Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

80歳代をどう生き抜くか

2024-06-09 06:00:00 | エッセイ

 

もう10年ほど前となる古希。まさに壮健に迎えることが出来た。

かかりつけの女医さんも顔をほころばせ、

「体のどこにも悪いところはありません。驚くほどお元気ですよね」と言ってくれた。

続けて「油断はいけませんよ。70歳を過ぎた頃から何やかやと出がちです。

健康管理にはよくよく気を付けて…」そう忠告してくれたのだが、

その時の僕は「大変お元気」との言葉に大いに気を良くし

「はい、はい」と軽く受け流したのだった。

 

しかし女医さんの忠告は恨めしくも、ものの見事に的中したのである。

女医さんが指摘したように何やかやと出てきたのである。

まず前立腺がん。これが72歳になった時。

まるで、これがスタートの号砲であるかのように翌年には膀胱がん、

さらに以降、これが毎年3度再発したから、がん手術は合わせて5度になる。

がんそのものはいずれも早期発見できたから今はもう心配なさそうだが、

これらに関わる発熱などで最初のがん以来、

81歳となった今年2月まで合わせて10度入院加療している。

 

今もなお毎月一度通っている女医さんも、そして10年来となる泌尿器科の先生も

「80歳を超えられたにしては、大変お元気」と以前聞いたようなことをおっしゃる。

もちろん悪い気はしない。確かに病院で行き交う同年配と思しき人と見比べると

「足取りもまだ確かだし、そうなのかな」と元気づく。

 

  

 

だが、「ああ、衰えたなあ」というのが本心である。

特に今年2月に入院した後の疲れは、それまでなかったことだった。

少し歩いただけで座り込みたくなるほどきつかった。

何とか体力を回復・維持しようと思い、ウオーキングに出かけると

以前は18分で歩けた同じ道が20分かかってしまう。

スマホの歩行計を見ると歩数はほぼ同じだ。

つまり、歩く速度が遅くなったということだろう。ひどく情けなくなる。

 

日本人の健康寿命は男性72歳、女性75歳だ。

つまり80歳を前に寝た切りや要介護になる人が多いということだ。

幸いここは切り抜けた。今度は80歳代をどうやって乗り切っていくかだ。

高齢者専門の精神科医・和田秀樹さんは

『80歳の壁は高く厚いが、壁を乗り越える最強の方法がある。

それは嫌なことを我慢せず、好きなことだけすることだ』という。

なるほど。要するに、「衰えたなあ」などとネガティブにならず、

前向きに明るく生き抜けということか。

 

 

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家事ヤロウ

2024-06-06 06:00:00 | エッセイ

 

玄関ドアを開け閉めする音がする。

「そうか、今日は妻が写真撮影に出かけるのだった。ということは6時か」

──もうちょっと寝たい。

そのまま布団の中から「いってらっしゃい、気を付けて」。

だが、そうゆっくりもしておれない。

今日は土曜日。毎週土曜日は家中の掃除など割り当てられた家事がある。

うつらと30分だけ過ごし、起き出した。

 

口をぐちゅぐちゅとすすぎ、歯を磨き、サッサッと顔を洗う。

鏡をのぞけば、顔色はほんのり赤みを帯びている。

気を良くしつつ、パジャマのまま食卓へ。

一斤の食パンを少し厚めに切り、そのまま皿に乗せる。

この酵母パンは焼かない。バターやジャム等もつけない。そのままで十分旨い。

飲み物は牛乳コップ一杯。それと妻が作ってくれるヨーグルトがある。

リンゴや柿、ミカン、それにバナナ等の果物類があれば、これらが加わる。

今日はバナナ一本。これだけだ。幾分早食いの気がある僕は、5分程度で食べ終える。

 

      

 

さっさと跡片付けしてしまおう。

と言ってもこれくらいの食事だから使った食器は少ない。

スポンジに洗剤をつけ皿やコップを洗う。

この時、気を付けなければならないのが、水を出し放しにしないことだ。

つい、そうしがちなのだが、それを妻に見とがめられると、「水道代が大変」とやられる。

冬場ともなると、どうしても湯を使うことになる。

すると今度は「うちはオール電化。電気代を考えてちょうだい」となる。やれやれ。

食後の跡片付けは、朝・昼食事の2度だけ。

夕食になると、さすがに食器類も、それに鍋、フライパンなど調理器具も多くなる。

ここは妻にお任せである。

 

新聞を広げ、一呼吸入れる。

まずは社会面に目を通す。

かつてこの面は事件・事故の生ニュースで埋め尽くされたものだが、

最近のトップ記事は生ニュースではなく、解説記事みたいなものになっている。

だから、この面を見てもぎょっとすることはない。

そんな生ニュースはテレビにお任せということか。

スポーツ面に移り、大谷翔平君やソフトバンクホークス関連の記事を追う。

このところ、大谷君のホームランペースが上がってこないな。

プロ野球は交流戦に入った。我がソフトバンクはまずまず勝ち進んでいる。

最終面のテレビ番組面を見る。

以前はラ・テ面と言い、ラジオとテレビの番組を一緒に掲載していたものだが、

BS放送をはじめテレビ番組が増え、ラジオ番組は別面に追いやられている。

時代に合わせ新聞の編成も変わらざるを得ないのだろう。 

 

      

 

さて、今日の大谷君の試合放送は何時からか? 「10時」ゆっくりしておれない。

それまでに家事をすべて終え、ゆっくり観戦といきたい。

掃除機掛けから始めるか、それとも風呂掃除からやるか。

特に理由もないが、気分は風呂掃除からだ。

昨夜の残り湯を使い、風呂蓋、椅子2つ、それに洗面器これも大小2つ、

洗剤をつけ丁寧に洗う。これらは湯垢がつきやすいから丁寧に洗い流す。

次は浴槽。ここは湯垢が付きやすい角の部分がポイントだ。

気持ち良く湯船につかり、何気なくこの角の部分に手をやったら、ぬるっ、ザラっとくる。

これでは湯の心地良さがすっと冷めてしまいかねない。

 

あとは床面だ。スポンジに洗剤をつけ隅々まで洗う。

特に排出口はたわしを使い丹念にゴシゴシと擦り上げる。

また、排出口に絡まっている不純物は、不快な臭気の原因にもなりかねないから殊更だ。

最後に、カビが出やすい隅の部分には防止剤を噴霧する。

この時、窓をしっかり開けるなど換気に気を付けておかないと吐き気を催しかねない。

ともかく5分ほど放置したままにして退散し、その後水で洗い流せば風呂掃除は終了だ。

 

      

 

一息入れることなく掃除機掛けを始める。

その前にソファパッドや座布団類をべランダに持ち出し、日向干しする。

太陽の光、紫外線には殺菌効果があるのは言うまでもないが、

何と言っても湿気が取れてふっくらなるので気持ちが良い。

さて、掃除機だ。まずダトスケースを見る。ゴミが残されたままだ。

取り外し、そのゴミを捨てる。

周りにはまだ小さなゴミがこびりついているから付属のブラシで丹念に落とす。

それからフィルター。軽くはたく要領でホコリを払う。たまに軽く水洗いするとよい。

説明書にはそう書いてある。

 

これらを済ませ掃除機の始動だ。

3LDKの我が家。たいして時間はかからない。

ただ、特に気を付けるのが食卓のイス周りだ。

パンのカスやら米粒などが足元に散らばっている。

年を取ると食事中、ついポロポロすることが多くなる。

妻と二人並んで食事をするのだが、散らばり具合は断然こちらが勝る。

妻は6歳下、その差だと笑ってごまかしている。

 

これで一通り終えた。あとは、ゆっくり大谷君のテレビ観戦だ。

ちょっと待て。昼食はどうしようか。もうしばらくすると、そんな時間になる。

食器洗い、風呂掃除、掃除機掛け、それからゴミ出し、洗濯物畳みなどはやるようになった。

だが、料理まではまだだ。

冷蔵庫の中を覗いてみる。何だ、ちゃんと用意してあるではないか。

ウィンナーに卵焼き、それに野菜サラダ、ノリもある。

ご飯は冷凍してあるからチンすればよい。昼ご飯はこれで十分。

「サンキュー、サンキュー」心置きなくテレビの前に座りなおした。

「料理も覚えないといけないかな」

新婚さんの大谷君にはそんなことあるはずもないだろうな。

 

 

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アジフライ

2024-06-01 06:00:00 | エッセイ

 

麦藁帽の隙間から汗が額から頬へと伝い、

かすかな風にシャツがそよいでいた。

そのシャツは確か、開襟シャツ風なものだったと思うが、

その時僕は小学3年生だったか、それとも4年生だったか……。

何せ70年ほども前の話だ、定かではない。

生地は水色に白の水玉模様、これははっきりと覚えている。

8歳違い、母親代わりだったとも言える姉が、 

1日がかりで縫ってくれたものだった。

姉はこのシャツを僕に着せ、この海辺の町に連れて来たのである。

ここには姉のボーイフレンド、後に義兄になる人がいた。

後に考えれば、嫁入り前の姉が一人で彼に会いに行くのは

両親が許すはずがなく、それで許しを得るため僕を連れて行く、

姉なりの苦心の策だったのだと思う。

 

           

   

そんな姉の思いはともかく、僕にとっては心弾む小旅行だった。

ここで初めて釣りもした。

釣りを教えてくれたのは、もちろん、義兄である。

初心者でも比較的簡単にできるサビキ釣りだった。

面白いようにアジゴがかかった。

たちまちバケツはアジゴで溢れるほどになった。

そして、僕が釣ったこのアジゴは

フライになって晩御飯の食卓に置かれていた。

もちろん、姉の手料理だった。

 

        

 

姉、義兄と3人の食卓は何か不思議な感じがした。

姉がお母さん、義兄がお父さんみたいな……。

「姉ちゃんは、なんで大浦小町とか言われとると?」

いきなり僕がそう尋ねると義兄は、

「ウハッ」と吹き出し、姉は顔を赤らめた。

なぜ、こんな話をしたのだろう。自分でも分からない。

ここに来てからずっと姉が嬉しそうな顔をし、

輝いているように見えたからかもしれない。

「おうち、そがんことば、どこで聞いてきたんね」

「近所の兄ちゃんたちが、そがん言うとらした」

「タケオ君、小町というのは美人、きれか女の人ということたいね。

タツコ姉ちゃんはきれかやろうが。そいで、小町って言われとるとさ」

「ふーん、じゃ大浦って何?」

「そいはね、タケオ君たちが住んどる所が大浦町やろ。

そいで、大浦町でいちばんきれか女の人を、大浦小町と言うわけたいね」

「そがんことね。やっぱい、姉ちゃん、きれかもんね。

だから、おじちゃんも姉ちゃんを好いとっとね」

今度は義兄が苦笑いだ。

「ほんと、せからしか子やね。早よ、ご飯ば食べんね」

姉はそう言いながら、義兄の顔を見てニコリとした。

フライは瞬く間になくなり、

義兄が作った食後のアイスキャンディーは、満足のおまけだった。 

 

 

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シングルレコード

2024-05-26 06:00:00 | エッセイ

 

「テーブルの上にお菓子の箱があるでしょう」

帰宅すると、「お帰りなさい」に続けて妻はそう言った。

「ほほう、どんなケーキかな」甘党の僕はニンマリとする。

「では早速……」開ければ、そこにケーキはなく、

ドーナツ盤、つまりシングルレコードが何十枚も重なっていた。

でも、がっかりもせず、腹も立たなかった。

むしろ、ケーキへの思いはたちまち消え、

「どれ、どれ」とそれらのレコードを探り始めたのだった。

「押し入れの中を整理していたら、そんなのが出てきたのよ。すっかり忘れていたわ」

そう言えば、妻は前日から押し入れをゴソゴソやっていたっけ。

 

五行説では「青」は春の色とされ、そこから夢や希望に満ち、

活力みなぎる若い時代を春にたとえて「青春」と言うようになったのだそうだ。

もう60年ほども前。確かに心身に活力がみなぎっていた。

そんな頃、どんな歌を聞いていただろうか。

僕はやはりビートルズ、これに尽きる。

歌も髪型もファッションも、何もかもが新鮮だった。

 

 

だが、菓子箱の中にビートルズは一枚もない。

さだまさしの「防人の詩」、日野美歌の「氷雨」、

佐藤隆の「12番街のキャロル」などといった邦楽、

アニマルズ、ロッド・スチュアート、レイ・チャールズ、

コリー・ハートなどの洋楽——何だかまったく一貫性のない

レコードが全部で34枚あった。

「防人の詩」「12番街のキャロル」などは40年ほど前に出ているから、

ビートルズに夢中だった頃に集めたレコードでないのは確かだ。

おそらく40歳ちょっと手前の頃に聞いていたものだろう。

 

「青春」とは高校生の頃から30歳手前、そのあたりに違いないとは思う。

だが、年齢だけでそう決めつけなくてもよいのではないか。

知人は「幾つになろうとも、〝ときめき〟をなくしてはいけませんね。

むしろ、年を取るほどに〝ときめき〟が必要かもしれません」と言った。

その言葉が、なぜか僕の胸の中に張りついたままになっている。

 

菓子箱の中に重なる34枚のレコード。

これらは最初の「青春」を終え、さまざまな喜怒哀楽を積み重ねた末の、

ちょっぴり大人の哀歓をにじませた40歳あたり、

「第2の青春」とも言うべき時を過ごした証しに違いない。

これらの歌に、心ゆらし、ときめきながら聞いていた記憶がじわりと蘇ってくる。

僕にとり、あの頃もまた大切な青春時代であり、

それを押し入れの中にしまい込んだままにしていたのだ。

 

今、ボーカルのレッスンに通っている。

かつてのように歌を聞く機会は減ったが、逆に歌っている。

ビートルズをはじめとする洋楽も、またフォークソング系の歌も。

その時はかつての日々を思い出し心弾み、和む。

「青春」というのは年齢に関係ないことかもしれない。

僕は今、「第3の青春」を楽しんでいる。そうに違いない。

 

 

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僕の先生

2024-05-20 10:32:59 | エッセイ

 

腰は右にくの字に折れ、脚はOの字。時に歩きにくく、汚れた道を、身を打ちつけながら凌いできた81年という時。懐かしい。無垢な幼い日々。

 

一 福島のおねえちゃん

 

小学1、2年生の時の担任だった福島先生は、学校でも僕を「たー坊」と呼んだ。僕も「福島のおねえちゃん」と言った。何せ50㍍と離れていないご近所さん同士。年の差を考えれば一緒に遊ぶなんてことはあるはずもないが、小さい頃から出会うたびに「たー坊」「おねえちゃん」と親しんでいたから、そう呼び合うのはごく自然なことだった。母にすれば、そうであっても先生を「おねえちゃん」なんて呼ぶのは申し訳ないことだと思ったのだろう、「学校では先生と呼ばんといかんよ」と言った。「うん、分かった」頷いてはみたものの、やっぱり、ひょいと「おねえちゃん」と出てしまうのだった。

「たー坊行くよ。用意出来てるね」おねえちゃんは毎朝決まって、そう声をかけてくれた。学校へ一緒に行くのだ。母は笑顔ながらに「先生が迎えに来てくれるよ。ほれ早く」真新しい布製のランドセルを背に急かせた。玄関の戸を少し開け、そこからおねえちゃんが来るのを待ちわびたように覗き見る。ほどよく日に焼けた顔、すらりと引き締まった体、まるでスポーツ選手のようだ。「たー坊」と呼ぶのと同時に戸を開け、「おねえちゃん、おはよう」と言った。「あっ」あわてて母を振り返り、ちょんと頭を下げた。

学校の途中には長い石段があった。「さあ頑張って」おねえちゃんが手を引いてくれる。それがまたうれしくて、少しくらいの風邪なんかでは決して休まなかった。

そんなおねえちゃんが、突然いなくなってしまった。二年生の二学期頃だったと思う。おねえちゃんの名が「鈴木」に変わった。「結婚されたのよ」母がそう教えてくれた。結婚がどんなものかも分からず、まして結婚すると姓が変わるのだということなど理解できようもない年頃。

「結婚されたので学校を辞められ、引っ越されたの」おねえちゃんは学校からも、ご近所からもいなくなった。どこか遠くへ行ってしまった。もう「たー坊行くよ」と声をかけてくれることも、手を引いてもくれないのだね。「なぜ、なぜ」と責め、わあわあと泣き出した僕を母は困惑顔で抱き締めたのだった。小さな小さな、初恋とも言えぬ物語。恋しいなあ、おねえちゃん。

 

二 出口先生 痛かった

 

出口先生のビンタは痛かった。教室の後ろにクラスメート3人と一緒に立たされ、いきなりパン、パン、パン、パンとやられたのである。さらに屋上へ連れていかれ、コンクリートに直接正座させられた。授業一時限の間だったから40分ほどだったと思う。置き去りにされた4人はポロポロ涙を流した。小学6年生になったばかりの頃だった。

なぜなのか。思い当たることはあった。仲良くしていたクラスメートが転校することになった。それで僕ら4人は何かプレゼントすることを思いつき、それぞれ小遣いから50円を出し合って学校帰りに繁華街のデパートへ揃って買いに行ったのである。手ごろなボールペンを買い、「明日渡そうね」と話しながらデパートを出たところに、帰宅中の出口先生とばったり。「お前たち、何しているんだ」「実は、○○君にプレゼントを買いに来たんです」先生に隠すことでもないので正直に話すと、「そうか、早く家に帰れ」僕らは先生に分かってもらえたのだと思っていた。

   

         

ところが翌朝、「昨日の4人後ろに立て」と言われたのだ。おずおずと整列すると、何も言わず、いきなりビンタが飛んできた。茫然とし、「なぜなのか」と心で問うた。「転校していく友だちにプレゼントするのは悪いことなのか」「そのため、50円出し合ったのがいけないのか」、それとも「学校帰りに繁華街へ買いに行ったのがいけないのか」。だが、どんなに考えても「悪いことをした」とは思えなかった。学生時代、柔道の選手だった体つきの先生を見ると、「なぜなんですか」と聞く勇気も出てこない。結局、悔しさをかみ殺し、声を出さず涙を流すだけだった。

子供心に抱いた「なぜ」は解けないまま過ぎ、50年ほど後に一晩泊まりの同窓会で出口先生と顔を合わせたことがあった。だが、互いにどこか気まずい風で、言葉を交わすことはなかった。やがて先生は亡くなられてしまった。この年齢となり、先生に恨みなんてあろうはずもない。ただ「なぜ」の答えがほしかった。頬をさするとビンタの痛さが蘇る。

 

三 ごめんなさい 山下先生

 

あだ名は『エス』。僕が名付けた。中学3年生の英語の授業。黒板の前には山下先生が立っていた。教師になってまだ2、3年ほどの若い女先生だった。『S』と書けば、なぜ、こんなあだ名にしたかおおよそ想像がつくはずだ。はち切れんばかりの若い女性の姿、形を見れば、ごく自然にこんなあだ名になる。中学3年生、いかにも思春期の男の子が考えそうなことだ。また、この年頃の男の子というのは女性の気をひきたくて、奇抜な行動をしたり、いたずらを仕掛けるものである。

ある日のこと。山下先生の授業が始まる前、学級委員長だった僕はクラスの皆に「今度の山下先生の授業では、何を聞かれても一切返事をしないことにしようよ。皆、どう?」そう提案すると、皆が「面白そうだ」と手を挙げてくれのだ。女子までも「いいわね」と同調したのは、なぜか分からない。ともかく満場一致のいたずら作戦となった。

                                         

授業が始まった。先生が「ここはこうで、こういう意味です。●●君分かりますか」と尋ねる。だが●●君、一言も返事をしない。「分かりますか」再度聞かれても同じだ。仕方なく別の生徒に尋ねてみたが、これまた返事なし。さすがに不審に思った山下先生。「皆、どうしたんですか」教室には先生の声が響くばかりだった。ベテランの先生だったら、そんな生徒の悪だくみなど簡単に見破り、その張本人を前に引っ張り出すことなぞ造作もなかっただろう。だが、何せ山下先生は純粋無垢な新米教師だ。生徒の悪だくみにまんまと引っかかってしまったのである。しまいにはどうしてよいのか分からず、しくしく泣き出してしまった。

若き女先生の涙、こうなるとは思いもしなかった。この悪だくみの張本人だった僕はすぐさま白旗を挙げた。立ち上がり、先生に向かって「Sorry  ごめんなさい」頭を下げた。生徒が初めて口を開いた瞬間だった。

 

四 「アラン君」はやめて

 

『ゴリカッパ』何ともひどいあだ名を、それも女性に対してつけたものだ。高校の時の音楽教師・荒木先生には申し訳ないやら、お気の毒やら。強く弁明しておくが、決して僕が名付けたものではない。いつの頃からかは知らないが、先輩たちからずっと受け継がれてきたらしい。そんなあだ名をつけられるほどの、何と言うか〝お顔立ち〟ではないと思えるのにである。

ある日の授業で、どういうことだったのか覚えてもいないが、荒木先生は全員合唱する形でフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』を教え、歌わせた。そして、だいたい歌えるようになったのを見計らい、何を思われたのか知らないが「はい●●君、一人で歌ってみて」と僕を名指ししたのである。もちろんどぎまぎするばかり。そんな僕にはお構いなしに、『ゴリ……』、いや荒木先生はピアノを弾き始めた。「ええい、もう」まさに意を決して歌い始めた。

「アロン ザンファン ドゥ ラ パトリーエ」たどたどしいフランス語で、どうにか一番を歌い終えた。親友が「ヨッ」と声をかけ、拍手してくれ、それにつられるようにパラパラと続いた。以来、僕は荒木先生のお気に入りの生徒の一人になった。廊下ですれ違うと、「おはよう、アロン君」と言うものだから、近くを歩いていた女生徒2人が、「えっ」「何っ」顔を見合わせ、すかさず「ぷっ」と吹き出した。

しばらくすると、僕は生徒の間で「アラン」と言われるようになった。荒木先生が「アロン君」と言ったのを、例の女生徒が「アラン君」と聞き違え、「そう言えば●●君、アラン・ドロンにちょっぴり似てるわね」なんてことで、校内に「アラン」と広めたらしい。あの二枚目スターに! 1人にんまりするより、恥ずかしさに身がすくむ思いだった。それもこれも元はと言えば荒木先生のせい。俯き加減に廊下を歩いていると、その先生が向こうからやってきた。そして「おはよう、アラン君」と声をかけてきたのだった。

 

 

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