思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

恋を愛と誤訳するのは、大学内哲学の悪習。

2011-06-28 | 恋知(哲学)

恋、恋愛の神である「エロース」(ギリシャ語です。英語ではキューピット)は、ソクラテスの高弟・プラトンによる学園「アカデメイア」(紀元前の私塾のような教育機関で、後に現れたキリスト教会による弾圧で潰されるまで900年以上続いた)の主祭神です。

なぜ、恋愛の神である「エロース」が、哲学の神なのか?

恋愛とは、現実的な損得・利害を超えて「よい」人や「美しい」人を憧れ想う心で、「俗なる正気」ではなく「聖なる狂気」の世界だからです。
現実的な損得を超えて、何が「ほんとう」なのか、を求める心が人間にはありますが、その心がなければ、人間の生は意味づかず、輝けません。「憧れ想う」という恋の作用こそ、善美のイデアを希求する哲学の象徴ですので、主祭神はエロース(キューピット)なのです。

しかし、明治時代初期から、ドイツのカントにはじまる大学内専門哲学を直輸入した日本(東京帝国大学)では、哲学をアカデミックな世界として怪しまない歪んだ想念に支配されましたので、恋・恋愛と哲学が結びつかず、堅苦しく権威的なもの(東大やハーバード大の教授がする??)になったのです。

生活(生活・仕事・趣味・人との交わり)の中で、感じ、想う、ところから考える(元から考え直す)という哲学の営みは、哲学史の知識、及び哲学書の読解という狭い世界に閉じ込められて、命を失いまいした。

哲学(正しくは、恋知)を蘇生させるには、卑怯者さん(コメント欄)が言うように「恋」を「愛」と誤訳する騙しを見破り、ふつうの生活者の生活実感からの思考と対話が必要です。具体的経験(生活・仕事・趣味・人との交わり)に基づいて、元から考える営みは、とってもエロース(艶・悦)豊かです。


武田康弘
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コメントについてー「公共的常識」を踏まえることが必要です。

2011-06-28 | 恋知(哲学)


わたしのブログの趣旨・文脈・内容に即しての質問や反論ならば、わたしは、きちんとお応えしますが、
気分の表出や、
感情的なウップンを晴らし、
一方的な物言い、
よい人生や社会を生み出そうとする能動的構えのないものは、
「民主的倫理」に反するコメントと判断し、削除します。

わたしの書いたものから、よいものを汲み出そうという積極的・前向きな姿勢をもてない方は、コメントを書くことをおやめ下さい。

「互いの自由を尊重し合うことでつくられるルール社会」が民主主義国家の原理です。他者のブログに対して批判的な意見を書く場合は、自分の思考枠を堅持して相手に言葉を投げつけるのではなく、相手の文脈をよく理解した上で書こうとする姿勢を持つことが必要です。また、言い方も丁寧でなければいけません。

以上は、【公共的常識】に属することですが、社会人としての常識を持たないのは、私の経験したところでは、教師、とりわけ有名大学の教授など、また官僚や、ステータスと見られる職業の人に多いようです。彼らは、自分が上位者だと思い込んでいるために、「ああ、勘違い」の言説に終始するのでしょう。

みなさん
親鸞のような「ご同胞ご同行」の精神で生きたいものですね。わたしは、「民知」の営みを続けますので、今後ともよろしくご支援をお願いします。


武田康弘
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「理想を追う」という姿勢が、人間を不幸にし、社会をダメにします。

2011-06-23 | 恋知(哲学)

自分がよいと思う「理想」を追いかける心は、人間を歪め、不幸にします。

あるべき自分、あるべき人間、あるべき社会、という発想は、存在不安を引き起こし、精神疾患の原因になります。

理想を掲げる者は、強迫神経症者なのです。そのような人は、決して、充足・悦び・幸福を得られませんし、周囲の人間も不幸にします。また、そのような人間が上位に立てば、社会はダメになります。

身体的であれ心的であれ、また思想であれ、「理想」をもつほど危険なことはありません。

その反対に、「憧れ想う」ことは、とても大切です。「よい、美しい」のイメージを広げること、日々の生活の中で、何がほんとうに「よいこと・美しいこと」だろうか、を思い、考えることは、人がよく生きる上で、なにより大切ですが、それは、特定の「理想」を掲げるのとは逆です。

理想をもつことは、特定の主義や宗教に縛られことと同じで、イデオロギーを先立たせる生き方ですが、それは、心身を硬直させ、しなやかさ・柔らかさを奪ってしまいます。「論理主義」やその裏返しの「感情支配」を招来します。この両者は一つメダルの表裏でしかないのです。

自由闊達で豊かな心、創意工夫、臨機応変、当意即妙は、「理想を追う」という姿勢から自由でないと生まれません。

いまある私、人、物、そして自然を受けいれ、愛する心。自分が生かされていることへの感射の気持ち=他力のこころ、がなければ、いつまでも、どこまでも不幸です。心のどこかに「理想」を抱え持つ限り、「自力」の考え方から抜けられず、強迫神経症者として生きる他なくなります。根源的不幸の中に沈んでしまいます。

憧れ想う心=イメージを広げることと、理想をもつことは、正反対なのです。


武田康弘


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体験で知る (中野牧人)

僕の始めた農業は理想とはほど遠く、夢を見つつも現実的な妥協の連続です。その妥協はきっとその時のベストなんだと思うようにしています。
理想的な完璧な結果ばかり求めると、手は止まり、否定的なアイディアばかりになりますから。

学生を卒業して、初めてそれを体感しています。

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開かれた私=大我 (武田康弘)

「理想的な完璧な結果ばかり求めると、手は止まり、否定的なアイディアばかりになりますから。
学生を卒業して、初めてそれを体感しています。」 (中野牧人)

「体験」は、一切の根源だものね。
「理想」を追う姿勢は、「自我主義」(自己の思想や感情の絶対化=小我)によるのだが、
「憧れ・想う」は、「開かれた私」(大我)による。

「理想主義」で固まった「自我」ではなく、
豊かに広がる囚われのない「私」は、
楽しく素敵だ。
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放射線ー我孫子市の実測結果を白樺教育館ホームで公表ー測定者・西山裕天

2011-06-21 | その他

白樺教育館・大学クラスの西山裕天さん(中学1年生からのわたしの教え子)が、先月我孫子市の放射線量を調べましたが、その結果を「白樺教育館」のホームページにアップしました。
予想よりも高い値でした。ご覧ください。

測定機器は、
HORIBA社製 環境放射線モニタPA-1000 Radi
検出方式:シンチレーション式
測定放射線:γ線
感度:0.01μSv/hに対して毎分10カウント以上
相対指示誤差:±10%以内
変動係数:0.1以下
エネルギー範囲:150keV以上
エネルギー特性:0.5~3(150keV~1.25MeV)137Cs(662keV)に対する感度を1とした場合の相対感度)
有効測定範囲及び表示:0.001~9.999μSv/h
サンプリング時間:60秒
表示間隔:60秒の積算値(移動平均)を10秒毎に表示



武田康弘
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「布川事件・検察の大罪をぶった斬る!」 三井環

2011-06-15 | メール・往復書簡

以下は、三井環さんからのメールです。
(三井環さんは、元大阪高等検察庁の公安部長で、検察庁の組織的裏金づくりを内部告発して逮捕され、有罪、服役された方です。)



三井環です。

布川事件について下記対談を実施いたします。多数の方の
参加をお待ちしています。


「布川事件・検察の大罪をぶった斬る!」

再審無罪確定の杉山卓男と元大阪高検公安部長の三井環が対談
●なぜ虚偽自白調書が作成されたのか!
●なぜ目撃証人が抹殺されたのか!
●検察の証拠隠しとは!
●えん罪を防ぐにはどうすべきか!
●徹底激論!

日時  7月12日午後7時~9時
場所  たんぽぽ舎
東京都千代田区三崎町2-6-2ダイナミックビル4F
   (JR水道橋駅から徒歩5分)
    TEL 03-3238-9035
入場料 1000円 先着100名
主催者「市民連帯の会」代表 三井環
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「学校に言論の自由を!」裁判ー7月7日ぜひ傍聴を!土肥信雄

2011-06-14 | メール・往復書簡
以下は、土肥信雄さん(元三鷹高校校長)からのメールです。


いよいよ私の裁判も大詰めとなりました。
7月7日(木)七夕の日の最終口頭弁論のお知らせです。
私が意見陳述をしてをする予定です。この日に判決日が決定します。
ぜひ傍聴においで下さい。

知り合いの方にも転送宜しくお願いします。

携帯の場合もあるので添付したチラシの内容は下記の通りです。

「学校に言論の自由を!」裁判!

第12回最終口頭弁論は 、7月7日 七夕の日です!!

今回で結審、判決日が決定します。是非裁判の傍聴に駆けつけて下さい

今回は約2年間の裁判を通して、東京都教育委員会の非常識に対する怒りの思いを、本人(土肥)が陳述します。

日時●7月7日(木)午前10時~

★傍聴席の定員は42名です。開始時間間際ですと入れません。できれば、30分前位には、お越しください。



場所●東京地方裁判所522号法廷

(前回の527法廷から522法廷に変わりました。お間違えの無いようにして下さい。)

★裁判終了後、弁護士会館 5階 

「508ABC」で報告会を行います。ぜひそちらにもご参加ください。



連絡先●090-5642-6304(高本)090-2780-7728(平山)


土肥 信雄
土肥元校長の裁判を支援する会
http://www.dohi-shien.com/html/

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哲学書の読解が哲学なのか?-哲学するのは、現実に生きている「私」のはず。

2011-06-14 | 恋知(哲学)

言語ゲームとしての哲学、
論理パズルを解く哲学、
大学人や批評家の哲学、
哲学書愛読者の哲学、

そのような哲学なら、好きな人が、同好会をつくってやればよいのです。
または、商売哲学(大学人という職業)としてやればよいのです。

わたしの生きることを支える掛け替えのない営みとしての哲学は、そういうものではありません。

日々の生活の中で、感じ、思う(想う)ところから考えること。言いかえれば、
感受とイメージと思考の有機的な結合が、わたしの哲学です。書物中心の哲学ではなく、生活・仕事・趣味・人との交わり=「生きた現実のわたし」から出発する哲学が、わたしが長年実践し続けてきた哲学です。

自らの生活(生活・仕事・趣味・人との交わり)の中で、
元に戻して考えてみる習慣を持ち(原理的思考)、部分ではなく全体を見ようとする視線で(全体合理性の追求)、意味を探り(意味=本質論)、自問自答と対話により、何がほんとうかを追求する。

認識論の原理を踏まえて(独善や客観主義に陥らずに)日々の生活の中で、上記を実践する。それがわたしの哲学=哲学する、です。わたしは、それを恋知としての哲学という意味で「民知」と命名しています。


武田康弘
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明日の「脱原発シンポジューム&デモ」にご参加を!三井環

2011-06-10 | メール・往復書簡
以下は、市民連帯mlです。
(代表の三井環さんは、元大阪高等検察庁の公安部長で、検察庁の組織的裏金づくりを内部告発して逮捕され、有罪、服役された方です)


三井環です

明日、全国で100団体以上による脱原発デモが行われます。東京では
森ゆうこ氏らを迎え「6.11脱原発100万人アクション」の下記シンポジュ
ームとデモが開催されます。梅雨のため天候が心配ですが、原発を心配
される皆さまには是非ご参加頂きます様お願いいたします。

<なお当日会場ではカンパを是非、お願いいたします!>

1)シンポジューム(主催:「市民連帯の会」代表 三井環)
◎日時:6月11日(土)午前10時20分~午前11時30分
◎場所:四谷区民センター (地下鉄丸ノ内線「新宿御苑前」駅徒歩5分)
    東京都新宿内藤町87番地/℡03-3351-3314
◎出席者:・司会進行 三井環(市民連帯の会代表)
     ・ゲストスピーカー 森ゆうこ(参議院議員、民主党)
     ・   同      三上治(ジャーナリスト)
     ・   同      原田裕史(原発評論家、たんぽぽ舎講師)
     ・   同      藤島利久(市民連帯の会、四国地区代表)
     ・佐藤栄佐久(元福島県知事、メッセージ映写)

2)デモ行進(主催:原水爆禁止日本国民会議)
◎日時:6月11日(土)集合13時 集会13時30分 デモ出発14時30分
◎場所:東京・芝公園23号地(東京タワー下・地下鉄三田線「御成門駅」5分)
◎デモコース(予定):芝公園→新橋→東電本社前→日比谷公園(流れ解散)
※雨天決行
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「君が代」は、国歌として不適切なので、「桜」に変更しましょう。

2011-06-07 | 社会思想


明治天皇に捧げられた「君が代」は、国歌としてふさわしくありません。天皇家の人々も、「君が代」は歌いません。自分たちに捧げられた歌ですので。

「大日本帝国憲法」時代は、主権者は天皇であり、同時に現人神(あらひとがみ)でしたので、明治天皇に捧げられた「君が代」を国歌とするのは自然なことでした(法律で「君が代」を国歌とはしていませんでしたが、それは戦前の文部省が、強制すべきものではないと判断していたからです)。

しかし、憲法が改正され、主権者は、天皇から国民にかわりましたので(「日本国憲法」第1条)、「君が代」は、国歌としては不適切な歌となったのです。
「君が代」は、明治天皇賛歌として残し、国歌は新しく制定しなければなりません。
私は、イデオロギー色のない自然を賛美した歌が、日本国にはふさわしいと思いますので、「桜」か「故郷」がよいと思います。

国歌を、法律や条例で縛らなければならないとは、わが日本国の悲劇です。
国歌を変えることは、喫緊の課題といえるでしょう。


武田康弘
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竹田青嗣さんとわたし武田康弘の出会い=対談の記録(1990年7月23日) 

2011-06-06 | 恋知(哲学)

荒井達夫さんのコメントをうけて、以下に21年前の記録を載せます。

これは、わたしと竹田青嗣さんとの出会い(竹田著のNHKブックス『現象学入門』が出た後)を記したものですが、当時、竹内芳郎さんが始めた『討論塾』(主にわたしの影響で竹内さんが大学教授を辞め、わたしは全面的に協力し支えましたが、後に別れることになる)の塾生全員に郵送でお配りしたものです。ただし、内容は、竹田青嗣さんの校閲を経たものではありませんので、文責はすべて武田です。なお《 》の中の文章は、後に付けくわえました。



竹田青嗣さんとの対談 1990年7月23日           
(竹田さん44才 武田38才)



(武田) 我孫子での竹内芳郎の講演(テープ)を聞いての感想は?
《注・後に筑摩書房から「ポストモダンと天皇教の現在」として出版された》

(竹田) 結論としての主張には同意するが、一つのフィクションである「地球の危機」から出発するのには抵抗がある。私なら、どのようにしてよい人間関係をつくりあげていくか、楽しく豊かな人間のつきあいを広げていくかという方法を考えるところを出発点にする。

(武田) それは私自身の生き方でもある。私塾も住民運動も哲研も皆そこを出発点にしている。だから竹田さんの言うことはよく分かる。 ・・・私と竹内氏とでは生き方の形は大きく違っている。
だが氏は、ひとつの極にいる人間だ。私が竹内氏に学び、親交を深めてきたのは、自分を異化するためだ。その手強さと対峙することは、自己の破壊であると 同時に創造である。これほど生産的なことはない。

(竹田) あ一、なるほど。ただ、私は竹内氏のように対抗イデオロギーを作って闘うということには疑問がある。存在論のもたらす原事実を基軸にしていくべきだと思う。イデオロギーに、対抗イデオロギーを作ってぶつけるというのは、・・・

(武田) 原理的には、それが正解かもしれない。「対抗イデオロギー」なしでやっていければ、それにこしたことはない。しかし少なくとも現状では、対抗イデオロギーはどうしても必要だ。私は<教育問題>に取り組んできたが、伝統主 義・保守主義のイデオローグと戦うために、そしてそのイデオロギーに呪縛されている人々をそこから解放するために、竹内イデオロギーはすばらしく役に立つ。

(竹田) なるほど、それは分かりました。では、こんど竹内さんとお会いしたとき何を話せばよいでしょうか。私は文芸評論が仕事で、哲学や思想についての知識はあまり持っていないのです。竹内さんはマルクス主義者で、たくさんの知識がありますし。

(武田) いや、竹内芳郎の出発点もフッサール・サルトル、ハイデガーなのです。 それ は、『サルトル哲学序説』(特にP.45-59)を読めば分かります。ただ彼は、現象学‐実存哲学によって「近代主義」の根本的な批判を果たした上で、対抗イデオロギー(建造物)をつくりあげてきたのです。その集大成が、『文化の理論のために』(岩波)です。・・・土台は現象学的存在論で、マルクス主義者と自称しているのは、自己誤認だと私は思っています。

(竹田) 私は、きちんと読んでいないのです。竹内さんの本は難しいですし。・・・竹内 さんの言わんとすることは分かりますし、結論はわりあい共通していると思っていますが、そこに至るまでの過程というか、切り口は、ずいぶん違っているように感じます。

(武田) その通りだと思います。だからこそ竹内氏と対語する意味があるのです。私には、なにか新たなものの始まりが予感されます。

(竹田) 武田さんにそう言われると、私もそういう気になってきました。(笑)

(武田) ところで、語は変わりますが、ハイデガーの「死」について竹田さんは書かれて いますが、少し疑問があります。竹内さんの書いたここの所を読んでください。 (『マルクス主義における人間の問題』の、死の実存的な会得なるものが存在するのかどうかも怪しいものであって・・・の部分)

(竹田) あ一、これは竹内さんの考えに賛成します。実は私が「死」への直面を言ったのは、日常的な共同体への埋没から抜け出るための手段としてなのです。やはり竹内さんが言うように、他を排して一を選ばざるを得ない有限性というところに重点を置いた方がよいと思います。

(武田) では次にもうひとつ。私は竹田さんの言うように、サルトルの即自・対自を物と心の二元論だとは考えていません。また意識主義だというのにも疑問があるのです。

(竹田) それは、もしかすればそうなのかも知れません。私は、学問的に決着を着ける力はありません。ただサルトルとハイデガーの両方を読んで、ハイデガーの方に 分があると思っただけなのです。ただハイデガーの良いのは『存在と時間』だけ で、後期のものは全部ダメだと思いますが。・・・武田さんがサルトルから、私がフッサールやハイデガーから読みとった良きものと同じようなものを読みとったとすれぱ、それでいいと思います。どちらが正しいかは分かりません。更に言えば、 現実の問題に役立つように読めばそれでいいのではないでしょうか。

(武田) それは、私も実践を基準にして本を使うというやり方が正しいと思っているので、まったく同感です。ただ思想は、それが与える社会的影響について考慮する (責任をとる)必要があるはずです。ハイデガーのナチス加担の事実をどう考えますか。
《竹田さんの処女作『意味とエロス』の自己紹介欄で、竹田さんは、「ハイデガーを神とする」と書いています。》

(竹田) それは分かります。ただ私は、その問題をよくは知らないので触れませんでした。また作品は、作品として読むということが正しいと考えています。

(武田) もちろん文学言語や理論言語は、第二次言語として発話場から相対的に自立しているわけですので、竹田さんの言うことはもっともです。しかし、それを絶対的に自立させてしまうのには、問題があります。ふつうは誰でも「ハイデガーは偉い哲学者だと言うけれど、ナチスの正体も見抜けず、その後も全然反省もしない人間が<哲学者>だとは何なのか?」と思いますよ。(哲学者とは、哲学することでバカになった人種のことだ!?)したがって、その問題に答える必要が当然生じるはずです。彼の哲学自体にやはり歪みがあったのではないですか。

(竹田) そこのところは、今後考えていかなければならないと思います。
《注・5年後に竹田さんは「ハイデガー入門」講談社選書メチエ、を書き約束を果たしてくれました。》
竹内さんとの三者会談のとき、その問題を出して下さい。
ぼくは今、筑摩書房から出す『哲学入門』を書いているところです。《「自分を知るための哲学入門」として刊行されました。現在はちくま文庫になっています。》

(武田) それは、実にいいことですね。ひとつ注文があります。いわゆる<現代思想>は、マルクス主義への反発から、すべてを「物語」だと言って排除してしまいま すが、これはとんでもない間違えです。特定のイデオロギーに固執することへの批判が、イデオロギー一般への批判へとすり変えられたために、自分の頭で何も構築しないで体制に流されること・イコール・偏っていなくて正しい。批判精神を持っていること・イコール・イデオロギーを持っているから悪。という考え方がはびこって、どうしようもない状況を生みだしているのです。人間が人間をやめない限り、イデオロギーから離れられないという原事実を、まずしっかり分かってもらうことが前提です。

(竹田) なるほど。そうなふうになっていますか。私も武田さんの批判に賛同します。

(武田) 最後に、竹田さんは「現象学は役に立たない。」と書いていましたが、大変に役に立ちますよ。私の主張を深いところで裏付けてくれますし、また社会運動の推進のためにもすごい力を発揮します。

(竹田) そうであればとてもうれしいです。(笑)


1990.7.23 新宿・滝本で(文責・武田康弘)

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私にとっての二人のTakedaー1 (古林治)
2011-06-06 23:57:36

私が哲学や現代思想への関心を失い始めていたのもちょうど1990年ころでした。
竹田青嗣さんのことは知ってはいましたが、文芸批評家としてであって、哲学者
としての竹田青嗣さんは、その後(1993年ころ)、タケセン(武田 康弘さん)
を知って紹介してもらってからのことです。
二人のTakedaを知ることで私の哲学への関心はよみがえったのです。
ただし、ここでいう哲学とは、『どのように生きていったらよいのか、どのよう
な社会をめがければよいのか。』を考える本来の哲学のことであって、 哲学史
や机上での緻密な論理を操ることではありません。あくまで、現実の生を豊かに
するためのものです。その本来の哲学の基本中の基本である認識 論(欲望論・
意味論)が二人のTakedaに共通する考えだったと私は思います。
その後、生きた哲学を実践するタケセンの市民活動にかかわり、竹田青嗣さんの
著作に興奮してきました。
が、一方で、二人のTakedaには本質的な違いも感じます。

タケセンには、『私の、そして人々の、より善い生を! そのための社会を!』
という強烈な情動が流れています。そのためにはどうしたらよいのか、 を考
え、行動し、変えてゆくという能動性が渦巻いています。だから、哲学書を活か
すことはあっても哲学書から何かを学ぶということはないし、理論 を弄して現
実に働きかけるという発想もなく、常に自分の頭で考え、判断し、行動します。
常に生々しい現実の中に自分をおいて考え、行動し、確か め、確信するという
連鎖がタケセンの哲学そのものです。思想や理論としての哲学を決して先立てる
ことはありません。だからこそ、幼児からお年寄りま で、老若男女、学歴、人種、
職種を問わず日々対応(対決)できるのでしょう。
(続く)

私にとっての二人のTakedaー2 (古林治)
2011-06-06 23:58:51

一方、竹田青嗣さんは、哲学者と呼ばれる中では特異な存在です。過去の哲学史
を掘り起し、不当な解釈がされている歴史上の哲学者たちの著作に向き 合い、
独自の竹田哲学を読み解いてきました。その最良の読み込み方、私たちの生に
とって意味ある解釈には、かけがえのない価値があると私は思いま す。荒廃し
た『学』の世界に一風を呼び込んでいると言えますし、やはりある種の天才とも
いえるでしょう。
ただし、竹田青嗣さんが真摯に向き合うのは、過去の哲学者たちの著作であり、
生々しい現実から一歩離れたところに身を置いてます。
より善い解釈、哲学を広めることで少しでも『より善い生を!そのための社会
を!』ということなのかもしれませんが、その影響は『学』の世界、書物 の世
界、言語上の世界に留まってしまう可能性もあります。
実際に何人かの竹田青嗣ファン・信奉者と話をしたことがありますが、言語上の
理解だけで満足し、現実の生に関心を示さない人たちでした。ここに私 は危う
さも感じています。この点は自覚的でないとまずいでしょう。

極端な話、哲学があれば、より善い生を送れるわけではありません。哲学を知ら
ずに、より善い生を送る人たちもいます。そうした人々は多分、知らず 知らず
のうちに本来の哲学を身につけているのでしょう。哲学とはそういうもので、理
論として学ぶものではないということだと思います。
向き合わねばならないのは、あくまで生々しい現実の世界であり、哲学はそのた
めに役立てるもので、既成の【学】の如く、決して狭義の哲学(言語の 世界)
から現実を見下ろしてはならないということです。

『二人のTakedaの出会い』を読み、懐かしく思いながら今感じることを書いてみ
ました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

すごく納得 (清水光子)
2011-06-07 09:21:25

古林さま
武田先生についておっしゃった言葉 スゴく納得です
より善い生き方 より善い社会を!!と目指す哲学に接することができてとても有難いことだと思って居ます
この頃「倫理」について個人と個人の間に嘘が無く信頼関係があってこそが倫理が成り立つと伺い 倫理について社会的な儒教の倫理と 全然違う!と胸が軽くなってまた生きる力を頂きました。
私の理解が間違えていたら、明後日「愉しい哲学の会」が有るのでまた教えて頂くのを楽しみにしてます。
総理を元総理がペテンだという今の政治家達にはほとほと情けなく思いますものね 古林さんの先ほどのタケセンについての生きる生きた哲学を広く伝えたいです。清水(81歳)





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対話篇「自分を中心に考える、とはどういうことか。小我と大我」

2011-06-06 | 恋知(哲学)
132. 対話篇
  「自分を中心に考える、とはどういうことか。小我と大我」
白樺教育館ホームにアップしました。ぜひ、ご覧ください。

武田康弘
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福島第1原発4号機の設計に関わった田中三彦さんのお話

2011-06-02 | メール・往復書簡
以下は、「市民連帯」MLです。


永岡です、たね蒔きジャーナル、続いて、福島第1原発4号機の設計に関わった田中三彦さんのお話がありました。

 水野さん、原発事故を調査しているIAEAが原発ありきで報告書をまとめている(津波想定で大丈夫との報告書)時、原発を設計した人の話が聞きたいと、サイエンスライターの田中三彦さんのお話になりました。

  田中さん、原発事故は津波災害があり、段々と原発大丈夫かと思っていたら夕方、原発が危険とのことで、電源が取れなくなり、これは大変なことになったと思われたのです。そして今の状況は、ここまでの予想は誰にも出来なかった、しかし、日本の原発は通常の運転でも事故の可能性があるものの、日本の原発は1箇所に6~7基あり、災害が起こると全滅なのです。設計時は、原発は大きな構造物で、全体を分かってやっているのではない、田中さんは原子炉圧力容器の設計をして、格納容器の設計、配管の設計と別々の人がやって、全体像は分からないのです。プロジェクトマネージャーを作らないと全体は分からないのです。田中さんは耐震解析はやらないのです。地震でここに何が起こるかとデータをもらう、配管の設計では、別の地震荷重のデータで設計する、データは上から下へ行く、大まかにしか分からないのです。

アメリカの下請けでやっていた時代は、日本で、大型原発は1970年に大阪万博で美浜、駿河で稼動、GE、ウエステイングハウスで設計、物を作るのが日本の日立、三菱であり、60~70年代の技術者は、アメリカの技術を教わりつつやっていたのです。福島は日本のメーカーがやり、1号機はGEが設計、70年代前半のものはGE(沸騰水型)、ウエステイングハウス(加圧水型)が教え、東芝、日立がその後自立して設計していたのです。当時は地震の設計は法律上になく、78~79年に原発に地震の指針が出来た、外国の地震波として残っていたものを利用して設計、日本の原発は、外国の地震波を使って設計し、日本の地震に合わせて設計されているのではないのです。日本国内に耐震設計を行う指針は当時なく、福島4号機も耐震設計なしでやっていたのです。地震に対して、設計者も意識していなかったのです。

 福島で地震により配管が壊れている模様で、田中さん、この問題を雑誌「世界」5月号で指摘した、地震で壊れたのは1号機の模様です。津波で壊れたなら、思いもよらない津波、想定外としているのに、津波の前に、田中さんは地震で壊れたと推測している、東電が、圧力容器の水の減り方、圧力の減り方、格納容器の圧力上昇を見ると、変化のスピードも考えて、地震により大事な配管が壊れて格納容器の圧力が上がり、燃料丸出し、水素爆発と推察されたのです。

 どの原発も、地震によりやられる可能性があり、原発を推進したい連中はこのことに触れたくないのです。原発を推進したい人には、この問題を避けて通りたいのです。しかし、原発の耐震設計を見直さないといけないのです。原発は耐震脆弱性(格納容器が弱い)があるのです。

 これで時間がなくなりました。やはり、福島の事故は、津波より地震動でやられた模様です。今後も、田中さんのお話を番組で聞きたい模様です。以上、お知らせいたしました。


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