goo

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1

2015-04-29 07:13:23 | 九州の梅を訪ねて

「花の旅」 総合目次 

 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1

 

 1   同窓会をやろうよ、 そして・・・  (博多の同窓会のついでに九州を巡ります)

 2   1000キロの道を  (車で東名道、名神道、山陽道を経由して九州へ)

 

 福岡県

 3   関門海峡を渡って  (関門海峡を見下ろす山へ)

 4   門司港レトロ  (大陸への玄関だった街を歩きます)

 5   梅の名勝 小石 仙凡荘跡  (余生を楽しむための花園)

 6  総合農事センター 白洲梅園  (人々の為に、ただそれだけの為に)

 7   香春町 神宮院  (急ぐ旅ではありません)

 8   貴重なもの、嬉しかったこと  (安上がりな人なんです)

 

 大分県

 9   宇佐神宮 山頭火と八幡神社  (八幡宮の本宮とは)

 10  杵築を訪ねて  (城下町で旅心を満喫)

 11  大分県護国神社の梅  (明日はどんな日)

 12  吉野梅園 一枝の花  (この日の朝は寒かった!)

 

 宮崎県

 13  延岡の梅  (延岡で梅と椿と菜の花と)

 14  都農の梅  (素敵な休日が過ごせそうです)

 15  若山牧水の生家  (牧水に親近感を感じました)

 16  かいごん塔 梅畑  (瞳孔が広がるような気分です)

 17  九州の山深く  (九州も山が深いですね)

 18  樅木尾有楽椿(もみきおうらくつばき)  (山里に都の椿が咲いていました)

 19  高鍋の舞鶴公園の梅  (上杉鷹山の出身地を訪ねました)

 20  湯の宮座論梅と四つの座論梅  (座論梅と称する梅は四種類)

 21  西都原と高岡の月知梅  (梅と桜の違いは多々ありますが)

 22  宮崎市民の森  (水温む街)

 23  青島に梅を探す  (島に行けば何か分かるかもしれない)

 24  宮崎の梅園と椿園  (花を育てる人々)

 

 鹿児島県

 25  鹿屋市の「めがね橋梅園」  (ほのぼのとした感慨に浸りました)

 

 熊本県

 26  凍てつく人吉梅園  (寒さに驚きました)

 

 鹿児島県

 27  暖かな眼差し  (報われなかった偉人への眼差し)

 28  春の水辺の光景  (枝にほころぶ白梅と水面に遊ぶ鳥)

 


 熊本県

 29  八代 松井神社の臥龍梅  (よくはしってくれるよな~)

 30  熊本市の梅林  (宮本武蔵の足跡)

 31  有明海を眺めながら  (あまりにも不思議な光景)

 32  天草の兜梅  (梅を見た後でちょいと一杯)  

 33   牛深の遠見山公園にて  (鎖国を徹底する遠見山番所)

 34  潮風の中のヤブツバキ  (天草灘の雄雄しい景色)

 

 長崎県

 35  原城跡と天草島原の乱   (島原の乱終焉の地)

 36  殿の意気込み 市民の心意気  (みんな良かれと思ってのことなのですが)

 37  長崎の花 アジサイ  (妻の「お滝さん」にちなんで)

 38  梅園身代り天満宮  (梅の古木の淡い紅色)

 39  東京より上海が近い  (「さかいなき」を図って)

 

 佐賀県

 40  長崎県から佐賀県へ  (梅林をはしご)

 41  練馬ナンバーとは珍しい  (人生は巡り会い)

 42  唐津と小城の梅林  (佐賀県の梅林)

 43  サザンカの自生地  (サザンカはヤブツバキとともに日本原産の植物)

 

 福岡県

 44  久留米の梅と椿  (早春の陽の光を、満面の笑みで)

 

 熊本県

 45  熊本の城と花と酒  (郷に入れば郷に従えと、焼酎を)

 46  熊本から大牟田へ  (田原坂ってこんな所)

 

 福岡県

 47  柳川の柳川鍋  (柳川鍋の真実)

 48  北原白秋の生家  (白秋の生い立ちを知ることができました)

 

 大分県

 49  由布院から日田へ  (できる時に、できることを精一杯)

 

 福岡県

 50  記憶に深く刻まれました (福岡県人の県民性)

 51  日々想うことをなして  (みんな昔と変わらぬ笑顔を見せてくれました)

 52  博多の梅  (博多のちょっと贅沢な瞬間)

 53  春の景色に巡り会う  (春の明るい花色に心が和みました)

 54  文は武に優ると信じ  (皆様もどうぞお元気にお過ごし下さい)

 

 

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

文は武に優ると信じ

2015-04-27 18:05:55 | 九州の梅を訪ねて

 

 「福知山山麓はな公園」で、紅梅が柔らかな陽を浴びていました。

 


 

 フクジュソウが花弁を開き始めています

 

 如月とは、仄かな暖かさの中で春爛漫の喜びを待つ、そんな季節なのです。

 

 

 直方市のはな公園から見る福知山は標高901m、九州百名山の一つに数えられます。

 

 この山の向こうが北九州市小倉南区です。

 

 私が九州へ入った夜に雪に降られ、この山裾の道がチェーン規制された為に、ルートの変更を余儀なくされました。

 

 山頂からの展望は360度、南に九重山系、東に瀬戸内海、西に遠賀川、北に北九州市の家並や玄界灘が望めるのだそうです。
 
 

 

 はな公園から北へ進み、中間市の梅安天満宮にやってきました。

 

 

 この神社の本殿の前に、一対の石の鷽(うそ)が置かれていました。

 

 解説板には、「菅原道真公が大宰府に下向の折、蜂の大群に道を阻まれましたが、その時鷽の大群が飛来して、瞬く間に蜂を滅し、菅公の一行は無事通行できたという由緒があり、拝殿前の鷽の像の頭をさすると頭がよくなる」 とありました。
  

 

 

 菅原道真公を祀った神社ですから、社殿の周囲を梅の花が覆っていました。 

 

 

 

 中間市から東へ向かい、北九州市に入ります。

 

 八幡西区の南、福知山山系を流れる黒川を堰き止めた、畑貯水池の横を進み

 

 

 白木橋駐車場の所から、畑貯水池へ流れ込む白木川沿いの道へ左折して、暫く進むと白木谷梅林に至りました。

 

 この梅林は個人の所有ですが、一般にも解放されています。

 

 白木川の支流の草木川沿いに30種類の梅が1200本植栽されています。

 

 少し標高もあり、谷中の梅林なので、花の時期には少し早い様子です。

 

 

 白木谷梅林から山の中に続く県道61号線東にはしり、小倉南区の三岳梅林公園を訪ねました。

 

 三岳梅林公園は、昭和天皇のご成婚記念に梅を植えたことに始まります。

 

 昭和54年に公園として整備され、約350本の紅梅や白梅が咲く梅の名所として知られるようになりました。

 

 

 白に仄かな紅を差す彩で、山の斜面に梅林が広がっていました。

 

 

 梅園横にある護聖寺は「1416年(応永23年)に三岳城主長野三郎左衛門尉により、長野氏の菩提寺として開山したと伝わります。32世の玉水氏は、森鴎外と交友があり、「鴎外日記」や、松本清張の「或る小倉日記伝」にも登場し、今も訪れる文学ファンが多い」との説明が掲示されていました。

 

 

  

 

 2015年2月17日 午後5時30分、 私は門司の海岸で関門海峡の対岸に夕陽が沈む光景を眺めていました。

 

 交通量の少ない夜間に走るだけはしるのが私の旅のセオリーです。

 

 これから約1000キロ、10時間強のドライブが九州周遊の旅を締めくくります。

 

 元気な級友達と盃を酌み交わした、想い出深い旅になりました。

 

 梅を追って、菅原道真公を敬う人々の多さを知る旅でもありました。

 

 苦手だった日本史を学び直す気持ちになったのは、学問の神様道真公のお蔭です。

 

 文は武に優ると信じ、これからも知識知恵を重ね深める人生のドライブを続けて行きたいものです。

 

 

  約2ヶ月に及ぶ九州のブログ旅にお付き合いを頂きまして、本当に有難うございました。

 

 沢山のコメント等を頂きましたこと、深く感謝申し上げます。

 

 またお会いできる日が来るまで、皆様もどうぞご健勝にお過ごし下さい。

 

 

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1 

他の花の旅 旅の目次

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

春の景色に巡り会う

2015-04-26 19:09:11 | 九州の梅を訪ねて

 

 福岡には何度も来ていますが、以前から気になっていたのが、国営海の中道海浜公園です。

 

 国営公園は全国に数十ヶ所ありますが、数年前に訪ねた広島県の国営備北丘陵公園も素晴らしい公園でした。


 東京都立川市の昭和記念公園も期待を裏切られたことがありません。

 

 九州唯一の国営公園である、海の中道海浜公園はこの季節ですと、菜の花に巡り合える筈です。

 

 そして予想通り、春の景色に巡り会うことができました。

 

 

 

 春の明るい花色に心が和みました。

 これから、九州北部の梅を訪ねながら、帰路に付きます。

 

 これだけたっぷり遊んだのに、いざ帰る段になると、何かをやりのこしたような気分になってきました。

 

 多分、思うように梅の花を満喫できなかったことが、燃焼不足を感じさせているのかもしれません。

 

 それならそれで、また来ればいいんです。 

 そう思うことにします。

 

 北九州の福山君や山下君達とも、「また飲もうぜ!」と約束したことですし。

 

 博多湾に突き出た海の中道から福津市に向かいました。

 

 訪ねたのは「本木川自然公園ほたるの里」です。

 

 

緑に包まれた静かな谷に沿って遊歩道が続き、数多くの梅が緋色の花を咲かせていました。

 

 

メタセコイアの林が空に向かってフォルムを見せています。

 

 北九州市の農事センターで見た、メタセコイアを想い出しました。

 

 6千年前に日本を覆っていたメタセコイアは、今でも日本の風景に良く似合います。

 

メタセコイアの葉が地面を朱色に染めていました。

 

 

福津市から北へ向かって、宗像市に入ってきまし。

 

 市内を流れる釣川の土手を菜の花が飾り、数羽の水鳥が川面にのんびりと羽を休めていました。
 

 

 宗像市の鎮国寺では、梅の古木が薄紅色の見事な花を咲かせていました。

 

 玄海灘に面した宗像市は暖かな対馬海流の影響を受けているのでしょう、有明海側よりも、梅の花の開きが早いような気がします。

 

 

 この寺では、熱海緋寒桜が満開の花を咲かせていました。
 

 

 

梅も桜も並べてみれば良く似ていますが、梅は一輪毎ですが、桜は複数輪が一緒になって枝に付きます。

 

 

 梅の下では一人静かに酒を飲み、桜の下では友と酒を酌み交わしたくなるのは、こんな花姿が影響しているのかもしれません。

 

  

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1 

他の花の旅旅の目次

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

博多の梅

2015-04-25 00:34:51 | 九州の梅を訪ねて

 

 2月17日

 

 博多市内で朝を迎え、福岡城址の舞鶴公園へ足を運びました。

 

 

 夜は開けていますが、東の空に雲があり、フィルター越しのような柔らかな光の中、紅白の梅の花が優しい表情を見せていました。

 

 心の中に巻かれていた菰が、ゆるゆると解け落ちるような思いで、暫し眺め続けました。

 

 すぐ横の大濠公園へ足を向けると、鏡のような水面が朝の光りを映し、時を止めたような静寂に包まれていました。

 

 

 人影の少ない公園を、白いコート姿のお嬢さんが通り過ぎて行きます。

 

 そうだったのですね。

 

 梅の花が咲き始めても、首の周囲には冷気が漂い、季節はまだ、博多乙女に冬の装いを求めています。

  

 

 大濠公園の一隅の、「国際友好の森」の紅梅が、朝の仄かな光にほころんでいました。
 

 

 何時の間にか雲は流れ去って、明るい光の中で博多の街が目覚め始めています
 

 

 東京を出てから約二週間、博多の街で、今まで出会ったことのない、ちょっと贅沢な朝を楽しむことができました

 

 都心の南へ移動します。

 

 

 訪ねた場所は平尾山荘跡。

 

 この場所は、幕末に活躍した女流歌人野村望東尼が暮らし、勤王志士の交流の場となった所だそうです。

 

 高杉晋作もこの場所に身を寄せたことがあるそうです。

 

 如何にも、肝の据わった博多女子といった面構えの胸像が朝陽を浴びていました。

 

 

 

 私はこの後、福岡植物園の開聞を待って園内へ入り、フイルムカメラで「四季の花」に使う写真を撮って過ごしました。

 

 今度何時来れるかは分かりません。

 

 時計草が赤く咲いて、目の前に過ぎゆく時を示しています。

 

 そう、時は二度とは戻ってこないのです。

 

   

 

  

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1 

他の花の旅 旅の目次

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

日々想うことをなして

2015-04-24 00:23:34 | 九州の梅を訪ねて

 

 2月14日 土曜日に博多で大学の同窓会が行なわれました。

 

 私は予定通りのぐでんぐでんで、最後のほうは誰と何を話したか覚えていません。

 

 ホテルに帰ったのは多分、26時を過ぎていたでしょう。

 

 九州で初めての同窓会でしたが、集まり易い東京での会と同数の級友が集まってくれました。

 

 集まってくれた全員が元気な様子で、昔と変わらぬ笑顔を見せてくれました。

 

 一番遠くから駆けつけてくれた大松君は、経営する盛岡の牧場で昼まで働き、午後の飛行機で花巻空港から駆けつけてくれたのです。

 

 明朝一番の飛行機で盛岡へ帰り、午後からまた牛舎で仕事だそうです。

 

 彼は昔から本当に律儀な誠意の人です。

 

 蓮田君は数年前に再婚し、新しい命にも恵まれたそうです。

 

 これから子供が成人するまで頑張ると話していました。

 

 いや~ 言葉もありませんでした。 彼こそ本当の強者です。

 

 そうですよね。

 

 皆一度きりの人生です。

 

 「日々想うことをなして、明日を思い煩うことなかれ」で、それでいいんじゃない。

 

 さ~て私も、思うことを成して則を越えず、好きなことを精一杯楽しむぞ!

 

 と言うことで、次の日曜日、私は二日酔いのままに、気のままに過ごしました。
 
 

 何だか、ちょっといい訳っぽいかな~ ・・・

 

 

 2月16日

 

 梅を見に九州に来たら、ここを見ないで帰る訳にはいきません。

 

 大宰府天満宮にやってきました。

 

 

 

 大型の観光バスから下りる人々は皆、中国語や韓国語を話しています。

 

 五分咲きの飛梅の前でポーズをとるのは中国のお嬢さんのようです。
 
 

 

 文化2年(1805)に奉納された御神牛は、頭部を撫でさすれば知恵が付くとの信仰があるそうです。

 

 二百年以上も撫でられた青銅の牛の頭は金色に輝いていました。
 
 

 

 大宰府で梅を見た後、少し元気を回復したので、福岡市の西隣、糸島市の小富士梅林へ足を伸ばすことにしました。

 

 福岡県の最西端、佐賀県の唐津を目と鼻の先にする船越湾を眼下に、実梅が栽培されていました。

 

 江戸時代、飢饉をしのぐ為に育てられた梅林だそうです。

 

 

 細い道が民家の中を縫うように続き、白花が霞のような風情で枝々を飾っていました。
 

 

 天満宮の鳥居が海に向かって印象的なシルエットを浮かび上がらせます。

 

 その昔は船で参拝していたのかもしれません。
 

 

 

 福岡へ戻って、油山自然観察の森を訪ねました。


 人気のない森でひっそりと咲く紅梅に巡り会いました。

 

 一週間以上も、花の咲かない九州の梅林を廻ってきましたが、こうして紅色の花を見ると、やっぱり心が和みます。

 

 

 欲が出て、花畑園芸公園にも足を運びました。

 

 

 見事な古木の梅に、紅白の花がほころび始めたところでした。

 

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1 

他の花の旅 旅の目次

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

記憶に深く刻まれました

2015-04-23 01:11:37 | 九州の梅を訪ねて

 

 大分県から福岡県に入り、うきは市の屋部地蔵公園に寄ってみました。
 

 

 屋部地蔵公園は、西久大運輸倉庫株式会社が保有する土地を公園として無料開放しています。

 

 約300本の梅が植栽され、108体のわらべ地蔵と108体の羅漢像が個性ある表情で並んでいました。

 

 

 予想通りに、梅の花を見ることはできませんでしたが、5000坪という広大な敷地をこのような形で無償解放する行為は、久留米の石橋文化センターを寄付したブリジストンや、江戸末期に私財を投げ打って白洲に灯台を建てた岩松助左衛門にも共通する、福岡県人の県民性を示すものとして、私の記憶の中に深く刻まれました。

 

 

 うきは市から八女の谷川梅林へまわってみました。

 

 

 集落の周囲に連なる明るい丘陵地帯に梅林が広がり、午後の暖かな陽射しを浴びていました。

 

 丘陵地の下には田が広がり、水の届かない場所には梅が栽培されていました。

 

 梅は主に梅干しを作る為に栽培されている筈ですから、米を主食とする日本の原風景を見ていることになるのでしょうか。
 

 

 

 梅は中国が原産で、紀元前200年ごろの馬王堆から、梅干が入っていたらしい壺が見つかっています。

 

 稲作が日本に普及した弥生時代には既に、梅も栽培されていたようです。

 

 弥生時代前期から古墳時代にかけて、山口県、大阪府、奈良県、京都府、石川県、東京都などの遺跡から梅の遺物が出土しています。

 

 但し、梅干が広く我が国に普及するようになったのは江戸時代に入ってからのことのようです。

 

 

 八女から朝倉へ向かいました。

 

 朝倉へ向かった理由は、朝倉市の北に接する古処山が花の百名山だからです。

 

 田中澄江が「花の百名山」に、秋の日の一日、古処山に登ってシュウメイギクを見付けたと書いています。

 

 私は登るつもりはありませんが、山容だけでも見ておきたくて、麓の朝倉市秋月へと向かいました。
 

 

 秋月に着いて、秋月という名を何処かで見た記憶が蘇りました。

 

 宮崎県の高鍋です。

 

 戦国時代末期に豊臣秀吉の九州征伐に敗れた秋月種実が、降伏後に宮崎県高鍋に移封され、秋月氏は幕末まで高鍋城を居城としたのでした。

 

 そして私が訪ねた朝倉市秋月地区は、優雅な時間が流れる、重要伝統的建造物群保存地区に選定された旧城下町だったのです。

 

 朝倉に来たのは、秋月氏の足跡を辿る目的ではないのですが、思いがけない旅の偶然に驚かされました。

 

 

 

 秋月の街で、緒方 春朔(おがた しゅんさく)顕彰の碑を目にしました。

 

 碑文には、「秋月藩医であった緒方 春朔はジェンナーに先駆けること6年前、天然痘患者から採取した痘痂を鼻から吸引させるという種痘を完成させ、天然痘予防に大きな業績を残した」と記載されていました。

 

 

 そう言えば、若山牧水の生家を訪ねた記事を書くときに調べた資料に、

 

 「牧水の祖父、若山健海は文化8年(1811)所沢市神米金の農家に生まれました。

 

 長崎で西洋医学を学び、宮崎で医院を開業。

 

 その後、オランダ人モーニッケより種痘の方法を学び、宮崎で実施。

 

 日本における種痘の先覚者としてその名を残しています。」

 

 とあったのを思い出しました。

 

 様々な出来事が、土地と時間とが織りなす、縦糸と横糸に組み合わさってゆく様子を目の当たりにしたような充実感に浸ることができました。

 

 

 秋月地区からの帰り際、街外れから古処山を振り返ると麓の町で、人々が泣いて笑った年月を見続けてきた山が、今日も穏やかな表情で旅人の視線を受け止めてくれていました。

 

 

 

 さ~て、そろそろ博多の酒盛りの席へ移動することにしましょうか。

  

 

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1 

他の花の旅 旅の目次

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

由布院から日田へ

2015-04-22 17:39:47 | 九州の梅を訪ねて

 

 2月14日
 

 由布院で久しぶりに温泉に浸り、朝はのんびりと出発しました。

 

 今日は夕方18時から博多で、40年来の友が集う同窓会が予定されています。

 

 あまり早く着いても時間を持て余すだけですから、距離と時間を計算しながら、ゆっくりと博多を目指しました。

 

 本来、今回の旅は、同窓会の為に博多へ来るついで旅なのです。

 

 折角時間と手間を掛けて博多へ来るのですから、時間と費用をちょっとプラスすれば、九州の花を見て廻れると考えましたが、随分と遠回りをしてしまいました。

 

 今の私にとっては健康と時間が何よりも貴重な財産です。

 

 最近は「できる時に、できることを精一杯やっておこう」と常に意識するようになりました。

 

 現在64歳ですから残り時間は多分、最大40年程度でしょう。

 

 車の中に寝泊まりするような放浪旅も、後30年が限度でしょうか?

 

 え、計算が甘いですって。 

 

 いえいえ、ここまで来たら10年ぐらいの年月は誤差範囲だと思います。

 

 などと、馬鹿を言ってるうちに、国道脇に滝が見えてきました。
 

 

 

 慈恩の滝だそうです。

 

 案内板によると、玖珠川の支流の山浦川に掛かる7滝の内の一つで、この上流に6つの滝が連なっているようです。

 

 慈恩の滝は、滝の裏側に遊歩道が通じていて、滝の裏側に入ることもできる「裏見の滝」です。

 

 水しぶきを浴びながら、滝の中へ入ってみました。

 

 岩が露出した遊歩道は飛沫に濡れて、踏み外せば滝壺へと滑り落ちかねませんが、童心に帰って、ちょっとしたスリルを楽しませてもらいました。

 

 

 慈恩の滝から国道210号を暫く進み、日田市街の手前で左折して国道212号に入りました。

 

 やって来たのは、おおやま大久保台梅林公園です。

 

 

 周囲を峰々に囲まれた丘陵地帯に、3万本とも言われる梅園が広がり、散策路が続いていました。

 

 

 国道212号線を挟んだ反対側の丘陵地帯にも梅林が広がっています。

 

 こちらは、おおやまふるや台梅林と呼ばれているようです。

 

 

 正面に大分県と福岡県の県境となる、釈迦岳が見えていました。

 

 釈迦岳の福岡県側のピークは標高1229mで、福岡県の最高峰だそうです。

 

 二つの梅林を見終えて、再び国道210号に戻り、日田市街に入ると、「旧市街 豆田の町並み」の看板に気付きましたので、矢印の方向に車を向けました。

 

 

 道路脇に掲げられた「日田市豆田町伝統的建造物群保存地区」の掲示の概要は、

 

 「日田は北部九州の各地を結ぶ交通の要所として栄え、寛永16年(1639)に、日田御役所(日田陣屋)がおかれ、その陣屋膝下の町として発展した町人地が豆田町です。

 江戸時代中期には京都、大阪商人との取引で富を得た商人達が台頭し、豊かな経済力を背景に都市文化も花開きました。」

とありました。

 

 日田市内を流れる三隈川(みくまがわ)は福岡県内に入ると筑紫次郎の別名を持つ大河、筑後川となり、下流の久留米や大川などの都市へ木材や米などを運ぶ物流経路として利用されていたようです。

 

  

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1 

他の花の旅 旅の目次

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

北原白秋の生家

2015-04-21 22:32:42 | 九州の梅を訪ねて

 

 柳川と言えばもう一つ、見逃せないのが北原白秋です。

 

 「福柳」の直ぐ近くに、北原白秋の生家が記念館として保存されていました。

 

 北原白秋は、明治18年(1885)に柳川の酒造業を営む家に生まれますが 、生家は明治34年の大火で大半を焼失しました。

 

 昭和44年に生家が復元され、昭和60年には生誕百周年を記念した記念館(資料館)がオープンしています。

 

 

 復元された生家に入ると、土間の横に酒桶が並べられていました。
 

 

 

 土間の奥の、広い畳の部屋には数多くの吊るし雛が飾られています。

 

 

  生家の間取りに、豊かな商家の暮らしが窺えます。

 

 

 母屋の裏に掘割が通り、その水辺へ下りる石段に屋根が渡されていました。

 

 

 その屋根を支える白壁へ、掘割の水面に反射した陽の光が揺れています。

 

 

 北原白秋は、その様を「水陽炎」とか「昼ねずみ」とよんでいたと、壁に説明が掲げられていました。

 

 

 このような、身辺のさり気無い現象に意識を寄せて、言葉に表すことができるのが、詩人たるゆえんなのでしょうか。

 

 生家の壁に、北原白秋が作詩した校歌、社歌の一覧が見えます。

 

 

 校歌では、東京大学の歌、芝浦工大、駒沢大学、慶応山岳会の歌、岐阜薬科専門学校、同志社大学、釧路小学校、県立湘南中学校、大連中学校など、隈なく全国の小中大学に及び、

 

 社歌ではブリジストンタイヤ行進曲、白洋舎社歌、丸善の歌、

 

 市町村歌では、八王子市、横須賀市、水戸市、福島市などと、

 

 見ているだけで白秋の評価の高さが理解できます。

 

 数日前に宮崎県の山奥で若山牧水の生家を訪ねましたが、北原白秋と牧水は明治37年に早稲田大学に入学し、中林蘇水とも親交を深め「早稲田の三水」とよばれていたそうです。

 

 28歳で結婚して神奈川県三崎に転居しますが、その時に「城ケ島の雨」、36歳の信州滞在中に「落葉松」などの代表作を発表しています。

 

 私生活では、 35歳(1920年)で小田原の住宅の隣に山荘を新築し、小田原の芸者総出の祝宴を挙げ、それが原因で離婚するなど、相当なお坊ちゃんだったらしいことも覗い知ることができました。

 

 白秋の生家を訪ね、「ゆりかごのうた」「砂山」「ペチカ」「あわて床屋」など、日本人なら誰でも知っている名作を、童心のままに作詞したと思える白秋の生い立ちを知ることができました。

 

 昼食に、想い出深い柳川鍋を食し、白秋の生家で存分に時間を費やして、時計を見ると14時を過ぎていました。

 

 博多へ向かうには少々早すぎます。

 

 そこで、思い付いたのが由布院です。

 

 何だか今日はのんびりと温泉に浸かってみたい気分になっていました。

 

 そうと決まれば、後はナビのお姉さんにお任せして、私は黙ってハンドルを握るだけです。

 

 福岡県南部のストレスのない田舎道をはしり続け、やがて正面に雪を被る久住山系らしき山容が見えてきました。

 

 

 

  

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1 

他の花の旅 旅の目次

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

柳川の柳川鍋

2015-04-20 23:58:26 | 九州の梅を訪ねて

 

 次に、大牟田の柳川へ向かいました。
 

 


 柳川に着くと最初に、藩主立花家の邸宅であった、「御花」という施設に行ってみました。

 

 明治43年に立花家の迎賓館として建てられた、白い鹿鳴館様式の流れをくむ建物が華麗でした。

 

 

 この建物は現在、結婚式場として利用されています。

 

 すぐ近くに食事処があり、ショーケースに蝋細工のメニューが陳列されて、広々としたテーブル席に次々と観光客が入って行きます。

 

 まるで、デパートの食堂みたいでした。

 

 そして柳川と言えば、何と言っても柳川鍋です。

 

 運河沿いを歩いて、居並ぶ料理屋を物色しました。

 

 

 幾つかの店を窺い、川下り乗下船場近くの「福柳」という鰻屋へ入ることにしました。

 

 後で調べると、この店は江戸時代中期から150年程も続く老舗のようです。

 

 

 店内へ入ると、重厚な木造りの帳場があり、その先へ通路が長く伸びていました。

 

 

 左手に二席の小上がりがあります。

 

 

 その先に、吊るし雛を飾るスペースが続き、

 

 

 右手に中庭を見る椅子席が設えてありました。

 

 

 更にその通路の先に、ガラス戸で仕切られた部屋が見えます。

 

 

 そして引き戸を開けて中へ入ると、見事に和洋が調和した「南風のまほら館」と名付けられた部屋に通されました。

 

 高い天井にステンドグラスの窓が嵌り、石造りの暖炉が据えていました。

 

 

 明治初期の頃の、文明開化を彷彿とするような、豊かな地方文化の香が漂います。

 

 メニューは鰻が中心ですが、私は当然柳川鍋を注文しました。

 

 オーダーを取りにきたお嬢さんが、「柳川鍋はドジョウですが」、と親切に教えてくれました。

 

「ええ、結構です」と答え、「こちらでは、昔から柳川鍋を出されているのですか?」と聞くと、ちょっと小首を傾げながら、「ええ・・」と戸惑ったような表情でした。

 

 あれま~ と思いました。

 

 アルバイトの方で、メニューに関する知識がないのかなと思いました。
 

 

 

 

 更に、「むつごろう」の煮物を追加注文しました。

 

 何しろ、こんなに有名な「むつごろう」を、私は今まで一度も食べたことがなかったのです。

 

 

 柳川鍋は、ちょっと甘めで、熱々フウフウのほっこりしたドジョウ鍋の、すこぶる結構な味が、深く深く記憶に刻まれたことでした。

 

 一方で「むつごろう」さんは、

 

 ん~・・・、 醤油で煮込んだ、煮物の味しかしませんでした。 

 

 ところで、このブログを書くに当って、ネットで「柳川鍋」を検索してみますと!

 

 「柳川鍋(やながわなべ)は、ドジョウを使った江戸生まれの鍋料理。

 

 どぜう鍋と同じくドジョウの鍋料理であるが、開いたドジョウを予め割下で煮こみ卵とじにしている点で一般的などぜう鍋と区別されることが多い。」

 

 ひぇ ~ !!  柳川鍋は柳川発祥ではなかったんだ!

 

 うっちゃられた~~~ 

 

 ちなみに、「ドジョウの鍋料理は、まず、文化元年(1804年)に浅草駒形で越後屋がドジョウを開かずにそのまま使った鍋料理を創始したとされ」だそうです。

 

 以上、お粗末サンタ、参ったサンタでした。

 

  

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1 

他の花の旅 旅の目次

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

熊本から大牟田へ

2015-04-20 00:30:26 | 九州の梅を訪ねて

 

 2月13日

 

 熊本市内から国道208号を北へ向かいました。

 

 暫くはしると、道路脇に「田原坂」の標示が見えました。

 

 えっ、田原坂ってこんな所なのか、と思いました。

 

 西郷隆盛が鹿児島なので、田原坂は熊本と鹿児島の間に位置すると勝手に思い込んでいたのです。

 

 

 それにしても、直接目にした田原坂の地形に、何でこんな所が戦争の帰趨を決めたのだろうとの疑問が生じてきました。

 

 眼下の谷と、丘の上は数十メートル程の高低差しかありません。

 

 しかし、解説によれば、「この付近は、3月4日から17昼夜に及ぶ激戦地で、当時は昼尚暗き森林の中を通る主要道路で、他に大砲や弾薬を運ぶ道はなく、麓から頂上に達する落差60mの切通した田原坂(一の坂、二の坂、三の坂)には、官軍、薩軍双方がとりでを築き、一進一退の大攻防戦が展開された。

 

 結果は薩軍が敗退したが、この間7日間はみぞれまじりの雨また雨の連続であったと伝えられる。」

 

 だそうです。

 

 

 私は西南戦争が起きた理由を知りませんでした。

 

 改めて調べてみますと、明治政府を樹立した、後の韓国に対する政策論争の末に西郷隆盛が政府役職を辞して鹿児島に戻り、私学校を設立しますが、その生徒達が政府の弾薬庫を襲う事件が戦争の引き金となったようです。

 

 江戸幕府から明治政府へと政権が代わってもまだ、薩摩、長州、尾張、会津といった、藩政を基盤とするお国意識が国民の中に残っていたのでしょう。

 

 また武士階級の特権はく奪による混乱が続く中で起きた内戦だったようです。

 

 田原坂の戦いの時、坂の頂にあった民家の土蔵が、両軍の銃弾で無数の疵を受けました。

 

 戦いの直後に撮影された写真を参考に、昭和63年に土蔵が復元されていました。

 

  

 

 国道208号に戻り、再びナビのお姉さんに進路を委ねました。

 

 1時間程もはしると、熊本と福岡の県境を越えて、大牟田市の普光寺に到着しました。
 
 

 

 普光寺は大牟田市街を見下ろす、三池山の中腹にあります。

 

 市街地の奥で、有明海が空と大地との狭間に一筋の蒼い基線を見せていました。
 

 

 

 普光寺には、福岡県の天然記念物に指定された臥龍梅があります。

 

 

 この臥龍梅は樹齢350年以上とも云われ、南側にある親株から北に向かって枝を伸ばし、枝が地に触れた場所から根を出して、24メートルもの長さになっています。

 

 掲示板には、八重咲きの見事な紅梅が、早い年で2月中旬頃、遅い年では3月下旬頃に開花すると記載されていました。

 

 

 

 普光寺の本堂横には、大宰府天満宮の飛梅が花を咲かせていました。

 

 

 二分咲きの紅梅が、暖かな陽射しを浴びながら微笑ます。
  

 

 普光寺は、823年(弘仁14)に嵯峨天皇の皇子が建立し、天台宗の僧・円仁が寺にしたと言われる古刹で、古くから厄除け、方除け祈願のお寺として信仰を集めているようです。

 

 寺には南北朝中期に活躍した石工、藤原助継の銘が刻まれた不道明王板碑や、1429年(正長2)に京都で作られた慈覚大師坐象などが大牟田市の文化財に指定されています。

 

 境内には、製作年代が1317年から1520年に及ぶ数多くの石塔が並び、その紀年銘も南朝、北朝の年号が混在し、当時の混乱した状況が見て取れるようです。

 

 

 

 私は本当に日本史音痴だったのですが、今回の旅で、知識のアンカーとなるものを勉強させてもらった気がしています

  

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1 

他の花の旅 旅の目次

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

熊本の城と花と酒

2015-04-19 02:08:46 | 九州の梅を訪ねて

 

熊本に戻ってきました。

 

 石垣観音寺のハルサザンカを見終わり、さて、どうしたものかと考えました。

 

 明後日、14日の18時から博多で同窓会があります。

 

 私のことですから、同窓会では相当飲むことになるでしょう。

 

 その後のスケジュールは自分でも予測が付きません。

 

 福岡市内にある幾つかの梅園は、二日酔いでも訪ねることができますから、残しておく方が良いだろうと思えました。

 

 色々迷ったのですが、結局一番南に残った熊本から順に、福岡から遠い場所を塗りつぶしてゆくことにしました。

 

 高速道路を使い、熊本城の入門時間に間に合うように熊本市内を目指しました。

 

 熊本城のパーキングに車を置いて、城内へ入ったのは16時を過ぎていました。

 


 

城内に「熊本城肥後名花園ご案内」の掲示がありました。

 

 熊本の旧国名である肥後では、江戸時代の延享4年(1747年)に「肥後の鳳凰」と称された名君の細川 重賢が、武士のたしなみとして推奨した、肥後六花(菊、椿、山茶花、花菖蒲、朝顔、芍薬)を保存展示しています。

 

 

細川 重賢は多くの借財を抱える肥後藩の財政を改善し、橋、用水路、新田開発を行い、家臣や領民、藩外へも門戸を開いた藩校時習館を設立し、日本最初の医学校再春館を創設しています。

 

 また、重賢は蘭学に傾倒し、蘭癖大名と称されたそうです。

 

 同じように貧乏藩を立て直した、米沢の上杉鷹山とイメージが重なります。

 

熊本城は1591年に領主となった加藤清正が1591年から城を築き始め、1606年に完成しています。

 

 明治10年(1877)の西南戦争時に原因不明の出火で天守閣などが焼失しましたが、平成19年(2007)築城400年に際して復元工事が行なわれました。

 

 

 熊本には何度か来ていますが、何時も素通りすることが多く、熊本城を訪ねたことはありませんでした。

 

 しかし、神代植物園などで肥後サザンカなどを目にするうちに、熊本という街に興味が湧いてきました。

 

 全国に個性を持つ都市は幾つかありますが、私が滞在したことのない街の一つとして、熊本は以前から気になっていました。

 

 と言えば聞こえは良いのですが、早い話、この街で一度酒を呑んでみたいということです。

 

 酒飲みの悪い癖かもしれません。

 

 陽の明るい内に名所旧跡を訪ねても、その街を見た気にはなれないのです。

 

 

 城内にある梅園には約130本の梅が植栽されていますが、他の梅園同様に時期が早すぎました。
  

 

 天守閣にも登って市内を見下ろしてみました。

 


 

姫路城、名古屋城、熊本城の三名城の一つと言われるだけのことはあって、なかなか見事なものでした。

 

 

 4年前に定年退職となる前から、休日に全国へ車をはしらせて花の写真を撮ってきました。

 

しかし花は気まぐれで、年によって開花期が異なります。

 

 また、突然仕事が入ることも多く、前もってスケジュールを立てて、宿を予約することはなかなかできませんでした。

 

 そこで、ホームページを立ち上げ、前もって全国の花の名所を調べ上げ、仕事が入らなかった休日前夜、自宅へ帰ってから、車にカメラと寝袋を積み込み、夜のうちに花咲く場所へ駆けつけるという方法を編み出したのです。

 

 そのようなことを続けるうち、訪問した街のコインパーキングに車を駐め、居酒屋で地酒を楽しむ というスキルを編み出しました。

 

 この方法であれば、ポケットマネー程度でガソリンとアルコール代が賄え、気兼ねなく花を楽しむことができます。

 

 熊本の繁華街は市役所から辛島町方面へ向かう銀杏通り、栄通りを中心に広がっていました。

 

 人生60有余年の勘を頼りに、一件の居酒屋に入ってゆきます。

 

 

 最初は日本酒をと思ったのですが、郷に入れば郷に従えと、焼酎を頼むことにしました。

 

 

そして、このような場合、私はその土地でしか見れないメニューを必ず注文することにしています。

 

 

熊本といえば辛子蓮根です。

 

 私は辛子蓮根の天ぷらを初めて食しました。

 

 ん~! 焼酎にぴったりです。

 

 

 

 

 ※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1 

他の花の旅旅の目次

 

goo | コメント ( 2 ) | トラックバック ( 0 )

久留米の梅と椿

2015-04-18 08:19:17 | 九州の梅を訪ねて

 

 千石山が属する脊振山系は佐賀県と福岡県の境をなします。

 

 サザンカの自生地から30分もはしると、福岡県久留米市に入りました。

 

 久留米ツツジで名を知られる久留米市は、江戸時代からの植木・苗木の産地です。

 

 久留米市の梅林寺は、1620年(元和6年に京都府の福知山から久留米藩に転封された有馬豊氏が、翌年に福知山の瑞巌寺を久留米に遷座させたのが始まりです。

 

 後に梅林寺と改称し、久留米藩歴代の菩提寺となりました。

 

 寺の3千坪の外苑には市民が寄贈した約30種500本の梅が植えられ1958年から公園として開放され、梅の名所として知られています。
 
 

 

 幾つかの枝に梅の花を見かけました。

 

 「あ、梅が咲いてる」と、周囲に、人々の嬉しそうな声が聞えました。

 

 

 梅林寺から石橋文化センターへ向かいました、

 

 石橋文化センターは久留米文化振興会が運営する総合文化施設です。

 

 久留米市で創業したタイヤメーカ・ブリジストンの創立25周年を記念して、創設者の石橋正二郎が1956(昭和31)年に久留米市に寄贈したものです。

 

 石橋文化センターの庭園は無料無休で開放され、園内にはツバキ園、バラ園、梅園、花しょうぶ園などが設けられています。

 

 ツバキ園には約260品種1,500本のツバキが植栽され、幾つかのツバキに花が咲いていました。
 

 

 

 また、園内には梅園をはじめとして140本の梅が植栽されていますが、池の畔の紅梅が見頃を迎えていました。

 

 風もない園内は豊かな陽射しに満ちて、気持ちの良い散策を楽しむことができました。

 

 

 次に、久留米市の二つ目の梅の名所として、宮ノ陣神社を訪ねました。


 宮ノ陣神社には将軍梅があります。

 

 この梅は、南北朝後期の1359年(正平14)に後醍醐天皇の皇子である征西将軍宮懐良親王が足利方の大軍と戦った大原の合戦(筑後川の戦い)で、この地に陣をおき、手植えされたと伝わる紅梅です。

 

  

 

 将軍梅の開花は3月上旬~中旬頃に見頃を迎えるそうですが、宮ノ陣神社の境内には約60本の梅の木が植栽され、幾本かの梅に花を見かけました。

 

 

 久留米市はツバキ類の植木・苗木の生産では全国一を誇ります。

 

 草野町には「久留米つばき園」があり約500品種・2,000本のツバキ類が植栽され、「久留米つばき園」は平成22年3月に国際優秀ツバキ園に認定されています。

  

 ここは、後日時間を掛けてゆっくり見学しようと、玄関先を確認するだけに止めました。

 

 今思えば愚かなことをしたものです。

 

 

 久留米市の最後の訪問地は石垣観音寺でした。

 

 寺の掲示物の記述によれば、この寺は白鳳二年(674年)の創建で、飛鳥時代最後の和銅元年(708)、女帝元明天皇の詔命で石垣観音寺となったと伝わる古刹です。

 

 この寺には樹齢約350年、久留米市指定の天然記念物であるハルサザンカがあります。

 

 先にも書きましたが、ハルサザンカはヤブツバキとサザンカの種間雑種です。一般にヤブツバキはサザンカよりも花や葉が大きく、ヤブツバキの花は赤ですが、サザンカの花は本来白花で、花弁が散りやすいなどの特徴があります。

 

 開花期はツバキが春で、サザンカは10~11月ですが、種間雑種としてのハルサザンカの開花は11月下旬から4月上旬です。

 

 ハルサザンカは現在約50品種程が知られていますが、その内の一つである石垣観音寺のハルサザンカ「観音寺」は、赤い一重の花を12月から2月頃に咲かせます。

 

 

 私が訪ねた日は、全ての枝々に花を付けたハルサザンカが、早春の陽の光を、満面の笑みで受け止めていました。

 

 

 

 

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。 

 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1 

他の花の旅 旅の目次

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

サザンカの自生地

2015-04-17 00:19:20 | 九州の梅を訪ねて

 

2月12日


 夜分に降り出した雨は朝方までに上がっていました。

 

 車をスタートさせる前に、走行距離が最短となるルートを考え、今日のスケジュールを立てました。

 

 佐賀市の周辺と福岡県南部に多くの梅園や、椿、山茶花の名所が点在しています。

 

 今の時期、花は期待できませんが、可能な限り花園の存在だけでも確認しておきたいと思いました。

 

 何時ものように車の中で朝食を済ますと、最初に佐賀県立森林公園へ向かいました。

 

 

 しかし、公園の梅林周辺は工事中で、広範囲にフェンスが張られ、近づくことができません。

 

 フェンスの外からズームを利かせシャッターを切ります。

 

 幹に藁が巻かれているのが梅の木でしょうか。

 

 

スタートから残念な結果になりましたが、そんなときほど、楽しい一日になる筈と、楽観的です。

 

 旅も人生も全部上手くいくなんて、期待する方が間違っています。

 

 3割も当れば御の字なのです。

 

 

 

次の目的地は、サザンカ自生地の千石山

 

 かつてはサザンカの北限地とされ、昭和32年に国の天然記念物に指定されました。

 

 しかし、その後長崎県壱岐にサザンカの自生がみつかり、更には山口県萩市 指月山にも自生地が見つかっています。

 

 長崎道の東背振ICの先の国道385を北上すると、10分程で道の駅「吉野ヶ里」に到着しました。

 

 道の駅のパーキングの北端に「さざんか園 遊歩道 10月中旬から11月下旬までが見頃です」の看板を見付けました。

 

 

国道の下を潜り、階段状に整備された山道を100m程も登ると簡易舗装された道に出ました。

 

 正面と左右の尾根一面に広葉樹林が広がっています。

 

 

簡易舗装の道を歩いていると、一本の木の下に赤い花が落ちていました。
 

 

 

あれ? この花はサザンカではありません。

 

 サザンカは、花が散る時には花弁が一枚ずつバラバラに散ります。

 

 更に、この花は蕊が筒状になっていますが、これはツバキの特徴です。

 

道路脇の森を見ると、サザンカの森に一定の頻度でツバキを見かけました。

 

 下の写真では、小さな明緑色の葉がサザンカで、奥の大きな暗緑色の葉がツバキです。
 

 

 

この場所はサザンカの純林と言われていますが、ツバキも混じるので、ツバキとサザンカが交配した、ハルサザンカなどが見つかる可能性もありそうです。

 

 道路上に見た赤い花も、ツバキにサザンカの血が混じっているかもしれないと思うだけで、想像力が刺激されます。

 

 この森で詳細なツバキの調査をすれば、面白い結果が得られるかもしれないと考え、一人でにんまりしつつ、

 おぉっと、こんな顔を人に見られたら、変質者に思われるかも、などと案じ、慌てて周囲を見回しました。

 

 

 サザンカはヤブツバキとともに日本原産の植物です。

 

 かつては佐賀県の千石山が北限と言われたサザンカも、江戸時代に改良が進み、今では300を数えるサザンカ園芸品種が全国に広がり、宮城県多賀城市にサザンカ園ができるほどになっています。

 私は以前からサザンカを訪ね歩いていましたが、一度は訪れたいと思っていた千石山に来れて、それだけで満ち足りた思いに浸ることができました。

  

 

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1

他の花の旅旅の目次

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

唐津と小城の梅林

2015-04-16 01:03:36 | 九州の梅を訪ねて

 

福島の初崎の磯部さんとは、東京荻窪のラーメン屋のことなど、ローカルな話で大いに盛り上がりました。

 

 名残惜しかったのですが、私は今日中に佐賀県内の梅園を訪ねたかったので、小一時間ほどで磯部さん宅を辞して、唐津方面に向かいました。

 

唐津市野田地区では、季節になると、民家の枝垂れ梅が、庭先で花の雅を競うそうです。

 

 

 集落の家々の庭先に、みごとな枝垂れ梅の樹形を見かけました。

 

 しかし、梅の空枝を見歩く姿を誰かが見れば、酔狂の一言と、嗤うに決まっています。

 

 それどころか、季節外れの他人様の庭へレンズを向ける様を見られたら、怪しい奴と思われかねません。

 

 私は早々に野田地区を離れ、市内中心部にある、鏡神社へ向かいました。

 

 

鏡神社の境内には、200本を超える見事な梅苑がありました。

 

 梅の花は毎年2月下旬~3月上旬ごろにピークを迎えるようです。
 

 

 

鏡神社は源氏物語に「松浦なる鏡の神」と詠われ、その歌が境内に石碑となっていました。

 

 「君にもし心たがはば松浦なる鏡の神にかけて誓はむ」

 

 

鏡神社では早咲きの紅梅が、季節を違えて訪ね来た旅人に、微笑みかけてくれました。

 

 

  

唐津から佐賀方面へ向かう国道に入り、一時間程はしって、小城市の牛尾梅林にやってきました。

 

 梅林の広がる丘陵地帯に上ると、目の前に佐賀平野が広がります。

 

 佐賀平野は恵まれた穀倉地帯ですが、水利の悪い丘陵地帯では梅の栽培が行なわれているようです。

 

 


 梅林には実梅の「白加賀」を主とした1万3000本が植栽され、花の時期になると、丘一面が白く染まるそうです。
 

 

梅畑の中で、石塔のようなものを目にしました。
  

 

 

その横の「六地蔵」と記した石柱の側面に「天文二十二年(一五五三年)の銘があり、地元ではいぼ取り地蔵と呼ばれている。」

 

 と刻まれていました。

 

「六地蔵」をネットで調べてみますと、

 

地蔵菩薩は、サンスクリット語でクシティ・ガルバと言い、クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意で、それを訳して「地蔵」と呼ばれるそうです。

 

 天に居る菩薩に代わって、地蔵菩薩は地に在って、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道を輪廻する全ての生命を救ってくれます。

 

 そして夫々の六道を担当する6種の地蔵さまを並べ祀ったものが六地蔵です。

 

 更には、ヒトパピローマウイルスによる伝染性のイボが暗示療法で治ることから、古くから「いぼ神様」として地蔵さまや不動尊などが全国各地で参拝されているそうです。


 そのことを次のページで知りました。

 

いぼとり 神様・仏様

 

 ネット情報も、玉石混交です。

 

 佐賀市内を抜け、筑後川を渡る頃には、陽は西の空に沈みかけていました。

 

 

 それでも何とか、明るい内に佐賀県に隣接する福岡県柳川市の「梅の木街道」を訪ねることができました。

 

 

  「梅の木街道」の様子を確認した後、再び佐賀市内へ戻ると、東京を出てから一週間目となる、梅巡りの旅の夜を佐賀市内で迎えることにしました。

 

 

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1

他の花の旅旅の目次

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

練馬ナンバーとは珍しい

2015-04-15 00:48:12 | 九州の梅を訪ねて

 

伊万里から唐津街道と称される国道204号を北上し、伊万里湾に浮かぶ、福島へ向かいました。

 

 佐賀県波多津町から福島大橋を渡り、長崎県松浦市福島町の福島に入ります。

 

 島の北西端の初崎を目指しました。

 

 初崎のヤブツバキ群生地は4万本以上のスケールを誇ります

 

 島の道をはしり続けていると、海へ落ち込んでゆく斜面に棚田が広がっていました。

 

 

駐車スペースには「日本の棚田百選認定」といった文字と一緒に、夕陽に染まる見事な棚田の写真が示されていました。

 

 9月には、畦道に2600本の灯籠に火を灯す、土田(どや)棚田の火祭りが開催されるようです。

 

 

 

棚田を過ぎ、初崎入口の鍋串に差し掛かった場所で、道路右に小さな祠と、掲示物を見かけました。

 

祠の横に四角い板石で囲まれた小さな石塔があります。

 

 

塔の横にも表示板があって、

 

 「寺山団助の墓

 

  松浦党の一族、志佐純意(すみもと)の重臣で、福島の押役として鍋串に居城していた寺山団助は、文武に優れた武将として住民からも慕われていた。

 

 天正17年(1589)7月10日、ざん言を信じた志佐純意は、討手を差向けて寺山を急襲した。

 

 団助は父とともに応戦したが、無念の最期をとげ、一族は滅亡した。」とありました。

 

 1589年といえば、秀吉が天下統一を成し遂げた頃のことです。

 

 つい最近まで、船でしか渡れなかった小さな島の、数百年前の一武将の話が、こうして市指定史跡として伝わることに驚きました。


 この島の時の流れは、人間の坩堝となる東京などとは明らかに異なるだろうことを教えてくれます。

 

 

 

 鍋串から初崎に向かって伸びる半島の先に初崎公園がありました。

 

 椿の群生地の中に、海岸へ続く散策路が続いていました。
 

 

 

 

岬の先端に立つと、波静かな入り江に、岬や島々が折り重なっていました。

 

 

初崎公園の展望台へも上ってみました。

 

 

 

展望台の足元には、赤い花を付けた椿が枝を広げていました。


 

 

そんな時、一人の男性が展望台に上って来て、

 

 「東京からですか?」と声を掛けられました。

 

 

 

 

この地(松浦市福島町鍋串)にお住まいの、御歳73歳の磯部さんです。

 

 私の車の「練馬」ナンバーを見て、後を追ってきたのだそうです。

 

 私は磯部さんのご自宅に、お招きを頂きました。

 

 下の写真は磯部さんのお宅のベランダからの眺望です。 

 

 

 

磯部さんは奥様と二人、伊万里湾を見下ろす森に包まれたお宅で、悠々自適の生活をなされています。

 

 磯部さんは東京都練馬区の日大芸術学部を卒業され、最後は博多で事業をされましたが、バブルが弾けた後で、この地に移り住むことになったそうです。

 

 別荘の斜面をツワブキの群落が取り囲んでいました。

 

 新緑の頃にその葉を摘んで、おひたしで食べるのが楽しみだと仰っていました。

 

 

 眼下の海は魚も豊富で、山海の味覚に満ちた、素敵なお暮しのご様子でした。

  

 

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。 

九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1

他の花の旅旅の目次

 

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )
« 前ページ