おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

心理学理論(精神分析学、行動主義、社会心理学)を広告という金貨に変えたエドワード・バーネイズとジョン・ワトソン

2024-05-28 06:56:09 | 日記
「原爆の父」として知られているJ・ロバート・オッペンハイマーは、原爆を作ったあとに後悔の念を
「物理学者たちは罪を知ってしまった。このことは消し去ることの出来ない知識である」
と表現した。

「PR(パブリック・リレーションズ、広報活動)の父」として知られているエドワード・バーネイズは、ヒトラーの代弁者であったヨーゼフ・ゲッベルスが自らの著書を根拠としながら、ナチスのプロパガンダを行っていたことを知ったとき
「ゲッベルスは、私の著書『世論の結晶化』(Crystallizing Public Opinion)を根拠として活用し、ドイツにいるユダヤ人に対して破壊的な運動を行った。それを知って私は衝撃を受けた」
と嘆いた。

物理学が罪を知ったとするならば、心理学もまた罪を知ってしまったのかもしれないと、私は最近よく思う。

心理学もまた、民主主義をひどく残酷に貶める政治プロパガンダのための有用な武器を作ることに、手を貸しているからである。

そもそも、広告とは、人々を騙して、もともとは欲しくもなく、必要のないものを買わせる技法である。

政治広告は、国民に考えを売り込み、国民のことをいちばんに思っていない政治家を支持するように仕向ける技法である。

また、広告は心理学の応用である。

扁桃体が司る無意識の感情を操作するために、大脳皮質による意識的で理性のある思考プロセスを回避することによって広告は機能する。

19世紀後半、心理学理論(精神分析学、行動主義、社会心理学)の急増が、そうした理論の消費財売り込みへの活用に繋がった。

さらに、この数十年、心理学は政治のでたらめを売り込むことに誤用されてきたのである。

エドワード・バーネイズは、先に述べたように「PR(広報活動)」の父として知られている。

彼が「PR」という言葉を作ったのは、それまで使われていた言葉であり(実体もそうであったのだが......)「プロパガンダ」よりも、ずっと洗練された響きがあったからである。

ジークムント・フロイトの甥であるバーネイズは、精神分析学、行動主義、集団心理学に由来するテクニックを組み合わせ、企業の経営状態を改善して大成功を収めた。

彼の基本的な着眼点は
「集団心理のメカニズムと動機を理解すれば、大衆に気づかれずに、私たちの意志に従って大衆を管理し、統制することが出来るのではないか」というものである。

これが独自の専門技術に繋がった。

つまり「同意の操縦」によって、消費者の行動に働きかけるのである。

バーネイズは、ファッション、食品、石けん、タバコ、書籍など数多くの消費財の大衆消費者向けのマーケティングのパイオニアであった。
(→例えば、彼の巧みな演出のもと、公共の場で女性がタバコを吸う姿は、不品行ではなくかえってファッショナブルに道徳的な正しく、適度にセクシーにすら見えた。それは、タバコのパッケージを毎年の流行色に合わせて作るように提案したことと、1929年のニューヨークのイースターパレードでラッキーストライクを持った美しいモデルを披露するように演出することだけで実現した)

また、バーネイズバーネイズは、有名人やオピニオンリーダーによる製品の推奨というコンセプトを考案した。

バーネイズは、
「意識的な協力の有無にかかわらず、リーダーたちに影響を与えることが出来れば、彼ら/彼女らが感化する集団にもおのずと影響を及ぼすことが出来る」
と述べている。

バーネイズと、ほぼ、同じ頃、ジョン・ワトソンも心理学理論を広告という金貨に変え、思わぬ大成功を収めた。

彼の立身出世の物語は、アメリカだからこそ実現した。

貧しいながらも、大きな希望を持った少年は、優れた教育を受け、アメリカで最も有名な心理学者にまで上り詰めたが、その後突然、すべてを投げ打ち、新たに急成長を遂げる広告業界に入り会長として富を築いたのである。

ワトソンは、パブロフの研究である犬の条件づけを人間に拡大して解釈し、自覚した意識を人間に拡大して解釈し、自覚した意識を回避して潜在的意識に働きかける手法によって、人間の行動に大きな影響を及ぼすことができることに気づいた。

彼は、この手法を「行動主義」と呼んだ。

それは、行動主義が意識の複雑さや人間の心に「関心を向けない」、または、「評価しない」からである。

そして人間も犬も同じように操ることが、可能だというのである。

ワトソンは、行動をコントロールする自分の手法を用いて、人々に商品の購入を促した。

(→例えば、コーヒーブレイクというものを考案して、マックスウェル・ハウスのコーヒーを売り込んだ。)

ワトソンは行動心理学と現代広告の両方の父として、驚くべきふたつの顔を持っていた。

そして、彼は、大量消費主義に科学的な方法を取り入れることにも、見事に、成功したのである。

消費者向けの広告用に開発された手法は、政治プロパガンダという、もっと汚れた世界でも、きわめて大きな成果を発揮した。

冒頭に述べた、ゲッベルスのように心を操る武器は政治闘争に利用されていったのである。

ゲッベルスは述べている。
「四角いものが実は丸であると証明するのは、不可能なことではない。
関係する人々の心理を理解し、そうであることを十分に繰り返し言い聞かせればよいのだ。
それは単なる言葉であり、言葉は偽りの概念をまとうように形作ることができる」
と。
そして、
「多くの一般市民にとって、議論は単純明快で説得力があり、知性ではなく、感情や本能に訴えかけるものでなければならない。
真実は重要ではなく、駆け引きと心理作戦に完全に従属している」
と。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございました。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*いつものことながら、見出し画像は今、手元にある関心のある本で、内容と「直接」の関わりはありません( ^_^)

グテーレスが妻から学んだように、政治家が精神療法家に学べること

2024-05-26 05:59:03 | 日記
精神療法において、精神療法家と患者との協調に必要なことは、政治家と私たちとの効果的な協調に必用なことでもあるようである。

以下は、精神療法での基本的ルールであるのだが、ルールの中の、「精神療法家」を「政治家」に、
「患者」を「有権者」(または、選挙に応じて「区民」、「国民」など)に置き換えてみてほしい。

・精神療法家は誠実であること、また患者にも誠実であるように促すこと。
・患者との強い絆を築かなければ、患者を助けることは出来ない。
・患者の言葉づかいで話をする。
・患者の話をよく聞き、患者が精神療法家から学ぶのと同じくらい多くのことを患者から学ぶようにする。
・精神療法家の努力すべてが患者本人に向けて行われていることを、患者にわかってもらう。
・共感と信頼が治療にもっとも必要な要素である。
・痛みや恐怖、怒り、落胆を自由に表現するように患者を励ます。
・患者のニーズと、患者がそれをどのように満たして欲しいと感じているかを確認する。
・現実的な目標と期待について話し合う。
・性急な判断をしない。
・徐々に希望を持たせる。
・事実や数字を示すよりも、比喩やイメージ、例え話を用いる方が効果的である。
・精神療法家が自分の感情を意識し、それを効果的に活用する。
・治療中の何もかもが同じ重みを持つわけではない。
(精神療法で語られた内容の10%に満たないことが、患者の変化の90%以上に貢献することもある。
患者が潜在的に持つ変化への転換点に常に注意し、変化を起こすために出来ることは、何でもする)

どうだろうか。
驚くほど、
「精神療法家」を「政治家」に、
「患者」を「有権者」に置き換えてもしっくりくるのではないだろうか。(→私は、はじめて当てはめたときは、あまりにしっくりきすぎて驚いたのだが......。)

その理由は、精神療法は、単に働きかける行為なのではなく、それを行う人そのものであり、政治もまた、同様だからだ、と私は、思う。

また、精神療法家と政治家には多くの共通点が在り、影響を及ぼす範囲は違っていても、目標や手法はきわめてよく似ている。

両者とも、明言されることも、隠されることもある動機を理解し、それらに訴えかけることによって、相手の態度や行動を変えようとする。

精神療法家が、1度にひとりの患者に働きかけるのに対して、政治家は、何百万という人々に影響を与えるが、両者が持つスキルはよく似ている。

精神療法家が、最初に行うべき最も重要なことは、患者の立場に身を置いて考えることである。

つまり、
「自分がこの人の状況にいたら、私もこの人のように行動し、考え、感じるかもしれない」
という前提に立つことから始めるのである。

それは、政治家も同じではないだろうか。

私たちは、細かい部分に違いがあるとはいえ、大まかなところでは基本的に皆同じ人間なのだから、似たようなニーズや不安、欲求不満を抱え、似たような形で人生の危機に対処している。

今後の生活を滅茶苦茶にされたり、政治家に無視され、誤解され、嘘をつかれたりしたとき、政府がニーズや不安に何も対応してくれないとき、自分ならどう感じるかを、想像することは、難しいことではないはずである。

政治家こそ、精神療法家の手法を学び、有権者との日々の取り組みに生かすことによって、よりよい政治家になれるのかもしれない。

国連事務総長のアントニオ・グテーレスは、精神分析学者の妻から、心理学の知識が持つ政治的な価値を学んだようである。

グテーレスは、
「妻は、私の政治的活動のすべてにおいてきわめて有益なことを教えてくれた。
2人の人間が一緒にいるとき、そこにいるのは、2人ではなく、6人である。
人間に当てはまることは、国や組織にも当てはまる。
それぞれのシナリオにおいて、鍵となるさまざまな関係者と関わる際、事務総長が果たす役割のひとつは、こうした6人を2人にすることである。
すなわち、誤解と間違った認識が消えるようにすることだ。
認識は政治において核心を成している。
政治においては、6人を2人にするということにとどまらない。
難題に対処するために一丸となって取り組むことが出来るように、何百という人々を取りまとめる仕事が多いのである」

未来において決定的に重要な政治家の仕事は、人々が国の問題を解決するためにひとつになって活動出来るように、各国内で人々を協調させることであり、また、世界中の国々が世界の問題を解決するために、ひとつになって活動出来るように国々を協調させることだ、と、私は、思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

最近の日本国内の政治関連のニュースを見ていて、今日の日記を描くにいたりました^_^;

なんだかなあ......😓

関東は明日から天気が崩れる予定なので洗濯物は今日、なのですが、今日は、日曜なので、母とスーパーの安売りにも参戦したく、なんだか朝から、そこそこに気合いが入ります( ^_^)

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

バーンスタインのふたつの精神

2024-05-25 06:09:19 | 日記
旧約聖書は、過酷な運命を課せられたユダヤ民族が、その悲惨極まる運命こそが、神の恩寵の証であると読み換えた、人類思想史上の一大冒険の記録とも言える。

特に、神への讃歌がまとめられた「詩篇」は、この世で苦しみを味わえば味わうほどますます神への感謝と敬愛が強まるという、後のキリスト教の原形とも言える、重大な思想転換が示されている。

レナード・バーンスタイン(1918~1990年)はアメリカ生まれ、アメリカ育ちのスター的な指揮者であり、作曲家でもあった。

作曲家バーンスタインの名声が世界に広くとどろいたのは、彼が、1957年に、シェークスピアの『ロミオとジュリエット』の物語を当時のアメリカ社会に移植したミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』によってである。

モンタギュー家とキャピュレット家の争いは、白人青年とプエルトリコ移民の娘の道ならぬ恋に読みかえられ、このミュージカルは、移民国家が宿命的に抱えざるを得ない社会的問題を鋭く描き出した......のであるが、アメリカは分断されるどころか、その音楽があまりにも素晴らしかったためひとつになって熱狂したほどである。

どれほど、全米が熱狂していたかというと、当時、アメリカに留学していた小澤征爾氏が自伝に、
「タクシーに乗ると、いつも『ウエスト・サイド』の『トゥナイト』が流れていて、アメリカ中が本当に熱狂していた」
と、記しているほどであった。

『ウエスト・サイド・ストーリー』の成功は、伝統的クラシック音楽の作曲技法と、ジャズ、ロック、マンボのリズムなど南米由来の民族音楽を化合して、誰もが聞いたことがなかった音楽空間を切り拓いたことにある。

バーンスタイン本人は、
「うん、あそこの旋律はバレないように、チャイコフスキーの『ロミオとジュリエット』をパクったんだよ」
などと磊落に笑って語っているのだが、磊落と繊細とはほとんど同じかもしれない。

人は、自らの繊細さを恥じるからこそ、それを隠すために不必要に磊落を演じるのであろう。

バーンスタインの磊落な笑いの後ろにはいつもそのような羞恥があるように思う。

アメリカ生まれ、アメリカ育ち、アメリカ的にジャズとロックとクラシックを化合させて、とにかく売れる曲を作る作曲家バーンスタイン、それもひとつの精神であろう。

しかし、バーンスタインには、もうひとつの精神があった。

「~スタイン」という名前からも解るように、ユダヤ人としてのバーンスタインの精神である。

バーンスタインは、アメリカという国家で生まれ育ったからこそ、自分の出自、自分の祖先に対して、思いを馳せずにはいられないのである。

そして、バーンスタインは、歴史も国体も在るようには感じられない「アメリカ」から離れ、ユダヤ人である自分、あるいは、ユダヤ人が、本当の意味で未だ持たざる国家の国体を見つめる。

そして、それは『詩篇』にすべて書かれているはずだ、と思い至る。

「なにゆえに、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声を上げるのか。
なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油が注がれた方に逆らうのか」(詩篇第2章)

『ウエスト・サイド・ストーリー』や『キャンディード』といった商業的なミュージカルの作曲経験を活かし、バーンスタインはついに、積極的にイディッシュ語(≒ユダヤ語、古ヘブライ語)を用いた、ユダヤ教をモチーフとする音楽を作曲するようになる。

そして、成立したのが、旧約聖書の予言者エレミアを名に冠した交響曲第3番『エレミア』であり、イギリスのチチェスター聖堂から委嘱された、『チチェスター詩篇』である。

『詩篇』は、「人生は苦しみの連続であり、人は何故生まれて、何故苦しまねばならないのか」という問いに対して、「その苦しみこそ、神の恩寵のあらわれではないか」と思想転換を行う。

その思想転換の過程をバーンスタインは、音楽を用いて語るのである。

『詩篇』の中心人物は少年ダビデだが、バーンスタインはダビデの言葉に、繊細にして美の極みの音楽をつける。

人生は苦しみの連続かもしれないが、ふと出会う、美というもの、そのようなものに出会うと、「にもかかわらず」生きたい、と、やはり思わざるを得なくなるものである。

バーンスタインが示すのは、そのような心の動きなのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

「撃つのが先で狙うのが後」になってしまったADHDとCBDの診断と投薬-闘病生活を経て考えてみたこと⑧-

2024-05-24 06:25:31 | 日記
「精神治療薬の投与は有効かつ安全だ。」

という考えから派生する楽観論には必ずと言っていいほど、悲惨な裏面がある。

哀しいことに、誰かが、利益を得れば、それと引き換えに誰かが、大きな損失を被るのは世の常であるようだ。

特に、年端もいかない子どもたちを「顧客」にすれば、彼ら/彼女らを一生、「顧客」にできると考えた製薬会社は、注意欠陥・多動性障害(以下ADHD)や小児双極性障害(以下CBD)の拡大された定義を売り込み、新たな流行を作り出した。

製薬会社のマーケティングは不必要な薬物療法を生みがちである。

ひとたび、DSM-5の厳格な定義が投げ捨てられてしまうと、拡大解釈された、または「偽陽性」を示して誤診されしまった子どもたちにADHDやCBDを「治療」するために不必要な精神刺激薬や気分安定薬や抗精神病薬がばらまかれたのである。

結果は、惨憺たるもので、投薬「治療」の結果、ADHDの場合は、子どもたちは、不眠、食欲減退、短気、心拍の異常、さまざまな精神科の症状などの有害な副作用に苦しむことになってしまった。

また、CBDの場合は、子どもたちは急激に太り(12週間で平均5.4㎏も体重が増え)、糖尿病のリスクが高まり、寿命を縮めている恐れすらあるのだ。

さらに、そのことは、ADHDやCBDに対する大きな偏見を生みがちであり、その偏見のせいで子どもは生涯にわたる病人として、生涯にわたる治療を受けなければならなくなる。

このような診断は、子どもたちの人生の物語を歪め、叶えられたはずの希望を捨てさせ、望まれない行動に対するコントロール感や責任感も失わせかねないのである。

(ちなみに、感情の爆発はほかにもっと具体的な原因があり、それらは長続きせず、期間限定の治療でなおせる。

DSM-5の作成者のひとりは、双極性障害の項目に黒枠警告を記して、「みだりに軽々しく診断を下すべきではない」と臨床医を戒めればよかったと思う、と告白している。)

さて、診断の乱発と薬の過剰な使用をどうすれば減らせるのであろうか。

過剰な処方を行っているのは一握りの医師にすぎない。

彼ら/彼女らにも、特にADHDやCBDに関して言えば、
製薬会社が教えることと反対で、少しずつ診断する「段階的診断」が最善のアプローチであることを認識してもらわなければならないであろう。

製薬会社が教える「撃つのが先で狙うのはあと」という診断と投薬は、症状が非常に重く、切迫している場合「のみ」である。

多くの場合はそうではないので、手を出さずに注意深く見守る間に、症状が短期間で消えるか、ある程度は軽減するので、その後、オリエンテーションによる教育や精神療法といった段階を踏みながら、診断の確定と薬物療法をという最後の段階になるが、診断の確定と薬物療法は、それまでの段階で適切な反応が得られなかった場合に限るべきではないだろうか。

日本では特に、理想論かもしれないが、私は、そう思うのである。

ただ、残念ながら日本に限らず、「段階的診断」のアプローチを奨励する、十分な資金に支えられた啓発キャンペーンは、一般に対しても医師に対しても行われていないのが現状である。

したがって、やはり、
「さっさと診断して何も考えずに薬を処方しよう」
という製薬会社のメッセージが相も変わらず氾濫し続け、未発達なだけで正常な子どもの多くを精神病の患者に変え、まだその時期でもないのに不必要な量の薬を飲ませているのである。

ルイス・キャロルは『不思議の国のアリス』のなかで、ハンプティ・ダンプティに
「自分にはことばを支配して、その定義を左右する力がある」
とほらを吹かせている。

しかし、そのあと、ハンプティ・ダンプティは、高慢の報いを受けて、塀の上から落ちて潰れる。

読者やアリスは、鏡の国で、
「ことばが制御不能になって、文脈にまったく関わりなく、さまざまな紛らわしい意味を帯びること」
に何度も何度も気づく。

同じように医師も患者も、DSM-5の中の、ことばも制御不能になってしまっていることに、最近になって、何度も何度も気づいているのかもしれない。

今、明らかになっていることは、
「診断システムはどのようなことばが書かれているかではなく、どのようにことばが使われるかによって影響力を持つ」
と、いうことである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、暑くなりそうですね^_^;

体調管理に気をつけたいですね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

精神医学に限らず、最も重要な区別は、最も困難な区別なのかもしれない-闘病生活を経て考えてみたこと⑦-

2024-05-23 06:25:01 | 日記
双極Ⅱ障害の定義と評価には、欠点がある。

その欠点とは、製薬会社に勝手な解釈の余地を与えてしまったことである。

軽躁と単に気分がいい状態とのあいだに、明確な境界線はない。

そこを製薬会社に利用されてしまったのである。

気分が少しでも上向いたり、怒りっぽくなったりするのは、双極性障害の微かな徴候かもしれない、とする宣伝が製薬会社により始まってしまったのである。

この売り込みはうつ病の患者にとりわけ有効であった。

うつ病患者は、いわゆる「ハイ」な状態と気分の回復とを区別することが非常に難しいからである。

抗うつ薬や違法ドラッグも一時的に気分を高揚させる効果があることはご存知だろう。しかし、これらも双極性障害になるのだろうか?

DSM-5の作成者のひとりも述べているが、双極Ⅱ型障害が双極性のカテゴリーを単極性の領分にまで広げるものであることはDSM-5作成時に承知済みであったのだが、その二役を演じることになるとは、DSM-5作成者たちは、思っていなかったそうである。

確かに、DSM-5の作成者たちの決定により、診断がより正確になり、まぎれもない双極性障害であるのにもかかわらず、それまで見落とされていた多数の患者にもっと安全な治療が施されるようになった。

しかし、流行の例に漏れず、行き過ぎがあった。

単極性障害の患者の多くが実に怪しげな根拠に基づいて双極性障害と誤診され、不要な気分安定薬を投与される事態になったのである。

何故、このような飛躍が起こってしまったのだろうか??

やはり、としか言いようがないが、製薬会社のマーケティングのせいである。

双極性障害の市場は、統合失調症の市場よりもずっと大きくなる可能性があったので、製薬会社企業は、双極Ⅱ型障害に飛びついたのである。

短気、興奮、腹立ち、気分の昂揚が少しでも見られると、「双極性の病気が疑われる」という口上で病気が売られた。

専門誌だけではなく、テレビ、雑誌、映画などの至るところに双極性障害が登場した。

精神科医、かかりつけ医、その他の精神医療従事者、患者、家族には、それまで「見落とされてきた」とされる双極性障害の危険がこれでもか、これでもかとばかりに警告されることになったのである。

やはり、精神医学の全分野で重要な区別は、最も困難な区別なのかもしれない。

患者に見られるのは、双極性の気分変動なのか、それとも単純な単極性の抑うつなのか。

この診断の違いは、その後の治療に大きく関わってくる。

気分の落ち込みに抗うつ薬は有効であるが、短気、気分変動、そしてうつ状態と躁状態の急速交代を引き起こして双極性障害の総合経過を悪化させかねない。

このリスクを減らすために、双極性障害の患者には抗うつ薬に加えて気分安定薬か抗精神病薬のどちらか、または両方が投与される。

しかし、抗うつ薬の害を防ぐための戦いは、ときに多大な犠牲を伴う。

気分安定薬には、肥満や糖尿病や心臓病といった危険な副作用がある。

難題は、気分安定薬を飲むリスクと飲まないリスクを見定めるために、双極性と単極性の間にどのように診断の線引きをするか、ということである。

従来型の躁病のエピソードがあり、明らかに双極性障害の患者ならば、この問題は簡単である。
気分安定薬による援護という安全策なしに、抗うつ薬を投与してはならないことに留意すれば良いからである。
(→ちなみに、素人でも従来型躁病の診断は数分で下せるはずである)

しかし、「軽躁」と呼ばれる不完全な躁病エピソードは、難しい問題を提起したのである。

抑うつと軽躁の時期が交互に現れる患者は、双極性障害と単極性障害のどちらのグループにも分類され得る。

双極性に分類すれば、危険の大きい薬を必要もないのに飲ませることになりかねず、単極性に分類すれば、抗うつ薬しか投与されないが、躁病エピソードの引き金になりかねないという難題を突きつけられたDSM-5作成者たちは、双極Ⅱ型障害という新たなカテゴリーを加え、うつ病エピソードと軽躁病エピソードのある患者を差して使うことを決めたのである。

これが、双極Ⅱ型障害の定義と評価の欠点を生んだ背景である。

製薬会社が発する「見落とされてきた」とされる双極性障害の危険を喧しく叫ぶ声を聴きながら、ひとつの問いを、私は考えてきた。

このような双極Ⅱ型障害の流行を考えたとき、双極Ⅱ型障害を含めたDSM-5を日本の医師や患者はバイブルのように扱う状況を見直すべきではないだろうか、という問いである。

難しい問いであるが、明らかなことがひとつある。

判定が難しい境界線上の症例では、医師も患者も、製薬会社の誇大宣伝が作り出した(双極性障害などの)流れに身を投じるべきではないということである。

なぜなら、まっとうな理由がない限り、抗精神病薬の服用は危険が大きすぎるからである。

その危険を私は身をもって知っている。

さらに言うならば、闘病生活を経て私は、精神医学に限らず、最も重要な区別は、最も困難な区別なのかもしれない、とよく感じるようにもなったように思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

毎日、暑いですね^_^;

体調管理に気をつけたいですね( ^_^)

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。