OL主婦の小さな幸せ。

日々の出来事や小さな幸せ、お出かけ、身近なエコ、環境問題、フェアトレード、鳥のこと、アロマなどを綴っています。

雨の四国旅行その12~別子銅山・旧別子地区と東平地区の昔の写真~

2017年11月25日 | 旅行・小旅行

旧別子・旧別子山・旧別子エリア・別子銅山東延、、、
言い方は様々ですが、別子銅山発祥の地で、江戸時代の開坑から明治32年に至る208年の間、銅山の中心だったエリアです。

旧別子銅山は、銅山峰の南側に位置します。
当時山中には鉱山事務所をはじめ、小学校、病院、劇場等々があり、約4000人の鉱山集落を形成していました。
郵便局はもちろん、料亭やデパートのような雑貨店まであったという街の跡。
現在、緑が豊かになった山々には、明治の産業遺産がひっそりと埋もれています。
※新居浜市のサイトより一部抜粋。

東平(とうなる)ゾーンから銅山越え、または日浦登山口という東延に近い方からアクセスする方法とありますが、
今回はまず時間的に無理だったので、いつか生きているうちに歩いてみたいと願ってやみません。
(夫はもう行かないと言ってますが笑)

その名残惜しさから、東延エリアの画像を案内サイトから少しお借りしました。


こちらは機械場跡ということです。


圧縮機の土台だそう。


劇場跡だそうです。(小足谷劇場跡)
収容人数1,000人を超える劇場で、歌舞伎役者さんを呼んでの上演などもあったらしいです。

ほかにも第一通洞や日浦通洞・筏津坑などいくつかの坑口や、吊り橋跡(橋脚だけ残っている)、トロッコが残っていたり五右衛門風呂が放置されていたり、人々の生活の痕跡や施設の名残が眠っているそうです。
煉瓦造りの遺構は今後いつの日か崩壊する恐れもあるし、山道も現状は歩きやすいようですが自然はいつどうなるかわからないし、はやく行きたいものです。


さて、ここからは
東平(とうなる)にあった「東平歴史資料館」で撮影して来た、当時の写真です。
主に索道基地や貯鉱庫があったエリアです。
(見事なジオラマもたくさんありましたが、反射してしまうため少ししか撮れず)






社宅のジオラマ。



当時の病院。










娯楽場のジオラマ。



当時は平地の街中にも劇場なんて少なかったと思いますが、このような山中にあったなんてすごいですね~
銅山職に就く人々への様々な計らいが感じられます。











画像では何がどこだか全然見えませんが、当時の東平の一部。

私達は最後にここの資料館に入ったのですが、先に見てからの方がよりわかりやすいかもしれません。



本家マチュピチュのペルーから大使がいらっしゃったそうです!

そういえばマイントピア別子本館に戻ってから、お昼ご飯にマチュピチュカレーなるものをを食べました。




これが好みの欧風カレーで結構美味しくて!また食べたい。
(主人は普通のカツカレーを笑)

あと、このお菓子も美味しかった。

フィナンシェのような洋風の生地に、きみあんorつぶあんが入っている和と洋のコラボ。
お土産にも好評でした。


全日雨の四国旅行、帰りはゆっくり帰ろうということで3泊目は大阪に泊まり、4日目は出発するまでを大阪城散策に当てました。
城門や石垣が好きなので(石垣萌え)
たくさん撮影しましたが、多分見る人にはつまらないと思うのでアップはやめておきます^^;
そのうちまた石垣の事を書きたくなったら、参考資料として載せるつもりです。

・晴れた日に行きたい
・別子銅山・旧別子エリア東延地区を歩きたい
・新幹線のホビートレインプラレール号を見たい
・高知の鉄橋の上にある無人駅に行きたかった
等々、宿題をいくつか残して四国旅行記は終わります。
長々とご覧下さりありがとうございました。
いつの日かリベンジ記事が書けますように!


コメント (4)
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雨の四国旅行その11~別子銅山の遺構(第三変電所跡)

2017年11月21日 | 旅行・小旅行

雨の四国旅行、3日目は降ったりやんだり。
しかしながら私が最も楽しみにしていた別子銅山観光中は、ほぼやんでいました!

前回の記事、別子銅山東平(とうなる)地区の貯鉱庫跡・策道基地跡の遺構に感銘を受け、
そこからは徒歩でしか行けない第三変電所跡・第三通洞・火薬庫跡などがあるかつての東平の採鉱本部跡エリアへ。
画像多めです
(これでも大量の画像の中から厳選しました笑)



索道基地跡からインクラインを上って、駐車場から案内板に従い車道を進むと、途中から遊歩道に変わります。


登山道までは行きませんが、ハチやマムシに注意です。
雨がまた降ってきそうなので、夫が早く~と進んでいます笑。




突然、右側に遺構のような石垣!!


第三社宅跡のようです。
ここに限らずこのように広大な森の中には、数え切れないほどのまだ見ぬ遺構が眠っているのです。
(帰宅後に知った笑)



左の斜面には謎の遺構。
下の方に小さな扉があります。なんだろ~~


遊歩道を7分ほど歩くと、開けた場所に出ました。
人は誰もいません。出会ったのは、来る時に帰って行ったご夫婦が一組だけ。
マイントピア別子本館からのマイクロバスでの観光コースには入ってないので、東平までマイカーか登山で来た人しか来れない場所です。


この広場が採鉱本部跡のようです。
ちなみに前回の記事の貯鉱庫・索道基地跡の近くにも採鉱本部跡がありましたが、
ここは最初の別子銅山中心地である旧別子山東延(とうえん)から移転直後の採鉱本部だったそう。
その後、東平の貯鉱庫・索道基地近くに移転したそうです。



広場の先に、目的の廃墟建物が見えました!!


いや間違いなく廃墟^^;いい感じにガラス割れてるし・・


しかし煉瓦造りで重厚感あります。


右横に建物へ続く道がありました。




ここが第三変電所跡です!
明治37年の完成で、この近くの第三通洞の坑内電車へ電気を供給するために、電圧調整と直流変換を行ったそう。
自由に入れます。




入口前にも何かの基礎が。

この窓の画像を何枚も撮りました。








屋根裏へ上る木製の階段。
上ってみたかったけど、途中一部抜けていて壊したらやばいし、何より危険なのでやめました。
屋根裏で作業員が寝泊りしていたのかな?



長い年月放置され、ひっそりと佇むさびた一斗缶たち。



ここは隣の部屋。押入れらしきスペースがあったのでここが寝泊り部屋かな?
画像ではわかりにくのですが壁が、くすんではいるもののミントグリーンでした。現役の頃はキレイな色だったのでしょう。


かまどの跡もありました!
別子銅山跡に来て、初めて生活感ある遺構を見ました。



ここにもミントグリーンに塗られた木材が使われています。
何気にオシャレ~

第三変電所から広場を通って登山道の案内が出ている方に行くと、第三通洞という坑口があります。

この画像の左側が銅山峰への登山道。
銅山越えをすると、日浦登山口までの間に数々の遺構を見ることができます。


行ってみたい・・・


第三通洞です。
レールの跡も見受けられます。


明治27年着工、明治35年に完成した第三通洞。
鉱脈に向けて水平に1,800m掘られた運搬坑道で鉱材の運搬や排水・換気、昭和13年からは「かご電車」も運転を開始し、別子山村と東平とを行き来する人々の交通手段としても使われました。
明治44年には日浦通洞という坑口までつながり、合計でその長さは3,838m!


西洋文化を取り入れた美しい装飾。
当時のままだそうですよ~


第三通洞内部。


近くには火薬庫跡も。

火薬庫跡。坑道を再利用したものらしく、
万が一の爆発事故の場合、爆風がこちらに来ないよう入口が横向きになっているのだそうです。


ズームで撮影。手前はぬかるんでいました。

ここのエリアを見終わった後、雨が降り出しました!
まるで見終わるのを待っててくれた感じです。
「んなワケないだろ(笑)戻るよ~」と言う夫にせかされながら、もう一度振り返り、
第三変電所跡に別れを告げました。


閉山後、町を森へ還すため、ほとんどの建物が撤去され植林が行われて自然に戻りつつある別子銅山。
自然の再生力って素晴らしい。
年月をかけて産業遺産の記憶をも神秘的な雰囲気にしていく。

もう来れないかもしれないけど、まだまだ見たい地区があります。
今回の旅でアップした遺構は、まだまだほんの一部です。
別子銅山においての「東洋マチュピチュ」は東平(とうなる)だけではないということを帰宅後に知りました。

次回は「東平歴史資料館」で見た当時の写真や、少し画像をお借りして旧別子の遺構をお伝えできたらと思います。

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雨の四国旅行その10~別子銅山の遺構(東平地区)~

2017年11月15日 | 旅行・小旅行

今回の四国旅行で1番行きたかった場所。
愛媛県新居浜市別子山に広がる、283年もの間銅の採掘・生産で繁栄した鉱山都市の遺構です。
※少しですが詳細は、前回の記事をご参照ください

別子銅山は、
坑夫や住民の健康や環境を考え、公害を減らすべく新技術や設備を取り入れ、また鉱脈には限界があるため採掘・生産拠点の移動を余儀なくされました。

今回の記事の「東平(とうなる)ゾーン」は2番目の拠点で、標高750m前後の山中に大正5年(1916)~昭和5年(1930)まで採鉱本部が置かれた場所です。
最盛期には約5,000人もの銅山関係者とその家族が住み、病院や社宅・保育園に劇場までありとあらゆる生活関連設備が整備されていました。
現在、鉄道のプラットホームは駐車場に、
小学校や中学校があった場所は「銅山の里自然の家」など別の施設に生まれ変わっていますが、
今回は遺構が現存するエリアへ。
「東洋のマチュピチュ」と呼ばれています。

それは確かに、遺構と言うより遺跡のようでした。




駐車場から見えるのは、貯鉱庫跡・索道基地の上部。



天空の産業遺産の名にふさわしい風景。





横から見た風景。
観光施設側の「東洋のマチュピチュ」推しに辟易していた夫も、これには歓声をもらしてくれました。





ズーーム



インクライン(傾斜面を走る軌道)跡。
前回の記事・端出場地区から運ばれてきた生活用品や資材などは、このインクラインを通じて荷揚げされていた。
現在は220段の階段に生まれ変わっています。
ここを降りて行きます。



下から見上げる。

サイトからお借りした画像ですが、インクライン当時の様子↓↓






階段の途中右手の脇道を行き、貯鉱庫跡まで降りてきました。
遺跡感がすごい。





貯鉱庫の場所から撮った索道基地の上部。





※この画像だけ↑観光サイトからお借りしました。


索道基地跡まで降りてきました。





索道基地跡。
索道基地から索道(リフトのようなもの)によって端出場へ、鉱石や物資が送られていたそう。
これは下ろす方の一方通行で、動力を必要としなかったらしい。



上から三段になっているのがわかるでしょうか。
(最後の写真の方がわかりやすいかも)
一番上が貯鉱庫、二段目が選別(選鉱)した鉱石の貯鉱庫、一番下が索道基地。
総称して索道場と書かれることも。
ここが遺跡感一番すごい。



側面に四角い穴。
貯鉱庫に貯められた鉱石は選別され、この索道基地へ落とされリフトで運ばれていたそうなので、
選別された鉱石がここから出てきたのかな。




今回来れて本当によかった。
でも、ここまで来るのは一苦労でした(運転者が)。

マイントピア別子端出場ゾーンから車で25分くらいですが、途中から道幅が車1台分の狭さで対向車が来たらどちらかがすれ違えるスペースまでバックしなければなりません。
途中で3台くらい出合いましたが、平日だから3台ですんだのかもしれません。
※3ナンバーでは、すれ違い場所によっては無理です。
端出場から観光マイクロバスも出ているので、東平(とうなる)から帰ってくるそのバスとすれ違うこともあります。
でも先導車の軽トラがいるので、マイクロバスとすれ違うのはスムーズでした。

東平ゾーンへ行くには、この車1台分の道幅の道路をマイカーか観光マイクロバス、もしくは何時間かかけて登山道を行くしかありません。
登山道で行くと途中にも山々に眠る数々の遺構を見られるようで、元気なら歩いてみたいところですがそれはもう無理そうです。
車で行ってもらっただけ夫には感謝。
ちなみに我が家は軽(笑)。

そしてここから歩いて10分くらいの、廃墟っぷりがハンパない第三変電所跡も行きました。
そこは、観光マイクロバスで来る人はコースに入ってないらしいので、マイカーか徒歩で来た人だけが行ける場所です。
次回アップします!



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雨の四国旅行その9~別子銅山の遺構(端出場地区)~

2017年11月12日 | 旅行・小旅行

夫が今年の記念日旅行を四国と決めた時、
ビックリもしましたが同時に心の中で歓声もあげました笑
それは、、、

東洋のマチュピチュと言われる
別子銅山の遺構
を見に行けるかもしれない!(≧▽≦)いや行こう!

別子銅山は愛媛県の山岳地帯に広範囲に存在した、かつて栄華を誇った鉱山都市。
1年くらい前に知って以来ずっと気になっていたのです。
でも遠いし、生きているうちには行けないかな(大げさ)と思っていたところ、ふってわいたチャンス。

夫に頼み込んでコースに入れました!

3日目朝食後、
朝の道後温泉を少し散策して10時前に出発。
まずは観光拠点となる道の駅マイントピア別子へ。


マイントピア別子、本館です。

マイントピア別子・端出場(はでば)地区は別子銅山最後の採掘本部があったところ。
明治期~大正期に建てられた施設の遺構を残しつつ、再開発したテーマパークです。
お土産屋さんはもちろん、体験パークや温泉、観光坑道などがあります。

ここで簡単に別子銅山のことを少し。
(出発前と旅行中に仕入れた知識)

愛媛県新居浜市別子山。
広大な山岳地帯に、一万人以上の人々が暮らした鉱山都市がありました。

別子銅山は1690年、坑夫による銅の露頭の発見に始まり、1973年の閉山まで江戸・明治・大正・昭和の4時代にわたり283年もの間70万トンもの銅を産出し、日本の近代化に貢献した銅山です。

坑道は全長700キロメートル、最深部は1,000メートルにも及ぶ。
明治期には日本初の鉱山鉄道が走り
深い山々で坑夫やその家族が生活し、その町が今は森に還り眠っていますが、あちこちにその痕跡を見ることが出来ます。
(場所によって行くのにはある程度の装備が必要です)
現在は石垣や基礎が残るのみですが、
それは社宅跡・共同浴場跡・生協跡・配給所跡・保育園跡・接待館跡であったり、小学校跡・劇場跡・貯鉱庫跡・インクライン跡
登山をすればわずかに鉄道の痕跡も見られるらしい。

先程、端出場(はでば)ゾーンが最後の採掘本部があったところと書きましたが、町や本部は283年の間に2度の移転をしています。
ずっと同じ鉱脈では採れなくなるから。

江戸時代~大正5年までは旧別子地区と呼ばれる南側に採鉱本部や住宅・町の施設などがありましたが、
1916年(大正5年)、東平(とうなる)という地区に移転、そして1930年(昭和5年)~閉山の1973年(昭和48年)までを、端出場が本拠地だったそう。

閉山後には森林を復活させるため、その栄華を誇った建物などはほとんど撤去されました。
それでも基礎や石垣・石段などの遺構は産業遺産としての見応え充分です。

東平(とうなる)ゾーンの、東洋のマチュピチュへ行く前に
私達は観光坑道で別子銅山の予習をするため、鉱山鉄道乗り場へ(切符売り場は1階・乗り場は2階)。


ちょうど発車時間で、かわいいヤツが待っていました。




実際に走っていた機関車の、これは82%に縮小して復元したものだったと思います。
これに乗って、当時のままのトンネルや鉄橋をのんびり走ります。
ちなみに別子銅山の鉱山鉄道は、日本で最初の山岳鉱山鉄道。



駅を降りて少し歩くと、観光坑道の入口が見えてきます。
渓谷の風景もなかなかでした!


旧火薬庫を利用して作られた観光坑道。
江戸から近代までの別子銅山の様子を模型やジオラマで学んだり、体験ゾーンもあったり。



夫がどんどん進んでいきます。


江戸ゾーン。模型がわりとリアルでわかりやすい。

近代になって電気が通るまでは、サザエの貝殻で作った明かり取りを手に(手が熱そう・・)。
そして削岩機を採用するまでは、ノミとカナヅチで岩を砕いて(気が遠くなる・・)。



銅の精錬作業。

このほかにも、たくさんの模型があります。

近代ゾーンのジオラマ。向こう側には階段があり、上からも見られます。

明治時代の鉄道が敷かれた頃。


地味ですが、すごくよく出来ていて見応えあり。



機器類・道具の展示なども。


体験パーク。夫が何個かチャレンジしていました笑。

削岩機。


汲み上げポンプ。
採掘すると湧水が溜まるので、江戸時代は汲みあげていた。
模型がありましたが実際はもっともっと長いです。
これすごい重い!と夫が言っていました。


帰りは鉱山鉄道には乗らず、歩いて遺構を見て戻りました。

上から観光坑道入口を臨む(出口だったかも・・)



鉱山鉄道で渡った橋。塗り替えられていました・・


登録有形文化財です。
「足谷川橋梁」ともいいます。


第四通洞。

大正4年に貫通した延長4,596mの通洞。
その後、最終的には全長約10,000mの大通洞になり、坑夫の入出坑や鉱石輸送の大動脈となった最後の水平坑道。


四通橋。第四通洞に続く橋で、ここを多くの坑夫が通って入出坑したそうです。





通れません。柵の隙間から撮影。
トロリー電車も走っていたそう。


反対側に回って、四通橋から第四通洞へ続く風景を撮りました。


鉱山鉄道に乗った時に通ったトンネル。

端出場隧道(中尾トンネル)※登録有形文化財。
実際に使われていたトンネルです。


ちょうど鉱山鉄道(電車)が^-^

マイントピア本館に戻って来て一息つく暇もなく、次は車で25分ほどの東平(とうなる)地区へ!
標高750mの山中に残る数々の産業遺産を見に行きます。


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雨の四国旅行その8~夜の松山・道後温泉~

2017年11月09日 | 旅行・小旅行

雨の四国旅行、2泊目は愛媛県松山市道後温泉のホテルへ。

夕食後、街中を散策しました。


20年前に来た時はここが観光客でごったがえし、
お風呂は芋の子を洗う状態だよ、とタクシー会社の方に言われたので諦めた覚えがあります。


この日は閉店まであと1時間ほど。急げば入れそうでしたが、おなかいっぱいだったので・・。




ライトアップがキレイでした。


坊ちゃんカラクリ時計。



丸ポストと路面電車のコラボ。


伊予鉄道・道後温泉駅です。

商店街もレトロな風景を探してウロウロしました。

この看板が昭和度高し。


のれんかと思いきや、本物の五色そうめん!


ここにも丸ポスト。


主人は、もっと早く到着して夕食前に温泉に入りたかったそうです。
「宇和島駅」に寄ったり、「海に沈むレール」や「下灘駅」で時間を取ったため、ホテル着が遅くなったので叶いませんでしたが、次回の楽しみということにしてもらおう。。。

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雨の四国旅行その7~予讃線・下灘駅~

2017年11月07日 | 旅行・小旅行

雨の四国旅行2日目、海に沈んでいくレールを見た後、日没ギリギリに予讃線「下灘駅」へ到着しました。
ここへ来る直前に知ったのですが、ドラマのロケやJR青春18切符のポスターに使われたりと、わりと有名な駅だそうです。
特に夕暮れ時は撮影者で混み合うらしい。



駅開業の1935年(昭和10年)という古い木造駅舎。
風情があります。
駅舎内も周りもキレイにされていおり、無人駅特有の温もりが感じられます。

予土線や予讃線の無人駅めぐりもしたかったけど、今回は真土駅とここ下灘駅だけで我慢。



平日のせいか、先客は7~8人ほど。
もうすぐ日没です。







ふと下を見ると、駅舎側に元プラットホームらしき痕跡が。
この駅は元々、駅舎に面した1面1線と、海寄りに島式の1面2線と計2面3線あったのだそう。
現在は1面1線なので、ホームを残して線路の部分は埋められたんですね~(向こうの方が一部畑?になっている)。

下の国道が出来る前は、海がホームの間近にあったそうだから(国道は海を埋め立てて作られた)、国道が開通して電車の利用客が減って、ホームや線路を減らしたのかな。
本来の役割を終えたホームの白線が物悲しいけど、
でも今、カメラを構える人々で賑わう日もある。
無人駅にも歴史あり、です。

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雨の四国旅行その6~とある海岸~

2017年11月05日 | 旅行・小旅行


2019年3月追記。
当記事の画像が「私有地に侵入した」と誤解を与えてしまったようで
実際は侵入はしておらず橋の上から海面を撮影したのですが、海面が私有地と見られる付近の為、
そして不快に思った方がいるのは申し訳ないので画像のみ削除しました。ご迷惑をおかけしました。



今回の四国旅行で、どうしても見たかったものが3つありました。
ひとつは前回記事にした「0系新幹線のホビートレイン」
見られなかったけど^^;

2つ目は。

たまたまネットで見た「海に沈むレール」。
自然と人工物の幻想的なコラボでした。

2日目、足摺→四万十川→宇和島→次の宿泊地・愛媛県松山へ向かうルートに立ち寄り先として入れました。

何しろ画像しか情報がない。予讃線「下灘駅」の近くであることは判明したもののどこなのか・・
ないに等しい情報と衛星写真で探しました。

既に17時をまわっています。日が沈む前に下灘駅にも行きたい。

ところでこの少し前から、雨がやみました。
2日目は4日間の中でも1番雨が弱かったのですが
宇和島では降っていたので、ここでやんだことは天の助けかと思った(大げさ)。

「夕やけこやけライン」という道路で
衛星写真で探した、とある橋の上からのぞいたら、、、



ありました!!


まるで海に沈んでいく線路のようです。
船を引き上げるレールだと、あとで義父から聞きました。
連日の雨がなかったら、海がもっときれいだと思います。



雨もやんで、ちゃんと見られてよかった!

この後はすぐ先の「下灘駅」へ。



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雨の四国旅行その5~見られなかったホビートレイン~

2017年11月02日 | 旅行・小旅行

3泊4日の四国旅行2日目の午後、足摺岬→四万十川→予土線沿いに出て宇和島駅までやってきました

夫が四国に行くと決めてから、そればらば!と事前に調べておいた15:35発のホビートレインを見るためです。






これこれ!新幹線の「0系」を模したホビートレイン「プラレール号」。
テレビで見た時から
「なにコレ!1両の新幹線!」
「しかも四国は新幹線走ってないし!」
「しかも顔は取ってつけたように元の電車見えてるし!」と
ツッコミどころ満載のこのかわいい電車を、是非間近で見たかったのです笑。

しかし・・・

「15:35発の新幹線のホビートレインが見たいのですが、入場券を買えばよろしいですか?」
駅員さん「あ・・・」
「そろそろ入線しますよね♪」
駅員さん「それが・・今日は検査の日でして、お知らせはしているのですが・・申し訳ございません・・」
「!!!」(おそらく愕然とした表情・笑)


↑なんと、この表の「×」の日でした↑

私の落胆ぶりを見かねて、
駅員さん「えーーと他にかわいい電車はですね・・汗」
「あ、いえいえ!大丈夫です!調査不足でした」
駅員さん「あ・もうすぐ海洋堂のホビートレインが来ます!」
「あ・・さっき真土駅で偶然出会いました・・」
駅員さん「そうでしたか・・汗」
「でもせっかくだから入場券買いますね♪ありがとうございました!」

バカだ・・おバカ過ぎる・・
予土線のツイッター見たらちゃんと書いてありました^^;


入場券を買って構内へ。
ベンチが電車の形~^0^


南予産のヒノキで作っているらしい。


普通の予土線もかわいい。


海洋堂のホビートレインが来ました。
さっき(前回の記事)真土駅で見たやつです!
私達先回りしていたということですね・・








海洋堂ホビートレインの車内。

新幹線のやつも、一部新幹線のシートが使われていたり、狭いながらも模型の展示もあるんです。


そして新幹線のホビートレインですが、
四万十川沿いの「道の駅よって西土佐」にあった予土線のジオラマにもありました。

本物は見られなかったけど、ジオラマの模型だけでも撮っておいてよかった・・


ここのジオラマがすごくて!
しばらく見てました。(10枚くらい撮った)


ホビートレイン・0系新幹線プラレール号、次に私が四国へ行ける時まで走っていますように!笑

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雨の四国旅行その4~予土線真土駅と海洋堂ホビートレイン~

2017年11月01日 | 旅行・小旅行

四国の鉄道には若い頃から興味がありました。

伊予と讃岐を結ぶ「予讃線」
伊予と土佐を結ぶ「予土線」
土佐と讃岐を結ぶ「土讃線」
ほかにも徳島線や高徳線など大小様々あります。

このうち土讃線は20代の時の四国旅行で崖沿いを走るところを見たことがあって、感激しました。

今回ロックオンしたのは予土線です。

いつもの旅行のように無人駅めぐりする時間は持てなかったので、四万十から宇和島へ向かう道路に沿った区間の、一駅だけ降りてみることに。

それが「真土(まつち)駅」。


駅へ向かう道(右側は自転車置き場)。



待合いスペースだけかな?










裏手に待合室がありました!



レトロなベンチ!わりといっぱい座れるなぁ・・^^;
らくれん牛乳とは四国の会社でしょうか。

そうこうしていたら踏切が鳴りだして、
なんと電車が来た!(想定外)



しかもなんか派手!!



海洋堂のホビートレインだ!
これ1日2本くらいしか走ってないんですよ。
実は別のホビートレインが見たくて、宇和島駅に向かっている途中、ここでこのホビートレインに出会ってしまったのです。
(海洋堂のはノーチェックだった)



かっぱうようよ号」。
なんでも四万十町にフィギュアメーカー海洋堂のミュージアムがオープンした平成23年から、運行しているらしい。
(帰宅後調べた)
そういえば海洋堂カッパ館というのがあった。

このホビートレイン、あとでもう1回出会うことになります・・



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