おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

ハンプティ・ダンプティのようにならないために-cosmopolitanismについて考える③-

2023-11-30 05:46:00 | 日記
「私たちは皆、違う船でやって来たかもしれないが、今は同じボートに乗っている。」
(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)

自然選択は、多様性を愛し、またそれに報いるものなのだろう。

私たちは、1000万種以上の生物とこの地球を共有している。
そして、この多くの生物は、これまでに発生した生物のたった1%にしか当たらないという説もあるのだから。

どの種も平均的な生存期間はおよそ100万年であろう。

何事も永遠ではないが、絶滅の過程はたいてい少しずつ進み、目立たないものである。

過去に突如として起きた、5度の大量絶滅は、その当時に生きていた種の50%以上を死滅させた。
原因は5度とも、すべて、自然現象であった。

私たちは、今、この地球で、6度目の大量絶滅の危機の真っ只中にいる。
ただ、今回の絶滅の原因が在るならば、それは、私たちが生み出したものである。
人類の人口増加は常に、私たちが押しのけ、時には死滅させた種の犠牲のもとに成り立ってきた。
ますます強力になるテクノロジーと、とどまることを知らない人口爆発や環境破壊によって、私たちが、今、齎す可能性がある害を考えたとき、やはり6
度目の世界規模の大量絶滅を十分生み出せる状況にあるといっても過言でない。

現に、地質学上の記録では、通常の環境下にある場合、100万 種あたりの毎年の絶滅数は、たったの1種であることが、示されている。
ところが、今、種の絶滅の割合は、年間3万種に近づきさらに増える勢いである。

現在、生存する種のすべてのうち、およそ30%が100年後にはいなくなるという試算には戦慄を覚える。

ある種にとっての毒は、別の種には食料となることがあるようだ。
また、生態的地位を占めていた種がいなくなるたびに、新たな競争者にとっては、一時的にその力を披露し、空いた地位を埋めるチャンスが生まれる。

進化にはそんな皮肉なユーモアが込められている、と、私は思う。
なぜなら、隕石による環境への影響のために、恐竜が一気にいなくなっていなかったならば、私たち哺乳類の祖先は、昆虫を捕食する小さな弱々しい存在のままでいて、環境や地球に住んでいた他の生物に、これといった脅威を与えず、一方で、恐竜は、巨大な脳を進化させる過程を隕石に邪魔されなかったため、丁度、今の私たちがしているような形で、自らを絶滅に追いやっているかもしれないなど、と、想像できる余地があるからである。

確かに、私たちは、この世界とそこに住むほとんどの生命体を一時的に支配してきた。
しかし、支配することは、それを守る責任をも伴う。
驚くほど複雑で、限りない多様性を持ち、見事なまでに精巧だが、壊れやすい相互依存関係を持つあらゆる生物を犠牲にして、人類だけが繁栄するべきだ、と、いう考えは、愚かな妄想であり、愚かな妄念であろう。

さらに、他の種と、ではなく、同じ種である人類同士においても、類似した愚かな間違いを私たちは繰り返している。

「歴史とは私が目覚めようとしている悪夢である」と言ったジェームス・ジョイスの、絶望が伝わってくることばを想起したが、さまざま規模、さまざまなレベルの歴史がありすぎて困るので、誤った政治的決断と社会の妄想に関する体系的な研究の歴史に絞ってみたい。
トゥキュディデスは、ペロポネソス戦争で戦った両陣営が犯した選択の誤りを、きわめて詳しく分析することに拠って、その歴史を切り拓いた。
トゥキュディデスには先見の明があり、
こうした特定の戦争において、何を誤ったかを深く理解することによって、
その後のあらゆる戦争で繰り返す可能性がある事柄を明らかに出来ると考えていた。

アメリカのベトナムやイラクへの、ロシアのウクライナや他国への無意味な侵攻について理解するための最もよい道標となるのは、
アテネが2400年前にシチリアに侵攻したときに、同じような過ちをどのように犯したのか、研究することである。
アリストテレスは、もっと異なった経験的手法を採った。
ギリシアに在る158の都市国家の憲法を集め、それらの統治ルールのなかのどのような要因が、最も成功、あるいは、失敗に繋がりやすいかを見極めたのである。

社会の過ちを明らかにする近代の取り組みは、ローマ帝国の衰亡に関するエドワード・ギボンの歴史的分析から始まった。
そして、社会の成功と崩壊の地理的決定要因に関するジャレド・ダイアモンドの卓越した分析により、そうした取り組みは頂点に達した。

人間の行動の動機を理会することは、とても、難しい。

それは、人間が、自らがとる自滅的とも言える行動に対して、都合の良い言い訳を考え出す能力に非常に長けているからである。
数回にわたって述べたように、人間の行動の大部分は自動的に行われ、持って生まれた無意識の本能とある程度の気質に関しては、意識に拠る制御がほとんど及んでいない。
私たちは、人間が持つ属性について理会すべきである。

の属性とは、人間が、いつも、最初から行動を自発的に選択のしておこない、自分がやっていることを本当にわかっているような、もっともらしいストーリーを、後からつくりあげる、と、いうものである。
この属性を理会することは、過ちの数を減らし、持続可能な社会へ続くために必要なことだ、と、私は、思う。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
明日から、(また、)数日間不定期更新になります。
よろしくお願い致します。
寒いですね。
ブログを描くときのお伴(お友かも?)に、貼らないカイロが必須です。
と言いつつ、不定期更新前なので、気合いが入ったのか、長文になってしまいました。
長いにもかかわらず、読んでくださりありがとうございます。

今日も頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。



今を、夕暮れでなく、夜明けにするために。ディストピア的暗黒時代には、背を向けて進むために。-cosmopolitanismについて考える②環境破壊-

2023-11-29 06:00:14 | 日記
ビクトリア朝のロンドンでは、
「馬なし馬車」と呼ばれる乗り物が、ロンドンの町中を恐怖から救ったと崇められていた。

なぜなら、馬がひく馬車に比べて、きわめて清潔な乗り物と見做されていたからである。

商取引の急速な拡大に拠り馬車が急増したため、人々は、ロンドンの町中が馬糞に埋もれてしまうのではないかという悪夢に日々、苛まれ続けていた。
そんなときその悪夢を破ってくれたのが、当時「馬なし馬車」と感謝を込めて(?)呼ばれた自動車の発明であった。

その頃から、ずっと、私たちは、現在のテクノロジーと、それがもたらす影響を同時に受け入れられるかもしれない、と考えるようになった。

魅力ある新たな技術的解決策が、ちょうど良いタイミングで眼の前の問題から私たちを助けに来てくれた。
しかし、その技術的解決策には、過剰な量の二酸化炭素の排出が伴う。
これは大気の温室化を引き起こす問題だ。
しかし、......そうだ!!
この問題も新たな技術的解決策で、二酸化炭素を地中や深海に封じ込めたり、硫黄粒子を大気中に放出したりして、大気の温室効果を抑えれば良いのだ、というように。

この技術的解決策自体が、壊滅的な意図せぬ結果を招く大きなリスクをはらんでいることは言うまでもない。
特に、テクノロジーの崇拝者は、地球温暖化を否定する集団のなかで、テクノロジーの驚異的な進歩が、最後には魔法のような救いをもたらしてくれる、と、最も固く信じている。

私たちは(少なくとも私は)、それほどではないにせよ、どこかで、テクノロジーの魔法のような救いを期待している。

生命体は、その住む場所に大きな影響を与える一方で、自分が生み出した環境に大きく影響される。

20億年前、それまで地球を支配していた酸素を必要としない細菌は、自分が排出する酸素に毒されて、滅びた。

幸いなことに、その酸素が、人類の祖先の生命を維持することになったのである。
そして、今は私たちが、地球をほぼ支配しながら、自らが作り出した廃棄物である二酸化炭素でその地球を汚染している。

蓄積されたデータに基づいた、今最も有力であると思われる科学的コンセンサスでは、私たちが急速に地球を破壊していること、および、大胆な是正策を今、採らなければ、すぐ私たちの手に負えなくなり、すでに破壊されてしまったものを将来の時点で修復できないことが、はっきりと確認されている。

よく考える、または問題を先延ばししない、まともな世界を目指すならば、
私たちは、将来、問題は魔法のように解決する、と、いう夢のようなおとぎ話に頼るべきではない。
まずは、世界の二酸化炭素排出量を大幅かつ早急に減らすために、
私たちの力が及ぶ範囲内であらゆることを理性的に行うという、現実に即した保険をすぐにかけるべきである。

概して、保険というものは、いつか使う必要があると確信することなく、予め加入しておくものである。
近々災害に遭うリスクは、ごく僅かだが、ほとんど起こりえないことが実際に起きた場合、保険がなければ大変な状況になるため、保険に加入し続ける選択を人は採る。
こうした将来への配慮を、私たちの将来への考え方に活かし、地球温暖化に対しても、未来の保険となるような、費用をかけた対策を取ることは、出来るはずだ。
リスクがどれほど深刻なのか、また、今後どれくらいで限界点に達するのか、はっきりする時点よりもずっと前に、私たちは、将来に対して費用を支払わなくてはならない。

いつの日かテクノロジーによる解決策を生み出せるというやみくもな希望に、私たちは、私たち人類の運命を漫然と暢気に賭ける余裕はないはずだ。

治療法がない場合や、その治療が遅すぎて窮地を脱することが出来ない場合があるからこそ、予防は治療に勝る。
さらに、親たちが生命保険に入るのは、保険が自らを助けてくれる、と、いう理由だけではなくて、子どもたちを気遣っているからである、と私は、思う(推察する)。
子どもに安全・安心な環境を残すために、こうした保険同様、私たちは、私たちの力が及ぶ範囲でのあらゆることを理性的に行うという、現実に即した保険をかけながら、将来世代を守る姿勢を持つべきであるし、持つことが出来るはずだ、と、私は、思う。

私たち人類は、薄明かりのなか、さまざまな問題の前で、転機に立たされている。

その薄明かりは、ディストピア的暗黒時代が始まる直前の夕暮れの時かもしれなければ、ディストピア的暗黒時代を抜け出す直前の夜明けの時かもしれない。

ただ、間違いなく言えることは、
私たちが、持続可能性を達成出来ること、達成しなければならない、ということ、そして、それが実現するかどうかは、やはり私たちにかかっているということ、である。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
異常に長く暑い夏が過ぎて、季節が行きつ戻りつするときがあっても、やはり冬になってきたなあ、と感じます。
外もまだ暗くて、冬だなあ、と、感じます。
朝晩の寒暖差がとても激しいですね。
体調を崩さないようにしたいですね。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
*見出し画像は一昨日の見出し画像を撮ったときに、偶々撮れたもので、気に入って保存していたようです。懐かしかったので使用しました( ^_^)





「解決の忌避」を回避するために-cosmopolitanismについて考える①イデオロギーよりも大切なこと-

2023-11-28 06:36:37 | 日記
ロシアのウクライナ侵攻以降、
世界、もちろん、日本においても、テレビなどでその発言が多く取り上げられるようになった人物のひとりに、
国連事務総長のアントニオ・グテーレス氏がいる。

アントニオ・グテーレス氏は、精神分析者の奥様から、心理学の知識が持つ政治的な価値を学んだ。
グテーレス氏は

「妻は私の政治活動すべてにきわめて有益なことを教えてくれた。

2人の人間が一緒にいるとき、そこにいるのは、2人でなくて6人である。

おのおの自分に加え、おのおのが考える自分、そしておのおのが考える相手の6人だ。

人間に当てはまることは、国や組織にも当てはまる。

それぞれのシナリオにおいて、鍵となるさまざまな関係者と関わる際、事務総長が果たす役割の一つは、こうした6人を2人にすることである。

すなわち、誤解と間違った認識が消えるようにすることだ。

認識は政治において核心を成している。

政治においては、6人を2人にするということにとどまらない。

難題に対処するために一丸となって取り組むことができるように、何百という人々を取りまとめる仕事が多いのである。」
と述べている。

未来において決定的に重要な政治家の仕事は、
人々が国の問題を解決するために、一丸となって活動できるように各国内で人々を団結させること、
また、世界中の国々が世界の問題を解決するために、一丸となって活動できるように国々を団結させること、である。

私たち国民の方が、私たちを代表する政治家よりも、
具体的な問題に対する常識的な解決策を見つけ出すこと」において、優れており知恵があり多様性があり、そして未来への団結力がある、と、私は、思う。

米国などの代表制民主主義制度の在る他国でも同様な現象が起きているが、
各政党の綱領は、その政党の中で最も過激な思想を持つ者たちの既得権益を満たすように作成される。
そのため、各綱領では、共通点よりも、相違点が強調されることになる。
それに対して、国民の大多数は、永田町で対立が激化して紛糾している問題についても、実は、おおむね意見が一致していることが、世論調査で常に示されている。

この状態は、もはや正確には国民を「代表」しているとは言い難く、代表制民主主義の失敗といっても過言ではないであろう。

つまり、国民を代表している、と、される政治家よりも、国民の方が分極化の度合いが、ずっと、小さいのだ。

さらに、国民と政治家との分極化の差は、時代とともに著しく広がっている。

例えば、50年前はどうだろう??

国民と政治家の間には、まだ、同じ目的が在りそれに準ずる目標も多く在った。
50年前は、まだ分極化の度合いは同質さを保っているように見える。
その後、国民の分極化はほんの少し進んだが、政治家の分極化は急激に進んだ。

今や政治家から「中庸」を尊ぶ気持が感じられないのは、私の気のせいでだけではないと感じる。

私たちは国民は、根底では団結しているのであろう。
そして、それは、世界にも同じことが言えると私は、思う。

世界市民主義(cosmopolitanism)の基底を、世界を構成する要素たちに、求めるとするならば、世界に対しても同じことが言えるように思うのだ。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは
「私たちは、皆、違う船でやってきたかもしれないが、今は同じボートに乗っている。」
と述べている。

対立を生むプロパガンダ、イデオロギー、団結ではなく、困惑や分断しか生まない言動無くすことも、世界の共通した問題の解決に役立つであろう。

具体的な事実に即して話し合えば、分極化の度合いは、見た目よりもずっと小さくなるはずである。

私たちの大多数は、おそらく、問題解決能力を有しながら、イデオロギーよりも超党派的な方法で問題が解決されることを望んでいると、
希望を込めて、推察している。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
気温の上下が激しいですね。
寒暖差というべき?なのでしょうか??^_^;
空気も乾燥して、街の灯りは透徹して綺麗に見えますが、喉や鼻にはツラいかもしれませんね。
体調を崩さないようにしたいですね。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。



ダーウィンの肩に座るフロイトを「心のダーウィン」と呼んだアーネスト・ジョーンズの視座は??-ダーウィンと人間心理への理会②-

2023-11-27 06:18:47 | 日記
「人間も動物も、快楽や苦痛、幸福や不幸を感じる能力に、根本的な違いはない。」
(チャールズ・ダーウィン)

ダーウィンは、自分が唱える新しい進化心理学が、
どれほど人間のプライドを傷つけるのか十二分にわかっていた。

なぜなら、人間の身体のみならず、心も、魂とされる者も含めて動物だ、と、ダーウィンは、唱えようとしていたのであるから、である。

今でこそ、冒頭に挙げたことばが、ダーウィンの深い洞察と近代心理学のはじまりであり、近代心理学の中核をなすものであると評されるが、それは、時間の経過による受容がかなりの役割を担った結果だ、と、私は、思う。

ダーウィンは、当時の社会(≒人びと)に対し、
人間の身体の形態は、進化を通じて得られたもので、人間の心理的形態も進化から生じた、と、アッパーでパンチしてから、

人間の本能、感情、知性は、霊長類の祖先から進化してきた、と、フックを浴びせ、

人間の動機づけや行動様式の多くは、自覚した意識や制御の外側にあり、感情、行動、思考の大部分を決定しているのだ、とストレートを打とう、とした、ようなものである。ξ1

だからこそ、ダーウィンは、自分が発見したことを、引き出しにしまい続け、気が進まないながらも最終的に発表するに至るまでには、35年の歳月を要した。
その理由として、
彼が理論を提示するまで事実の収集に細心の注意を払っており、
かつ、人間に対するこの唯物論的な見方が、世界ではまだ受け入れられないと認識し、
さらには、
彼の発見によって、人間の独自性を頑なに守ろうとする批判家たちとの対立が避けられなくなることを好まなかったということが在る。

なんと人間は複雑なのであろうか。
人間は、おそらく一時的に生い茂った万物の木のただ1本の枝であり、「自由意志」のようなものはなく、かといって、動物が持って生まれた本能に完全に縛られているわけでもないのだから。

心理学に対してかつて行われていた哲学的な考察は主観的推論でしかなかった。
自己観察は、強い先入観を伴うものであり、「私たちは何者なのか?」という問いの多くは、意識レベルで考えることが出来ないため、
「内省」という行為は、決して、それだけでは、適切な考察の方法たり得ることはない。

心臓がひとつの機能として拍動し続けることと、本質的に違わない形で、
脳が機能した結果として、人間の心と意識が生まれるとすれば、
心理学は、実験と観察という科学の標準的な手法を用いて研究することが、可能である。

つまり、私たちが、心理面と身体面両方の進化の段階について考察することは、自身を最もよく理会できる手段のひとつであると言うことが出来るのではないか、と、私は、思う。

ダーウィンは、心理学の新たな経験的手法の確立には着手した。
それが、その後、心理学の分野における標準的な手法となったのである。

例えば、子どもの観察、比較文化調査、写真を使った表情の研究など、当時(ある意味今でさえも)の最前線に在る手法である。

チャールズ・ダーウィンが亡くなった1882年に、ジークムント・フロイトは、26歳で、2人は直接会う機会は無かった。
しかし、フロイトの師匠はほぼ皆ダーウィンの影響を受けていたため、気づかぬうちにいわゆる「ダーウィン語」を話していた。
現在の私たちが無意識のうちに「フロイト語」と呼ばれる専門用語に囲まれ、口にしているように、フロイトは「ダーウィン語」に囲まれ、フロイトもまた、無意識のうちに「ダーウィン語」を話している。

ニュートンが自身を、先人たちという名の巨人の肩に座る者であると表現した。
心理学でダーウィンの肩に座っているのがフロイトであろう。
フロイトは、進化に関するダーウィンの洞察を、精神症状や夢、神話、芸術、人類学などの幅広い分野において巧みに応用した。

アーネスト・ジョーンズは、フロイトを英雄と崇め、フロイトの伝記を著し、フロイトのことを
「心のダーウィン」と呼んだ。
しかし、実際は、アーネスト・ジョーンズにとって、チャールズ・ダーウィンが
「心のダーウィン」そのものであった。
ジョーンズは、フロイトに対して、ダーウィンの最も偉大な弟子としての尊敬のまなざしを持っていた。

人間心理の理解/理会における最も重要な前進は、人間精神生活の大部分が、理性や意志でコントロールされず、自動的かつ無意識に営まれていると気付いたことである。

ダーウィンが人間の心と霊長類の歴史を結びつけたことは、それまで説明されていなかった空白の部分の多くを埋めることを可能にした。

それは同時に、現在の世界で、私たちが多くの誤った決断を下すのは、5000万年の哺乳類の進化の過程で私たちの先祖が直面した状況に脳が適応するようになっているからだという事実をまざまざと私たちに示しているのである。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
力が入りすぎて、長文になってしまいました(;^_^A
ξ1の部分はボクシングについてはあやふやだったので、「ボクシング パンチ」などと検索しまくりながら描きました。
インターネット検索の偉大さに感動した朝です(T-T)
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
*見出し画像が今はもう面影も無い(→かなり取り壊されていますが、まだ日々取り壊され中)、散歩コースの建物です。
想い出だなあ、と思ったので出してみました。



「延長された表現型(The Extended Phenotype)」たちのうちのひとつを考察するために-ダーウィンと人間心理への理会①-

2023-11-26 06:20:10 | 日記
「どんな複雑な問題にも、
わかりやすく、単純で、間違った答えがある。」
(H・L・メンケン)

ダーウィンが、登場する前、彼ほど、現代の理論に通じる理論を語った者はいなかった。

また大雑把な観点からいえば、ダーウィン登場以降も、理論の細かい修正や実験による確認、臨床的応用を除けば、新たな内容が付け加えられることは、ほとんど無かった。

人間心理の理解における最も重要な前進は、
人間の精神生活の大部分が、理性や意志でコントロールされず、
自動的かつ無意識に営まれていると気付いたことである。

確かに、
ダーウィン前後の時代にも、多くの哲学者、科学者、そして作家が、
無意識の領域の研究を行っているが、
ダーウィン以外に、人間の心と霊長類の歴史を結びつけることによって、
それまで説明されなかった空白の部分の多くを埋めることが出来た人物が存在したであろうか??

プラトンにまで遡るすべての哲学者は、ある意味心理学者であるとも言える。

なぜなら、人間の本性に関する理論、つまり何が人間の行動や考え方を引き起こしているかを詳細に論じてきたからだ。

主観的な自己観察や、演繹的推論、イデオロギーを組み合わせて、
それぞれの哲学者は、「人間の心に関する独自のモデル」を作り上げようとしたが、
概してそれらは、「各自の心の輪郭や癖によって形成されたもの」であった。

あるモデルが、他のモデルに比べて洞察に富み、現実に見合っているということは在れど、
すべてのモデルは、それを生んだ哲学者の特殊な思考プロセスや信念を説明しているものであり、
人間が、今在る姿になるまでどのような道を辿り、
人間の心がなぜ今在るような形で働いているのか、
と、いう、根本的な質問には確りとは答えていないように、私は、感じてしまう。

そう、
誰もが、「人間の本性」については説明をしているのだが、
「その本性がどのように人間を人間たらしめているのか」については、誰も解き明かしてなどいないといっても言い過ぎではないであろう。

ダーウィンは、ビーグル号での航海から、ちょうど2年後のノートの余白に

「ヒヒを理解する者はロックよりも形而上学を極めるだろう」
とメモを残している。

ダーウィン前後にはない心理学上の深い洞察が、1838年のダーウィンのノート上の走り書きのメモには在った。

ダーウィンのいう形而上学は心理学を指し、彼が触れているロックは、ダーウィンの登場の2世紀ほど前に登場した、イギリスの哲学者、ジョン・ロックを指している。

ロックの心理学(?)では、
「人間はまっさら(≒rasa)な石版(≒tabula)のような心を持ち、生まれてきて、
そのあと、人間がどのように成長するかは、自分自身の感覚を通じて「経験したことだけに拠ってだけ」決まるという。

私たち人間にとって、ダーウィンの洞察が、ある意味衝撃的かつ屈辱的ですらあるのは、
人間が自由に生まれついておらず、私たちを動物だと言い切る点に大きな要因が在ることは疑いようがない事実であると思う。
つまり、ダーウィンは、
「石版はまっさらではなくて、持って生まれた遺伝情報で埋め尽くされている」
と言っているのだから、反感を買わない方が不自然ともいえる。
それについてのダーウィン自身の理解を、次回は起点とするとして、ロックのことばで、今回は締めくくることとしたい。
「心は、言ってみれば文字をまったく書いた白紙で、観念は少しも無いと想定しよう。
どのようにして心は観念を備えるようになるか。
人間の忙しく果てしない心想が心にほとんど限りなく多種多様に描いてきたあの膨大な蓄えを心はどこから得るか。
どこから心は理知的推理と知識のすべての材料をわがものにするか。
これに対して
私は一語で経験から、と答える」(ジョン・ロック『人間知性論』)

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
今日は特に寒くて、スマホを打つ手が、かじかみます。
寒いので体調に気をつけたいですね。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。