思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

義憤(公共的憤り)にあふれた東京新聞・筆洗ーー狂い咲きする「東京都教育委員会」の教師への弾圧。

2012-01-31 | 恋知(哲学)
東京都教育委員会のお役人さんと石原慎太郎さんのまえには「人権思想」は紙くず同然。彼らは、人権と民主的倫理にとっては「悪人」の象徴としか言えませんが、今朝の東京新聞・筆洗(一面の最下段で社説と同等)は、極めて的確なものですので、以下にコピーします。

千人近い生徒全員の名前と顔を覚え、校門で気さくに声を掛ける高校の校長はまずいないだろう。退職する時、卒業生全員から寄せ書きを贈られた熱血教師は、あることがきっかけで教育現場から排除されてしまう。

東京都立三鷹高校の校長だった土肥信雄さんは二〇〇六年、職員会議で教師が挙手して採決することを禁じる都教育委員会の方針に異を唱えた。二度と戦争をしないために最も重要なことだ、と生徒に語っていた「言論の自由」が奪われることへの危機感からだった。

定年を迎えた〇九年、ほぼ全員が採用される非常勤教員の試験で不合格になった。すべての項目で最低のC評価。都教委に歯向かったことへの報復であることは明らかだった。

不採用は不当」と土肥さんが都教委を訴えた訴訟の判決がきのう、東京地裁で下された。結果は敗訴。結論が先にあり、理由を後からくっつけたような説得力のない判決だった。
東京や大阪では鋳型にはめ込むように「お上」に従順で物言わぬ教師をつくることに躍起になっている。そんな流れに歯止めをかけるどころか、助長する判決を連発する司法の責任は重い。


三年前の離任式で生徒から渡された「卒業証書」にはこう書いてある。「教育委員会の弾圧にも負けず本校所定の課程を修了したことを証する」。この“宝物”を胸に土肥さんは再び闘いを始める。



以前、わたしは、土肥さんの著作への批評をアマゾンに書きましたが、それは、以下です。

最も参考になったカスタマーレビュー

18 人中、17人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0 東京都教育委員会の「狂気」の実態に唖然, 2011/2/21

By 武田康弘 "タケセン" (千葉県我孫子市) - レビュー対象商品: それは、密告からはじまった―校長vs東京都教育委員会 (単行本)

澤宮 優さんの書かれた『生徒がくれた“卒業証書” ~ 元都立三鷹高校校長 土肥信雄のたたかい』に続き、今度は、土肥校長自身が書かれた『それは、密告からはじまった』を読みました。

こよなく生徒を愛し、優れて民主的な学校運営を続けた土肥信雄さん。ほとんどすべての生徒と保護者から愛され、支持されてきた稀に見る校長先生を、東京都教育委員会と石原知事が任命した将棋棋士の米長教育委員は目の敵にし、権力をもって弾圧・陰湿なイジメを行ってきましたが、その実態が本書では、事実をもって淡々と語られています。ただし、土肥さんの心は熱く、叙述はユーモアに富んで楽しいですが。

これを読むと、東京都教育委員会の「狂気」という他にない言動の意味が分かります。戦前と同じく、特定のイデオロギーにつく行政=政治がもつオゾマシサ・危険性が戦慄と共に明白になります。現場・当事者の意思を無視し、上位者のもつ特定の思想を強権によって実現しようとする事がどれほどの「悪」であることか。彼らの所業は、近代市民社会の常識を大きく逸脱し、根源悪と呼ぶほかありません。

本書を読み、一連の出来事の「事実」を知ってなお、東京都教育委員会に理があると思う人は、おそらく唯の一人もいないでしょう。議論すること自体を認めない!!という教育とは、酷い管理でしかありませんが、管理と教育が二律背反であることさえ知らない人が教育行政に関わるとは、ただ絶句あるのみです。管理とは機材や設備、あるいは品質について言われることであり、人間を管理するというのでは、悪未来のSF小説でしかありませんし、歴史的には、ヒトラーのナチズムや戦前の天皇制下の軍国主義における人間抑圧そのものです。

いま、土肥さんは、東京都教育委員会を相手に裁判をしていますが、この裁判で万一土肥さんが「敗訴」するなら、わが日本の民主主義は完全にオシマイでしょう。繰り返しますが、本書を読まれてなお、土肥さんに非があると思う方は、一人もおられないと思います。ぜひ、ご一読を。

「教育現場で私は生徒に「自分の思ったことははっきり言いなさい」と指導してきました。ほとんどの学校の教育目標に「自主性、主体性」という言葉が出てきます。私は、それを生徒に教えた責任からも、自分の思ったことは言わずに、不当な権力にへつらうことは出来ません。・・・今回提訴した一番の理由は「生徒のために」です。私の教えた生徒たちが自分の思ったことを自由に発言できる社会にしたいからこそ提訴したのです」(土肥信雄・本書106~7ページ)

みなさん、この問題に限らずですが、私が、自分が、できることをしてみませんか。評論家のような生き方はよい人生ではありません。小さな勇気ある行動・よき行為によってのみ、人間の生は、意味をもち、価値づく、わたしは、そう思っています。

武田康弘

ーーーーーーーーーーーーーー

いまの社会は、正義は消え、既得権益者が他者を差別・抑圧することが当然という状況が続きます。批判者は排除する、体制に従う者以外の権利は認めない、というがごとき状況です。わたしは、昨日マイミクになったリーフさんへのコメントに以下のように記しました。

タケセン2012年01月31日 12:03

これから、外的世界は、ますます混乱し、混沌が続き、世界には諸問題が横溢するでしょう。これは、避けられないことだと思います。
こういう状況だからこそ、何より求められるのは、内発的に、内からの充実した生を「私」が貫くことです。
戦前の天皇現人神の時代においても、少しもひるむことなく、堂々と論を張り、公共社会を拓く努力を続け、「私」という座標軸を不動のものとして生き続けたのが戦後第55代総理となった石橋湛山でしたが、彼は、どのような状況にも正面から立ち向かい、人権と民主主義の原理を徹底して貫きました。
民主制とは社会思想である前に「民主的倫理」であることを明晰に自覚した人は、困難な外的環境にもひるむことがありません。「内から」という生の基本を踏まえているので、豊かさと落ち着きをもつのですね。
共に不退転で楽しく生きていきましょう。



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青空、雲、星空・・・日々、遠くを見る習慣は、何より大切な生の基本。

2012-01-29 | 恋知(哲学)

わたしは、幼いころより今日まで、毎日空を見てきました。
青空と雲はとくに好きです。

小学高学年から天文少年だったこともあり、夜、晴れた日の星空を見ない日はありません。もうじき半世紀になります(笑)。

歩いてもいつも空を見ています。

これは、意識することなく数十年間続けてきたことですが、
最近、この習慣は、人間が生きる上で何より大切な営みではないのか、と思うようになりました。


さまざまな物事・事象を見る時、わたしは、これまでの常識や権威者の言に囚われることが少ないのですが、それは、いつも空(遠く・無定形)を見る習慣がもたらしているのではないか、と思うのです。

いま・現実・眼の前、のことから距離が取れず、ベッタリくっついていると、現実は「図」として浮かび上がらず、現実の中に埋没するだけです。そうなると、目先しか見えない現実主義者=即物主義者に陥ります。現代の受験主義の勉学は、そのような近視眼的な人ばかりを生んでいます。豊かな教養や人間味のない「競争主義」の貧しい人をつくりだすのです。

「いまを知るためには、歴史を知ればよい」のはありません。歴史オタクと言われる人たちや書物に頼る博識の人を見ると、「過去」に縛られ、イマジネーションに乏しいのです。空=遠く・無定形なものを見る習慣をもたないと、過去も書物も知識も「図」として浮かび上がらず、ベタっとした平板な意識しか生まないようです。遠くを見る習慣がないと、せっかく努力して知識を得ても、それが現実をよく見るために役立つことがなく、逆に、現実に縛られる心身を生むだけではないか、わたしはさまざまな経験から、そう確信するようになりました。

さらに言えば、この空(遠く・無定形)を見る習慣は、宇宙の時間という想い・感覚と一つになって、一神教(キリスト教、イスラム教、明治政府作成の天皇教、国家主義のイデオロギー)や超越項を置く哲学(宗教化した哲学)を不用にするもの、とわたしは思うのですが、その話しはまた改めて。


武田康弘
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優れたメッセージ性をもつ『カーネーション』(NHK)

2012-01-28 | 社会批評

わたしは、NHKの連続テレビ小説『カーネーション』を楽しみに見ています。

主人公の糸子は、
ものの見方が明確でブレることなく自分の思いと考えを貫きますが、
同時に、
実際問題から逃げず、現実をしっかり引き受ける粘り強さを持ちます。

情に厚く、豊かな人間味をもち、筋を通すので、見ていてとても気持ちがよいのです。自分にまっすぐで率直な糸子の言動は、感動的です。

こういう優れたメッセージ性をもつドラマが多く必要だと思います。優れた生き方の見本がないと、よい社会にはなりません。


武田康弘
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為替取引に1%の課税で、財政問題は根本的に解決する。「トービン税」

2012-01-24 | 社会思想

現在の為替取引は、ほとんどすべて(99パーセント)がマネーゲーム=賭博なのですから、売買に税金をかけるのは当然のはずですが、なぜか無税です。
実行すれば、わずかな税率でも莫大な税収となり、消費税の必要はありません。

以下は、経済学博士で企業経営者のビル・トッテンさんの著作『アングロサクソン資本主義の正体』からです。

「私は、トービン税のように(1981年にノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・トービンの提案)、日本円の売買に1%課税することを提案する。つまり円の売り手に0.5%、買い手に0.5パ-セント税金を課すのである。・・・これにより日本を危うくするほどの円の売買は防げるものと考える。
 もし、それでも円の通過売買が極端に減らないとしても、日本政府は、年間132兆円税収を得られることになる。これだけで現在の地方税と国税をあわせた税収100兆円を大きく上回る税収となる。」(第5章・P.152)

わずか1%(売買に0.5パーセントづつ)の課税で円への投機を防ぐ可能性をもち、それが防げなかったとしても、国家予算を大きく上回る税収が得られる。
「トービン税」を導入すべきです。

武田康弘
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「弱者は切り捨て」で、どういう日本にするのですか?経済同友会・長谷川代表に公開質問状です。

2012-01-23 | 社会批評

あなたは、なんのために会社の経営しているのでしょうか?
少しでも多くお金を自分のもの、自分たち一族のものにするためですか?

お昼のNHKニュースで、「社会保障の費用を切り詰めろ」という経済同友会・長谷川代表の話しが流れましたが、「弱者切り捨て」でどういう日本をつくろうと考えておられるのか、お聞きしたいと思います。

――――――

近代民主主義国家は一般福祉のために存在しているのであり、
弱肉強食でよい、
弱者は切り捨て、
格差はOK、
というのならば、国家が存在する理由は元から消えます。

わたしは、経済界の代表は孫正義さんやビル・トッテンさんのような優れた民主的思想をもつ経営者がなるべきだ、と思っています。


武田康弘
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「理論の哲学」から「体験の哲学」へー市民の知を鍛えるために。

2012-01-22 | 恋知(哲学)

『白樺教育館』のホームページ
137 市民の知を鍛える-竹内哲学と柳思想を越えて ーー「理論の哲学」から「体験の哲学へ」をアップしましたので、ぜひご覧ください。ご意見、ご感想をお待ちしています。

武田康弘

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堺屋太一さん、橋下市長をたしなめて下さいー狂気の「君が代条例」

2012-01-19 | 社会批評

「君が代」は明治天皇に捧げられた歌で、天皇賛歌ですので、天皇家の人々は歌いません。また、現天皇の明仁さんは、東京都教育委員(当時)の将棋指し米長邦雄さんに対して、「強制にならないように」と釘を刺しました。

明治天皇賛歌は、そのまま天皇家の歌にしておけばよいものを、1999年に法律で国歌としてしまったために、日本国民の不幸の種になりました。「桜」か「故郷」を国歌にしておけば、このような不幸は起こらなかったのです。

それは、さておき、15年戦争のシンボルにまでなってしまった「君が代」(これは天皇家にとっても迷惑)に拒絶反応をもつ教職員の思想・信条を「条例」で縛るという愚行(「憲法」および「世界人権宣言」に反する行為)を防ぐために、良識人の一代表である堺屋太一さんにはぜひ頑張ってもらいたいと思います。大阪改革のための委員を引き受けられたのですから、よろしくお願いします。

わたしが橋下さんの教育思想を真正面から批判すると彼は頑なになるでしょうから、近くにいる堺屋太一さんが意見するのが最善だと思います。


武田康弘
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橋下君、引っこみなさい(怒)こどもと女性が中心で決めるのですー国家主義にはレッドカード!

2012-01-18 | 社会批評

昨日、ブログを出しましたが、最高裁の判決を無視し、挑発発言を繰り返す橋下市長と府知事の発言ー「教育の政治管理」をテレビで見、わたしは激しい公共的憤りを覚えました。

教育の具体は、こどもたちを中心にし、教師と保護者のサポートで決める、という民主主義の大原則を否定し(大胆なまでに文部省の権限を現場に移譲したところにフィンランド教育改革の大成功がある)、
議会で政治権力により特定の方向性を与える(従わない教師はクビにするという強権の正当化)というのは、
ドイツのヒトラーの思想・政策、日本の治安維持法による戦前の思想・政策とまったく同一であり、ハレンチ極まりない言動です。

わたしは、橋下市長と討論したいと思います。わたしとの討論ということになれば、橋下市長は逃げるかもしれませんが。


武田康弘
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橋下&石原氏 人権否定の政治家は、民主制国家の敵であり、国を滅ぼします。

2012-01-17 | 社会思想

政治権力により「基本的人権」を制限できるとする橋下市長と石原都知事。彼らの政治権力による個人の自由の抑圧は、戦前の天皇制による日本やナチスドイツの政治体制を支えた思想と同じで、その時代の多数派(政治権力者)が、個々人の思想の自由とその表明を縛ることができるとします。

このような思想は、【人権思想】を根源ルールとする近代民主主義国家においては認められていません。【互いの自由を承認し合う】ことを認めない思想は、民主主義社会では禁止されています。それが【根源ルール】(通常のルールが成立するための大元のルール)なのです。もし、その根源ルールに従うことがいやならば、この社会・国家で活動することはできません。

以下のブログ(エリノア・ルーズベルトの言葉―偕成社・伝記『世界を変えた人々』第18巻)でもご紹介した【世界人権宣言】(1948年に国連で採択)の19条は、以下の通りです。

「すべて人は、意見および表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由ならびにあらゆる手段により、また、国境を超えると否とにかかわりなく、情報および思想を求め、受け、および伝える自由を含む」

また【日本国憲法】の同じく19条は、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と一言で明瞭です。

個々人の思想の自由、とりわけ、政治体制への批判や反対の自由が保障されなければ、社会の発展は望めず、国は活力を失って滅ぶのです。戦前の日本やヒトラーのドイツが、一時的には驚くほどの発展をしても、結局は壊滅するほかなかった歴史を見れば一目です。

強権により人権を抑える思想は【根源悪】でしかありません。個人の思想の自由こそは、民主主義国家の屋台骨なのです。政治家になる人は、近代民主主義の哲学的基盤について深く明晰な認識をもたなければなりません。心して下さい。


武田康弘
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エリノア・ルーズベルトの言葉 (偕成社・伝記『世界を変えた人々』第18巻)

2012-01-14 | 社会思想

偕成社の伝記「世界を変えた人々」全20巻(小中学生向け)は、すばらしいシリーズで、『白樺教育館』では全巻を揃えていますが、その中の第18巻が、いまなおアメリカで最も尊敬されている女性の『エリノア・ルーズベルト』です。

彼女は、個人的な不幸や苦難を乗り越え、人権と民主主義を実現するためにタフに考え・行動した人道主義者・平和主義者であり、後にきわめて優れた大統領となるフランクリン・ルーズベルト夫人です。

黒人や貧しい人々、虐げられた人々を支援し、ふつうの人々の中にはいり、ふつうのことばで語り、民主的倫理に生きた人ですが、普遍的な人権思想を貫き、驚くほどの忍耐強さにより、国連の【世界人権宣言】(1948年)を起草しました。エリノアがいなければ、思想、信条、民族、体制、発展格差のある国際社会に共通する【人権宣言】をつくることはできなかった、と言われます。ちなみに、彼女は女学校卒で大学教育は受けていません。

子供たちにはもちろんですが、大人のみなさん、とくに政治家や官僚のみなさんには必読本だと思います。これを読んで感動し涙しない人はいないでしょう。全編が「啓示」に溢れています。

その中から、彼女の言葉=思想をご紹介します。

「普遍的な人権とは、どこからはじまるのでしょう。じつは、家の周囲など、小さな場所からなのです。あまりにも身近すぎて、世界地図などにはのっていません。ご近所、かよっている学校、働いている工場や農場、会社などの個人個人の世界こそ、はじまりの場なのです。
そんな場所で、男性、女性、子どもが、差別なく、おなじように、正義、機会の均等、尊厳を求めるべきなのです。これらの権利が、そこで無意味なら、どこにいっても無意味です。住んでいる場所の近くで、この権利を求める市民行動がなければ、さらに大きな世界での改善を求めてもむだでしょう。」(1958年)

「女性というものは、さまざまな障害をはねのけて、1センチずつ前進するものなのです。」(友人への語り)



武田康弘
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「感じ、想い、考える」 (受動性の哲学は哲学ではありません)

2012-01-10 | 恋知(哲学)

わたしは、毎度毎度、自分が「感じ、想い、考える」ことの必要を強調してきました。これは、よく受動性を働かせることで、イキイキとした能動性を生むための必須の営みだからです。

「感じる」
痛い、気持ちいい、楽しい、嬉しい、悲しい、辛い、・・・・・「感じる」というのは、受動です。わたしが意識的に生み出すという能動ではありませんから、感じる、というのは、ほんらい「感じられる」ということです。

「想う」
想うというのも「想われる」という受動のようですが、自覚的に「想う」こと、想像力を働かせようと意識的に取り組むこともありますから、受動、能動の両面があると言えます。

「考える」
けれども、「考える」は、多くの場合、自覚的に取り組む作業です。
「悩む」というのは「悩もう」と意識的に悩むのではありませんから受動ですが、「考える」というのは、意識的・自覚的な作業ですから、能動性の世界です。

考える、というのは、向こうからやってくる、という受動性の世界ではなく、自ら生み出そうとする能動性の世界です。そして、この能動性こそが、人間が個性をもって自分らしく生きることを可能にします。

現代(1970代後半以降)は、戦前のハイデガーに始まる受動性の哲学が支配的となっていますが、それは人間性の開花や進展とは逆で、人間性の縮小・退歩をもたらす活字主義哲学でしかありません。しかし、現代哲学(理論や書物としての哲学)は、この路線にハマり、受動性の哲学という哲学ならぬ理論趣味に陥っているのが現実です。哲学とは書物の読解をすることではない、という原事実にもういい加減に気づいたらどうか、とわたしはいつも思っていますが、泥沼にハマったままですね(笑・困・愚・鈍)。

学者たち、物書きたちのこの鈍さにはほとほと呆れます。笑うしかありませんが、悲しく愚かな現実です。


武田康弘
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行儀の「よい」ことは、「悪い」ことです。

2012-01-08 | 恋知(哲学)

身体を動かさずにきちんと立ち、また座っていることを「行儀がよい」と言うのならば、
それは、身体にも頭脳活動にも悪いことです。

身体はたえず動かしていないと、血流が悪くなり、凝り固まります。あたりまえのことです。
頭の活動も、血液が酸素を運ばないとできませんから、肩や首が凝れば、劣ります。

封建時代や全体主義の国家では、人々が個人としての自由な発想をもち、行為するのを嫌ったために、「型ハメ=行儀よく」を求めたわけです。それは生命としての人間の自然さを奪うものでした。

この「行儀よく」は、現代においてもアチコチで生き残っていますが、「愚か」としか言えません。非人間的で反自然的な考え方に囚われているのは、上位の立場の人に多いようですが、彼らは、自らが不合理で人間抑圧的な観念に縛られていることに気づかないのです。

身体はたえず動かしましょう~~ 座ったままもダメ。どこにいても、その場で工夫してストレッチ。動き回ることが大切です。従来のつまらない常識・道徳に縛られるのは愚か者でしかありません。行儀のよいことは、悪いことなのですから。


武田康弘
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政治家による教育支配ほど危険で不幸なことはないー石原都知事のおぞましい想念。

2012-01-06 | 社会思想

かつて、
「僕は、岩陰に隠れて水中銃で回遊魚を打つのが好きなんだ。第一次世界大戦で復翼機(戦闘機)が敵に撃たれてキリモミしながら落ちて行くのを見るようで【快感】だ!」(月刊マリンダイビング誌)
と語っていた石原慎太郎氏は、

根っからの男権主義者―父権主義者ですが、彼のような政治権力者は、教育を政治で支配することを「よし」とし、自分のもつ思想を、教育を通してこどもたちに押し付けることに【快感】を感じるようです。その意味では北朝鮮の指導者たちとの共通性をもちます。

このような想念に囚われている政治家は、人々の不満・不全感を利用して、自分が抱くヒステリックで強圧的な観念を現実化しようとする情熱をもちます。民主的倫理を踏まえない政治権力者たちに共通する危険な言動ですが、こういう人間たちが国を未曾有の災いに陥れたことは近代史が証明するところです。

いわゆる国家主義者(政財官のエリートが支配する国家をよしとする思想)は、大多数の国民に厄災をもたらすのですが、それを独特の思想=レトリックにより正当化します。石原慎太郎氏のような文学者が得意とする分野です。主権者である一人ひとりの国民をうまく騙す言説で、民主制社会の根源ルール(=人間の対等性と個々人の自由に基づく人権思想)を乗り越えてしまいます。これほど危険でオゾマシイことはないのですが、人々がなかなかそのことに気づきません。ヒトラーも世界で最も民主的だった『ワイマール憲法』の下で、正当な選挙で選ばれた政治家であったことを忘れてはなりません。

民主主義とは、人間存在の対等性を不動の原理とし、個々人の思想・信条の自由を政治権力で抑えることを禁止するという【根源ルール】をもちます。したがって、それに反する思想の自由(例えば、多数の支持があれば、個人の人権を奪うことができるというような考え方)を認めないのです。この原理の上に成立しているのが民主主義国家ですので、これに反する思想をもつ政治家の活動はほんらい許されないのです。

「教育を破壊的に変えないといけない」と述べ、それを新党参加の条件にするという昨日(1月5日)の石原慎太郎氏の言動・思想は、民主制社会では到底認められない発言です。教育をどのようにするか、は、当事者である子供とその保護者(とりわけ母親)と現場で苦労する教職員、地域住民の粘り強い話し合いと試行錯誤により進めるのが、民主制社会の唯一の方法です。それを徹底したところにフィンランドの教育改革の目覚ましい成功があったのです。

政党・政治権力により、教育の内容を決定できるという想念は、本質的に民主主義を破壊する思想でしかありません。関係者の猛省を促します。こういうことも知らない・弁えない政治家は、深く愚かです。


武田康弘
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「オウム」と「天皇現人神」との共通性

2012-01-01 | 恋知(哲学)


年明けの今日、元旦に、
「オウム真理教元幹部平田信容疑者(46)が16年以上にわたる逃亡の末、警視庁丸の内署に出頭して逮捕された」
というニュースが流れました。

そこで、『オウム真理教』の事件をわたしたち日本人の問題として真摯に受け止め、哲学的に普遍化して書いて見ます。


生きている人間を「神」とするイデオロギーは恐ろしい結果を招来します。
生身の人間を「絶対者」とする宗教は、悪=残酷を正当化し、それに反する者の排除を当然とする想念を生みます。

ナチスドイツによるユダヤ人の大量殺戮をはるかに上回る、中国人を中心としたアジア人の殺戮(はたまた沖縄では自国人までも殺害)を可能としたのが、「天皇陛下のため=国のため」という思想であったことは、誰もが知る歴史的事実です。本も多く出ていますが、NHKなどのTVで戦争体験者が語る生の声は、戦前の日本でいかに徹底した思想教育=天皇陛下万歳!が行われていたかを明らかにしています。道徳とは、天皇=生きた「神」を敬うことを中心とした「上下倫理」であり、それに反する思想は、赤=非国民=国賊=売国奴だというイデオロギーが支配していたわが日本。その中で石橋湛山のように非戦・反戦の主張を貫いた反骨の言論人が存在したことは奇跡的・感動的ですが、彼のようないくつかの例外を除き、大多数の日本人は、軍隊を皇軍(天皇の軍隊)と呼び、天皇という神がいる日本は神国であるという靖国思想(『靖国神社』が今日に至るも流布している思想=天皇教)に支配されていたわけです。

人類史的には古代専制国家時代の宗教思想であった「生きている人間を神として崇める」という遅れた思想がわが国では近代(明治時代)になって現れ、天皇神格化が起きたわけですが、それにより有無を言わせぬ急速な近代化=欧米化に成功したのは周知の事実です。このような禁じ手(天皇現人神という思想教育)により進められた近代化=欧米化は、日本人の考え方・生き方に大きな負債を残してしまいました。意味論なき事実学、何のためにを問わない根性主義、生きる意味を考えない受験主義の勉学、金・物・地位・肩書に囚われる生、外なる価値に支配され、内的世界の希薄な人生。テレビで毎日そうした価値意識を宣伝(洗脳)する現実。

明治政府がつくった「天皇教=靖国思想」が戦後の民主化で崩壊した後、「一人の人間としていかに生きるか」という哲学的思考のないわが国は、精神空白となりました。思想なき知、惰性のみで動く日々という不毛な精神風土が生まれたのです。生きるとは、外なる価値を追うことであり、「存在の魅力」ではなく「知歴財の所有」が価値であるという見方が支配的となりました。これでは人間としての幸福は不可能です。わたしの言う昆虫社会です。

そこに登場したのが、オウム真理教です。バブル期の狂乱の中で、生の意味と価値の空白を感じる若者は、日本が奇跡の欧米化を成し遂げた「禁じ手」(生きている人間の神格化)と同じ構造をもつ新宗教に救いを求めたのです。

生きる意味を考える習慣を持たない人、
子ども時代から順を踏んで実存的思考と公共的思考を育むことに無関心な教育、
こういう精神風土の中では、自ら生の意味と価値を見出すことができませんので、困った時には誰かに「答え」を出したもらうほかなくなります。安心できる権威者を見つけそれに依拠するほかなくなります。自分の心身を座標軸とすることに失敗しているので、権威者に従うほかないのです。

受験勉強の最優秀者がオウムに多数入信していた事実は、上記のような意味での精神空白を如実に示していますが、この問題は多くの日本人にとって「他人事」ではないはずです。生きている人間を神とするイデオロギー(オウム教や明治の天皇主義)も、「システムがあって個人がいない」(戦前から続く今の日本の現実、その象徴が現代の天皇制)という不毛も、ともに克服しなければならない事態です。

オウム関係者を死刑にしてもその問題は解決しません。
われわれ一人ひとりが自由と責任をもつ個人として生きる、悦びを広げつつ、豊かな人間味をもって生きる。私の人生は私が創造する。そのためには、自らを座標軸とする生=恋知としての哲学する生が必要だ、それがわたしの考えです。

2012年の年明けにあたり再確認のブログとなりましたが、読者のみなさまが充実した一年を過ごされることを希念したします。今年もぜひ共に!


1月1日  武田康弘
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2012年 迎春

2012-01-01 | その他
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