加賀藩の所領加賀、能登、越中の魅力、海越しに観る山々、風光明媚なシーサイド・ラインの風景・出来事を写真で紹介する。
金澤・能登立山シーサイド・ライン



春の苗木城

初冬の苗木城、北陸のように鈍よりとした空ではない素晴らしい景色空の青さがすべてのものを鮮やかに見せるのだろうか?

苗木遠山資料館向かいにはミツバツツジが咲き誇っている。この奥に行くと桜公園があり満開の時期で多くの車が入っていく。今回の目的は資料館と城跡と伝えると資料館前の駐車場にすぐに入ることが出来た。前回は資料館を見学できなかったので、今回は城跡に行く前に入る。

資料館には苗木遠山家の資料等が数多く展示されている、学の無いわたくしには少々難しいい資料ばかりでぐるりと一回りして早々に資料館を出る。

興味のある方は、パンフレットと展示品資料をご覧ください。(注:画像クリックで資料pdfが別ウインドウで開きます)

また、資料館HPはこちらから苗木遠山資料館https://www.city.nakatsugawa.lg.jp/museum/t/index.html

 

足軽屋敷跡から見る苗木城跡

凬吹門跡

大矢倉跡

大矢倉跡から見る天守跡方向

大門跡から見上げる

途中より城山大橋を望む

掛造の天守展望台

 

下記資料館HPより《苗木城跡を歩く1》苗木城天守

苗木城天守1 苗木城天守2

左:苗木遠山史料館 苗木城天守模型より、右:苗木城天守 享保の絵図

 

玉蔵橋方面を望む。手前は北恵那鉄道廃線跡の木曽川橋梁その手前には新たに橋を架けるのか工事が始まっています。

右のほうにカメラを向けると恵那山が、もうすでに雪も消えてしまっているのか・・・・?

玄関口門付近からから見る天守展望台

天守展望台に登り360度のパノラマを楽しみ、真下にある大、馬洗岩の間を抜け笠置矢倉阿智へと下る。

 

二の丸跡より見上げる。

二の丸御殿礎石から見ると相当に大きな建物があったことがうかがえる。

二の丸から大矢倉を見る。石垣を見ると打込みぎ・切込接ぎ・谷積み等の石積みが見られる。

足軽長屋跡手前よりB2駐車場に向かう途中の見晴らし台より見る。

自然石を巧みに領した石積み・その自然石の上に懸造りの天守。築城技術に長けた技術者の集団がいたのだろう。

そんなことを考えながら、苗木城を後にする。

 

今回はちょうどさくらの満開時期で、ここまでの道中にはたくさんの桜等が咲いて、素敵な花見ドライブでした。

訪問日:2024.04.13



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




伏見桃山城 別名:桃山城、木幡山城

 

秀吉が築き、家康が建てなおした名城

伏見城は3度にわたって築城され、1592年に指月山に築かれたものを指月山伏見城、後に木幡山に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に、徳川家康によって再建された徳川期とにわけられます。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が。
 
秀吉の死後豊臣秀頼が大阪城に移ると、代わって徳川家康がこの城に入り政務を行いました。関ヶ原の戦いの際には、家康の家臣である鳥居元忠らが伏見城を守っていましたが落城。建物の大半が焼失。
 
焼失した伏見城は1602年ごろ家康によって再建され、1619年に廃城とされ。この時、建物や部材は、二条城、淀城、福山城などに移築された。伏見城の後には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられ、桃山と呼ばれるようになり、やがて伏見城は桃山城、あるい伏見桃山城と呼ばれるように。

 

模擬天守

現在は天皇陵となっている伏見城本丸跡一帯の少し北側に、模擬天守。
伏見城の一部や武家屋敷などが建ち並んでいた桃山丘陵の一角に、かつて「伏見桃山城キャッスルランド」という遊園地がありました。模擬天守はその遊園地の中に建てられていたものなの。
1964年(昭和39年)にオープンした施設で、模擬天守の他に、ジェットコースターやプールなどがあり、大変人気がありましたが、2003年に閉園。模擬天守も解体される予定でしたが、地元の人々からの要望もあり、残されることになり、現在この一帯は、京都市管理の「伏見桃山城運動公園」という公園として整備。
遊園地時代には天守の上からあたりを一望できたのだそうですが、現在は、建物の耐震の関係で天守の中に入ることはできません。歴史的・文化的価値はありませんが、見応え・迫力は十分。

 

ここのところは家康ブーム、秀吉のことが忘れ、伏見城のことが忘れ去られたような気がするのは私だけだろうか。

現在の両天守付近はロープが張られ、立ち入りどころか近づくこともできない状態になったまま放置されている。この建物の管理は何処が行っているのだろう?

整備の計画でもあるのだろうか?

模擬大手門

大手門をくぐったところから見る模擬天守と小天守

模擬天守

小天守

1964年(昭和39年)に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内には洛中洛外図に描かれた伏見城を参考にして5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が6億円(当時の金額)をかけて鉄筋コンクリート構造で造られた建物。

 

城下町には、大手門から西に伸びる大手筋を基軸として碁盤の目に街路が整備されていた、その中には前田家の屋敷もあった。この地は加賀百万石ともかかわりのあった地のようだ。

出来れば太閤はんが建てた伏見城、家康が再建した伏見城、歴史の大舞台の中心にあった伏見城を再び見てみたい。

今回は木之元を過ぎ長浜にて車を駐車、JRにて長浜-米原-京都-桃山と普通列車での小旅行をしてみました。

なかなか電車に乗る機会がなく久しぶりの電車、京都駅も随分と変わってい近鉄京都線からの乗り換えにちょっと戸惑ったりして田舎者丸出しでした。

車と違って神経をすり減らすこともなく気楽な小旅行で年を痛感しました。

でも、帰路長浜からの高速道路では積雪、木之元サービスエリアでは一瞬に真っ白、事故情報も入りもしかして通行止めの文字が脳裏をよぎる。早くこの区間を抜けないと、休憩もそこそこに車を走らせる。

途中には事故車もあり、上り線がすでに通行止め、下り線も私が抜けた後に通行止め。サービスエリアでゆっくりしていたら約4時間の足止めをくうとこでした。

何とか無事に帰宅することが出来て一安心。

北陸の雪道は危険と隣り合わせ、皆さんの気を付けて・・・・・。

 

写真:2023.12.17(日)

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




天空の城苗木城跡を訪ねて

岐阜、美濃のマチュピチュ日本の山城ランキングで一位に輝いた山城。標高432メートルの高森山の自然の地形、巨石をうまく利用した見事な城郭、石垣。

大門跡跡

大門を「だいもん」と読むのは、寺院のいちばん外側にある大きな門、ないし、禅寺などの正門の場合です。これに対して、城郭や邸宅の第一の表門は、「おおもん」と読むそうです。苗木城の場合は、「おおもん」と呼びます。

大門を入り、右にやや降りると二の丸、登ってゆけば本丸へたどり着くという要所にあります。現在は、跡しかありませんので、新田淳の「苗木明細記」で調べてみます。

「ここは足軽が門番役を担当する。城主が江戸へ出立の時、在着の時、あるいは規式や正月三ケ日は開門する。ただ一通りの出入りは潜り戸を使用する。城内で最も大きな門なので大門という。」

1600年、遠山友政が苗木城を奪還する以前は、大門が大手門にあたり、その前には深い空堀があり、木橋を架けて往来したようです。

御朱印蔵跡

大門を入った左手に土蔵があり、土台は、石を四角く削った切込接(きりこみはぎ)の石垣で、隙間なく整然と積まれています。

蔵の中には、刀剣や宝物も入れられましたが、最も大切に納められていたのは朱印状でした。


綿蔵門跡

大門を入り、左手に御朱印蔵、右手に勘定所門を見ながらまっすぐ進むと綿蔵門がありました。綿蔵門は2階建てで,2階部分は年貢の真綿を保管する部分になっていました。

江戸時代、綿は米に次いで重要な換金作物でした。苗木藩の場合、文化7年(1810年)には、村方(むらかた)(村政を担った百姓)から約47kg(30550センチメートル3)の真綿が納められました。

道を登りながら右下方向を見ると二の丸跡、そしてその先に城山大橋を見ることが出来る。

コースは180度反転する反転した所に坂下門。門の連続

坂下門

三の丸から大門、綿蔵門と進み、U字に折り返すように曲がると、さらに登り坂になっており、その手前に坂下門がありました。この門には久世門という別称があります。

3代藩主友貞は、正室に下総国関宿(せきやど)藩主久世広之の娘を迎えました。広之は、2代将軍秀忠の小姓、3代将軍家光の小姓、4代将軍家綱の御側をつとめ、さらに若年寄、老中を歴任し、下総国関宿5万石(はじめは兄から分与された下総国海上郡内の500石しかなかった)を拝領した人物です。

坂下門を過ぎて右手を見ると大きな天然石の石垣、一枚岩がそそり立っている。ここまで上がると先ほどの大矢倉を上から見ることが出来る

道は櫓門跡にと突き当たりここで再び反転する反転した所には千石井戸がある

菱櫓門(ひしやぐらもん)

享保3年(1718年)の苗木城絵図 菱櫓門跡
櫓門は、門の上に櫓を載せた二階建ての門です。

櫓は、矢倉とも書き、武家の屋敷や城郭の要所に設けられ、敵を監視するとともに戦闘に必要な武器庫となっていました。

櫓門は、ふつう、石垣と石垣の間を渡すように建てるか、独立して建てました。苗木城の場合、片方は柱の穴を掘った巨石で、他方は蔵になっています。

門を下から見ると菱形に掛け渡してあったので菱櫓門の名がついています。

千石井戸

苗木城内に4カ所以上あった井戸のうち、最も高所にありました。それにもかかわらず、どんな日照りでも水が涸れることがなかったと伝えられています。

千人の用を足すと言うことから、千石井戸と名付けられています。

ふと遠くを眺めると雪を頂いた峰々中央アルプスだろうか

これが岐阜のマチュピチュと言われる所以か

具足蔵跡・武器蔵

具足蔵(ぐそくぐら)は、本丸口門から見て右側の崖の上にありました。具足とは、甲冑(かっちゅう)のことです。ここに領主の甲冑や旗が保管されました。

武器蔵は、長さ八間(約16m)、幅三間(約6m)の土蔵でした。建物の長さから八間蔵とも呼ばれました。

ここには大名遠山家が所有していた鉄砲や弓などの武器類が所蔵されていました。現在でも礎石や縁石が当時のまま残されています。

武器蔵を上から眺める

玄関口門跡

の門を潜らなければ天守のある本丸のエリアには入れません。門の上には「本丸口」と書かれた札が懸かっていました。本丸口門は、総欅(そうけやき)造です。古来、神社仏閣などの建築には針葉樹の檜(ひのき)が使われてきました。

本丸玄関跡

丸玄関は、天守より一段低い位置にあります。玄関には玉石が敷かれていました。

現在はここから階段を使って天守台に登ります。城があった時には、玉石のある所から懸造(かけづくり)の通路を通り、東から回って天守に入るようになっていました。通路は広く、千(せん)畳敷(じょうじき)と呼ばれました。

ここまで登ってくると360度の眺望が開ける


木曽川に架かる城山大橋


正面中央に傘を伏せたような山が笠置山


玉蔵大橋と木曽川橋梁(きそがわきょうりょう)
木曽川に架かる旧北恵那鉄道の橋梁で現在は使用されていないようだ。

懸造りの天守

苗木城天守の他に類を見ない特徴は懸造りであったことです。巨石に穴を穿ち、長短の柱を立てて基盤を設け、三層の建物を支えています。

現在は土台部分を復元した展望台になっている。この上に天守が載っていた。

苗木遠山史料館 苗木城天守模型より
苗木遠山史料館 苗木城天守模型

馬洗い岩

天守の南に周辺約42mの巨岩があります。

昔、敵に攻められた水の手を断たれた時、米で馬を洗い、あたかも水があるように見せかけたという伝承があり、「馬洗い岩」と呼ばれています。

二の丸跡

二の丸には、城主の居住空間と苗木領を治める政庁機関が置かれ、これらは廊下でつながっており、一般には御殿と呼ばれました。

御殿は、饗応・政庁などの役割をもった表御殿と城主の私的空間である奥御殿で構成されます。


二の丸跡から本丸方面を見る。

二の丸模型(当館苗木城復元模型より)
二の丸模型(当館苗木城復元模型より)

二の丸を後にして登城してきた道を戻る。帰路はA1駐車場より資料館からB2駐車場へと向かう。

資料館付近にはまだ紅葉が残っていた

資料館は次回の楽しみに・・・・

本文中の説明文は苗木遠山史料館苗木城跡を歩くのサイトより引用詳しくは下記サイトをご覧ください。

中津川市苗木遠山史料館|中津川市

苗木遠山史料館は、中世・戦国時代から明治時代初期に至る、苗木領の歴史的な文化遺産を保存・公開する史料館です。 苗木遠山家の資料を中心に、苗木領と苗木...

想像していた以上に大きな城郭、石の山の上に設けられた天然の要塞、素晴らしい城跡でした。
次回はもっと下調べをして、今回見ることが出来なかったところ訪ねてみたい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




天空の城苗木城跡を訪ねて

岐阜、美濃のマチュピチュ日本の山城ランキングで一位に輝いた山城。標高432メートルの高森山の自然の地形、巨石をうまく利用した見事な城郭、石垣。

岩村城を後にして一路苗木城を目指す。本当はこちらを先にするべきだったのかもしれないが今回は19号線を南からのルートをとったため岩村城を先に訪ねる旅となった。

早朝にくれば雲海も見れたかもしれなかったが一度にあれもこれも望んでも無理だろう。今回は紅葉の残る苗木城を見れたことで良しとしよう。

雑誌・メディアなどで紹介されとても気になっていた城だ。

下調べもなく訪ねたためルートもナビだより駐車場の確認もせずに目に付いたB2駐車場に車を止める。そこから苗木城が望める場所があったためもっと近くに駐車場があることなどなど露しらずこの場所から森の中を抜けるルートで登城する。


クリックで拡大

B2 駐車場より見る苗木城

いよいよ登城開始

駐車場横にいきなり巨岩見事な大きさだ。山全体が大きな石でできているのではないかと?

散策路入り口に案内板が

これをもっと早く見つけていれば資料館奥の駐車場A1に止めただろうと後悔。天候もよかったから散策できてよかったかもしれないと慰める。

コースにはルート標識があり安心できる天守跡まで1050m。

散策路のいたるところに巨岩

 


龍王院法印の墓碑

苗木遠山家の祈願所として龍王院と天王院とがあった。
 龍王院は、苗木城の外郭にあたる風呂屋門の西の小高い所、足軽長屋の隣地に在り、光耀山金巖寺龍王院といった。この寺は遠山家の祈禱所で真言宗であった。ここは、苗木城の鎮守龍王大権現(後高森神社)の別当が兼帯していた。
 毎年正月、五月、九月の一六日には暁七ッ時(午前四時)より城中で大般若経祈禱があるが、この時には龍王院、三井寺(坂下)、雲台寺(福岡)から城中の書院に出仕して転読して祈願般若会を修行した。
 龍王院には九石が与えられ、佛好寺と同じようであった。但し外に二人扶持が与えられ扶持渡にて渡された。また日比野村皇太神宮(神明神社)の隣地円生寺分一石四斗定納の場所が与えられ、永代引免になっていた。


Ⅷ-38 苗木 高森神社

樹木が途切れ視界が開けるとそこからは苗木城を見ることが出来る。人為的に樹木を伐採して眺望をよくしたものだろうか?廃城となって150年以上たつのでその間に茂った木々だろう。

 

 

散策道は再び木立の中に入りこの辺りから孟宗竹が目立ちだす。

ここを抜けるとビューポイントが現れる。苗木城の借景に恵那山を見ることが出来る。

そして、恵那山を見ながら生あるうちにこの山を登ることが出来るだろうかと考える。再び苗木城と恵那山

高森神社

【由緒】高森神社の創建年代等は不詳ですが、江戸時代ここには龍王権現が祀られ、龍王院の法印(遠山氏の祈祷所)が管理していました。慶応4年(1868)3月に神仏分離令が発令され、苗木藩は7月末龍王院を廃し龍王権現を高森神社に

高森神社を過ぎてやっとA1駐車場横の足軽長屋跡に着く。ここ足軽長屋跡は苗木城を望むビューポイントになっている。


足軽長屋跡から見る苗木城


城に向かう石畳

大きな自然石を利用した石垣(説によると小さな石の上に大きな石を乗せたのでは無く大きな自然石の下の空洞に小さな石を詰めたとのことだ、機械も無い時代に大きな石を移動、吊り上げなど至難の業だ)

紅葉と苗木城

日差しが当たり紅葉は一段と鮮やかに

風吹門(天然石を門の石垣に利用している)

門の左上が大矢倉跡

大矢倉を上方向から見る。何段にも積み上げられた石垣天然の岩山を石垣で積み上げたためこのような複雑な形になったのだろう?

大矢倉右側に大手門に降りる坂道がある大手門からつづら折りの坂道が30ほど曲がるため四十八曲りと呼ばれているとのことだ。

今回は訪ねることが出来なかったが。

大手門と四十八曲り 地図
大手門と四十八曲り(宝暦の図)中津川市苗木遠山史料館サイトより

大手門                         

「大手」とは、城の表側つまり正面を意味し、その位置にある門を大手門と言います。

多くは、街道や城下町に通じています。苗木城の場合は、四十八曲りを下りきった木曽川の手前にありました。

川を渡ればやがて中山道に通じます。ここが苗木城の、あるいは苗木藩の正面玄関だったのです。

江戸に参勤交代に行くときも帰ってきたときも、殿をはじめ家臣たちが大手門を潜りました。廃城の際取り払われ、今は礎石が残っています

矢倉門を後にしていよいよ天守へと

 

この先は後日に

 

つづく

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




おんな城主の城「岩村城」を訪ねて 2023.11.25

今回は二度目の来訪になる「岩村城」天候にも恵まれ、そして、紅葉の残る岩村城を登城

詳しくは下記サイトををどうぞ

 

登り始めてすぐに下田歌子勉学所がある。門をくぐるとそこは炎のように燃えていた。


振り返ると御嶽山だろうか雪を頂いた独立峰が目に入る。


藤坂


初門

一直線に登ってきた登城坂(藤坂)は、ここで地形に沿って大きく左に曲がりますが、一度右に曲がるヘアピンカーブとしています。敵が攻めてきたときに一気に登れないようにする工夫で、有事には仮設の門を設ける計画だったとも言われます。


一の門

大手一の門は、登城道(とじょうどう)の最初の門で、櫓門と多門櫓、その両脇の曲輪により厳重に守られています。単純な平入りの門ですが、その弱点を補うために門の前面に石塁(せきるい)を設け、攻撃側が一度に大勢が門に取り付けないように工夫されています。


石畳の坂道


一の門の右藩主屋敷跡


土岐門左下屋敷跡のモミジ


土岐門

大手二の門(おおてにのもん)は「土岐門」「土岐殿門」(ときどのもん)と呼ばれています。戦勝記念に土岐氏の城から移築したからとも、この付近に住みついた仏法僧(コノハズク)の鳴き声が「ときとん」と聞こえたからとも言われています。土岐門の内側は馬出曲輪(うまだしくるわ)になっています。


追手門・三重櫓・畳橋

追手門は、櫓門と棟門(むねもん)を直角に組み合わせた外枡形門(そとますがたもん)です。前面に架かる橋は、敵が攻めてきたときに畳を上げるように橋板(はしいた)を取り外すことができたことから、畳橋と呼ばれています。

場内唯一の三重櫓は、一の門を突破し追手門に迫る敵に強力な射撃を浴びせる防御の要です。城下町から城を見上げると最もよく見える場所にあり、天守(てんしゅ)の役割も果たしていました。

追手門・三重櫓・畳橋

追手門は、櫓門と棟門(むねもん)を直角に組み合わせた外枡形門(そとますがたもん)です。前面に架かる橋は、敵が攻めてきたときに畳を上げるように橋板(はしいた)を取り外すことができたことから、畳橋と呼ばれています。

場内唯一の三重櫓は、一の門を突破し追手門に迫る敵に強力な射撃を浴びせる防御の要です。城下町から城を見上げると最もよく見える場所にあり、天守(てんしゅ)の役割も果たしていました。

右手の二ノ丸多門櫓(たもんやぐら)は、折れ曲がった形が菱形にみえることから、「菱櫓」と呼ばれています。正面には橋櫓(はしやぐら)と廊下橋(ろうかばし)、その奥には本丸の六段壁と東曲輪が見えます。江戸時代の庶民は、毎年正月15日の一日だけ八幡神社参拝のための登城が許されており、このあたりまでは入ることができたようです。高石垣(たかいしがき)の上を櫓が連なる様は壮観であったことでしょう。

六段の石垣は、はじめは最上段の一段のみの高石垣(たかいしがき)で、右側(北側)の石垣と同じ高さであったと推定されます。江戸時代後期に、崩落を防ぐ補強のために下段に石垣を継ぎ足した結果、現在の姿になりました。


 


本丸標高717mの城山山頂

本丸埋門(ほんまるうずみもん)と納戸櫓

右手の二重櫓は「納戸櫓」(なんどやぐら)左の櫓門は「埋門」(うずみもん)と呼ばれています。埋門は一見すると平入り(ひらいり)の単純な門に見えますが、門を潜って左に曲がったところにもう一つ扉がある厳重な構えで、内部は地下通路のようになっていました。​

今立っている場所には二ノ丸の裏門である不明門(あかずのもん)が建っていました。本丸 下段の土塀の中にはここからしか行くことができず、左手の高石垣の上には、手前から納戸 櫓、本丸西多門櫓、二重櫓が建ち並んでいました。

​出丸から本丸を望む

中央右寄りの棟門(むねもん)は出丸の唯一の出入り口である「出丸口門」(でまるぐちもん)です。右端の多門櫓(たもんやぐら)は大工小屋と呼ばれており、建物のメンテナンスを行う職人の作業場であったと思われます。このほかに、出丸にはお菓子の氷餅(こおりもち)を扱う氷餅蔵(こおりもちぐら)や時を告げる太鼓櫓もありました。

本丸から恵那山方向を望む

 

記載した説明文は冊子岩村城登城ガイド並び再現CGサイトより。

リンクは岩村再現CGサイトのリンクです再現された岩村城を見ることが出来ます。

今回は城下町へは訪ねる時間的余裕がなく次回へ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




七尾城址 2023年

上杉謙信が長期にわたって苦戦した七尾城を訪れる機会を得ました。七尾城は石動山脈の北端に位置し、海抜300メートルの山頂にあります。JR七尾駅から古城までは南東に約4キロメートルです。

本丸跡には「七尾城祉」という石碑が建てられています。本丸跡から眺める景色は素晴らしく、『万葉集』に詠まれた夢の島として知られる能登島が目の前に広がります。遠くを見渡すと、奥能登の半島まで見ることができる絶景の地です。北陸の古戦場の標より抜粋


本丸跡から見る眺望と七尾城址碑


城下、七尾湾、能登島、能登島大橋、能登半島までが一望できる。


現在、入善町横山の沖合で進められている洋上風力発電事業のための大型の「SEP船」(全幅50メートル、全長142メートル)

 

山麓から山頂には七曲りの急坂が待ち構えており、山頂の本丸までの城域は広く、要害の地となっています。杉の木立ちの石段を登ると、遊佐氏屋敷跡や三の丸、本丸などの道標があり、当時の情景がよみがえってくるかのようです。


本丸石垣


各所に七尾城のCG画像が表示されている


九尺石を据えた温井屋敷の内枡形


温井()屋敷跡から二の丸方向を見る


二の丸跡からの眺望、能越道七尾インターが一望できるインター右側は能登国分寺跡地


「畠山義忠公歌碑」 「野も山もみなうつもるゝ雪の中しるしはかりの杉の村立 畠山修理大夫(賢良)」

 


本丸跡に置かれた案内板と眺望、下案内板一部拡大

上杉謙信の能登征討において、特に有名なのは「九月十三夜陣中作』と題する漢詩である。この詩は九月十三夜の名月を賞したものであり、七尾城陥落は九月十五日であるので、陥落前に本陣を敷いていた石動山か、一説には荒山峠で吟じたとも言われている。三州志には、“謙信七尾にして九月十三宵賞月詩あり。

霜満軍営秋気清。数行過雁月三一更。
越山併得能州景。任他家郷念遠征。

詩調優暢英雄の気象自ら超然たり。此の詩本朝詩選に載す。按ずるに此の七尾攻城の比軍営中の作なるべし。”とある。(北陸の古戦場の標より)


調度丸跡から見る桜馬場石垣、下;調度丸跡に建てられた案内板


寺屋敷跡から調度丸跡に上る階段より桜馬場方向を見る。斜面の険しさが窺える。

七尾城は広大な丘陵地に設けられた山城、畠山氏の栄華、169年の歴史をとても一日では回り切れない城です。

上記写真;2023.05.27撮影

以下;これまでの七尾城投稿記事

七尾城址 2007年

七尾城本丸石垣から城山展望台を望む
写真:七尾城本丸石垣から城山展望台を望む 2007.04.16撮影

 


霜は軍営に満ちて秋気(しゅうき)清し
数行の過雁(かがん)月三更(さんこう)
越山(えつざん)併(あわ)せ得たり能州(のうしゅう)の景
遮莫(さもあらば)あれ家郷(かきょう)遠征(えんせい)をおも憶う



七尾市街と富山湾側を隔てるように連なる石動宝達丘陵。その北端に位置する七尾山に築城された典型的な山岳城だ。

七尾城址案内板七尾城址七尾城址本丸跡


七尾の歴史と文化より
七尾城の城砦
 七尾城は、戦国大名であった畠山氏が築いた山城で、戦国時代、能登の政治・文化の拠点として機能した。その特徴は、天然の要害地形を巧みに利用した設計(縄張)と、山上に築かれた大規模な石垣である。
 本丸は標高約三〇〇㍍の山上にあり城主や重臣の屋敷や兵糧倉や武器庫など、城の重要施設が置かれた場所である。この本丸からは、山麓の城下町をはじめ七尾湾の浦々が一望され、周囲には、野面積みの石垣で築かれた桜馬場や調度丸、深い空堀で区切られた二の丸、三の丸などの郭群が並び、樋ノ水などの水場も位置する。
 さらに城下町へと広がる尾根は「七つ尾」と総称され、七尾の地名の由来となり、家臣の侍や兵が守りに就いた砦が、幾重にも配置されている砦の構えは、大小の平坦地に防塁や堀切を設けたものである。
 天正五年(一五七七)、七尾城を攻略した上杉謙信は、本丸に立ち、「聞きしに及び候より名地、賀・越・能の金目(かなめ)の地形といい、要害山海に相応し海頬島々の休までも、絵像に写し難き景勝までに候」 (「上杉謙信書状写」歴代古案)と書き伝えている。
 天正九年一〇月、織田信長から能登一国を与えられた前田利家は、翌年一月から府中の港に隣接した小丸山に築城を始め、山城である七尾城を廃城とした。それは能登に戦国時代の終わりを告げる出来事であった。(垣内光次郎)

漢詩 九月十三夜
 霜は軍営に満ちて秋気清し・・・・・・は上杉謙信が能登七尾城に攻め入ったとき、陥落間近の天正5年9月13日、諸将と供に石動山大宮坊で名月を眺め詠じた詩とされる。


 このとき、謙信が本陣としていたとされる石動山大宮坊、最近再建され拝観できるようになっている。
石動山大宮坊

 現在七尾城に残る遺構は苔むした石垣のみで、静まり返った杉木立ちの中を歩くと寂しさを感じる。
 本丸跡地櫓台跡地には畠山末裔が建立した神社がある。ここ本丸跡からは七尾市街、七尾湾・能登島そしてはるか能登半島を望むことができる。
七尾城本丸跡に建つ神社七尾城本丸跡より七尾方面を望む
写真:2007.4.16撮影 天候小雨

 

 シーサイドラインの黒崎町の民家を抜けて約10kmの林道をを走ると城山展望台に着くことが出来る。七尾市街地側から登るのがポピュラーだがこのルートはあまり知られていない。
 全線舗装はされているが所々段差が出来ていたりして要注意だ。紅葉も終わり落ち葉が道路を覆い落ち葉の絨毯のようになっている。
 360度を見渡す展望台から少し下ると七尾城跡につくこんな季節に登ってくる人はさすがにいない。一昨年前の地震で崩壊した石垣の修繕もきれいに終わっている。
 今年は、能登畠山家創立六〇〇年ということで8月から10月にかけて様々なイベントが開催された。

七尾市の制作した七尾城跡の案内には謙信も絶賛 戦国の巨大山城とサブタイトルが附けられている。(以下引用)


謙信も絶賛 戦国の巨大山城


史跡 七尾城


 七尾城は、室町幕府の将軍を補佐する管領職を勤めた畠山氏の有力庶流として応永一五年(一四○ハ)に独立した能登護畠山氏(能登国守護)が、戦国時代(一六世紀初頃)に能登府中にかわる新たな拠点として築いた山城です。
 七尾城は、標高約三〇〇メートルの山頂部に所在する本丸を中心として、北側の山麓まで延びる尾根一帯を不規模に造成し、多数の曲輪(屋敷地)を築いていることが特徴で、その規模と構造は国内でも屈指とみられています。七尾の地名は、こうした七尾城が築かれている尾根が7つあることに由来すると言われております。
 また、七尾城の麓には京都の禅僧が天文一三年(一五四四)に記した『独楽亭記』にみる千門万戸の活況呈する城下「七尾」が連続して形成されていたことが明らかにされ、山上の山城と山下の城下が一体となる北陸を代表する戦国都市であったことも確認されています。国宝「松林歯屏風」を描き、画聖とうたわれた長谷川等伯は、天文ハ年(一五三九)に京風の畠山文化が開花する七尾に生まれ、その才能を育んでいます。
 平成一八年四月には、県内では金沢城とともに「日本100名城」に選ばれています。

  • 国指定史跡:昭和9年(1934)12月28日指定(大2398号)
  • 所在地:石川県七尾古府町、古屋敷町、竹町入会地字大塚14番1・2・4、15番の2




クリックすると拡大表示します。(pdf8.7M)


 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




末森城址散策

静かな時を刻む城跡 訪れる人が誰もなくひっそり佇む城跡。鳥のさえずりと木の葉を吹き抜ける風の音だけ。

一人では少々寂しい散策、熊・イノシシ注意の看板を思い出す。

末森山(標高138.8メートル-3等三角点)にある中世から近世初期の山城跡です。
現在は本丸門の礎石、通称「本丸」、「二の丸」「若宮丸」のあった跡や、空堀が草叢ながら歴然と遺っています。
天正12年(1584)越中富山城主 佐々成政による攻撃を受けましたが、城主 奥村永福がこれを死守し、前田利家の来援により落城を免れています。
この戦いが加賀百万石の基礎となったと伝わる「末森合戦」です。

宝達清水町観光サイトより抜粋


末森城跡鳥観図(駐車場横に建つ)


登山道は国道を跨ぐ橋を渡る


若宮丸跡

若宮丸から若宮方面に降りる明るくて杉木立の間から差し込む日差しが心地よい。でもくれぐれもそのまま下りてゆかない方が安全。ルートから外れる可能性があり危険!


二の丸跡


二の丸跡から今浜方面を望む


本丸跡と説明版

山を下りたところで遭遇する。クマよけ鈴・ラジオなどを持参した方がよいかも。

 

追;全体にコース案内が少なく案内マップだけでは心もとない気がしました。十分に注意を!!!

迷子になって落人にでも会ったら洒落になりませんね。( ´艸`)

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 シーサイドラインの黒崎町の民家を抜けて約10kmの林道をを走ると城山展望台に着くことが出来る。七尾市街地側から登るのがポピュラーだがこのルートはあまり知られていない。
 全線舗装はされているが所々段差が出来ていたりして要注意だ。紅葉も終わり落ち葉が道路を覆い落ち葉の絨毯のようになっている。
 360度を見渡す展望台から少し下ると七尾城跡につくこんな季節に登ってくる人はさすがにいない。一昨年前の地震で崩壊した石垣の修繕もきれいに終わっている。
 今年は、能登畠山家創立六〇〇年ということで8月から10月にかけて様々なイベントが開催された。

七尾市の制作した七尾城跡の案内には謙信も絶賛 戦国の巨大山城とサブタイトルが附けられている。(以下引用)


謙信も絶賛 戦国の巨大山城


史跡 七尾城


 七尾城は、室町幕府の将軍を補佐する管領職を勤めた畠山氏の有力庶流として応永一五年(一四○ハ)に独立した能登護畠山氏(能登国守護)が、戦国時代(一六世紀初頃)に能登府中にかわる新たな拠点として築いた山城です。
 七尾城は、標高約三〇〇メートルの山頂部に所在する本丸を中心として、北側の山麓まで延びる尾根一帯を不規模に造成し、多数の曲輪(屋敷地)を築いていることが特徴で、その規模と構造は国内でも屈指とみられています。七尾の地名は、こうした七尾城が築かれている尾根が7つあることに由来すると言われております。
 また、七尾城の麓には京都の禅僧が天文一三年(一五四四)に記した『独楽亭記』にみる千門万戸の活況呈する城下「七尾」が連続して形成されていたことが明らかにされ、山上の山城と山下の城下が一体となる北陸を代表する戦国都市であったことも確認されています。国宝「松林歯屏風」を描き、画聖とうたわれた長谷川等伯は、天文ハ年(一五三九)に京風の畠山文化が開花する七尾に生まれ、その才能を育んでいます。
 平成一八年四月には、県内では金沢城とともに「日本100名城」に選ばれています。

  • 国指定史跡:昭和9年(1934)12月28日指定(大2398号)
  • 所在地:石川県七尾古府町、古屋敷町、竹町入会地字大塚14番1・2・4、15番の2




クリックすると拡大表示します。(pdf8.7M)


 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「畠山義忠公歌碑」


城山は七尾市街地より南東約5kmの位置にあり麓には七尾城資料館(公式ホームページはありませんが資料館を紹介したサイトです)があり、資料から武家生活の様子がうかがえる。

登山には旧道も整備され歩いて登ることも出来る。この季節なら新緑の中をさまざまな花(植物)を眺めながら風を感じて登るのもよい。また、小鳥のさえずりが何処からともなく聞こえてくる。
時間と体力に自信のない人は車で一気に駐車場まで登ることが出来る。駐車場には七尾城絵図、七尾城址文化事業団が建立した「畠山義忠公歌碑」(上写真)、石仏が建つ。
歌碑には「野も山もみなうつもるゝ雪の中しるしはかりの杉の村立 畠山修理大夫(賢良)」と書かれている
また、木立の間からは七尾市街を望むことが出来る。

駐車場石仏


ここから本丸跡まで歩いても15分程度で登れる。

「聞きしに及び候より名地、賀・越・能の金目(かなめ)の地形といい、要害山海に相応し海頬島々の休までも、絵像に写し難き景勝までに候」 (「上杉謙信書状写」歴代古案)

本丸にて謙信の見た風景、今年の3月には「美しい日本の歴史風土準百選」に選定された。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




漢詩 九月十三夜
 霜は軍営に満ちて秋気清し・・・・・・は上杉謙信が能登七尾城に攻め入ったとき、陥落間近の天正5年9月13日、諸将と供に石動山大宮坊で名月を眺め詠じた詩とされる。


 このとき、謙信が本陣としていたとされる石動山大宮坊、最近再建され拝観できるようになっている。
石動山大宮坊

 現在七尾城に残る遺構は苔むした石垣のみで、静まり返った杉木立ちの中を歩くと寂しさを感じる。
 本丸跡地櫓台跡地には畠山末裔が建立した神社がある。ここ本丸跡からは七尾市街、七尾湾・能登島そしてはるか能登半島を望むことができる。
七尾城本丸跡に建つ神社七尾城本丸跡より七尾方面を望む
写真:2007.4.16撮影 天候小雨

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ