思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「恋知」とは何か 完結!(5)まとめ (アリストテレスの目的因は、神学化への変質を用意)

2013-09-30 | 恋知(哲学)

「恋知」 第二章 恋知とは何か

(5) まとめ

 第二章「恋知とはなにか」を終えるにあたり、どうしても知っておきたい幾つかの事実とそれが意味するもの、そこから得られる思想について書きます。

  ソクラテスが死刑の判決を受け毒杯を飲んだ時、恐ろしいほどのショックを受けた弟子のプラトンは、書き言葉を残さなかったソクラテスの言動=思想を残すために、発言の背景と流れがわかるように「劇作」として対話編を書き始めますが、それと同時に私塾の延長としての学園『アカデメイア』をつくりました。エロースを主祭神とする自由で知的香気あふれるこの「友人たちの学校」(敬語ではなく友達同士のような会話ことばの授業)は、次第に発展し、史上最も有名な学園となりましたが、後に現れたキリスト教との対立によりローマ時代に禁止・廃校となります-「以後、何人も恋知(哲学)を教えてはならぬ」



(現在のギリシャ大学正門、左座像はソクラテスで右がプラトン、中野牧人君撮影)

 自分自身の頭で考えようとするギリシャ出自の理性的態度は、ユダヤ出自の絶対神を信じるキリスト教とは水と油であったため、恋知(哲学)者とキリスト教徒は対立し、紀元前387年から900年間以上続いた『アカデメイア』は、東ローマ帝国皇帝のユスティニアス1世の命令により529年にその幕を閉じたのです。

 ヨーロッパでは、「12世紀にはじまる翻訳の世紀」(アラビア語またはギリシャ語からヨーロッパの言語であるラテン語に翻訳する作業で、16世紀にはじまるルネサンスへと続く)において、古代ギリシャ出自の恋知は、キリスト教に適合するように根本的に変えられていきます。このキリスト教化された哲学は「スコラ哲学」(ラテン語のスコラとはschool=学校のこと)と呼ばれますが、この「キリスト教神学による恋知の換骨奪胎」は、古くは、キリスト教がローマの国教とされた313年のナント勅令の頃からはじまっていました。
(※ なお、ヨーロッパの翻訳の世紀の前は、7~8世紀にはじまるギリシャ語からアラビア語へのイスラムの翻訳の時代があり、ギリシャの学問は、最初はアラビア語に翻訳され、インド経由のゼロの発明による十進数や化学や医学や天文学などがイスラム文化として花開き、それが、12世紀頃からラテン語に翻訳されてヨーロッパ世界に伝えられたのです。)

 こういう事情に無頓着な思想関連の学者は、「ギリシャ出自の恋知」と「スコラ哲学とその改革である近代ヨーロッパ哲学」を似たようなものとして扱う愚を平気で犯しますので要注意です。なお、学問史の分野では、村上陽一郎さんの研究・著作が優れていますので、ご参照ください。

 わたしたちがよく耳にする哲学者といえば、近代哲学の祖と言われるデカルトであり、ドイツ哲学のビッグネーム、カントやヘーゲルですが、彼らはみなクリスチャンでしたから、ギリシャ出自の恋知と、世界を創ったキリスト教の神への信仰という相容れない思想を統合するために、大変な力業を用いることになりました。ほんらいは出来ない統一を図ろうとしたために、極めて難解な論理を必要とし、それが今日まで恋知(哲学)が具体的現実の中で働く有用な方法にまで進めず、「哲学書の読解」という狭い世界に留め置かれてしまう原因となっています。

 もちろん、近代哲学は優れた思想をつくり、人類的な普遍性のあるアイデアに溢れていますし、じっくり読むことで思考の訓練にもなります。ただし、先にも述べました通り、哲学書の読解ばかりをしていると、自分の頭では考えないで、哲学書とその歴史世界を知ることに今を超える価値を感じてしまうという逆立ちをもたらしますので、要注意です。メデューサのごとく、文字による哲学体系が今を生きる「私」の存在=イキイキとした生を石化させてしまいます。言語=理念世界への集中・飛翔と、五感・心身全体で生きる現実生活とはバランスが取れないと人生がスポイルされてしまいますし、西ヨーロッパ哲学がキリスト教化された思想であることを忘れて読んでいると、知らぬ間に「神学的精神」に染まってしまいますので、危険です。神学的思考とは、裸の人間性を肯定し、心身全体で感じ知り、豊かに生きるという発想とは逆に、言葉や特定の観念・理論に縛られて自他を固い檻にいれるような思考と生き方のことです。理論=言語中心主義の強張った貧しい発想は、現実の生からエロースを奪います。

メデューサ(ギリシャ神話)は、見る者を石にしてしまう女神で、ペルセウスによって退治された(彫刻はルネサンス期の奇異な天才ベンベヌート・チェルリーニによる)。

 これからの哲学は、キリスト教化されたスコラ哲学とその改革である近代哲学の言語ゲームから、初心の恋知の営みへと変わらなければならないはずです。神学的=権威的発想とは無縁となり、自分の頭で考え・意味をつかむという生き方ですが、ではそのためにはどうしたらよいか。先に「哲学は、具体的現実の中で働く有用な方法にまで進めず」と記しましたが、「キリスト教などの一神教世界や特定の哲学体系、また日本の天皇史観(日本主義)などのイデオロギー」と折り合いをつけようという暗黙の意識・底意から自由になれば、思考は明晰化されスッキリと進みます。宗教や主義や思想の体系から解放されないと、イキイキ伸び伸び、自由で豊かな思考は始まらないのです。「女神メデューサ」を退治しないといけませんね。

 では、スッキリと思考を進めるには何が必要かといえば、こどものころからの毎日の学習仕方です。

 算数の学習を例にとれば、自分の頭を悩ませて解くのではなく、公式を暗記し当てはめて解答するというのは「外」からの方法で、「内」からの意味了解が得られません。また、音読の場合で言えば、アナウンサーのようにスラスラ読もうとするのは「外」を意識した読みでダメです。つっかえてもよいので、意味を捉えながら、情景を思い浮かべながら、読みます。教科の学習の具体的な方法について書き出すと際限がないので止めますが、ポイントは、自らの具体的経験に照らしながら、内からの了解・納得・意味把握を目がけるところにあります。そのような態度=頭の使い方を習慣として身につけることが何より大切です。暗記と公式、情報処理のスピードを競う「外」的な訓練を中心に生きると、内的な意味充実のない紋切型の「優秀者」にしかなれません。

(集中して自らの力で数学を解く山田萌生君)

 身体の動かし方もNHKの「みんなの体操」のように、外側の筋肉を使ったスタイル優先の方法はよくありません。脱力して腰からのモーメントで腕や足を動かすことで内側の筋肉を使えば、中からほぐれますし、体幹が強くなります。
心の用い方も同じで、「外」を気にして形優先では、中身の豊かな交流は出来ませんので、自他に悦びはやってきません。心の「内」から立ち昇る想い・考えに素直になると、世界は豊かに大きく広がります。
 キーワードは「内」です。頭も体も心も、内からを心がけると芯の強さが得られます。

 「外」を気にし、見栄えを優先し、外面的に生きるのは、日本の集団同調の世界ですが、それは、同時に神学的な絶対を求める生き方でもあるのです。前にも書きましたが、みなが言うからという「一般的な正しさ」を求めるという発想が、何かの理由でヒステリー化すると「絶対的な正しさ」を求める心に変わります。絶対的真理がないと生きられないというのは精神疾患ですが、心身全体で愛されたことがなく、疎外感・不全感が強い人は、多数派に同調するか、絶対的真理を求めて従うか、ということになりがちです。両者は一つメダルの表裏に過ぎません。

 第三の生き方=「普遍的なよさ」を求めるのは、「私」からはじまる内発的な生を交感・交歓・交換しながら公共性をつくり出そうとする営みによりますが、そのためには、集団同調による「無思想」と、神学的精神による「絶対」を共に越えなければなりません。
 哲学無しでも、神学や主義を隠し持つ哲学でもなく、裸の個人として「私」の存在を肯定し合うことで自他を活かし合い、愛情と理性に基づく人間性豊かな生を可能とする恋知の営みは、考え、試し、確かめ、対話しながらよりよい生き方を模索していくのです。権威者や権力者に従うのではなく、他者や周囲の空気に合わせるのでもなく、「私」の内なる良心の声=≪【善美への憧れ】という不動の座標軸≫につく生き方です。
 強い一神教と集団同調を共に越えた「普遍性をもつ個性豊かな生き方」、それが、≪善美への憧れを不動の座標軸とする恋知の生≫です。

  ここで少し知の歴史(学問史)の話をします。

 紀元前6世紀、タレスに始まる古代ギリシャに起こった(現代のトルコのミレトス)「自然哲学」(自然の素材や動因とは何かを探る)は、200年ほど後、ソクラテスと弟子のプラトンによる発想の大転回で、「恋知」(善美のイデアに憧れ、人生を吟味する生き方)へと変わり、それはさまざまな面白い思想=実践を生みました。

  ところが、ソクラテスにもプラトンにも教えを受けたアリストテレスは、恋知・哲学の核心であるイデア論を否定し、再び「自然哲学」を中心とする思想に戻ってしまいます。倫理学も自然哲学から導かれるものとなります。

 彼の『自然学』(正式には『自然学講義』)は、自然研究の原理論ですが、『形而上学』第一巻は、『自然学』において定義された概念・思想を前提にしていますので、『自然学』は、アリストテレス哲学全体の原理を提示したもの、と言われます。
 そこには、有名な「四種類の原因」が提示されています。生成と消滅、自然におけるすべての変化の「原因」は4つあり、それは、「質量・素材因」と「形相ないし範型」と「始動因」と「目的因」だとされます。いま詳しい説明は省きますが、問題は、最後の「目的因」です。当然、人間の製作物なら目的はありますが、自然(の変化)に目的があるとは?彼は、自然の研究者は、四原因をすべて知らなければならないと言い、雨が降るのも偶然ではなく、穀物を成長させるという目的がある、と言います。

(「学問の祖」と言われるアリストテレスは、恋知の核であるイデア論を否定したため、哲学の神学化への道を開くこととなった。)

 この「自然によって存在し生成するものの中には目的が内在する」という主張は、キリスト教が、水と油のギリシャ哲学を換骨奪胎していく原因となった、とわたしは見ています。神=創造神が人間を含む全自然をつくったとする一神教であるキリスト教(前身のユダヤ教・旧約聖書に始まる)にとって、人間と自然の一切を説明する「神学≒学問」をつくることは必須でしたが、そのためには、キリスト教思想とは全く異なるギリシャ哲学(世界最高峰の知)を使うほかありませんでした。ソクラテス・プラトンの「善美への希求という座標軸」(それがイデア論の核心)をもつ恋知においては、自然研究(研究者の知的好奇心による)と、人間の生き方(万人にとって必要な探求・吟味)とは次元を異にする知との考え方でしたので使えませんが、アリストテレスの哲学は、すべてにおいて「万能の神の計画」があるというキリスト教神学には好都合で、ピタリとはまります。自然学と倫理学とは一つになり、壮大な物語がつくれますので、全世界・全人類をキリスト教神学≒学問で覆う(支配する)ことが可能となったのです。

  では、なぜ古代ギリシャのアリストテレスが「目的因」という非学問的な思想を哲学の中心に入れたのでしょうか。それは、彼が、知の核心であるイデア論を否定 することでタレスに始まるプラトンまでの全ギリシャの知を統一しようとする意図をもったからなのですが、今は詳しくは書けません。
 問題の核心は、「善美のイデアへの希求」という座標軸がなくなると、人間の生の意味と価値について吟味する足場が失われてしまうので、人間と自然のすべてを貫く「目的因」という物語をつくらざるを得なくなったことにあります。これによって、倫理や政治までも自然学から演繹されることになりましたが、それは、近代のドイツ観念論を通して遠く戦前の日本を代表する哲学者・田辺元(数学・物理学・哲学)にも影響し、天皇制の正当化の理論=「天皇を中心とする日本の国体は、太陽系と同じで、宇宙の原理に合致する」にもなっています。
 このように自然学から意味不明の演繹をする異様な思考は、すべてに目的があるとする神話的な考え=「目的因」と重なっていますが、わたしはそこに、幼児のもつ「万能感」の延長がつくる歪みを感じ、怖さを覚えます。 肥大した外的自我の怖さです。それは、国家主義の論理を生み、一人ひとりの生への抑圧を正当化します。更に言えば、自然征服という人類中心のエゴイズムが生じたのも、この「目的因」という強引な概念のねつ造に深因があるように思えます。

 ここでさらに歴史を遡ってみると、キリスト教など世界の三大宗教(旧約聖書のユダヤ教、新約聖書のキリスト教、コーランのイスラム教)を生んだ【セム語族】の文化と、
 (三大宗教の誕生地・エルサレムの市旗)
 仏教やギリシャ哲学を生んだ【印欧語族】(インド・ヨーロッパ語族)とは、大きく異なることを言わなくてはなりませんが、数千年前のインド~中東~ヨーロッパの民族移動と二つの文化の型の大きな違いは、今はその事実の確認だけに留めます。押さえておきたいポイントは、インドの釈迦(ブッダ)による仏教とギリシャ哲学は親近性を持っていることです。

 話を戻します。

 わたしの提唱する恋知とは、善美への憧れを不動の座標軸とする生き方のことですが、それはまた知の方法でもあり、各教科・学問の中で生きて働くものです。それ自身が自立・独立した体系ではありません。あらゆる知と生活世界に価値と意味をもたらす優れた態度のことです。内的に、内側から、内発的にですが、それを可能にするよい方法は、近くを見るのではなく、視線を遠くに飛ばす(例えば、空・雲という不定形なものを見る)ことですので、習慣づけるとよいでしょう。

((内的充実の極み、自らの純粋な悦びの行為として彫刻をつくったマイヨールの「夜」・上野の国立西洋美術館で。撮影は筆者)

 強い宗教(一神教)がつくる「神」という絶対観念ではなく、また、世間の価値観に呪縛される世俗教(例えば、東大教)でもなく、第三の道である恋知の生には、特権的な人や場は、一つも存在しません。人間の生のよし悪しの基準は、「生活世界」(日常生活、仕事、活動、趣味)の中にのみありますので、日々の生活において感じ想うことを繰り返しよ~く見つめ、反省のふるいにかけることで、「私」の意識を明瞭で豊かなものにすることが何より大切になります。それこそが不動の座標軸(真理というのではなく、「正しさ」が現実的意味を持つ生の基準)となり、わたしたちの人生を支えます。 善美への憧れと探求こそが人間的な徳と得をもたらすのです。

 ナンバー1でなくてもよい、オンリー1であれば、ではありません。誰もがみなオンリー1であることを自覚するのが何より大切。ナンバー1としてのナンバー1では人間的には価値がありません。ナンバー1とは他との比較でしかなく、単一の基準で測った結果ですので、競争主義者(機械人)の思想です。オンリー1として生きる人が、結果としてナンバー1と評されるのは結構なことですが、さらに、そのような人間評価自体への異議を唱えた人もいます。実存主義者のジャン・ポール・サルトルは、ノーベル文学賞を辞退したのです。

 それでは、『白樺教育館』の標語を貼り付けて、第二章「恋知とは何か」のシメとしましょう。

        他と(ひかく)するな           

       他と競争(きょうそう)するな。

 

       自分の

       深い納得(なっとく)を目がけよ!

 

       あなたもわたしも、

       オンリー ワン
       Only Oneであることを自覚(じかく)しよう! 

 

 追記

 わたしは、この章で、人間の人間的生の本質について書きました。人間の望ましい生のありようをできるだけ明瞭に示せれば、生をより魅力的なものへ、生きる価値の大きなものへ、豊かな意味を持つものへ、と動かすことができるのではないか、そう思い試みました。個々の活動や仕事、具体的な事柄の手法については、優れた人が大勢いますので、それらについては彼らにお任せします。


2013年 9月 25日      武田康弘

 

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「教育委員」とは、国体思想を持つ歪んだ心=「人間抑圧者」の集まりのようです。

2013-09-21 | 社会批評

 
 

 自民党や維新の会の各地の県議・都議・府議たち(背後の国会議員と彼らに従う各地の教育委員たち)は、文部科学省の「教科書検定」という先進国にあるまじき抑圧だけではあきたらず、検定を通った教科書にまでイチャモンをつけ、ついには、教科書の選択にまで政治的に圧力をかけ、校長を呼び出して、日本主義(戦争への反省や批判を載せない)の教科書の採択を要求する事態が各地で起きているとのことです。(東京新聞)

 ネットウヨクと同様の思想をもつ安倍首相や、政治家の強権で教師への圧力を高めて、きちん口を開け・声を出して『君が代』(明治天皇に捧げられた天皇家への賛歌)を歌っているかを確認するようにまでなった東京都や大阪府の教育委員会の役人たち。 国連のユネスコからは、当然、人権侵害国と非難される行為を白昼堂々と行うわが日本という国は、「個人の対等・自由に基ずくルール社会=人権と民主主義」の国としては、すでに終わっているようです。

 経済的利益にしか関心のないエコノミックアニマルたちと符合する安倍政権は、天皇制国家主義者で『反・人権宣言』の著者・八木秀次(安倍首相の親友)を政府の教育委員にして、「天皇を頂くわが日本国は、」という憲法全面改定のために子どもたちへの《洗脳教育》の準備を着々と進めています。実に恐ろしいことですが、日本主義(国体思想)による政府の宣伝機関となっているマスコミは、東京新聞(≒中日新聞)など一部の例外を除いて再び「大本営発表」にまで成り下がり、ジャーナリストとしての誇りをもつ人は極めて少なくなりました。

 「国家主義」への反省のない人々。哲学的には愚かの極みで、民主的倫理をわきまえない非道な人たち、一口でいえば、頭も心も貧しいダメ人間たちが支配する愚かな地域と国をこのまま放置してよいのでしょうか(なぜ、このような愚かな事態になってしまうのかについては、先日のブログ『ドイツはナチズムを否定、日本は靖国思想を否定せず』をご覧ください)

 近代民主主義の原理(人間存在の対等性と自由=人権思想)をしっかりと踏まえ、一人ひとりのかけがえのない個人のために社会はつくられるという思想を堅持し、予めのイデオロギーや宗教(例えば天皇主義・国体思想)の強要は許しがたい「悪」であることを明晰に意識し 【民主的倫理】を不動の座標軸として生きることを始めなければ、わが日本は再びかつてきた道へと転げ落ちます。

 

 わたしは、国会から行政を監視する委員会=「参議院行政監視委員会」の調査室客員として、国会職員のみなさんに講義(対話式の柔らかで自由な授業)を行ってきた者としても、わが国が、倫理的・政治的に堕落するのを見過ごしにはできません。

 なお、このblogに異論や反論のある方は、コメント欄にお書き込み下さい。暴言・罵詈雑言は削除しますが、内容のあるものは、すべてそのまま公表します。また、直接対話・議論にも応じますので、ご連絡下さい。一般の方でも、役人・官僚でも、政治家でも、学者でも、報道関係者でも、どなたでも結構です。

武田康弘

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 明瞭な自己説明をすべきことー「自己宣伝」という批判は、不幸を生む悪意。

2013-09-16 | 恋知(哲学)

 明瞭な自己の言動、その内容の説明を、「自己宣伝だ!」と言って批判する人がいますが、そういう人は、黙っていても自己が優位にたてる知・歴・財の『所有者』です。あるいは、彼らに従う同伴者です。

 偉い肩書をもっていたり、その同伴者であったり、大きな団体に属していたり、財産持ちであったり、有名人であったり・・・何かの所有者とその同伴者たちは、自分の存在そのもの(=裸の自己)のよさ・魅力で生きているのではありません。

 だから他者、とりわけ自分よりも所有(知識・履歴・財産の所有)の量が少ないと思われる人に、【本質的に優れた言動】を示されると、不愉快になるのです。自我(偉いはず・優れているはずの自分)の価値が相対的に下がると感じるからです。

 わたしは、自己卑下の発言(その裏にある自己自慢)にはうんざりしますが、ストレートな自慢話(内容の豊かな)を聞くのは気分がいいです。ぐちゃぐちゃとした「おしゃべり」や、公式的な型ハマリの言辞ではなく、明瞭な自己の考えと行為、その結果のよし悪しの話は、とても役に立ちます。その人のしていること・してきたことをキチンと整理して話してもらえるのは、ありがたいと思います。

 誇大宣伝のような自己話。

名前だけの代表だったのに、自分の業績にしたり、また、人にそのように言わせたり、
グループの一員にすぎないのに、あたかも自分が中心者であるかのように話したり、
人のやったこと・言ったことを、自分がやったこと・言ったことのように言ったるする。
あるいは、他者のよい点には触れないで黙っている(この消極的なウソは、自己の価値を高く見せようとする悪癖で、多くのに日本人に血肉化されています。その厭らしさは底知れぬ不愉快をまき散らし、善美のイデアを求めようとする能動性を消去し、人間性の根っ子を腐らせてしまいます。情緒音痴音の尖り顔できれにいに見えるのは上っ面だけ、ズルさの極みですが、それが「永遠に幸福になれない日本人」を生みます。)

 慇懃無礼(いんぎんぶれい)、肩書人(学歴や職歴)や有名人にはそういう人はやたらと多いですが、それらを嫌悪するのではなく、
内容・実質を担っている・担った人が、その人がしていること・してきたことの中身をきちんと説明すると「自己宣伝だ!」という非難をするのには、明白な意図があります。
 立場上(内容上ではなく)優位に立つ人やその同伴者が、その優位を守るため、という意図=悪意です。
 あるいは、自分の「得」だけを追求し、「気分」や「都合」だけで生きていて他者への感謝の心をもたない人は、内容・中身の話をひどく嫌がります。形式だけにして!!と叫びます(心の中で)。そうでないと、自分の内容の乏しさがバレるからです。ふつうの多くの日本人はそうです。形式・表層と世間的な序列で生きていて、中身がない!

 
 天皇史観(何事でも優れたこと・よいことは天皇の手柄)という日本の公式の歴史は、「形式と世間的な序列がすべて」という真実と意味充実のないインチキ物語=権力者史観で成り立っているので、少しも面白くありません。ウソや建前には魅力がありません。本質論=意味論がなく、どうでもいい「事実」の集積(目くらましの詐術)は、人間を元から腐らせてしまいます。日本人の魅力のある時期がせいぜい小学生までというのは、ウソと建前を仕込まれて、管理された公式人=機械人に落ちるからです。

 わたしたち日本人が、内容ではなく、形(建前)で生きる不幸、中身の豊かさがなく形式だけを整えて生きる誤魔化し人生から抜けるための重要なアイテムは、内容としての自己の言動の説明です。よい意味での自己宣伝はとても大切で、それがないと、立場や名前上の上位者による支配から抜け出すことができません。

 インチキを許さないためにも、自分の内容=実力を向上させるためにも、自己説明=正当な自己宣伝は必須です。それは権利のみならず義務ですらあるはずです。コソコソ・淫靡、物事や自分自身を斜めからしか見れないから悪癖から脱し、正当で中身の豊かな自己アピールをしましょう。それが自他の幸福をつくるのです。

武田康弘

 

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凄い本! 20人の識者がみた『小沢事件」の真実 テレビ朝日キャスター鳥越俊太郎・木村朗編(拡散希望)

2013-09-12 | 書評

 凄い本です。

 テレビ朝日のキャスターとして知られる鳥越さんの10ページほどの文章で、小沢問題の核心は目が覚めるようにはっきりとします。

 はじめて知る方は、恐ろしくなるほどの話でしょう。

 この本の20人の豪華な執筆人は以下の通りですが、彼らにより、いま、日本がどれほどの政治的危機にあるか、民主主義は風前の灯であるかが説明されています。

 国体思想の持ち主が主流派となった自民党+官僚種族による支配。彼らの集合意識により全体主義へと陥る日本社会ーーここからの脱出には、まず何よりも事実・真実を知ることが必要ですので、本書は、日本人の必読書と言えます。

 一連の「事件」の発端となった検察裏金問題の主役、三井環さん(元大阪高等検察庁公安部長)の内部からの告発には凄い重みがありますし、
 
やはり検察内部からの郷原信夫さん(元東京地検特捜部・現在は大学教授)の詳細な解説は、有無を言わせぬほど明快なもの。

 すべて読むに値する見事な文集ですが、ニューヨークタイムスの東京支局長・マーティン・ファクラーさんの結語は、わたしも指摘し続けていることで同意見。

 「官僚制度の中にいる人々と主要メディアの社員は、同じエリート意識をもった狭いサークルのメンバー。権力側と似た感覚をもっているといえる。・多くが東大・京大・早稲田・慶応などの同じ一流大学の出身で同じ価値観を共有している。・彼らは、みは受験勉強が上手で、とにかくテストでいい点をとることができる。入社式に集まってくる彼らを比べれば、どちらもリクルートスーツに身を包み、どちらが官僚になる人で、どちらが新聞記者になる人かなど、区別がつかない。・多様性に欠けるのだ。」ーーーー「小沢事件」という国家犯罪が象徴する日本の異常性は、そこに根をもつ、との指摘です。

 「真実」あるいは「本音」がどれほど面白いか、そして、日本の現状がどれほど危険なものか、背筋が寒くなり、公共的憤りでいっぱいになりますが、不思議と勇気が湧き上がる本です。ぜひ。


武田康弘

[要旨]
 
政治的謀略としての小沢問題を多角的に検証。国策捜査の被害者、法曹関係者、国会議員、ジャーナリストら20人の論者が真相を暴く!
[目次]
 
序章 かくして検察の「政治的陰謀」は達成された(鳥越俊太郎);
 
第1章 被害者たちが証言する「国策捜査」の実態(検察が潰れる「最大の弱み」を告発(三井環);「暴力組織」に成り下がった検察、「既得権益」にしがみつくメディア(仙波敏郎);権力とメディアの暴走を許さない(鈴木宗男);原子力帝国・全体主義国家に変貌する日本(佐藤栄佐久);日本の民主主義のため最後まで闘う(石川知裕);小沢裁判事件の評価と主権者がとるべき行動(植草一秀));
 
第2章 民主主義の危機、「検察」の暴走を検証する(陸山会事件における検察の暴走とメディア(郷原信郎);法務・検察官僚に組織としての正義はあるか?(川内博史);政治的冤罪事件「小沢ケース」の奇々怪々(有田芳生);検察の暴走と「指揮権発動」の真相(小川敏夫);検察の暴走・司法の崩壊に、市民に何ができるか(八木啓代);暴走検察の背後にある刑事司法の巨大な歪み(青木理));
 
第3章 なぜ、大メディアは「検察」の暴走に加担したのか(革命的改革を阻止した官僚と、それに手を貸したマスコミ(高野孟);「アンチ小沢という空気」の正体(二木啓孝);「週刊朝日」と大手メディアの違いはどこから生じたのか(山口一臣);民主統制なき刑事司法に、メディアが最後の砦となれないことの悲劇(神保哲生);小沢事件をメディアはどう報じてきたか(浅野健一);官僚機構の一部と化したメディアの罪(マーティン・ファクラー));
 
終章 権力の暴走とメディアの加担―小沢問題の意味を問う(木村朗)
 
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尖閣問題=保守政治家が意図的に「煽る」。 「中国の日本漁船への干渉はない」(沖縄タイムス)

2013-09-11 | 社会批評

 

保守政治家が意図的に煽り、NHKなどの放送局が、それを助長する報道を行っているために、いかに沖縄が迷惑しているか。

以下は、沖縄タイムスからです。

尖閣国有化から1年「政治の海」は今

沖縄タイムス  9月11日(水)9時31分配信

 

 【石垣】石垣市から北の海域。魚湧く漁師の海が「政治の海」へ変わり1年が経過した。昨年9月11日、政府が尖閣諸島を国有化して以降、中国公船が尖閣に接近。日台漁業協定の締結で台湾漁船も海域に乗り入れた。「静かな環境で漁がしたい」。沈静化を願う思いとは裏腹に、尖閣の政治的対立をあおる保守系団体、一部メディアの存在や生活の場を狭められている現状に漁師たちの不満は募る。

 「実際に漁をしている船には中国公船は何もしてこない。でも報道では『漁船を追いかける中国船』と緊張をあおっている」。八重山漁協の上原亀一組合長は一部報道が日中対立をあおり、結果的に漁師に跳ね返る現状に懸念を深める。
 同漁協のマグロはえ縄漁船は現在、「尖閣が肉眼で見える海域」でも漁をしているが、中国公船とのトラブル報告はない。
 報道される「漁船」とは、保守系団体がチャーターした地元漁船に政治家やメディア関係者を乗せ、海上保安庁や中国公船がにらみ合う海域に繰り出しているもの。「漁業者」とは言い難い。

 上原組合長は「政治家のパフォーマンスに多くの組合員が迷惑と考えている。中国のやり方には怒りを覚えるが、双方で冷却期間を置いてほしい」と訴える。
 日中の緊張が高まる中、政府は中国と台湾の連携を防ぐ狙いで5月に日台漁業協定を締結。石垣北海域に台湾漁船が繰り出すようになった。
 同漁協の比嘉幸秀幹事は4月、水産庁幹部に怒りをぶつけた。2010年9月、尖閣付近で中国漁船が取り締まり中の海保の船に体当たりした事件後、政治家が次々と漁協を訪ね、「日本領土を示すために、積極的に尖閣で漁をしてください」と呼び掛けた。
 それが今では漁を自粛せざる得ない状況だ。「政治が決めたから従え-ということか。今は台湾とルール作りを進め、正常化に近づけるしかない」と比嘉さんは表情を曇らせる。
 尖閣諸島は冬場、高級魚のマチを一本釣りで狙う好漁場。「漁業補償の話も出るが漁師は魚で食っていくのが本来の姿。静かな海にしてほしい。願いはそれだけだ」と言葉をつないだ。

中国交流 中止相次ぐ

 石原慎太郎前都知事の尖閣購入構想とその後の国有化の余波で、沖縄と中国のさまざまな交流イベントが中止に追い込まれた。
 2012年は県と福建省の友好締結15周年だったが、記念式典は延期されたまま開けずじまい。若者を公募した総合歌舞団「ウチナー文化未来塾」の福建公演も実現しなかった。メンバーの女性(21)は「年明けまで公演があると信じて頑張って練習していたから、ただただショックだった」と振り返る。
 一方、北京で昨年9月、規模を縮小して開かれた民間交流イベントには出演できた。「カチャーシーでは日本人も中国人も関係なく踊ってくれて本当に感動した。政治とか、誰が悪いとかではなく、交流は続けてほしい」と願う。
 ほかにも、県が中国で計画していた沖縄観光セミナーや、中国政府が県内で予定していた「沖縄・中国映画週間」が中止になった。

( 太字は、武田による)

 

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他と競争するな、私の深い納得を目がけよーー白樺教育館の標語

2013-09-10 | 教育


白樺教育館の標語です。

(写真は、2013年9月5日)

他と比較(ひかく)するな。

他と競争(きょうそう)するな。

 

自分の

深い納得(なっとく)を目がけよ!

 

あなたもわたしも、

オンリー ワン

Only Oneであることを自覚(じかく)しよう!

 

 

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「白樺教育館」推薦の展覧会ーコルビュジエと20世紀美術・「国立西洋美術館」

2013-09-02 | その他

 

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 西洋美術館(松方コレクション)の設 計をした(日本政府からのお願いにより)ル・コルビュジエの展覧会が、「ル・コルビュジエと20世紀美術」と題して当の国立西洋美術館で行われています。

 これは、大変貴重な展覧会で、総合芸術家としてのコルビュジエの全体像をよく知ることができる企画です。

 

 第一期から第四期に分かれるその作風は、天才コルビュジエが自己に誠実な努力の人であることを証明しています。初期の「建築家の絵画」を意識させる作品から、一段づつ素晴らしい飛躍を遂げ、第三期には驚くべきレベルに達します。ピカソをはじめ20世紀を代表する画家たちに伍する作品群には 圧倒されます。

 

 

 絵画、

 版画、

 写真、

 彫刻、

 映像作品、

 壁画。

 

 

 20世紀を代表する建築家、無神論者にして優しさと人間味に溢れるコルビュジエは、柳宗悦の白樺「民芸運動」を継いだ長男の宗理(むねみち・工業デザイナー)が「神 」のように尊敬した人でもありますが、近代合理主義と自然物・有機体のもつ世界との融合を目がけたル・コルビュジエの全貌が明かされるこの度の展覧会を二度見て、わたしは深い悦びを得ました。彼と交流のあった芸術家たちとのコラボ展示は、20世紀美術のもつ 価値と面白さを闡明にしてくれます。11月4日までです。

 イタリアルネサンスを代表するミケランジェロの展覧会も9月6日より同時開催ですので、20世紀のルネサンス人であるコルビュジエと同時に同会場で見られます。なんという贅沢!

 

 

  なお、わたしが理念と全コンセプトをつくった『白樺文学館』(2001年)と 『白樺教育館』(2004年)は、西洋美術館に表れているコルビュジエの思想・理念に共感して建てたものですが、施行と実施設計を依頼した大成建設は、パリのル・コルビュジエ財団と共に世界有数のコレクションの持ち主で、この度の展覧会の協賛者・協力者です。


 図録からの複写は、1959年にコルビュジエの描いた「牡牛 XVⅢ」(大成建設 ギャラリー・タイセイ蔵)。牡牛はコルビュジエ自身を表す。

 

 

武田康弘

 西洋美術館中庭・昨日(9月1日)夕方撮影・武田

 


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