うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

ちょっとこまる

2022年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム
つけ麺の店ですがこれはふつうのやつです。ふつう盛りをたのんだと思ったのに、なぜか大盛になってました。レシートみたら大盛でした。なんでやねん。
おいしかったけど。

・という前振りはべつにそんなに困った話ではありませんが。

昨日の在宅勤務では前半自宅、後半実家に移動して執務しました。

9月以降、どうも体調がいまいちで、家にいても書斎はほとんど使ってなかったのですね。。しばらく使わない間に物置的な状態になっていましたが、一応片付けて仕事開始。

ちょっとCDでも聞くかと思い、トレイに入れましたが。。

音が出ない。

というか、まずTOC (Table of Contents 目次のようなもの)を読み込めないのですね。何を入れてもCD 0分0秒と表示されてしまう。トラックもわからないから、再生開始できない。だから、CDクリーニングディスクも使えない。

なにせ16年前に買ったものだからな。。

早いですねえ。。
あのとき、コジマ電気でONKYOと比較して、何日か悩んで店員と相談して、ちょっとだけ値引きしてもらって、自転車で持って帰った。これが意外とかさばって重たくって難儀したのですが。。

・・とにかく困った。

わりとこの手のものはすきなので、買い替えるにやぶさかではないのですが、急な出費は。。

どうせ安いものしか買わんのですけど。
リビングにあるフルサイズのコンポも安物です。

なんか、”ハイエンド”のものは照れるというか、妙に遠慮したくなっちゃうんですよね。。
カメラもそうです。ふつうのやつのほうが好きなんです。
さいきんはそういうのが少なくて困るのですが。。

あと、目先の出費として、プリンタの買い替えを考えてたというのもあります。

10年持ちましたが、ディスク印刷がもう駄目だというのは前に書いた気がします。
春からPCとか車とか買ってたので、少し間をおくかと考えてて。。

・・それで、午後は実家で仕事していたのですが、夕方終わって戻って、なんとなく胸騒ぎがしたので、もう一度試してみたら、動きました。
なぜか動くような気がしました。。

とりあえずいいか。

ちなみに右のうさぎカレンダーは、こんな形のやつなのでどうも捨てがたくて、飾ってあるというやつです。2020年のです。左にちらっと見えるのは2021年のです。2022年のはコンポの上にあります。

もうひとつ、久しぶりに書斎に入って気が付いたのですが、本棚が重みに耐えかねてこんなになっていました。。
そんなに重い本置いてもいないのですがね。。

下に見える電車はティッシュの飾りキセです。なんだか地震で陸橋が崩れて押しつぶされたキハユニ17みたいですね(わからないってば)。

棚板は余っていたので、取り替えて修復しました。
上の本も一部入れ替えました。

割れた状態の写真の、右端に「・・ライフ」と見える白い本は、昔行った岡崎京子個展の図録です。
岡崎さん、お元気でしょうかね。。

困ったといえば、あした支配地域併合しちゃうんですかね。。一応引き続き戦闘を続けるといっているけど、これで手じまいするとか宣言したら、宇国と西側、どうしたらよいのかしら。宇軍が反撃したら、自国への攻撃ということで戦術核使って。。しかし、ほんとうにやったら放射性物質なんか、すぐモスクワ近郊まで行っちゃう気がするんですけどね。。もちろん支配地域なんか直撃でしょうしね。。・こりゃわからないですね本当に。
ちょっとこまるどころじゃないということで。。
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けいび

2022年09月27日 | 社会・経済
例の行事もどうやら無事に終わったようです。

街を歩いて警官の姿が目立つようになったのは、先週末くらいからだったと思います。今日はここいらでも道、封鎖とかやってるみたいでした。

オフィスから下観ると首都高が見えるのですが、ふだん渋滞してるのに、まるで車がいなくなりました。これ、この2年の間には何回か経験しましたが、今回は長かったようです。
一般道にもバリケード作ってたみたいですが、ほんとうに止めたのかは不明です。そんなにずっと見ていなかったので。

別に出歩く仕事でもないので、それ以外は変わりはなかったです。
まあとにかく、何事もなくてよかった。警備その他運営に携わった皆様、お疲れさまでした。

あと色んな意見をお持ちの方々も、何か持って歩いたり何か言いながら歩いたりと、いろいろとお疲れさまでした。。
・・テレビ見ていると、いろいろと動員しないといけない国なんか、道で抗議活動すると警官隊が寄ってたかってぶちのめしてますからね。。頭、蹴ってるもんね。鈍い音がして。痛そうだよなあれ。。

とりあえず日本はものが言えますからね。よかったです。

いろいろと大変でしたが、これで少しずつ静かになるんかなあ。
ここんとこ、休み中なんかも体調いまいちで、ニュースやSNSの情報がしんどかったんですよね。。ついった~とかはうさぎと鉄道と車だけ出てくれればいいんですけど。。
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再会する季節

2022年09月25日 | 記憶の断片
 世紀が改まってすぐのころ、ある企業の面接を受けた。
2名の担当者が出てきて話をしたが、やがてその二人が、会わせたい人がいる、といって部屋を出て行った。

やがて扉が開いて入ってきたのは、2年ほど前に退職して別れた昔の上司だった。。履歴書を見て僕の名前を見つけ、呼んでくれたらしい。

あのときは驚いたが、今思うと2年しか間が空いてなかったんだな。。とはいえ広い世の中、たとえ数か月でも会えない人には会えないのだが。

 春からこの人と仕事することになった。
いちおうお世話になった人なので、こちらはタバコ吸わないのだがちょっと付き合えと言われると、最初のうちは一緒に外に出たりした。

そしたら、隣のビルからやはりタバコ吸いに出てきた人がいて、この人が数年前まで一緒に働いていた同僚だった(上司とは違う会社)。
すごく偶然なのでお互いびっくりした。その人も転職していて、行った先が隣のビルにある会社だったのだ。もちろん元の会社とはぜんぜん違う場所だ。
その後も時々外で出会っては、挨拶したりした。

 入社して数週間したころ、廊下かエレベータのところにいたら、声をかけられた。振り向いたら、新人の頃お世話になった、業務部長の方だった。
僕の退職後に当時の同僚から、なにかの業務事故の責任を取って、退任されたと聞いていた。その頃既にベテランの方だったが、その後も頑張って求職活動されて、この会社に契約社員として働くことになったのだという。
この再会には驚いた。最後にお別れしてから6年ほど経過していた。

この方はその後、役員にまで昇進されて、退任後もしばらくお仕事を続けていた。再びしばらく、お付き合いさせていただいた。

 新人オリエンテーションか何かで、同時期に入った様々なポジションの人が集り、自己紹介とかした時だったと思う(定かではない)。終わってわさわさしているときに、声をかけられた。
僕よりは少し若手の女性だが、どこで会ったか思い出せない。
すると、「ほらあの、少し変わった掃除のおばさんがいて・・」、という話をする・。

!!

むかし、よくしゃべる掃除のおばさんがいて、なぜか社員によく話しかけてきて、おはぎとか作ってみんなに配ってくれたりしていたのだ。あのときの。。そのおばさんが声をかけてきた中に、僕もその子もいたのだが、職場での部署はお互い違うところだ。共通項はおはぎもらったりしたこと。。

この方も契約社員として採用されたそうで、しばらくの間廊下で出会って挨拶したりしていた。

 冒頭の上司とは、その後も時折一緒にお昼を食べていた。
時には少し離れたところにある、ひじょうに大きな会社の入居するビルで食事することがあった。

ある日、そのビルに向かうべく歩いていると、向こうからどこかで見た男が近づいてくる。どちらからともなく、おお~!となる。これまた前の会社の同僚だ。「おれ今、XX(くだんのひじょうに大きな会社)にいるんだ」、という。
たしかに、その会社に向かって歩いていたのだが、出会った場所はその途中のふつうの道である。なんたる偶然。。

 油絵の教室に行っていた。
先生も、生徒たちもだいたい同じくらいの年配の人が多くて、よく終わった後おひる一緒にしたりしていた。

ある朝、会社のビルのホールでエレベータを待っていた。
女性が来て、ああ、おはようございまぁす、みたいな挨拶をした。ほかにも数人人がいて、一緒にエレベータに乗る。

・・・・?

その子がさきに降りたか、自分が先だったか忘れたが、一人になってから気が付いた。仕事関係の知り合いじゃないや。油絵教室の子だ!!

 大昔、友達と沖縄に行ったら、その友達の友達と偶然出会って、ダブルデートみたいなこと、したことある。それは自分の(知人という)話じゃないけど、この会社に入ってしばらくは、昔の知人と突然再会するという経験が本当に多かった。

 人生ってそういうものなのかしら、と、その頃は思ったりもしたが、その後、誰かに偶然に遭うなんて経験はあまりない。
 今思うと不思議な気がする。
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台風到来

2022年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
当地では結局暴風域とはならず、3日間雨が降ったりやんだりの日々でした。
朝はつかの間の晴れ間で、朝焼けがきれいでした。写真よりも少し前は、風景がピンク色だった。

朝涼しかったかどうかあまり覚えていませんが、たしか蒸していたものの、暑くはなかった気がします。

日中はひどい雨の時もありましたが、オフィスの中から目の片隅に映るだけ。相変わらず忙しい。
そのうち台風も温帯低気圧になってしまいました。

夕方、社を出たら意外と涼しいので驚いた。夜車を出した時は、19度。半袖が寒かったです。

シルバーウィーク後半も、雨続きみたいですね。。
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台風前

2022年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム
台風の被害に遭われた皆様、お見舞い申し上げます。
当地で台風の影響が強まるのは火曜日になるといわれていますが、どうなることでしょうか。。

3連休中、土曜日はなんとかお天気持ちましたが、日曜は雨。今日も生暖かい風が吹き、時折強い雨が降っています。
午後に入って、雨に変わり強いひざしが降り注ぐ感じになりました。

僕はここのところずっと体調がだめなのですが、今朝は腰がまたいたくなって、寝ておりました。ものすごく贅沢なじかんのつかいかた。

本読むのもどうもかったるいし、映画も見るのめんどくさいな。。
ややうつっぽい・。こんなときはお気楽に・・。

本文と関係ありませんが、前回の記事のために用意しながら使いそびれた、安田講堂の写真。'98年、油絵教室の野外演習で訪れたときのもの。この建物は書かず、キオスクの絵を描いた記憶があります。

光が当たって埃っぽいですが、車の積算距離が2222kmになった記念。
2か月で2千キロなのは、自分的にはハイペースですが、最初の旅行が長かっただけで、今はそんなに走っていません。
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世代

2022年09月17日 | 社会・経済
1週間以上経過したのでもう見逃しも見られなくなったけど、先週NHKで東大安田講堂事件のことを取り上げていた。
(これ初回放送は2月だったんですね。。)

この番組についてらくちんさんがコメントしている。
自分たちが大学生になった頃、学生運動というのは基本的に存在しなかった。あの、独特の書体で書かれた看板は見たことがあるから、誰かやっている人はいたと思うが、知り合いにはいなかったな。

学校で習う歴史というのは近代、現代史の場合大体大二次大戦終結、朝鮮戦争~冷戦、日本の高度成長ぐらいがせいぜいで、自分が生まれたころ~物心つくぐらいの出来事はまるで分らないということの方が多い。今の学生さんたちは習うのかもしれないが、文化大革命などは、ほんとうに何のことかぜんぜん知らないで生きてきた。昔はwikiなんてなかったし、知りたければ図書館や本屋に行かないといけないし、そんな何でも書いてある本などそうはなかったのだ。

なので、らくちんさんは東大安田講堂事件について、若いころから色々知っていたようだが、僕などは批判するも何も、なにか昔大騒ぎしていたらしい、ぐらいしか知らなかった。

そういう人たちを全共闘世代と呼んでいいのかよくわからないが(より一般的には団塊世代かな)、あの時代の人たちは、とにかく変わっている(向こうはこちらのほうが変だと思ってるかもしれないが)。

もちろん、色んな人がいるのだが、例えば今も時折テレビに出たりしている鈴木正文さん(元雑誌編集長)は慶大の学生で、安田講堂事件に関わって逮捕された経歴を持つ。自動車雑誌なのに核実験反対運動を記事にして自らも参加したり、執筆した記事の端々に社会運動家的な片鱗がいろいろ見えたりと、非常に世代的な特徴がよく出ていた。

同じ流れで作家の矢作俊彦さんも、作品にそういう片鱗が時折顔を出す。長編「あ・じゃぱん」とかも、どこか学生運動的なコンテクスト(ひじょうに乱暴な書き方ですが)が感じられる。

名前は出さないがやはり戦後間もない生まれの写真家の方も、文章を書かせるとそういう世代的な色の濃い書き方になる。雑誌の記事とかは編集さんが直しているのか、そんなに目立たないが、自身のブログや、特にSNSなどは特徴がよく出ている。

村上春樹さんは、たぶんそういう学生運動とかとは無縁だったとは思うが、時代の影響は確実に受けている。作用があれば反作用が生じるのだ。比較的近年の作品では「1Q84」などは、正面から過激派を取り上げている。

だけど、吉田拓郎さんは(年齢的には少し上だけど)、あまりそういうにおいがないんだよな。。昔は色々いわれたらしいけど、その辺は見事というか。。



ほんの20年ほど前まで、職場には彼ら世代の人がたくさんいた。さらにさかのぼると、自分たちの親くらいの世代の人も社内にいたが、そういう世代に比べると彼らはより現代的というか、昔の日本を引きずっている感じが少なかった。
その頃の印象では、上の(自分の親ぐらい)世代と、団塊以後の世代(~自分たち若手)の2区分ぐらいに感じてもいた。
べつの視点で言うと、演歌/学生服の世代と、洋楽/ジーンズの世代、というかんじかしらね。。

今は上のどちらの世代も引退して、いつのまにか自分たちが社内でももっとも上の世代になってしまった・。そういう、今の立場で彼ら(団塊のひとたち)を見ると、昔はそんなに感じなかった違和感を感じるようになってきたことに気が付く。

なんというか、あの学生運動でヘルメットかぶってマスクみたいのをして、メガホン使って「我々はぁ、この暴挙を指弾しぃ、粉砕しなればぁ」という感じを、今日まで引きずっているような人が多い気がする。。

そういう、世代に共通する経験は、その後の世代、すくなくとも自分たちにはないと思う。各自が夢中になったことや、時代のムードみたいなことはあったし、それを懐かしく思う素地はあるが、それぞれの思いが重なっても一つのカラーにはならない。

必ずしも全く悪いことではないが、たぶん若いころのそうした経験が、とても楽しく充実していたのだろう。若いころやった手法に満足し、それで終わってしまっているようだ。

学生運動が先鋭化し、やがて暴力に訴えるようになったことは、その後の社会に重い悪影響を及ぼした。

戦前の軍国主義は終戦とともに強く否定され、平和的な国家として話し合いと秩序を重んじる社会に生まれ変わった。
学生運動も、最初は議論をするところから始まり、最後は凄惨な暴力で終わっている。しかし、こちらのほうは軍国主義と違い、「閉じて」いない。暴力を否定し、建設的な議論をする、という方向にはいかなかった。
景気の良いころは現世を楽しむことで、その後は不満を鬱屈させることで、解決を先送りしているだけだ。

先の番組でも、当時学生だった方々は過去を批判的には見ていないようだった (暴力に走った事を批判した方はおられたが)。なにかを前に進める、方向を模索する、という努力は、彼らのあたりで止まってしまったように思う。
今日の日本のおかれた状況は、そのあたりに遠因があるのかもしれない。



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ださい

2022年09月15日 | カメラ、写真
先日書いたように、京都のホテルを出てカメラ片手に御所のあたりを歩いていて、カメラケースを落っことした。
ケースは純正ではなく、マンフロットのよくあるやつだ。

帰宅して買いなおすか、と思い、戻って探すことはしなかった。

家で購入履歴を確認してみたが、該当製品は今在庫切れとなっていた。

なので、改めて”GR2 ケース”で検索した。いくつかヒットしたのでとりあえず注文した。

で、さっきから写真に写ってるこれがそのブツ。革製でつくりは特に悪いわけではない。

良くもない。なにしろ1,785円なので、文句が言えないだけだ。

買う前からん~、とは思っていたのだが、来てみるとやっぱり、なんというか、ださい。

GR専用だから、レンズのふくらんだところにGR、なんて書いてあるのだが、いいじゃんそんなの知ってるよ、といいたくなるというか・。
これ、仕舞う方向が決まっている。カメラのグリップとは反対側から入れていって、写真右に見えるケースの半円状の部分がカメラのレンズのふくらみにあうように収納される。グリップは蓋の付け根側だ。取り出すときはグリップを持って出すわけだから、それは理にかなっている。

ただ、僕はこれまで(上の写真のように)ハンドストラップをグリップとは反対側につけていた。右手でカメラをつかむときに、邪魔にならないようにするためだ。これも理にかなっていると思う。

ところが、これだとケースに入れられないのだ。ケースはカメラボディにぴったりはまるようになっているから、ストラップがあると邪魔になってしまう。
仕方ないから、グリップ側にストラップを付け替えた。
*もっとも、純正革ケースでもグリップ側にストラップをつける仕様らしい。

ちなみにストラップはカメラ付属のものではなく、純正オプションの革製です。ここにも”GR”とか、書いてありますね。。

ケース自体にもストラップがついていて、首掛けもできそうだが、一回つけてすぐやめた。かさばるのがいやなので。

なので、なんかいまいちなのだが、しばらく使ってみるか。
そのうち慣れちゃうかもしれないし。




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京都公演

2022年09月12日 | 旅行記
音楽団体の、京都での初公演を手伝うため、土曜日曜と京都に行ってきました、
最初は前日に現地入りし、京都鉄道博物館とかを見学して、日曜も知人の接待で観光する予定でした。が、家の用があるためにすべてキャンセル。
土曜に直接会場に行き、翌朝帰るという、最小限のスケジュールとなりました。

会場受付と、舞台の撮影(静止画)を担当しました。
動画撮影は現地の、知り合いの方がやっていました。この方が割と神経質な万事周到な方で、客席の床がやわで揺れることをとても気にされていました。

ので、動画も静止画もだいたい同じ、客席後方から撮影するのですが、こちらは遠慮してやや後ろに三脚を立て、撮影者はさらに後ろの客席付近に立つことにしました。ひな壇式の客席ですから、三脚(SLIKエイブル300DXという、一応一眼用の丈夫な奴だが入門用)をいっぱいに広げても(シートピッチの関係で制約あり)撮影時は中腰にならざるを得ない。

腰、やられました。
ぎっくりと違うから、動けなくはないけど、終演間近の頃にはへろへろ。

動画さんの機材、すごかったな。LumixSシリーズ、4台ぐらい使って、外付けのモニターとか接続して、ヘッドフォンしながら撮影してた。
なんかはいま~すとか、飛びそう。。

ホテルは御所の近くでしたが、朝外に出て最初に目についた神社が、足腰のお守り云々とあったので、お参りしました。そこが唯一京都で寄った神社です。

御所は横を通っただけ。
ここでGR2のカメラケース(中に予備電池)を落としました。
地下鉄の駅で気が付いたけど、ゴロゴロ引っ張って疲れてたし、戻ることはしなかった。

というわけで、いろいろと疲れました。。
珍しい経験だから、気分転換にはなったけど。
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HM Queen Elizabeth II

2022年09月09日 | 社会・経済
昨夜9時台のニュースのとき、速報で容態を懸念、と報じられた。ほんの少し前にトラス新首相の謁見の様子が紹介されていたので、驚いた。
寝る前に、あしたになったら、いいニュースが聞けるといいなあ、と思いながら、なんとなくビートルズのHer Majestyを思い出していた。
Her Majesty is a pretty nice girl
But doesn't have a lot to say
・・
I wanna tell her that I love her a lot・・
Someday I'm gonna make her mine

最近の女王の姿をテレビで見ているから、なんとなくかわいいおばあちゃんという印象があるが、昔は素敵な美人で・。でも、ポールのママぐらいの年なんじゃないかな、と考えていた。
あのLP後半のメドレーのこと、すっかり忘れていたけど、ゴールデンスランバー、キャリー・ザッツ・ウェイト、そしてハー・マジェスティでしたね。。アビー・ロード、ですね。

王室は国政にかかわらないとはいえ、この70年の間にはスエズ動乱とか、旧植民地の独立、アイルランド、通貨危機、さいきんではEU離脱など、英国自身が大変な時代でしたし、王子やご家族のことでも、いろいろ心を痛めることも多かったのでしょうね。。

長い間、ありがとうございました。
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円高

2022年09月07日 | ビジネス
こういう話はもっと年配の方の方がよくご存じかと思いますが、昔は対ドルのレートは360円に固定(基本)されていました(こどもでも知識としては知っていました)。51年前のドルの金兌換停止から、為替の概念は短期間で非常に大きく変わりました。為替相場が日々変動するなんて、当時の人からしたら、家から駅までの距離が日によって1キロだったり、2キロに増えたりするような、奇妙な感覚だったのかもしれません。。

子供の頃、模型で張り子の山を、古新聞で作りました。新聞ですから記事が書いてあるのですが、そこに円高が進んで1ドル270円台を割り込んだ、みたいなことが書いてあったのを覚えています。1ドルが200円台半ばというのは、おおきくなって世の中の様子がわかるようになってからも変わりませんでした。
でも輸入盤のレコードなんか、国内プレスのよりしっかり安かったですね。

プラザ合意のときはまだ社会に出ていませんでしたが、その後為替を扱う仕事に就いた頃も、結構短期間で20円ぐらいドル円レートが動いたりしていました。
最初に仕事を教えてくれた人は、東銀(今のMUFG。外為を専門的に扱うやや特殊な銀行だった)出身の方でしたが、数字を例示して説明をするとき、ドル円レートを当時の相場より100円高く(260円)書いて、しばらく気が付かずにいたのを覚えています。

だいたい90年代の前半ぐらいになると、ドル円は100円~130円ぐらいで安定してきたような記憶があります。たしか94年に100円になって(想定レートを100円にして、その通りになった)95年の阪神淡路大震災後に一時期89円でしたっけ・。大地震=円高なんですよね。。

因果関係はありませんが、その頃ドル円レートとガソリン1Lの小売価格はだいたい同じだな、と思ってたことがあります。120円ぐらいかな。先物相場の話じゃないから、相関なんかありません。ただ似てるだけ。あの頃WTIが20ドルとかでガソリン小売りは120円ですからね。。今原油は100ドルぐらい、ガソリンは日本では補助入れているから160円ぐらいですか。
たしかこの春に欧州では300円/Lぐらい、と言ってた。この国はなんでもゆるいんですよね。。海外はインフレ過酷。

80年代、急に円高になったとき、企業のしかるべき立場の人たちは、それは苦しかったと思います。
その頃観たドラマで、下請け工場社長の鶴田浩二が「みんなこの先大変だ、って言ってるけど、今まで大変じゃない時なんか、なかったじゃねえか」と、昔の戦友で今は車メーカーの社長と語り合う、なんてのを覚えてます。そうやって、一緒にアメリカに進出するという筋書きだったかな。。

前にも書きましたけど、インフレも為替の急な変動も、昔の人は経験して苦労しているのです。平成30年間でだいぶ平らになってたので、今社会で現役の人たちはそれを知らないのですよね。もちろん若い人たちも。

だから、もしかしたらこの先、つらく思うこともあるかもしれないけど、長い目で見れば、苦労経験したのは自分たちだけじゃないのです。。

・・、なんか鶴田浩二さんの話書いたら、急にドラマ見たくなっちゃったな。
特攻隊崩れで、黙々と旋盤に向かって働くわけです。
今はいないねえ・そういう男。

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ふと

2022年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム
多忙、家のことその他が重なったせいかと思いますが、ふと、記事が書けなくなりました。ちょっと心がきつい。

社会のニュース自体、けっこうストレスになりますが、ネットではこれに個人の社会批判がいろいろ。。ふだんはそんなに気にしてませんが、気持ちが弱ってくるときついですね。。

週末用務で出かけますが、+アルファのお楽しみ、みたいなのを用意していただいていたのを、辞退しました。

でもなんとか。。今日は蒸し暑いけど、時折朝夕さわやかな風に吹かれると、この国の自然はまだどうにか、穏やかさをを保とうとしているんだなと、少しほっとしたりします。
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戦中派不戦日記

2022年09月02日 | 本と雑誌
山田風太郎 講談社文庫(電子版)

最初の刊行は昭和46年番町書房から。作家山田風太郎氏の、昭和20年1月1日から同年31日までの日記。当時山田氏は23歳で、東京医科大学(当時東京医学専門学校)の学生であった。医学生であったため徴兵は免れており(検査は受けたが病気のため入隊できなかったよし)、昭和20年は東京目黒、学校が疎開してからは長野県飯田で過ごす。終戦後ほどなくして学校も東京に戻り、年末は豊岡の親戚の家で過ごす様子が描かれている。

山田氏は刊行に際し、もとの文章に手を入れたり、現時点での注記を入れたい衝動にかられたという。年代を経て自身も変わり、読み返すと「日記中の自分は別人のごとく」感じられたという。
それは、社会の変化という理由だけではなく、一般に誰でも感じることだろう。僕自身20代の頃と今の自分が、同じ感覚でものを見ているとは到底思えない。

世の中の情報は、ラジオや新聞を通じて、かなりつかんでいたようだ。通信技術は今とは比べ物にならないが、昔は人とのつながりが密であったようだ。列車内で見知らぬ人が交わす雑談にも耳を傾けている。

降伏受諾はかなり受け入れ難いことであったようで、終戦間際には友人と徹底抗戦を語り合って夜を明かしたりしている。敗戦後秋になっても米ソ両国に立腹し、いつかは報復すると繰り返し書いている。戦中の、神がかり的な歴史教育には違和感を感じているが、全体に日本の国家精神を独自のものと考え、国家間の優劣を強く意識している。

改めて言うまでもないが、日本がひとつの国として、今もこうして存続しているということが、本当に奇跡のように思えることがある。国ごとに歴史上の節目はそれぞれあるから、日本だけが特殊な経験をしたわけではないが、こうして振り返ってみると、少し思うところはある。
・・こんどまた試練が訪れたら、どうなることやら。

空襲で焼け出されている。住むところがなくなり、知り合いを頼って山形に疎開。地方は別天地で、温泉旅行に行ったりしている。お金には不自由していなかったようで、飯田に学校が移ってからも旅行に出たりしている。ただ、物資、食料の不足にはかなり難儀していたようだ。疎開から戻ったとき、交通の混乱で自分の布団がなくなってしまい、晩秋の寒さに震えている。

これまで、終戦前後の日記として、徳川夢声氏、高見順氏のものを読んできた。3者とも共通して描いているのが、街や車内で見かける日本人のみすぼらしさだ。生活に追われ、戦火に追われ、なりふり構わなくなっていたのだろう。汚いサルのようだという書かれ方もしている。
風呂屋に行くと、靴が盗難にあうのだという。風呂の湯も極めて不衛生で、ドブのようになっていると。

日本国民が醜く見えるのは、この時代の人たちが等しく感じていたことのようだ。当時は西欧人との体格の差が大きかったこと、接する機会も限られており、コンプレックス的なものも強かったのだろう。
また、開戦直後の誇らしい、理想主義的な気持ちが反転し、精神的にも追い詰められていたという意識もあるかもしれない。
しかしなによりも、あらゆる物資が不足して、想像を絶するひどい環境に誰もがなっていたことは確かだ。

徳川氏は今の僕ぐらいの年代、高見氏は40代ぐらいで社会の中堅、今回の山田氏は若手世代で、それぞれ視点が異なる。その差異も興味深く感じた。
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いったよな

2022年09月01日 | ビジネス
・銀行e-バンキングの、ふつうはあまり使わないサービスを使いたいと部下の子が言ってくる。

・ページからアクセスを試みるが別のIDパスワードを求められる。知らない。

・IDは見つかったがパスワードがわからない。

・こういうときは頭の中で話を整理して、銀行のヘルプデスクに相談しろ、という。

・が、その子は銀行じゃなくて前任者や同僚に話を聞いてきて、パスワードリセットすればよいから、やってくれと言ってくる。

・忙しいし大事な機能じゃないと思うので、待ってもらおうとしたが、今週中にほしいと言ってくる。

・登録メールアドレスが古いことが判明。手続してもメールを受け取れないから、リセットが成立しない。

・そう伝えるが、この辺でこの子は訳が分からなくなってくる。

・だから銀行のことは銀行に聞けよ!というが、画面がどうしたとか言ってやらない。

・仕方ないから自分で電話かけて聞く。書面手続き必要。

・銀行に聞いた手続きを丁寧に書いてやり、ところで、なんでそんなにこの機能にこだわるのか、と聞いたら、振込手数料を(引き落とし前にあらかじめ)知りたいから、という(後でまとめて引き落とされる)。。

・んなもん、数件しか振り込まないんだから自分で計算できるだろ、というが、感じた風でもない。

・わりと繊細な感じの子なので(子、つってもいいおとうさん)、こっちがいぢめているみたいに思えて悩む・・。
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