Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考資料】ヴィガノ大司教:灰の水曜日の説教:灰が、この世の虚栄や、この世の約束が幻想であること、現世の死が避けられないことのしるしとなりますように

2023年03月04日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教:灰の水曜日の説教

聖なる教会は私たちに、悔悛した聖人たちという模範を示し、悔い改めと回心の必要性を指摘し、聖なる儀式という見事な教育法によって、罪の重大さ、天主の御稜威に対する侮辱行為の重大さ、祭壇で更新される私たちの主の犠牲の功徳が無限であることを理解するように教える。

「四十日たったら、ニネベは破壊される!」(ヨナ3章4節)と預言者ヨナは告げる。ニネベの人々は天主を信じ、断食を定め、大きい者から小さい者に至るまで、みな袋をかぶった。その知らせが、ニネベの王の耳に達したとき、彼は王座を立ち上がり、外套を脱いで、袋をかぶり、灰に座った。

灰が、この世の虚栄や、この世の約束が幻想であること、現世の死が避けられないことのしるしとなりますように。

2023年2月23日(木曜日)

Homily on Ash Wednesday

カルロ・マリア・ヴィガノ

IN CINERE ET CILICIO
灰と袋によって

Omnipotens sempiterne Deus, 
qui Ninivitis, in cinere et cilicio pænitentibus, 
Indulgentiæ tuæ remedia præstitisti : 
concéder propitius; ut sic eos imitemur habitu, 
quatenus veniæ prosequamur obtentu.
Or. IV in benedictione Cinerum
全能永遠の天主よ、
御身は灰と袋によって償いを行ったニネベの人々に、
御身の赦しの癒やしを与え給うた。
御あわれみをもって、われらが、外的な態度で彼らに倣い、
同じくわれらに赦しを得させ給わんことを。
(灰の祝別式の第四の祈願)

私たちの多くの罪を前にして、あわれんでくださるように主を動かせるものはただ一つしかありません。それは償い(悔悛)です。真摯な償い、つまり、犯した罪に対する真の悔い改め、罪を二度と犯さないという意向、罪を償うという意志、そして何よりも、その罪によって天主の御稜威(みいつ)を傷つけたことに対する痛みを、外から見て分かるように裏付ける償いです。それは、〈In cinere et cilicio〉、つまり、灰と袋によって、ということです。この袋の布は、もとはキリキア地方に由来する、山羊の毛や馬の毛で織られた、毛むくじゃらで肌を刺激する布で、ローマの兵士の軍服として使用されていたものであり、悔悛者の霊的かつ物質的な衣を表しています。

この日の神聖な典礼は、以前は公の罪人のために行われたもので、罪人(つみびと)には聖木曜日まで償いの期間が課せされ、司教が赦免を与えました。
〈Ecce ejicimini vos hodie a liminibus sanctæ matris Ecclesiæ propter peccata, et scelera vestra, sicut Adam primus homo ejectus est de paradiso propter transgressionem suam.〉。
「見よ、最初の人間アダムが自分の罪のために楽園から追い出されたごとく、なんじらの罪と犯罪のために、聖にして母なる教会の敷居から今日なんじらは追い出されよ」(ローマ司教用儀式書〈悔悛者の公の追放について〉[De expulsione publicice Pœnitentium])。
これはローマ司教用儀式書に記された感動的な儀式の中で司教が命じたもので、その【追放の】前に、主の御あわれみに絶望しないように、断食、祈り、巡礼、施し、その他の善行を尽くして真の悔悛の実を結ぶようにと戒めました。この父性的で厳しい警告の後、悔悛者たちは裸足で教会堂前の中庭にひざまずき、司教がそこで天主の神秘【ミサ聖祭】を行う大聖堂の扉が閉じられるのを見届けるのです。

40日後の聖木曜日、彼らは脱ぎ捨てた同じ衣を着て、その扉のところに戻ってきて、ひざまずき、手には火のついていないろうそくを持っています。
〈State in silentio: audientes audite〉(黙って立ちなさい、耳を澄まして聞きなさい)と助祭長は彼らに命じます。そして助祭長は続けて、公の悔悛者に代わって司教に語りかけ、彼らの償いのわざを思い起こさせます。
〈Lavant aquæ, lavant lachrimæ.〉(彼らは水で洗う、涙で洗う)。それから司教が3回、応誦Venite(来れ)を歌い、悔悛者を教会に迎え入れると、彼らは感動して司教の足元に身を投げ出して、〈prostrati et flentes〉(ひれ伏して泣く)のです。この時、助祭長はこう言います。「使徒継承の司教よ、悪魔の誘惑によって汚されたものを彼らのうちに回復させ給え。御身の祈りの功徳と和解の恩寵によって、これらの人々を天主に近づけ、以前は自分の罪を恥じていた人々が、自らの破滅の原因を打ち破り、今や生ける者の国で主をお喜ばせすることに喜びを覚えますように」(ローマ司教用儀式書〈悔悛者の和解について〉[De reconciliatione Pœnitentium])。

私はこの最も古い儀式について考えてみたいと思いました。この儀式は、皆さんの啓発のために、ぜひ読んで黙想するようにお勧めするものですが、それは、教会の公正な厳しさが、主の模範に従って、教会の母としてのあわれみから決して切り離されないことを理解していただくためです。もし償うべき過ちがあることを教会が否定するならば、正義に反することになります。もし心からの悔い改めなしに赦しを得られると言って教会が罪人を欺くならば、天主の御あわれみを傷つけ、愛徳を欠くことになります。そして、アダムの罪、私たち自身の罪、兄弟姉妹の罪、そして諸国の今日の忌まわしい公の罪のために、教会は、私たちが怒りの子であると思い起こさせることをやめません。聖なる教会は私たちに、アダムとエワの償い、あの同じ楽園で蛇の呪いと原福音の宣言「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏み砕き、おまえのすえは、女のすえのかかとを狙うであろう」(創世記3章15節)によって始まった贖罪を思い起こさせます。聖なる教会は私たちに、旧約の下で、私たちの父祖が再び罪を犯し、償いのおかげで再び天主から御あわれみを得た多くの場面を示します。ニネベの住民の模範も、聖なる灰の祝福の祈りとテキストの中で思い起こされます。聖なる教会は私たちに、特に四旬節、ご受難週、聖週間の典礼において、十字架の木の上で成し遂げられた贖いの素晴らしいみわざを達成するために、天主の御子が御父のみ旨に従順であることを示します。聖なる教会は私たちに、悔悛した聖人たちという模範を示し、悔い改めと回心の必要性を指摘し、聖なる儀式という見事な教育法によって、罪の重大さ、天主の御稜威に対する侮辱行為の重大さ、祭壇で更新される私たちの主の犠牲の功徳が無限であることを理解するように教えるのです。

悔悛者の前で、あの扉が蝶番(ちょうつがい)でゆっくりと重く閉じられ、悔悛者を祭壇から遠ざけるのは、聞く耳を持たない残酷さではなく、むしろ悔悛者のために祈るのをやめず、悔悛者が悔い改めて、彼らの過ちが自分たちから奪った至高の善を自覚する姿を見るのを確信して待っている、母の苦しみに満ちた厳しさなのです。同じ理由で、御受難週から復活徹夜祭まで、教会の十字架と聖画はベールに包まれ、罪人としての私たちの無価値さと天主の沈黙を思い起こさせます。この沈黙は、私たちの主もゲッセマネの園と十字架上で経験され、神秘家も同様に暗夜の精神的苦痛の中で経験したものです。

このすべてのことは、どこに行ってしまったのでしょうか? この世がキリストへの忠実さを思い起こすことを最も必要とするまさにそのときに、なぜ教会の典礼はその最も教育的に効果のある象徴を剥奪されたのでしょうか? なぜ公の悔悛者の追放の儀式は廃止され、それとともに和解の儀式も廃止されたのでしょうか? そしてまた、なぜ牧者たちは、原罪について、十字架の道行きについて、償いの必要性について、もはや語らないのでしょうか? なぜ天主の正義は沈黙し、否定される一方で、天主の御あわれみは、あたかも私たちの痛悔とは無関係にそれを受ける権利があるかのように、歪められ、無きものとされたのでしょうか? トリエント公会議が教えているように、悔い改めは、罪を告白することおよび償いを果たすこととともに、告解の秘跡から切り離せない質料の一つであるというのに、なぜ赦しは誰に対しても否定されるべきではないと言われているのでしょうか? 死について黙想することが重要であるという、審判は避けられないものであるという、滅びた者は地獄へ行き選ばれた者は天国へ行くという現実について、なぜ沈黙しているのでしょうか?

それは、ルチフェル的な高慢によって、真の天主の代わりに偶像を造ってしまったからです。

私たちの無数の不忠実は、たとえ最も深刻なものであっても、私たち自身が有罪であり、私たちを救い、私たちを永遠に祝福するために御独り子をお与えになった天主の御あわれみを必要としていることを謙虚に認識さえすれば赦されると知る以上に、慰めとなるものがあり得るでしょうか?

親愛なる子どもたちよ、これが〈Mysterium iniquitatis〉、悪の神秘です。私たちを鍛え上げ、永遠の報酬を受けるに値させるために、悪が天主によって許されるのはどうしてか、善が沈黙のうちに、そして騒ぎ立てることなく働いている一方で、悪が卑猥な傲慢さで勝利しているように見えるのはどうしてか、悪が、偽りの約束で人間をどうにかして誘惑し、罪の恐ろしさを忘れさせ、つまり、救い主が受けられたあらゆる御苦しみ、主がかけられたあらゆる唾、受けられたあらゆる殴打、あらゆる鞭打ち、あらゆる御傷、あらゆる茨のとげ、あらゆる尊き御血の一滴、あらゆる涙、そして何よりも私たちのすべての恩知らずぶりによって、人間にして天主であるお方に与えたあらゆる精神的苦痛に対して、私たちに責任を負わせる醜悪さを、また、汚れなき御心を鋭い剣で刺し貫き、天主なる御子のご受難と一致させた、至聖なる御母のすべての苦しみに対しても、私たちに大いに責任を負わせる醜悪さを、忘れさせるのか?悪の神秘です。

「四十日たったら、ニネベは破壊される!」(ヨナ3章4節)と預言者ヨナは告げる。ニネベの人々は天主を信じ、断食を定め、大きい者から小さい者に至るまで、みな袋をかぶった。その知らせが、ニネベの王の耳に達したとき、彼は王座を立ち上がり、外套を脱いで、袋をかぶり、灰に座った。ニネベでは、王と、その貴人たちの命によって、次のような布告があった。「人も、獣も、大きな家畜も、小さな家畜も、ものを食わず、はまず、水を飲むな。そればかりか、人も、獣も袋を身につけ、力強く、天主にこいねがい、おのおのの悪い行いと、その手で行う暴力を改めねばならぬ。こうすれば、天主は、思い直しあわれみを下し、その御怒りをやめ、私たちの滅びをお取りやめになるかもしれない」(ヨナ3章7-9節)。

〈四十日たったら〉。この警告は、おそらくニネベの人々への警告以上に、私たちに当てはまります。この警告は、キリストから王冠を奪って、初めから殺人者であるサタンが君臨するようになった、この堕落した反抗的な世界にも当てはまります。この警告は、中絶、安楽死、遺伝子操作、道徳の倒錯という恐怖が天に向かって復讐を叫んでいる、かつてカトリックだった国々にも当てはまります。この警告は、偽牧者や傭い人がはびこり、この世のかしらのしもべや共犯者となり、自分たちに委ねられた信者を敵とみなしている教会にも当てはまります。

この警告は、この全面的な転覆に直面しているにもかかわらず、天主の奇跡的なご介入という快適な展望に避難所を求めて、私たちは戦いから逃れられると信じている、あるいは、天主の敵どもがトリエント・ミサを捧げるための小さな空間を残してくれる限り、彼らの脅迫を受け入れて彼らと共に生きることができるふりをするなら戦わなくてすむと信じている私たち一人一人にも当てはまります。

〈四十日たったら〉。これは、信仰の一致を愛徳の絆で守るために制定されたペトロの権威が、二千年間教会の最も貴重な宝であり異端者に対する最も恐ろしい防波堤であったもの――つまりミサの聖なるいけにえ――を禁止するために使われ、新しい不法な制限に従いたくない人々を、離教の罪で非難するために再び使われることになるであろう恐るべき「教皇の」文書から、私たちを切り離す期間です。さらには、異端とつまずきを広めることで、キリストの継ぎ目のない衣を裂く者こそが、主に忠実であり続ける人々を聖なる囲いから追放しようとするであろう期間なのです。

〈四十日たったら〉。これは、私たち一人一人が、自分の部屋の中でひそかに祈り、断食し、償いをし、施しをし、善行を行うことで自分の罪を償い、国々の公的な罪を償い、天主の遺産である聖なる教会を国々に支配されるという恥辱にさらさないように、天主の御稜威(みいつ)に懇願できる好都合な時期です(ヨエル2章12節参照)。

親愛なる子どもたちよ、このような心構えがあれば、大斎・小斎の掟を思い出す必要はないでしょう。なぜなら、皆さんは、地上のどんな権力も皆さんから奪うことのできないこの霊的な宝を蓄積する方法を知っており、その宝は、四旬節の旅の終わりに私たちを待っている復活祭のお祝いのための最高の準備となるからです。

〈In cinere et cilicio〉(灰と袋によって)。灰が、この世の虚栄や、この世の約束が幻想であること、現世の死が避けられないことのしるしとなりますように。兵士たちが軍服に用いた肌を刺激する袋が、以下の灰の祝別の最後の祈りが私たちを励ますごとく、私たちを善き戦いへと駆り立てるものとなりますように。
〈Concede nobis, Domine, præsidia militiæ christianæ sanctis inchoare jejuniis: ut contra spiritales nequitias pugnaturi, continentiæ muniamur auxiliis.〉
(主よ、願わくは、聖なる断食によってキリスト教的な戦いの保護を始めることができる恵みを我らに与え給え、そはわれらが悪しき霊に対して戦い、節制の助けによって強められんがためなり。)

アーメン。

大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2023年2月22日
灰の水曜日
Feria IV Cinerum


英語版 Homily on Ash Wednesday

イタリア語版 In Cinere et Cilicio. Chiesa di Falsi Pastori e Mercenari. Viganò



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。