思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

親鸞の大著 「教行信証」 30年間にわたる遂行の跡。

2020-10-30 | 恋知(哲学)

 親鸞は、茨城の稲田草庵(現 浄土真宗別格本山「西念寺」・茨城県笠間市)で、40歳代から50歳代半ばにかけて主著「教行信証」を書きましたが、その後、60歳で京都に帰り、90歳で亡くなるまで、この書に推敲をつみ重ねました。

 その跡が親鸞直筆の原本(坂東本)には明瞭です。以下は、真宗大谷派(東本願寺派)の「同朋新聞」2020年10月号です。



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茨城の加波山(かばさん)にある「自由」を讃える彫刻ーー自由民権運動=加波山事件のモニュメント

2020-10-27 | 芸術

自由民権運動を讃え、自由を宣言する彫刻です。
茨城県の「加波山事件」は悲惨に終わりましたが、自由のために立ちあがった民衆の理念を守り発展させるためのモニュメントです。昨日撮影。






向かい側にある風力発電のプロペラ=自由の象徴のようです。
(クリックでGoogle地図が出ます)

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菅という名の最低男。首相の権限で何でもできる!?は、民主制の根本破壊・悪業そのもの。

2020-10-20 | 社会批評

これほどのデタラメはありません。
これでは、日本は北朝鮮と同じで、明らかに独裁政治です。

学術会議の新メンバーは、もともと、決定された人選を任命する形式的なものでした。
さまざまな組織や会議のメンバーは、首相が「YES・NO」を個別に検討して、指名するものではないのです。

そんな細かな人事の一つ一つを首相が検討して決めるというのでは、独裁国家になってしまいます。それぞれの現場に実際のことを決めてもらうという厚みがなければ、国は首相の独裁になり、全体主義にしかなりません。麻生財務相&副総理が安倍元首相に提言した「ヒトラーの手法を真似ればいい」を実行し続けているのが、いまの菅首相など「安倍 麻生グループ」で、公共悪の極みです。


拒否された学術会議の新メンバー6名は、みな安倍政権を批判した人です。明らかに政治的意図があるのは明白ですが、それゆえに、拒否したことを説明しない=できないのです。政治批判の自由がない国を独裁国家と呼ぶのです。

実際上、その組織で決めている人事を認めないという強い権限を行使しておいて、理由は説明しない、これではあのトランプ米大統領の言動を上回るおぞましい行為で、話しにもなりません。

首相が説明しない、という自由は、民主制国家にはないのです。これほど戯けた行為はありません。



武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員)

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小笠原晋也さんとのやりとりのまとめ。ー西欧哲学を超えてー 哲学から恋知へ。  武田康弘

2020-10-19 | 恋知(哲学)

 小笠原晋也さんから、わたしとの対話拒否の意思が示されましたので、
最後に簡単にまとめを書きます。

  思想・哲学に携わる日本人の多くは、ヨーロッパ中心主義者ですが、小笠原さんは、それが正しいと強く主張しますので驚きます。【カトリック信仰とハイデガーとフロイトとラカン】を一体化させ絶対化させます。

 そもそも、西欧人が主張するように「学問・哲学は西欧の専売特許!」ではありません。
 紀元前6世紀にいまのトルコ・ギリシャのエーゲ海沿岸ではじまった自然哲学(学問の総称)は、アテネでソクラテスが「恋愛+知(プロソピア・フィロソフィー)」という新語(日本では西周により「哲学」と訳されていますが、直訳すれば「恋知」です)をつくり活躍した後、弟子のプラトン、アリストテレスを経て、ローマに伝わりますが、その前、紀元前3~2世紀には、ギリシャの都市国家の王たちとインドの仏教徒たちはさかんな交流をもち、多くのポリスの王たちは仏教に帰依しています。

 ローマ時代は学問の中心はアレクサンドリアでしたが、それは、7~8世紀にギリシャ語からアラビア語に翻訳されてイスラム世界に伝えられ、化学、医学、天文学などが花開き、インドでのゼロの発明が十進数を生み、現代の数学がつくられたのでした。


 アラビア語およびギリシャ語からラテン語に翻訳されてヨーロッパに学問が入ったのは12世紀ころからのこと。一番遅れたのが西欧なのです。

 なお、哲学史=学問史=科学史は詳しく展開したらキリがないので、お知りになりたい方は、村上陽一郎さんの著作で学ばれるとよいでしょう。

 ともあれ、スコラ神学の改革として生まれた西欧近代哲学を絶対化させる見方は、キリスト教の絶対化と重なり(無神論という主張は強い一神教への対抗理論で思考法としては表裏一体です)、一神教的な偏りをもちます。ハイデガーが自身の存在論を書けなくなり数多くの日本の仏教者らと対談したのは、出口を探してもがいていたからですが、それは最終的に1966年の「シュピーゲル対話」での敗北宣言となったのでした。平凡社新書で出ている「形而上学入門」の末尾に付いていますので、それを読まれれば、どなたでもお分かりになるはずです。小笠原さんの主張する事柄は、ただの一つも出てきません。


 西欧の一神教的思考法と元から縁を切ったのは、フランスのサルトルでした。処女作「イマジネール」(=「想像力の問題」)で、知覚からはじまる認識意識ではない想像意識を自由の根拠としたサルトルは、『存在と無』で、「実存は本質に先立つ」という哲学原理により西欧哲学の革命を成しましたが、それは近代西欧哲学という枠組みを超えてフィロソフィーが古代エーゲ海の初発に戻り、世界の実存思想(ソクラテス・ブッダ・老子)にかさなった瞬間でした。
 彼の提唱した【実存的精神分析】は、汝自身を知れ!の20世紀バージョンで、経験的・事実的心理学を超えた本質学としての人間精神の探求です。サルトルは1964年に西欧の生んだ人間格付=ノーベル賞受賞を、彼らしく「断固として拒否する!」と言いました。まさにこれにて一巻のお終い~~!(笑)



武田康弘


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中本勝美さま。ご住所をお知らせ下さい。たいへん遅れて申し訳ありません。

2020-10-17 | その他

中本勝美さま

気付かずに大変失礼をしました。

ご住所をお知らせください。コメント欄にお書きください(公開はしませんので)。

すぐお送り致します。

ありがとうございました。


武田康弘


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ブッダ(しゃか)の根本思想とは何か?

2020-10-17 | 恋知(哲学)



ブッダ(釈迦)の根本思想は、以下です。


 まず、人間はみな「天上天下唯我独尊」として生まれてきた、という人間存在論です。この天にも地にも我独り尊いという存在、それがわたしです。だから、他と比べて優れているとか劣っているとか中間だとかという見方・考え方は根本的に誤りです。本来、わたしは誰にも比べられない尊い存在なのです。それを知れば、生あるものへの限りない慈しみの心が自ずと湧き上がってきます。みな唯一の命です。

 次は、29才の時に出家して瞑想し、苦行をしても、老病死への苦悩を克服できずにいましたが、35歳のときにすべては「縁」により成り立っていてることを悟りました。自分の力ではなく、生まれる縁が整えば生まれ、死ぬ縁が整えば死ぬ。さまざまな苦悩は、それを受け入れずに生に執着する心から起きる。執着こそが苦しみの原因であることを見ぬいたのでした。老病死を自分の外に見て、そこから逃げようとするところに苦しみが生まれる。老病死を自分の中でしっかりみつめることで、自分への囚われから解放されることを知ったのでした。みな共に生きているのです。これを「縁起の法」と言います。

 最後は、遺教として知られている「自帰依ー法帰依」です。神とか権威とか他人ではなく、自分自身を拠り所にせよ。法(法則・自然)を拠り所にせよ。というものです。基軸・足場・土台は、自己にあることの自覚と実践です。


「唯我独尊」 と 「縁」 と 「自帰依・法帰依」の三つがブッタ(釈迦)の根本思想だとわたしは思います。根源的で見事な実存思想です。


武田康弘

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秀才と天才の根本的違いさえ弁えない日本という愚かな国は亡びるでしょう。

2020-10-16 | 恋知(哲学)

 なにかとても愚かしい話ですが、
いまの日本人は、秀才と天才の決定的な違いさえ分からないようです。

 東大法学部を首席で卒業する人は、既存の枠内での最優秀者で、秀才ですが、天才ではありません。いまある勉強や学問の世界ですべて100点を取るのは正真正銘の秀才であり、天才(創造的頭脳=暗記脳とは異なる脳)とは存在のありようが元から違います。

 複数科目で落第し、成績はせいぜい中位、就職も失敗したアインシュタイン。彼は紛れもない創造的思考力の持ち主で、天才です。日本人にも大勢いますが、今はその一人ひとりの話はしません。

 音楽でも同じ。世界トップの音楽大学を首席で卒業するのは、間違いなく優秀な音楽家で見事な秀才です。そういう彼や彼女は、身体全体が音楽で出来ているようなヴァイオリニストのコパチンスカヤや、音楽のイデアと根源的パワーを顕現する指揮者のクルレンツィスに会い、その音楽を体験するといいでしょう。西側諸国最高の音楽大学での最優秀とは次元の異なる天才世界があり、人がいることに驚愕するにちがいありません。

 秀才=既成枠内の最優秀者と、天才=既存の枠を飄々と超える存在とは、まったく異なる質をもつことも知らないテレビ人を見ていると、呆れ、日本人の質が著しく下がってしまったことに哀しくなります。

 天才そのものではなくても、天才型人間を高評価する教育&文化にしないと、どんどん沈没していくだけです。秀才と秀才型人間ばかりが高評価される国は滅びるでしょう。天才型人間のつくるのがエロース=魅力ある世界ですが、それに乏しい国は生きる意味が希薄な国で最低です。


 武田康弘

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開かれた趣味の世界と、閉じた趣味の世界

2020-10-12 | 恋知(哲学)

 普遍性に通じる趣味の世界と、生(なま)のエロースの趣味の世界の違いを考え・体験したのは、20歳ころのある「選び」への直面によってでした。

 わたしは、音楽好きでよい音に憧れ、オーディオも好きでした。秋葉原の隣、神田須田町の生まれということもあり、オーディオ製品を見たり聞いたりは日常的にできましたので、高校生になった頃から世界のオーディオに親しんできました。販売店の視聴室に入りびたり~~。

 また小学生の頃からの写真好きで、中学2年のときに一眼レフ(ペンタックス)を買ってもらい、写真趣味はずっとです。音楽などの発表会写真やポスター写真や美術写真など仕事の一部にもしてきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 20歳ころ、わたしは、バイトで貯めたお金で、新しいスピーカーを買うか、引伸機(フィルムを印画紙に拡大して写真にする道具)と周辺機材一式を買うか、とても悩みました。どちらも同じくらい欲しいのですが、どちらかしか買えません。

    その時のことを今も鮮明に覚えています。視聴して気にいったスピーカーは、直接的なエロースでわたしを虜にします。なまなましい魅力です。引伸機は、それ自体にはエロースはありませんが、それを使いこなせるようになれば、芸術としての写真表現が可能になります。創造の道具となるのです。

 ああ、この違いは大きいな、本質的な違いだ。魅惑の品を所有して使うことと、新しいよきもの・魅力ある世界を創り出す道具の獲得=使用とは、根本的に意味が異なるのだと気づいた瞬間でした。それが了解されたので、わたしは迷いなく引伸機を買いました。新宿西口のヨドバシカメラで。もう少しで50年が経ちます。

 その後の引伸機の活躍は書き切れません。天体写真での覆い焼や焼き込み、数枚のフィルムを用いるコンポジット、印画紙による表現の違いなどで、写真表現の面白さ、素晴らしさを堪能し、多くの人の助けにもなりました。まさによい趣味=開かれた趣味の世界です。(今はデシタルになり使っていませんが、ありますー写真)

 生(なま)のエロースの世界もよいのですが、能動的な創造の世界に目を向けたときに開拓できる世界は、次元が違います。お金はそのために用いた方が自他を活かすという真理に目覚めた体験は、貴重でした。たくさんお金があり迷わない人は不幸です(笑・ホントウ)。

 なお、その後に展開したよい音のオーディオは、こどもたちにも大人にも、「音楽を聞く会」を定期的に催し、開かれた趣味の世界になっています。

 実存を踏まえて公共的な広がりへ!


武田康弘

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親鸞像(木彫り)「板敷山 大覚寺」の本堂に安置されている彫像。ポートレート風に撮ったお気に入りの一枚です。

2020-10-12 | 芸術

親鸞ゆかりの板敷山大覚寺(茨城県八郷・現石岡市)は、広大な敷地に建ち、回遊式の日本庭園ももつ見事な浄土真宗のお寺ですが、

本堂には、鎌倉時代の木彫りの親鸞像(伝説では親鸞自身の作)と山伏弁円の像、その他貴重な品々があり、誰でも見れます。秘仏のような扱いにしないのは、親鸞やブッダの精神そのものです。

親鸞像を撮らせて頂きましたが、気に入った一枚が撮れましたので、公開します。暗いので写真にした方が細部は分かります。ポートレート風に撮ったみましたが、等身大の人間親鸞が感じられると思います。



 武田康弘(データ・2020.10.4   16時35分  ソニーRX-1R  ツァイスゾナー35㎜F2  f2開放、ISO6400   

 

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山田さま、気付かず、失礼しました。冊子『明治政府がつくった天皇という記号」は、明日、郵送します。

2020-10-11 | その他

山田さま、コメント欄からの申込に気付かず、失礼しました。明日、発送します。

なお、以前にお送りした方で、郵便振替番号が分からない方がいらっしゃるようですので、下に記します。

送料を含めて1000円です。2冊以上の方は、冊子代金(1冊700円)のみで、送料はかかりません。

「白樺教育館」再防水・再塗装のための寄付金も同じ番号ですので、よろしくお願いします。寄付金は200万円を超えて、後30万円で工事にかかれます。
みなさまのご支援にとても感謝です。あと少しです。



郵便振替 口座番号 00110-1-124812 白樺教育館









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後鳥羽上皇の悪業=承久の乱 と 北条政子・義時・泰時 と 法然・親鸞の念仏宗。茨城における浄土真宗開宗。2

2020-10-10 | 学芸

2 承久の乱と念仏宗


 1221年、朝廷(平安時代初期の村上天皇までは天皇家と呼ばれていた京都王)を真正面から打ち破り、完全勝利して新たな日本をつくったのは、権力や財への興味などなかった北条政子と弟の義時とその息子の泰時でした。日本史最大の革命でした。

 伊豆の片田舎の小豪族でしかなかった北条の姉弟は、朝廷と戦うことなどは夢にも思っていませんでした。伊豆に流されていた源頼朝への政子の純粋な愛がすべての始まりでした。親の反対を押し切り、政子は頼朝の元に飛び込み結婚しましたが、頼朝が平氏との戦いに勝ち、征夷大将軍となり鎌倉幕府を開いたので、その国造りを全力で支えたのでした。

 政子は、頼朝の突然の死(1199年)の悲しみから僧となりましたが、二代目の息子頼家は情けなく力に欠け、三代目の実朝も貴族文化に憧れ軟弱で、鎌倉幕府は求心力を失い、結局は、冷静で頭がよく胆力も強い弟の義時が執権としてトップに立ったのでした。

 京都の後鳥羽上皇は、大変に権力欲が強く、王者意識をもっていましたので、源頼朝が征夷大将軍の時から東国も朝廷の支配下にしたいと考え、頼朝の忠誠心など当然の事とし、遅れた東国の武士集団の長としか見ていませんでした。
 後鳥羽は、源から北条に実権が移ったのをチャンス見、「義時を討て!」という院宣を全国に出し、朝廷による全国支配を企てたのです。義時が「朝敵」となれば、幕府は瓦解し、東国武士団は分裂するとみた頭のよい策士・後鳥羽上皇ならではの決断でしたが、

 彼の大誤算は、法然の念仏宗に帰依し、愛情深く恐れをもたぬ天才政子の存在を見なかったところにあります。頭も心も優れた武将の義時とはいえ男集団だけならば、犬のように上下意識の強い武士集団は分断され、戦いにならなかったでしょうが、女性の政子の東国武士への熱い想い、最愛の夫頼朝が言語を絶する苦難により拓いた鎌倉幕府を守ることへの強固な意思、再び京都に支配され誇りのない惨めな生活に戻ることへの断固たる拒否、それらを訴えた「大演説」により、動揺していた鎌倉武士たちは一致団結したのでした。

 朝廷軍が鎌倉に攻めてくるのを迎え撃つのでは敗北する、直ちにこちらから京へ攻め登る必要を政子は、弟の義時の息子で心身とも強壮な泰時に話しました。幼少時からずっと伯母の政子を慕い尊敬していた若干22才の泰時は、死を覚悟し、わずか18騎で出陣しましたが、泰時出陣の3日後には、関東の武士たちは続々と京へと進撃を開始したのです。ついにはその数19万に達しました。

 宇治川を渡り切り、東国武士が勝利を目前とした時、後鳥羽上皇の使者が来て、院宣が渡されました。

「この度の合戦は、朕(ちん)の意志からではなく、周囲の者たちが企てたことだ。今となっては、北条義時が言う通りに万事を行う。よって、洛中での狼藉(ろうぜき)を禁ずる旨を東国武士に命じてほしい」

 泰時は苦笑しました。父の義時の殺害を全国の武士に命じておいて、負けるとなると、周囲の者のせいにし、自分は戦いもせず、責任を取ろうともしない。

 京都・朝廷を完全制圧した後、義時は、後鳥羽上皇らを処分しました。後鳥羽上皇と息子の順徳は島流しで、終身刑。後鳥羽は、流刑を解けばまた何をするか分からないので、流刑者は数年で元の場所に戻すという従来の慣行を変え、60歳で死去するまで19年間隠岐の島に閉じ込めました。順徳天皇も流刑地の佐渡で21年後に45歳才で死去。土御門は自ら申し出て流刑となりました。皇室所有の荘園数百か所はすべて没収されました。

 後鳥羽上皇の残りの息子10名は、出家させられましたが、その中から、ちょうど東国茨城の地で誕生しつつあった親鸞の浄土真宗を助ける者が出たのです。親鸞の弟子となったのですが、なんという劇的な展開でしょうか。誰でもが南無阿弥陀仏の6文字で救われるという念仏宗は、傷心の息子たちの拠り所になったのでしょう。

 1207年、後鳥羽上皇は、「法に背き、義に外れ、法然門下4名を不当にも死罪とし、法然上人他を流罪とした」(「教行信証」親鸞著)のですが、その14年後に起こされた後鳥羽上皇の鎌倉北条幕府転覆の企て失敗により、自らは終身刑となり、息子たちは僧となり、なんと彼が弾圧した念仏宗に帰依して、親鸞を助けることになったのです。

 なお、親鸞が念仏門の法然門下となったのは1202年ですが、政子が法然門下になったのも同時期、少し前であったと思われます。また北条幕府と親鸞は深い結びつきをもちますが、それはまた後日に。

ーー続くーー

 

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マスクや三密云々は無意味。すでに「集団免疫」獲得。新型コロナは年内に自然終息。上久保京大教授の必読本。真理は明快。

2020-10-07 | 社会批評

真理とは、解き明かされると、単純明瞭なものです。

マスクの着用、三密を避けるは、一切必要ありません。すでにT型獲得免疫を東南アジア人は獲得していて、新型コロナは日本でも実際は終焉していますが、世界的にも年内に終息するとのことです。

上久保教授の説明は、京都大学医学部ビッグデータ科の世界中のデータにより、明快で、今年3月より一貫しています。これほど明晰に解説されても分からないのなら頭が病気というほかありません(笑)。

簡単に読めますので、今月新刊の『新型コロナ』をぜひお読みください。税込990円です。

(この書は教え子の綿貫信一君の推薦です)

 

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日本史の大転回=後鳥羽上皇の二つの悪業vs法然・親鸞、北条政子・義時・泰時ー1

2020-10-02 | 学芸


日本
史の大転回=後鳥羽上皇の二つの悪業 vs 法然・親鸞、北条政子・義時・泰時。

後鳥羽上皇が28歳の時に私怨(女官=愛人の2名が念仏宗に帰依)より法然門下を死罪・流罪とした1207年の法難と、
後鳥羽上皇の権力欲(激しい王者意識)が起こした1221年の承久の乱の二つは、
実は一つの出来事だと気付きました。

わたしは、今年8月に親鸞の足跡を求めて38ぶりに板敷山 大覚寺に行ったとき、「後鳥羽上皇の第三皇子が云々」という寺の記述に疑問を持ち、住職の長男の板垣真澄さんに尋ねたところ、今井雅晴さんの著作を紹介されました。実証的で平明な今井さんの著作(10冊ほど)を読むことにより、法難の詳しい事実と、東国(茨城の稲田を中心とする)での親鸞の言動が分明になりました。

それが分かると、法難の14年後に起こされた後鳥羽上皇による「承久の乱」とピタリと符合することが私の中で明瞭になり、最初の謎が解けたのです。どういうことかと言うと、

当時つくられた新仏教である浄土宗の法然が書き、親鸞が広めた「悪人正機」の説は、皇族・貴族らのための旧仏教とは異なり、武士や庶民のための宗教であり、京の都で優雅に暮らす貴族らが救われるなら、彼らに命じられて人殺しをする武士たちの往生ー極楽浄土は間違いないというものです。生活苦から悪を行わざるを得ない庶民たちも同じこと。

後鳥羽上皇が「北条義時を討て!」と院宣を出し、鎌倉幕府から朝廷に権力を取り戻そうとして起こしたのが「承久の乱」ですが、
頼朝の死(1199年)後すぐに法然の念仏宗に傾倒して僧になっていた北条政子の鼓舞により東国武士たちは一つになり、この戦いに完全勝利しました。京都もそれ以西もすべて鎌倉幕府が治めるところとになり日本は新たな時代を迎え、以後650年間武家社会が続いたわけです。


この承久の乱で後鳥羽上皇と息子の順徳は島流しとなり、その地で死去しましたが(土御門は討幕に反対でしたので処分されませんでしたが自ら島流しを希望)、残る10名の息子たちは出家させられたのでした。その息子や後鳥羽上皇の家臣は親鸞に帰依して親鸞の布教を助けたのです。なんという大逆転!  親鸞より17才年上の北条政子は、親鸞と同じ法然門下でしたので(わずかに政子が早い)、ここで現実の大転回と精神の大転回が一体であったことが分かってきます。島流しが解かれ、東国(現茨城県中心)での布教をはじめた親鸞の浄土真宗開宗と後鳥羽院の息子らが親鸞の弟子となったことによる深い繋がりは、驚きのドラマです。

種々の詳しい経緯は続きとしてまた後で書きます。書かねばならぬ事実がたくさんあります。

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後鳥羽上皇の悪業=承久の乱 と 北条政子・義時・泰時 と 法然・親鸞の念仏宗。茨城における浄土真宗開宗。2


武田康弘

 

 

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