うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

PENAX-05 Toy Lens Telephoto

2016年05月30日 | Q10

以前に07 マウントシールドレンズを買って、純正Qマウントのレンズは残りあと1本買ってコンプリート、という話をしました

リーチがかかっているのですから、この際勢いに乗って残りの05 Toy Lens Telephotoも買ってしまいました。

なんだか豪勢な話に聞こえますよね。

ほかのシリーズなら、KマウントだろうとMFTだろうと、レンズ1個の値段、桁が最低一つは違いますから。

今回はビック有楽町で買いましたが、つかまえた店員さんがおもわず、「フィルターはどうされますか・・」などといっていました。フードとか、大真面目に作ったら面白かったかもしれません。

・・なんでひっくりかえっているのかと思ったら、たぶん縦位置で撮って位置情報を付けるのを忘れましたね。。

外観はほかのトイレンズとほとんど違いはありません。

上段左から02標準ズーム、06望遠ズーム、08ワイドズーム、中段左、トイレンズ魚眼、トイレンズワイド、トイレンズテレフォト。

Qに装着のレンズは07マウントシールド、Q10に01スタンダードプライム。Qマウント純正レンズはこれら8種類のみ。ほかにKマウントアダプターも純正で用意されている。サードパーティからも、以前は何種類かレンズが出ていたようですが、現在は見かけません。

宮崎光学なんて、今あったらほしい気もしますが。。

名前からしておもちゃなのですが、写りは意外とまとも、という評価をネット上で数多く見ます。

使ってみると確かのその通り。

小さいし、ヘリコイドの可動域も狭いけど、MFのアシスト機能を使うとけっこうピントも合わせやすい。

・・これはさすがに露出失敗だな。あとで差し替えよう。。

ペンちゃんのお墓に咲く、ペンちゃん色のアジサイ。ここのアジサイは結構早くて、もうすこし盛りを過ぎている。

トイレンズで撮ったとは誰もわからないでしょ?

Q-S1だと換算94mm相当で、27cmまで寄ることができる。テーブルの小物は撮影しやすいですね。掃除が行き届いていないことも、バレバレです。

リトルミーも難なくクリア。髪のもこもこ、顔のテクスチャもきれいに映っています。

料理もちゃんと撮れます。トマトが汗かいているのも見える。

望遠系でも、06ズームだと、最短撮影距離が長くてこういう写真は撮れないでしょう。

ついでに魚眼で撮ってみました。

というわけで、案外実用に使えるのではないかという気がしています。

以下はおまけ。今日は梅雨の走りを思わせる雨。やや涼しかったです。

5月ももうおわり。自分が生まれた月のせいか、1年中で一番気候がいい季節じゃないか、と思っている。

多少暑くても、真夏よりさわやかでしょ。

雨もまた悪くない。

 

 

 

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日本沈没第二部

2016年05月29日 | 本と雑誌

小松左京の「日本沈没」は、子供の頃大ブームになったので名前だけは知っていたが、小説と映画(1973年版)を通読したのは3年ほど前のことだ。とても印象に残る傑作だと思っている。

小松氏は最初から続編を構想していたが、諸事情で果たせずにいた。2003年頃から森下一仁氏ら数名からなるプロジェクトチームが結成され、SF作家の谷甲州氏が執筆するという形で第二部が完成した。

第二部を読む前に、ウェブでレビューなどを検索してちらちらと見たりしたが、あまり芳しい評価が見られなかった。

どんなものかな、と思いながら読んでみたが・・(すいません、以下、やたらと長くなってしまいました)。

まあ、結構楽しく読み進むことができた。えらそうないいかたになってしまうが、良くまとまっていると思う。

なにしろ第一部があれだけ風呂敷をひろげたものだから、それを綺麗に畳むのはたいへんなことだ。しかも、前作の発表からかなり時間が経過しているし、ファンの人達の期待も相当高かったものと思われる。この本をまとめるのは、相当な難事業だったはずだ。

第一部というのは、その破天荒な構想が強力な原動力となり、それにストーリーや作者自身も飲み込まれ動かされているようなところがあった。実際、後半になると、いや前半もかな、小説としてはかなり破綻しかけながらも、なんとかレールを外れずに前進して行くようで、そのこと自体、カタストロフに向かう日本を象徴しているような感じだったし、なにより強い勢いを感じさせた。

第二部はそういう異常さはなくて、ふつうの冒険小説(というのかな)、SF小説の手法なのかと思う。SF的なオチもある。

作品に谷氏の体臭のようなものが感じられるのは当然のことだ。無理に小松左京風になっていない方がむしろ自然なのだろう。ただ、第一部の続編としてとらえようとすると、ちょっと考えてしまう。

事前に読んだレビュー記事の中で、中田首相と鳥飼外相の日本人論を巡る議論が見もの、というのがあったので楽しみにしていたが、これはちょっと期待外れ。お互いが一方的に主張するだけで終わっている。この辺り、小松氏なら相当迫真のつばぜり合いに仕立ててくれたかもしれないのにな、と思ったりはする。

その鳥飼外相の主張だが、すこし難しいところがある。

この小説の時代設定である、国土を失ってから(小説では日本の沈没のことが「異変」と呼ばれているとしている)25年が経過した時点において、日本人は世界に四散しながらもなお、民族としての求心力を保ちつづけているようだ。とはいえ、異変後に生まれた2世も増え、日本人としての自覚も失われつつある。

中田首相は人工島を作り国土を再建することにより、国家としての求心力を保とうと考える。これに対し、鳥飼外相は日本人は世界各地に四散したまま、コスモポリタンとして生きていくべきだと主張する。鳥飼外相の主張はこうだ。

  •  日本人の特質のひとつとして、生まれながら定められた民族や種族のまとまりよりは、帰属する組織、共同体単位での社会規範を優先させる傾向があること、このため一方で極めて均質化された民族でありながら、内側に均質化に抗する動きを内部に有していること。
  •  宗教的には一見寛容でありながら、既成宗教の全面的な受容にはむしろ保守的で、教義のような明文化されたものはないものの、生活様式全般が一種の宗教的な規範となっていること。
  •  その点において、生活全般を律する教義としてシステム化されたユダヤ教のもと、母国とのつながりをなくしたまま、世界各地で共同体を維持し続けたユダヤ人と共通する面があること。

 などを日本人の特質ととらえ、愛国主義やナショナリズムをもとにした結束では、共同体を長く維持することはできなくなる。これらを捨て、利潤追求型のコスモポリタニズムに移行すべきだ、という。「・・日本人の特異さ-均質でありながら内部に別組織を抱え込み、ときには国家よりも帰属する組織の利益を優先する点は、コスモポリタニズムにこそふさわしいのです。国家主義や地球主義ではなく、ましてやパトリオティズムやナショナリズムでもない。そのような枠組みで、自分たちの行動に枷をはめるべきではないのです。」

これは小松氏がプロジェクトチームのもとで議論を重ねながら導き出した日本人論なのだと思うが、こうして書いていても、きちんと理解することができずにいる。日本人的な社会規範が、宗教的な教義という形はとらずとも生活に根付いているというのはわかる。内側に別組織、という話は、例えば海外では独裁者のもと、民族全体が組織的行動をとるのに対し、日本では(たとえば先の大戦の例では)陸海軍、軍令部、政府、産業界、国民と、それぞれがいろいろとすり合わせをしながら、一つの方向に進んでいくような様を指し示しているのだろうか。。

話は飛ぶが、海外で生活した日本人には、ガイジンになってしまう人と、より日本人になってしまうひととに分かれる。今までの経験では、ガイジンになってしまう人は比較的女性が多いような気がする。また、親の仕事の関係などで子供時代に海外赴任をした、いわゆる帰国子女たちは、どこかで心の傷を抱えている人が多いというか、僕の知っている人は例外なくそうだった。

自ら進んで移住したのではなく、着の身着のままの姿で海外に避難し生活することを余儀なくされた人々の心境は、それこそ計り知れないものがある。歴史書などでしばしば目にする、戦前の中国大陸に移住し帰還した人たち以上の災厄が彼らを襲ったことだろう。。

そうした設定が導くドラマについて、本書が十分に描き切れているかというと、少しフォーカスの絞り込みが甘い気がしないでもない。多くの人が指摘するのはそのあたりだろう。果たして、災厄後の日本人は、我々と同じような民族性を保っているのだろうか。

 

もうひとつ、僕が気になったのは、日本政府の存在だ。

小説では、25年後においても日本政府は活動を続けている。災害のあった地域は制限海域として何人も立ち入りが禁止され、おそらく領有権なども保留されているらしい。小説では白山付近がわずかに水面上に出ていることを根拠に、領有権を主張しようとするくだりもある。日本国は25年後にも世界にそれなりの影響力のある国家として認められているらしい。官庁は世界に四散しているが、活動は継続しているようだ。

本書で取り上げられているガジェット、メガフロートと地球シミュレータも、政府主導のプロジェクトらしい。地球シミュレータは、世界がその技術を欲しがるような突出した高度なテクノロジーに支えられているらしいが・・。

第一に、それだけの技術を支える人材とコストを、国土を失った国家が維持できるのだろうか。

日本人のノーベル賞受賞者数は世界第7位なのだそうだが、中には米国籍の人もいるように、有為な人材はそれだけ世界中の研究機関、大学、企業などから引っ張りだこになるし、整った有形無形の環境を提供することもできるだろう。それをおして日本政府のために協力させるからには、相当優れた条件か、あるいは強制が必要になる。

第一、国家が科学技術を独占的に利用するなどということができないことは、100年前の核開発の例を見ればわかるように、不可能だ。合衆国が20億ドルを投じて核開発をしたのは、優れた科学者と研究施設を擁するドイツと交戦状態にあり、情報が隔絶されたからだ。

人々が苦しんでいるときに、研究開発にお金をかけていてよいのか、ということもある。現実の地球シミュレータだって、運転費に年間50億かかるそうだし。。

第二に、これを最初から言おうとしていたのだけど、予算はどうなっているのか、だ。

そもそも、世界各国に難民として逃れ、未開の地に入植し農地開発などで生活の場を得ている人たちに、所得などほとんどない。たしかに日本は対外純資産が340兆円と世界一らしいが(現代のはなしね。対外資産は945兆円)、25年前に政府も企業も個人も、国内にある資産のすべてを失ってしまっているのだ。そもそも、対外資産を国民一人当たりにしたら1千万円くらいでしかない。

開墾地で農耕するのではなく、大都市で企業に勤めている邦人、あるいはかつての海外子会社に拠点を移した日本企業があったとして、それらの人や法人の所得税や法人税は、現地の政府や自治体に収められているはずだ。まさか日本国が二重に徴税することなどできないだろう。

・・などと書いていたら、突っ込みすぎでかえってつまらなくなってしまった。。

ただ、そういうことは置くとして・・。

第二部は比較的日本人、地球全体の人たちに「優しい」結論を示そうとしているようだ。これは続編というよりは、第一部のオマージュのようなものとして読んだほうがよさそうだ。それにしても、改めて第一部も読み返したが、小松氏の筆致は実に容赦なく、日本列島と日本国民を容赦なくたたきのめしてしまう。あれは本当に途方もないエネルギーだ。

 

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No Apologies

2016年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム

これはジョニ・ミッチェルの曲(1998年の「テイミング・ザ・タイガー」収録)だが、ネットで検索するとBon Joviにも同じタイトルの曲があり、そちらばかりヒットする。Bon Joviは和訳している人がちらほらいるが、ジョニ・ミッチェルのほうは見当たらないし、ブログでアルバムを紹介している人も、この曲について触れた記事は見かけなかった。

なので、背景とかはわからないが、日本人ならどうも気になる歌詞に思える。。日本版CDの解説文を読むと詳しいことがわかるだろうか?

 

話のまくらはこの辺にしておいて。

サミットも終わって、街もすこし落ち着いてきましたかね。とにかく、警官だらけでしたから。

オバマ大統領も、期待外れとか腹芸がわからないとか色々いわれることもありましたが、振り返ってみればヘルスケア、キューバそして広島訪問と、それなりのレガシーを残しましたね。後世になってどのように評価されるか、それはわかりませんが、人ができることには限りがあるし、運もある。

大統領広島訪問のニュースで、見出しに謝罪はなし、という言葉が大きく掲げられています。

個人的には、後代のひとが、自分が直接かかわりえなかった判断について、謝罪するということにどれほどの意味があるのか、正直疑問に思えます。むしろ安易に謝ってしまうことのほうが、不誠実なのではないかと。オバマ大統領は事前のインタビューで、大統領(という立場)は常に難しい判断を求められる、戦時にあってはなおさらだ、と答えています。それが彼の正直な実感でしょう。

アメリカ世論の変化が、今回の訪問をもたらした、という報道もありました。そのとき、現場にいた者のほうが、かえって物事を客観的にとらえられない、ということもあるのかもしれません。ただ、歴史の評価というのは、背景となる様々な事実と、その影響を理解したうえで、各自が考えて評価するべきものだと思う。そうして得られた結論がその人にとっての真実であり、評価を一方的に押し付けることはできないとも思う。

その意味で、数年前にNHKがセンセーショナルに取り上げたオリバー・ストーンのドキュメンタリーは、彼の考えを押し付けてくるようなところがあって、あまり好きになれなかったんですよね。。

 

 

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健診

2016年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム

健康診断をうけた。

と、上のような写真を掲げながら書くと、鳥たちのことのようだが、人間の健診だ。

昨年は体重が史上最大で、聴力が標準をはじめて下回った。

聴力はその後耳鼻科でも確認したが、あなたのばあい普通の人よりはやく(加齢で)耳が遠くなったのであり、病気ではない。日常生活にそれほど支障はないだろう、という診断だった。

言われて気がついたのだが、静かなときでもわずかに耳なりがしている。たぶんヘッドフォンの使いすぎなどが影響しているのだろうとおもう。

以後、ヘッドフォン/イヤフォンの使用は控えるようになった。

全く使わないわけではないが、以前のように外出時に音楽を聴きたいともあまり思わなくなった。

体重については以前書いたとおり意識するようになり、昨年秋にはピーク時から8キロ減まで下がった。今はもうすこし戻ったが、ほぼ安定水準にある。

今年の健診では耳はぎりぎり基準内だった。看護師さんは、体調によって多少変化するのでしょう、という。昨年たまたま悪かったとも、今年偶々良かったともとれる発言だ。

胃カメラは苦手だ。任意選択だが、いつも頼んでおいて直前に後悔する。

もっとも、終わってしまえばやはり調べておいてよかった、と思うのだが。

ポリープが割と多いが、良性なのでほおって置いてよし、とのこと。

診てくれたのはどっしりとした、いかにも信頼できそうな女医さんだった。外から見たらさぞ情けない格好でカメラ飲んでるんでしょうね。。

 

年齢と共に、自分の体がだんだん客体化している、といったらよいのか、精神と体が以前よりは一体のものに思えなくなりつつある。

体そのものが自分なのではなく、自分の精神がこの体に宿っているのだ、という感じ。。

もっというと、この体は貸してもらっているものであり、いつかは返さないといけないのかな、とか。

だから、返すときに、多少ふるくなっているのは仕方ないとしても、なるべく丁寧に使ってきれいな状態で返せたらな、などと思ったりする。

ちなみにアルの体重は41グラムくらい。先週よりすこし下がった。

ココちゃんは36グラムと完全に回復。今度はふとりすぎに注意しないといけないくらい。アルがちょっかい出しても、対抗できるようになってきているようだ。

 

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ひとり 

2016年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

本を読みながら調べ物をしていて、人類が一時期絶滅しかけたという話を知った(トバ・カタストロフ理論)。今から7万~7万5千年ほど前の話だ。

インドネシアの火山が大規模な噴火を起こし、火山灰の影響で日光が遮られて気温が低下、作物の生育に大きな影響を与えた。旧人類はほぼ死滅し、現代のヒトも、推計で1000組から1万組程度の夫婦にまで激減した。

人類はそこから再び徐々にその数を増やしていった。遺伝子学的に、現代のヒトが比較的均質なのは、この時代にボトルネックを経験した影響が強いのだそうだ(以上ウィキペディアより)。

なるほど。人類皆兄弟と言うが、本当だったのだな。

いままで、そういうことにとんと関心を持たずに生きてきたものだから、とても新鮮に感じられる。。

人口動態というのにもとても関心があって、いつかここで書こうと思っているのだけど・・。

この正月に聴講したセミナーで見た、日本の総人口のグラフ。戦国末期には1200万くらい、その後江戸中期からはほぼ横ばいで、明治初期には3300万程度だったものが、2010年には1億2千万人にまで増えた。百数十年で3.6倍。街の風景も変わってきて当然だろう。

逆にいうと、今の3分の1、4分の1の人口でも、日本はそれなりの文化と経済を保ちながら、徳川300年を過ごしてきたことになる。

世界的にも、人口が爆発的に増えたのは19世紀頃以降、特にこの100年くらいがすごいらしい。

資本主義の浸透、科学技術の発達などと、人口増加は歩調を一にしているようだと、素人目にはおもえるが、長い目で見た場合、やはり今は特異な状態なのかも知れない。無制限に増えていけば、いつかは。。

調整が避けられないとして、なにか災厄が訪れて、死滅してしまうよりは、皆自然に生を全うして、少しずつ減っていった方がいいのかも。。

まあ、単なる雑感です・・。

 

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いくつかのCD

2016年05月22日 | 音楽

肩がつらくて同じ姿勢を続けているのがしんどい、というのは、生活にかなりの制約を及ぼす。2時間の映画を見続けたり、美術館で順番待ちの末混んだ会場巡りをしたりということがまず、しんどく思えて行く気になれない。

仕事は休み休みやっているので(だめかしら・・)まあなんとか。

意外と歩いている時に、肩は気にならない。とはいえ、歩き続ければそれなりに疲れるが。

それでなくても、疲れやすくて。。

昨夜は7時半過ぎから寝てしまい、断続的に12時間ぐらい寝ていた。

後半見た夢。雨の中、車に乗っていると、警察?に呼び止められた。

警官たちは何か僕に尋ねた(のだと思うが)後、僕を解放する。ただ、一緒に立っていた背広姿の若い人は、なんだかしらないがその場から移動したいらしい。

声を掛けて同乗させる。刑事かなにかか、と聞いたら、僕は元々警察ではなく、農水省から出向して来ているのです、という。。

外は夜で、雨が降っている。

男が何か話しかけるが、ちょっとまってくれ、といって外に出る。夜店を片付けた跡のようなところに、小鳥が捨てられている。

羽根がぬれている。かわいそうに思い、保護して家に連れ帰る。

家に帰ると当然、アルとココがいるので、彼らとは別のケージに入ってもらう。風呂場に行って、先ほどの2羽を新しいケージに入れるが、よく見るとケージの中には昼間保護した黄色いインコが先客としている。新しい子たちのうち1羽は、すこし大きいのでボタンインコなのかも知れない。。

それにしても、こんな大型のケージは家にはないはずだな、鳥たちを収納するには、アルとココを別のケージに移さないといけないはずなのに。。たぶんこれは夢だから、なんとなかるのかも知れない、などと、夢の中で考えている。

。。という夢でした。農水省の人は何だったのか、意味不明ですが、たぶん昼間読んだ「日本沈没第二部」の影響っぽいです。さいきんサミット警戒で、駅とかに警官が目立っていた、というのも影響してるようです。インコは・・もっとたくさんいればいいと深層心理で思ってるのかしら・・。ちょっとたいへんだよな。

 

などと書いていたら、タイトルと話がかけ離れてしまいました。

CDのことを書くのも久し振りですね。最近は定額配信のサービスにも入ったので、そちらで間に合うことも多いのですが、クラシック系はやはりディスクで買いたくなる。

先日ラ・フォル・ジュルネで聞いた曲が中心です。

ドヴォルザークの弦楽四重奏曲集 フォーグラー四重奏団 (CPO ドイツ輸入盤)

弦楽四重奏曲第14番作品105、同第4番 B19、 第13番作品106、 「糸杉」より4,5,8,9,10番 

もとは歌曲集であり、後に作曲家が弦楽四重奏としてまとめた。先日聞いたのはそのどちらでもなく、弦楽合奏版だ。コンサートの解説でも「このような形で演奏されるのは大変珍しい」とあり、オケ版のCDはないだろうな、と思いながら、新宿タワーに向かった。

もう、このような大型店は都内で他にはないと思うが、新宿タワーでもドヴォルザークの品揃えは十分とは思えなかった。「糸杉」の弦楽四重奏版は今回買ったものと、日本のクァルテット エクセルシオのもの(それも2曲収録のみ)しかなかった。歌曲もなかった。

中古を探した方が見つけやすいだろうし、アマゾンでもいくつかヒットするから、全く探せないわけではない。アマゾンも今配送料がかかるし、新譜が売れなければ中古屋も細るわけで・。なんとか大型CD店には頑張って欲しいものだ。政府もこういう所に予算を使って、CDは軽減税率にするとか、やればいいのにね。

元に戻って、「糸杉」は若書きのさわやかな小品だ。まあ、あっという間に聞き終わってしまうけど、夜、疲れたときに聞くと、よく寝られそうな気がする。

スメタナの「わが祖国」クーベリックが祖国の民主化後、42年ぶりに指揮をした、という感動のストーリーは、90年代前半のレコード雑誌等で散々喧伝されていたな、という印象があります。そういえば3大テノールとか、グレゴリオ聖歌ブームとか、なんか色々あったのも、もう20年以上前の話なんですね。大げさではなく、本当に夢のようです。

手持ちのCDは今までドラティ/RCOのものしかなくて。この曲は聞き比べて楽しまれている方が多いですね。。

これは今回の購入ではなく、ずっと前に買ったまま開封していなかったものです。

今は亡きシノーポリがウィーンフィルを振ったシューマンの交響曲第2番。この演奏がとても耳に残っていて、CD屋で全集を買ったら違う演奏で(シュタ-ツカペレ・ドレスデン)、後に買い直したものです。前にも書いたかな、これをテープに録音したものを、元旦に軽井沢から帰る途中車の中で聞いたことを今でも覚えています。ふつう、クラシックはあまり車のテンポと合いにくいのですが、こいつは遅い午後の、車のいない関越にはぴったりだったな。。

なので、何となくシューマンには秋冬の季節感があって(「春」という曲があるのにね)、いい季節になったら聞こうと思っていたのですが。まあいつ聞いてもいいんですけど。

おまけ。20年以上前、ポニーキャニオンからもらった、CDの封切り。下のガイドの中に刃があって、CDの上縁に当てながらスライドさせると、ビニールの封が綺麗に切れます。2枚組以上の太いケースは無理ですが、普通のサイズのものなら、あの皮むき用のベロを探してつーっとやるよりずっと早くて簡単。今はCD持つ人も減ってきてるので、こういうグッズも出ていないかも。

 

 

 

 

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なにか

2016年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

書こうと思って、頭の中で準備していたのですが、今週もまただんだんとスタミナ切れをおこして・・・。

さいきん多いですね。しかたないのかなあ・

写真は街で見かけた猫です。

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アルの蝋膜

2016年05月18日 | セキセイインコ

先生からいただいた薬が先日終わった。ココちゃんは元気になったが、まだ換羽の途中。

アルもだいぶ身ぎれいになった気がする。

お医者さんに指摘された、蝋膜のいろが少し茶色がかっている点。

肉眼で見たとき、ずいぶんきれいな青になったな、と思ったのだが。。

まだすこし、茶色いところが残っている様だ。

こっち半分はきれい。ただ、ここからも反対側の茶色いのが少し見える。

もう一つ、お医者さんに指摘された、目の周りが白くない(黄色っぽく見える)点。何かに目をこすりつけてますか?と聞かれたが、そういう様子は見ていない。ただ、確かにすこし黄色っぽい。

以上2点は気になるところだ。ただ、蝋膜は以前にくらべるとずいぶんと綺麗になったような気がする。

体調は、げんきなことこの上ない。

そして体重。42.5g。また戻ってしまった。。

お前、お医者さんにいくときだけ、ダイエットしてたのか!?

ケージ解放中。ココちゃんはなんだかわからないが、すみっこぐらしになってしまっている。

このふたりは、あいかわらず入り口がなんなのかわかっていない。

ここまで来ておきながら、まだ入り口から入っていこうとしないのだ。。

 

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来るべき世界

2016年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム

来るべき、と書きましたが、それは言葉のあやで、本当は来て欲しくない世界の話ですね。

ヨコハマ~の考察のようなことは、もう多くの方が語りきっておられるので、今更僕がなにか言うことはないのですが、物語そのものよりも、自分自身の問題として、不思議に思えることがあります。それは、こうした、世の中が次第に静かな方向へ向かっていくような物語世界に、自分はなぜ惹かれるのか、ということです。

実は、先日「日本沈没」を読み返した時にも、似たようなことを考えました。

日本の国土そのものを、地上から消し去ってしまうという壮大な想定です。ただし、日本以外の土地や人々や文化は残る。ヨコハマ~は、海面が上昇し、日本以外の陸地もあまねく浸食されているようですし、人類全体が衰亡に向かいつつある様子です。

どちらがスケールが大きいかは、簡単には決められないかも知れない。

「日本沈没」についていうと、その大胆な想定によって、我々が言葉に出さずとも心に抱いていた、日本という国土に対する強い愛情、というものを、改めて意識させたのではないか、と思う。

この作品の書評などではよく、繁栄を謳歌しながらも、このままで良いのか、と不安を抱き始めた(出版当時の)日本人の心に訴えた作品、などと言われることが多い。

そういうことはもちろんあるが、もう一つ、身近な自然や日本的な風景に、改めて目を向けさせた、という面もあったのだろうと思う。高度成長の頃は、田んぼや森を潰して道路や工場を建てることに何のためらいもなかったのが、本書出版の頃になると、そうした自然破壊への反省、という意識が芽生え始めてきた、という素地もあったのだろう。

ヨコハマ~では、損なわれつつあるものは自然よりもむしろ人間やその文化だ。自然は損なわれた面もあるが、人がいなくなったことでむしろ植物などはより繁茂する傾向にある。暗に温暖化が進んでいる、という想定があるようだが、自然-とくに植物がそれにより悪影響を受けている、という描写はあまりない。ただ、人類は大きく影響を受けて、その文化と共に姿を消しつつある様だ。

なくなる、という想定をたてることで、普段当たり前のように思っていた人々の暮らしや、思いやり、うれしいこと悲しいこと、怖いこと・・などを、改めてわれとともにいとおしむ、というのが、これらの作品の本質の一つなのかな、と思う。

あたりまえに思っていたことが、実はとても恵まれた幸運のもとに得られたものだった、という話。

だからこそ、今の自分、まわりの環境、仲間たちに、改めて感謝し、慈しみたいと思えてくる。

 

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びっくり

2016年05月16日 | セキセイインコ

夜、9時過ぎだったが、アルがぼりぼりといつまでも食べているのを見て、「明日にしなさい」と部屋を暗くして、階下に降りた。

そしたら下から突き上げるような地震。

お湯沸かしていたので、それを止め、2階に上がって電気をつける。

アルたちは怖かったらしく、ケージにしがみついていた。

怖かったね。

ここは倒れてくるようなものはないから、だいじょうぶだよ。

・・ただ、ほんとうに強い揺れが来たら、押し入れのもの(ふとんやもうふだけど)も出てしまうだろうな。

もっと、地震対策を本気で考えないとね。

しばらくしたら、アルもココも落ち着きを取り戻していた。夜食べるのはやめよう。

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床屋難民

2016年05月16日 | 日記・エッセイ・コラム

ずいぶん前に、20年以上通っている床屋のおばさんが怪我をされて、お店を休んでいる、ということを書いた

3ヶ月ほどお休みします、と入り口に書いてあるが、4ヶ月たった今も、まだ再開の様子は見えない。年配の方だから、なかなか難しいのでしょうね。。

お元気で再開できる日を待ち望んでいますが。。

お休み中、散髪にはそのお店の近くにある別の店に行っている。

この界隈には(前書いたかな?)以前は3件ほど床屋があり、いずれもかなり長くお店をやっているようだ。

ただ、近年1件が廃業、もう一件はお休み中のおばさんのところで、残り1件、親子でやっているお店にお世話になっている。

ここも、戦前から親子3代やっているお店らしい。

今は息子さんが主にやっておられるようだ。

この方、まいう~の人(石塚氏)にちょと印象が似ている(よく見るとぜんぜんちがう)ひとで、お話が上手でよくしゃべるし面白い人だ。

のだが、そうはいっても、こちらの乗りというか、静かにしていたいときもあったりするわけで。。ときどき、ちょっと気が重くなるんですよね。

なじみのおばさんだと、大抵犬の話とか、話すことが決まっているので(お互いかわいいもの好きとわかっているので)その点良かったのです。

その気でないときは失礼にならずに、黙っていることもできたし。

なじみの床屋さんというのは、そういう所なのです。お互いに長くつきあわないと、そこまで呼吸が合わない。

 

知人と床屋の話をしていたら、今は1000円くらいでカットしてくれるお店が多くて、そういう店を勧めてくれた。

会社組織なのか、わからないが若い店員が夜、店に残って熱心に研究している、安くて手際よくて技術もある、のだそうだ。

それで、気になって駅構内とかにあるチェーン店の前を通りかかってみたりした。

入り口にサインがあり、緑なら待ちなし、黄色なら10分くらい待ち、赤なら15分以上、なのだという。始まってしまえば10分ぐらいで終わるらしい。

実は、おばさんの床屋さんは行けば大抵空いていて、ほとんど待つということがなかった。

ので、なんとなく待つのは気が進まない。

10分でカットするのに、15分以上待つなんて。。

へんなところにこだわってしまう。。なんだかんだいって、新しい店はどうも気が進まないのだ。

そうこうするうちに、だんだん髪が伸びて(いちおうのびるんですね。ぜんたいじゃなくても)、我慢できなくなり、けっきょくまいう~さんのところでお世話になった。

やはりいろいろしゃべってくれたが、前よりはすこし呼吸がつかめるようになってきた。

それと、最後に肩と肩胛骨をもんでくれたが、これが効いた。

しばらく、背中の痛みがすうっと引いた。。あれですね、いま肩の上がらない左側じゃなくて、右側が凝っていたみたいで、これが効いたなあ。。

おじさんはアルファさんにぎゅっと抱きしめられて首筋を違えてしまったのですが。。

いてえっちゃ いつもどっかいてえしな、は同感でございます。。

 

ところで今日、マウントシールドレンズを外で使ってみたので。

うわあ、これはすごい、夢の中の世界みたいですね。。

フェンスの隙間、それもうしろからごめんなさい。 夢馬。

思い出したけど、最初の写メール(12年くらい前だったかな)もこんな感じで、遠くが映らないのは人間で言えば近眼みたいなものかと思い、レンズの前に眼鏡をかざして撮ったことがあった。今やるとどうなるかって・・。今使ってるのは遠近両用だから、ややこしい話になるかも。。

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Pentax 07マウントシールドレンズ

2016年05月15日 | Q10

金曜日は疲労困憊していて買いそびれたのですが、今日は多少元気を回復したので、夜出かけていって買いました。

Pentax 07マウントシールドレンズ。 レンズキャップに簡単な1枚レンズをつけて撮影できるようにした、という成り立ちのものです。これもオリンパスあたりが先鞭をつけていて、一時期、ちょっとした流行のようになったという記憶があります。

ふだん、お店で買ってきたものを、自宅に帰る前に開封するというのは、なんとなくお行儀が悪い気がしてしないのですが、今回は料理を撮ってみたいと思い、いつものレストランであけてみました。

なんだかこの写真もトイレンズで撮ったみたいですが、一応02スタンダードズームで撮っています。

焦点距離はこのQ-S1のばあい約53mm、Q10なら63.5mmです。ピント調整はできず、明るさはF9固定です。

重量は8g。まあ、ただのふたですから。

真ん中にのぞき穴のようなものが見えます。これが1枚レンズ。

もうちょっとしゃきっとした写真を撮りたいものですが、今回は勘弁いただいて。Q-S1正面のつまみと、レンズがほぼ同じ厚みであるという図です。

標準ズームだって、100gない位軽いのですが、この状態で手にすると、改めて100gの重さを感じ取ることができます。

マウント側には電子接点が見え、これがただのふたではないことを示しています。

そうこうするうちに料理が来たので。これは、02スタンダードズームで撮影したもの。

07マウントシールドレンズで撮影するとこうなります。ホワイトバランスが崩れたのは、レンズのせいなのかどうかわかりません。

無理に全体を写そうとせず、こうして近づいた方が良さそうです。焦点の合う範囲は、0.3m-2mとされています。

料理の撮影やテーブルフォト、室内撮影などには使えそうな感じです。野外はちょっと厳しいことが多いでしょう。

帰宅して、リトルミーを撮影してみます。これは02スタンダードズーム。Q10の頃からそうですが、近接撮影をするとピントが合っていないのに合焦のサインが出る癖が、Qシリーズにはある様です。しかし、MFにして画像拡大機能を使ってきちんとピントを合わせると、綺麗に撮影できるので、非常に困ることはないのですが。

さて、07マウントシールドレンズでの撮影。こういう構図では、欠点も目立たず、ずいぶんと綺麗に撮影できるように思えます。

周辺は流れてしまうのですが、画面中央部はかなりシャープに撮れます。

一昔前の携帯のカメラよりは、きれいに撮れるようです。だからどうしたと言われると、ちょっと困るのですが。。

これは04 TOY LENS WIDEで撮影したもの。こちらはMFでピント合わせしますが、ざっと合わせただけなので、ちょっと甘めかも。

このレンズは歪曲がひどいのが特徴。むしろ07レンズの方が歪曲は目立たないようです。

 

というわけで、機会があったらもうすこし遊んでみますが、本来のボディキャップとしても、それなりに使えそうですし、値段もそこそこなので良い買い物だったと思っています。

 

Qマウントレンズは8種類発売されていますが、これで7種が揃ったことになり、純正レンズのコンプリートまであと1個と、リーチがかかりました。

とはいえ、不要不急のレンズ(のこりは05 TOY LENS TELEPHOTOですが)を買うというのも、なかなか決断のいることではありまして。。

 

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ペンタックス Q-S1 のメーカー出荷が完了に

2016年05月14日 | Q10

昨日(13日)のツイッターで話題となっていた。

こちらはそのまとめ。当初、メーカー生産完了、流通在庫のみとなるので、購入を検討されている方はお早めに、という常識的なメッセージだったが、後に販売ルートにおけるメーカーからの販売が完了したのであって、生産とは関係がない、と訂正された。たぶん、メーカーでも生産はずいぶん前に終わっていて、メーカー在庫を流通させており、今回それが終了した、ということなのだろう。

マニアさんの間で話題となったのは、Q-S1がQマウントの唯一の現行ボディで、その後継機が未だに姿を現していないからだ。

もしこの後新たなボディが発売されないとすると、Qマウントは実質的に終了ということになってしまう。

前にも書いたが、Qシリーズは1年に1回くらいのサイクルでモデルチェンジをしていて、Q-S1も昨年秋にオーダーカラーを終了させている。この時点では新型の発表はなく、代わりにカタログが更新されて、現行機継続という意向がみてとれた。年末に販売価格も下がり、新型は当面登場せずと判断して購入したことも、既に書いた。

マニアさんたちがささやくことには、販売自体は結構好調なのだが、1/1.7というセンサーが入手困難になっているのではないか、ということだ。そこはわからないが、年末にヨドかどこかの人と話したとき、「これだけ安くなったので販売は好調だ」と話していた。まあ、業界の事情などは僕にはわかりようがない。「このまま終わってしまうのは惜しい」というマニアさんたちのささやきに賛同するだけだ。

新しいボディが出ないとは限らないが、同じコンセプトで続けるのは難しいかも知れないですね。。

もともと、初代のQ自体、かなり軽いコンセプトで作ったものだと思いますし。初代Qと同時に発表されたレンズは、オリンパスPenシリーズの最初の時みたいに、小さい単焦点と普通のズーム。それだけでは寂しかったのか、おもちゃ的な広角、中望遠と目玉のフィッシュアイ。これらをコレクション的に集めることが、この商品の売りのひとつみたいなものでした。

センサーをたとえば1インチくらいにすると、初期のレンズはいろいろな意味で対応しきれなくなり、そうなるとレンズラインナップを一新する必要が出てくるかも知れない。MFTはレンズの新陳代謝がとても早くて、あれはあれで軽い気持ちで導入した人を沼に呼び寄せるのに効果的だったかも知れませんが、Qはちょっと行き詰まってしまった感がありますねえ。

うちでは3台が現役で動いていて、通勤カバンの中に入っていたり、その辺に転がっていたりしています。古さは感じますが、やっぱり使っていて面白いんだと思います。せいぜいブログやSNSに載せる程度の写真しか撮らないので。。ただ、次がないと困っちゃいますね。あまり好きではないけど、いわゆる高級コンデジに向かった方がいいのかしら。

ニュースを知った金曜日に、ビックカメラに用があったので(故障続きのタブレットを引き取りに行った)、ついでに07マウントシールドレンズでも記念に買っておこうかと、見ていたのですが、近くにいた店員は富士の応援員と王さんという中国人らしき人だったので、なんだか声が掛けづらくてやめました。

それよりも何よりも、もう今週は疲労困憊で、よけいな気を遣う気力がなくなってしまったのです。。もうくたくたジャガー・・。

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島崎藤村 「夜明け前」

2016年05月12日 | 本と雑誌

昨日「新日本紀行」のことを書いていて、そういえばこの本のことに今まで触れたことがあったかな?と思い調べたが、書いていないみたいだ。

第一部、第二部ともに上下巻計4巻からなる長編で、結構なボリュームがある。実は過去何度か読みかけては中断する、というのを繰り返していた。

全編読了したのは3年ほど前のことだ。

さいごは電子書籍を無料でダウンロードし、タブレットに入れて少しずつ読み進み、完読した。

細かな内容や、そのとき感じたことなどは忘れてしまったが、それでも今心に残っていることを、キーワードでいくつか挙げることができる。

長男 後継者 こころざし 守るべきもの 伝統 やりたいこと 家族 社会の変化 理想と現実 

 

読み始めた頃は僕自身もまだ青年期であり、若き青山半蔵と自分をだぶらせながら読み進んでいった。

父青山吉左右衛門は馬籠の駅長(本陣、庄屋)を、様々な曲折を経ながらも勤め上げ、息子半蔵にその任を譲る。吉左右衛門は幸福な人生を送ったと言って良いだろう。苦楽を共にしていた仲間の金兵衛と昔語りをする様子などを、うらやましい想いを抱きながら読んでいた。。

この前半部分の父吉左右衛門の描写と、時代を下った半蔵の晩年の境遇の差は大きく、読む者を沈鬱な気持ちにさせる。

半蔵も、人生前半においては、良縁と子宝に恵まれ、自らに与えられた職務を全うする一方、生涯を費やすことになる学問(国学)にも熱を上げるなど、順風満帆の日々を送る。

やがて御一新の時代となり、本陣も廃止、世の中が大きく変わっていく。半蔵は自らの信念に従い、率先して村を変えていこうと努力するが、彼自身の理想と現実との間には次第に隙間が生じ広がっていく。やがて村を主導する立場から離れていき、心を病んで生涯を終える。

半蔵は決して旧弊固陋な後継者ではなかったし、むしろ社会を変え、村民の為に力を尽くそうと必死の努力を重ねてきた。他方、両親や家族に対しても良き息子、夫そして父であろうとし、地元の仲間や学問上の師、同門の者たちにも心を砕いてきた。しかし、時代の荒波はそんな半蔵をあっさりと飲み込んでいく。

幕末ものの小説は多いが、社会のいちばん表面にいた人達ではなく、それまでの社会を下支えしてきた人達を描いた小説は珍しい。

この本はその点でも貴重だ。

さらに、江戸から明治への社会の変化を、諸侯でも政治家でも軍人でもなく、また小作人や職人でもない、一定の知性と社会的責任を備えた人々が、どう捉えてきたのか、ということにも想いが及んでいく。

さきの大戦後でも、日本人はおおきなパラダイムシフトを経験したが、多くの人々はそれを自分たちなりに消化して、なんとか乗り切っていった。

もしかしたら、日本人には思想的に少し無節操なところがあるのかも知れない。

しかし、時代を捉えることに酷く苦労した人達も多かったはずだ。

個人的には、青年期に本を手にしたときには、若き半蔵とも世代的に近く、読了の頃になるとこんどは晩年の半蔵の年にちかくなっていた、というあたりで、この繊細な長男坊への思い入れを強く感じている。

まあ、自分も半蔵の末路のような境遇に、いよいよ近づいているわけだ。。

ちょっと堅い話だったので、本文と関係ない写真を。

仲通りで先日から始まった、ラジオ体操教室。マルケンも応援に参加していた。けっこう人も集まっていたが、自分は昼休みが終わりそうだったので参加できず。

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新日本紀行

2016年05月11日 | 音楽

先日亡くなられた冨田勲氏が手がけた、NHKの番組のテーマ曲の一つ。どこかでご本人が語っておられたが、これは汽車が汽笛と共に発車して、駅に着くまでの様子を音楽にしたもの、なのだそうだ。冒頭のホルンの雄叫びは発車の汽笛、流れるようなストリングスは車窓を流れる風景、やがて駅が近づき、速度を緩める汽車の雰囲気も、エンディングのあたりで表現されている。

番組自体はリアルタイムでも見ていたと思うが、度々再放送されたりしているので、そこでの印象の方が強いかも知れない。こんにちしばしば、古き良き時代というイメージで語られる、「昭和時代」というのは、だいたいこのあたりの時期(昭和38年から57年)をしめすことが多いようだ。

実際にこの番組を見たという、記憶があるわけではないが、この音楽を聴くと何となく、小さい頃一時期預けられていた祖父の家の、茶の間にあったテレビや床の間のある和室、縁側のあたりが心に浮かんでくる。窓は開いていて、祖父母は浴衣を着てくつろいでいる。たぶん夏だろう。実際に、そんなシーンでこの番組のテーマを聞いた経験をしたのかもしれないし、勝手に心の中で作り上げたのかも知れない。

冨田勲氏のご冥福をお祈りします。

 

休み明けなのに、なんだか疲れが抜けなくて、眠くてしかたない。ときどきこうなるが、今週は特に酷いなあ。。

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