おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

フィリップ・グラス 弦楽四重奏曲第3番「MISHIMA」

2024-06-09 05:37:33 | 日記
三島由紀夫の自決は、日本のみならず、世界にも衝撃を与えた。

富士山のように大きな山は、麓からはその威容は計り知れないため、少し距離をおいて眺める必要がある。

富士山の麓には深い樹海が在り、そこに入れば必ず迷う。

三島は自らの死をあのように演出することで、日本人の喉元に解きがたい難題と謎を突きつけたかのように見える。

しかし、外国から見た三島という富士山は、簡明な、規矩正しい稜線を持った姿に見えるようなのである。

それは、戦後日本という絶対的価値喪失のなかで生きざるを得ず、仏教的虚無感に至るまで絶望した魂の姿のようである。

そして、三島自身結局自分の思いは外国人にしか解らないと考えていた節もある。

もっとも心奥の秘密を語った相手のひとりはドナルド・キーン氏であったし、不在の死に堪えなければならない苦痛を描いた小説『真夏の死』では、主人公の女性はアメリカ人と対話することで、はじめて、素直に自らの思いを語るのである。

三島の自決から15年後の1985年、フランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスのプロデュースのもと、ポール・シュレーダーを監督として、映画『MISHIMA』が制作された。

三島自身が自決の直前、東武において自らの人生を回顧する展覧会を開いた折、
「書物の河」、「舞台の河」、「肉体の河」、「行動の河」と、人生の局面を4つに分けたことに倣って、
『金閣寺』、『鏡子の家』、『奔馬』、『太陽と鉄』の4作品を劇中劇として取り上げながら、三島の心象風景を炙り出してゆくものである。

この映画の音楽作曲に選ばれたのが、新進気鋭の現代作曲家フィリップ・グラスであった。

グラスは、ミニマリズムという作曲技法を代表する現代作曲家のひとりである。

ミニマリズムとは徹底的に音楽を根源まで遡り、リズムと和音という最小単位まで分解しようという先鋭的な運動であった。

どれほど先鋭であったかというと、グラスのデビュー作であるオペラ『渚のアインシュタイン』では、ひたすら、
「one,two,three,four......」という無意味な歌詞が分散和音で歌われ、しかもそれが延々4時間も繰り返されるのである。

......。

聴衆はひたすら繰り返しの苦痛に耐えねばならないであろう。

しかし、この「繰り返し」を特徴とするミニマリズムという技法は、同時に、有為転変し、同じ過ち、同じ苦しみを繰り返す人間の世界に対する透徹した仏教的感覚を表現するのに最も適していた。

グラスはシュレーダー監督から
「私の考える三島を描きたい。
三島への共感など必要ない。
ひとつの孤独な魂が、孤独という苦しみからの解放を国家に求めて、そこに絶望して死んでゆく魂を描きたい」
と言われ、小説作品のBGMには、絢爛豪華なオーケストラを使い、三島の現実生活、すなわち、名声が高まれば高まるほど、高まる空虚感を表すため、簡素な弦楽四重奏を用いた。

その弦楽四重奏部分をクロノス・カルテットの委嘱によりまとめたのが「MISHIMA」である。

音楽はひたすら内省的で、三島が死に惹かれてゆく様子を静かに美しく、悲劇的に描き出す。

グラスは自ら
「世俗的成功の絶頂に、そうではないと現実を否定する精神、そのようなひとりの人間の美しい生き方そのものを描きたいと思った」と。

幼年の三島に狂気の老婆が与えた死の刻印を表した第3楽章「祖母と公威」や、切腹するのに相応しい腹筋を鍛える様子に付された第4楽章「ボディビル」はひたすら惨たるものがあり、終楽章は三島の魂を慰撫するようにひたすら美しくもある。

三島は、このように外国人が自らの死を熱心に、芸術的解釈しようとすることに、どのような思いを持つだろうか。

少なくとも、アメリカ人の三島解釈には、同じ日本人だというだけで私がする解釈よりも侮りがたいものがあることは、事実であり、私は、またこっそりと冷や汗を流すのであるが......。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

ここ数日間、夏風邪で寝込んでいました^_^;

皆さまも、体調管理にはお気をつけて下さいね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


選挙運動においてヒラリー・クリントンが敗れた理由、ドナルド・トランプが勝った理由。

2024-06-05 06:06:11 | 日記
2016年のアメリカ大統領選挙において、ヒラリー・クリントンは、他の候補に対する大幅なリードと過去の栄光に甘んじていられると考えていたようである。

しかし、地方やラストベルトに住む有権者は、クリントンが自分たちに敬意を抱き、自分たちの苦しい状況を理解しているとは、決して思っていなかった。

政策による本当の解決策は、その政策の対象となる人々と間近に接することから生まれる。

つまり、自分が貢献しようとする有権者から直接、彼ら/彼女らのことを学ばなければ、彼ら/彼女らの信頼を得ることは到底出来ないのである。

クリントンの磨き抜かれたイェール大学仕込みの雄弁術は、結局、大きなハンデとなった。

確かに、クリントンは優れた弁護士で、見事な一貫性とメリハリのある、完璧な構成の演説を行う。

一方、トランプの演説は筋の通らないことも多く、言いたいことは不明瞭でもあった。

彼は、140文字のツイートにおいて最も生き生きと輝いて見えたのである。

しかし、多くの人々はトランプを好み、クリントンに関心を持たなくなった。

なぜならば、トランプは大衆にとって親しみやすく、庶民の言葉で語ったからである。

トランプは、あたかも一個人として市民の一人ひとりに語りかけ、彼ら/彼女らと個人のレベルで気持を通わせ、彼ら/彼女らの痛みや不安、怒りを理解し、確かめているような印象を与えることが出来た。

また、自分こそが状況を正しい方向に導く覚悟と意志、強さを持った者であると人々に思わせることが出来たのである。

一方、クリントンの演説は、メッセージとしては正しかったが、語り口がまずかったのである。

クリントンは、常に堅苦しく、原稿通りに話しているようだった。

それに対してトランプは感情を抑えることなく表に出していた。

クリントンの集会は退屈で聴衆の数も少なかったが、トランプの集会は、親愛の情を深める場となっていた。

トランプが表す感情は、不快な表現によるものが多かったが、常に、トランプにとっても聴衆にとっても、気持をスッキリと解放してくれるように感じられたのである。

一方で、クリントンは、聴衆の心をつかむことに失敗した。

本来、彼女を最も強力に支持する集団であったはずの女性、ラテンアメリカ人、黒人、イスラム教徒、移民、同性愛者の心に訴えることができなかった。

トランプが女性を蔑視したり、ラテンアメリカ人や黒人を絶えず威嚇または非難し、白人至上主義と密接なつながりを持っていたにもかかわらず、クリントンへの彼ら/彼女らの投票率は、オバマの投票率よりずっと低かった。

音楽にたとえるなら、トランプは正確に歌詞を理解していなかったが、天才的に歌が上手く、クリントンは、いつも正確に歌詞を理解していたが、音痴だったのである。

例えば、「アメリカを再び偉大に」「壁を造ろう」「腐敗を一掃する」といったトランプの攻撃的なツイートや挑発的なスローガンは、重要な課題に関する正確で理知的な説明を簡単に回避させてしまったようである。

クリントンは、政策論争で勝ったかもしれないが選挙で負けたのである。

クリントンの選挙運動は有権者の頭脳に訴えようとしたが、トランプの選挙運動は、有権者の本能に訴えかけるように狙いを定めていたのである。

さらに、クリントンがトランプを相当軽蔑していたことは、多くのトランプ支持者に伝わっていた。

2016年の大統領選挙におけるひとつの転機は、クリントンが、トランプの支持者を「嘆かわしい人々の集団」と呼んだことが発覚したときだ、と私は、おもう。

このように、クリントンには、自分の感情を選択して伝える能力が欠けていたため、結果的に、態度を決めかねていて、トランプへの投票に躊躇いのあった有権者の支持を獲得する機会を失ってしまったのである。

では、2016年の大統領選挙でのこうした事実は、

成功する政治家は、人の心と頭脳をうまくつかみ取るということを意味している、と私は思う。

なぜなら、成功する政治家は、人間の本性を理解し、それを利用することが得意だということがよく示されていたからである。

また、2016年の大統領選挙運動においては、度を超した感情が理性的な思考に勝ったと言えるのかもしれない。

......。
民主主義の実験が始まった頃、政治的言説は、啓蒙という格調高い知的な形式で発せられていたのではなかったか。

また、議論には論理が必要とされ、理性に訴えねばならなかったのではないのか。

今回の大統領も、2016年の大統領選挙のように、最後は、皮質(≒頭脳)と扁桃体(≒本能)の戦いで扁桃体が勝ったと評されない選挙戦となると良いのだが。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

なかなか夏風邪の熱が下がらず、体調の良い時間と悪い時間をさまよっています^_^;

皆さんも体調管理には気をつけて下さいね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

アメリカにおける政治の二極化がもたらすもの

2024-06-04 06:29:58 | 日記
現在見られる政治の二極化や政治的憎悪が無ければ、トランプ大統領の誕生はあり得なかっただろう。

また、党派的な増悪を煽り、政治の二極化につけ込まなければ、トランプの選挙戦そのものは成り立たなかったのかもしれない。

一般得票数が少なかった中での当選ではあったが、トランプ大統領は独裁的な動きを推し進めることで、自分の支持層がより自分についてくると確信して、今日まで行動しているように見える。

なぜなら、政治の二極化により、トランプの支持層にもまた中道の選択肢がなくなっているからである。

政治の二極化は、いつでも、独裁者を目指す者が是非とも埋めたいと思うような政治の空白を生むもののようである。

初代大統領のジョージ・ワシントンは退任時に不安を覚え、建国間もないアメリカが、不確かな未来を生き抜く上で、政治の二極化が深刻なリスクとなることを真剣に考え、
「政治の二極化は、根拠のない嫉妬や間違った警告によって共同体を動揺させ、他者に対する敵意を煽り、時には暴動や反乱を誘発する。
外国からの干渉や腐敗への扉を開き、党派的情熱という経路を通じて、悪影響が容易に政府そのものに及ぶようになる」
と警告したのである。

ワシントンが警告した内容は、トランプ政権下でアメリカが抱えた問題そのもののようにもみえる。

確かにこれまでにも、アメリカには、政治的に二極化したデマゴーグが常に相当数存在はしていた。

しかし、トランプのような大統領は選ばれてきたことはなかった。

1960年代までは、民主党と共和党の2党には、重なり合う部分がきわめて多かったため、当選する者が、一時的に変わったことで多少の問題が生じても、政策が劇的に変化することは、なかったのである。

ところが、今はもうそのような状況ではなく、もはや政治を軽視しても良い理由はなくなっている。

今、政党を隔てる違いは、明確で不変で妥協できないようにも思える。

アメリカの民主主義と世界の持続可能性の両方をかけた選挙は、一か八かの博打のようになってしまっているのだ。

「政党内のふるい分け」は過去50年のアメリカ政治を支配し、二極化してきた。

それが始まったのは、南部テキサス州出身の民主党大統領リンドン・ジョンソンが積極的に取り組み、1964年に公民権法を可決させたときだった。

つまり、南部出身の民主党議員の激しく執拗な反対を押し切って可決させたのである。

南北戦争以降、南部は民主党の強固な支持基盤であった。

社会、経済、人種、宗教、軍隊に関しても、南部は一貫して保守的な価値観を保っていた。

共和党は、1964年に、バリー・ゴールドウォーターが大統領選に出馬したときに初めて掲げられ、1968年と1972年の大統領選を制したニクソンによって完成された「南部戦略」によって、民主党の強固な基盤である南部を突如、共和党支配の南部へと確実に変えることに成功したのである。

こうして、共和党全体はさらに保守寄りに、民主党はリベラル寄りの政党となった。

そして、ついに、両党が重なり合う部分はほとんどなくなったのである。

南北戦争後の南部再建時以来、アメリカの政党における二極化の度合は、今が最大となっている。

また、政治の二極化が進むにつれて、党派的嫌悪の感情が強まってきた。

2014年にピュー研究所が行った、1万人の成人を対象とする調査では、対立する政党に対して強い嫌悪を感じる人の割合が増えていることが(共和党員では17%→43%、民主党員では16%→38%)判明した。

また、対立する政党が国の安定の脅威であると心配する人も増えていた(民主党員の70%、共和党員の62%)。

両党とも極端に党派心の強い人ほど政治プロセスに深く関わり、中道の穏健な人々を納得させるよりも党の極性化を進めることに熱心である。

そして穏健派は消えつつある(49%→39%に減少)。

政治に関心を持つ人々は、自らと同じ政治的思考持つ人々ばかりで集まる傾向もみられる(共和党員の63%、民主党員の49%)。

そして、この調査の最も恐ろしい結果は、半分以上のアメリカ人が、現在の「民主主義のあり方」について不満を抱いているということである。

トランプ大統領はかつてこのような状況の中から登場し、再び彼が大統領になるときに世界が備えているようですらある。

しかし、今、私たちが考えるべきは、トランプ大統領という表面化した「症状」ではなく、その深部に在る「症状」の「原因」というべきもの、なのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

暑くなるこのシーズン、私は、毎年ながら、体調を崩しがちです^_^;

体調管理には気を付けたいですね。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。