青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

村山、旧駅舎慕情。

2024年02月26日 17時00分00秒 | 長野電鉄

(開業当時のそのままで@村山駅)

村山橋の東詰め、川を渡って須坂市内入った場所にある村山駅。1926年(大正15年)に長野電気鉄道によって開業した当時のままの木造駅舎が残っている。屋代線・木島線が過去の思い出の中に消え去ってしまった今、長野電鉄の中で開業当時の駅舎を残しているのは長野側から桐原・朝陽・村山・中野松川・信濃竹原の五つのみになっている。長野電鉄を訪問する際、あまり訪問する機会のなかった駅ですが、弱い冬の夕暮れに千曲川の風が冷たく吹き抜けるこの駅の風情は、なかなかに豊かなものがあります。現在は無人駅になってしまいましたが、突き出した石油ストーブの煙突が郷愁を誘う。貨物ホームを擁する広い構内があった駅で、現在は、貨物ホームの跡が保線基地として使用されています。

ホームから駅舎を眺める。古錆びたトタン屋根に、剥がれかけた木板の外壁。温度計に残る「日本相互銀行」は、無尽から始まった旧相互銀行系の金融機関で、その後太陽銀行→太陽神戸銀行→太陽神戸三井銀行→さくら銀行→三井住友銀行と合併に次ぐ合併を経て現在も存続している。ちなみに、日本相互銀行が太陽銀行と改称したのが1968年(昭和43年)のことなので、この温度計は少なくとも56年以上前からここにあったことになる。そんな年代物の温度計が今日びに変わらず現在の気温を示しているのだが、温度計もこの半世紀の気候変動にはさぞかしびっくりしているだろう。

駅舎内には閉鎖された出札窓口の横にキップの自動券売機が一つあって、なにやら海外から来たらしいアジア圏の実習生と思しき三人連れが一生懸命にキップを買い、長野方面の電車に乗って行ってしまった。地方の産業の担い手(第一次産業、二次産業に関わらず)が、高齢化と過疎化で立ち行かなくなる中で、海外から斡旋されてきた技能実習生(という名の「働かせるための安い労働力」だと思っているが)。全国のローカル線や地方私鉄に共通の現象だと察するのだが、最近、彼らが地方私鉄の日中を支える潜在的な顧客ではないかと思うときがある。国に仕送りするために、おそらく日本では車なんか持たないだろう。休みには買い物をしたり息抜きのために街へ出て行くのに、地方私鉄やローカル線を使っている姿をよく見かけるのである。

構内踏切が長野側に設置されている構造上、乗客の動線を支障しないように右側通行になっている村山駅。「電車が来ます」の赤色ランプが点灯すると、ゆけむり号がゆっくりと通過して行きました。通り過ぎる列車を待ち、遮断機が上がったホームからは、千曲の空にぼんやりと霞む冬の夕暮れが見終えました。

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内需を超えたインバウンド。

2024年02月24日 17時00分00秒 | 長野電鉄

(ああ、美わしの志賀高原@湯田中駅)

週末の午後遅く、湯田中・渋温泉郷や志賀高原を訪れる観光客が、「ゆけむり号」に乗って続々と到着する。暫しの賑わいの中にある湯田中駅。コロナ禍を過ぎて外国人観光客も日本に戻りつつあるようだし、そして後押しする「円安」もあって、海外勢にとっての日本は「安くて・楽しく・安全」な観光地であるようだ。大きなバゲージを引きながら改札を出て来る彼らを出迎えるのは、雪国仕様の四駆のハイエースで乗り付けた宿の送迎係たち。お宿のお迎えという光景は、昭和の時代とそう変わらないのかもしれないけど、何が違うかと言えばご丁寧に英語で書かれた宿の幟旗だろうか。それこそ「スノーモンキー」で一世を風靡した地獄谷野猿公苑を擁する湯田中・渋温泉郷。インフレの中にあって内需を喚起しても日本人が踊らない中では、多少なりとて英語くらい喋れないと仕事にならないのはむべなるかな。

ゆけむり号で長野から湯田中に運ばれてきた観光客は、ここからは長電バスにお乗り換え。冬でも横手山の下のスキー場までは通行が確保されており、厳しい冬の志賀高原の主要な公共交通となっている。いくら暖冬とはいえ、冬の志賀高原をマイカーで闊歩するのはそれなりの運転技術が必要なのではないかと思われるが、長電バスの熟練ドライバーは凍結路をいとも簡単にスイスイと登って行く。長電バスと言えば、2024年1月より乗務員不足のため日曜日の長野市内のバス運行をほぼ運休としてしまったことでちょっとしたニュースとなった。全国各地で路線バスのドライバー不足が叫ばれる中、冬場はドル箱である志賀高原線の運行人員を確保するために、限りあるドライバーのリソースを集中させたのだろうか。

長野電鉄、富山地方鉄道、北陸鉄道、そして西では一畑電車や高松のことでん、伊予鉄道あたり。「地方私鉄の優等生」とも言える経営規模を持ち、地元においても一定の地位を確立した老舗企業であったはずなのですが、この令和のご時世に至り、地方の人口減による乗車人員減、そして労働者の高齢化と常態化する低賃金による離職率の高さという苦しみの中にあります。そんな中で、確実にそれなりの金額を落としてくれるインバウンド需要・・・特にバスツアーでもなければ、鉄道利用が優先となる海外勢からの収入が無視出来なくなっている地方の観光地の姿を、長電沿線の湯田中や小布施に見る。羽田から東京、東京から北陸新幹線で一本で来れるのだから、比較的アクセスが良いというアドバンテージもあるんだろうし、スノーモンキーを見て志賀高原でスキーなんてこの時期らしいアクティビティですよねえ。

そんな「おもてなし」の一部として、展望席を備えた「ゆけむり号」のインプレッションやいかばかりか。そして、国際観光都市として発展する長野~湯田中を結ぶ長野電鉄には、ゆけむりのほかにも元成田エクスプレスのJR253系が投入されており、そちらはそちらで元々空港特急車だったため大きなバゲージを置ける荷物置き場があったりして。これもインバウンド向きの車両であるとも言えます。

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村山橋今昔物語。

2024年02月21日 17時00分00秒 | 長野電鉄

(上信国境を仰ぎ見て@村山~柳原間)

上信国境の雪山をバックに、千曲川に架かる村山橋を越えて行く「ゆけむり号」。長野電鉄の前身、長野電気鉄道が県と共同で事業資金を拠出して建設した道路併用橋です。官営鉄道の走る県都・長野へ向けての鉄道の開通は須坂の街の人々の悲願であったのですが、日本一の長さを誇る千曲川(信濃川)に800mを超える長さの鉄道橋を建設することは当時の長野電気鉄道の財力では容易ではなく、電鉄側が架橋を県に請願した結果、同じような場所に道路橋の建設を計画していた県と利害が一致。「鉄道と県道の併用橋」とすることで県が6割・長野電気鉄道が4割を負担し、大正15年(1926年)に完成したものです。かつて、須坂の街から対岸の柳原村(当時)に渡るためには、千曲川に浮かべた船を板で繋いだ舟橋に頼らざるを得ず、少しの増水でもあっという間に流されてすぐに使えなくなってしまうという貧弱なものだったそうで、河川状況に左右されず通年通行が可能な堅牢な橋梁の建設は、須坂の街の交通事情を大きく変える効果をもたらしました。大正年間に建設され、長年地域の交通を支えて来た村山橋は、経年による老朽化と、大型車両が対面で通行するには幅員がちょっと狭く、歩道もないこともあって、平成21年に道路を4車線化した上で改めて新・村山橋が架橋されました。そうそう、長電ファンと信州の人には常識かもしれませんが、新村山橋も改めて鉄道道路併用橋として建設されたのは面白いところでしょうか。まあ、別々に架橋するよりも手数が少なくて済むというのは大きなメリットか。

ここでかつての村山橋の姿なぞを。平成18年の姿。長野方面に向かう新村山橋の車道だけが架橋されていて、須坂方面は旧村山橋を二車線の一方通行で供用していた過渡期の頃の写真である。こう見ると、かつての村山橋は非常に狭かったんですね。橋を渡って来る2000系のD編成も旧塗装のストライプで、非常に懐かしい。この後の全検で「リンゴ塗装」にされて出てくるわけですが、この時期は「ゆけむり号」導入で湯田中のスイッチバックがなくなり、棒線ホームになった頃だと思う。2000系にも、使わなくなった旧駅舎を改装してオープンした「湯田中温泉・楓の湯」の広告が側面にデカデカと入っていて、少々風趣を削いでいた思い出があります(笑)。

閑話休題。橋の村山側に作られた公園より上信国境の山々を眺める。この日は朝方の山ノ内周辺こそ雲に沈んでいましたが、日中は晴れてポカポカ陽気でありました。志賀高原から菅平に連なる山々、そして日本百名山の四阿山までスカッと見渡せるロケーションに心が躍ります。冬光線を浴びながら須坂へ向かって行く1000系ゆけむりの姿。花道を往く姿が、フラッグシップトレインとしての気品に溢れていて絵になります。

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信州「ロマンスカー」の系譜。

2024年02月19日 17時00分00秒 | 長野電鉄

(かつての本線筋を往く@桜沢~都住間)

本来であれば、雪景色&ゆけむり号の組み合わせを求めて信州中野~湯田中間を中心に撮影をする予定だったのですが、あまりにも雪が少ないため里に降りてきてしまった。里は、より一層雪が少なく、色のない季節でよりモチーフ選びが難しい。桜沢から都住にかけての田園地帯、長電の中では比較的スピードの出しやすい高速ストレートが続く区間で「のんびりゆけむり号」を。古めかしい開業当時からの架線柱と、たくさんの碍子に通信ケーブルをくくりつけた「ハエタタキ」風の補助電柱がいかにも地方私鉄らしい風景である。現在の長野電鉄は、長野から湯田中間を一貫して「長野線」と称していますけども、開業時は屋代から須坂を経由し木島まで、千曲川の右岸を結んだ「河東鉄道」が建設した河東線がかつての本線筋でした。須坂から長野までは、長野電気鉄道が免許を受けた別路線の扱いでしたから、須坂から信州中野までの区間は、河東鉄道の面影を残す長電最古の区間と言えます。

土日を中心に運転されている「のんびりゆけむり号」は、1000系HiSEが専属で充当される列車で、1000系を撮影したければ土日に信州に来るのがいい。長野行きの「のんびり号」は小布施で、午後の「のんびり号」の回送スジは信濃竹原で、それぞれ定期のゆけむり号と交換する。この日は小布施での交換シーンを撮影してみた。小布施ではトイレ休憩込みのプチ停車の時間を取るため、駅舎に一番近い3番ホームへ入線するのんびり号。S1・S2のゆけむり号2編成が鼻面を並べての交換風景は、小田急時代の箱根板橋とかでこういうのもあったような朧げな記憶で、何にしろ贅沢なシーンである。「ながでん電車の広場」から見守る先代の特急車2000系。もう引退して10年以上の時が過ぎた。昭和30年代にデビューし、長野電鉄の特急車として半世紀以上の間君臨していた2000系も、デビュー当時から暫くの間は「ロマンスカー」の愛称で親しまれていたことはあまり知られていない。概して、進行方向向きの横並びの二人掛け座席を「ロマンスシート」ということに起因していて、同時期に各地の地方私鉄へ日本車輛製造が投入した車両群を総称して「日車ロマンスカー」なんて言いますよね。日車ロマンスカーから小田急ロマンスカーに引き継がれた信州のフラッグシップの系譜、その未来は、どこへ続いて行くのだろう。

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雪よいずこ、冬よいずこ。

2024年02月17日 23時00分00秒 | 長野電鉄

 (高社山雲隠れ@夜間瀬~上条間)

折角スタッドレスを履いているので、冬だし、雪のあるところでしっかりと冬らしい写真を撮りたい。ということで、急に思い立って夜中に家を抜けだした深夜1時。雪を見るなら信州に行って、久し振りに小田急HiSEこと長電1000系ゆけむり号でもサクッと摘まんでこようかなというお手軽プラン。深夜の高速は最寄りのICから下仁田まで。先日冷やかした下仁田の駅をちらりと横目に、グイグイと真夜中の内山峠。佐久。雪なし。温泉休憩で早朝の戸倉上山田。雪なし。千曲から長野市内。当然のように雪なし。中野を過ぎて、夜間瀬川の扇状地に上がったあたりでようやっとリンゴ畑にうっすらと雪が積もっているという状態。地元民に言わせれば、降らないわけではないということなんだが、とにかくの異常な暖冬で降ってもすぐ溶けて全く根雪にならないとのこと。これが2月の上旬か?と我が目を疑うばかりの上条ストレート手前、風景としては3月の半ばくらいだろうか。もう信州に通い始めてから15年くらいは経つのだろうけど、年々雪は少なくなり、そして冬が心底「寒いなあ・・・!」と思う日々は、普段の暮らしの中でも段々と減っているように思う。ああ、雪よいずこ、冬よいずこ。

高社山は雲をかぶってへそを曲げているし、雪景色と鉄道を撮影しに来たのに、この地肌の見えっぷりがつくづく残念な山ノ内界隈。遠くから踏切の鐘の音に混じって、コトン、コトン・・・カタン、カタン・・・タタン、タタン・・・と独特の連接台車のリズムを刻みながら、ゆけむり号の足音が、遠ざかったり近くなったりしながら迫って来る。多摩丘陵の高台で、子供の頃から聞いていた耳に馴染んだその音色は、何度聞いてもいいものである。本家では、VSEの完全引退により失われてしまったサウンド。全国的にも、保守が面倒な連接台車は軌道線以外では消滅の傾向にあり、非常に貴重な鉄道の奏でる「音の財産」の一つと思います。

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