風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

花の名前は

2024年05月28日 | 「2024 風のファミリー」



キハナ(季華)という名の女の子の孫がいる。いつのまにか、女の子とも言えないほど成長してしまったけれど。その命名には、私も関わりがある。四季折々に咲いている花のようにあってほしい、という思いを込めた名前だった。彼女が花のように育っているかどうかは、まだわからない。いつのまにか高校生になったと思ったら、もうすぐ卒業しようとしている。

何かをたずねると、「わからへん(わからない)」という答えがかえってくる。それが口癖になっているのかもしれない。本当にわからないのかわかっているのか、よくわからない。「わからへん」と言いながら、何事もすいすいとこなしてしまう。脳天気ともいえるが、善意に解釈すれば、いつも自分でわかっていることよりも、さらに先の未知の部分をみつめているのかもしれない、ともいえる。未知のことは、誰でもわからへん(わからない)ものなのだ。

昨年の夏には、通っている高校の学園祭があり、招待券をもらったので参観に行った。クラスで創作劇をすることになり、彼女は尻込みしたが、皆んなに背中を押されて出ることになったと聞いた。劇が始まってみると、彼女はなんと劇中のヒロイン役だった。演技はぎこちなかったが、現代っ子らしい激しい動きのダンスや、さまざまな場面転換の雰囲気を、それなりに楽しんでこなしているようにみえた。

いつからか、大学は東京に出たいというのが彼女の夢になった。家庭の経済のことも考えて、寮のある国立の某女子大がターゲットになった。かなり手ごわい大学だが、推薦入学の一次審査を通り、先日は東京の大学まで二次の面接試験を受けに行った。あいかわらず、どこまでわかっているのかわかっていないのか、試験が楽しみだと言いながら、るんるん気分で出かけていったようだ。

だが面接試験が終わると、とたんにどん底に落ち込んでしまった。まさか面接官の質問に「わからへん」とは答えなかったと思うが、面接官に椅子をすすめられる前に、さっさと自分から座ってしまったし、終わったあとも退席の挨拶もしなかったような気がするという。前もって高校で指導された、面接の基本的なことをミスしてしまった。だからもう駄目だという。
本人は緊張することもなかったというが、あがっていることもわからへんほど、舞い上がっていたのかもしれない。それから3週間、彼女にとっては珍しく暗い日々がつづいた。

合格発表は大学のホームページにアップされると聞いていたので、指定された日のその時間を待って、パソコンにアクセスしてみた。そこには彼女の受験番号があった。なんども確かめた。まるで受験生本人のように動悸がした。さっそく彼女に電話をすると、ほんまに?ほんまに?と、信じられないといった声。パソコンがなぜか繋がらなくて焦っていたという。パソコンが不調だったのか彼女の操作が間違っていたのか、そのことはたぶん、彼女にも「わかれへん」かっただろう。
かくて、彼女の新しい進路も決まった。いまは喜びが大きすぎて、どう喜んでいいのかわからずに戸惑っているようだ。東京での生活は、ほんとの「わかれへん」ものが、もっとたくさん待っているだろう。そこでも「わかれへん」という呪文で、なんとか乗り切っていくのだろうか。




「2024 風のファミリー」





ひとよ 昼はとほく澄みわたるので

2024年05月22日 | 「2024 風のファミリー」



このところ、芳しい若葉の風に誘われるように、ふっと立原道造の詩の断片が蘇ってくることがあった。背景には浅間山の優しい山の形も浮かんでいる。白い噴煙を浅く帽子のように被った、そんな山を見に行きたくなった。

ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした……


私も灰の降る土地で育った。幾夜も、阿蘇の地鳴りを耳の底に聞きながら眠った。朝、外に出てみると、道路も屋根も草や木々の葉っぱも、夢のあとのように色を失って、あらゆるものが灰色に沈んでいた。だから、静かに灰の降る土地に親しみがあった。林の上には沈黙する活火山がある、そんな風景のなかで詩を書いた詩人に、特別な親近感があった。

立原道造は昭和14年3月に、25歳の若さで死んだ。たくさんの美しい詩を残した。
道造が生涯を終えた同じ年頃に、私は新しい生活を始めようとしていた。それまで私は一編の詩も書いてはいなかった。ただ、道造の詩を愛読するひとりにすぎなかった。浅間山と、軽井沢追分の地名と、幾編かの詩の断片が、青春の熱のように私の後頭部を熱くしていた。

新しい生活を始めるために、私たちは上野から汽車に乗った。夜遅く着いた軽井沢のホテルの食堂に、ふたり分の夕食だけが残されていた。そのテーブルに向かい合って座ったとき、ふたりの生活が始まったと実感した。宿泊客がほとんどいない5月のホテルで、2日間、私たちは食事時間以外は、まるで忘れられた客のようになって過ごした。

部屋の前には林と広い芝生の庭が広がっていた。それがゴルフ場であることも知らなかった。終日、誰もいない芝生の上に寝転がって、聞いたこともない珍しい鳥の声に驚いていた。辺りの木々は新緑に包まれ、林の上の青い空には、消え入りそうな優しい形をした山があった。それが浅間山だとはじめて知った。

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫ぜて行く
朝のしめったそよ風の……さうして
一日が明けて行った 暮れて行った


静かに始まった草原の1日に続いて、つぎつぎと慌ただしく1日が明けて行った、暮れて行った。
子どもが生まれて生活が厳しくなった。仕事は楽しかったが、東京の生活に行き詰まりを感じて、身寄りの多い大阪へ移った。日々の生活に追われ時を忘れ、詩や詩人のことなどすっかり忘れた。10年間、家族の生活と平安のために不本意な仕事に耐えた。

やがて、自分がいちばん大事と思い直し、やりたかった好きな仕事を始めた。東京時代に習得した印刷関連の仕事だった。好きなことだから時間も忘れて没頭できた。やればやるだけの収入も得られた。家族も増え住宅も車も手に入れた。あっという間に毎日が明けて行った、暮れて行った。

やがて成長した子ども達が仕事や結婚で家を出ていった。
それまでコンピューターを使ってこなしてきた仕事を、こんどはコンピューターに奪われるようになった。私の作ったデータは無償でコピーされ再生され、私の手から次第に離れていった。さらに同じ仕事を続けるには心身ともに限界にきていた。私は仕事をなくし、同時に家も車も失った。

あとには夫婦2人だけの生活が残った。
生活の不安はあったが、私は妻の同意も得て仕事から離れた。だが残されたものは貧しさと自由な時間だけになった。ほかにも何か残っているかは分からなかったが、私は詩のことを思い出し、少しずつ詩のようなものを書くことを始めた。

しづかな歌よ ゆるやかに
おまへは どこから 来て
どこへ 私を過ぎて
消えて 行く?


ふたたび5月。2人で何十年ぶりかで軽井沢を訪ねた。青く湿った風に吹かれたいと思った。貧しさの中で、貧しかった若い頃に、私の魂は帰りたがっているようにみえた。

ああ ふたたびはかへらないおまへが
見おぼえがある! 僕らのまはりに
とりかこんでゐる 自然のなかに


そこには、変わるものと変わらないものがあった。かつて泊まったホテルの名称も変わっていた。林の木々はやわらかい緑に染まり、鳥たちは、甲高く透き通った声でしきりに鳴いていた。そして浅間山は、懐かしい記憶のかたちのままで残っていた。

ひとよ 昼はとほく澄みわたるので
私のかへって行く故里が どこかにとほくあるやうだ



        (文中の詩はすべて、立原道造の詩集から引用したものです)




「2024 風のファミリー」





ナオキの相対性理論

2024年05月18日 | 「2024 風のファミリー」



ナオキという、小学4年生の孫がいる。学校での出来事を、よく母親に話すという。その話をまた母親から聞く。なかなか面白い。
先日、相対性理論のことを口にしたら、クラスの誰も知らなかったと言う。え? 相対性理論? 私は耳を疑った。そんなことを知っている小学生がいるのだろうか。もしかして、きみは天才か秀才か。なんでそんな言葉を知っているのかと驚いた。光速や重力? 私にとってはまるでチンプンカンプンな話だからだ。

話の続きを聞いていると、どうやら彼は相対性理論という言葉を知っているだけのようだった。それも漫画の本で知ったという。相対性理論という言葉の格好よさが気に入って、しっかり言葉だけを自分のものにしてしまったようだ。なにかしら珍しいものが道に落ちていた。それを拾ってポケットに入れた。それの使い道までは考えなかった。そんなところだろうか。
そんな淡白さは、やはり遺伝かもしれない。もう一歩さらに踏み込む探究心があれば、すこしはノーベル賞にも近づけるのではないか。まあ仕方ないけど。おかげで相対性理論の追及の矛先が、こちらに向いてくることがなくて助かった。私は早速、その漫画の本を探してみようかと思っている。

また別のときには、ぼくらはなんで生きてるんやろ、というのが話題になったという。ああ、またまた難問。それが小学4年生の話題かい? だが、彼らには簡単に結論が出たらしい。いちばん誰もが納得した答えは、死なないために生きているということだったという。なあ〜んだ。そんなことか、なるほどな。みんな動物のようにしっかり生きているんだ。
何のために生きているかなどと考えるときは、きっと生きることが嫌になっているときか、生きる力が弱くなっているときなんだな。そういえば大人だって、サプリやビタミン剤を飲みながら、死なないように必死で生きてるじゃないか。生きることは死ぬことよりも難しい、とも言うけどね。

また話は変わる。ナオキには特に親しい友達がふたりいるという。色が黒くて体格のいいハーフのタロー君と、普通の子のヒロ君。10年後、3人はやーやーと手を振りながら再会するという未来の筋書きができているという。そのとき、タロー君はプロ野球選手、ヒロ君はリストラされたサラリーマン、ナオキは世界的なテニスプレーヤーだと(えっ、まじ?)。タロー君は足も速いし体力も群を抜いているから、プロのアスリートも夢ではないだろう。だが、ナオキの場合は本人も信じがたいミスキャスト。徒競走は後ろ向きだし、スイミングスクールの進級も超スローだった。ただ、日曜日の両親のテニスに付き合わされ、ときどきラケットだけは手にしたことがある。そんな実績だけで、タロー君に世界的と認められてしまったようだ。

一方、可哀相なのはリストラされるヒロ君。父親は郵便局員で、超安泰なサラリーマン家庭に育っている。いじめられっ子でも劣等生でもないらしい。なぜ彼がリストラされるのか不思議だが、そこは少年たちの世界。この3人の間には、ボケとツッコミではないけれど、なにかお笑い的な設定でもあるのかもしれない。お笑いや漫画の世界では、負け組もまたヒーローであったりするのだ。筋書きの先には、どんでん返しも仕組まれていたりして。
人生は筋書きのないドラマ、とも言われる。少年たちよ、10年はあっという間だよ。少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず、なのだ。などと偉そうなことは言えないけどね。
ところで光陰矢の如しともいうが、アインシュタインは、矢のような光陰をどうやって捉えたんだろうね。




「2024 風のファミリー」





アカシアの花が咲く頃

2024年05月12日 | 「2024 風のファミリー」

 

アカシアの雨にうたれて~♪
満開のニセアカシアの花の下に立つと、そんな古い歌が聞こえてきそうだ。高い樹の上で白い花をたわわにつけていて、かなり強くて甘い香りをふりまいてくる。歌にうたわれているアカシアも、このニセアカシアらしい。いつ頃から何故、ニセなどという名称が付けられてしまったのか。花にもニセモノやホンモノがあるのだろうか。

手持ちの樹木ポケット図鑑をみたら、ハリエンジュという別名も出ていた。小さなポケット図鑑だから、詳しい説明はない。エンジュというのが日本名だとしたら、炎樹とでも表記するのだろうか。空に燃え上がるように咲いている姿は、まさに炎の樹という名前がふさわしい。その派手でおおらかな咲きようは、日本古来の樹というよりは外来樹ではないかとも思われる。

須賀敦子の本を読んでいたら、イタリアの風景の中にもニセアカシアの名前が出てきた。この樹はむしろ、地中海の風と太陽にマッチしているかもしれない。
須賀敦子はイタリア人と結婚し、日本文学の翻訳などをしながら、長くミラノで暮らしたようだ。小さな家と小さな庭、狭い生活の空間を家族が取り合ったり譲り合ったりして暮らしている。そんなイタリアの鉄道員やその家族の下層の生活が、愛情のこもった美しい文章で書かれている。

読んでいるうちに、失われた日本の古い生活なども思い出されて懐かしい。雨のなかを濡れて走る男たちの話は、傘も買えないほど貧しいので、雨が降ると濡れるしかない、といった話。アカシアの雨にうたれて~♪ などと歌っている場合ではない。
だが貧しさの中に、ちょっぴり恥じらいや思いやりがあったりする。それは須賀敦子という作家がもっている、イタリア人への熱い親近感と愛情だろう。彼女の控えめに抑えた文章をたどるうちに、自然にその世界に引き込まれて共感してしまう。

イタリアでも、いま頃はニセアカシアの花が咲いているのだろうか。須賀敦子によって書かれた生活や風景も、現代のイタリアにはもうないのかもしれない。
豊かさの時代を経験したわれわれが、いま貧しさを懐かしく思うのは何故だろうか。人々が今よりもずっと近いところで、身を寄せ合って生きていたからだろうか。それとも、貧しくて叶えられないことが沢山あったからだろうか。叶えられないということは、それだけ夢があったということで、たぶん夢ばかりが沢山あったのだ。
アカシアの雨にうたれて~♪ その先が思い出せない。

     (参考:須賀敦子著『トリエステの坂道』『時のかけらたち』など)




「2024 風のファミリー」





さわらび(早蕨)の道

2024年05月08日 | 「2024 風のファミリー」

 

宇治は茶の香り。爽やかな五月の風が吹きわたってくると、自然と良い香りのする風の方へ足が向いてしまう。
「おつめは?」「宇治の上林でございます」そんな雅な風も耳をくすぐるが、まずは茶よりも腹を満たすことを考える。駅前のコンビニでおにぎりを買い、宇治川の岸辺にすわって食べた。

宇治川は水量も多く、流れも速い。「恐ろしい水音を響かせて流れて行く」と、『源氏物語』宇治十帖の中でも書かれている。麗しい浮舟の姫君は、ふたりの男性からの求愛に悩んだすえ、この激流に身を投じようと決意する。
    からをだにうき世の中にとどめずばいづくをはかと君も恨みん
 と、彼女は歌を残して消える。

せわしなく時を運ぶような川の流れは、この世とあの世との境界にもみえる。その川に架かる橋は、夢の浮橋か。
宇治十帖に登場する姫たちは、夢のように儚い。大君・中君の美しい姉妹。姉の大君は都の公達から熱い思いを寄せられながらも、ひっそりと仏の道に生きようとする。恋と信仰との狭間で悩みつづけ、ついには病に倒れてしまう。

姉の大君を亡くしたあと、ひとり残されて淋しく暮らす妹の中君を気遣って、寺の阿闍梨から届けられたのが早春の蕨(わらび)だ。そんな物語の道をたどるように、いまは「さわらびの道」がつくられている。宇治川を離れて、宇治神社、宇治上神社へとたどる木陰の道には、与謝野晶子の『源氏物語礼讃』の歌碑などもある。
    こころをば火の思ひもて焼かましと願ひき身をば煙にぞする
 静かな小道の脇で、源氏物語に寄せる晶子の熱い思いが燃えている。
さわらびの道の行き着くところに、花に囲まれた源氏物語ミュージアムがある。映像展示室で短編映画『浮舟』を観る。ホリヒロシの人形が時空を超えて、ひと以上にひとの情念を演じる。

宇治の道は、さらに山に向かってつづく。古くからの信仰の坂道をのぼると、西国観音霊場十番札所の三室戸寺がある。山の斜面に広がる境内の5千坪の大庭苑は、満開のツツジとシャクナゲで染まっている。花の群れをかき分けるようにして花の道を進む。
重層入母屋造りの本堂の奥には、神仏習合の伝統だろうか、神社社殿もある。お参りするための線香を買おうとして、その隣りにあった源氏物語恋おみくじの方へ、つい手が伸びてしまった。浮舟の情念のせいかもしれない。

恋おみくじは吉だった。
どうってこともない普通のおみくじだ。ただ、恋愛と縁談の項目だけが太字になっている。「素晴らしい縁がある。いつまでも幸せに過ごせる前兆あり」とのこと。あくまでも前兆にすぎない。恋の道だけは神様にも先が見えないものらしい。『源氏物語』のなかの和歌が一首添えられていた。
    手に摘みていつしかも見ん紫の根に通ひける野辺の若草
この歌とおみくじの運と、どのような関わりがあるのかはよく解らない。




「2024 風のファミリー」