ふるさと!-秋田仙北平野を歩く-

ふるさと秋田の「仙北平野」をくまなく巡り歩き、その写真とエッセイを掲載します。

★旧中仙町豊川を往く-3⑥(終)

2024年03月06日 | 旧中仙町を往く

<歩いたところのH30年の航空写真>

●歩いた日:2024年1月20日(土)

●歩いた所

 ・豊 受:観音堂、川端街道下、治内野、上八丁堀、喜内野、下野、中野

●歩いたログ(足跡)(道のり6.2km) 

(以上の地図:国土地理院)

 最後にいつものように「国土地理院」の航空写真をご覧いただく。まずはH30年の写真から。


 
 写真の撮影範囲から、「仙北平野一号幹線用水路」の東側は欠けているがご了解いただきたい。

 左端を南北に「県道11号」(「角館-六郷線」)が走る。「斉内川橋」のすぐ北にある十字路のところが車を停めた場所。橙色線が歩いた道筋である。

 左上隅に、鬱蒼と杉木立が茂る「水神社」の参道と境内が見える。ほかにも森のような杉林があちこちに見られる。特に「斉内川」沿いに広がるす林は大きい。どうしてこんな林が残されているのだろうか。ここについては📸015のところで書いたように、かつての河道跡で砂利が多いことから、農地、とりわけ田んぼに適さないことから杉が植林されたと考えられるが・・・。ほかの林は?・・、よく分からない。

 中央やや左寄り、長辺の方向が両側の田んぼと異なる、細長い田んぼが見える。この後見るS50年の写真と比べると、ここは以前の「下堰」の跡と思われる。また、右下隅にも注目いただきたい。ここにもやや湾曲した細長い田んぼがある。これもS50年の写真と比較すると、「仙北平野一号幹線用水路」が整備される前の、「上堰」の跡であることがわかる。なお、「斉内川」の南側の林の「⇒」で指示したところが、「上堰跡」の標柱が立つ場所である。

 中央右上寄りのところが桜とモミジの木が植えられているところである。よく見ると、ここには三列に木が植えられており、枝ぶりから右側がモミジのようだ。その左下にも桜と思われる木が三列並んでいる。

 次にS50年の写真。歩いたところの西側の部分から。


 
 左端に「県道11号」。「水神社」は上端に半分のぞいている。

 「喜内野会館」の広場にある石碑には、「喜内野」の開拓事業がS50年に完了したとあるので、この写真は完了時の状況を示していることになる。

 開拓事業が完了したので、「喜内野」は小区画ながら一面開田されているが、「斉内川」沿いの大きな林のすぐ北のところ、田んぼ中の屋敷の西側に原野のような一角(ここだけ原野?⇒と示したところ)がある。開田せず屋敷の一部として残したのだろうか。H30年の写真では田んぼになっている。

 中央やや左寄り、南北に木立が連なっているのが「下堰」と思われる(私の手元にある古い地図に、この辺に「下堰用水路」と記された水路が描かれている)。この「下堰」の跡が先に見たH30年の写真に写る細長い田んぼのようだ。なお、「江戸時代」に行われた「下堰」の開削工事中に発見(1,677年)されたのが、「水神社」に祀られている国宝の「御神鏡」である。

 右端には、「仙北平野一号幹線用水路」に整備される前の水路で、こちらも木立が帯状に連なる「上堰」が写る。「仙北平野」の用水路は「上堰」をほとんどそのまま改修して作られたようだが、右下隅、「斉内川」に近いところは「現在の水路」と書いたように付け替えられている。ここもH30年の写真に見るように、現在は水路跡が細長い田んぼとなっている。

 なお、「下堰」、「上堰」の完成時期を調べると、それぞれ1,684年、1,715年となっており、さらに東側にあった「御堰」(「田沢疎水」の前身)とあわせて、これらの用水路が「江戸時代」の一大プロジェクトとして開削されている。

 右端、「上堰」」のすぐ西側に木立の連なり(「水路?⇒」のところ)が見える。「上堰」から分水している水路のようにも見えるが、改修前の「上堰」からは配水を受けていなかったと考えられる。石碑にはS25年から地下水利用による開田に着手したとあったので、地下水を溜めた「ため池」(この辺りに田んぼとは異なる形状の土地が見えるので、これらは「ため池」かもしれない)から配水するための水路だろうか。

 写真中央やや右上は一面の田んぼ(「木がない⇒」記したところ)である。桜やモミジはこの後に植えられたものである。

 右上、道沿いに「木立」が見える(「⇐木立⇘」のところ)。「喜内野」のほかの道沿いにも所々に木が見える。開田後も道沿いには木を残したのだろうか。それとも改めて植えたのだろうか。今も残っていれば異なった景色が見られたかもしれない。

 S50年の、歩いたところの東側の写真。


 
 右手に「栗沢川」が写る。「上堰」などと同じく、両岸に木立が連なる。

 この後見るS23年の写真で分かるように、「上堰」より東側(右側)、「下野」、「中野」の田んぼも戦後に拓かれた田んぼである。ここは「栗沢川」の水を引いて開田したのではなく(水量が少ないため)、ここからすぐ東に開削された「田沢疎水」の用水路が完成したことによって開田されたところであろう。

 最後にS23年の写真。
 
 だいぶ見づらいが、丹念に眺めていると分かってくる。左端に「県道11号」が、左上隅に「水神社」が写る。

 この写真で一番目立つのは、県道東側の「喜内野」、「下野」、「中野」に森林・原野が一面に広がっていることである。その中に「下堰」、「上堰」、「栗沢川」を確認することができる。

 「喜内野」の開拓が始まった直後なので、道筋は現在と大きく異なっている(開拓後に整備された現在の道筋をピンク色で書き入れた)。今回歩いた道筋のうち、この写真で確認できる道は、写真やや上段の、東西に延びる道のみである。

 田んぼは「県道11号」沿いと上段中ほどに見える。「下堰」、「上堰」の用水によって田んぼを拓くのは、ここまでが限度だったのだろう。

 「喜内野」の開拓記念碑によると、入植者の数はS22年が11名、S23年が5名とあった。「喜内野」に白っぽく見えるところ(「開拓中?」と書いたところなど)が多いのは、開拓のために森林の伐採が行われたせいだろうか。また、よく見ると、明らかに畑と思われるところもある。入植者16名の住宅(あるいは仮住まい)などの建物はよく確認できないが、この中で新しい生活が始まっていたことを考えると感慨深いものがある。

(終わり)

●ブログに掲載したログの累計(累計の道のり:631.8㎞)

 右上緑色が今回歩いた道筋。

 次回からはまた「斉内川」の北側に戻り、「旧中仙町豊岡」の「栗沢」を歩いた記事を掲載していく予定です。


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