INSIDE SORAMAME

私の頭の中のキオクを綴っていくつもりです・・

趣に赴く(84)

2021年01月27日 |    ┣ ひっそりと趣に赴く

(つづき)

「柳河内」、ヤナギカワウチではなくヤナゴウチ。

 

51」をベースとして、百の位に1が付いた「151」、かつては「区役所51番」だった「1」、1を引いた「50」のルート。

 

以前、「皿山一丁目」の記事で、

 

“天神から自動車免許試験場に向かうバスといえば、かつては「51番」と「52番」がメインであり、「51番」が「皿山経由」、「52番」が「長住経由」という呼び方が用いられていた。

都心方向から来ると、「野間大池」の先で「51番」と「52番」のルートが分かれ(「52番」はさらに寺塚経由にも枝分かれする)、自動車免許試験場の手前で2つの路線が再び合流していた。

51番」は、「野間大池」から先は、柳河内、皿山一丁目、皿山二丁目、皿山四丁目の順で停車するのだが、このうち、「皿山四丁目」は、「52番」のルートと合流した後に存在することから、“「51番」が「皿山経由」、「52番」が「長住経由」と言いながら、「52番」も皿山を通るじゃないか”と、どうでもいいことをよく思ったものだった”

 

と書きましたが、皿山と比較して昔から柳河内は知名度が低かった…ということでよろしいのでしょうか??

 

 

バスとは関係ないですが、こちらは早良区西新にある皿山。

かつて黒田藩の御用窯があった東皿山地区(高取のほうは西皿山)。

 

商店街のビルの間のここから入って、

 

おそらく力士はすれ違えないであろう路地を抜けたその奥に、

 

車が入れない住宅地が広がる(もう一箇所、神社の階段から入る方法もありますが、いずれにせよ自動車は入ってこれず)。

車が入れないため、ストリートビューにも出てきません。

 

商店街から50メートルも離れてない場所ですが、車の存在がない社会の静寂を感じられる場所です。

(つづく)

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趣に赴く(83)

2021年01月26日 |    ┣ ひっそりと趣に赴く

(つづき)

「友泉亭」、かつての「友泉第一」。

 

北片江」的な天然のバスカットが素敵な郊外行き乗り場。

 

11番」「12番」「13」の連番が走っていた時代もあったが、油山観光道路全通により路線網が分散し、現在は「12」と「94」というラインナップ(ちなみに当時の「11番」は現在の「96」)。

また、「94番」は観光道路経由だったこともありましたが、1999年に観光道路経由のバスの“超”大増便が行われた際に、「友泉亭」バス停がある道路(県道東油山唐人線)経由に戻っている。

油山観光道路と県道東油山唐人線については、「梅光園一丁目」の記事16番」の記事なども参照のこと。

 

橋のこっちと向こうとで町並みが変わるのも素敵。

ちなみに次の「友丘」はかつての「友泉第二」。

 

福岡市の都市計画図より

橋の北側は第二種住居地域、南側は近隣商業地域であり、警弥郷と似たような感じ(警弥郷は橋が境ではありませんが)。

なお、都市計画道路長尾橋本線が、この先で斜めに横切る計画になっているため、道路開通後は、46番」の五十川のようにバス路線が一続きではなくなる可能性もあるかもしれません。

その時代まで私が生きているかは別として。

 

都心方面。

 

こう見ると、なかなかすごい場所に建っています。

(つづく)

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続・オモワク(37)

2021年01月24日 |    ┣ 思惑と提案

(つづき)

各種報道によると、西鉄貝塚線と福岡市営地下鉄箱崎線の直通運転化につき、「実現は困難」として“凍結”される見通しであることのこと。

整備費用の1/3以内を補助する国の支援策の活用を想定していたが、採算面からその基準を満たすことが難しく、投資に見合う効果が得られないことが理由とのこと。

 

「もうこれ以上検討されることはない」と言う人が居る一方で、「“凍結”だから“解凍”もある」と言う人も居て、5年後、10年後にも同じようなことが繰り返されている可能性もありそうですが(笑)。

 

この問題は、過去にもたくさん書いてきましたので、ぜひそちらもご参照ください。

 

JR九州の貝塚新駅

 

今回の“凍結”判断の前段

 

アイランドシティの鉄道用地

 

車両連結・分離案の浮上

 

香椎花園駅の活用案

 

香椎浜営業所跡地周辺の再開発

 

福岡市が描く基幹公共交通の近未来図

 

貝塚線の駅の乗り継ぎ拠点化

 

「直通運転」が行われていた時代

 

9年前にも「実現困難」の報告

 

直通運転の“私案”

 

直通運転実現にやや動き始める?(記事のコメントも参照のこと)

 

なお、写真はイメージです。

(つづく)

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お役所前の風景(130)

2021年01月20日 |   ┣ お役所前の風景

(つづき)

JR九州バスのバス停と同じ配色の「役場庁舎前」。

 

小竹町内からJR九州バスは既に撤退しており、西鉄バスも「小竹上町」バス停1つだけを残してあとは全て廃止になっている。

なお、小竹町は、今となっては稀少な、市外局番5桁のエリアでもある。

 

ひまわり1号とひまわり2号。

KBCラジオカーも、かつては「ひまわり○号」でした。

 

相変わらずいろんなお役所には出入りしておりますが、「お役所前の風景」は気付けば2016年以来。

 

読み返してみたら、前回の「お役所前の風景(129)」で書いていた予言が1.5個ほど当たっておりました(笑)。

(つづく)

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キオクのカケラたち(5)

2021年01月10日 | マスコミ

(つづき)

RKBベスト歌謡50」のパーソナリティを長く担当された元RKBアナウンサーの林幹雄さんが昨年お亡くなりになりました。

202111日に放送された「RKBベスト歌謡70Be colorful.~」で、追悼企画が放送されましたのでその模様を。

 

登場人物は以下の通り(敬称略)。

仲:仲谷一志  坂:坂田周大  服:服部義夫

 

仲谷さん、坂田さん、服部さん、そして林さんの声をイメージしながらお読みいただければ幸いです。

なお、手書きで急いで書き留めたものをテキストにしたので、相槌やクロストークで拾えていないところもあるかもしれません。

では、スタートです。

 

----- ----- ----- ----

仲:さあ、先ほど私は間違えてね、「ベスト歌謡70」というところを「ベスト歌謡50」って言ってしまいました。それはもうそのはずです。もう皆さんもですね、あのおわかりになっていると思いますけれども、この番組タイトルが「RKBベスト歌謡70」と付いているからには、あの番組、もう九州を代表するお化け番組だったあの「ベスト歌謡50」を意識しているということは皆さんお気づきだと思います。えーそしてですね、ここからの時間はこの番組とパーソナリティについて、私たち3人から触れさせていただきましょう。「ベスト歌謡50」と林幹雄さんです。

 

坂:まず「ベスト歌謡50」について簡単に説明させてください。始まったのは昭和49年、1974年の414日、日曜日でした。日本で最初に企画された長時間ランキング番組と言われています。あのテレビでベストテンってありましたけど、それに4年先がけて始まってるんですよね。平成7年、19951231日まで続いた長寿番組、音楽番組でした。当初は昼の1215分から午後355分まででしたが、1年後には時間が延長され、夕方の5時まで、1215分から夕方5時まで放送されました。50位から1位までの50曲を全て紹介、放送するというコンセプトだったんですね。東京の歌手たちの動向を伝える鬼沢慶一の芸能リポートですとか、福岡にやってきた歌手を紹介する有吉ひろこのミニミニインタビューですとか、ブロッククイズなど人気を集めていました。

 

仲:これ1975年、昭和50年の聴取率調査で16.1%という、すごい数字を叩き出していたと聞いています。

 

服:あとあれですよね。ランキングでいうと、さっきね坂田君も言ったように、あの「ベスト歌謡50」で1位になったっていうと、全国にその情報というかニュースが流れたっていう、まあ古いプロモーターの人に聞きましたけどねぇ、そのぐらい権威があった。

 

坂:なんか「ザ・ベストテン」のランキングの参考資料になったっていうのもなんか聞いたことありますねぇ。

 

仲:で、パーソナリティを務めていたのは、16年間パーソナリティを務めた林幹雄さんでしたね。番組の後半のほうは石上正憲さんでしたが。えー、その林幹雄さんですが、昨年1017日に誤嚥性肺炎のためお亡くなりになりました。85才でした。

 

坂:林さんは福岡市の出身で西南学院大学を卒業され、そのあと昭和35196010月にRKBに入社しました。高校・大学時代は演劇部に所属されてたんですね。また地元NHKの放送劇団にも所属して、アナウンサー志望の仲間に誘われてRKBの入社試験を受けたんだそうです。RKBに入社したあとは、「RKBリビングショー」の司会など、テレビやラジオ番組で女性を中心に高い支持を受けた看板アナウンサーとして活躍されました。

 

仲:林さんのソフトで優しい語り口ね、われわれあのベルベットボイスとかいうふうに表現しておりましたが、今も忘れることができません。先ほど番組の中でもね、お送りしましたけども、えーあの声を聴くとね、なんかジーンときますが。で、林さんは「ベスト歌謡50」のパーソナリティを降板されたあとは「歌謡曲ヒット情報」のプロデューサーを務められまして、えーまあこのスタジオに居る3人含めもう多くのね、アナウンサーそして福岡のタレントを育ててくれました。私たち3人はまあそのうちのメンバーということでして、まあ言わばね、林チルドレンと言わせてもらいたいとも思っております。ここからの時間はですね、林さんを偲んで林さんの好きだった、えー、音楽と思い出に浸らせてください。で、僕あのー林さんが亡くなったっていうのを聞いたのが、えーこれ10月の23日だったんです。その時は既に林さんのご家族があのー、通夜やご葬儀もされていたあとで、全て終わってから私たちが耳にすることになりました。その瞬間思ったのは、また林さんにやられたなと思いました。あの、林さんは自分のプライベートなことを人を巻き込むことをね、比較的嫌ってらっしゃったというか、何度かご病気で入院なさったときも絶対にお見舞いに来させないと、で、できるだけこそっと、そういうことは表に出される人じゃなかったので、ぼく一度メールのやりとりもしたことあるんです、そのときに。いやもうこれは遠慮してくださいとはっきり言われたんで、なんだか林さんらしいなあと思って、あの受け止めました、心的には、たまたまその日が舞台の仕込みの日だったので、えー、受け止めざるを得なかったっていうか、とても苦しい思いをしましたが。一緒に今日はじゃあ3人で林さんを偲ばせていただきましょう、まずはこの曲、カラオケに行くとね、林さんが歌ってましたね、よく歌ってました。

 

坂:この曲ですね、林さんと最後にお会いしたのが3年…2018年、あの、ライブのあの、ライブハウスでばったりお会いして、RKBの関係者が出演するライブだったんですけど、お会いして、まあ久しぶりにお会いして、でもこれだけは聞かなくちゃと思って、林さん、あのーひとつ聞きたいことがあってずっと聞きたいと思って聞きそびれてたんですけど、林さんがお持ちのレコードの中で一番たくさん聴いた曲あるいはお好きな曲って何ですかって、もうストレートにぶつけまして、ポンと返ってくると思ったらちょっと逡巡して、で、1分くらい考えて、うーんって言ってこれだねって言ったのがこの曲でしたね。

 

仲:お送りしましょう、南佳孝「モンローウォーク」。

 

(曲)

 

仲:この時間は昨年1017日にお亡くなりになった林幹雄さんのことを思い出しながら、林さんの好きだった曲と一緒にお送りしておりますが、実はここで199041日にですね、「RKBベスト歌謡50」、830週目のですね、林さんの最終回のエンディングの声がありますのでお聴きください。

 

(こちらの記事を参照。   )

 

仲:これが林さんが「ベスト歌謡50」を卒業なさる時の放送ですね。これもまたなんか林さんらしさが伺える放送ですね。自分の最終回というよりかは、これからのこう新人さんたちに対してのご配慮、ラジオをお聴きの皆さん、スタッフに対してのご配慮というのはすごく感じられますね。

 

坂:人柄が伝わってきますね。

 

仲:だからそう思うと今日この時間、林さんのことをしゃべろうっていうのは服部さんがわれわれに、そして放送やる中で準備してくれたけど、なんか絶対メソメソしちゃいかんなって気になりますね。

 

服:ね、ほんとそうですね。

 

坂:あのー、「ベスト歌謡50」に届いたハガキを推計したのを放送で林さんおっしゃってたそうで、440万枚だそうです。16年間で。

 

仲:すごいなー。

 

服:林さんハガキをとても大切にされてたんですよね。だからあの、ハガキは当然目を通してますし、あの、お亡くなりになった方ですかね。なんかあの女性の、高校生だったかな中学生だったかの女の子のハガキを読んで、それが反響があって、学校の授業でも使われたっていうエピソードがありますよね。

 

坂:あの、その話も私聞いたんですけど、そのハガキがそのー、真偽が確かめようがないと、ハガキなので。でもこれは、真実なんだという受け止めで、紹介するっていうことにするっていうね、やっぱりリスナーに誠実であるっていうのがやっぱり林さんだなーって気がしましたね。それが830440万、1週間に5,300通ですよ。そういうことなのかなぁっていう気がしましたね。

 

仲:えー林さん僕は一番林さんにこうかわいがってもらった人間の中では一番出来が悪いほうだったと思うんですけど、一回も怒られたことがなくて。あるアーティストにインタビューしたときに、非常に、もちろん悪気はないんだけれど、失礼なことを言ってしまって、ディレクターにも怒られ、林さんに何て言われるかなーって思ったら林さんはそれには一切触れず、トシ坊、僕は放送は優しさだと思うんだって、その一言だけ言っていただき、だからあの優しさって何だろうっていうのをね、探りながら、まだたどり着いてないけど林さんの中に流れていた優しさっていうのをずーっとこう感じてまして、あの実は、あのー、「ベスト歌謡50」卒業されてプロデューサーになった後も、僕の主宰する劇団の若手の指導をずっと引き続き、えー、昨年、おととしまで、末までやって、昨年ちょっと遠慮したほうが、勇退したいなーってお話があったんですよね。その時は体調はそんなに悪くないと思っていたんですけど、そんとき、直接お会いしたかったなーと、今となってはちょっと悔やまれはしますけど。

 

坂:劇団に対する指導っていうのは、それは演技ではなく、

 

仲:朗読です。

 

坂:朗読の指導、はー。

 

仲:で、林さんご自身もよく酔っぱらわれて言うのは、言っていたのは、林さんも演劇お好きだったから、なんだか演劇の世界から、林さんの表現ですよ、僕は逃げて放送に行っちゃったような気がすると、というのはその演劇ってやっぱ食えないっていう、当時、特に当時そういう世界だったから、そこから放送のほうに逃げたみたいなこと、よく酔っぱらっておっしゃって、だからあの、がんばってね、やってるトシ坊はがんばってねっていうこと、いつもね、応援していただきました。

 

坂:重ねてらっしゃったのかもしれませんねー。

 

仲:ではここでもう一曲、この曲も林さん好きでしたね、お送りしましょう、日野美歌「氷雨」。

 

(曲)

 

仲:林さんが好きだった日野美歌「氷雨」、お送りしました。この時間は昨年1017日にお亡くなりになった林幹雄さんの思い出と林幹雄さんの好きだった曲をお送りしていますが、あのお茶目な面もありましてね、あの、林さんなじみの居酒屋とかに私たちもよく連れていってもらっていたんですけど、そこにあのお店の方がおっしゃるのは、林さんは来るとき紳士だけど帰るとき普通のおっちゃんやもんねーというふうにおっしゃって(笑)、というのが林さんあのー、お酒飲まれると周りを盛り上げようとして、ネクタイを必ず頭に巻いてらっしゃったんですね(笑)。高橋真梨子「桃色吐息」。

 

(曲)

 

仲:えー、この時間は昨年の1017日にお亡くなりになった林幹雄さんを思い出しながら、林幹雄さんが好きだった曲と一緒に番組をお送りしています。まーあのー、林さんのこと話すときりがないんですけど、一つ言えることは、こうとてもー、みなさん、ほんとみんなに優しい人だったんですけど、その場の中で一番こう立場がなさそうな人のことも、こう大切になされた方でして。特にまだ僕と服部君がね、「ヒット情報」についた頃とかは、ぼくなんかは周り誰も知らないわけで、で、

 

坂:「ヒット情報」にアナウンサー以外で外部から入ったっていうのは、仲谷さんが最初ですよね。

 

仲:最初ですね。今でも思い出すんですけど、林さんからその、家に僕電話がなかったんで、劇団事務所に電話があって、RKBラジオの林幹雄と申しますが、実はある番組で仲谷さんをという話がありまして、本来ならばこちらからそちらに行くのが普通でしょうが、よろしければ何時何分にRKBのロビーに来ていただけませんかっていう電話いただいて、びっくりして、あのラジオで聴いてる林さんから何で僕に電話があったんだろうと思って思わず、僕のことはどこで聞きましたか?って言ってしまったんですよ(笑)。大笑いされたんですけど。しかもその一番最初の林さんとの出会いの日に遅刻して行っちゃったんですよ。

 

坂:なんか事情があったんですか。

 

仲:ほとんど、年に12本しか入らないコマーシャルの録音の仕事が何かその日にあって、それでどんどんどんどん押してしまって、当時そんなにタクシーも乗らないのに慌ててタクシー飛び乗ったんだけど、携帯電話もない時代だから、もう連絡の術もなく。で、もうこれはダメなんだろうなあと思ったんですけど、ロビーに行って林さん呼び出したら、当時の渡辺通りのロビーって、あの、階段上から、あのとき制作が2階にあったのかな、そこから降りてくるとまず足が見えるんですよ。林さん、足が見えて、それから体が見えて最後に林さんが全部見えるっていう、まさになんかね、スターが上から下りてくるような、林さんが第一印象でしたね。

 

坂:あの、オーラみたいなものは感じましたですか。その、スターアナウンサーとしての。

 

仲:あー、そのときは感じましたねー、えー、それからお酒飲むと感じなくなりましたね。

 

坂:そう、私の初対面も研修で、講師として、で、僕は小学校3年生、五島の福江に住んでて、それこそラジカセでチューニングしながら県外のラジオを探しまくって、そこで日曜日の午後、「ベスト歌謡50」を拾って、わ、すごい番組だ、こんな革新的な番組があるのかと思って、もう夢中になって曲を録音してたんですけど、はたとあるとき気付いたら、ハガキでみんな林さん聞いてください、林さん林さんってみんなハガキに、なんかもう林さんを慕うようなコメントがいっぱい書いてあって、うわー、この人はスターだと思って、まさか自分がRKBに入るとは思わずに入って、対面したんですけど、でもすごいこうダンディな格好で、すごいこう着てるお召し物もすごいかっこいいんですけど、対面して話すと、普通、ごく普通、そのオーラを感じさせない、包容力みたいなのがありましたねー。

 

仲:そうですねー。そのスターの林さんに、ぼくは調子に乗っていろんなご迷惑をおかけしてるんですけど、一番大きな迷惑っていうか、その、一回目の結婚の仲人さんまでしてもらっちゃってもう、林さんの奥さんにまで出てきてもらって、それからダメになっちゃったときにちょうど僕もその生活が荒れていたので、あの、林さんにどう報告するかっていう報告の仕方も不義理しちゃって、もう、放送局の社員食堂で林さんこうなりましたっつった時の林さんの一言が、水に流すっておっしゃったんですよね。だから水に流すってことは許して下さってることだろうけど、本来はそれだけ、やっぱりそうなってしまった時は仕方ないけれども、こう、人としての礼節みたいなものをやっぱりぼくは欠けていたんだなっというね、その、水に流すっていう言葉一つでぼくはなんか、あー、悪かったなーという気になりましたねー。

 

服:重い言葉ですよねー、ある意味ねー。

 

仲:あと、服部君が風邪がひいてるときに僕はね、なんか知らないけどね、リンゴかなんか持っていったのよ。

 

服:あー、行きましたよ。

 

仲:それをものすごい喜んでくれてね。

 

坂:服部さんのもとにリンゴを持ってったことを、職場に、

 

仲:いや自宅に。

 

服:僕が高熱で寝てて、なんとなくこう目が覚めたら、リンゴが置いてあって、これ誰がむいてったんだろうと、塩がちゃんとこうしてあってね、色が変色しないようにしてあって、女性は付き合いなかったから、誰だろうこれって思って、そしたらトシ坊だったっていう、

 

仲:意外と僕らはそんなことできないもんだから、そんなことしてくれてありがとうっていう、もう。

 

坂:まわりまわって林さんの耳に入ったってことです…

 

仲:あの普通の会話で出てきて、林さんものすごく喜んでいただいて、なんかなー、あの優しさねー。

 

坂:優しさで言いますとね、僕の仕事、見ていてある時「ヒット情報」で、担当日が週3回入ってたんですけど、外れてる日は見学させてもらってサブで見てた、僕は先輩のしゃべりを盗んでやろうと思って、当時、スタジオ、金魚鉢なんて言い方してましたけど、中の先輩のしゃべりをずっと聴いてたんですけど、ある時、曲を絞る時に林さん、その曲を絞る動作に僕はもうびっくりして、どういう状態だったかっていうと、ディレクター卓に座って、ミキサーの卓にですね、手の平を下にしてミキサー側のほうに手を伸ばしてそれをミリ単位でジワジワジワジワジワジワってゆっくり手を下ろしていくんです。で、背中から見てるからわかりませんけど、林さんの目は多分虚空を見つめて全神経を曲に集中してるんです。で、隣りに座っている、まーあのー、技術のミキサーはその林さんの手のミリ単位で動く手の動きに合わせて手元のフェーダーをちょっとずつちょっとずつ絞っていってフェードアウトしたんです。で、その時に、なんという愛情かと、曲に対する敬意、つまり、完成されたレコードを途中で絞るっていうのはそれはちょっと傷つけることであるっていうのの等しい考えが、あの林さんにはあるんだな、あ、そうか、だからこそリスナーの信頼を得てたんだなぁっていうことを考えましたね。

 

仲:そのリスナーさんからもメッセージ届いています。

 

(リスナーさんからのメッセージを4通紹介)

 

仲:それでは最後に、やはりこの曲も林さんが好きだった曲です、お送りしましょう、かまやつひろし「我が良き友よ」。

 

(曲)

----- ----- ----- ----

 

RKBベスト歌謡50」は、私が自分の意思で聴いた初めてのラジオ番組でした。

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

ありがたいことに、バス以外の話題の過去記事にも一定のアクセスがあります。

以下は、個人的にまとめといてよかったと思う記事です。

 

 KBCラジオがKBC-INPAXだった頃

 

 井上サトルさんと沢田幸二さん、世紀の対談

 

 磯田久美子さんとRKB夕方ワイド番組史

 

 松井伸一さんとCROSS FM開局前夜の話

 

(つづく)

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イミカヨミカ(73)

2021年01月01日 |   ┣ イミカヨミカ

(つづき)

「福岡運輸支局前」、かつての「福岡陸運支局前」。

読み重視だが、NYの間の「'」は、“福岡うにゅ支局前”になることを回避する目的と思われ、“ヤクイネキマエ”とは異なるパターン。

 

都心方面。

 

22N」と「22T」で、「22N」には、【純粋な「22N」】と【「27N」由来の「22N」】が混在。

また、“N”と“T”は意味的には対を為してしておらず、正確(?)に言うと「22NG」と「22NT」。

なお、「22T」の一部の便に乗れば、約40分後に再びこの場所に戻ってくることも可能。

 

長年、都市高速経由の路線しか停車しないのは、22N」の3つの経由地(海岸通り、南公園、運輸支局)のうち、運輸支局経由が最も国道3に近いからということでしょうか。

 

博多駅に直通する路線は現存しません。

 

郊外方面。

 

元々「24N」だった土井営業所行きは海岸通り経由のほうで、運輸支局経由の土井営業所行きはその後のYKF

 

ここにバスが通りはじめた当初のことは、隣りの「香椎浜四丁目」の記事を参照。

 

 

丑年ということで、「ふくおCOWんゆしきょくまえ」。

こんどうびよウシつ」くらい強引ですが、本年もどうぞよろしくお願い致します。

(つづく)

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