не слишком почетное занятие для «успешного» дипломата.  

1987年、マサコは合格率5%の幸運な人間として、鳴り物入りで外務省に入りました。でも現実はどうであったか。

外務省において「小和田」の名前は皇帝の名と同じくらい知られていました。

彼女の父親は数十年間外務省に君臨し、国連大使であったことさえあります。

日本が家族との関係を重視していることを考えると、そんな小和田家の娘が不合格になることなど考えられなかったのです。小和田雅子が採用されたのは目もくらむキャリアを約束されたからではなく、一般採用と同じでー勿論、それはチャンスの1歩でもあるけど。

例えば彼女の職務の一つは彼女の先輩から言わせると客を楽しませることでした。

特にこの為に彼女は様々な国の人々をもてなす為に料理教室に通いました。

けれど、これはあまり名誉ある仕事とは言えませんでした。

 (超訳)1987年、小和田雅子は合格率5%の壁を破った初の女性として外交官試験に合格し、鳴り物入りで外務用に入りました。でも現実はどうでしたか?

外務省において雅子の父・小和田恒の名前は皇帝と同じ意味を持ちます。小和田恒は数十年間外務省内に君臨し、国連大使であったことさえあるのです。

日本の伝統的な考え方にあてはめれば、そんな小和田恒の娘が不合格になるなど考えられません。

小和田雅子が外務省に入ったといっても、目もくらむキャリアを約束されたからというより一般職員として採用されたのです。勿論、そこはチャンスを掴む一歩には違いないのですが。

例えば彼女の仕事は、客をおもてなしすることでした。このため、彼女は様々な国の料理を習いましたが、決して名誉ある仕事とは言えませんでした。

Что же до языков, то насколько Масако владеет ими – это еще большой вопрос, ведь говорила она на них очень давно (на русском, к примеру, только в детстве) и с тех пор многое позабыла. Да и попрактиковаться было негде, ведь за шесть лет службы в МИДе девушку не взяли ни в одну зарубежную поездку. Единственное, Масако действительно неплохо знает английский: его девушка подтянула на двухгодичных курсах в Оксфорде, куда дипведомство отправило молодого стажера для повышения квалификации.

彼女の言語能力には大きな疑問符がつきます。

ロシア語に関しては彼女が子供の頃に話していたものだし、色々忘れていました。

また、外務省にいた6年間、彼女は海外出張に連れていかれなかったので言葉を練習する時間がありませんでした。

その為、父親は彼女を2年間のオックスフォード研修旅行に出しました。ですから、唯一、英語力はあるのです)

 (超訳)彼女が語学に精通していたかには疑問符がつきます。ロシア語ったって子供の頃にモスクワにいたというだけだし、外務省にいた6年間、海外出張もないので語学力を磨くチャンスがありませんでした。

小和田恒は娘を2年間のオックスフォード大へ国費留学させました。ですから唯一、英語力はあるでしょう。

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2017年マリ・クレール ロシア語版 1

2019-06-26 07:00:00 | 皇室報道

 今更だけど、この記事を発見した人はすごいですね。

フランスの雑誌「マリ・クレール」のロシア語版に掲載された「皇太子妃・雅子」の記事。翻訳機と大型掲示板に載った訳を元に掲載します。

全文があってるとは思いませんが、翻訳機を使って「こんな意味かな」という感じで書いている部分があることを先に言っておきますね。しっかりロシア語が分かる方は教えて下さるとありがたいです。

 

原文

Японская Диана: история императрицы Масако без мифов и легенд

(日本のダイアナ;神話も伝説のない皇后・雅子の物語)

Всю жизнь ее сравнивают с леди Дианой Спенсер, но ее судьба еще более неоднозначна, чем у принцессы Уэльской. Рассказываем о новой императрице Страны восходящего Солнца Масако, а заодно развенчиваем 4 главных мифа о ней.

彼女の人生のすべてが、レディダイアナスペンサーと比較されていますが、彼女の運命はダイアナのそれよりさらにあいまいです。私たちは日出づる国の新皇后について語り、同時に彼女についての4つの真実の神話を提言します)

 

«Печальная принцесса», «японская Диана», «пленница Хризантемового трона», – вокруг Масако ходит немало трагических легенд, в которых она – в прошлом успешный дипломат – решившись на брак с наследником императорского престола, лишилась всех возможных прав и свобод современной прогрессивной женщины, впав в глубочайшую депрессию, из которой не может выбраться до сих пор. Такой Масако Овада описывают западные журналисты, которые искренне сочувствуют и сопереживают судьбе японской императрицы, задавленной традициями и протоколом императорского дома, а теперь и новым, куда более ответственным, статусом (читайте также: «Начало эры Рейва: как прошла церемония наследования престола в Японии»). Они сравнивают ее с принцессой Дианой, желавшей стать «глотком свежего воздуха», но так и не принятой королевской семьей.

Но время идет, и как флер невинности постепенно спадает с образа Дианы, так и историю принцессы Масако начинают переосмысливать. И не всегда в ее пользу. 

「悲しみのプリンセス」、「日本のダイアナ妃」、「菊の玉座の囚人」 - マサコ妃周には沢山の悲劇的な伝説が語られ、過去、外交官として成功し、現代の進歩的な女性の全ての権利と自由を謳歌していたのに、(結婚によって)全てを失ったといわれている。

適応障害に陥り、現在にいたるまでそこから抜け出すのは不可能でした。小和田雅子は皇室の伝統とプロトコルによって押しつぶされたプリンセスとして西洋のジャーナリスト達の共感を得て、そして王家に受け入れられなかったダイアナ妃のようだといいます。しかし時が経ち、作られたベールは剥がれ落ち、ダイアナのイメージとはだいぶ違う、雅子妃にとって都合の悪いだろう物語を始めます。

Диана Спенсер вошла в королевскую семью Великобритании 20-летней неопытной девушкой. Масако Овада решилась на брак с кронпринцем Нарухито, когда ей было 30 лет, образование лучших мировых университетов и возможности построить головокружительную карьеру. Она отказывала Нарухито дважды, но все же пошла на этот брак, наивно поверив в слова жениха о том, что «быть принцессой – это тоже своеобразная форма дипломатии». А далее – депрессии, выкидыш, стрессы, запреты на самостоятельные передвижения (и уж тем более на работу) и, наконец, «синдром пониженной адаптации» – диагноз, который может прогрессировать и до желания покончить жизнь самоубийством. Такова судьба новой императрицы Японии – очень печальная легенда. Но такая неправдоподобная.

ダイアナスペンサーは、イギリスの王室に20歳の経験の浅い少女として入りました。小和田雅子は、世界でもっともすぐれた大学出と目もくらむ程のキャリアウーマンの肩書をひっさげて、30歳の時に徳仁皇太子と結婚しました。

彼女は、2度徳仁皇太子の結婚の申し込みを拒否しましたが、「皇太子妃になることも外交官になるのも同じ」という皇太子の言葉を信じて結婚しました。

それから海外公務の抑制・流産にストレス、うつ病を発症し、適応障害による神経衰弱、自殺願望、これが日本の新しいプリンセスの運命です。非常に悲しい伝説です。しかし、説得力はありません)

 

Могла ли взрослая женщина из уважаемой семьи дипломатов, сама успевшая поработать в японском МИДе, действительно не понимать, что собчто собой представляют традиции императорского дома ее страны? Безусловно, Масако была образована, но, возможно, наивности в ней было даже больше, чем в 19-летней Диане Спенсер.

 (日本の外務省で働いていた尊敬される外交官の家庭の女性は、本当に自分の国の皇室の伝統が何であるかを理解していなかったのでしょうか。もちろん、マサコはそれなりの教育を受けましたが、19歳のダイアナよりももっと素朴なものでした

И, кажется, пришло время развенчать, наконец, некоторые мифы, витающие вокруг образа «печальной принцессы».

そして「悲しみのプリンセス」のイメージが崩されるときが来ました

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逃走罪はない。なんで保釈された?

2019-06-25 07:00:00 | ドラマ・ワイドショー

 ワイドショーを録画していたのは、KKについてまたも事細かくやるだろうなと思ったので。

私は、殿下の記者会見の様子を見て「あとはお父様に任せなさい」状態なんじゃないかと思いました。相変わらず「眞子さまは一途に」と語っているのは近重だけで。

KKが夏休みにも関わらずどうして帰ってこないんだと思います?

 お金がないから

2 帰国するとマスコミに囲まれて釈明させられるから

3 勉強が忙しいから

私は「3」はないと思います。ワイドショーでは「借金を贈与ととれる録音データ」の存在を文春が報じたことをやっていましたが、誰も週刊誌の内容までは言及せず。

私も文春を立ち読みしましたが、意味がわからないというか、どこが「贈与」なんだろうと思う程度。

そしてワイドショーでは今更ながら佳代氏が元婚約者に「遺族年金があるから内縁関係にはなれない。誰にもしられてはいけないんです」と書いたメールが提示され(古い話よ)

それを聞いたコメンテーターが「ええーー」とびっくりする。

でも近重や清原弁護士いわく「そういうお母さんを守りたい一心のKKはどうでも贈与と言わないといけない立場にあるんじゃないか」と。

そんなにお母さまを守りたいならすぐに帰国して、「贈与です」と発表すればいいじゃない。でもそれをしない。ということは、つまり帰国したら全てが終わることが彼にはわかっているからでしょうね。

KK自身、彼女に会いたくないのか?と正直思います。ここまで来たら利用するだけ利用させてもらい、あとは高跳びでもなんでもする。みたいにか思えません。

KKは1月に文書を発表して代理人が婚約者に一度コンタクトをとったきり、放置状態。そっちがそうならこっちも同じ手しかないでしょうね。

でも秋篠宮ご夫妻はとても仲がよろしかったし、ご意見も統一しておられるようなので、「親」として一貫した態度で臨む覚悟なのでしょう。今は見守るのみです。

さて、逃走して捕まった小林容疑者は実刑が確定してから保釈され、再三再四出頭しろと言っていたのにしなかった。

しかも、7人くらいで迎えに行ったら包丁を振り回して逃走。

警察は報告に4時間、緊急配備に4時間かかって、小林容疑者を追いかけるも「断念」したらしいです。

横浜地検って要するに公務員なんだよね。自分達の仕事は捕まえることじゃないからーーみたいな感覚?

で、小林容疑者が逃走した事にかんしては「逃走罪」にはならないんですって。

そういえば確保された時も「公務執行妨害」だものね。

なぜ保釈されたかって、最近は容疑が確定するまでは保釈するケースが多くて、その原因は「人権」なんですって。

人権って・・・窃盗や暴行を繰り返し、ヤクザそのものの男がすぐそばのアパートに住んでいたなんて、子供を持つ親ならぞぞっとするし、その男が逃走しただけで学校も職場も休みになってしまう。これは一体誰の人権が大事なんでしょうかね。

 

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旧日本軍が組織的な戦闘を終えた日

2019-06-24 07:00:00 | 政治

 正直、こんな表現の仕方をする国は日本だけじゃないの?と思います。

旧日本軍が組織的な戦闘を終えた日」というのはいうまでもなく1945年6月23日で、いわゆる「沖縄慰霊の日」です。

今までは素直な気持ちで6月23日は慰霊の日だと思って来たし、素直な気持ちで黙とうして来たのですが、今、沖縄自体に対してとても複雑な気持ちです。

私は太平洋戦争というのは避けられなかったと思っています。それは世界中がそうであったからです。どこにも平和な国はなかったし、なんらかの形で戦争に巻き込まれていったと思うので、日本だけが悪い、日本は悪の枢軸国であったという意見には反対です。

6月23日は沖縄戦が終結した日であり、沖縄が負けた日です。

そしてこの日は、アメリカが何の罪もない沖縄島民を火炎放射器で虐殺した戦闘が終わった日です。

「旧日本軍が・・」というと、主体が日本で沖縄を攻撃したようにとれてしまうのではないでしょうか。

玉城知事の

「(辺野古移設について)民意を尊重せず、地方自治をないがしろにするものだ」

「全ての人の尊厳を守り誰一人取り残すことのない多様性と寛容性にあふれる平和な社会を実現するため、全身全霊で取り組んでいく」

という挨拶もどうかと思います。

70以上経過しているのに被害者意識が強すぎるのでは。

「我々は見捨てられた」っていうけど、船も飛行機もない日本軍がどうやって住民を守ることが出来ただろうか。そんな事百も承知のアメリカが民間人を虐殺したという事実が問題なのではありませんか。

こんなにも沖縄が「反日」になってしまった原因に、上皇・上皇后の肩入れがすぎたこともあるんじゃないかと思います。

昭和天皇は最後まで沖縄に行けなかったことを気にしていらした。

でもそれは天皇として沖縄の人達に対し、「苦労をかけた」とおっしゃる為であって、「あなたたちは被害者で気の毒な人です。国の犠牲になって。そんな必要なかったのに。日本がもっと戦争を早く終えていればね・・・」という為ではなかった。

戦後、初めて上皇夫妻が沖縄へ行った時に火炎瓶テロがあり、それに負けなかった偉大なる「皇太子夫妻像」が形成され、当時、皇太子だった天皇は「それほどまで自分達は憎まれているのか。やっぱり昭和天皇の罪を背負うのは自分達しかいない」と思ったんだろうな。

沖縄だけでなく、北方領土もそうだし、どうしても本土から遠い上陸しやすい場所は狙われる。防衛線になりやすい。それは摂理です。

だから日本は最初に真珠湾を攻撃したんでしょう。

今、中国、韓国、北朝鮮、ロシアとはっきり言って敵国に囲まれている日本にとって遠島や海の近くは非常に狙われやすく防衛の為の準備をきちんとしなくてはならないのです。

住民の避難はどうなる。命を大切にしてないとマスコミは書くけど、本当の戦闘になったらたとえそれが自衛隊であっても、一人ひとりの住民を気遣っている暇はないでしょう。

それはそうなりそうな時に、住民が自分達で考えどうするべきか決めるべきでは。

災害などの時は頼りに頼るのに、いざ、国の為に戦闘となるというと否定する・・なんておかしな話です。

私は6月23日を軽視しているわけではありません。

ひめゆりの塔」は映画も見ましたし、本も読みましたし、その場に自分がいたらどんなに恐ろしく苦しいことだったろうと戦慄しました。だからこそそんな理不尽な目にあってしまった沖縄の人達を気の毒に思うし、遺族も辛く悲しい日々を送って来ただろうと思います。

いつか沖縄へいったら摩文仁の丘やひめゆりの壕へも行きたい。元気なうちに慰霊の旅を行いたいと思っています。

しかしながら沖縄は毎年注目されるし、碑も立てられ、皇室がひときわ目をかける場所であるのに対し、占守島はどうであったか。樺太の人達だってどんなにひどい目にあったか。

両極端な場所で両極端な扱いをされているということが信じられないのです。

私がいた仙台においても学校のそばの大年寺山が焼け、ものすごい空襲を経験しています。

日本中そうだったのですよ。

確かに旧日本軍というのは、官僚化して軍部の内部で混乱し、隠蔽し、ひどい組織だったなと思います。

しかし、前線で戦っていた兵士たちはそうではない。あるいは、戦場にいた司令官などは決して国民をないがしろにしたり、自分達だけの利益を考えたりはしていなかったと断言します。

沖縄に関しては「集団自決」という嘘まで書き立てて、日本を悪者にしている。

何でそこまでやるんだという気持ちでいっぱいです。

戦前も戦後もマスコミの体質は変わってない。そして騙されている国民性もまた変わっていないのだなと。

そういえば「ご黙とう」なさったようで何よりですわ。

 

 

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