思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

靖国神社とは「神社」ではなく、明治政府がつくった「思想喧伝の施設」です。この事実をご存知ですか?

2016-12-31 | 学芸

過去のBlogを少しまとめて、神社ではない「靖国神社」の実態を明らかにします。

靖国神社とは、元々、民主政の否定を掲げる思想宣伝の政府機関であり(伊藤博文ら明治政府がつくった「天皇現人神の新宗教」の総本山です)、本来の神社ではありません。

生きている人間を神とし、その一族を神の家系とする宗教で、いまの言葉では「カルト宗教」ですが、それを国家権力を用いて全国民に強制したのでした(政府=国家神道は宗教ではなく習俗だという理屈で)。

近代社会になり、このような古代の王制(王は神であり、時間も空間も王が支配する、ゆえに、王が死ねば時代名=時間も変わる)を敷いた国は、わが日本をおいて他にありません。

したがって、敗戦の時、昭和天皇の裕仁(ヒロヒト)は、世界に例のない「人間宣言」(わたしは神ではない)をする事態となったのです。

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信教の自由を元から否定する『靖国神社』は、恐ろしい存在(憲法違反)で、国内問題です。

2013-12-30 | 社会思想

 靖国神社をめぐるいくつもの裁判で明らかになったように、靖国神社は、その教義で、個人の意思を認めません。

 兵隊となり、また、嫌でも政府の命令で兵隊にさせられて戦死すると、靖国神社の思想に反対していた人も、みな日本国の軍神とさせられてしまいます。

 この軍神は【集合神】だというのが靖国の思想なので、「分祀」は不可能なのです。

 靖国を否定し拒否するクリスチャンも、真宗や浄土真宗の仏教徒も、哲学者も、個人の意思は完全に無視され、強制的に日本国家の軍神とさせられるのです。

 個人の思想及び良心・信教の自由を否定し、政府=国家の命令を絶対とするのが靖国思想ですが、このような思想は、近代市民社会ではとうてい認めらるものではありません。

 靖国神社の思想は、明白な憲法違反です。したがって、靖国問題の核心は、外国からの批判云々ではなく、人権=個人の自由の否定にあるのです。

 こういう教義をもち、極めて政治的な思想(「日本の戦争は、すべて天皇陛下による聖戦である」)を宣伝している施設に、戦後民主主義下の政治家が参拝するのが許されないのは、当然です。 

 

 以上のわたしの説明=見解に批判のある方は、コメント蘭にお書き込みをお願いします。罵詈雑言の類のほかはすべて公開しますので、お名前を記された上で(ペンネームでも可)、ぜひ。

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ご存知ですか?「靖国神社」の恐ろしい思想を。ここでは兵士は眠れません。ーーぜひ拡散を!

2016-08-14 | 社会思想

  靖国神社は、明治政府が明治2年につくった「東京招魂社」という【政府神道】の施設で、従来の神道思想(各地にある神社)を否定し、1853年のペリー来航以来の〈維新革命側の兵士のみを祀る施設〉です。10年後に名称を神社と変えましたが、その思想は、実に恐ろしいものです。兵士たちは、このような天皇現人神という国体思想の施設に祀られていたのでは、永遠に浮かばれません。もちろん彼らの御霊は、それぞれの家族の元にあり、天皇現人神というカルト宗教の場にはありません。こういう異様な戦前思想の反省がないならば、日本の政治的社会的営みは、すべて砂上の楼閣です。あまりに当然の話です。

 

 以下は、靖国神社の理論的重鎮である小堀圭一郎 東京大学名誉教授の談で、靖国神社の売店で平積みで売られている宣伝用パンフレットからの抜粋です。

 靖国神社の本殿はあくまで、当時の官軍、つまり政府側(天皇)のために命を落とした人たちをおまつりするお社である、という考えで出発したのでして、それは非常に意味のあることだと思うのです。 そこには「忠義」という徳が国家経営の大本として捉えられているという日本特有の事情があるのです。 「私」というものを「公」のために捧げて、ついには命までも捧げて「公」を守るという精神、これが「忠」の意味です。

この「忠」という精神こそが、・・日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから・・命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり皇のために忠義を尽くして斃(たお)れた人々の霊であるということでよいと思います。

靖国神社の場合は、・・王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社を建立しようと考えた点に特徴があるといってよいかと思います。

あの社は天皇陛下も御親拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的な存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったということだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。
国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。言ってみれば、人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。

実は総理大臣が何に遠慮して、参拝に二の足を踏んでいるのか不思議でならないんです。
中共が総理大臣の参拝に文句を言ってくるのは、何も彼の国民感情が傷つけられたなどという話ではまったくない。あの国の民衆の大部分は靖国神社の存在すら知りません。・・外に問題を設けて反対勢力の目をそちらに向けさせようという国内政治の力学が働いている程度のことであって、まともに相手にすべきことではないんですね。

だから私はこの問題でも総理が断固として参拝されるのがよいと思うんです。そうすると直ちに北京から文句を言ってくるでしょうが、適当にあしらうなり、知らぬ顔を決め込むなり、いくらでも対処の仕方がある。
総理が北京からの苦情を無視して何度でも繰り返し参拝すれば、そのうち向こうも諦めて黙るに決まっている。
総理の参拝が実現し、やがて天皇陛下の行幸もできたということになると、私は国民のモラルに非常によい影響を与えることができると思うのです。
(1999年8月 小堀圭一郎・東京大学名誉教授)

 また、靖国神社の遊就館では、明治以降の日本の戦争はすべて聖戦である、との映画をエンドレスで流しています。


(※もちろん、現天皇の明仁さんや皇后の美智子さん、皇太子夫妻は、このような思想を認めていません。)



武田康弘(元参議院「行政監視委員会調査室」客員ー日本国憲法の哲学的土台を講義)

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靖国神社の徳川宮司の発言が波紋--パンドラの箱を開けた!

 2016-06-26 | 学芸

 以下の週間ポストの記事は、極めて重要です。

こどもたちの教科書にある明治維新の項目は、ひどく偏っています(例えば、NHKの歴史番組・ヒストリアでも伝えている伊藤博文の犯罪=国学者の暗殺、建造中の英国公使館焼き討ち=全焼、長州藩金からの多額の公金横領にはまったく触れず、聖人のごとく扱う)ので、公平・公正な目で日本史を見直し、単純な天皇史観から脱しないと、いつまでもわが国は、精神の後進国に留まります。


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※週刊ポスト2016年7月1日号
靖国神社の徳川宮司の発言が波紋】




 靖国神社が揺らいでいる。

   来る2019年に迎える創立150周年に向けて徳川康久宮司が語ったインタビュー記事の発言が、波紋を呼んでいるのだ。

  記事は共同通信社から配信され、加盟する一部の地方紙(静岡新聞6月9日付、中国新聞6月10日付)に掲載されたのみだった。ところが、地方でしか読まれないはずの記事が各界の識者の注目を集め、にわかに論争へと発展している。

  徳川宮司は靖国神社が抱える課題や、神社の将来像について語った後、「明治維新を巡る歴史認識について発言していますね」という質問を受けて、自らの「明治維新史観」を開陳した。以下が宮司の発言だ。

 〈文明開化という言葉があるが、明治維新前は文明がない遅れた国だったという認識は間違いだということを言っている。江戸時代はハイテクで、エコでもあった〉

 〈私は賊軍、官軍ではなく、東軍、西軍と言っている。幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった〉

  一連の発言が波紋を呼んだのは、靖国神社創建の「原点」に関わるからだ。靖国神社のルーツは明治2年(1869年)に建てられた東京招魂社に遡る。

  明治維新に際して、薩摩藩・長州藩中心の後の「明治政府軍」と徳川家や会津藩が中心の「幕府軍」が争う「戊辰戦争」が勃発。勝利を収めた明治政府軍が“官軍”、敗北した幕府軍は“賊軍”とされた。

  この時、明治維新を偉業として後世に伝え、近代国家建設のために命を捧げた官軍側犠牲者を慰霊顕彰するため、明治天皇が創建したのが東京招魂社だ。明治12年に社号が「靖国神社」と改められて現在に至る。

  それゆえに、「賊軍vs官軍ではなく、東軍vs西軍」とする発言は、靖国神社の歴史観を揺るがしかねないと受け止められたのだ。

  靖国神社にある遊就館に展示されている「錦の御旗」には、「戊辰戦争で官軍の象徴として使用された」との解説があるように、靖国神社の見解はあくまで、「明治政府軍=官軍」だ。

  発言の背景には、徳川宮司の出自が関係している。徳川宮司は徳川家の末裔であり、“賊軍”の長であった15代将軍・徳川慶喜を曾祖父に持つ。徳川家康を祀った芝東照宮に奉職した後、靖国神社の宮司になった。「賊軍の末裔」が「官軍を祀る神社のトップ」に立ったわけである。


◆「大村益次郎像を撤去せよ」

 「明治維新史観」の見直しは最近のムーブメントだった。昨年1月に発売された原田伊織氏の『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(毎日ワンズ刊)がベストセラーになったことを皮切りに、半藤一利氏と保阪正康氏の共著『賊軍の昭和史』(東洋経済新報社刊)など、明治維新の勝者の立場に立った歴史観を見直す論考が相次いで発表されている。

  その流れで徳川宮司の発言が飛び出したことで、騒動が拡大しているのだ。著書で「薩長史観」を鋭く否定した原田氏は徳川宮司に同調するかと思いきや、意外にも「発言は中途半端」と手厳しい。

 「明治維新当時、東軍・西軍という言葉はほぼ使われていません。徳川家や会津藩に賊軍というレッテルを張ったのは明らかに薩長ですが、その責任や是非を問わず、当時ありもしなかった言葉に置き換えて流布するのはおかしい。また、靖国の持つ歴史観を見直さないのは欺瞞です。“官も賊もない”と言うならば、まず靖国神社の境内にある大村益次郎(官軍側の司令官)の銅像を撤去すべきです」

  そんな意見が飛び出すほど、今回の発言は衝撃だった。波紋が広がる徳川宮司の発言について靖国神社は、「創建の由緒から鑑みて『幕府側に対する表現や認識を修正すること』を神社として行なう考えはなく、今後も同様の考えが変わることはないとの発言と理解しております」と回答した。

  宮司は150年間封印されていたパンドラの箱を開けてしまったのか。



※週刊ポスト2016年7月1日号

 

 

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完璧!なと言いたくなるほどの「第九」。秋山和慶指揮 東京交響楽団(今日28日のサントリーホール)

2016-12-28 | 芸術

オーソドックスで正攻法の秋山さんの指揮は、品位が高く美しく、磐石の安定感がありますが、それが白熱の輝きを放つので、これは、「完璧な第九だ!」と言いたくなります。もちろん、完璧などないのですが。

オケの各奏者の自信に満ちた音は、もう、「日本のオケとしては云々」という言い方が意味を持たないことを証明していました。東響の品のよさはそのままに見事なまでの迫力で、感動です。

ただただ満足、深い充実。東響と秋山さんに感謝です。豊かな人間性=ヒューマニズムという言葉がピッタリです。

今年は、東響が日本のオケに革命を起こした年と言えるのではないでしょうか。4月から今日まで、ノットさんの指揮で6回、スダーンさんの指揮で1回、秋山さんの指揮で1回、計8回聴きましたが、すべて聴きごたえのある名演でビックリです。70周年と欧州ツァーは、素晴らしい果実をもたらしました。

感動の連続の1年、しめくくりに相応しい完璧な、と言いたくなる第九。明日行かれる方、楽しみにどうぞ。マイクが入っていたので、CD化されるものと思います。

アンコールは、「蛍の光」で、よい演出がされ、観客を含めてみなで歌いました。

 

武田康弘

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王室とか天皇家に生まれると特別な人間で、特別扱い。いつまで続く人類の歪み。

2016-12-27 | 恋知(哲学)

  小2のかなちゃんの黒板画(2016.12)いつの間にか描いていたものー本人はいたずら書きのつもりで。白樺教育館・ソクラテス教室



2500年も前に、人間存在の平等を明らかにし、誰もが「天上天下唯我独尊」であるのがほんらいの人間の生であると看破したのがブッダ(ゴータマ・シッダールタ)です。

同じころに同じ印欧語族のアテネで、史上はじめてペリクレスは本格的な民主政を敷きましたが、その中に現れたソクラテスは、「個人の思考する能力」を鍛えることで、善美に憧れ、真実を求める精神に人間の生きる意味を見い出しました→エロースの生。

けれども、いまもなお、王室とか天皇家(天の皇帝というなんとも凄まじい名称)に生まれた人には特別の敬称ををつけ、特別扱いをしています。こどもでも「おかしい」「間違っている」のは分かります。わたしたちは、いつまでこのような歪んだ思想を持ち続けるのでしょうか。同じ人間に上下をつけ、特定の家に生まれた人を敬うというのでは、正当性をもつ倫理(道徳)や論理は成立しようがありません。

差別的制度を維持することを前提にした倫理や論理は色付きであり、透明性を持ちませんので、真善美とは無縁となり進歩もありません。古い制度を補完する理屈の積み上げだけで、健康・健全な人間性の発展がない不幸に沈みます。

こういう簡明な真理を弁えぬ国では、ほんとうの精神の自由や囚われのない心は現実のものとならず、 「差別はいけない」と説いても、国の制度が差別の構造を抱えていたのでは、空語となり、欺瞞にしかならないのは誰にでも分かることです。

わが国の皇室も少しづつでよいので、そのような方向に歩み出し、次第に北欧の旧王室のように、市民社会に溶け込ませていくのがよいのです。各個人を等しく尊重するためには、それ以外の選択肢はないことをよく自覚することが必要です。これは、民主的な公共社会をつくる原理です。その発言や行為から、現天皇の明仁さんもこれに近い考えをもっているのが分かります。

 

武田康弘

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あなたは、安倍首相、麻生副総理、稲田防衛大臣らが、カルト教の主要メンバーであることをご存知ですか?

2016-12-25 | 社会批評

 明治維新政府(少数派だった長州藩らの下級武士たちによる暴力革命の成功者たち)は、自分たちによる日本の支配を正当化し永続化させるアイテムとして、神武以来続く皇室の伝統という神話を用いて、【皇室は神の家系であり、天皇は現人神である】という新宗教(国体主義=靖国思想=政府神道)をつくり、その現人神の前に全国民を拝跪させたのですが、その思想の反省が極めて弱いために、未だに異様な言説が飛び交います。

 これは、【国家カルト】(その総本山として明治2年に政府は「東京招魂社」をつくり、その10年後に靖国神社と改名し、「神社」にしてしまいました)と呼ぶほかない明治政府がつくった新宗教です。前後が逆ですが、政府が麻原のオウム教のような「生きている人間を神とし一族を神の系譜とする」カルト教をつくったのですから、言葉を失います。

 天皇教を作成した中心者は伊藤博文ですが、先輩の岩倉具視やエゲツナイ山県有朋らの集合意思により創られたこの新宗教は、それ以前の日本の歴史をすべて天皇史観に変えてしまい、壬申の乱以降、天武の時にはじめてつくられた「天皇」という言葉を、それ以前の大王と呼ばれた人びとにもあてはめ、126才の長寿をまっとうしたという神武(縄文後期~弥生初期)から受け継がれる「皇統の伝統」という神話を現実の歴史だとする小学生からの徹底したイデオロギー教育が断行されたのでした。明治の半ばにいったんは「個性教育」を打ち出していた文部省の方針は、山県らの意思で、「天皇主義教育」へと逆転し、それ以降無条件降伏による敗戦まで55年間、「日本の歴史は天皇が中心である」という神話による教育が続きました。そのため「個人」という概念は忌み嫌われ、天皇国家の中の日本人は「忠」(忠犬ハチ公はその象徴)の精神をもつべきで、公=天皇に仕える「滅私奉公」こそが最高の道徳とされたのでした。

 これは、一人ひとりの個人から生まれる内的世界の豊穣とは逆に、外なる価値に合わせて生きる国家主義の人間をつくることになり、個人の存在価値があらゆる価値の基盤である〈フィロソフィー〉とは無縁の大日本帝国のために日本臣民は存在するという強固な〈国家主義〉を生み、個人の内的宇宙は邪なものとされました。いまだに、「私の人生は私がつくる」という人間の人間的な生を歩めない日本人が多いのは、その深い後遺症と言えます。

 壬申の乱後の律令政治のはじめと天皇家が南朝と北朝に分かれて戦争した時以外は、天皇は儀式を執り行う者であり、その意味でほんらい象徴的な存在であったのに、明治政府によりオドロオドロしい役割を担わされてしまったことを嫌悪する現天皇の明仁さんは、個人としての発言の自由がない現憲法下で精一杯の抵抗をしていますが、安倍首相らウヨク政治家は、天皇個人の意思などおかまいなく、天皇=皇室というシステムを利用してニッポン主義で国民を統一することに情熱を燃やしています。

 前置きが長くなりましたが、上記の事実と真実をよく踏まえないと、いまの安倍政権やそれと類似する多くの政治家の過ちと危険性を了解することができないので、最低限の説明を書きました。

 英仏ではだいぶ前から安倍晋三とその閣僚たちが所属するカルト教=「日本会議」という極右団体を危ぶみ、批判していますが、アメリカでも、元大統領補佐官・国務長官のキッシンジャーが次期大統領のトランプと会談し、安部首相、麻生副総理らが特別顧問を務める「日本会議」を極右のカルトとし、危険視していると伝えられます。この「日本会議」の思想がどのようなものか、以下に少しご紹介します。

  中心メンバーの論客である藤原正彦 お茶の女子大学教授(数学者・ベストセラー『国家の品格』の著者)は、日本会議の宣伝誌(『皇位継承の伝統を守ろう!』=Amazonで買えます)16ページに以下のように書いています。

 「万世一系とは、神武天皇以来、男系男子のみを擁立してきたということである。男系とは、父親→父親→父親とたどると必ず神武天皇にたどりつくということである。・・・・これを変える権利は、首相の諮問機関にすぎぬ有識者会議にはもちろん、国会にも首相にもない。天皇ご自身にさえない。国民にもないことをここではっきりさせておく。飛鳥奈良の時代から明治大正昭和に至る全国民の想いを、現在の国民が蹂躙(じゅりん)することは許されないからである。」

 解説はいらないでしょう。ニッポン主義者は、このような気色悪い天皇カルト宗教を背後にもつことで、異常なまでの政治的情熱を持ち続けることが可能なのですが、これは、民主政とは二律背反で、とうてい西側諸国との思想的共通性をもつことはできません。こういう事実を国民みなが知らなければ、極めて危険です。この思想を現天皇の明仁さんが必死に食い止めようとしているわけが分かります。


武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員、国会職員に「日本国憲法の哲学的土台」を講義

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ポール・ルイス、ベートーヴェン ピアノ協奏曲全曲  ダントツのマイベストです。

2016-12-23 | 芸術

 

なんとも気分のよくなるベートーヴェンです。

リズム感、テンポ感が抜群で、スカッと気持ちよい。
透明で美しい打音。
程よくお洒落。
ゆるぎない構成と流れのよさが両立。

いつまでも聴いていたくなるような生理的な快感があります。
いかめしいベートヴェンではなく、何事をも跳ね返す生き生きとしたベートーヴェンです。
鋼(はがね)ですが、それはバネなのです。
強靭でしなやかです。
フィナーレは、かつて体験したことのない充実感で、豊かさに溢れます。

まるで、新たな人間性の賛歌=輝く市民精神を歌い上げるようです。
そう、これはベートーヴェンのスピリットそのもの。


イルジー・ビエロフラーヴェクの指揮、BBC交響楽団も抜群で、ルイスと一体化した見事な演奏。録音もとても優れています。
ポール・ルイスは、2017年11月、二年ぶりに来日します。

(ピアノソナタ全集も最高です。)


 

武田康弘

 

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何のために生まれてきたの? ぼくは戦争は大きらい。 やなせたかしさんの晩年の2冊。

2016-12-22 | 学芸



フェイスブックで、ちょうど3年前に出したものです。


やなせたかしさんの永遠の言葉=真実の言葉で、感動です。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=559766630784377&set=a.438071792953862.1073741827.100002531353665&type=3&theater

 

「ぼくは人を殺す戦争は大きらいです。

本当の戦争を知らないから「戦争をしろ」とか、「戦争をしたい」と考えるのです。

国と国が「あいつは気にくわないからやっつけてしまえ」というのではまた戦争になってしまいます。

僕が描こうとしたのは、分け与えることで飢えはなくせるということ。嫌な相手とでも一緒に暮らすことはできるということです。」


やなせたかし 最後のメッセージ。

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「道徳教育」とは、政府与党が行うものではありません。戦前の天皇現人神(靖国思想)という時代のリーダーを敬愛・尊敬するという安倍首相は、一番してはいけないことです。

やなせさんの本は、こどもたち、否、おとなたちも含めてみんなに読んでもらいたい、ほんとうの道徳教育の本、道徳以上の恋知=哲学教育の本です。


武田康弘

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もうじきクリスマス。でも、わたしはクリスマスの意味がいまだに分からないのです。

2016-12-21 | その他



わたしは、クリスマスの意味が分かりません(笑)

幼いころから面白くないし、楽しくないし、なんだか意味が分からない。
イエス・キリストの生誕をなぜ祝うのか? 神が世界をつくった、人間をつくった、という変なことを言う宗教と、自家のお釈迦さまの宗教との違いに目がくらみそうでした。
でも、小学生のころの「なんだか変だな~~」というのは、今も同じで、ちっとも分からないのです。
どうもすみません。

ああ、そういえば、釈迦=ブッタの生誕を祝う4月8日は、日本ではなにもしませんね(お寺ではしていますが)。

 
武田康弘

追加
フェイスブックで、大勢の人からコメントを頂きました。感謝です。
そこで得たわたしの結論は、以下です。


武田 康弘 おそらく、宗教も思想もなにも関係なく、うまく使える「ハレの日」なのでしょう。
内容や意味は考えず、「お祭り」の形だけがある、というのはクリスマスに限らず、なんでもそうですね。
大多数の日本人の「お釈迦さまの宗教」とはいっても、ブッダの根本思想(自帰依=法帰依・唯我独尊)の意味を知っている人は少数ですし、ものごとの本質=意味をつかもうとする考え方=生き方がないのでしょう。
学習も意味論抜きの「事実学」の羅列と暗記が中心ですから、形式としての言葉だけがある、という日本の現実をよく反映し象徴しているのが「クリスマスイヴェント」のようです。
わたしの心身=感受性は、そういう現状に不快感をもつ、というわけです。
みなさまのおかげで納得です。

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賭け事に政府がGO。安倍首相・菅官房長官らと業界の癒着の事実。

2016-12-19 | 社会批評
 
   パチンコ業界大手のセガサミーは、12年に韓国のカジノ企業と合弁会社を設立、来年4月には韓国・仁川に大型カジノリゾートをオープン予定で、今回のカジノ解禁法案の恩恵を大きく受ける企業だ。
 
セガサミーはここ数年、国内カジノ利権の主導権を握るため政界工作を行ってきたといわれており、事実、13年に開かれた里見会長の愛娘の結婚披露宴には、森喜朗ら首相経験者や菅義偉官房長官などの大物閣僚が駆けつけて、とりわけ安倍首相は新婦側の主賓まで努めている(ちなみに、このセガサミーと安倍首相の関係に関しても山本氏は13日の内閣委で堂々と述べていた)。
 
 さらに「選択」(選択出版)13年9月号の記事では、里見会長の側近の一人が「参院選前に、里見会長は安倍首相に五千万円を手渡した」と吹聴したと報じられるなど、カネをめぐるキナ臭い噂も流れている。
 
 また、IRの大阪誘致を目論むなど自民党以上にカジノ解禁法案に積極的だった日本維新の会も、セガサミーとは無関係ではない。橋下徹氏(現・法律政策顧問)は大阪市長時代に「大阪カジノ構想」をぶちあげたが、その橋下の大学時代からの友人で、松井一郎大阪知事(当時)が13年に大阪府教育長に抜擢した中原徹氏は、部下へのパワハラが発覚し辞職してからわずか1カ月あまりで、セガサミーホールディングスの役員に就任している。
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コンサートホールや美術館での写真禁止は、日本だけ。「後進国」からの脱皮が必要です。

2016-12-17 | 学芸


ベルリンフィル本拠地で、指揮はラトル  (2015年秋、染谷裕太君撮影)   ここでは一応「No photo」の看板は周りますが、
撮影しても別段注意もされず、うるさくない、とのことです。



アムステルダムのロイヤルコンセルトヘボウ   (2015年秋 染谷裕太君撮影) ここでもロンドンその他でも自由に撮影できました。



   わたしの愛弟子の染谷裕太君は、昨年、欧州一周をした時に、ベルリンフィル(ドイツ)、アムステルダムのロイヤルコンセルトヘボウ(オランダ)、ロンドン交響楽団(イギリス)などいくつもオーケストラ聴きましたが、どこでも写真は演奏最中でなければOKで、たくさん撮り、よい記念&記録になりました。

   ところが、日本のコンサートホールでは、どこも写真撮影を厳しく(うるさいほどのアナウンスと見張りで)禁止していて、呆れます。世界基準・国際基準とは異なり、日本だけは禁止とは、なぜなのでしょう。

   そういえば、わたしが小学生の時から親しんできた上野の国立西洋美術館(松方コレクション)も、ず~~と写真を一律に禁止し、ジロジロと見張っていました。しかし、優美で合理性に富む美しいコルビュジエの設計の同館を世界遺産に!という運動が始まった時から(今年ようやく実りました)、特別展以外は、写真撮影は自由になったのです。そのおかげで、わたしは、同館の所有する傑作マイヨールの「夜」を優れた写真にし、いま、多くの人がわたしの写真を使用しています。

   世界遺産に登録されるためには、ルーブルもオルセーも大英博物館もどこでも写真は自由に撮れるという国際標準に合わせる必要から、自由にしたのでした。なんでも禁止が大好きな日本という国の情けない現実です。【自由や個人性に乏しい後進国=日本】を象徴するエピソードです。

   話を戻しますが、
わたしがコンサートホールの管理者であれば、写真撮影は自由にしますが、それは、ホールにとっても演奏者や演奏団体にとっても大いに利益になるからです。今は、みながスマホを持ち、写真を撮り、発信しています。これは、最高の宣伝になります。しかも無料でたくさんの人が宣伝してくれるのです。いま、オーケストラはなかなか満席にならず、時には世界を代表する楽器奏者でもガラガラということもあります。生写真付きで、「よかった!」がSNSで発信されるのは、大いなるCMで歓迎されてしかるべきこと。

大型機材(大型の望遠レンズやカメラ)、三脚、ストロボなどの照明器具は禁止、演奏中は禁止とし、それ以外はご自由に。というのがよいのです。日本だけは特殊でなんでも禁止という悪しき慣習はやめなければなりません。コンサートホールや美術館は公共の場なのですから、世界的な公共の常識に合致させる必要があるはずです。


武田康弘

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追加

このblogを出した後、主なコンサートホールにメールでお願いをし、直接お話しもしました。その結果、改善が進んでいて嬉しいです。ありがとうございます。

今までは、どこのホールも一律で「禁止」し「見張りを立て」写真を撮らせないことを徹底していたわけですが、それが変わったのは、小学5年生から55年間のクラシックファン(同時に写真ファン)のわたしとして、よろこびです。

コンサートホールはみなのもの、公共性の象徴ですから、節度をもち、楽しく利用したいと思います。(2018年12月7日)

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20世紀には、ノーベル賞の権威を越えた哲学者がいた。アメリカ政府を打ち破ったボクサーがいた。

2016-12-15 | 恋知(哲学)

たった一人の人間が世界を変える。

それは、いつも真実だ。どのような現実も人間がつくったものは変えられる。

国家権力者や権威主義者は、巨大な組織や機構を用いて、個人を吹き飛ばそうとするが、

真に個人の名に値する人間は、いつも必ず、惰性態に過ぎぬ彼らを打ち破り、新たな世界を拓いてきた。

 

ジャン・ポール・サルトルがいた。

モハメッド・アリがいた。

日本にも、かつて親鸞がいた。

今も多くの感動的な「個人」が数知れずいる。

 

わたしたちは、縮こまっている必要はない。

誰でも皆、個人には、豊かな力、底を破る異次元の力が潜んでいる。

わたしたちは、イカレタ国家主義者やその追随者=ちゃちな人間たちに頭を下げる愚かさから解放されている。

わたしたちは、自身の内にある深々とした想念と飛翔するイマジネーションにより、既存の世界と価値意識をひょうひょうと超えていく。

わたしたちは、自身を深く愛することのできるエロースの人だ。


アリが言うように、みなが、アイ・アム・ザ・グレイテストなのだ。

ブツダがいうように、みなが、天上天下唯我独尊なのだ。

わたしを何よりも輝かす「恋知」の生をともに。


武田康弘 

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早くもCD発売 ノット・東響のブルックナー8番 圧倒的かつ愉悦感ある独創的名演。

2016-12-13 | 芸術

 わたしが7月に聴いたジョナサン・ノット指揮の東京交響楽団によるブルックナー交響曲8番には圧倒され、心底感動しましたが、そのライブ録音が12月16日に発売されます。SACD&CD仕様ですが、サントリーホールでの収録なので、わたしの聴いた横須賀での演奏の前日のもの。

 この演奏は、マニアックなブルックナーファン向きではなく、音楽に愉悦感を求める多くの音楽好きに贈られる宝物です。

 重く聴くのが疲れる精神主義的なブルックナーではなく、たのしい音楽散歩。 豊かな情緒、伸び伸びと気持ちよく、パワフルで爽快、なんとも気分がよく、何度でも繰り返し聞いてしまう演奏です。

 いままで聴いたブルックナーでこれほど楽しく嬉しくなる演奏はなく、その意味では、過去最高の名演です。

 これは、お勉強のクラシックではなく、愉悦の音楽ですが、過去の誰とも似ていない独創の塊で、ドキドキ・ワクワクします。音は鮮魚のようで、生命感あふれ、聴くことがよろこびです。オケの密度が高すぎないのもブルックナーにピタリ。

 ヴァント・ベルリンフィルの緻密で凝縮した疲れる音楽とは対極にあり、過去の演奏では、ヨッフムの神経質さや暗さのない演奏に近いですが、それとも異なり、よりしなやかでエロースにあふれています。それにしても、これからも発展途上のノット・東響のライブを聴き続けれられるのはなんという幸運。幸福。

 みなさま、ぜひ、お買い求めください。わたしは、日曜日の「コジ・ファン・トゥッテ」(愉悦に満ちたザ・モーツァルト、最高!)の演奏会場=東京芸術劇場で先行発売されていたのを買い求めましたが、16日(金)には一般発売されます。これほど気分がよくなるブルックナーはありません。

 
 (
撮影・武田 サントリーホールで)                                                          (白樺教育館で繰り返し聴きました。授業中に中学生にも聞かせました。)


武田康弘 

 

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Twitterが二カ月も不通でした。乗っ取り行為に気付かず、いま再開できました。

2016-12-13 | その他

わたしは、Twitterは登録してあるだけで、ふだんは見ません。
いま、見たら、妨害(乗っ取り)行為のために2か月間も不通になっていたことを知り、パスワードを変更して再開できました。
性悪の人間がいるようです。
ご迷惑をおかけしました。
これからは、時々、確かめるようにします。

武田康弘

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孫正義さんの政治思想は、徹底した民主政 「国民は端を歩かされる日本の国会」(孫さんのBlogより)

2016-12-07 | 社会批評

再々録です。

以下は、10年前の孫さんのBlogですが、誠に正鵠を射る指摘です。あまりに当然のことですが、それすら通らないわが日本は、ほんとうに情けない国と思います。


赤じゅうたん vs インターネットテクノロジーで取り戻そう 主権在民の精神

孫 正義(2006-08-30 11:52)



 先日、所用があり参議院を訪れた時のことだ。入り口中央には赤じゅうたんが敷いてあり私はなんら躊躇することなくそこから中へ入ろうとした。その瞬間、守衛から怒鳴られ制止された。

 「こら、そこを歩くな。横の通用口から入りなさい。そこは議員さんが通る場所だ」

 私は怒鳴り返した。

 「ちょっと待て。そんなことどこに書いてある。書いてもいないのになぜ、いきなり怒鳴られるんだ。そもそもどうして議員が赤じゅうたんの真ん中の入り口で、国民は通用口なんだ。俺は帰りも堂々と真ん中から出る。そして次に来るときも堂々と真ん中から入る。どうしても通したくなければ警察を呼んで逮捕してみろ」

 結局私は、真ん中から入り、真ん中から出たが、この出来事ほど今の議会制民主主義の歪みを表した象徴的な出来事はないだろう。まさに主権在民の精神を忘れた代議制度だと言えるのではないだろうか。

 議員、代議士というのはその名の通り、主権を持っている我々国民の代理として国会で議論をする人たちだ。憲法で主権在民が謳われているように、一番えらいのは国民であり議員は国民の下僕であるはずだ。それなのになぜ議員が真ん中の赤じゅうたんの入り口で国民が脇の通用口なのだ。


 もちろん守衛が悪いわけではない。彼らは職務として決められたとおりにやっているだけだ。しかし、彼らも長年この仕事をしてきて疑問に思ったことは無かったのだろうか。私と同じ主張をした人はいなかったのだろうか。なぜ主権を持っている国民が通用口で国民の代理人である議員が赤じゅうたんなのかと。もしかして我々国民もいつの間にか「一番えらいのは議員で、国民はその下」などと卑屈な考えを持ってしまっているのではないだろうか。

 ちなみに私はいろいろな国の国家元首を訪問した経験があるが、一度たりとも通用口など通されたことはない。いつも堂々と正面から入っている。何故自分の国の国会に正面から入れないのだ。

 代議制民主主義は、物理的な制約や、情報の偏在、テクノロジーの稚拙さなどで直接民主主義が不可能であった時代での民主主義の実現のため作られたシステムだ。民主主義のシステムの根底にある精神は、主権在民であり、議員は国民の代理であるという考え方のはずだ。

 ところが日本においては、戦後の議会制度60年の歴史の中で、いつしか議員が権力を持っているかのごとく扱われ、主権在民の精神は薄らいでしまった。それは国民の政治への関心の低さにもひとつの原因はあると思う

(以下、省略)太字は武田による。

 

 



 

 

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フィロソフィーは、「哲学」から「恋知」へ。 (明日の大学生への講義=対話式授業のために)

2016-12-05 | 学芸

フィロソフィーは、「哲学」から「恋知」へ。
現代に最も必要な〈考え方・生き方〉の転回
             
                                                                   

武田康弘

  
プラトンがつくった『アカデメイア』(史上最も名高い私塾の発展形の自由学園で、キリスト教により禁止・廃校になるまで900年以上続いた)の主祭神=エロースの像クリックで拡大)



 言うまでもなく、よい人美しい人 よいこと美しいこと よいもの美しいものを憧れ想うことと、真実を求める心は、誰にでもあります。言語使用が人間の本能的能力であるのと同様に、善美に憧れ、真実を求める心も本能的です。子どもは、心身全体で愛されて育ち、特定の思想や宗教を要請されなければ、皆にそれは発現します。

 その内なる「善美への憧憬と真実を探求する心」を座標軸=基準として生きるのは、最も自然で無理のない生き方です。特定の思想や宗教によるのではなく、自己の内なる座標軸について生きることを、わたしは「恋知(れんち)の生」と呼んでいます。

 従来の哲学という訳語で表される知は、特別な語彙(ごい)を多用するもので、ごく一部の人にしか関係しませんが、それでは、ソクラテス出自のフィロソフィーとは異なってしまいます。

 プィロソプィア(フィロソフィー)という言葉は、ソクラテスが、それまでの自然学=自然哲学と区別するためにつくりました。善美に憧れ真実を求める人間の心につく知の働きを、知((sophia知恵と知識の双方)+恋愛(phileinエロースが象徴する恋する心)としたのです。

 外なる絶対ではなく内なる善美と真につく思想ですが、それは、現代に生きる人間にとって、とても大切な考え方であり、営みだ、とわたしは思っています。フィロソフィーを「哲学」(賢い知)から「恋知」(知への恋)へと広げることは、現代に生きる人間の生と社会のありように大きな変化をもたらすでしょう。外なる価値=権威に従う生き方は、本質的に人間性の悦びとは折り合わず、さまざまな心身の病気を招来してしまいます。内なる座標軸に従う生への転回が必要です。

※なお、「恋知」のという言葉=概念を書物として公にしたのは、『ともに公共哲学する』(東京大学出版会)のメインである《「楽学」と「恋知」哲学対話》(金泰昌と武田康弘の哲学往復書簡30回)です。84ページにわたしの考えと立場を明記しました。 また、「国会図書館」の検索で「恋知」を引くと、わたしの著書『恋知』(白樺教育館刊)のみが出ます。

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みなが唯我独尊です=特別な人間はいません。簡明な真理の自覚が大切です。

2016-12-01 | 学芸

  唯我独尊(ゆいがどくそん)
  ブッダ=釈迦(しゃか)の根本(こんぽん)思想(しそう)

天上でも地上でも、我(われ)が最も尊(とうと)のです。
(だれ)の存在(そんざい)もみな等しく尊いのであり、
上下(じょうげ)はありません
存在の差別(そんざいのさべつ)は、
一つの例外(れいがい)もなく認められないのです。

皇族を特別の敬語で呼ぶのは、ブッダの根本思想とは相いれません。
人間存在に上下をつけ、敬語の種類を選ぶのは、明らかに間違った思想です。
これは、誰でも分かるとても簡明な真実です。よく自覚しましょう。


『ブッダと親鸞』(東本願寺派刊)は優れた書で、お勧めです。

 

武田康弘

 

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