おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

1914年、「スターリン賞」に選ばざるを得ず、ソ連の当局者を困惑させたであろう曲を聴いて

2024-05-16 05:48:54 | 日記
民族というものは、「新しくて新しい」問題である。

「古くて新しい」わけでもないし、「新しくて古い」問題でもない。

19世紀以降、すべての差異を塗りつぶして普遍化していくような近代主義が出現してから、それに抵抗して
「そうではない、私たちには、普遍化から守るべき独自性があるのだ」
という形で見出されたもの、それが「民族」という神話なのではないだろうか。

「そうではない」という否定から始まっているから、積極的に、肯定的に「民族」を定義することはなかなかに難しい。

確かに、私たち日本人が『荒城の月』を聴くとき、曰く言い難い心境にとらわれる。

それを、日本にゆかりのない人たちに説明することは、ほとんど不可能であろう。

音楽は、言語を超えた言語である。

『荒城の月』という言語には、日本人が自覚・無自覚を問わず受け継いできた、「平家物語的な無常観」が語られている。

かつて、ここには人が生きて、喜び、哀しみ、怒り、笑っていたが、その人々は、もう地上にはいない、という感傷というより、世界観が語られているのである。

そして、そのような、明示不可能な世界観というもの、どうやらこれが「民族」の概念の中心にあるようでる。

このような近代に生まれた「民族」の概念に、1番困ったのは、今はなきソビエト連邦であろう。

巨大な版面を擁するソ連は、必然的に多くの「民族」を抱えることになった。

本来、様々な差異を持つ人間を「労働者」と「資本家」に強引に区分けしようとするのが、共産主義の根本思想である。

そのような区分け、あるいは普遍化への抵抗は、民族運動として表出してくるのだが、そもそも、「民族」というものが捉えがたい概念のため、なかなか有効な対応策は無いのである。

民族概念の根本は、地縁や血縁ではないか、と思い付いたスターリンは、地域部族の強制移住などを試している。

そのような、ムチ政策に対しては、同時にアメ政策も採られた。

つまり、
「民族性を強調するな」と厳しく排除の原理で当たるのではなくて、
「あたなたちも私たちソビエト国民の一員なのですよ」
と抱擁して、国家に抵抗する民族の独立性の概念を、日本でいえば、関東弁と関西弁の違い程度に、矮小化しようとするのである。

しかも、このスターリンの抱擁は、
「強く強く強すぎるほど抱き締めて、相手を窒息死させようとする抱擁」であり、いわば抱きつくフリをして、民族概念を絞め殺す恐ろしい政策なのである。

アルメニア生まれの作曲家アラム・ハチャトゥリアン(1930~1978年)は、政治にも思想にもあまり興味はなかったのであるが、ハチャトゥリアンの卓越した才能を時代は見逃してはくれなかった。

ハチャトゥリアンに期待されたことは、西洋音楽の語法の中にアルメニアをはじめとする辺境の民族の音楽を取り込んでしまうことであった。

しかし、ハチャトゥリアンはあまり政治的に敏感ではなかったようである......。

ハチャトゥリアンは「純粋に」故郷アルメニアをちゅうしんとして民族音楽を採集し、研究をした。

そして、その結果、政府当局者が予想だにしなかった、極めてアルメニア的な、決して「労働者の勝利」などという普遍的イデオロギーとは結びつくはずもない、民族の魂や郷愁に訴えるような素晴らしい曲を作ってしまったのである。

その曲こそ、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲なのである。

曲は、冒頭から西洋的ではない。

荒々しき激しいリズムに始まり、西洋でも東洋でもない、コーカサス地方特有の感性に満ちている。

約30分の音楽のなかで、騎馬民族特有の激しいリズムも民族の嘆きや哀しみのような哀切極まるメロディーも出てくる。

実に素晴らしいので、私は、聴くことをオススメする。

このような素晴らしい音楽を聴いた暁には、誰でも政治などという、どうで死ぬ身の人間の愚かな喜悲劇など忘れてしまうこと請合である。

実際、そのようなつもりで作曲させたわけではなかったソ連の当局者は大いに困り、この民族色溢れる音楽に、1941年、「スターリン賞」を与えざるを得なかったのである。

ちなみに、アルメニアと近いグルジア出身のスターリンがこの音楽をどう思っていたのかは、伝えられては、いない。

しかし、スターリンの言葉や著書は時が流れれば流れるほど、忘れられていくが、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲は時が流れた今でも愛聴されている。

やはり、政治はひとつ時代が終われば終わるのかもしれないが、芸術は終わりがなく、永遠あるようにすら、私は、思われるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

明日から、数日間、また不定期更新になります^_^;

またよろしくお願いいたします( ^_^)

週末は暑くなるところが多いようですね。

体調管理に気をつけたいですね(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

ロシアの「昨日の世界」と時代に取り残された天才グラズノフの悲哀を感じて

2024-05-15 06:29:08 | 日記
シュテファン・ツヴァイク(1881~1942年)は、死の直前に書いた回想録『昨日の世界』の序文で
「常に人は国家の要請に従わなければならず、最も愚劣な政治の餌食となり、最も空想的な変化に適応せねばならなかった。
......(中略)......この時代を通って歩んだ、あるいはむしろ駆り立てられ、嗾けられた者はだれでも、その祖先の人間が体験した以上の歴史を体験したのである」
と書いている。

実際、19世紀末から20世紀初頭は、生きにくい時代であったようである。

政治的には、国家主義が台頭してきており、経済的には資本主義が発達し、マルクスが「人間の疎外」と言い、チャップリンが『モダン・タイムス』で描いたような人間の機械化・商品化が進んだ。

とりわけ、19世紀に生まれた人間にとって、この急激な変化は耐え難いものだった。

なにしろ、彼ら/彼女らは、人間が疎外されず、人間らしく生を謳歌できた『昨日の世界』を(たとえ、それが、いくぶん美化されたもであったとしても)体験していたからである。

彼ら/彼女らにとって、まさに20世紀は人間が破壊されてゆく過程であり、その痛ましさに疲れ果てると、必然的に「昨日の世界」への郷愁の眼差しを向けずにいられないのかもしれない。

これは、ロシアでも事情はあまり変わらなかったようである。

ロシア音楽はリムスキー・コルサコフたちを代表とする「国民音楽派」、つまり、ロシア民謡やロシア独特のメロディーといった、ロシアの土着性に根ざした音楽を中心に発達してきた。

その系譜に連なる最後の代表的作曲家がラフマニノフである。

彼の音楽もまた、母なるロシアの大地、というイメージに溢れている。

しかし、20世紀になると、それも「昨日の世界」となってしまうのである。

革命の嵐が吹き荒れ、
「労働者による新社会の建設」が始まったのである。

ラフマニノフに比べて、アレクサンドル・グラズノフ(1865~1936年)の名前は有名とは言い難い。

しかし、「昨日の世界」では、グラズノフこそ、ロシア音楽界の重鎮だったのある。

1881年、無名の作曲家の交響曲第1番が初演された時、そのあまりにも洗練されたスタイル、美しいメロディーに聴衆は熱狂した。

熱狂する聴衆の前に呼び出された作曲家は、学生服を着た16歳の少年であった。

神童グラズノフのデビューである。

それからのキャリアは華々しいものがある。

書く曲はロシアのみならず西側諸国でも喝采を浴び、その重厚な作風からは「ロシアのブラームス」と称され、やがて1905年、ペテルブルク音楽院院長として後進の指導にあたるようになる。

しかし、時代は激動期に入りつつあった。

ペテルブルク音楽院院長に就任した年には、「血の日曜日事件が発生」、戦艦ポチョムキンが暴動を起こし、ツァーリ支配は、揺らぎ始めていた。

革命の気運が、新しい世界を目指す熱気が、ロシアを覆った。

「昨日の世界」は忘れ去られようとしていた。

そして、ソビエト体制が発足すると、グラズノフの音楽は過去のもの、と、なった。

新しい世界には、新しい音楽が求められたのである。

時代に取り残されたグラズノフは、やがてフランスに亡命し、そこで客死するのだが、彼の死亡のニュースは世界を驚かせた。
「なんだ、まだグラズノフって生きていたのか!」と......。

そのころには、彼の音楽はあまりに古くさいものと捉えられていたため、世界は、グラズノフはとっくの昔に亡くなっていると思っていたようである。

一時は、世界的名声を浴びながらも、グラズノフは歴史から忘れ去られた。

彼の名を音楽史にとどめているのは、その創作の絶頂期(1904年)に書かれたヴァイオリン協奏曲ただのみによってと言っても過言ではない。

しかしながら、その音楽は正に傑作である。

物憂げなロシア的叙情にあふれ、協奏曲として不可欠な技巧の見せ場にも富み、形式と内容とが完全なバランスを保っている。

まさに、大地と共に生き暮らしたロシアの「昨日の世界」、その太陽が沈みゆくときの最後の残照、暮れなずむ夕映えにも似た味わいがある、と、私は思う。

そしてそれを聴く、私は、同時に、時代に取り残された天才の悲哀をも感じるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

見出し画像は、またまた、今回の文章とは関係ないのですが^_^;
私が病気と病気治療の後遺症と闘うときに助けになった本のひとつです。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

歴史のなかの精神科医(前編)-シャーマンから神官へ-

2024-05-14 06:43:50 | 日記
私たちの祖先が狩猟採集民族だった頃、精神科医の役割を担っていたのはシャーマンだったが、私たちの祖先が農耕民族となると、シャーマンは時代遅れとなり、神官がシャーマンに取って代わった。

過去1万年わたって動植物を飼育、栽培した結果、人間は自然界に対する支配を強め、自らの地位をより高く感じるようになったようである。

原始のアニミズムは完全に姿を消したわけではなかったが、私たちとまったく同じように話したり行動したりする神々が誕生したために、ある程度は取って代わられたのである。

シャーマンと神官の職務は大きく異なるところもあれば、似通っているところもあった。

ジャーマンは霊界との仲介役だったが、神官は人と神々の仲介役となり、シャーマンの神秘的な霊力は維持しながらも、それを神の権威によって強化した。

霊はあまねく存在するとされていたため、シャーマンは身軽で、遊牧している部族がどこに移ろうとも、人々を治療した。

ただ、わりあい裕福だったとはいえ、シャーマンの全財産は背負って運べるほどであった。

これに対して、神官は腰が重く、神々に聖別された聖地に建つきょだいな神殿で仕事をした。

聖地はたいてい、清めの清水が湧き出る泉の近くに在った。

豊かな農耕社会が誇る有り余る富に相応しく、神殿の多くはスパや図書館、ジムや劇場を備えた豪華な施設であった。

しかし、根本では、神官の職務はシャーマンと同じであった。

神官の仕事もまた、神々の機嫌をとり、世界のバランスを保ち、恐ろしい天罰を防ぎ、食べ物をもたらすといったことである。

神官は、病人の世話もしていたのだが、現在ならば、精神疾患のレッテルが貼られる問題を抱えた者が多かった。

神官が精神科医として過ごす時間はおのずと長かったのである。

ギリシャ神話は、狂気に満ちている面が在り、いつの時代も人々が精神疾患に悩まされてきたことの証拠にもなっている。

良いことであれ、悪いことであれ、人間業とは思えないことを人間がすると、決まって神の手が働いたことにされた。

例えば、古い時代、異常な行動はマニアという名前を持つ女神のせいにされていたし、のちにオリンピアの神々(たいていは女神)が加わるが、奇矯な振る舞いには「女神の使嗾」という診断が下されていた。

なぜ、狂気を呼び起こすのは女神なのだろうか。

狩猟と採集が農耕と牧畜に変わったとき、女性の権利は貶められたといえる。

新たな権力と土地の所有関係は家父長と男性神を大きく利した。

復讐心に燃える女神は、男性の
強奪によって抑圧された恐るべき力を象徴しているのかもしれない。

狂気は罰であると同時に、免責手段でもあった。

つまり、当時、神官の診断は逸脱行動を説明するとともに、それを許容するものでもあったのである。

ヘラクレスが凶悪、危険になったのなら、それはヘラがその傲慢と不遜を罰しているに違いないし、大アイアスが家畜を見境なく殺戮したのならば、それはアテナがその妬みと怒りの向かう先を誤らせたに違いない、というようにである。

特別な才能も狂気と結びつけられた。

霊感には代償が伴う。

カサンドラやデルフォイの巫女たちは、未来を見通せるにしても、現在という時制では精神を病んでいるとされた。

ミューズ(詩神)たちも、しばしばその詩に狂気を持ち込み、ディオニュソスの教団はさらに薬物乱用を加えていたようである。

正常とされた人も、仮病で正気を失ったフリをした。

オデュッセウスはトロイア戦争に従軍したくなくて、正気を失ったフリをしたが失敗し、ダビデ王は同じことをして命をながらえたのである。

神々は、嫉妬深く、気まぐれで、えこひいきをし、ルールは不明確で不公正だったため、人々は、神官に教えを請う必要があった。

そこで、神官は、信仰や祈祷や壮大な神殿が与える権威をフル活用することにしたようである。

ちょうどホメロスがトロイア戦争の叙事詩をまとめていた紀元前8世紀に、最初の医療の神殿が、医の神アスクレピオスを崇拝する教団のために建てられた。

アスクレピオスとは、今も医学のシンボルとなっている。(→ヘビの巻き付いた独特な杖の持ち主と言えばわかるかもしれない)

この医療の教団は繁栄した。
間もなくして、古代ギリシャの至るところで、アスクレピオスを祭る神殿が300も奉献されることとなった。

この教団は約1000年にわたって広く人気を博し、驚くほど活躍した。

ローマ人も取り入れて、帝国の勢力圏内に神殿を移したのである。

ギリシャのコス島にあるアスクレピエイオンなどは、神殿、病院、ホテル、ヘルススパ、保養地、娯楽センター、医学校を兼ね備えた多目的施設であったのである。

そのようななかで、神官たちは、精神病の新たな理論と、新たな診断システムと、新たな治療を開発した。

その理論では、精神病は怒りや嫉妬に駆られた神々が与える罰とされており、診断の手順は「孵化(インキュベーション)」と呼ばれていた。

それが終わった患者は、神殿の至聖所にある祭壇の近くで眠ることを許される。

その目的は啓示に満ちた夢や幻を見ることにあった。

神殿では精神分析のイメージを先取りした治療を施した。

神官はローブを纏ってアスクレピオスの杖を持ち、熟練した夢の解釈で助ける役目にあたった。

つまり、患者が夢の意味を見いだせるように助けたのである。

神官は精神療法、良識ある助言、薬草にも通じており、手術も必要に応じて行われた。

加えて、神殿ではジムとスパのサービス、食事療法の助言、知的刺激のための図書館に娯楽に興じる機会のために劇場まで在ったのだ。

高い治癒率も不思議ではない。

ただ、患者は十分な感謝の捧げ物をすることが求められた。

奇跡的な治癒を証明する石版が多数作られ、誇らしげに飾られた。

宣伝は神殿のビジネスに役立ち、癒やしの力があるという名声を高めた。

実は、今日でも、治療の神殿は、3つの異なる形で生き残っている。

それは、信仰による治癒を求めて現代の人々が巡礼する神聖な土地と、運動や食事療法や美容によって健康を増進する世俗のスパと、そして、近代的な医療センターなのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

またまた、長くなってしまいすみません^_^;

気が向いて、時間があるときに読んでいただけると、幸いにおもいます( ^_^)

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

1970年代に「Crying Indian」と呼ばれたCMからもみえる持続不可能から-私たちが直面していることについて考えるⅢ⑯-

2024-05-13 06:28:55 | 日記
シャーレで数個のバクテリアを培養した結果を、私たちはほぼ間違いなく予測することが出来る。

数個のバクテリアはすさまじい勢いで増殖し、とめどなく餌を食べる。
やがて増殖したバクテリアでシャーレはいっぱいになり、餌はなくなってしまう。

そしてコロニーは完全に死滅するのである。

このシャーレの中のバクテリアが自らを消耗し尽くしてしまうのと同じような現象が人間の世界で起こることを
「異化崩壊(catabolic collapse) 」という。

歴史上、成功を収めた複雑な社会はすべて、最終的に身の丈に合わない暮らしをするようになり、必要な量、あるいは維持できそうな量以上の物を、生産および消費した挙げ句、資源を使い果たして崩壊してきたのである。

文明が消滅する直前に生産性がピークに達することは、考古学で常に明らかにされている。

また、いつも最後に残るのは、うず高く積もったゴミの山である。

残念なことに、私たちの経済政策はすべて、致命的欠陥の在る過去から学ばない想定に基づいているようである。

それは、つまり、絶え間ない経済成長は、国が生き残るために本来良いことであるだけではなく、基本的に不可欠なことだという想定である。

だから、経済成長が妨げられれば、「景気後退」「不景気」などと罵られ、人々にもっと金を使わせ、消費させるための苦肉の財政・金融政策によって景気を「好転」させるのであろう。

しかし、GDPのうちの相当な割合(経済大国アメリカでは約70%)は役に立たないことが多い製品に対する個人消費に由来し、もっと効率的で持続可能な世界につながるインフラプロジェクトや研究のための支出は少なすぎる。

また、新車の生産台数は多すぎるが、公共交通機関のシステムは少なすぎる。

さらに、広告業界全体が、ハクスリーの『すばらしい新世界』で痛烈に皮肉られた見境のない過度な消費を促すことに力を注いでいる。

「流行遅れ」などによる商品の計画的陳腐化は、私たちの経済において重要な役割を果たしている。

こうした状況はすべて、企業の利益を上げる、という点では素晴らしいが、私たちの目標を「私たちを幸せにすること」とした場合は、持続不可能で、本質的に、不要なこと、ではないだろうか。

さて、「Crying Indian」と呼ばれた、約1分間のテレビコマーシャルを見たことがあるだろうか?

私は、ネット検索してでも見る価値があるコマーシャルだと感じているし、それを何度見ても私は心が痛む思いになる。

このコマーシャルでは、Iron Eyes Codyさん扮する1人のアメリカ先住民が、とても重苦しい沈痛な面持ちで、いくつものゴミが浮いた川を、船で下っている。

ふてぶてしく白煙を上げながら、両岸に立ち並ぶのは、川を汚している工場たちである。

沈痛な面持ちのままの彼が、岸に上がり、打ち上げられた、いくつものゴミの上を歩いて高速道路に近づくと、いきなり、車から無造作に投げ捨てられたゴミが、彼の足元に、落ちる。

そのとき、静謐な表情をしている彼の顔にひとすじの涙が静かに、流れ、
「People start pollution,people can stop it(汚染を始めたのは人間、止められるのも人間)」
というレーションが静かに、しかし、耳朶を打つように流れる。

このコマーシャルは大きな反響を呼んだ。

そして、今では、毎年世界規模で行われるアースデーの取り組みのきっかけになったともいわれている。

確かに、諸手をあげてこのCMを制作した団体(キープ・アメリカ・ビューティフル)を賞賛出来ない道義的な矛盾は存在する。

キープ・アメリカ・ビューティフルは、これまでも、そして現在も、活動資金の一部を結局はゴミと使い捨ての製品を多く製造する者たちから資金を得ている。

ゴミ問題を解決するためには、善と悪の同盟関係が必要だったということかもしれない。

しかし、やはり「Crying Indian」と呼ばれるCMは、私たちに、「このままではダメだ」と気付かせ、経済成長や消費主義から、持続可能性や足るを知る方向へ、私たち自らの姿勢や、制度、経済を転換させることを考えさせてくれる。

地球上の私たちは、シャーレの上のバクテリアに然も似たり。

バクテリアよりは人間の方が考えられるはずだから、本当に必要としないものを大量に製造することを止め、手が届く範囲の物から費用がかからない良質の幸福を得ることを重視するように心がけられるはずだ。

これまでよりも質素な生活は、たぶん、たいてい、もっと幸せな生活なのかもしれない、と、私は思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日は、雨ですね。
大雨の地域もあるそうななので、気をつけたいですね。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

言葉にならない個人的な苦痛を表現したアラン・マレの『膀胱結石切開手術図』という音楽

2024-05-12 06:18:03 | 日記
ここに音楽に対する、ふたつの考え方がある。

ひとつは、
「音楽というものは、人種、国境を超えて普遍的なものである」
というもので、
もうひとつは、
「音楽が普遍的だというのは能天気な戯言だ」
だというものである。

前者は、音楽の持つ抽象的な機能に注目した考え方である。

確かに、喜びや悲しみと言ったものは個別具体的なものであり、例えば、シューベルトが抱いた悲しみはシューベルトだけのものであろう。

だが、それがひとたび音楽となれば、抽象化された悲しみの表現に、私たちは、自分の心の中にも共鳴する響きを聞きつけて、共感するのである。

また、後者は、抽象化する作業の過程に注目した考え方である。
それぞれの音楽には文化的コードがあって、その文化コードをまず学習しないことには理解など不可能だというわけである。

確かに、シタールの一弦の響きがどのような心の動きを表したものなのか、それなりの学習を経なければなかなか理解は難しいのかもしれない。

どちらも両極端な考え方であるが、共通する、あるいは類似した体験が無ければ共感など、無いであろうし、体験を共有していても、それを理解するための文化コードが共有されていなければ、表された音は理解が難しいだろう。

現在、世界では、幸か不幸か、西洋音楽が発展をさせ、かつ洗練させてきた音楽語法が覇権を握っているので、文化コードについてはおおよそ共有されていると見て良いだろう。

ごく大雑把に言えば、上昇してゆく音型は気分の高まりを表し、不協和音は何かよろしくないことが表されているのである。

では、作曲家が抽象化された感情などではなく、完全に個別具体的な、例えば、恐怖や苦しみを表したいときはどうすればよいのであろうか。

アルノルト・シェーンベルクは、晩年に心筋梗塞を起こした時、心臓に直接注射を打ち込まれてしまった。

シェーンベルクは、その時の感覚を弦楽3重奏曲で激しいえぐり込むような不協和音で表したというが、そのような説明を受けなければ
「なるほどこれが心臓への注射の感覚か」
などとは誰もわからないし、そもそもシェーンベルクは、たぶんそんなものを表し、人に伝えるために音符を描いたのではないだろう。

彼は、ただ、その時の体験を、作曲に活用してみたというだけのことである。

そんな迂遠な方法を採らずとも、簡単な方法が在る。

「転んだから痛い」と言いたいならば、
「転んだから痛い」と言えばよいのである。

それは、音楽でも同じことなのかもしれない。

マラン・マレ(1656~1728年)という人も、当時の人生最大の病苦に挙げられる膀胱結石に苦しんだようである。

しかも、痛みの割には命には別状が無いので、他人の同情を買えないという点もつらいそうである。

現在では、超音波で粉砕するという洗練された手術法があるのだが、マレの時代にはもちろんそのような手術法はない。

それどころか、マレの時代はこの手術自体がさらなる苦痛を強いるものであった。

おそらく、そのあまりのつらさのためだったのであろう。

なんとしてでも、マレはこれを楽譜に書き残そうとしたのである。

音では足りないと感じた彼は、その手術の恐怖やそのものを音楽と共に語らせたのである。

まさに、ヴィオール曲集第5巻に収められた『膀胱結石切開手術図(Le tableau de l’operation de la taille)』こそ、その記録である。

音楽は激しい不協和音に慣れた現代人には物足りないものの、それでも、手足を縛り付けられ、手術を受ける患者マレの不安と恐怖を表すのには余りある。

そこに
「ああ、あの器具が近づいてくる!
いよいよ切開するのだ!
もはや声も出ない!
血が流れる!」
と台詞が加わったあと、しばらく台詞が途切れるが、その間のヴィオールの音楽こそが、言葉にならない苦痛と絶望と、そして諦めとを余すことなく描写しつくしている。

そして
「取れた!」
という声と共に、音楽は明るい調子へと変化する。

それだけを聴けば、何の変哲もない中世音楽らしいロンドであるが、前半の苦悶を知っている人には、天上の音楽だと認識出来るであろう。

YouTubeで検索可能である。

暑い気候にぴったりかもしれない、ぜひ、ご視聴あれ。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、次回。

*見出し画像はいつも通り内容は特に関係ありません( ^_^)