四国お遍路・小さな旅

 霊場巡礼と自然・花巡り、小さな旅の気まぐれブログ。

第16回 三鍋王子~出立王子

2019年11月05日 | 熊野古道(紀伊路)散歩

 

 

 

三鍋王子跡


  みなべICを出て南進。JR紀勢本線のガードをくぐりぬけた先の交差点を左折して間もなく、北道会館隣に三鍋王子社が鎮座していた。

 

 

小栗判官が水を飲んだと伝えられる奇跡の井戸

 常陸の国城主小栗判官は熊野「湯の峯」の湯が効果ありと聞き、妻照手姫の献身的な介添えのもと、箱車に乗せられて紀伊路を南下、熊野に向かった。

 その道すがら、照手姫がこの井戸から水を汲み、判官に飲ませたと伝えられている。

 

 

鹿島神社

 みなべ沖にある鹿島の南島にあった鹿島神社は明治42年に天照皇大神、須佐之男命と合祀され、現在の場所に移動したそうだ。

 毎年8月1日に南部湾で開催される花火大会。

 起源は、約300年前江戸時代の宝永4年(1707)10月28日に起こった大地震の津波が発生した際に、南部湾にある鹿島が波を2つに分けて被害を最小限に抑えたことへの感謝の気持ちから毎年行われているそうだ。

 

 

清姫の袖摺岩

 清姫は、逃げる安珍を追って海岸を走るとき、大きな岩があり、袖を擦りながら駆け抜けたといういわれのある岩だ。

 昔はひとかたまりの大岩?でしたが、今は砕けて大きな岩が2個ある状態となっていた。

 さてこの袖摺岩。よく見ると、たくさんの小石が集まって出来た不思議な石。700~800万年前に海底にたい積した比較的新しい地層、目津礫層の石だそうです・・・

「さざれ石」そうです。国歌「君が代」にも歌われているあの石だ。


 


芳養王子跡


 芳養王子社は、天仁2年(1109)10月に熊野参詣をした藤原宗忠の日記『中右記』に、「早(芳養)の海浜に出て河を越え、早王子に参った」と記すなど、多くの文献に名が残る王子社です。現在芳養王子社跡は、大神社となっている。



芳養一里塚跡

 和歌山から18里の一里塚で、地元の人々からは「塚の地蔵さん」と呼ばれ親しまれているそうだ。

 

天神崎

 天神崎は、日本の「ナショナルトラスト」第1号に認定された。

「天神崎の自然を大切にする会」が土地買収を行っており、自然が保護された岬だ。ここでは、陸の動植物と海の動植物が、平たい岩礁を挟んで同居し、森・磯・海の三者が一体となって一つの生態系を作っている。

 市街地に近接しているにも関わらず、豊かな自然が残されているのが特徴だ。


野口雨情が天神崎を詠んだ「落ちる夕日は天神崎の遠く海原夕焼ける」の歌碑

 天神崎 丸山灯台と白浜方面の遠

  

標識のたもとに居座る子猫(上)

和歌山県朝日夕陽百選の碑近くで咲くアゼトウナ(畔冬菜)?の花(下)

 アゼトウナ(畔冬菜)

 伊豆半島以西の太平洋岸の岩場などに生える多年草。茎は短く、根茎状となり、その先にロゼット状になった根生葉を付け、枝先に黄色の花を付ける。


 

 

出立王子跡


 熊野詣での際、田辺から海岸線に別れを告げ中辺路へ入る参拝者には、潮で身を清める最後の場所として、ここ出立は重要な拠点でした。身を清めるためにする潮浴びのことを潮垢離といい、ここ出立王子前方の潮垢離浜で行われていた。

 建仁元年(1201)の御幸記では後鳥羽院に同行した藤原定家が不覚にも風邪をひき、出立での潮垢離を辞退したところ厳しく叱責され、やむなく潮浴びをしたと伝えられているそうだ。 

 出立王子社はもと元町西郷の御所谷付近にあったといわれていますが、元の場所は不明で、現在はこの位置に移されたそうだ。

 

潮垢離浜の記念碑(江川児童公園内)

 田辺市の江川町の西方海岸は塩垢離浜、出立浜と呼ばれたそうで、 今は埋め立てられている。

 役行者が22歳で熊野詣を行った時の著述である「不思議神変」には「清浄地浜ノ塩ヲ浴ルハ、悪行煩悩ヲ洗浄ス、祓スヘシ」と記しているそうだ。

 ここは熊野詣での習わしで、人々が浜辺で潮垢離をとっていよいよ中辺路におもむいたのであろう。




 熊野古道(紀伊路)散歩も最終回。紀州路最初の王子である中山王子から今回の出立王子迄の45王子跡と参詣道の見どころを散策して参りました。

 ご視聴ありがとうございました。




予告(新カテゴリー) 熊野古道(中辺路)散歩

 熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に至る熊野参詣道のうち、田辺から本宮、新宮、那智に至る山岳路が「中辺路」と呼ばれている。特に平安時代から鎌倉時代に皇族貴族が幾度も繰り返した「熊野御幸」では、中辺路が公式参詣道(御幸道)となったそうだ。

 和歌山市在住の私にとって、中辺路は遠くて人影の少ない長く険しい山道を越える山岳の参詣道

 無事に熊野本宮大社へと巡る事が出来るだろうか?・・・。

 じっくり期間(元年・2年)と巡行回数を設けて、出立王子から熊野三山までの各王子社跡をて巡って行きたいと思います

 



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第15回 切目中山王子~千里王子

2019年10月24日 | 熊野古道(紀伊路)散歩




切目中山王子跡


 切目駅北側のガードをくぐり南東へ山道を行くとやがて切目中山王子社に詣でる。



 切目(切部)中山王子社は元々現社地より東の王子の谷と呼ばれる地にあったと伝わる


 

徳本上人名号碑

 熊野詣の旅人が、行倒れることも多くあり、その鎮魂のためと言われている。



史跡 岩代の結松 


この史跡も、場所が変遷しているそうだ。松も何代目なのか?


 謀反の疑いで連行されていく有間皇子が、松を結って祈りを捧げた。

 有馬皇子が詠んだ挽歌が万葉集にある。


  磐代の 浜松が枝を引き結び 真幸くあらば また還り見む


 


岩代王子跡



岩代駅の近くの線路を越え浜に出ると岩代王子跡がある。



線路側に咲いた浜昼顔の花

(海岸の砂地に生息する多年草。葉の脇から長い柄を出して、花径4~5センチの淡い紅色の花を1つずつ付ける。)


岩代王子跡


 新古今集巻十九(神祇)に「熊野へ詣で侍りしに、岩代の王子に人々の名など書きつけさせてしばし侍りしに、拝殿のなげしにかきつけ侍りし歌」 として

 いわしろの 神はしるらむしるべせよ 頼む憂世の 夢の行末 

とあるそうだ。

 


岩代の浜

 熊野詣での道中で海岸の白い砂浜を歩くのは始めてと言うことになる。


岩代の浜より白浜方面を望む。






千里王子跡

 Hotel & Resorts WAKAYAMA-MINABEへの道へ行かずに右に進むと岬の上にでる。広い駐車場から石段を下り、千里海岸へ出るとそこには千里王子社が鎮座していた。


 

千里海岸(熊野古道で唯一砂浜の古道)
 
 白砂美しい千里の浜は熊野古道随一の景観と言われ、アカウミガメの産卵地としても有名だそうです。

千里海岸より岩代の浜方面を望む。


千里王子跡より白浜方面を望む。





次回は最終回、三鍋王子から




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第14回 叶王子~切目王子

2019年10月10日 | 熊野古道(紀伊路)散歩

 

 

 

叶王子(津井王子)跡


 国道42号線を南下。叶王子社跡は印南漁港を北から一望する小高い丘の上に建っていた


 叶王子神社跡の鳥居と叶王子社跡石碑

  地元では願い、望み、夢が叶うの意から「おかのさん」と呼ばれ深く信仰、多くの絵馬が掛けられていた。


 

 津井王子社は近世には叶王子社に移転したようである。

紀伊続風土記」には「村の西端往還にあり、御幸記にツイの王子とある此社なるへし」と記してあるそうだ。

 津井川の手前の42号線北側でドライブイン建築の際に丘陵地から瓦や土器が出土しており、津井王子社の跡と推定されているようである。

 

 

 

東光寺


  照手姫が小栗判官の箱車を引き、一夜の宿を乞うた寺



 常陸の国城主小栗判官は共の照手姫の曳く箱車に乗り、艱難辛苦を乗り越えてここ紀の国印南迄やって来た時の事。

 小栗判官のその異様な姿に、道々の宿にも断られ途方に暮れたあげくようやくこの寺にたどり着く

「病人を連れておりますが、なにとぞ一宿をお許し下さい。」照手姫は、門前にひれ伏して懇願した。

 あまりの貧しい身なりの二人に住職は「この寺は、布団もない貧しい寺ですが、それでよろしければ」と答え、笑顔で迎え入れたという。

 そして、二人は薬師如来に祈願し、二十一日の願を懸け、満願の日に夢枕に薬師如来が出現し、「この上は熊野湯の峰にて湯治されよ」との告げられた

 二人は喜び、湯の峰へと参り、湯治に専念全快し、小栗家も再興されれたと伝えられてる。 


 以後小栗判官の通った熊野古道を「小栗街道」と呼ばれるようになった。

 

 

 

のこぎり坂の三体のお地蔵さん

       お遍路道中の安全を見守っているのだろうか・・・

 

 

 国道42号線の傍らに斑鳩王子跡の標識が見えた。

 

 

 

斑鳩王子跡


 鵤(イカルガ)王子社は印南町光川に鎮座し、近世「富王子社」といわれている。

 この辺りの地名を光川というのは「イカルガ」から転じて光川の字を当てたと云われているまた、富王子社も近くを流れる富川からと由来するらしい。

 熊野九十九王子の中でも最も創立の古い神社で、平安時代、塩屋、切目、岩代の各王子とともに栄えたそうだ。

 

 

 

 

切目王子跡

 

 

 切目王子社は熊野九十九王子の中でも藤代王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子とともに五躰王子の一つに数えられた別格の神社だそうで、現在も檜皮葺春日造の社殿を中心に古風なたたずまいを遺している。


 

 

 

 

切目王子には「きな粉の伝説」という伝説が伝えられている。

 その昔、僧侶をを殺して山に帰ってきた切部の王子は、捕らえられて右足を切られ、切部の山に追放された。

 ところが王子は、熊野詣の帰途にある者たちから熊野権現の御利益を奪うようになり、参詣者たちを嘆き悲しませるようになった。

 そこで参詣者が嘆き悲しむのを見た熊野権現は稲荷大明神と相談しかねて仲のよい「あこまち」を王子のもとにつかわし、王子が最も嫌がる「まめのこ」(きな粉)で化粧した者の御利益は奪わないよう約束させた。

 その後、この約束に神のお告げがあり、参詣者は「きな粉の化粧」が行われるようになったそうだ。

 

 

 

次回は切目中山王子から

 

 

 

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第13回 岩内王子~上野王子

2019年09月27日 | 熊野古道(紀伊路)散歩



  暑さ寒さも彼岸まで・・・・

        熊野古道(紀伊路)散歩を再開しました。



 御坊ICを降りて日高川に沿って岩内王子方向に車を進めるとお遍路道端に三体の地蔵さんを祀った祠に出会った

三体の地蔵さんは古の頃から旅人の安全を見守っているのだろうか。


遍路道端に咲く彼岸花





岩内王子跡


 御坊大橋のたもとに岩内郵便局がある。少し進むと岩内コミュニティセンターがあり、その敷地内に王子跡の石柱が建つ。

  岩内王子は焼芝(薬師場)王子とも呼ばれ、也久志波王子と書く。本来の社地は現在は日高川の中にあったとされている。河原に数基の石搭・石仏があるそうだ。

 元の社地が水没したようなので新たに也久志波王子として岩内王子を祀ったと続風土記は伝えている。

 

 




塩屋王子跡(現 塩屋王子神社)


 塩屋王子は、熊野九十九王子のなかで特に古く格式の高いものとされ、最初に出来た七王子(藤白、塩屋、切目、磐代、滝尻、近露、発心門の七社)の中の一社と云われているそうだ。


境内には此処にも彼岸花


盬屋王子祠前碑

 

塩屋王子神社


 塩屋王子神社の祭神は天照大神ほか11柱であるが、主神の天照大神の神像が美しいところから、別名を美人王子と崇われてきた。

 今日では美しき子が授かると言われ若い夫婦や女性の参拝が盛んであると「美人王子の由来」板が説明している。

 

 白河上皇は十余度の熊野詣でをしている。新古今集の白河院の歌として「立ちのぼる塩屋の煙浦風になびくを神の心ともがな」とある。


 「御所の芝」(白川法皇が熊野詣で行幸時に宿泊した建物の跡地)


 安政地震(1854)では津波がこの石段の13段目まで来た。宝永地震 (1771)の時は3段目まで来たと、御坊市内の浄国寺に記録があるそうだ。


 


 

上野王子跡

 
 上野の集落のはずれ、名田市民センターの前に浜辺から20m程度離れて王子跡の標柱がある。
 江戸時代の王子跡であり、旧地は北の山手少し行った所42号線の側にあったそうだ

 


旧上野王子跡の仏井戸 

 中世、上野王子は火災にあい、本地仏であった阿弥陀如来、勢至菩薩、観世音菩薩を刻んだ一枚岩を井戸の底に据え、二度と火災で熱い思いをさせないためと言う。三体の仏が井戸の底に沈んでいるそうだ。)

 

 紀伊続風土記に「今の往還の東北畑中に道あるを小栗街道といふ。道の側に仏井戸といふあり、是王子の旧地にて野径といふい当たれり、その社中世回禄にかゝりて廃絶せるよし寛文記に記せり」と記載されているそうだ。

 

 

清姫腰掛け石

 逃げる安珍が、追いかけてくる清姫を見て恐れ、この石に呪術を施し、不動金縛りの術で清姫を足止めにした。尻に取り付いた石を見て清姫は怒り、ここで大蛇に変身したという。

碑も生茂る夏草に埋もれていた。





次回は叶王子(津井王子)から


 

 

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第12回 高家王子~海士王子

2019年06月10日 | 熊野古道(紀伊路)散歩

 

 

高家王子跡


 内ノ畑王子社から西川の西側の道を南へ進むと、JRきのくに線に直交する手前にこんもりとした杜がある。この杜が内原王子神社があり、高家王子社である。

 今に残る王子神社であり、古の各地の王子社を偲ばせるたたずまいを見せている。

 



愛子の渕

 ここより南 50mに「愛子の渕」がある。江戸時代の豪族秦政助の一子亀千代は生れつき目が見えず、嘆き、円応寺の観音様に願掛けしたが効果はなく、前途を悲嘆した末に身投げした。政助は悲しみ、村人の者も声を掛けることすら出来なかった。ところが、死したはずの亀千代の体に不思議と温味が戻り、意識を取り戻し、「今、地獄に落ちそうになったが観音様のお救いで助かった」と言った。一同はその神秘に呆然とし喜んだ。この事があってから、この渕を「愛子の渕」と呼ぶようになったそうだ。




善童子王子跡


 熊野古道は、高家王子社から県道に沿って南下。一里塚跡を過ぎて、大池を横目に下っていくと民家の裏手に「善童子王子神社」の看板が見えてきた。


 連同寺王子、田藤次王子、伝童子王子、出王子、出童子また若一王子とも呼ばれ、人間の耳のあいまいさに加え紀州の人々の発音の特徴を物語る呼び名が一番多い王子だそうだ。また、善童子神社として祀られ、「よい子の神社」と呼ばれているそうです。




愛徳山王子跡


 善童子王子から宮前橋を渡り、南へ緩やかに下る。新興住宅の脇から小さな蜜柑畑を右に見て、薄暗く生茂った竹藪を約150m抜けると愛徳山王子の案内版が見える。  



 その右奥に愛徳山王子跡があった。社名の愛徳は「アタギ」とも読み、地名の阿多木原からこの名になったとも伝えられている。

 



道成寺

 日高平野の最奧部の高台に位置する天音山道成寺は、文武天皇の妃となった宮子姫の伝説や安珍清姫の説話で名高い寺院であり、歌舞伎や能の舞台としても広く知られている。

 

山門(上)本堂(中)と三重の塔(下)

 

 





海士王子跡


 愛徳山王子社から県道を南下し、右側に吉田八幡神社がある。その山麓を回り込むようにして行くとJRきのくに線の踏切が見えるカーブのところに海士王子社があった。

 海士王子社周辺は、道成寺創建にかかわった文武天皇夫人宮子の生誕の地(九海士の里)との伝承があり、海士王子社に祀られていた御神体の木像は、道成寺に移され「宮子姫」の像として祀られているそうだ。

 海士とか九海士の表示は近世の事であり、「くわま」、「クハマ」、「クリマ」王子とも呼ばれていたらしい。



宮子姫のお話

 今から千三百年ほど昔のこと、九海士の漁師と海女の間にひとりの娘が生まれた。この娘は地元の八幡神社に祈願して、授かった子なので宮子と名づけられた。でも、どうしたことか、髪の毛が一本も生えてきません。ある時、母親が海底で金色に光る観音像を見つけ、これを持ち帰り観音様に熱心に祈ったところ、娘は見事な黒髪に恵まれて美しい姫となり、やがて文武天皇の后となったそうです。

 





次回は岩内王子から


・・・御坊から印南、南部方面への九十九王子巡りは

                  今秋以降の投稿予定です。・・・


 



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