思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

安倍首相の尊敬するレーガン元アメリカ大統領= 「ソビエトを崩壊させたスターウォーズ計画」に倣え。

2016-09-28 | 社会批評

安倍晋三の尊敬する政治家は、アメリカの好戦主義者の大統領であったレーガンです。
彼は、自著『美しい国へ』(内容はまったく同じ改訂版『新しい国へ』)で、レーガンの戦争準備の軍備拡張政策(スターウォーズ計画)が、悪の帝国=ソビエトを崩壊させたと書いて、激賞しています。

その路線に倣い、アミテージの提案に忠実にアメリカ軍の路線を日本に敷くのは、彼の国家主義者としての血の悦びでしょうが(夫人が「映画の監督になり役を演じている」と証言)、明治維新のテロや暗殺や戦闘を得意とした長州藩の志士たちの末裔にふさわしいとも言えます。

成蹊学園でエスカレーターで大学へ行き、勉強は苦手で授業には不熱心(教授たちの証言)、学校には赤いアルファロメオで乗りつけ学園生活を楽しんだ安倍青年は、ネットウヨクの靖国主義と同じ思想をもち、「戦前への回帰」を志すようになります。対米戦争を東条英機とともに決定し、戦後も「この戦争は正しかった」と詠んだお爺さんの岸信介を敬愛した安倍少年は、安倍青年へ、安倍成人となり還暦を過ぎた今、堂々と解釈改憲と称して憲法を破り、その一族=グループの力で、日本支配(重要官僚もNHK会長も日銀総裁もみな個人的な関係者で固める)を進めているのはどなたもご存知の通りです。

民主政治=主権者による自治政治は、憲法を中心としますが(中学校の公民教科書に明記されている通り「立憲主義」により為政者を縛る)、現行憲法は無視するのが当然で、自民党安倍改憲案こそが「憲法」だと言わんばかリの姿勢です。現行憲法の内容や憲法の意味を国会で問われても、答らえないで窮した首相が首相を続けれられる国とは不思議な国です。各地の市民会館のいくつかは、安倍晋三の意向を忖度し、「憲法を守るという会合は政治的」なので場所を貸さないと、まるで独裁国家のごとくです。

ここまできてまだ黙っている人、従う人は、とうてい民主政の国の住人とは言えません。

国家主義者=好戦主義者は、軍事力の増強に悦びを感じ、戦争への備えに嬉々とします。レーガン大統領のように身体が反応し、顔は輝き命は燃えるのですが、それを見て、国民も鼓舞され、イケイケニッポン、愛国心をもって一致団結(笑・呆)。幾度も悲劇を繰り返し、その都度「だまされた」というわけです。せっかくの平和主義(日本は海外の戦争に参加しない国という独自の路線を歩み、世界の多くの民衆から尊敬を集めてきた)を反故にする戦前思想の政治家が正しいとなれば、明治維新の思想に戻り、再び、自立する市民は排除され、官僚国家の意思に従う者だけの国になります。

これほど損で愚かな選択はないでしょう。徳も得もありません。

安倍首相や麻生副総理が重要ポストにつく「日本会議」は、神話上の神武天皇(126歳)を実在する人物とし、男系男子による継承で神武天皇の遺伝子を守ることは全国民の義務という天皇制崇拝(いまの天皇の明仁さんが忌み嫌う思想)をさかんに宣伝しています。明治の伊藤博文らがつくった「現人神=国家カルト教」の再現ですが、こういう団体に大多数の自民党議員(一部、民進党議員も)が参加しているのは、わが日本という国の救いがたい現実を表しています。

健全な良識、健康な精神をもつわたしたち市民は、自治政治に基づく民主主義の国=市民国家をめがけたいものです。これからがほんとうの日本の民主化の時代~~~~!!

 
武田康弘


以下は、泥 憲和さん(元自衛官・ミサイル防衛部隊所属)のfbから、レーガン大統領による政策です。

レーガンのアメリカが何をしたのか、思い出すべきです。
 エルサルパドルの民主化運動は、レーガンが当選した直後に政府軍によって叩き潰されました。...
 あのコスタリカも翻弄されました。
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◆レーガン以前 ニカラグアにサンディニスタ政権が誕生
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 1979年、コスタリカのカラソ大統領はニカラグア初の公賓として同国を公式訪問しています。ニカラグアの左派サンディニスタ政権誕生を祝福するためでした。
 コスタリカ政府は一貫してサンディニスタを支援していました。このときコスタリカは左派・中道政権でした。 しかしレーガン政権の登場とともに、関係が急変します。
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◆レーガン以後 人為的なコスタリカの経済危機
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 1980年代、コスタリカは折しも襲いかかった石油ショックや近隣国の紛争により経済が混乱、ここにレーガン政権の反ニカラグア政策による経済制裁が加わりました。
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 ニカラグアを支援するコスタリカは、経済的に締め上げられました。
 インフレ率は82%となり、国民一人当たり収入は15%減少、労働者の平均賃金は42%減少します。
 左派のカラソ大統領は経済苦境に耐えかねて、米国の反ニカラグア・キャンペーンに加わる決断をします。これにより米国からの援助額が急増します。露骨なもんですね。
(2002年に至っても制裁対象国リストにコスタリカの名が残っています。『一方的制裁』カーター・バリー、ウィリアム・ミカエル著 ジョージタウン大学法律センター発行)
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 アメリカの経済制裁は恐るべきもので、のちにサンディニスタ政権も崩壊させてしまいました。
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◆コスタリカの武装
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 1982年の選挙で左派が敗れ、、アメリカが推す右派の国民解放党のモンヘ大統領が当選します。
 モンへはIMFの経済支援と、米軍特殊部隊の駐留を受け容れて、ニカラグアの反革命軍「コントラ」が国内に基地を作って出撃したり、ニカラグアを空爆することまで黙認します。(これは国内の猛反発をよびました)
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 1985年、米国はコスタリカに軍事顧問として特殊部隊グリーンベレーを派遣し、市民警察内に「稲妻大隊」750名を組織して、ニカラグア国境附近のキャンプで対ゲリラ戦の訓練を施しました。ニカラグアに対する露骨な軍事挑発です。
 米国の軍事援助は年間1千万ドルに達し、国家警備隊は8000人に増員され、M16小銃4000丁が渡されたといいます。
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◆あいつぐ事件により戦争の危機が迫る
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 こうしたさなか、コスタリカ市民警察の国境警備兵二人が国境地帯で射殺されたのは5月でした。犯人はニカラグア兵士だとされました。モンヘ政権はただちに非常事態を布告しました。
 ついで7月、緊張関係が高まる中、コスタリカの首都サンホセにあるニカラグア大使館が何者かに襲撃されました。
 ニカラグアはコスタリカ政府の仕業だと断定して猛反発しました。
 両国は戦争一歩手前までいったのです。
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◆戦争の回避とその教訓
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 戦争にならなかったのは、コスタリカ警察のお手柄でした。ニカラグア大使館襲撃犯を捕まえたのです。
 後に判明したところでは、相次いだ事件はコスタリカを紛争に巻き込もうとするCIAの謀略でした。犯行に加わった英国人の傭兵ピーター・グリバリーとジョン・デーヴィスがすべてを自供して判明したことです。
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 アメリカにはさまざまな政治勢力がいて、勢力拡大を図っています。緊張緩和をめざす勢力もいれば、戦火の拡大を望む勢力もいます。 どちらも新大統領に取り入って自分たちの政策を推進させようとします。
 どんな勢力と手を組むのか、大統領の個性で大きく変わってきます。トランプが大統領になれば、リベラル派や和平派が日の目を見ることはないと思われます。
 戦争屋は手段を選びません。あのコスタリカでさえ、戦争一歩手前まで行ったのです。アメリカ大統領の権力と戦争屋の結託を、ゆめゆめ甘く見てはならないという教訓です。

 

 

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勝ち負け中心の人生の方、爬虫類のような人生はご自分だけに(笑)

2016-09-27 | 恋知(哲学)

日本の戦争はすべて「聖戦」と主張する靖国神社=戦争神社の思想=富国強兵は、いまなお日本の政治家を縛ります。
「個人」は認められず、皇室を中心として「日本集団人」の一員として生きる《滅私奉公》を求めています。
現天皇の明仁さんも忌み嫌う、天皇猊下万歳!という愚かな行為を繰り返す人々には退場願いましょう。


勝ち負けが大好きな方、競争が生きる意味の方、知識量や、経験量や、肩書や職業名に人間の存在価値を見る方、勝ち組万歳!の方、「型と序列」の二文字にすべて収まる方、
 
ようするに競争主義者の方は、自分がそういう人生で満足ならば、自分一人で頑張ればいいのです。中には血反吐を吐くまで頑張る自己に陶酔する人までいるようですが、どうぞご自由にです。
 
ただし、その【競争主義】を他者にまで求めるのは、禁止です。この当たり前のことが分からずに、ganbaru=頑張る人がいるのでほんとうに困りもの。頭脳も社会も深まらずに、いつも強迫神経症で騒がしく、いつまでも不幸が続きます。ニッポン競争人は、外面世界がそのまま内面世界ですが、それでは爬虫類です。
 
競争主義は実に愚かです。集団精神病ですが、この占脳=染脳から解放されないと、いつまでも善美を求める人間=自由と責任をもつ「個人」になれません。

 
 
武田康弘
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明日からたいへん(笑)モデリアーニとゲヴァントハウス四重奏団。最後はスダーン・東響の「ファウストの劫罰」

2016-09-22 | 芸術

明日からたいへん?(笑)

まず、シューマンの室内楽全曲演奏会の初日ー銀座王子ホールで15時から、フランスの若く新鮮な実力者たち「モデリアーニ弦楽四重奏団」とピアノはアダム・ラムール(演奏会終了後の19時からは大学クラスの授業だ!)

明々後日の土曜日は、あべこべに世界最古の弦楽四重奏団ーゲヴァントハウスで、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン。所沢ミューズのアークホール。

翌日曜日は、創造的想像力の化身のような天才・ベルリオーズの大作=劇的物語『ファウストの劫罰』全曲ードキドキ!
演奏は、スダーン指揮の東京交響楽団。スダーンはモーツァルトを得意とする大御所だが、ベルリオーズをとても愛している。東響の大恩人だ。
不思議なことに、ベルリオーズの最大の演奏者(全曲録音を複数)であったコリン・デイヴィスもモーツァルトのスペシャリストであった。

すばらしい演奏間違いなしの布陣だが、24日(土)はサントリーホールで、私の行く25日(日)は川崎ミューザでと2回の公演なので、たぶん、席はあると思います。よろしければ皆さまもぜひお出かけ下さい。

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フィロソフィー(哲学書オタクとは無縁)なき国の威張ったマスコミやああ勘違いの東大生

2016-09-21 | 社会批評
わたしは、かつて、幾度かテレビで話をしたり(教育思想や白樺派関連)取材を受けましたが(管理教育批判の市民運動では一日中追いかけられた)、それは、わたしの思想や活動を相手側(NHKやで日本テレビ)が伝えたくてしたことでした。わたしへの敬意がありました。
 
ところが、いまのテレビ局は、教育や思想の実践を「優れた考え方や活動」として伝える謙虚な姿勢はまるでなく、伝えるテレビ局の方が偉い!?というような態度です。そして批判的なるものは完全無視で、まったく取上げもしない。
 
シチズンシップに基づく活動は「市民レベル」に過ぎない?というような態度ですが、「国家レベル」は、内容的には市民レベルより低いものでしかないことが多いにもかかわらず、まるで、安倍や石原などの能天気な政治家に価値があるかのような見方しかできません。ちゃちで子どもじみた思想に過ぎないのが分からないようです。日本人の「思想音痴」は世界に例をみません。
 
何も見えていない、何も分かっていない証拠ですが、頭も心もほんとうに脆弱です。こういう人間ばかりを排出するのが、いまの「受験知」育成教育で、「表層リコウー本質バカ」を量産しています。東大生の表層知にはただ呆れるのみで、言葉だけのペタペタ頭脳には嘔吐をもよおします。日本人の「東大病」「東大教」は、カルト宗教レベルです。 東大病をめぐる対話ー色川哲郎(医師)、荒井達夫(参議院調査室)など
 
それにしても何も見えない表層的な頭脳=「言語バカ」ばかりの国では情けない限り。頭の芯を鍛えるのは、広義のフィロソフィーのみですが、それがまるでない。ゼロ。

武田康弘
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昨日は、スコットランドから、ユダヤ系イギリス人のジョナサンが来訪。宗教・哲学・教育・政治談議。

2016-09-18 | 学芸


昨日は、スコットランドから、ユダヤ系イギリス人のジョナサンが来訪。


時間以上に渡り中身の詰まった話でおおいに盛り上がり意気投合!

ユダヤ人の閉鎖性、ネタニヤフはとんでもない男であることや、アメリカ人の四人に一人はアダムとイブに始まる聖書物語をいまだに信じている(呆れ)というような話から、

アニメや可愛いもの好きの日本文化は楽しいが、それは、日本人が政治や社会問題を考え、公的な場で発言することが出来ないために「内に閉じこもる」結果ではないか(そうそう、ドイツ観念論の大殿堂も、現実にイギリスやフランスのように社会を変えられなかったゆえの思弁の豊穣(笑)とは、わたしの弁)とか、

東ドイツでは人々の顔が暗く街も沈んでいるのは、日本と同じで、「戦争への思想的反省」が弱いためではないか、とか(日本では、伊藤博文の天皇現人神という政府神道=国家カルト教による全国民の意識支配で富国強兵→無条件降伏)

そこから、フランス人は、フィロソフィーの伝統があり、他の欧州の人々よりも「個人」がしっかりしているのはなぜか?というわたしへの質問となり、

英米の民主制は、ジョン・ロックのピューリタン思想(キリスト教原理主義)の世俗化であるが、フランス革命を準備したルソーの思想は、古代アテネのソクラテス・プラトン、および、その影響下の初期ローマ共和制にある、という説明へ。

宗教的信念を隠れた動機とする社会思想や改革運動の時代はすでに終わっていること、それを超えるためには、各自の「善美に憧れる心を座標軸とする生」が求められること、そして、それはすでに古代アテネのフィロソフィーとインドのブッダにあり(共に印欧語族)、核心点は、超越や絶対を求める信仰ではなく、普遍(深い納得)を目がける考え方ー生き方にあること、をお話しましたが、ジョナサンは、とてもよろこび、賛同しました。

ユダヤ教やキリスト教の聖書の物語は、「物語」に過ぎず、未だにそれを史実であると思う人々は回心が必要ということをジョナサンが強調していましたが、各国のユダヤ人グループからは「お前はユダヤ人ではない」と言われていると笑っていました。
日本でも非国民とか!と言うと、日本は、まだ安倍に反対する健全な人々が大勢声をあげているが、イスラエルのユダヤ人は大多数がネタニヤフを支持していてヒドイもの、背後には、出エジプトの旧約聖書があり、それを信じている、と言います。

わたしが、安倍とネタニヤフは握手して、すでにイスラエルと日本の共同による武器開発が始まっていると話すと、悲しい顔をし、「ノー」。

 

次に、多くの日本人が「個人」として生られず「集団人」にさせられてることを、日本人はどう思い、それを変える考えがあるのですか?と聞かれたので、

大人はダメですが(わたしは大いに例外!笑)、こどもたちは嫌がっていると言うと、ユダヤ人グループの保守派は、こどもが13歳になると、ユダヤ教の儀式をし、そこで洗脳が行なわれ、自由でのびのびしていた子もまるで別人になり、保守的な「ユダヤ人」にさせられるとの話。

ちょうど同じ年代で、日本では中学校が、精神の自由や豊かな個人性を消し「集団人」にします、と話しました。その象徴が「部活動」で、受験主義の勉学が紋切型の知と行為をつくると説明しました。人間が豊かな個人として花開くのではなく、型ハマリになるーさせられるのは、恐ろしく悲しいことです。

各国のユダヤの保守派とイスラエルという国と日本という国は、共にこれから人間性回復のルネサンスが必要です。

そのためには、愛情いっぱいの子育てが大切との話になりましたが、
ジョナサンは、スポック博士の育児書をそのまま信じる両親に育てられ(母親は両親が幼いころ事故死ー愛情の薄い伯母に引き取られ為に育児書頼り)、自立のため、として泣いても放っとかれた、それが大人になっても情緒の不安を抱える原因になっていると思うが、スポック博士は、「わたしの本は間違っていた」と謝罪広告を出した!と笑えない笑話となりました。

武田の子育ては、心身全体の愛によるもので、あふれるほどの愛情を直接交わすのが何より大切で、常識とは逆に、それが強い精神的自立を生むと話し、ジョナサンはとても納得。

そこから、再び、政治と社会の話になり、わたしは、古代アテネの「直接参加民主主義」の理念を活かすことをミニコミ紙「緑と市民自治」で繰り返し主張し、我孫子市で、福嶋浩彦市長誕生に結びついたこと。それは全国へ広げる必要があるが(もちろ我孫子でも不十分で今の保守主義の市長の下で逆転)、この前の参院選では、鳥取-島根から福嶋さんは立ち、新たな自治政治(市民的公共)の考え方を訴えたことなどを話しました。

また、日本では「公共」という概念がひどく弱く、「プライベート世界」 と 「国家(官僚政府がおおやけを独占)」の両極端で、シチズンシップに基づく「公共世界」がないのだが、それは、単なる「私」ではなくて、自覚的な「個人」意識が育まれないことと一つであることを説明しました。

ここわたしの家の向かいは、古代ギリシャを中心とする歴史家の村川父子(共に東大教授)の旧別荘なのだが、息子の堅太郎は、「アテナイ人の国制」(講談社学術文庫)の冒頭で、20世紀の巨大な官僚王国であるわが国と、古代アテネでは大きくことなるが、現代の市民参加の民主制にとり、アテネの国制の研究はおおいに参考になる」と述べている、と言いつつ、

 ああ、そうだ、見学しようと、村川旧別荘に入りました。
この椅子は、イギリス人のバーナード・リーチのデザイン、と教えると、ジョナサンはビックリ仰天! リーチの焼き物が大好きで黒い大きな花瓶をもっていたとのこと、

それで、わたしがこのすぐ先でリーチが柳の家に居候していたことを話し、わたしが、『白樺文学館』をつくった(お金はわたしの哲学の生徒であった佐野力さん日本=オラクル初代社長)ことを言うと、もう言葉もない(笑)

まだまだ面白い話がたくさ~~んあるのですが、もう疲れたので、お終いです。
(ハッセルブラッドーツァイスレンズとライカ使用の話なども)

(追記)

出来たてほやほやのCD、わたしの大好きなヴァイオリニスト=アリーナ・イブラギモヴァ(ロシア生まれで10歳からロンドン在住=メニューイン最後の弟子でいま30歳)とコンビのフランスのピアニスト=セドリック・ディベルギアンのモーツァルトのヴァイオリンソナタ全集Vol 1をお聞かせしました。まるでいま創られたばかりのように新鮮で美しい21世紀に生きるモーツァルト
聴き惚れました。これは、わたしが一昨年の10月に銀座王子ホールで聴いた曲目ですが、CDの録音はイギリスでのセッションです。

わたしが組んだオーディオの音のよさにも感動!!そこで演奏しているかのよう。

次に、清瀬保二のピアノ・歌曲・室内楽を小音量で流し、最後に、「尺八三重奏曲」を音を大きくして聴いてもらいました。オリジナル!神秘的!と言い、曲が終わると、goodではなく、「やった!!」と日本語で(笑)。
このCDは「清瀬保二生誕100周年演奏会」の非売品のCD4枚組で、お弟子の松橋桂子さんに頂いたものですが、
日本最高の作曲家である清瀬の独創的な音階=ハーモニーについて説明し、先一昨日、彼の傑作「ヴァイオリンとピアノのために二楽章」を上野の文化会館で聴いてきたが(聴衆は清瀬の曲に一番多く拍手)、一般には知られないと言うと(10年ほど前に清瀬の故郷である大分県の教育委員会から、わたしにメールと電話で、清瀬の作品を学校教育で使いたいので譲って頂けないかと言われ、非売品やすでに入手困難の音源をCD化してお送りしくたくらいですからー清瀬長男夫妻からも武田さんよろしくと頼まれて)、「とても悲しい」と。



武田康弘


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「石原慎太郎くん、いい加減にしなさい。」 11年前半前のBlog再録。

2016-09-18 | 社会批評

以下は、11年6か月前のBlogです。
こういう男に支配されて平気な人は、ただのマゾとしか言えませんね。バカバカしく愚かしい限りです。


怒・「石原慎太郎くん、いい加減にしなさい。」横暴な独善者には退場してもらいましょう!

2005-03-30 | 社会思想

28日夜、NHK「クローズアップ現代」で、東京都教育委員会による「君が代」強制指導の実態と、「日の丸」を壇上の真ん中に飾ることの強制指導の実態とを見ました。

学校の自由も先生の自由も生徒の自由も一切ありません。上からの徹底した強制と締め上げは、見ていて激しい怒りがこみ上げてきました。日本の首都がなぜ隣の独裁国を真似しなければいけないのか!陰湿な暴力を連想させるおぞましい「力」による強制は、許しがたい愚行です。

その権力主義的な発想と態度は、NHKの解説者も憤りを隠せないほどひどいものでした。

居丈高で紋切り型の「横山洋吉」という名の教育長と「賀澤恵二」という名の課長は、「モラル!?として先生、生徒に強制指導する」と息巻いていましたが、モラルが一番欠けているのは、この二人であることは、おそらくこのテレビを見ていた人に共通する認識だろうと思います。

更にたちの悪いのは、この役人たちを後ろで操る石原慎太郎という小心者ゆえにヒステリックによく吠える政治家であることは、言わずもがなでしょう。 「石原くんよ、権力を使って自分のイデオロギーを他者に強制する悪戯はいい加減によしなさい。」と都庁にはメールを出しておきましょう。 そういえば、君は、都知事になるずっと前に、月間「マリンダイビング」誌で、おれは水中銃で魚を撃つのが好きなんだ。撃った魚が第一次世界大戦の複翼機のようにキリキリと旋回しながら堕ちていくのを見るのは快感だ、と言っていましたね。自分がどのくらい民主社会の政治家に不向きかを自覚して、一刻もはやく辞職することを私は勧告したいと思います。

明治天皇賛歌の「君が代」の強制―「天皇制国家主義」の復活は、明仁天皇自身も反対しているはずですが、それを目論んでいるかのごとく、国家主義丸出しの首都東京の「狂育」には背筋が寒くなる思いです。人権無視・人権侵害がこれほど白昼堂々と教育の場で行われている社会を、いったい何と呼んだらよいのでしょうか? 国旗と国歌を「踏み絵」として利用し、モラルという言葉を悪用して思想統制を行う狂気を、ブログ者皆で正していきましょう。石原知事と東京都教育委員会の所業に反対する記事をどんどん広げていこうではありませんか。

もう、35年も前のことですが、私は都立高校3年の時、NHKの「10代ともに」という番組に出て、当時の東京都教育長・小尾虎夫と議論し、だいぶやりこめた記憶がありますが、彼の方がはるかに紳士的な物言いだったなと、思い起こしました。

日本人にいま一番必要なのは、自由です自由に考え、発言し、行動する人がこれほど少ない国は、「先進国」のどこにもありません。自分自身の政治的、思想的な意見を言わない、言えない教育をし続けてきて、今またさらに黙らせようというのは「狂気」以外の何ものでもありません。自由の行き過ぎ?などという笑止な発言をする人がいますが、ワガママや犯罪はあっても、自分の考えをつくり主張し行動する自由な人は、わが国にはごく稀にしかいません。いま日本社会に一番求められることは、自由な個人をどう育てるか?なのです。思想統制をし、国家主義を復活させることではありません。精神的に自立した魅力ある個人の育成こそが急がれるのです。形式主義の古い道徳を持ち出し、鋳型にはめることが「マナー」だという低レベルの思想は、日本を元からダメにしてしまいます日本万歳の国家主義者こそが、私たちの国を貶める最たる人たちなのです。真に自由に自分の頭で考え、行動することのできる人をどう育てるか? 家庭も学校も会社もその課題に真剣に取り組まなくてはならないのです。個人の自由な考えと行動がなければ責任という意識は発生しません。それがいま一番大切な課題です。くれぐれもお間違えのないように。賛成する自由?はどんな独裁社会にもあるのです。民主制社会では、「反対する自由」が保障されなくてはいけないのです。一から勉強し直しなさい。石原くん。

独裁社会以外のどこに、卒業式のやり方を自分の学校で決められない国があるのですか!事細かに政治=行政権力が卒業式のやり方を指導し、従わなければ処分する!何という愚かで、ハレンチな所業でしょうか。こんな独裁権力をどこの誰が都知事や行政マンに与えたというのか!レベルの低い小説家にして独善者が、自民党の国家主義者と徒党を組み、子どもたちと教師たちに手前勝手な命令を下すなどということを、私は都立高校卒業生として、元・生徒会会長として、けっして許すわけにはいきません。なぜ多くの都民がこんな三文文士の言いなりになっているのか?なんとも不可解です。


後日、私が「白樺文学館」創設時に入手した文書=志賀直哉が2月11日の建国記念日制定―紀元節復活に反対した文書をご紹介しましょう。私の手元に生原稿のコピーがありますので。

☆我孫子市「白樺文学館」誕生秘話は、 「白樺文学館創成記」をご覧ください(クリック)


2005.3.29(30日改定) 武田康弘


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小心者で何も知らない=文学的レトリックで乗りきった強権男=石原慎太郎と役人たち。

2016-09-16 | 社会批評

「弱い犬ほどよく吠える」という諺が一番合うのが、石原慎太郎でしょう。

この男の暴言は、辞書ができるほどで、フランスをはじめ欧州や中国からも厳しい批判を浴び続けましたが、「人権」などどこ吹く風とばかリに他者に罵詈雑言を投げつけ、尊大な偉がりで、もう最低男と評するしかありませんね~~
権力をかさに、教員をイジメ、首を切り、中国を挑発するために「尖閣を東京都が買う」と宣言し、本音インタビューでは「俺の一番の望みは、シナと戦争することだ。」と言い放つ。

彼の挑発に乗って尖閣列島(地勢的・歴史的には中国領ですが伊藤博文が日清戦争で日本に編入)を国有化した軽薄者の野田首相(当時)の行為と、それを上手く利用した靖国思想の安倍首相の戦略により、日本は再び戦前の戦争できる国=「ふつう」の国に戻ります。今度はアメリカの属国としてですが。

まさに石原慎太郎の戦略通りで、再び「大日本帝国」という威張った国へ、個々人の精神的自立なき「ニッポン人」へ、です。でも、すべてアメリカ頼りの威張りですが~~(笑)。

築地市場移転問題も、結局石原の横やりで、安全などどこ吹く風となったのです。こういう勝手な強権主義者とお役人はとても相性がよく、政府でデタラメな言動を繰り返す安倍晋三にも霞が関はよろこんで右へならえです。

役人、とりわけ「エリート役人」になる高学歴・高偏差値人間は、母親の言うことに従順で、学校秩序に従い、受験塾の教師の言いなりの人生ですから、強権的に命令されないと、何がよいかを考え行為する能力がなく、なんにも出来ません。命令する人に従うことに悦びを感じる人の集まりですから。

精神的に自立する人間、自由と責任をもつ個人の育成こそ、何にも勝る日本の最優先課題です。日本人も「学歴人」「組織人」「所属人」ではなく、人格をもつ一人の人間=個人にならねば、です。いつまでも「騙された」という言い訳は通用しません。

 

武田康弘




 

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でたらめな築地移転問題は、氷山の一角。東京都の威張り腐った態度、非人道の日常化

2016-09-14 | 社会批評

築地市場移転問題は、言葉にならないデタラメで、合理的な説明は、まったく不可能です。

巨大な自治体=北欧の一のスウェーデンを超えるお金を自由にできる恐竜=東京都のお偉~~いお役人たちは、あらゆる面で優遇されいて本質的に傲慢です。

数年前は、生徒みなに慕われた優れた都立三鷹高校の校長を、「東京都教育委員会にもの言っ者」として、すべての評価項目で最低点をつけ、再就職を不可能にするという信じられない行為を平然と行いました。封建時代の悪役人そのまま。ちなみにこの校長は、「君が代」を歌わなかったのではなく、「職員会議をみなの話し合いの場にした」という罪でした。都の言い分は、「職員会議は、校長から他の教員への伝達の会であり、話し合いは禁止」というものでした。

また、「君が代」問題で、独裁国と同じ処分=首を切ったのもお役人の仕業でした(いま、裁判で次々と敗訴)。
この歌は、「明治天皇に捧げられた歌(明治天皇誕生日の11月3日に初演=お披露目)で、、主権者が天皇であった明治憲法下では国歌のように扱われましたが、「ポツダム宣言」受諾(無条件降伏)で新憲法ができ、主権者が国民に変わった戦後にはふさわしくない」として歌わなかった教員を首にするなど、

とうてい民主政の国ではありえない強権的=非人道的な行いもまた、石原信太郎都知事の元での東京都教育委員会のお偉~~~いお役人の仕業でした。

あまりに巨大化した先には死しかありません。傲慢極まりない東京都は大元から腐っています。もうじき間違いなく巨大地震も起きますので、オリンピック(前代未聞の超巨額費用)もたぶん出来ないでしょう。そしてそれは強引で威張った「戦前回帰」の政治(石原慎太郎や安倍晋三の国家主義思想)息の根を止めるでしょう。天皇現人神=「国家カルト」という戦前思想への反省がなく、ニッポンニッポンと言っていれば、破たんは当然でしょう。

東京都にお住まいの良識ある市民の方、転居を考えられた方がよいですよ(笑)。

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【恋知】のすすめ。理論言語ゲーマーではなく、想い、考え、判断し、価値をつくる「私」。

2016-09-13 | 恋知(哲学)

アンリ・ルフェーブルが、『総和と余剰』のなかで、なんでも理論言語で出来るわけはなく、芸術に任せる べき領域があり、それは芸術に任せるべきだ、というのを学生時代に読み、ずっと記憶にあります。

子や孫を育てている(いた)経験からも、人間存在について論理的に考え・語れる分部は、限られた範囲に過ぎないという実感を、強く持ちます。

その自覚が優れた論理を可能とする条件だな、と思うのです。

その自覚が薄いと、論理が存在を上回って、人間がよく生きることとは無縁の言語論理のゲーマーになるでしょう。

趣味としてゲームをするのならよいでしょうが、ゲーマーの方が偉い(上位)存在だと思うようになれば、処置なしの「病気」です。



人間存在のありようを知り、判断し、
どのように生きるのがよいかを想い、考え、
私の人生の意味や価値をつくり出していく。

そういうフィロソフィーの営みを、
専門的に難解な言葉を駆使して、固い理論言語だけで行えると信じる従来の「哲学宗教」(言語中心主義)はすでに終わっているのではないでしょうか。それは、ハイデガーの「敗北宣言」(1966年シュピーゲル対談)が象徴しています。

みなが、自分自身の日々のさまざまな体験に照らしながら、想い、考えてみる。

ほんらいは、その営みをサポートするために、フィロソファー=恋知者と命名される人がいるのでしょう(ソクラテスのいう産婆役)。しかし、想い、考え、決断し、実行するのは、それぞれの「私」であり、教師でも専門家でも宗教家でもありません。

このような新しいフィロソフィ―の意味と価値を明晰にし、それを提示し実践していくことは、なによりも必要な営みである、とわたしは思っています。

それが「恋知」という主張です。

詳しくは、《「恋知」とは何か》 をお読みください。ああ、明日の水曜日は、「恋知の会」です。



武田康弘

 

 

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「個人」以外はないのです。これは人間の生の原理中の原理です。(自民党は超アナクロ)

2016-09-10 | 恋知(哲学)

わたしは、こう思う、こう考える、
というときの「こう」の内容は、どのようなものであろうと、それを言った人「個人」の思うこと・考えることであり、それ以外ではあり得ません。

いやいや、「個人」ではなく、「学校」の意見だ!?「国家」の意見だ!?「人類」の意見だ!? 組織や、団体や、共同幻想体が、意見をいうわけはありませんので(笑)、誰かさんの主張ですから、その誰かさん「個人」の意見であり、意識です。

話し合って、合意した意見というのはありますが、それもまた個人と個人が話し合うのであり、お化けのような抽象的人間の意見や意識!?などあったらビックリ~~

これは、当たり前の話ですが、この当然の前提を踏まえない人、自覚しない人、おかしな妄想に憑りつかれている人がいるので、狂気の国家主義(国家という実体がある)が生まれてしまいます。

たとえ家族であれ、その四人なら四人の「個人」が存在し、それぞれ「個人」の異なる意識があります。もちろん、時間や場所を共有していますし、愛情があり、他よりも親しいですし、多分に利害を共有してはいますが。

個人個人の意識があり、個人個人の想いがあり、個人個人の考えがある。これは誰も覆すことのできない人間の生の原理中の原理です。
そして、個人の象徴は恋愛であり、ゆえに、フィロソフィー(恋愛+知)の神は、エロースなのです。

もしも「日本に生まれた人は、〇〇のように考え、行為しなければならない」としたら、【全体主義】という根本的な人権侵害となります。もちろん憲法違反であり、国連憲章違反です。わたしは個人ですし、あなたも個人です。これを忘れたら、とんでもないことになります。それこそ戦前の「皇室は神の系譜で天皇は現人神だ」とするカルト教=国家カルトに逆戻りです。もちろん、このような国体思想=靖国思想も、ある特定の「個人」の意見であり、意識ですし、わたしのフィロソフィーや社会思想も「個人」の意見です。

自民党は、新憲法案で「個人」という言葉=概念を削除し、「人」に代えました。アナクロニズムに「超」がつきます。底なしの思想バカというほかないでしょう。

 

武田康弘(フィロソファー参議院「行政監視委員会調査室」客員ー国会職員に「日本国憲法の哲学的土台」を講義

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国家愛などという「精神の病」とは無縁のエロース豊かな個人=人間として生きましょう!

2016-09-08 | 社会批評




学校化された社会、というイヴァン・イリイ
チの有名な言葉がありますが、
融通の利かない、固くて、面白味のない言葉と行為は、人間精神の健康な発達を阻害します。

うるさい規則主義、
どうでもよい細事までとやかく言う神経症、
上位者に従わせて自由な思考と発言を封じる封建主義。

民主的文化とは逆の全体主義というおぞましさ。

批判精神を育てず、
個人性をよろこばず、
創意工夫の行為がなく、
当意即妙の精神がなく、

四角四面。

愉悦やエロースとは無縁の固真面目。
つまらない男につまらない女では息が詰まります。

そういう人は、保守派以上に改革派に多いのも参るところ(笑・ホントウ)

楽しくないなら、はじめから失敗です。
社会悪への批判、安倍ウヨク政権ぶっ飛ばしも、生き生き、楽しく、面白く、やりたいもの。
豊かな、中身の濃~い人間である私とあなたの「得」になるようにやらないと、バカをみます。

 
戦前回帰のイカレタ人間などは、大馬鹿者!!と一喝しつつ、笑いものにして遊びつつ進みましょう。
民主政の原理を明晰に自覚し、現実対応は面白く楽しく愉快に~~~~~~~です。
元気いっぱいで、狂気の政権=狭~~いニッポン主義を葬り去りましょう!!
われわれは、誇り高く、エロースあふれる個人=人間です。国家愛などという精神の病(フェティシズム)に侵された民族主義者ではありません。

昔の革新派の固い「言語中心主義」は、根源悪です。
鋭敏で柔軟な運動・感覚次元、
飛翔する想像力次元、
明晰化する言語次元、
立体的に自由に発想し、どんどん発言し、堂々と行動し、愉快に生きましょう~~~~~~~!!


武田康弘 

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昨日の高湿の猛暑の中、やすみなしで丸一日。 中学体育祭の練習ー連日続きます。

2016-09-06 | 教育

すごい湿度で高温の昨日、中学校体育祭(千葉県我孫子市)の練習は、丸一日、午前も午後もぶっ通し。

みな疲れ切って、給食ものどを通らない子がほとんど、とのこと

途中で、休憩とかないの? のわたしの問いに、「全然なし。」

これが、土曜日の本番までやすみなしに続くとのこと。

猛暑の日はとくに休みを入れ、おやつなど食べさせる(現状は一切禁止)などという「ふつうの工夫」さえない。まるで集団イジメのようですが、倒れたり、病気になっても「自己責任」なのでしょう。

こういうのを「全体主義」というのですが、下のドナルド・キーンさんの記事にあるように、また「ニューヨークタイムス」東京支局長の言うように、

人権意識のある民主政の国からは考えられないのが、わが日本という国の現状です。

これでは、一人の「独立した人格をもつ人間」、「自由と責任をもつ個人」は育ちようがありません。

戦前と同じで「集団人」の日本を維持するための教育に陥っています。人間はいない。いつまでも後進国。

 

武田康弘

 

 

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「決断なき原爆投下ーー米大統領71年目の真実」(NHK) 最優秀番組です。再々放送を!

2016-09-04 | 学芸

一昨日の深夜に放送された「決断なき原爆投下ーー米大統領71年目の真実」(NHK)は、見事なルポでした。

17発の原子爆弾を用意したアメリカ軍。

直前までの軍の方針=まず1発目は一般市民多数が住む京都へ投下。
これは、スティムソン陸軍長官(文民側)の強い反対により回避。
しかし、広島は日本軍の街という軍部の報告にだまされたトルーマン大統領。

トルーマンは、ポツダムからの帰りの船中ではまだ軍のウソに気付かず、ホワイトハウスに戻り、はじめて事実を知り、
「こんな破壊行為をしたのは、大統領のわたしの責任だ」と言い、うな垂れた。
その半日後、わすかの時間差で止められなかった長崎投下。

トルーマンは、8月9日の手紙に書いているー「人びとを皆殺しにしてしまったことを後悔している」と。

3発目以降の軍の計画は中止させたが、
トルーマンは、大統領として軍の最高責任者でもあり、2回の投下を正当化せざるをえなかった。
長崎投下の24時間後、全米のラジオ放送で、「戦争を早く終わらせ、米軍の犠牲者を減らすために投下した」という放送の直前に加えられた「ウソ」と、それを流布せざるをえなかった現実。ナチスのみならず、ここでも「悪」の凡庸。


赤裸々に真実に迫るこのルポは、
軍人と政治家の対立という問題を超えて、
人間存在の愚かさと悲しさ、
国家と戦争の現実を深く想わせ、
言葉を失う。
怒りや悲しみと共に、静かで奥深い感動に襲われる。

 

この《最優秀番組》(制作はNHK広島)というほかない見事なルポ、再放送とのことですが、再々放送も。
これは、いまの中学生以上は、皆が見るべき深い内容の番組だと思いますので、学校でもぜひ。
真実のもつ力。

武田康弘

 





 

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五輪報道ー「まるで全体主義国にいるような気分になった。」  ドナルド・キーン

2016-09-04 | 社会批評

日本人以上に日本文化を愛している日本文学研究者のドナルド・キーンさんが書いています。今朝の東京新聞一面です。



ようやく終わった。

リオ五輪ではない、台風のような五輪報道である。

連日、ほとんどの新聞は一面から社会面まで、日本人の活躍で埋め尽くされた。

どれもこれも同じような写真が並んだ。どのテレビ局も似たような映像で伝えたのは、日本人の活躍だった。

まるで全体主義国にいるような気分になった。

 

五輪の理念は、国境を超えたスポーツを通じての世界平和への貢献である。国別対抗ではないことが憲章に明記され、獲得メダル数の公式ランキングもない。五輪が国威発揚の場とされた過去から学んだと聞いた。

にもかかわらす、メディアが率先して民族主義に陥っているかのようだ。



 

直接は関係しません(間接的には深い関係があります)が、日本の学校、とりわけ中学校は、まさに全体主義そのもので民主主義国の学校ではありません。

なぜ、いつまでも、「部活動」が象徴する画一主義ー強制する教育(教育とはとても呼べない)から抜け出せないのでしょう。

日本がどれほど遅れているか、世界をなぜ見ないのか。 いま先進国はみな自分の頭で考えー自由対話す教育(広義の哲学授業)を導入しています。

いつまで自閉という病の中で全体主義を続けるのでしょうか?


武田康弘

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今日のNHK朝ドラ「とと姉ちゃん」は、安倍政権への批判のようで気持ち良い。

2016-09-03 | 社会批評



今日のNHK朝ドラ「とと姉ちゃん」は、
 
あろうことか憲法を蹂躙(じゅうりん)し、大企業のみ優遇し、福祉を削り、格差-貧困をつくり、アメリカ軍の要望=アミテージの言うなりに軍事費のみ増額してきたまさに「極悪非道」の安倍晋三内閣への厳しい批判のような趣だな~~と感じました。
 
企業の圧力、卑劣な圧力ー行為に対して、ペンの力で戦う宣言をし、決して屈しない覚悟を示したのです。すっきり気もちよい覚悟の人間が少ないでの、気分よいですね。
 
権力主義者に委縮し、頭を下げ、何も言えず、出来ず、では、人間としてほんとうに情けないですし、自分として生きている意味=価値がありません。
 
ほんらいなら、民主政下では、憲法違反の政治権力者は、市民の力で放逐すべきものです。それが原則で、そうでないなら、ヒトラーも許されることになり、全体主義にしかなりません。
 
政治権力者が自分の個人的な野望を果たすために、税金で面白おかしく好きなことをやる国は、必ず崩壊します。歴史が証明済みです。数の力で自分の好き勝手をし、いい気になっている権力者を支持する国民が多数の国は、ザ・エンドです。ごく一部の財界人と軍事関係者に支配されるのは、《後進的劣等国》のあわれな国民でしかないのですからね。
 
とと姉ちゃんの気概を持とう!!(笑)と言いたくなります。番組では直接に政治をターゲットにしたのではありませんが、同じことです。
権力悪・政治悪と闘わずしては、精神の豊かさや人間の輝きや美しさは生まれません。迎合者は、いやらしい人間、醜い人間、臭い人間で一生を終えます。善美に憧れるほんものの人間は、けっして権力悪を許さないものです。公共性を取り戻したいものです。
 
 
武田康弘
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