思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「音楽は、他では得られない内面的充足をもたらす。」ーーマレイ・ペライア談

2012-10-31 | 趣味

 

10月5日のブログで『マレイ・ペライアのピアノ曲全集』に感激しご紹介しましたが、わたしはペライアの個人的な事柄についてほとんど何も知りません。
CDを聴き進むうちに彼の人間性についても興味が湧きましたので、アマゾンの書籍欄で「ペライア」を検索してみたところ、2012年2月号の『レコード芸術』にペライア(1947年ニューヨーク生まれ)のインダビュー記事が掲載されているのを知り、早速注文しました。

ペライアの「語り」は実に素晴らしく、演奏から受けた感じと同じでとても嬉しくなりましたので、以下に書き抜きます(一部簡略化)。


「たいへん幸運なことに、わたしは自分が愛する作品を演奏することが出来ます。録音でも演奏会でも、人々から求められるものではなく、自分自身の熱狂に従ってプログラムを決めます。」

「芸術家であり続けるには、音楽への愛を持ち続けることです。・・楽器を演奏するのはとても難しい。練習して練習して練習して、そして音楽は失われる。だからこそ音楽への愛を維持することが第一です。わたしは若い演奏家にアドバイスします、『作品を手がける前に、まず対位法をよく理解しなさい。不協和音や通奏低音、装飾音について知りなさい。そうすれば音楽に触れる手掛かりを失うことはない』と。若者たちは手早い答えや手早い秘訣を求め、きょう成功したいと欲している。しかし、音楽においては、成功するかどうかは問題外で、理解することこそが重要なのです。漠然とした方法ではなく、明確に捉えなくてはならない。」

 「父がよくオペラに連れていってくれたのです。わたしの母はいまも98歳で健在ですが、まったく音楽には興味を示さない人です。わたしはオペラが大好きになり、次の日には家でアリアを歌っていました。それで父がピアノを買ってくれて、わたしは音楽を愛するようになりました。練習は嫌いでしたが、弾くのは好きで、ピアノで即興をするのも好きでした。」

「膨張するのは簡単なことですが、すべての音が簡潔でないと、ベートーベンやブラームスのもつ真の古典的な美観を抱くことはできません。」

「音楽において声は感情とつながって用いられるし、感情と血脈となりえます。どうしてか分かりますか?音楽にはつねに不協和音があるからです。協和音と不協和和音があり、決してどちらかだけではないからこそ、緊張が生まれるのです。緊張は純粋なものではありえない。人間関係においてもピュアなものなどなにもないのです。必ずなにかが引っ付いてきて・・・フロイト以降、人は純粋さについて考えることはできません。ピュアであるのを望むことはできますが、いつもそこには微細な不純さがあるものです。」

「誠実さは、わたしにとっては最も重要なものです。正直でないものは、信頼することができない。もしもメッセージを交わそうとするなら、それは率直なものでなければなりません。だから、誠実さはピアニストにとって、もっとも大切な本質のひとつです。すべての偉大な作曲家は深いところで正直です。」

「音楽はエゴではありません。演奏家のエゴなんて重要ではない。ただひとつ重要なのは、作曲家の伝えたかったことを伝えられるかどうかです。・・・したがって、できる限り作曲家がもった思想、精神生活を共に生きる必要がある。作曲家の感情とコミュニケーションをとり、彼らの人生を生きようと努めなくてはいけません。」

「作曲家という難しい人物=偉大な人物は勇敢に考える。それが鍵です。『どうして?なぜそうではないのか?』といつも問い続けている。問い続けることでスタイルは発展してくる。」

 ―――そして演奏が終わればあなたは自分自身の人生に戻る。――――

「そう、わたしはとても幸運な人間で、素晴らしい妻がいて、家族があり、二人の男の子がいる。だからわたしはとても静かで、快適な家庭生活を送っていますし、いつでもそこに戻ることができます。」

「音楽は完全な世界を体現してみせてくれる。言い換えれば、それは不協和音が解決をみる世界です。そして、旅の終わりで、満ち足りて終わる世界。主音で終結するからです。わたしたちの実人生ではそのようにはいかない。音楽のなかでは、そうした完璧な世界を思い描くことはできる。そして、調和から切り離され、満たされることがなく、不協和音が解決されないわたしたちに、音楽は自分の人生を育む精神的な栄養をくれる。音楽が人をよりよき人にするとはわたしは思いません。しかし、なにかしら他では得ることのできない、内面的な充足をもたらす。そのようにして、音楽は完璧な世界への道へと繋がっているのでしょうーーー」(以上、マレイ・ペライア談。ききては、青澤隆明)

武田康弘

 

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「匿名」、あるいは「権力」「権威」がうむ【無責任】は、わが国の悪弊なのか。

2012-10-29 | 恋知(哲学)

  言葉の暴力への不感症。
【匿名】で他者のブログに罵声を浴びせ攻撃することに燃える若者たちが大人になったら、どうなるのか?
と思いましたが、わが国ではすでにそういう大人が大手を振るっています。
石原慎太郎氏は、年配者におけるその代表ですし、橋下徹氏は、中年者におけるその代表でしょう。口汚く相手を罵倒する、しかも堂々と。
  こういう輩が威張り散らすわが国では、沈思―哲学的思索など夢のまた夢です。
ネットウヨク及び彼らと同様の表層的な理窟を論理だと勘違いしている人間を見ると、ほんとうに病んでいると思いますが、【匿名】ゆえにそのような行為をする者は自己反省の機会を失っています。

  一人の「私」としての【責任】を引き受けなければ、言葉―行為は空を切り、いたずらに過激になるだけです。他者や他国への罵倒はエスカレートし醜い姿を晒します。

  責任意識は【内面世界】を形成する上でなくてはならぬものですが、この【責任】という意識は【自由】がなければうまれません。自己決定しなければ責任は生じませんから。だから、幼いころから【お受験】などで親の敷いた路線に乗せられてしまうと、自己責任の観念が育たなくなるのです。
  悪さをし、失敗をくりかえすこと。いろいろ試してみることではじめて自分で判断する=責任をとる力が育ちます。「僕の人生は僕のもの」「わたしの人生はわたしのもの」という意識、親や教師や・・他者に犯されない「私」のかけがえなさの自覚が出てきます。内的に・内側から、という人間としての生はここに誕生します。【内面世界】とは、誰でもないこの私の自由な言動が生む【責任意識】と一体のものです。

  外的な言葉遊び・表層論理ではなく、生きたほんとうの言葉―思考は、【内面世界―責任意識】がないと生じません。
【匿名】という特権性や、強大な【権力】あるいは【権威】に守られていたのでは、【内面世界―責任意識】はつくられないのです。それは個人をつくらず、公共もつくりません。あるのは、すべて【もどき】だけの軽薄な人と世界。

 

武田康弘

 

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「領土問題の背景と結語」ーーアップしましたので、拡散をよろしくお願いします。

2012-10-23 | 社会思想

下のブログを『白樺教育館』のホームページにアップしました。写真入りで読みやすくレイアウトされていますので、みなさまぜひ拡散をお願いします。

石原慎太郎氏の仕掛けでとんでもない事態になりました。一人の特殊思想というより「悪感情」をもつ権力者の言動が世界を悲劇に陥れてしまいました。被害額も天文学的数字ですので、石原氏の責任は言語に絶するものですが、わたしたち一般の市民は、冷静な理性を持ち愛の心を失わずにこの問題に対処したいと思います。ぜひ、以下の「領土問題の背景と結語についての記事を広めてください。よろしくお願いします。みなさん、共に!

武田康弘

白樺教育館ホームページは、http://www.shirakaba.gr.jp/

 

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144. 歴史を学ぶことの意味
    尖閣(釣魚島)と竹島(独島)問題の背景ー説明と結語

 現在進行中の領土問題ですが、メディアでは様々な取り上げ方がされています。かなり感情的であったり、一面的な捉え方だと感じている方も多いようです。
 この問題、教育上の大きな問題とも密接に絡んでいると考えますので、取り上げることにしました。

 いうまでもなく、私たちが歴史を学ぶ意味は、基本の史実を知り、そこから意味をつかみ取り、そしてより良い社会を構想することにあります。どうもその基本を踏み外しているような気がしてなりません。
 かくいう私(古林)自身もこの領土問題をきっかけに、戦後の日本の出発点とも言えるポツダム宣言カイロ宣言降伏文書の中身を初めて読むことになりました。情けない話です。基本的な事実すら知らずにいたのですから。

 領土問題の背景にある基本的な史実をしっかり捉え、それがどのような意味を持っているのか、そしてどうしたらよいのか、基本中の基本の話ですが、タケセンがその良い一例を示していますので、以下に紹介します。これをきっかけに、より突っ込んだ創造的な議論が始まることを切に願っています。

 なお、言うまでもないことですが、現実世界の問題を語る時に絶対正しい答というのは存在しません。あるのは、どの考えがより優れているか、です。より良い考えを一人一人、皆で考えてみようではありませんか。


 
 

尖閣(釣魚島)と竹島(独島)問題の背景―説明と結語 (タケセンの「思索の日記」 より)

 尖閣(釣魚島)問題は、前のブログにも書きました通り、中国蔑視の感情を持 ち続ける一人の権力者・石原慎太郎東京都知事が日中国交40周年に合わせて仕掛けた罠に野田首相が嵌(はま)ったことから大騒動に発展しました。中国との約束を反故にして尖閣を国有化したために、中国人の「反石原」で留まっていた感情は「反日」へと変化拡大してしまったのです。

 これによる国民益損は計り知れないものです。政治を主権者である市民の「一般意思」ではなく、政治家個人が持つイデオロギーで行うのは民主主義の否定ですが、それは国を大厄災に投げ込みます。私たち日本人は、戦前の「天皇現人神の国体思想」に基づく強権政治・軍国政治でイヤというほど経験済みです。

  また、竹島(独島)については、すでに半世紀以上に渡って韓国が実効支配していますので今さら話題になるはずはないのですが、李 明博(イ・ミョンバク)大統領が人気取りのために島に渡ったことが大きく報道されて騒動に発展しました。

  すでにブログに書きましたように、この韓国、中国との領土問題が生じる原因は、わが国の明治維新後の政府による【強権】(戦争による領土拡張戦略とそれを支えた天皇教)と、第二次世界大戦へと続いた中国侵略にはじまる15年戦争の敗戦 (『ポツダム宣言』受諾―『降伏文書』への署名)という厳しい現実に対する【認識の甘さ】にあります。

 何より必要なのは、わが国は領土について大きな顔ができる立場にないことの自覚です。慎重に考え、対処しなければなりません。

 

 それでは、まず尖閣諸島(釣魚島)ですが、歴史的には台湾に所属していたことは各種文献から明白です。琉球王国(「明」が承認した独立国)からは遠くて海流も逆ですので、古代の木造船で行くのは至難でした。また、中国の版図には15世紀から釣魚島として記載されています。

 明治になり、伊藤博文は日清戦争時に日本領として編入したのですが、その経緯は以下の通りです。
1885年(明治18年)に明治政府(山県有朋)は、閣議で魚釣島(尖閣諸島)を日本の領有とすることを否定しています。 この年の9月に沖縄県令(今の県知事)の西村捨三は、内務卿の山県有朋宛ての報告書で、
「魚釣島は大東島とは地勢が違う し、中国の記録が多くあり、冊封船(さくほうせん/中国が承認した国の船)が通っていて島に詳しく、それぞれに中国名もついている。日本領という標識を立てるのは待った方がよい(要旨)」
と 記しています。
 これを受けて山県有朋は井上馨外務卿 に相談しますが、井上は
「調べるのはよいが、右 島嶼(とうしょ)(魚釣島)に、国標を立てるのはよくない、清国の疑惑を招 く。また島を調査していることを官報並びに新聞に掲載してはいけない(要旨)」
と応えました。
 それを聞いて山県は、1885年の閣議で魚釣島の日本領有を否定 したのです。

  ところがその10年後、日清戦争の末期に皇軍の勝利が確実になった時点で (1895年・明治28年1月14日)突然、伊藤博文は「標杭建設の義」を決定し領有に踏み切りました。
「久米島魚釣島と称する無人島へ向け近来漁業等を試むる者有。之為取締を要するに、付ては同島の議は沖縄県所轄と認めるのを以て、・・・・明治二十八年一月十四日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文」。

  その後、わが国は日露戦争、第一次世界大戦参戦、シベリア出兵、満州侵略に始まる15年戦争(日米開戦による第二次世界大戦へ)と連続して戦争を行い、最後に 『ポツダム宣言』を受諾して敗戦します。ポツダム宣言はアメリカ、中国、イギリスの三カ国による13項目の宣言で、日本の抵抗は、「連合国による日本全土の完全な破壊を意味する」と書かれ、「カイロ宣言は履行されるべきものとし、日本国の主権は本州、北海道、九州および四国、並びにわれわれの決定する幾つかの小島に限定される」とされました。

 ここで問題なのは、尖閣(魚釣島)が沖縄と台湾のどちらに帰属するかですが、敗戦まで日本支配下の台湾で警備府長官だった福田良三は、釣魚島が自分の管轄区内(「台湾州」の管轄)であったことを認めています(余談ですが、福田良三さんは、わたしの主宰する『愉しい哲学の会』の中心的参加者である清水光子さん(82歳)の実父です)

 なお、琉球王国は、1879年(明治 12年)に明治政府による【琉球処分】 (琉球王朝廃止・王族の全員逮捕・琉球を認めず)で沖縄と変えられたのですが、それまでは中国と盛んに交易し「琉球の大航海時代」が続きました。
 以下は9月28 日のブログです。  

 「琉球(沖縄)と中国は500年間の交流をもちます。1372年に琉球王朝を明が承認してから定期的に交流をもってきました。魚釣島(尖閣諸島)は福建省から琉球への途次に航海の目印として使われていたことが中国の古文書に記録されています(一番古いものは1534年5月8日)。  
 1609年に薩摩が琉球を侵略してからは明と薩摩の「両属」となります。薩摩の兵隊は(明は琉球に軍隊を置きませんでした)明の役人が来ると平服に着替えて隠れるようにしていたと記録されています。
 薩摩は、琉球が中国と江戸の橋渡しをしていた(琉球の「大航海時代」と呼ばれる)為に交易物(物や情報)を得るのが目的で来ていたのです。琉球は、中国と日本の仲立ちをしていましたが、この盛んな交易は1879年(明治12年)に明治政府による【琉球処分】(琉球王朝廃止・王族の全員逮捕・琉球を認めず沖縄と呼称)まで続きました。」

 

 では、次に竹島(独島)問題に移りま す。  

 竹島は、極めて小さな島で二つに分かれています。周囲の岩礁を含めても0.21平方キロメートルしかなく、大きな岩の塊でしかありませんので、歴史的にはこの島自体が領有権争いの対象とはなりませんでした。90キロメートル離れた鬱陵島(うつりょうとう)へ行くために寄る(天候悪化時の待場)か、そこで漁をする場として知られていたわけです。  

 それがなぜこれほどの問題になっているのかと言えば、明治の日露戦争時に桂内閣が日本領に編入したのと韓国支配がリンクしているからです。  

 民主的な運動に対する弾圧者として知られる桂太郎は、陸相を歴任し、三度首相を務めた人ですが、彼は、日清戦争に勝ち日露戦争(1904年2月~1905年9月)を戦っていた1905年(明治43年)1月28日に、閣議で竹島を日本領に編入することを決めます。これは、島根県でアシカ漁を営む(短期間でしたが) 中井養三郎が政府に提出した『りやんこ島(竹島)領土編入並に貸下願』を受理したことによります。最初は内務省が書類の受付を拒否しましたが、外務省の山座政務局長が助力して受理されました。  

 明治維新後の1877年(明治10 年)に政府は「竹島外一島(たけしまほかいっとう)本邦関係無之」と決定し、島根県庁に通達を出していた(ここでいう竹島とは現在の鬱陵島のことで、竹島外一島が現在の竹島)のですが、日本海での海戦を有利に進めるために竹島を領土に編入することが急務だと考えてのこと でした。

 この竹島編入をキッカケに、同年 (1905年)の11月に伊藤博文は、韓国皇帝の高宋(コジョン)と政府高官を脅して「第二次日韓協定」に署名させました。 拒否できないように王宮前に日本軍を配置し、武装デモンストレーションで威嚇して嫌がるのを無理に調印させたのです。外交権を奪い内政も左右し実質的に韓国を支配したのですが、これは「無法の一語に尽きる」と評されるように、伊藤と駐韓公使・林権助の筋書き通りの陰謀でした。それから5年後の1910年8月に「天皇の直轄地として日本に併合」したのですが、この年5月に日本では「大逆事件」(社会主義者を撲滅するために仕組まれた国家の権力犯罪)が起き、罪のない無政府主義の思想家・幸徳秋水らが捕らえられ、翌年1月に24名の死刑判決が下りました。なお、権力・権威におもねない個性と自由尊重の同人誌『白樺』が創刊されたのもこの年、1910年です。  

 次に地理的な話しですが、鬱陵島はかなり大きな島で面積は72平方キロメートルあり(伊豆大島より一回り小さい)、竹島までの距離は90キロメートルですから、伊豆大島からならば御蔵島までと同じです。竹島は日本側からは隠岐から170キロメートルですので、二倍近くの距離があります。この鬱陵島をめぐっては江戸幕府の『竹島(いまの鬱陵島のこと)一件』の判決で、 朝鮮領であることが確定しています。竹島(当時は松島と呼ばれた)については、鬱陵島に行く途中にある小島ということで鬱陵島の属島と認識されていたようです。  

竹島=独島問題入門
小雑誌ですが、とても内容の
  濃い本です。
安価(840円)ですので、興味
  ある方は是非購入を。

 なお、この竹島をめぐる問題の詳細に ついては、外務省発行のパンフレット 『竹島』(ネットでも見られる)と、それへの批判である『竹島=独島問題入門』 (内藤正中島根大学名誉教授著)の双方を読まれることをお勧めします。  

 近代史を知ると、竹島は、韓国側から見れば日本の韓国侵略の象徴であったために彼らにとっては死活問題であることが分かります。  

 
日清・日露_集英社版
集英社版『日本の歴史』
これは第18巻.
大変優れた本です。高価ですが、
ときどき全巻が中古で売られています.

 わたしがここで書いた歴史的経緯は、 主に集英社版の『日本の歴史』(全21巻+別巻)に依っていますが、近現代史は、歴史研究者の本を読むほどにわが国が犯 した罪の深さを実感します。
「非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそう した危険に陥りやすいのです。」
というドイツのヴァイツゼッカー大統領の言葉を皆のものとしなければ未来は拓けないと思います。  

 以上、わたしは、尖閣と竹島問題の歴史的経緯の「事実」を踏まえた 「本質論 =意味論」を記しましたが、そこから導かれる結論はシンプルなものです。
 以下は 10月3日のブログです。

 「まず、尖閣(魚釣島)については、中国側から「棚上げ」を打診してきているのですから、これを受け入れるのがベストです。40年前の国交回復時から「棚上げ」でしたが、「棚上げ」は日本にとって有利な話です。棚上げして共同事業を立ち上げれば、大きな利益が生まれます。日中の経済交流は今よりもずっとスムースに進み、日本の国民益(国益)は莫大なものとなるでしょう。  
 また、韓国が実行支配している竹島については、韓国領として承認するのがよいのです。そうすれば韓国の対日観は大きく変わります。韓国の日本歓迎は予想を超えたものとなると思います。これによる心理的・経済的効果は計りしれません。すでに韓国が実行支配している小島を韓国領として認めるだけでよいのです。 そのかわりに漁業権を認めてもらうように交渉するのです。  
 わが国が領土問題で余裕のある利他的態度を示せば、近隣諸国は日本を高評価します。それがもたらす倫理的・心理的・政治的・経済的効果は予測を超えたものとなるはずです。日本への評価は一変するでしょう。 わが日本の市民と政治家と官僚は、ぜひ、大胆な発想の転換で領土問題を乗り越えようではありませんか。危機は何よりのチャンスです。  
 男のヒステリーほど危険でおぞましい ものはありません。冷静な理性と人間性豊かな愛の心をもちましょう。上手に国際的なネットワークを築くことがどれほどの利益を生むことか。イデオロギーではなく、豊かな現実の果実を目がけたいものです。 」  

 私は、領土問題の核心は明治政府(~ 昭和)のアジア侵略への反省を通じて新 しいアジアとの交流をつくりだす点にあると考えますので、その視点から以上の文章を書きました。人生や社会問題では、「絶対的に正しい見方」は存在しませんから、 何をどう考えどう対処したら優れた友好を創造できるか、それを考えることが何よりも大切です。

2012年10月18日 武田康弘

 

 

 

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日本人であるという事実を引き受けるのは必須だが、日本人という立場で考えるというのは愚か者でしかない。

2012-10-17 | 恋知(哲学)

  わたしは、人生や社会問題を考えるとき、「日本人であることを引き受ける」ことをしてきましたが、これはよく考え・よく生きるために必要な前提だと思います。それがなければ、有意味な思考ができず、批判眼と責任意識をもった生き方はできないからです。

  けれども、「日本人という立場で考える」というのは、普遍的な「よい」の世界を拓かず、困った事態しか招きません。偏狭な見方しかできず、本質的にヒステリーでしかなく、小我の世界に陥ります。自己正当化・自国正当化(国体思想の政治家やネットウヨクら)・自校正当化(このブログに執拗に書き込む『渋谷中学高等学校』の生徒たちはその見本)をするのは、公正な批判眼・自己省察・責任意識のない人です。

  特定の立場でしか考えられないのは、狭小な自我主義者です。

  自分と自分の属性を引き受けることは何より大事ですが、自分と自分の属性の立場に縛られてしか考えることができないのは愚か者でしかありません。

武田康弘

 

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「自分で考える=哲学する」能力を身に付けるには、算数の文章題を解く練習が不可欠です。

2012-10-11 | 恋知(哲学)

いうまでもなく、哲学するというのは言葉を用いることですので、言葉の意味を掴み、言葉のもつ論理を知らなければなりません。

もちろん、言葉の使用は、言葉以前の広大なイマジネーションの世界に支えられてはじめて可能になるのであり、この原事実を忘れてはなりませんが、
言葉の意味―言葉の論理を身に付けなければ、言葉の表現性に囚われずに、文脈を正しく理解して、明晰に事象を知ることは不可能です。

では、そのような能力を身につけるにはどうしたらよいのか?

深く、正確に考えるための訓練として一番必要なのは、算数の文章題を解くことです。方程式を使う数学ではダメで、小学生の算数の文章題を解くのです。言葉の意味(表現性ではなく内容そのもの)を正確に捉えるための練習としてこれ以上に優れた方法はありません。

哲学する(=元に戻して自分の頭で考える)には、パターン化しないで(鶴亀算とか植木算とか・・・という形で解くのではなく)文章問題を解くことが必要です。この練習がおろそかだと、丸暗記で対応するという頭脳やパターンをあてはめて解くという頭脳にしかなれません。受験秀才の99パーセントはこれです。パターン当て嵌めで分かったような気になる「考えているもどき」では哀しいです。哲学書オタクにもよく見られます。

大人の方も、小学1年生の文章題の問題集をお買い求めになり、一問一問解いてみてください。正しい思考訓練になり、脳が活性化するはずです。哲学するために何よりも大事な訓練は身近な算数文章題への取り組みにあります。哲学書を読む事ではありません。

武田康弘

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わたしの敬愛するピアニスト・ペライア68枚+5枚の大全集――感激です。安すぎ!

2012-10-06 | 趣味

うーーーん、これは素晴らしい!

いま、先行予約しておいたペライアのCD68枚+DVD5枚の大全集が届き、聞きながら書いています。わたしの敬愛するペライアの全集が出るとは夢にも思っていませんでしたので、現物を手にして興奮しています。

死後というのではなく、まだ壮年期のペライアの73枚!という大全集(今までに発売された全録音)ーー2ケ月前に先行予約の案内を見た時にはビックリしました。

音を出して、ますます感激!
リマスターされているようで、元々よい録音が更によい音で鳴っています。
紙ジャケットは一枚一枚すべてオリジナルを再現、CD盤のレーベルもオリジナルデザイン。写真の通りとても心のこもったつくりのBOXセットで、メーカーの力の入れようが伝わります。

(クリックで拡大)

手持ちのCDと10枚以上はダブってしまいますが、そんなことは全然気になりません。この見事な全集は驚くほどの低価格、オンライン特価11990円です。
彼の演奏は、豊かさと気品に満ち、独創的なのにふつう。明晰で、神経質さがありません。繰り返し聴きたくなる魅力に溢れるものですが、これが丁寧につくられたBOXに収められて、見ているだけでも楽しくなります。

ピアノ音楽好きの方には貴重な宝物になります。売り切れないうちにぜひどうぞ。独奏曲だけではなく、室内楽や、協奏曲もみな含まれています。まだ見ていないDVDも楽しみです。


武田康弘

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(追記)

魅力の塊

 10月5日から1週間で15枚ほど聴きました。
ペライアはわたしが一番敬愛するピアニストですが、ますます好きになりました。

 音の美しさ、
丁寧さ、
リズム感のよさ、
推進力、
品位の高さ、
音楽の豊かさ、

至福の時間が続きます。
彼のピアノは魅力の塊です。

 少し詳しく言うと、
音の美しさと丁寧さは、心の内で感じる抒情的世界への慈しみが生む内的な美ですし、
リズム感のよさと推進力は、外からではなく心身の中から湧き上がる自然な力です。例えて言えば、エンジンの力で走るクルマのリズムや推進力ではなく、生身の人間がもつ内なる力がつくるものです。外なる価値や機械に頼るイヤらしさとは無縁です。
品位の高さと豊かさは、ペライアの人間性―善美への憧れが生む落ち着きと、深々とした真摯な心から滲み出す豊饒です。

 言葉で言えぬほど素的な全集を出してくれたペライア本人とソニーレコードに深く感謝します。レコード人生40数年で一番嬉しい贈り物です。わたしの最高の還暦祝いになりました。どうもありがとう!

 武田康弘

 

 

 

 

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