思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

なぜ東大出の議員は逮捕されないのか  平野貞夫

2010-08-31 | 社会思想

なぜ東大出の議員は逮捕されないのかーー平野貞夫(元参議院議員)

 リクルート事件から20年以上の年月が過ぎた。ロッキード事件では衆院議長秘書の立場から、国会、官邸、検察の裏側から事件を見てきた。またリクルート事件では、衆院事務局委員部副部長として、国会運営事務の立場で関わった。

 二つの事件を通じて率直に感じたことは、当時の絶対権力であった与党自民党の政争には、検察とマスコミが巧みに絡んでいたということだった。前者は三木首相・中曽根幹事長対田中元首相の権力闘争であった。後者は竹下首相対中曽根元首相の闘いであった。この二つの事件で政治闘争に負けたのは、田中元首相と竹下首相だった。
 ところで、二つの事件とも犯罪立件の可能性が高いのは、中曽根康弘だと思われた。が、いずれも中曽根の国会での証人喚問で幕を閉じた。捜査を事実上終了させたうえでの証人喚問で、捜査のやりかたも政治的解決だとの議論が残った。藤波孝生の立件が、中曽根元首相に身代わりだったと主張する専門家もいるくらいだ。

 「法と証拠に基づく捜査」が検察当局の身上である。果たして、政界絡みの捜査でそれが実行されているかどうか、私は疑問を持っている。いや、一般の捜査でも、その言葉は虚言となっている。

 久しぶりに出演したテレビ朝日系の「朝まで生テレビ!」(2010年1月29日深夜放送)で、東大法学部卒らしいヤメ検弁護士二人を前にして、
「昭和30年以後、衆議員議院が25名逮捕されている。そのうち東大卒はゼロだが、何かあるのだろうか」
と私が発言すると、二人のヤメ検弁護士は血相を変えて、
「国民を惑わすような発言はしないでほしい」
と諌(いさ)めた。私は、
「数年前に、東京地検特捜部から、防衛省関係の疑惑で、どうしても自民党の某幹部(東大卒)を逮捕したいので協力してほしい、と依頼されたことがある。協力したが、上から抑えられたようだ」
と、答えておいた。
その直後のCMのとき、同席していた小林節(せつ)慶大教授が私のところにかけ寄り、
「平野さん、よいことを指摘してくれた」
と評価してくれた。
国家、社会の正義を守るのが、検察の役目である。劣化が著しいわが国家権力実行者につては、こういった角度からの検証も必要である。 

以上は、
昨日ご紹介した良心の国会職員→政治家として知られた平野貞夫さんの著書からの抜粋。『第五章 リクルート事件という虚構』の最後の部分・「なぜ東大出の議員は逮捕されないのか」(217~219ページ)のコピーです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日本人の多くが罹っている「東大病」とわたしが呼ぶ精神的な病には、それを産み出すしっかりとした下部構造があるのです。それがキャリアシステムと呼ばれる官僚制度です。わが国が「官僚独裁国家」とか「主権在官の国家」と呼ばれるのは、山県有朋らが中心となってつくりあげた近代天皇制に基づく明治政府の基本政策にその因があるのですが、それが今日まで東大という権威による官僚支配を可能としてきたのです。内容や意味によって生き、公共をつくるのではなく、型・形式・権威によって国民全体を金縛りにする、という支配は、けっして個々人の幸福をつくりません。

東大という権威に基づく官僚主義の金縛りから解放され、日本人の一人ひとりが自らの生を豊かにするには、主権在民の民主主義を原理とする「生き方と政治の変革」が必要なのです。
(一昨日のブログ『ほんとうの知と教育を生むには、「東大病」からの快癒が不可欠です。』もぜひお読みください。)


武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『小沢一郎完全無罪』-「特高検察」が犯した7つの大罪  平野貞夫著(講談社刊)

2010-08-29 | 書評

以下は、
「検察が健全でないと社会正義は揺らぐ。・・平野君、どうか検察の仕事を理解してやってくれ」という前尾繁三郎元衆議員議長の遺言を聴いた著者の平野貞夫さんの著書『小沢一郎完全無罪』-「特高検察」が犯した7つの大罪」(2010年4月講談社刊)からの抜粋です。

小沢一郎さんについて語る人は、この本を読んでからにしないといけない、わたしはそう思いました。なにごとも、憶測や感情のみで判断するのは極めて危険です。その人の近くにいた信用に足る人物の話を聴くことは、とても大切でしょう。


「私は、衆議員事務局に就職してから、ほとんどの期間、一貫して議院運営委員会の事務畑を歩んできた。そして、政治家の犯罪やスキャンダルについて数多くの案件を国会の現場で処理してきたのである。・・
その後、私は、1992年から参議院議員になった。そして法務委員会の所属し、議員としての12年間のうち、11年間、司法改革に専念した。
私が司法改革に協力してきたのは、少しでも恩師(前尾繁三郎)の理想とする検察の在り方を実現し、遺言を守りたいと思ったからである。
そうした思いから、私は政界を引退した今でも、情報社会における検察制度の健全な見直しを念頭に置き、日本の社会の公正さを確保・維持する機関として、検察を非常に重要視してきたのである。」


この後の本文、平野さんの論は、単に小沢さんの擁護というのではなく、強大な権力をもつ検察という組織の犯してきた過ちの実際と、検察組織の民主化のためには何をすべきかという提言です。とても平易・明晰ですので、ぜひ一読をお勧めします。


また、以前にお勧めした優秀な元検事の郷原信郎さん(政治的には反小沢)の著書『検察が危ない』(ベスト新書)も必読です。ここでも、検察の実態を知ると唖然とします。


武田康弘
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほんとうの知と教育を生むには、「東大病」からの快癒が不可欠です。

2010-08-28 | 教育

受験知(=紙に書いてある問題・正解が決まっている問題の答えを書く知)の所持者は頭がよいので、総合的判断力がある、というほとんど妄想としか言えない信仰を持つ者によってわが国は運営されている(国家公務員のキャリアシステムはその象徴)わけですが、人間の能力に対するこの全く間違った観念は、個人を幸福にせず、国の行く末を暗いものにしています。未来がない!

イマジネーションに乏しい固く硬直した観念の持ち主や、過去の歴史に拘泥し未来への構想を持てない紋切頭の持ち主が優秀者と見なされるのでは、現在のはつらつとした生は消え、生きた頭脳は育ちません。受験知の支配=権威者(象徴的には東大)に頼る愚かな文化をもつ社会では、優秀者ほど頭が悪いのです。

総合的な判断能力は、現実との格闘の中でしか生まれません。それはペーパーテストでは全く計ることのできない能力であり、その育成は、従来の教育の発想を根本的に変えない限り不可能です。わたしが白樺教育館で行っている『ソクラテス教室』の高校・大学クラスでは、そこに主眼を置いた新しい授業(ソクラテスの問答法をヒントにした対話型授業)を長年続けてきましたが、従来の型に囚われず、真に生徒が主体者の授業をつくると、自分の頭が内側から働きだすのです。学校のありようの問題や社会問題や家庭での問題、自分にとっての切実な現実問題と抽象的な思想とを絡めて、主体的に格闘しなければ、知は有用なものにはなりません。

「ハーバード大学のサンデル授業」のような討論ショーではなく、もっとはるかに深い納得が生みだされるのが、最大限の自由をもつ親密な対話による「有用に考える授業」なのです。「教えないで共に考える授業」をしなければ、生徒が真の主体者になることは不可能です。それは、従来の学校教育(小学校~大学院)とは異なる「主観性の知」(ほんらいの哲学)の鍛錬であり、その方法・内実は、【最良の家庭教育】と似ています。

わたしが幼いころ、寝る前に父は毎日お話を聞かせてくれました。それは空想とは異なる想像する力を伸ばし、考える力の元となったようです。小学生に入ったころからは、なんでも質問攻めにし、毎日のように父と問答をしていましたし、中学生になってからは対話する親友をつくりましたが、学校の休み時間と帰り道での毎日の対話(政治・社会問題、どう生きるかという哲学問題、趣味の話題)と、日曜日に互いの家を行き来しての対話と遊び、それが有用な思考力を育ててくれました。受験勉強づけの生活では思考力などつくはずがないのです。

覚えるだけではダメであり、よく考えることながないと見かけ倒しの形だけの頭脳しかつくられないのですが、受験知の勝者でしかない現在の知者と言われる人のほとんどは、覚えること(知識)で考えることの代用をしているに過ぎないようです。哲学までも思想的知識の暗記でしかないのですから、自分の頭で考えるのではなく、哲学史の理解と暗記がイコール哲学することにまで堕落するのです。根本的に考えるとはどういうことか、それが分かっている人はごく少数ではないでしょうか。

【話を聴き、話をする】という一番大切な、一番頭を使う(有用に使う)営みが少ないと、死んだ知しか得られないという知の原理を深く自覚することが必要です。最良の教育は、教えるのではなく、楽しく対話することなのです。繰り返しますが、「教える」という構えでは、ほんとうの知はけっして育ちません。

「受験知」による愚かな国家運営と不幸な個人生活をチェンジするには、「東大病」からの快癒が不可欠です。これは原理です。


武田康弘


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民主主義とは、幼いころからの順を踏んだ教育がなければ、現実化しません。

2010-08-22 | 社会思想

民主主義の本質とは、公正な選挙制度や多数決による決定ではありません。それらは単に手段でしかなく、必要条件でしかないのです。

民主主義の現実化のためには、
日々の生活の中で自分が感じ思うところを反省し、そこから「自分の考えをつくる」努力(=広義の教育)がまず先に求められます。その自問自答を、「他者との自由で対等な対話」の積極的な実践とその力を強めるための努力(=広義の教育)と並行して行い、それによって「ものごとを決めていく」実践(=広義の教育)を日常的に行うことが必要です。

「考え・対話し・決定する」力をつける意識的な努力=教育実践がなければ、民主主義とはただの言葉=概念・理論に留まりますが、それでは民主主義は意味をなさず、死んでしまいます。民主主義とは実践なのであり、観賞的な理論なのではありません。名詞ではなく、動詞として遇さなければならないのです。現実の生活の中で「よりよい」を目がける討論をしてそれにより決定するという日本人には一番苦手な分野の実践です。したがって、日本の民主化のためには学校教育そのものの改革が必要で、そのためには、知に対する見方を根本的に変える必要があります。わたしのいう「主観性の知」の育成です。ドリルに答えが書いてあるという客観知は知の手段であり目的でないことを明晰に意識しなければ、「私」の充実も民主主義の深まりも得られません。

現実の中で、自分の具体的経験を踏まえて、自分の頭で考えるというのがほんらいの哲学成立の基本条件であり、ハーバードのサンデルの授業などは、大学教授のパフォーマンス=言論ショーでしかありません。日常的な現実とは無縁な想定による言語ゲーム=ディベート(ちなみにソクラテスの哲学はディベートの徹底した否定から生まれたのです)に幻惑されることなく、自分自身にとって身近で重要な問題を現実に沿って考え、対話・議論し、それにより決定するという実践こそが、互いの自由を活かし合う民主主義をよく現実化する唯一の方法です。

民主主義とは只の制度のことではなく、「民主的に生きる」という実践の中でしか現実化せず、意味をもちません。各人が自由に考え生きることで【責任】を負い合う制度が民主主義なのです。人類は、民主主義に耐えられるだけの存在へと高まる必要があり、それなくしては未来はないでしょう。


武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自己欺瞞とは、自分を滅ぼす根源悪。

2010-08-20 | 恋知(哲学)

自分で自分を騙(だま)す自己欺瞞をすると、自分の意識の奥深くが壊れてしまい、「外的人間」(内面のない人形)に陥りますが、これを知らないために、自分を自分で滅ぼしてしまう人が多いように思えます。

自分を騙すことで他者をも騙し、形だけを整えた固い自己になると、生き生きとした「私」は消え、世界は灰色になってしまうでしょう。

これは、【根源的な損】としか言えませんが、世間的な価値を絶対化してしまう人は、この不幸からの脱出がとても難しいようです。外的人間には、心の真実がなく、いつも内なる世界を外なる価値で固める志向で生きるために、「私」は死んでしまい、後には外形だけしか残りません。

充実した生、豊かな生、幸福な生は、【意味】に満ちている生ですが、意味とは、外的価値の呪縛を解き、内面の声を聴きつつ生きるところからしか生じないはずです。これは心の原理です。自己欺瞞ほど人間をダメにするものはない、これを知らないと、一生が無駄になるのではないでしょうか。


武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

他者の自由を認めない思想の自由はないー「靖国問題」での問答

2010-08-18 | 社会思想

以下は、下のブログに対してのmixiでのやりとりですが、【思想の自由】について踏み込んだコメントの往復となりましたので、記事にします。


よしくんぱっと 2010年08月15日 21:31

靖国神社側の皆さんにも思想の自由を認めてあげた方が、主権在民・自由と平等の理念により沿っているのでは?

「国立の墓苑」という考え方もなかなか無理のあるところと思います。墓には宗教が伴っているから。国民のマジョリティがそれを支持するのであれば、民主主義に沿っていますが。

戦没者を勝手に祀る靖国神社側の自由と、戦没者側の祀られない自由とがぶつかります。
私は祀られない自由の方に勝たせるべきだと思っております。祀られない権利を行使できる法制度が必要と思います。
これは、「国立の墓苑」ができたときも同じですね。

――――――――――――――――――――――――
タケセン 2010年08月16日 11:56

民主主義には無制限の思想の自由があるのではなく、samさんも書かれているように、他者の自由を否定する思想の自由はなく、また寛容性のない抑圧的な宗教の自由もない、とわたしは思っています。そうした「根源ルール」の上に立たないと、個人の自由や基本的人権が保障されないからです。

よろしければ、以前に書いたブログを見てください。
http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/998028bec1b80d1961171d91014f0ce9

――――――――――――――――――――――――
よしくんぱっと 2010年08月16日 20:37

>民主主義には無制限の思想の自由があるのではなく、samさんも書かれているように、他者の自由を否定する思想の自由はなく、また寛容性のない抑圧的な宗教の自由もない、とわたしは思っています。そうした「根源ルール」の上に立たないと、個人の自由や基本的人権が保障されないからです。


民主主義と思想の自由とは十分に切り分けて考えた方が良いと思います。

民主主義の下において、他者の自由を否定する思想の自由はありますし、また寛容性のない抑圧的な宗教の自由もあります。タケセンさんに思想の自由があるのと同様に、靖国神社側の皆さんにも思想の自由はあります。国立の墓苑をつくらなければならないと考える自由も、靖国神社が良いのだと考える自由もあります。

思想の自由とは無関係に、他者の自由を否定する思想や寛容性のない抑圧的な宗教を国民のマジョリティが賛成するなら、国は、それらを国家運営の基礎にする必要があります。これが民主主義です。天皇主権を国民のマジョリティが賛成するなら再び採用する必要がある。これが民主主義です。国立の墓苑を国民のマジョリティが賛成するなら作る必要がある。これが民主主義です。

―――――――――――――――――――――――
タケセン 2010年08月16日 22:03

「思想の自由とは無関係に、他者の自由を否定する思想や寛容性のない抑圧的な宗教を国民のマジョリティが賛成するなら、国は、それらを国家運営の基礎にする必要があります。これが民主主義です。天皇主権を国民のマジョリティが賛成するなら再び採用する必要がある。これが民主主義です。国立の墓苑を国民のマジョリティが賛成するなら作る必要がある。これが民主主義です。」

純粋に「論理的」(形式論理)にはその通りですが、近代市民社会が成立して個々人の自由が解放された後では、自由を禁止するという思想を人々が支持することはありえないでしょう。というわけで、ふつうには「逆転」は無理なのですが、それを利害やある種の感情を持つ人が強行しようとすれば、おぞましい結果をもたらすでしょう。

わたしたちが取り組むべきは、そうなってしまう可能性を極力減らすための思想的努力だと思います。「この社会はわたしが作っているのだ」という自覚をつよめ、自治能力を鍛える営みをだんだんと広げていくためにはどのように考え・どのように行為したらよいかーそれを現実化するための【思想の原理】を明晰に意識しようではないか!それがわたしの根源的主張です。

もちろん『靖国神社』が一宗教法人としての活動をすることは許されますが、彼らの主張が近代民主主義社会の原理と背反することを明らかにすることは、とても大切な営みのはずです。それを具現化したのが今回のブログなのです。近代の市民社会を支える民主主義とは、「意識的に互いの自由を承認し合う事でつくられるルール社会であり、予めの特定思想の強要は原理に反する」――それを明晰化する努力が今とても求められるのではないか、わたしはそう判断するのですが、如何ですか。

―――――――――――――――――――――――――
よしくんぱっと 2010年08月17日 08:45

>近代の市民社会を支える民主主義とは、「意識的に互いの自由を承認し合う事でつくられるルール社会であり、予めの特定思想の強要は原理に反する」――それを明晰化する努力が今とても求められるのではないか、わたしはそう判断するのですが、如何ですか。

おっしゃるとおりです。

で、靖国神社側の皆さんの思想の自由をも承認するべきで、予めの特定思想の彼らへの強要は原理に反する、と思うのです。それを明晰に押さえていないとおかしな方向に行くと思います。

------------------------------------------------------------
タケセン 2010年08月17日 09:48

「靖国神社側の皆さんの思想の自由をも承認するべき」は、その通りで、
わたしは、以下のように言いましょう。

わたしはあなた方の言うことにひとことも賛成できないが、あなた方には思想の自由がある。その自由を守るためにわたしは命をかけるつもりだ。翻って言おう、あなた方はあなた方に反対する人々の自由をも認めなければならない。それがこの社会の原理である、と。

クリスチャンや真宗の遺族の申し出を拒否し、故人の遺志に反しても自説を強行する!それは許されないのです。根源ルールに反するからです。自分の自由は主張するが他者の自由は認めない、という者はこの社会には住めません。それが民主主義の根源ルール(=思想の自由を成立させるためのメタルール)なのです。

―――――――――――――――――――――――――
よしくんぱっと 2010年08月18日 00:36

>それがこの社会の原理である、と。

そのとおりです。
よくわかりました。


しかし、それは「思想の自由を成立させるためのメタルール」であって、民主主義の根源ルールではないのでは?
国民のマジョリティーが「民主主義はやめて、君主主義に戻りたい」と望めば、民主主義は自己放棄をして君主主義に席を譲らなければなりません。
国民のマジョリティーが「靖国神社は個人の信教の自由を否定して、戦死者全員を祀らなければいけない」と考えるのであれば、たとえ天皇が嫌だといっても、靖国神社は民意に従わなければならない。
これが民主主義の根源ルールと思います。

------------------------------------------------------
タケセン 2010年08月18日 01:37

「国民のマジョリティーが「民主主義はやめて、君主主義に戻りたい」と望めば、民主主義は自己放棄をして君主主義に席を譲らなければなりません。」(よしくんばっと)

論理的にはその通りです。
しかし、いくらなんでもそれが現実にはなりませんよね。


「それは『思想の自由を成立させるためのメタルール』であって、民主主義の根源ルールではないのでは? 」(よしくんばっと)

社会思想では、「思想の自由」を保障する社会システムを「近代民主主義」と呼んでいます。日本国憲法の第19条は「思想及び良心の自由」ですが、それが出てくる根拠は、近代民主主義の哲学思想です。

----------------------------------------------------------------
よしくんぱっと 2010年08月18日 03:32

>しかし、いくらなんでもそれが現実にはなりませんよね。

民主主義の根源ルールに従えばそうなるのでは?

靖国神社が好きな人たちは、それを現実にならせるべくがんばっておられるのでは?


>社会思想では、「思想の自由」を保障する社会システムを「近代民主主義」と呼んでいます。

なるほど。理解しました。本来の文字の意味とは異なるので、無知な私にはわかっていませんでした。民主という言葉を使わず“近代思想の自由主義”とでもよんで欲しいです(笑)。君主の下でも民主の下でも「思想の自由」を保障することはできますしね。

---------------------------------------------------------
タケセン 2010年08月18日 08:25

「靖国神社が好きな人たちは、それを現実にならせるべくがんばっておられるのでは? 」

は、その通りだと思います。

ただ、歴史は巨視的に見れば、いったん「個人の自由」が解放された後で、それを逆転させることはまず不可能で、それをするには、無理な力(洗脳=占脳のような教育・強引な権力による政治)が必要になります。この問題では、わたしの友人の竹田青嗣さんが最近出した『人間の未来』(ちくま新書)はとても好評です。「いまさら」とも思いますが(笑)。

また「靖国」の問題で言えば、単に、「全軍人を祀る」とか「軍人の戦死者を集合神とする」という教義を述べるだけならば、近代民主主義の原理に反しません。それは、「全世界の平和を願う」とか「全人類の幸福を実現する」という言説が可能なのと同じです。

しかし、『靖国神社』では、一人ひとりの個人名を書き込み、その全員を集合神としています。「生前の本人の意思も遺族の意思も認めない」という主張をしていますので、個人の自由の侵害・信教の自由の侵害・基本的人権の侵害にあたります。韓国、北朝鮮、旧満州国、台湾(戦前は日本領)の兵士も、個人名を書き日本国の「軍神」として祀っていて、遺族のやめてほしいという訴えを拒否していますし、仏教の僧侶やキリスト教徒の「合祀から外してほしい」という訴えも拒否しています。

これは、近代市民社会の民主主義の原理(「日本国憲法」の基本理念)を認めない思想であり、到底容認できるものではないのです。そのことを皆さんにぜひ知ってもらいたいと思います。まさに、「靖国神社の思想と思想の自由を保障する近代民主主義の思想とは二律背反」なのです。


よしくんばっとさんのご意見・ご質問で、この問題を深く明晰にでき、とてもよかったと思います。感謝です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

靖国神社の思想と近代民主主義の思想とは二律背反です。

2010-08-15 | 社会思想

いうまでもなく、主権在民を原理とし自由と平等の理念を掲げた『日本国憲法』と、『靖国神社』の掲げる宗教イデオロギーは、まったく相いれません。靖国神社(明治政府がつくった国家神道)の思想を認めるならば、日本はもう一度、天皇主権の『大日本帝国憲法』時代に戻る他なくなります。

靖国神社は、
天皇大権を当然のこととし、明治以降の日本の戦争はすべて「聖」なるものと主張し、
韓国・中国への植民地支配はなかった!と主張し、
敵と味方を峻別し、天皇陛下のために斃れた者だけを祀ると主張し、
個人の信教の自由を否定して、兵士は日本の軍神=集合神だと主張します。

このような靖国神社の掲げるイデオロギーは、現代の日本国家をつくっている基本理念=近代民主主義の原理とは二律背反ですが、同時に、多神教の『神道』を天皇神格化により疑似的な一神教へと変えた明治政府の所業(神道の国家神道化)は「古き日本」の伝統とも大きく異なりますので、日本の悠久の歴史を主張する人々もまた「靖国思想」には反対しなければならないはずなのです。

明治政府は、富国強兵政策を進めるために、古来の「神道」を「国家神道」へと変えましたが、その思想の下では、一人ひとりのかけがえのなさは否定され、公(おおやけ)とは滅私奉公のことだとされたのです。このような国家主義=靖国思想に縛りつけられたままでは、兵士たちの霊は永久に浮かばれません。
彼らは、戦争のない平和な日本を夢見、差別のない、一人ひとりが大切にされる社会を夢見たはずです。天皇を神として崇め、それに従う人生をよしとしたのではありません。天皇の官吏(官僚)が治める自由のない日本をよしとしたのではありません。軍人が威張る日本をよしとしたのではありません。互いの自由を認め合い、皆でつくる平等なルール社会を夢見たはずです。
死してなお、靖国思想に縛りつけるのは、戦死者への冒涜でしかないのです。政府の絶対の責任として千鳥ヶ淵の拡張整備を行わなければなりません。

65年間、その義務を怠ってきた政府に対して、わたしは激しい公共的な怒りと憤りを感じています。

------------------------------

以下は、『靖国神社』の遊就館で売られている宣伝パンフレットからの抜粋です。

小堀桂一郎(靖国神社の理論的柱、東京大学名誉教授)の談・1999年8月

「靖国神社の本殿はあくまで、当時の官軍、つまり政府側のために命を落とした人たちをおまつりするお社である、という考えで出発したのでして、それは非常に意味のあることだと思うのです。 そこには「忠義」という徳が国家経営の大本として捉えられているという日本特有の事情があるのです。 「私」というものを「公」のために捧げて、ついには命までも捧げて「公」を守るという精神、これが「忠」の意味です。

この「忠」という精神こそが、・・日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから・・命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり天皇のために忠義を尽くして斃(たお)れた人々の霊であるということでよいと思います。

靖国神社の場合は、・・王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社を建立しようと考えた点に特徴があるといってよいかと思います。

あの社は天皇陛下も御親拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的な存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったということだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。
国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。言ってみれば、人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。

実は総理大臣が何に遠慮して、参拝に二の足を踏んでいるのか不思議でならないんです。
中共が総理大臣の参拝に文句を言ってくるのは、何も彼の国民感情が傷つけられたなどという話ではまったくない。あの国の民衆の大部分は靖国神社の存在すら知りません。・・外に問題を設けて反対勢力の目をそちらに向けさせようという国内政治の力学が働いている程度のことであって、まともに相手にすべきことではないんですね。

だから私はこの問題でも総理が断固として参拝されるのがよいと思うんです。そうすると直ちに北京から文句を言ってくるでしょうが、適当にあしらうなり、知らぬ顔を決め込むなり、いくらでも対処の仕方がある。
総理が北京からの苦情を無視して何度でも繰り返し参拝すれば、そのうち向こうも諦めて黙るに決まっている。
総理の参拝が実現し、やがて天皇陛下の行幸もできたということになると、私は国民のモラルに非常によい影響を与えることができると思うのです。」

-------------------------------------------

コメント

解りやすさと説得力 (Cmoon)
2010-08-17 09:55:09

タケセンさんの文章を読んでいると、解りやすさと説得力からハートの中でジンジンこだまします。熱い想いがほとばしってきます。心の壁に刻印されます。
いつも覚醒する内容に心から感謝です。

少しまともに歴史を紐解けば、万世一系の系図とその権威がいかに意図的に作られたものか一目瞭然で、まったく根拠のない万世一系を元に天皇を現人神と神格化したことは、それこそ神をも怖れぬ所業だと思います。
神は人間の観念で創り上げるもの、観念の中で生きるもので、実態として在ってはならぬものだと思っています。実態として在るはずがないのです。
せっかく果たした封建制から近代国家への過程で、新しい国造りの骨格として天皇制――絶対君主制――としたのは、明治維新、明治政府が作った漆黒とも言えるような深い影だと思います。先の大戦での敗戦、平和憲法の発布で光が射し、奇跡的な経済復興の中で長い影は消えるはずだったのに、以降65年経った今も長い影が、政治、経済、社会、文化、思想、そして宗教に翳りを落し、民主主義の行く末を阻んでいます。

靖国神社はその最たるもの。タケセンさんの明晰な解説どおりだと思います。
日本の軍人だけではなく、国内外の軍人、民間人すべての戦死者への冒涜以外何物でもない存在です。
そんな靖国神社を自民党はこれまで、たしか6回だったと思います。国家管理とすべく靖国法案を成立させようとしました。いずれも参院で否決され大事に至りませんでしたが、国民を再び一神教の硬直した精神支配へ導こうとしていることに気づかねばなりませんね。その後に続くのは今も党内で審議継続中の徴兵制です。
そして国家管理が無理となると総理をはじめ、閣僚の公式参拝……
どこまで旧政権は、すべての戦死者と関係諸国を貶めるつもりなのか、耐えきれません。

こんな政権が、まともな政権交代もなく長らく続き、消えてなくなるはずだった明治政府が作った長い影をさらに伸ばそうとしてきました。そして野に下った今も継続させようとしています。
まるで再び王政復古を望んでいるかのように。

こんな政権の下では、国立戦没者墓苑はできるはずがありませんでしたね。
鳩山前首相は、宗教色のない国立戦没者墓苑を作ると明言しました。政権交代を果たした以上必ず実現しなければなりません。それも一刻も早く。

まだタケセンさんとは短いお付き合いですが、タケセンさんのブログやmixi日記を読ませていただき、“知ることの大切さ”“考えることの大切さ”“伝えることの大切さ”をしみじみと感じ、ささやかながらこれからも実践していこうと思っています。

これまでmixiに書いた政治的内容のものをブログ化しました。
http://blog.goo.ne.jp/rsmoon/
こちらもよろしくお願いいたします。
(内容は同じですが♪)


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5枚の写真に見る善美―34年目のこどもたちの式根島キャンプ&ダイビング

2010-08-11 | 教育


白樺教育館ホームに、【こどもたちin式根島】の写真を載せましたので、ぜひご覧下さい。

http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori124.htm
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島原爆投下の日、アメリカ原子力空母が東京湾を行く(オリジナルの原寸大写真)

2010-08-07 | 社会批評


わたしは、昨日34年目の子どもたちの「式根島キャンプ&ダイビング」からの帰り、東海汽船の甲板にいたら、アメリカ原子力空母が、漁船が多数操業中の東京湾内を航行している場に行きあいました。

多数の漁船の中を航行する「灰色の戦争マシン」(人間の愚かさ・おぞましさの象徴)の写真を撮りましたの一枚載せます。

8月6日ー広島原爆投下の日に東京湾を航行するアメリカ原子力空母の写真(14時52分)です。


武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いよいよ34年目の式根島!!こどもたちのキャンプ&ダイビング

2010-08-01 | 教育
さあ、いよいよ34年のこどもたちの式根島キャンプダイビングです。
2日の夜東京港を出発です。

誰もいない秘密のビーチで、いい思い出をたくさんつくり、いい写真もたくさん撮ってきますので、ご期待くださ~~い。

今年は女の子の方が多いのです。時代ですね(笑)。まとわりつかれて疲れそう~~。

では、また6日以降にお目にかかりましょう~~~。

みなさんもよい夏休みを!!


なお、2004年に書いたものを以下に貼り付けます。

キャンプ・ダイビングーほんものの教育 武田康弘

教育今年も真夏の炎天下、式根島の大浦キャンプ場―斜面地の美しい自然の中のキャンプ地に行ってきました。(数年前地震で渡航禁止になった年を除き)28年間連続の海辺でのキャンプです。手付かずの自然―ほとんど誰も来ない美しい岩礁地帯でのシュノーケリングと磯遊びは、何よりも深く楽しい遊び=学びです。夜は、雲かと見まがう天の川、微光星で全天が埋め尽くされる太古の星空です。

わたしは、そうとは意識せずに、こどものダイビング指導のパイオニアの役目を果たしてきました。1977年からのシュノーケルダイビングの模様は、1980年から10年間に渡って月間「マリンダイビング」誌上で紹介され、それがもとで、各地のスイミングスクールでのダイビング指導が始まったのです。
初体験の子どもも、すぐにスイスイとシュノーケラーになってしまいますが、実はわたしはいつもほとんど「教えない」のです。黙ってやらせておいて勘所をひとこと言うだけです。「マニュアル」!?があると妄想するような人たちには理解しがたいことでしょう。肝要なのは、目の前のこどもたち一人一人を見ることですが、どうも独りよがりな「観念」や意味のない「常識」に縛られて目の前の現実が見えない人が多いようです。

ダイビングの楽しみと安全のために必要なのは、紋切り型で単細胞の体育会系の人間とは正反対の思想・態度をもつことです。子供の心身から硬さが消える環境をつくることができれば、生き物として自然な注意力が自ずと働き始めます。自由でしなやかな心が何よりも安全を生むのです。

わたしは今年で52歳です。24歳のときに始めた「子どもたちのキャンプ&ダイビング」は、初めの頃、「武田先生、こんなこといつまで続けるの?」と言われたものです。
今まで、先天性の心臓病の子も、ひどい喘息持ちの子も、学校で一番の問題児といわれた子も参加しました。しかし28年間一人として発病した子、大きな問題を起こした子は出ていません。ガラスのかけらを踏んで足をけがした子、転んで足をすりむいた子はいましたが、大事に至った子はひとりもいません。

でも確かに、このキャンプ中の100時間、とくに美しい岩礁の海で自由に泳がせている時間=何よりも素晴らしい体験を子どもたちがしている時間、私の全感覚神経は、人間に可能な最高レベルにあるようです。笑いながら、ふざけながら、でも心身は120パーセント燃焼し続けています。帰ってから数日は、意識は「真っ白」です。
断言します。子どもの教育―人間を育てることは、全身全霊でなければできません。どんな生き物もそうです。子育ては命がけなのです。そういう緊張感を失ったとき、人間は終わってしまいます。政治も、芸術も、学問も、実業も、子育てー人間の教育という営みに比べれば、はるかに下に位置するものです。魂を育てること。心身と頭脳の全体を、全身を使って育てること。それ以上に価値のあることはありません。これは私の「意見」ではなく、人間の生の原理です。ついでに言えば、これはソクラテスの哲学の原理でもあります。


タケセンのパワーはすごい!とか、いつまでも変わらないですね、とよく言われますが、実は、私は幼いころから内臓が弱く20歳まで闘病生活をしていました。幼稚園児の時には肝臓病で40日間寝たきりになり、小学生の5年生~6年生の時には胃潰瘍で2年間苦しみました。中学2年生から20歳までは十二指腸潰瘍を患いました。自律神経失調症で、勉強も20分間くらい集中したら休みを入れないとすぐ胃が悪くなってしまうのです。11歳の時から10年近く「虎ノ門病院」の専門医の世話になりましたが、結局、20歳の時、家の近くの「鴎外図書館」で見つけた「導引術」の本を読み、自分流に心身の改造を始めたことで、ようやく長い間の闘病生活から解放されました。小中学生の時は、とても50歳までは生きられないだろうと思っていましたが、ありがたいことに50歳を過ぎても元気です。
 生まれつき病気がちであったとしても、他人のつまらない価値観などに惑わされず、よい考え、優れた考えを自分の中に育てていけば、人生は充実し、豊かなエロースはやってくるものだと思います。

 権威ぶったり、財力で人の上に立とうとしたり、肩書きで威張ったり、人を見下したりするいかがわしく、下劣で、生きる価値のない人間はまだまだ多いですが、これからの子どもたちには、本物のよさをもった人間になってもらいたいと、私はいつも念じていす。
財力や権力や学歴や肩書きや・・には頭を下げることなく、自分の中の善美を育て、それに従うことのできる価値ある意義深い人生を生き抜く力を育てたいと思っています。自由でエロース溢れる人間。よく思索し付和雷同しない人間。優しくて芯の強い人間。美しく愛らしく真っ直ぐな人間。そんな素敵な人間を私は育てたいのです。

 自然にとけこむ100時間、島での自炊―キャンプと自然のままの美しい海でのダイビングと降るような星空の下での宇宙の実感。とってもハードで、自由で、楽しいー言葉にはできない体験。「システム・マニュアル・情報」という世界とは対極にある全細胞で生きる時間。みんなを変えてくれるこのすばらしい底知れない自然には、ほんとうに深く感謝です。
(2004年8月8日)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦前の日本政府の恐怖の強権=洗脳政治(天皇は神!)の【事実】は、全国民が知らなければいけないのです。

2010-08-01 | 社会思想

詳しく書けばキリがなく、日記では無理ですが、第二次世界大戦で敗戦するまでの、わが日本の政治の実態は、恐ろしいものであり、多くの文化人(小説家や科学者や法律家や哲学者・・)は特別高等警察=特高に逮捕され、拷問を受け、殺されました。天皇への尊敬の念が足りないとされて職を奪われました。これらの「歴史的事実」は、体験者の方の証言が山ほどありますが、この天皇現人神(てんのうあらひとがみ)の恐怖政治の実態を、正しく伝え教えることは、現在と未来の日本人がよく生きるための必須条件です。

嘘や偽り、事実の隠ぺい、他の話にすり替えて誤魔化すことは、過去と未来への裏切りであり、道徳、倫理に反する所業であり、真面目に生きようとするすべての人間を冒涜するものです。イデオロギーや立場に囚われた嘘の言説はもうたくさんです。ほんとうにウンザリします。

まず、元兵士の方の証言を聞くべきです。「天皇現人神というイデオロギー」に染まらないふつうの人間的感覚をもつ人の話を聞くべきです。

また本は、『日本が「神の国」だった時代・国民学校の教科書を読む』入江 曜子 著(岩波新書 2001年12月刊 ¥740+ 税)は、やさしく読みやすいです。
詳しくは、『反日という呪縛』山中恒著(勁草書房 2008年11月刊 ¥3150は、とてもお勧めです。

わたしたちは、敗戦によって、ようやく【主権在民】を手にすることができました。

これは明治時代の初期からの『自由民権運動』(近代の世界最悪の政治家の一人といわれる山県有朋らによって徹底的に弾圧された)や、大正時代の吉野作造の『民本主義』や、暗い時代に個々人の個性を尊び自由教育を提唱した『白樺派』(日本最大の文化運動)や、思想統制の戦時下を耐えた民間文化人による憲法草案の作成(憲法研究会)・・・・

1945年、彼ら【反骨の日本人】の努力が、天皇主権の国体思想を掲げる【反民主的な日本政府】の崩壊により、ようやく実を結び、【主権在民を根本原理とし、自由・平等を基本理念とする民主政治】が誕生したのです。
1945年の敗戦は、特権者・支配者ではない大多数の日本人にとって【解放の時】だったのであり、市民革命にも似た効果をもちました。
われわれは、この人権思想に基づく民主政治をしっかりと現実のものにすべく、官僚支配を打ち破り、みなで考え対話し・みなで取り組み・みなで責任をもつ政治=「新しい公共」を粘り強く前に進めるべきだと思います。

それこそが、天皇主義=国体思想を学校教育で教え込まれ、戦争に駆り出された尊い命、戦争で犠牲になった命に報いるたった一つの道でしょう。戦争を肯定する『靖国神社』の思想ほど死者を愚弄するものはないのです。「良心」をもつ日本人は、人権と民主主義の思想を擁護します。死者の魂は、それを願っているのです。


武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする