思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

どう呼ぶか?回心が必要です。民主的倫理と民主的社会のために。

2010-07-30 | 恋知(哲学)

残念ながら、日本語における人称(自他をどう呼ぶか)は、これ以上は不可能と思われるほどの上下関係の明示であり暗示です。わたしたちは、他者に呼びかける時、立場が上か下かをどれほど気にしていることか。呼び方における暗黙の規則の徹底を知ると慄然とするほどです(『ことばと文化』・鈴木孝夫著・岩波新書の「六・人を表すことば」を参照)。

この呼び方における上下文化が、自由対話・議論・熟議を著しく阻害しています。人間の生き方や社会のありようを考える言説までも、教える者と教えられる者との関係におかれ、対等・自由な対話が成立しないのです。

そうだからこそ、わたしが小林正弥さんに提言したように、少なくとも対話や議論の場(公共圏・公共空間)ではその人の名前に「さん」をつけて呼ぶことで、上下関係を廃する努力が求められるのです。

ついでに言えば、ネット上で匿名という条件ならば「好きなこと」を言えるが、実名では語れないのがわが日本人の現実です。これも言説内容ではなく、どのような地位や立場の人が言ったのかが主要な関心事になる「貧しい文化」のもたらす副産物です。また、思想とは「私」から立ち昇る「主観性の知」であることを知らないために、堂々と自説を述べられない心理に陥るのでしょう。
ネットウヨクが大声を出せるのも匿名の範囲に限られるのですから、笑止ですね。ウヨクもサヨクも客観神話に呪縛されて自由に身動きできないのです。金縛り!

また、同じ人なのに、社会的地位が上がると、本人も周りも態度が変わる。急に上から目線になり、急に自信たっぷりになり、付き合いづらくなります。本人も周りも立場が上になったと思い、それが言動を変えさせるようです。なんと愚かでツマラナイことでしょう。これでは民主主義は永久に不可能です。

脱線しましたので、戻します。

【どう呼ぶか?】これは、民主的な公共性を広げ・深めるためにとても大事な問題で、われわれ日本人が身体化させてしまっている常識を洗うことになりますが、これこそ「新しい公共」を実現するための鍵となる課題です。
「さん」付けによる民主主義を広げましょう~~~~。何よりも一番求められるのは、自分自身の生き方・常識を捉え返すこと、大げさな言い方かもしれませんが、「回心」なのです。


武田康弘

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コメント

さん付け、賛成です (森田明彦)
2010-08-14 14:15:07

お久しぶりです。
森田明彦@子どもの権利活動家です。

私も、これまでいろいろな組織で仕事をしてきましたが、ひとを役職名で呼ぶ組織とは相性が良くありませんでした。
そもそも、上下関係というものが苦手でした。

でも、自分の中に根深い階層意識があることも自覚しています。
日本人が克服しなければいけない最大の課題だと思っています。

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うん、最大の課題です。 (タケセン=武田康弘)
2010-08-15 14:12:19

「日本人が克服しなければいけない最大の課題だと思っています。 」(森田)

まったく同じですね。コメント、どうもありがとう!

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「さん、君、先生」公共空間における呼び分けは非民主的ー小林正弥さん批判

2010-07-28 | 恋知(哲学)

わたしは、議論する人をMLから除名してしまう小林正弥さんの非民主的な思想→態度は、他者に対する「差別的な呼び分け」に端的に見て取れると思い、

「小林さんは、公共空間においてさえも、【さん、君、先生】と呼び分ける。
これは「民主的公共性」とは無縁の行為であることが分からないのですか。
武田」
とメールしました。

すると小林さんは、
「小林です。
呼び分けの件については
地球平和公共MLで議論になったことがあります。おそらく山脇先生もそうでしょうが、
私に「さん」で呼んでほしいと言われる先生方もおられます。
しかし、敬語はその方に対する自発的な敬意の現れですから、
私が尊称をつけてお呼びすることは私の自由であるべきだ、と主張しました。
「さん」で統一するという考え方の方が私は自由に反していると思います。
この考え方は現在も変化ありません。」
と返信があったので、

わたしは、呆れて次のようにメールしました。

小林正弥さん
わたしは、あなたの「個人領域における自由」について問題にしているのではなく、「公共空間における言辞行為」の話をしているのです。両者は、次元が異なる世界です。議論の場である会場やMLなど、対等・自由を根本理念とする「民主的公共性」の時空においては、その主催者が対等・自由の理念を現実に実践しなければならないことは論を俟ちません。
これは、比喩として説明すれば、信号機のシステムと同じで、民主主義における対話・議論の根源ルール・共通ルールなのですからね。
いまからでも改めるべきでしょう。
武田康弘

それに対しては、
「拝復
私も公共領域における話としてお答えしました。公共領域における「さん」への統一に私は反対しています。
小林正弥」
と簡単な返信がありましたので、わたしは、続けて以下のように批判しました。

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小林正弥さん

なるほど、小林さんは、「公共空間」においても他者への呼びかけに「差」をつけるのをよしとするのですね。
そうなると、小林正弥さんは「差別」を肯定する人ということになります。
公共の場においても人への敬称に段階をつけるのを「正しい」行為だとするのでは、民主的倫理に基づく民主的公共性を広げる運動のリーダーとしては相応しくないと思いますが、いかがですか?

どうも「公共哲学」とは、元来民主的なものではないようですね。序列は当然で、ハーバードや東大が偉い、ということでしょう。そうだとすると、「公共哲学」の本質は天皇主権と変わりませんね。どうやら、小林さんらはその差別的体質を糊塗するために南原繁や丸山眞男を賞賛・研究でしているようです。東大総長や東大法学部の教授は武田さんより偉い?わたしは対等だと思っていますが(笑・当然)。
これでは、はじめから「熟議」は成立しません。差別主義による熟議では笑えない笑い話です。

ともあれ、呼び分けられた人の気持ちを考えるという「他者の尊重」がないのでは、みなの力による運動はできないのです。代表者がこれでは、はじめから負けているのですよ。

自由と平等を原理として生きる武田康弘より。
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わたしは、現代における公共性の追求は、民主主義を原理とする以外にはありえない、との不動の確信を持っていますので(文京区立・誠之小学校での「政治クラブ」活動以来47年間)、議論や対話を行う公共的な場における差別的な呼び分けは、民主的倫理に反し、民主主義を現実化する上において大変よくないことだと思います。

みなさんはいかがお考えですか?


武田康弘

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コメント

がんがらがんーアジアへの玄関 (すかぶら)
2010-07-29 18:30:56

「呼び捨て、さん、君、先生」
論議の前に決めつけてたら話にならないでしょう?
古い博多弁で、がんがらがんと云う言葉があります。
互いの違いを認めフィフティフィフティだから
お互い様で同じ事と云う意味です。
そんな気質がアジアに向けた玄関となり得たのかも?

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呼び分けは、多様性を奪う (タケセン)
2010-07-29 21:06:45

日本語における人称・呼び名の多様性こそは、個々人の多様性を元から断つ恐るべき詐術なのでしょう。

これは、レッテルを貼るのと同じ思想で、対等な関係性を認めず、尊敬すべき人、品位が低いと切り捨てる人、その中間の人、自分の配下の人・・・と区別→差別するものです。わたしとあなたは同じ価値を持つという平等思想を育てず、社会的役割によって人間存在の価値に上下をつける行為です。個々人の生のよろこびを消去する悪しき日本主義ですが、右も左も、どこかに「正しさ」の標準型があると信じる「弱い」精神がもたらす悪弊です。
内容そのもので優劣を競うことを恐れる精神は、悪しき惰性ー人間関係の固定化を願うのでしょう。
対等には耐えられない!(笑)。

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民主主義の基本が身についていないことの証明 (荒井達夫)
2010-07-29 23:52:45

「敬語はその方に対する自発的な敬意の現れ」というのも変ですが、だから、「私が尊称をつけてお呼びすることは私の自由」というのは、もうめちゃくちゃな論理ですね。

民主社会の「公=公共」の場においては、「すべての参加者が対等であること」を徹底して意識し実践する必要がある。これが肝心です。

その意味で、呼びかけ方を同じにすること「さん付け」が不可欠となる。そういうことでしょう。

呼ばれる側の者の気持ちを無視して、自分の都合だけで「さん、君、先生」を使い分けることが不当であり、「差別」につながるということが、理解できない。これは、民主主義の基本(民主的な倫理・品性)が身についていないことの証明です。

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「さん」付けの徹底を。 (this boy )
2010-07-30 00:18:56

私はどんな場所においてもどんな立場の人でも
同じ呼称で呼ぶべきと考えます。
それで「さん」付けを徹底しています。

私の現在の会社は超保守的で役職で呼ぶんですが
それがいやで溜まりません(苦笑)

先生と敢えて呼ぶのは学校の先生ぐらいです。
あまり呼びたくありませんが・・・・・。

医者、議員、弁護士、会計士等々を「先生」付け
で呼ぶ人の気持ちが理解出来ません。

特に議員は絶対先生とは呼びたくありませんね。

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最低、滑稽。 ( C-moon )
2010-07-30 00:21:14

公共空間で、呼び分けするのはおかしな話ですね。
明らかに意識的な差異、それも”レベル”差異を抱いているからだと思います。

この国ではまだまだ、天皇を神と崇めていた頃の、聖と賤の構図が、形を変えながら意識の底に残っているようです。

そして何かと、聖に近い場所に見を置きたがるのが悪い癖で、政治家同士が「先生」「先生」と呼び合っているくらい、馬鹿げた、最低で、滑稽な姿はありませんね。
たぶん、小林正弥さんも、そんなところに身を置きたい、「先生」と呼ばれることで、あたかも聖に近いところにいるのだと、気持ちよく錯覚しているのだと思います。「代議士先生」も然り!

「代議士先生」に公共空間で「C-moon君」なんて呼ばれたら、初めから諦めているから腹は立たないせよ、「この程度か」と思います。
僕は国会議員でも直接「~さん」と呼んでいます。その方は「先生」と呼ばれるより嬉しいみたいです。

「先生」と呼び合っている政治家に民主政治は期待できませんね。

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私の経験からー強烈な序列意識 (古林 治)
2010-07-30 00:42:10

私の経験から。

有名な東大医学部教授を筆頭にした医療プロジェクトにかかわったことがあります。
プロジェクトに群がる人々(教授、学生、業者)は教授を先生と呼び、批判はもちろん異論反論は一切なく、皆でご機嫌伺いするという構図。
上位者に従えば(服従すれば)、利得が得られるという何とも浅ましい姿がありました。
異論反論を申し立てる数少ない人々は煙たがられます。私もその一人でした。
当然のことですが、プロジェクトは本来の軌道を外れ、段々おかしなことになり、最後は空中分解に近い形で終わりました。
教授は一切責任を取らず、プロジェクトにかかわった業者(役員全員が東大出)は逃げ、残った数少ない人だけで後始末をしました。私もその一人でした。
同じく東大コンピュータ・サイエンスの有名教授を頭にしたプロジェクトがありましたが、こちらも内実は同様でした。(私は一週間の徹夜を強いられ体を壊してしまいました。)

一体どの時代の話かと思ってしまいますが、これが閉鎖集団の中ではむしろ普通なのかもしれません。当事者たちに序列意識の自覚がまったくないことに唖然とさせられます。

私の実体験からして、少なくとも、内容について語ろうという場では、序列意識を廃さなければ創造的な活動は絶対に出来ません。それにはまず呼称に留意することからはじめるべきでしょう。

ついでに言えば、ある市議会議員に頼まれて後援会会長を引き受けたとき、選挙運動に集まった市民の間でも、いつの間にか序列が出来てしまい、あきれたことがあります。仕事の役割分担上、上下関係が出来ることはありますが、それが人間関係の上下関係になってしまうのです。それはもろに呼称に表れていました。呼び捨てでこき使われる人が何人か出てきたのです。この空気をぶち壊すのはひどく大変なことでした。私が最初にやったのは、私自身を会長と呼ばず、「さん」づけで呼ぶように依頼したことでした。

ちなみに、先日、ノーベル賞学者二名を出した坂田研究室の坂田教授は自由闊達な議論を妨げる序列関係が出来ないよう、日常生活でも相当な努力をされていたと聞きました。さもありなん、です。

日本人の集団内では、序列意識を廃する意識を相当強く持たないと自由闊達な議論は不可能だと確信しています。議論の場では対等な呼称を利用するべき。
当たり前と思いますが、公共哲学を語るなら、まずそこから始めるべきでしょう。
授業聞くわけじゃないんだから。
あ!そうか。彼らは下々に教え諭す構えなんですね。
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受験エリートが偉い!という思想は、人間も国も滅ぼします。

2010-07-27 | 社会思想

受験エリートが偉い!という思想は、人間も国も滅ぼします。


多面的な人間の知性を、受験知に押し込め、ドリルに答えが書いてある問題を解くマシーンのような頭脳が一番優れているという歪んだ想念が蔓延しているために、なにもかも前に進みません。人間の生は貧しくなり、社会の問題は解決不可能になるのです。

受験競争の覇者に過ぎない知能の持ち主は、思想や哲学までも単なる技術として捉え、既存の価値観に従っているにすぎない自分の生き方を肯定するアイテムとして遇する、なんと愚かなことか。

そのような人間を「官」は重用し、肩書き人間を優遇する、これでは、とうてい民主主義国家とは言えません。民間人を登用する審議会は、実のところ官府の「主権在官」を補強するものでしかないのですね。オランダのウォルフレンは、何十年も前から、「日本の審議会は民主主義を破壊するもの」と正鵠を射る指摘をしていますが、真に優れた知性―問題解決能力がある頭脳は、既存のシステムの中にはないのです。受験知を集積したに過ぎない東大生・東大卒・東大教授が偉いという判断しかできない人間=頭脳では何事もなしえません。

例えば、今流行りの
ハーバード大学のサンデル教授の授業―「NHKのハーバード白熱教室」。
これくらいのことは、少し気のきいた人は昔から当然のこととして実践し、さらにサンデルの弁論術的手法や思考の限界を超えて、静かに深く思考し対話する哲学を私塾では(少なくともわたしは)何十年も前から実践しています。そういうことを何も知らない人たちは、サンデル授業程度で大騒ぎするわけですが、ほんとうに情けない話です。

わたしの個人的体験で言えば、なぜ、どうしての探求―哲学的な対話は、父と子の対話として幼少期からずっとしていたことです。

そういう一番大事な頭の使い方をせず、受験知一直線で生きてきた人が大学の教授になり、官僚になり、NHKや新聞社などのマスコミ人になる。そうだから、形だけの頭脳が幅を利かす歪んだ社会になるのです。東大主義の教育が大手を振るう社会では、「表層リコウ・深層バカ」が上位者・管理者になるのですから、魅力ある人間や社会が生まれるはずがありません。

もういい加減に気づいたらどうでしょうね。わたしが匙を投げる前に(笑)。


武田康弘

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田村哲夫氏が運営する渋谷教育学園渋谷校とは。古林 治

2010-07-25 | 教育

以下は、古林治さんからのメールですが、貴重な体験談ですので、ぜひご覧ください。

「日本には教育はない」、と言いたくなります。


古林です。

鈴木文部副大臣のレジュメに記載されていた熟議懇談会のメンバーに田村哲夫という人が載っていました。
この田村哲夫氏が運営する渋谷教育学園渋谷校(通称:渋々)について触れます。5年前まで姪が通っていたのです。
多分、最近の学校教育の実態がわかるかと思いますので。
渋々物語、少し長くなりますので、ご容赦。関心のある方は最後までお付き合いください。


以下は、Wikipediaに記載の事実学
===================================
田村 哲夫(たむら てつお、1936年2月26日-)は、日本の教育者。
1936年、東京都に生まれる。麻布高校を経て1958年に東京大学法学部を卒業し、住友銀行に入行。 1962年に住友銀行を退社し、渋谷学園理事に。1970年からは同学園理事長。
渋谷教育学園幕張高等学校は首都圏屈指の進学校として知られる。また、従来からあった渋谷女子高等学校を廃止して、渋谷教育学園渋谷中学校・高等学校を新設、進学校化した。また、年に五度ほど校長講話という生徒と対話する時間を設け、現代社会を生きる術を教えている。

学校法人渋谷教育学園理事長、
同学園幕張中・高校校長、
同学園渋谷中・高校校長、
東京医療保健大学理事長、
麻布学園理事、
青葉学園理事、
日本私立中学校高等学校連合会会長、
日本ユネスコ国内委員会会長、
中央教育審議会委員を務める。

翻訳家でもあり、リチャード・ホーフスタッター「アメリカの反知性主義」などがある。

雅号は「哲山(てつざん)」。
===================================

このほかに国連で教育について発表したことがある、らしいです。姪が渋々にいたときに田村氏が自慢していたそうです。
これだけエライ人だと(権威が沢山くっついてると)政府筋も内容については何も問わずに教育審議会のメンバーにしてしまうのでしょう。ただし、審議会メンバーは自民党政権時代の話。
今もそうなら自民党政権時代と何の違いがあるのかわかりませんね。


さて、姪はハーフで片親でしたので相応の屈折がありました。それが後日、渋々で問題になることに・・・
受験当時は彼女の片親である私の妹もまだ生きていましたが、中学一年時にガンにて他界しました。親がおらずしばらく反りの合わない祖父と暮らしていましたが、その後、私が引き取ったというわけです。
そういうわけで、渋々受験時から私が親代わりの付き添いをやっていました。
『どうして渋々がいいの?』
『あそこは自由な校風だから。』
『ふ~ん?』

入学式時にはじめて田村氏の話を聞きましたが、教育の話についてはまったく印象に残っていません。覚えているのは、知識と名声をひけらかす人だな、という点と、受験効率の話のみです。

高校一年までに受験の習慣(何の疑問も持たず機械的に勉強すること)をつけてしまえば、大学はどうとでもなる、というものでした。
実際に、入学してからの詰め込みは凄まじく、教科によっては中学一年で高校一年レベルのものをやってしまうという状態(確か生物だった)。このことを生徒たちも他の学校とは違うのだというエリート意識へと転換させているようでした。
要は、『一体何の意味があるの?』という問いをすべて放棄し、ひたすら受験知へまい進する生徒を作り上げることが教育だということです。それを高校一年までにやってしまえば勝ち、というわけ。
繊細な感性によって何かを感じ取り、疑問に思い、考え、言葉にし、対話をし、思考を深め、自らの生を鍛えていくという本来の教育のすべてを放棄するに等しいことをやれというわけです。
ここには海兵隊の教育と合い通じるものがあります。最初に人間性を奪い取り、殺人マシンに仕立てていくのが海兵隊の教育です(スタンリー・キューブリック作のフルメタルジャケットを見ていただければよくわかります)。
受験知に何の疑問も持たない生徒を作り上げる教育。それは確かに受験効率からしたら、最も高い成績を残せるのでしょう。
でも、海兵隊教育と同様、すべての生徒がそれにはまるわけがありません。
高校一年になると、クラスわけもすべて成績順、最後のクラスは落ちこぼれというわけです。精神科に通い、うつ病の薬を処方してもらう生徒が結構多い、と姪は言っていました。

さて、中学一年の最初から、毎日夜中まで予習に復習に宿題と、その量は半端ではありませんでした。姪は慢性的な寝不足状態。それでもやり残しがたくさん出ました。
意味があるのかないのかわからずに、大量の問題を解き続けるのはかなりの苦痛を伴います。それに鈍感な生徒は優秀とされ、耐えられずに落ちこぼれていく生徒は頭が悪いと思われるのです。
勉強が出来る=点が取れる=優秀だ、の単一価値によって子供たちを測ることのおぞましさに誰も疑問に思ってない様子でした。少なくとも昔は受験知は必要悪だ、という感覚がどこかにあったものですが、今やそれすらも無くなり、受験での勝ち戦という現実主義が教育そのものに成り果てているようでした。

田村校長がときどき行う校長講和は、姪に言わせると、毎回異なる事例の話を持ち出すのだが、結論はいつも一緒で自分の自慢話、成功話でしかない、のだそうです。
エライ私が君たちを教え諭すのだ、というわけですね。
私が一つ覚えているのは、当時、渋々の生徒だった柔道の中村美里(女子軽量級の日本代表)選手の話を校長がしたそうです。
『でも、中村選手って渋々で強くなったわけじゃないし、渋々で練習してるわけじゃないでしょ?』
『ウン、確かに。』
まだ、女子柔道が花開く前でしたから、そのときから力を入れればスポーツでも学校を売り込むことが可能です。スポーツで名前を売ってる学校はありましたが、それは受験校ではありませんでしたし、中学ではまだやっていませんでした。多くは私立の高校で有名選手を勧誘するパターンでしたね。
そこに目をつけたのでしょう。目ざといのは確かです。
受験成績だけでなく、スポーツでも売り込み、親から受けついだ渋谷女子高等学校をあっという間に新進の有名人気受験校にしてしまったのですから、その手腕は確かに見事です。
もちろん、学校ビジネスという観点から。
その手腕はいろいろなところに見て取れます。有名デザイナーによってデザインされた制服、同じく有名デザイナーのデザインによる机。
生徒に対する校長の推薦本リストはまた親たちの知への関心、エリート意識を充足させるものです。さまざまな哲学・思想の類の本がずらり! 竹田青嗣さんや西研さんの本も入ってました(笑)。
そういうわけで、この学校に来る舎弟の親には有名人、学者、一部上場企業の相応の地位にある人、官僚など、世に言うエリートばかりだったように思います。無意識のうちに、生徒たちはどっぷりエリート意識に染まっているというわけです。怖ろしい話ですが、おそらく、ほとんどの生徒、親、教職員はこのことに無自覚です。


そうそう、議論が大事だ!だからこの学校でもディーベートの時間を沢山とっていると田村校長が自慢していたこともありました。流行に敏なのです(笑)。
姪はどちらかというと、それが得意でクラスで準決勝まで行ったことがあります。
『でも、「山が良いか海が良いか?」、「長男が良いか、次男が良いか?」、そんなこと言い合って勝負して何の意味があるの? 自分たちが抱える具体的な問題についてみんなと話し合って深く掘り下げていった方がズーッと創造的だと思わない?』
姪は当時は『確かにそうだけど、学校が・・・・』の反応。
学校は対話を学ぶ場ではなく、弁論術、言葉の喧嘩を学び、勝ち組、ソフィストを作り上げる場だったのです、実は。さぞ優秀なソフィストが生まれることでありましょう。

この学校にい続けるのは姪にとって非常にまずいな、と思い続けた私ですが、何かのきっかけがないと転校を強く勧めるわけにはいきません。日常的にはいろいろな会話はしてるのですが。
姪:『○○ちゃん凄くユニークなんだ。お父さん、○○大学の教授なんだって。』 羨望のまなざしで。
私:『そうか、だから良識ないんだ。』
姪:『・・・・』

姪:『学年主任のM先生凄いんだ。京大出でね、新聞の端から端まで全部、どんな小さな記事も全部読んでるんだ。』
私:『ふ~ん、それにどんな意味があるの?』
姪:『・・・・』

私:『どうして渋々にしたの?』
姪:『自由な校風に見えたから。』
私:『自由な学校だったら制服なんかないんじゃない?』
姪:『あ、そーか。』
私:『あそこ、自由な学校?』
姪:『全然!』

ある日、機会がやってきました。
姪が友人のシャープペンシルを目の前でへし折ったというのです。これはいじめに違いないと学年主任のM先生と筋肉頭(と姪が言っている)の体育教師が姪をおよそ7時間に渡って軟禁状態にし、尋問をし続けたのでした。
力が強いということを顕示しようと、友人が折れるか?と持ち出したシャープペンシルをその場でへし折ったというお馬鹿な行為だったのですが、以前にネットで友人の悪口を書いていた前科があり、勝手にいじめだと決め付けて軟禁・尋問をやり続けたのでした。
この事件には、前フリが少しあります。学年主任のM先生は社会科の教師でもあり、授業中に中国の悪い面ばかりを教えるというのです。そのせいで、クラスは中国・中国人への嫌悪で満たされ、クラスにいた姪の中国人の友人がおびえるような状態にまでなっていました。
姪は『なぜ中国の悪い面ばかりを教えるのか。変ではないか。中国人のTさんのことも考えてくれ。』
と何度か異議を申し立てに行ったのですが、満足する返事はもらえません。
そのうち、両者の関係はとても良好なものとはいえない状態となりました。片や、問題のある子だ、どうにかしないと、と思い、姪の方は嫌な先生だ、信用できない、と思っている状態。
そのような関係のまま、教師が生徒を7時間に渡って閉じ込めて尋問し、怒鳴りつけるという行為は明らかに異常であり、児童虐待、人権侵害以外の何物でもありません。
姪と私は学校に呼び出されました。相手は学年主任に副校長(田村氏の娘)に教頭、それに担任と、オールスター勢ぞろい!大将の田村氏がいないのが残念ですが、彼らがどれほど優秀なのか明らかにする絶好の機会到来です。
一通り学年主任の説明があり、いじめは無かったと判明しました、と役人のような説明。
次に教頭と副校長の高尚な教育論を承ります。
一通り、学校側の説明が終わり、私の番。
やったことは叱られて当たり前のことですし、当人が謝罪し反省することも当然のことと思います。
ただし、疑わしいという理由で、信頼関係の無い教師と生徒の関係のまま、密室に7時間も監禁し執拗な尋問をし、怒鳴りつけ、被害者が落ち込んでいるという嘘を言ってまで自白させようとするのは警察の尋問と同じですね!
挙句の果てに、いじめの疑いは晴れましたではどこかおかしくないですか。
これは人権侵害ですよ!姪に謝罪しましたか?
と問い返すと教頭と副校長は目を白黒させて沈黙。学年主任はオドオドして致し方なく姪に謝罪することになりました。担任だけが状況を理解していたようです。
終了後、『辛かった?ごめん。あたし、事情全然知らなかった。』と言ってました。
多分、教頭と副校長は人権侵害についてまったく理解できなかったと思います。
学年主任は言われてから、しまった、という感じでしょうか。
このあと、姪の友人の間で、あの連中が私に謝ったんだよ、としばらくの間、話題もちきりのようでした。
エライ人たちの実態が姪にもはっきりと見えた点では良い経験だったと思います。

こうしてようやく渋々を去る決心がつき、去ることになりました。渋々の偏差値の高さがある種のプライドをくすぐっていたでしょうし、場所(渋谷)も制服もまた魅力だったのでしょう。さらに、やっとできた友人たちとの別れが決心を鈍らせたようですが、中学2年の6月の終わりにようやく我孫子中学へ転校することになりました。
本人にとっては都落ち。慣れるのに一年半ほどかかりましたが、後日、転校してよかったと本人も言っています。
普通のサラリーマン家庭の子、農家の子、学校教師の子、地元商店の子、といったごく普通の人々が普通に暮らす世界なので、極めて健全だと思います。
ここから渋々を見るといかに自分が異様な世界にいたのかがわかるとも言っていました。


受験知の実態がわかるかと思って渋々での体験を書き綴りましたが、渋々が特別でないことは今姪が通っている土浦日大の実態を見てもわかります。
洗練度は違いますが、詰め込みは一緒で、受験知=教育と化しています。理科の実験は一切ありません。教科書に書いてある、というわけです。
高校1年次から3年にいたる父母会のほとんどに出席していますが、教育の話は皆無です。
あるのは受験の話のみ。
学年主任とは何度か直接話しましたが、私の言い分に同調するフリはするものの実態は東大病に完全にやられているようです。(困ったことに、この人、竹田青嗣さんの信奉者です、笑)
江戸取(江戸川学園取手校)で最も多くの東大生を出した担当の二人がこの土日に引き抜かれ、学年主任と英語担当を担っているというわけです。
二人とも東大出であり、東大にいかに沢山の生徒を入れられるかが使命と思っているようです。
ただし、昨年度はゼロ!でした(笑)。


渋々や土日が特別なのではなく、私立校の生き残り策として受験結果がすべてという風潮ができてしまっているようです。少なくとも有名私立校は大なり小なり受験知の塊と化していると聞きます。
そこで働く人たちは無論悪意でそのような教育をやっているわけではなく、本気で子供たち(とその親たち)の要求に応えるべく必死に受験知に情熱を注ぎこんでいる善人なのです。人間破壊をやっているという自覚など当然まったくありません。それが怖ろしいことなのですが。


受験知は客観知による支配=人間性の否定、権威主義、エリート主義、思考停止を招き、豊かな民主制社会を阻む最大の要因と化しています。
これは何とかしないとねえ、と思っているところへ、あの鈴木文部副大臣のレジュメが来たものですから本当に気持ち悪くなってしまいました(笑)。

長くなりましたが、渋々物語、いかがでしたか。
この渋々の田村校長がこの国の教育の方向性に何らかの指針を与えているとなると、皆さんもゾッとされることでしょう。
日本の教育何とかしなくちゃ!


以上でした。

ps.実のところ、自由の森学園での戦争と同じことになるんじゃないかと内心、
  戦々恐々でした。
  あちらは給料もらって仕事してる身ですけど、こっちは全部持ち出しの無
  料奉仕ですからね。


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コメント


まるで「児童虐待」 (ざらすとろ)

私は受験だとか進学校だとか一切無縁な人生だったので、
実態をこのような形で伺うと、こいつらアホちゃうかと思います。

もし自分に子どもがいるとしても、こういうアホどもにだけは子どもの教育を任せたくはないものです。こういうアホがこの国を動かしているんじゃ、そりゃ、こんな酷い状態になるのは自明です。
こんな教育を12年間も強要する事そのものが児童虐待です。

少なくとも国家や経済を動かしていくだけの教養や知性、論理性、
洞察力はあのやり方では間違いなく身に付かない。
日本の未来は絶望的に暗い・・・

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まず親が覚醒しなければ (Cmoon)

7時間に及ぶ自白強要は、特捜の被疑者尋問を思わせます。
なぜ、そこに厳つい体育教師がいるのか……まるで昔の特高のようですね。あるいは、暴力団的な発想も感じます。
保護者を呼び出し、副校長、学年主任、担任とここまで揃わないと、保護者に事のあらましを説明できないのでしょうか。担任一人で済むことです。
ここにも、官僚的な臭いがぷんぷんします。我々が役所に行って、何らかの不備の説明を求めると、次から次へ責任者と言われる人が出てきます。そして、何とか問題にならないように説き伏せようとする。

何だか、怖ろしい光景を見ているようです。

フルメタル・ジャケットも彷彿しますが、ヒトラー・ユーゲントの教育現場を見ているようにも思えてきます。
どちらも人間性を喪失させ、誤った一つの価値観を持たせ、魂を失った操り人形のようにさせてしまうこと。
海兵隊は、米軍の誇りであり、ヒトラー・ユーゲントは、将来のエリートとでした。

日本のエリートが、このように創られていると思うと、暗澹たる思いです。
教育現場では、教師はもちろんですが、その前に親が覚醒しなければならないですね。
その親の世代も、受験戦争を経験している人が多く、是としないまでも、否定はしない人が多く見受けられます。でなければ受験のための塾はこれほど繁盛しませんから……

嘆いていても仕方ありません。実践するしかないですね。

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教育は「染脳」ではない。 (茶所博士)

教師はえてして権力者、独裁者になりがちですからね。生徒は反逆の精神を以て答えねばなりますまい。さもなくば、無気力で面従腹背の輩となります。
 教育関係者の言う「素直」は「従順」、もっとはっきり言えば「服従」「隷従」と混同していますね。子供のうちから奴隷化というか、家畜化というか、おぞましいことです。しかも当人たちは聖職と思っているのだから始末が悪い。
 「洗脳」というより「染脳」と書くべきだと言う人がいるほどですからね。染脳された子供が本来の自分を見失って、様々な社会問題を引き起こしているのが現在の我々の状況であると大人たちは心得るべきです。

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洗脳ではなく、占脳と染脳は根源悪 (タケセン)

先入観、既存の価値意識に染まっている脳を洗う(洗脳)ならば、よいことですが、学校は、自分の頭で考える力をつけるのではなく、脳を占拠する(占脳)であり、脳を染める(染脳)であることが多く、民主主義国家における教育になっていません。主権者=決定者は、われわれなのにです。

「公共」(こどもたちを中心として親たちと教師たちの自由対話による決定)と乖離した教育は、根源悪なのです。それを皆が意識しないといけません。東京都教育委員会(石原都知事)もそうですが、経営者による独裁的・独善的教育は許されないのです。

教育の「民主的公共化」は、現代日本の最重要課題です。

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「官=公=国家」を維持強化する (荒井達夫)

とにかく受験エリートが一番偉い、という価値観を広く深く植え付け、「官=公=国家」を維持強化する役割を果たすことになると思います。

これでは「新しい公共」など実現できるはずがありません。

とても恐ろしい話です。



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閉鎖空間から一歩出る勇気を! (古林 治) ―小林正弥さんへ。

2010-07-24 | 社会思想

以下は、古林治さんのコメントです。


漫画家で右派論客の小林よしのり氏は異なる思想を持つ人々と積極的に交わり、日々タフになり続けています。その思想内容はともかく。
小林正弥さんはこの小林氏と正面から討論ができるでしょうか?

優しい仲間しかおらず、厳しい批判を許さず、批判は黙殺、排除。自分の考えは本にするだけ。そしてまた、特定の人だけが先生と呼ばれるような序列意識に捕らわれた閉鎖空間にいては何の成長も見られず、広がりもまた期待できません。

そこでは、『真理』を否定しながら、自分だけの脆弱な『真理=自我の想い』を温存するだけの話です。ひ弱な思想オタクで終わるほかありません。

まして、そのような場に『公共哲学』という名称を冠するなど冗談にもほどがあります。

小林さんの根本的な姿勢の変更を望みます。

そうそう、先日のサッカーワールドカップ。日本代表は、『俺たちは下手くそなんだから、泥臭くやるしかない。』と、言って真剣勝負に臨みました。そこから代表の急成長が見られました。
自分を率直に見詰めることの大事さと難しさがあることを改めて見ることができました。
心を開いて閉鎖空間から一歩出る勇気を持ちましょう。
自戒をこめて。
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口先だけ、口舌の輩では、人生悲しいまま。

2010-07-23 | 恋知(哲学)

日々の生活を踏まえ、生々しい現実を前に、リスクを背負って生きる、そこから考えを紡ぎ出す。
そういう基本がなく、
情報を収集し、あるいは、本の読解や、知のパズルを解くことで、なにかをなし得たと思う。
現代は、そういう思想や哲学ばかりです。人間力は弱く、観念知・表層知による哲学だけになってしまいました。みな口舌の輩に過ぎません。

受動的であること、主張しないことが「いい人」とされ、闘うことのできないひ弱な人間を育成することが教育とされ、既存の価値に従って序列を上げていくことが優れた生とされ、受験知が文化となる。

なんと愚かなことか。
学者や評論家が偉い!?口先だけで、実力のない人。たいしたことはできないで、言葉だけが達者な人。肩書き抜きの討論からは逃げる人。すぐオタオタする弱虫。

わたしは、あなたは、いったい何が、どれくらいできるのか? 口先で誤魔化す人生は悲しいです。服を脱ぎ、裸の自分を見つめなければ。


武田康弘
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小林正弥メーリングリストの悲喜劇?(武田)ー税金での運用なので憲法違反です(荒井)

2010-07-22 | 社会批評
わたしは、公共哲学mlの中で議論したところ、突然除名されました(驚)。
この会の代表・小林正弥さん(千葉大学教授・NHK「ハーバード白熱教室」の解説者)が高く評価するサンデル教授の思想を批判し、同じく小林さんと近い関係にある鈴木文部副大臣のレジュメを批判する古林治さんのメールを転送したところ、3時間半後に、突然登録を削除されました。
小林さんは、「武田さんの思想は内容も表現も気持ち悪い」というある人のメールを肯定し、直ちに除名となりましたが、なにか怒るよりも呆れて笑ってしまいます。

経緯ですが、
21日の午前(夜半過ぎ)1時~3時の間に4通もの小林さんのメール(わたしを批判するもの)があることを、朝わたしは見て、以下のメールを出しました。

――――――――――――

21日(水)午前9時49分

小林さん

ようやく内容について触れましたね。

竹田さんには、これを機会にきちんと論争に加わって頂くようにしましょう。小林さんのサンデルへの無批判的讃辞は、反哲学的な態度であり、いやしくも哲学を名乗るml参加者としては、到底見過ごしにはできないですから。

古林さんの回答も今日か明日中にも書いて頂き、流しましょう。すでに彼には「品位が低い」という小林さんの批評を伝えてあります。

なお、数年間、わたしは同じようにこのMLで発言してきたわけですが、突然にこのような扱いを主催者から受けるのは、なぜでしょう。

それにしても、あなたは何を指摘されても無反省で自己正当化をはかるだけですねー「運動家」にありがちですが。これでは、少しも新しくなく、公共的でなく、哲学的でないのですよ。

なお、わたしの言う「東大病」を「東大主義」と言い換えて、その克服を企てている東大関係者(有力者です)から、「武田さんの意見に全面的に賛成します」というメールを頂いています。「小林さんの権威主義には困る」という内容の個人メールも複数の方から届いています。

とにかく、除名をチラつかせて、言論の自由を抑えるやり方は、関心しませんよ。

わたしは、集団で一人を非難する反民主的な言辞行為をしたことはありませんし、他者の人権侵害にあたることもしていませんし、暴言を吐いたこともありません。わたしが行い、これからも続けていくことは、ただ一つです。疑問点について、できるだけ明瞭に意見を述べること。それへの内容的な反批判に対してはきちんとお応えし、いろいろ吟味を続けていくことです。そのような恋知(哲学)する営みこそは、人間がよく生きることそのものだと思うからです。
(+情報発信のサービスはします)

武田

―――――――――――――――――――

その3時間半後に、「登録を解除しました」との通知が、小林さんから個人メールで入ったのです。
(わたしがメールを見たのは、夜仕事が終わった後ですが)


まったく公共的ではない「公共哲学」運動家・小林正弥さんにはただ呆れるほかありませんが、公金で運用されているわけですから、笑っているだけ、というわけにもいかないでしょうね。


武田康弘

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コメント

権力欲と小心さの果てに (古林 治)
2010-07-22 22:27:39

対話せず、他者の意見を受け止める器量も無く、それでいて政権に擦り寄る権力欲の大きさだけが目に付く小林さん。
都合悪くなって、タケセンを排斥。
あきれ果てるほかなし。
だから良識ある市民は学者さんを信用しなくなるのですよ。

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俗物的な学の権威のために、公共を放棄した (荒井達夫)
2010-07-22 22:53:40

金泰昌さんは、公共のために俗物的な学の権威を放棄して、武田康弘さんや私との論争を掲載した「ともに公共哲学する」(東大出版会)を出版した。

小林正弥さんは、俗物的な学の権威のために、公共を放棄して、武田さんや私との論争を避け、公共哲学MLから私達を除名した。

私は、そう考えています。

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哲学の自殺行為 (恋知A)
2010-07-23 23:58:14

私は、武田さんのサンデル教授批判についてどれほどの妥当性を有しているのかは、その論を詳しく見ていないので分かりまえせん。鈴木文部副大臣のレジュメに関しては全くの無知です。また、武田さんの思想は内容も表現も気持ち悪いという感想の根拠も分かりません。分からないことばかりですが、申し上げます。
いやしくも学者たるもの、学問や真理の前ではリベラルであるべきなのは、当然な態度といえます。また公共空間なるものがあるとしたら、異質な他者をどれだけ許容できるかが、その空間の底力の度合いを示します。かつて丸山真男は、『日本人の他者感覚のなさ』を嘆きました。自ら異質な他者を排除することは、自らの首を絞めることと覚悟すべきです。公共空間とは、開かれた言語空間であり、一定のルールの下にリベラルな対話が必要で、それ無しには進歩などないのです。加藤周一も『批判のないところに進歩はない』といい、久野収は、『敵からこそ学べ』といっていました。
武田さんがよくて、小林さんがだめ、その逆でもない。個人の善悪の話の次元に矮小化すべき問題ではないのです。
こういうこと繰り返せば、精神の自由を尊ぶ『哲学』の自殺行為となることを自覚することが肝心です。異質な他者をおおらかに包み込むような、柔らかな、かつ芯のある知性を持ちたいものです。

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小林さんの行為は憲法違反である (荒井達夫)
2010-07-24 06:59:29

難しい話は不要だと思います。

・「公・私・公共三元論は妥当か」
・「サンデル教授の思想をどう評価するか」

これらを公共哲学ML内で議論してはならない。この議論で不快な思いをするML参加者がおり、退会者の続出を防ぐため、荒井達夫と武田康弘を除名する。

これが、今回の除名事件の実体です。

小林正弥教授(千葉大学公共哲学センター長)の行為は、明らかに思想・良心・言論・表現の自由に対する侵害であり、また、公共哲学MLは、国民の税金で支えられている国立大学法人千葉大学(公共哲学ネットワーク)が運営しているのですから、事は重大深刻というほかありません。
http://public-philosophy.net/center-ja

小林さんは、民主主義社会ではあってはならない反社会的行為(憲法違反の破廉恥行為)を、「公共哲学の名において」したということ。このことをしっかり認識すべきでしょう。

公共哲学ネットワークはもはや存在意義を失っている、と私は考えています。




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過去ではなく現在。未来ではなく現在。この今こそが特権的価値をもちます。

2010-07-15 | 恋知(哲学)

わたしたち人間は、時間をたえず意識する存在なので、時間的存在と言えます。
過去・現在・未来、という表象を持ちます。
しかし、その三つは並列される概念ではありません。

過去の追憶も、未来へのイメージも、この今の意識に上るのであり、明瞭なのは、この今の意識のみですが、その今は、ある長さの時間の幅をもった現在として存在します。
一瞬というのではなく、「ある幅をもった現在」をわたしたちは生きています。

歴史的な出来事は、その現在との関係の中でのみ、意味と価値をもちます。過去それ自体に意味と価値があるのではないのです。
過去の事実は、現在を豊かにするために用いられたときにだけ輝きます。どのようにこの今をいきたいのか、生きるのがよいのか、その想い・考えが、過去の見方・評価を導くのであり、それ自体の「意味」が客観的に存在するのではありません。
今のわたしたちの生の欲望・関心の質が過去の評価をするのです。これは原理です。

だから、その時々の支配的な潮流に流された営みではなく、人間の生の条件をよく見つめ、深く探求する営みには、歴史を超えた価値が生じます。そのような営みには、「人間性」の刻印が深く刻まれているので、この今(ある幅をもった現在)を生きる人に、悦びや勇気を与え、この今の輝き、生の充実をもたらすのです。知識や理論ではなく、自分の経験を自分の頭で考えるという哲学する営み(哲学書を読むということではありません)が、豊かなエロースをもたらすのは、それが人間が生きる意味そのものだからです。

意識存在であるわれわれ人間は、たえずこの今を意味づけ、価値づける存在であり、その営みがほんらいの哲学であると言えます。だから、哲学とはすべての人にとっての必需品なのであり、エロース(魅力の源泉・湧出)そのものなのです。

それが了解できれば、未来とは何か?が分かります。未来とは定まったものではなく、可能性のことですが、それはイメージとしてのみ与えられます。今をどう生きているか、が、その未来のイメージをつくるのです。

過去、現在、未来、とは、並列されるものではなく、この今(ある幅をもった現在)が特権をもつのです。日々、現在をどう生きるか、生きられるか、それこそが過去を活かし、未来を切り開く鍵となります。過去への逃避や、未来への妄想は、現在の輝きや充実を阻害します。いまを生きよ!いまを充実させよ!いまを深めよ!それのみが、時間的存在であるわれわれ人間が「よく生きる」条件なのです。


武田康弘


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「品位が低い」と他者を批判すること。

2010-07-13 | 恋知(哲学)

結論から言えば、

品位がない、品位が低い、
と言って他者批判をする行為は、根源的な【差別意識】がもたらすものと言えます。

現代の民主制の社会では、「わたし(たち)の思想や営みは品位が高い、あなた(たち)の思想や営みは品位が低い」、という発話は許されないはずです。

そういう言葉を投げつけられた人は、どうしたらよいのでしょうか。反論のしようがなく、対話・議論は成立しません。こういう言い方はケンカの言葉でしかなく、対話を拒否し、自分の優位を宣言する「本質的に反民主的な言辞行為」だと言うほかありません。

具体的な内容への批判ではなく、「あなたの思想は品位が低い」という発話は、民主的倫理の基本を逸脱した発話であり、人権侵害にあたります。

具体的な例をあげます。

日本料理で魚が出されるとき、尾頭付きの鯛、鮎の塩焼きなど、丸ごと一匹魚がでますが、同じく島国のイギリスでは、そのような食べ方をしません。イギリス人の中には、日本の魚の食べ方は品位がないと感じる人もいるようですが、もし、「魚を切り身として調理するわれわれイギリス人に比べて、丸ごと食べる日本文化は品位に劣る」と発話したらどうでしょう。国際的な人権問題になりますね。

異論、反論、批判は、大切です。しかし、それは具体的な内容として行うべきであり、品位が低い、というような類の発話は、相手を揶揄し、相手を貶め、相手を認めない発話でしかなく、対話・議論になりません。民主制の社会では許されることではないのです。

本質的に品位の低い=下品な発話とは、何かしらの権力(地位や権威や財力)を背景にして、相手に有無を言わせない言い方のことです。対等な人間関係の中で、相手に投げつけてよい言葉ではありません。

わたしは、ディべートや弁論ではなく、対等で豊かな対話(それがほんらいの哲学です)をしていきたな、と思います。「私」の深い納得の営み=哲学が成立するためには民主主義が必要であり、民主主義をよく作動させるためには哲学が必要です。対等で自由な裸の「私」同士の言葉のやりとりが哲学の基本ですので、権威に頼ることは哲学の営みとは背反するのです。これは、原理です。


武田康弘


※上記は、「公共哲学ML」における千葉大学の小林正弥教授の発言(わたしに向けられたもの)に対しての意見です。

小林さん、異論・反論等のご意見がございましたら、ぜひ、コメント欄にお書き込みください。

なお、「公共哲学ML」においては、発言しない自由があると小林さんは主張され、わたしの意見に対しては返答がありません。

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コメント


頭が悪い、というほかありません (荒井達夫)
2010-07-13 20:36:44

「わたし(たち)の思想や営みは品位が高い、あなた(たち)の思想や営みは品位が低い」

これは、単に相手を誹謗中傷するだけの言葉であり、大人の発言として許されるはずがありません。

このようなことを真面目に言っているとしたら、言って良いことと悪いことの区別がつかないのでしょう。

頭が悪い、というほかありません。

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Unknown (古林 治)
2010-07-14 08:13:49

『品性の程度、正邪の判断はすべて私がするのです。』
と言ってるに等しい。ものすごいタカビー目線ですね。
強烈な序列意識にしばられた方なのでしょう。
頭が悪い、というのはまったくその通り。
思考力はなく、ひたすら上位者に媚びへつらい、下位者を見下す。
官僚もマッツァオ。(失礼)

ーーーーーーーーーーーーーーーー

品位を理解しておられない (清水光子)
2010-07-14 10:13:19

小林正弥さんの言われる品位とは 品位と言うことの意味を理解しておられないのではないかと思えます。呆れています。

真善美を心から求めて考え生きるのが哲学すること と思う八十才になった私は「東大病」に毒されたくありません。差別意識をもったまま棺桶に入るのは御免です。

--------------------------------

上?下? (タケセン)
2010-07-14 12:08:09

わたしは、小林さんに対しても、サンデルさんに対しても、自分が上とか下という意識はありません。
あることについては、わたしは優れていて、あることについては劣っているわけですが、それは当たり前の話であり、大事なのは、よく考えて忌憚のない意見を述べあうことです。
それにより、考えは豊かになるのですから。
わたしは、誰も下におこうとは思いませんが、誰かの下になろうとも思いません。
内容・中身のよさを求めて考え・生きたいと思いますので、清水光子さんと同じ思いです。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

Unknown (はりや~)
2010-07-14 15:01:30

こんにちは^^

「品位が無い」と人に言う人は
それがレッテル張りである事に気がつかないのでしょうね

自分にとって味方で無ければ敵

そのどちらかでしか他者を見れない

宗教と言う言葉が日本では差別用語です
それは宗教と言う自分にとって理解するのに時間が掛かる物を
理解出来ないと決めつけレッテルを貼る

○○は宗教だからと言って、それに対して理解を示している人を攻撃する

「品位が無い」と言うのも同じだと思います

全て否定するのは簡単ですからね

対話や議論が他者を否定し攻撃する為に存在しているのではなく
理解不能な他者を理解し真実を求める作業だと自分は思います

ツイッターやmixiをやっていて感じるのは
レッテル貼りをする人が増えたのは悲しい事ですね

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

他者攻撃は自信のなさをかくすため (this boy)
2010-07-14 23:47:36

議論する時に曖昧な感性を持ち出すのは論点を
はぐらかそうとするか逃げようとしているでは
ないかと思います。

結局自分の信念とか人間性に自信を持てない人が他者を攻撃することによって自分の自信のなさを隠そうとするのでしょうね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

Unknown (青木里佳)
2010-07-14 23:53:59

優劣は、「考え」の内容で競うもののはずです。
小林さんのように、内容での議論はせずに「品位がない」と言う人に、品位があるはずがありません。
しょせんは上に立ちたい「権威主義者」のエゴにしか過ぎないでしょう。
そして心も考えも狭い人がすることとしか思えません。

----------------------------------

権威主義と序列主義を引き寄せる発想 (古林 治)
2010-07-15 15:27:53

この国の省庁で働く官僚という人々はある意味究極の専門家で、立場上、普通の人はおろか政治家さえ知りえないことをたくさん知っているわけです。学歴に加えてその事実が特権的な意識を生み出すのでしょう。
おのずと、多くの知識を獲得した人間に価値があるという場が出来るのも頷けます。
そして、彼らの発想の原点が、(佐藤優氏によれば)本能的に快・不快と自らの立場の保全をめがける点にあるとすれば、本質的なレベルでは賢いとはいえません。

片や(特に社会科学系)大学教授という人々。こちらも普通の人が知らない専門知識や理論をたくさん持っています。中でも欧米先進諸国の最新理論を知る者はさらに上位者として崇められます。欧米を頂点とするヒエラルキー(序列)があるのでしょう。
より多くの知識と理論を身につけたものが優秀ということのようです。
そして、知識や理論によって現実を説明しようとする(見下ろす)視線は神の視座のようです。これでは特権的意識の純粋培養をしているに等しいでしょう。

官僚と大学教授、彼らに共通するのは、知識や理論を先立てずに自分の頭で考えるというよき頭の使い方=哲学的な発想がないという点です。
そこでは、よりたくさんの知識と理論を身につけた者が上位者として認められることになります。
当たり前のことですが、それは必然的に権威主義と序列主義を導くことになります。(世俗的に)知識と理論に秀でていると認められた者とそうでない者。普通の人々が見下されるのがよくわかります。

これはしかし、官僚や大学教授に限らず、世にエリートと呼ばれる人々に共通の問題です。
どれほど善良で優秀な人でも、知識や理論を先立てずに自分の頭で考えるというよき頭の使い方=哲学的発想がなければ、人は権威主義、序列主義に堕してしまう可能性大ということなのです。
このことの自覚は極めて重要です。



コメント (8)
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哲学の民主化のためにー『ともに公共哲学する』(含・「金・武田の哲学往復書簡」)東大出版会刊

2010-07-09 | 書評
もし、哲学する(白紙の目で、日々の経験を踏まえ、自分の頭で考える)ことが、
西洋哲学の書物の読解か、あるいは中国やインドの古典を読むことであるならば、ほとんど全ての人にとって「哲学する」というのは、縁のない話です。

しかし、ほんらいの哲学するという営みは、幼い子ほどよくしていることで、「なぜ?」「どうして?」と問い、考えることです。生き生きとした知的興味の世界です。初源に戻り自分の頭で考える営みは、ただ覚える勉強とは次元を異にし、とても楽しいものです。本当は、どのような勉強や研究でも、一番大事なのは「考えること」にあるはずで、そうでなければ「覚える」ことは宙に浮いてしまい、「知」は根付く場所を失ってしまうのです。

したがって、哲学を「哲学史 内 哲学」というマニアックな世界から解き放ち、皆にとって有益で面白いものにすることは、21世紀の世界にとって極めて重要な課題であるはずです。


わたしは、シリーズ『公共哲学』全20巻(東大出版会)の最高責任者であり、日本・韓国・中国における公共哲学運動の牽引者である金泰昌(キム・テチャン)氏と、【哲学の民主化】のために、2007年に『哲学往復書簡』を36回交わしましたが、そのうちの30回分が、このたび東京大学出版会から刊行されました。

その本の題名は、『ともに公共哲学する』です。一般への販売は、8月1日からとなるようです。全体で400ページの大著ですが、そのうちの四分の一を金・武田の『哲学往復書簡』が占め、この本のメインとなっています。
他には、新聞ジャーナリスト、NPO主宰者らとの対話、人事院公務員研修所での金氏の講演と対話、国会所属の官僚・荒井達夫さんの問題提起と金氏の応答など、多彩な内容です。
大著で、装丁・紙質ともに上等なため、定価は3800円(税込で3990円)と高いのが困りものですが、8月以降に図書館でぜひお読みください。後からの加筆・訂正のない『オリジナルの金・武田の往復書書簡』については、すでに白樺教育館のホームページで公開されています。 その1(はじめに、1~23)   その2(24-34)なお、最後の33と34の2回分は、未発表のものです。

蛇足ですが、わたしは、【哲学の民主化】のためには、『金・武田の往復書簡』の部分をブックレットにし、千円未満で出すべきだと考えています。なお、わたしは、「出来るだけ安く」に協力し、原稿料も印税も頂いていません。


『ともに公共哲学する』 金 泰昌(キム・テチャン)編著  東京大学出版会刊 定価3800円+税  2010年8月1日初版

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コメント

公共のために俗物的な学の権威を放棄した (荒井達夫)
2010-07-10 00:54:59

この本は本当に素晴らしいと思います。学の世界を越えて対話・討論し、異論・反論をそのまま掲載する。しかも、それを権威ある学術書として公刊するというのは、見たことがありません。日本の歴史上はじめてではないでしょうか。言論表現の自由も理解できない日本人公共哲学者には、到底できないことです。偉業というべきでしょう。公共のために俗物的な学の権威を放棄して実現した学術書であると言えるかもしれません。公共とは学者の頭の中にあるのではなく、普通の市民の頭の中にあるのです。金泰昌さんの常識外のご努力とご功績に深く敬意を表します。

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わたしも読みました (森田明彦)
2010-08-14 15:24:48

武田さま&荒井さま

森田明彦@子どもの権利活動家です。
ご無沙汰しておりますが、引き続き元気にご活躍のようでなによりです。

私は日本社会に「権利主体としての自己」という人間観を如何に定着させるか、ということをずっと考え実践してきた人間なのですが、その観点から武田さんがどのような「私」観を持っているのか、ぜひ、お聞きしたいと思いました。

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「私」の本質論 (タケセン=武田康弘)
2010-08-15 10:17:47

森田さん、コメント感謝。

わたしは、日々の具体的経験(純粋意識)を根付かせる場所が「私」(自我)だと捉えています。
「権利主体としての自己」の確立には、「責任を持つ私」を絶対要件とします。
では、【責任】はいかに自覚されるのかと言えば、幼いころからの【自由】の行使です。「私」が自由に考え自由に行為することがないと(親や教師の言うなりではなく)、責任といういう意識は生じません。「自由と責任」とはセットですが、それは並列にあるのではなく、まずはじめに「自由な言動」の行使がないと「責任をもつ」という意識・態度は生まれようがありません。
こども(人間)を「責任をもつ私」へと成長させるためには、受験知は何の役にも立ちません。こども(人間)が「権利を行使する」という経験を積むことが、社会人・公共人 イコール 「責任をもつ私」をつくる唯一の方法です。

以上、わたしの簡潔なお応えですが、
森田さんはどのようにお考えでしょうか?

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日本の「私」 (森田明彦)
2010-08-24 08:28:47 ]

お返事が遅くなり失礼しました。
明快な回答をいただき、ありがとうございます。
子ども達を育てる方針としては、まったく異存はありあせん。

しかし、問題は階層的意識を個人の心の深層まで貫徹しようとする、この社会の伝統的な社会意識・社会構造にあるように思います。
しかも、私の見るところ、この社会意識は社会を安全で機能的に運営する上では意外に有効です。
だからこそ、多くの日本人は「言挙げ」することを嫌い、自己主張の強い人間を排除しようとするのだと思います。
そこを超える、日本的自己の構想が必要ではないか、と私には思えます。
ちなみに、社会意識・社会構造とは、私の場合は、その社会の構成員の多くが無意識ないし意識的に持っている「社会とはこういうものだ」という共通理解のようなもので、その社会を成り立たせている「この社会のあり方は正しいのだ」という正統性の感覚を伴ったものです。
社会像と言ってもよいと思います。
社会像はそれぞれの特有の人間観を伴っていると思います。
日本の社会像とか人間観は本来の国民主権、民主主義が想定する社会像、人間観ではないと私は思っています。
しかし、日本人はたいへん器用に、この社会像、人間観を根本的に変えることなく、近代化に成功し、戦後の経済復興に成功し、そして1990年代に入って、とうとう原理的に行き詰ってしまったということなのではないか、と思っています。
要するに、共産主義体制が最終的に崩壊したように、日本の社会を支えてきた原理もとうとう機能不全を起こしたのではないか、ということです。
そして、私の問題意識は、そういう日本社会が武田さんの目指される「ほんとうの民主主義社会」に脱皮するために必要とされている社会像、人間観の変容はどうしたら可能で、そもそも、そのような社会像、人間観はどのようなものなのだろうか?ということなのです。

武田さんはどうお考えになりますか?

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全身で対話する習慣を。 (タケセン=武田康弘)
2010-08-26 00:12:48

森田さん

わたしは、身振り言語を大いに含めての対話を意識的に行う努力が何よりも大切だと思い、長年実践してきました。その行為がいろいろな分野に波及して、成果をあげてきたわけです。

裸で本音で語り合う習慣、その面白さを体験できる場を身近なところにつくることが必要で、それが広がると、日本人の旧い人間観や社会観は自ずと変わっていくはずです。

その営みを、日本の風土・文化の中で行うことで「日本的自己」は、結果として生まれるのでしょう。日本的、は、目がけるものではない、というより目がけてはいけないと思っています。予めそれを意識すると矮小な世界に陥るからです。

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心とアタマで対話する習慣 (森田明彦)
2010-08-27 15:06:37

武田さま

森田明彦です。
実践論とはしては、私もまったく同感です。

ただ、日本人がどのような社会を目指し、どのような人間を育てたいと考えているのかは、やはり世界に通用する言葉で伝える必要があると思います。
そして、その際には当然、自分達がどのような歴史認識を持っているかもはっきりさせる必要があると思うのです。
もちろん、その歴史観は日本社会だけで通用する一国史観であってはならないと思います。

要するに、もし日本人が人間の基本的平等を信じ、主権者としての自覚を持つ権利の主体としての自己(市民)となっていくのであれば、それは過去の反省と新しい社会原理の(公共的な)承認を伴う歴史観を必要とすると思うわけです。

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セットの廃棄が基本条件 (タケセン)
2010-08-27 22:17:54

わたしは、先に記した「実践論」こそが基底的であり、かつ価値として上位にあるという明晰な認識をもたないと、理論は古い型から出られず、結局は「理論信仰」に陥る悲喜劇しか招かないと確信しています。おそらく森田さんと考えは近いとだろうと思います。

また、日本人は、キリスト教という強い一神教を持たないために、かえって社会契約論に基づく民主主義をより徹底して行える可能性をもつと見ています。ただし、その可能性を現実にもたらすには、明治政府がつくった国体思想(近代天皇制)を根元から断ち切る知的作業が必要ですし、同時に、民主的倫理の実践が不可欠のはずです。わたしが「靖国思想―近代天皇制・官僚主義―東大病」はセットであることを強調するのは、民主主義の現実化のためには、そのセットを廃棄することが絶対条だと考えるからです。アジアの国や世界の国と共有できる歴史認識をつくるためにもそれは不可避の作業のはず。


コメント (7)
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「京都人気質」 作・茶所博士

2010-07-06 | その他

以下は、mixiの茶所博士さんの日記です。

面白ので、ご紹介します(承諾済み)。


小咄 京都人気質  2010年07月01日00:58  


ある京都の男性が会社の仕事で東京に出張した。

 東京について、取引先の社員と面会した。その社員が、京都から来た男の口調が関西弁であることに気づいて問いかけた。

 「田舎はどちらですか?」

 この何気ない一言に京都人はムッとした表情で答えた。

 「『みやこ』です!」

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これ、実話だそうです。

他にも、京都のある茶道の家元の看板に「地方出張指導承ります」と記載されている例もあるとか。京都以外はみな「地方」になってしまうのですな。

 大阪在住の小松左京先生は東京へ行くことを「江戸へ下る」と言うそうです。この反骨精神があってこそ、「日本沈没」のような小説が書けたのでしょうね。あの内容は、平和にのほほんと生きる人には執筆不可能でしょう。

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コメント


ねこにゃん†雨天無能

京都人はムッとした表情は浮かべません。
無知な田舎者を見る目つきで言うんです。

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タケセン

京都の人=天皇家は、いつまでも人の家(知将・太田道灌の建てた江戸城)にいないで、自家である京都御所へお帰りになるのがよろしいですね。将門を主祭神とする神田明神と縁の深い神田生まれのわたしは、どうにも収まりが悪く思うのですが・・・・。
由緒正しき京都のみなさま、お引き取り頂けないでしょうか。
がらっぱちの江戸っ子より(否、粋な?笑)

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茶所博士  

 ねこにゃん先生

 実際には田舎物を見る目で言ったのかも知れません。東京の人も「ご出身はどちらですか?」と言えば角が立たなかったのですけどね。
 実際には先祖代々の江戸っ子より、よそから東京に引っ越してきた人の方が「上から目線」になりがちなのだそうです。何年か住んで、東京都民を気取る頃になると、新たに引っ越してきた新参者に対して先輩風を吹かすという話でした。
 考えてみると、今の都知事はその典型かもしれませんな。

 タケセンさん 
 
 文字通り「治明(おさまるめい)」ですね。明治維新の時、江戸っ子たちは明治新政府をこのように呼んで揶揄したそうです。
京都の人たちも陛下のお帰りをお待ちしている、という話もよく聞きますけど、実現するのでしょうか。

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タケセン

「神田生まれのわたしは、どうにも収まりが悪く思うのですが・・・・。 」
「治明(おさまるめい)」ですね。明治維新の時、江戸っ子たちは明治新政府をこのように呼んで揶揄したそうです。」

おさまるめい、で、明治、いいですね~(笑)

それはそうと、もうそろそろ、元号ではなく、世界歴(西暦)を使うようにしなければいけませんね。近現代の歴史で、明治、大正、昭和、平成では、世界との共時性が失われて、日本だけの歴史になってしまいますから。いまだに島国根性ではね。


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『生徒がくれた卒業証書―土肥信雄のたたかい』 澤宮優著(旬報社)

2010-07-04 | 書評


『生徒がくれた卒業証書―土肥信雄のたたかい』 澤宮優著(旬報社)
2010年7月1日刊 1575円



わたしは、東京都教育委員会のすさまじいまでの強権。戦前の国家主義となんら変わらぬ思想・態度を知り、公共的な憤りが腹の底からフツフツと湧いてきました。

民主主義の原理について何も理解していない都教委の役人たちを、東京都民は税金で雇っている。高給を与え、威張り散らす特権を与えて。

高潔で誰からも愛される校長先生を弾圧し、言論の自由を奪う。まるで北朝鮮のよう。

これほどまでに堕落した東京都の教育現場を見ると、都立高校の卒業生であり、1969年に高校改革の先頭に立って民主的改革を成就させたわたしは、呆れ返り、言葉を失います。

しかし逆に、パワーが湧き上がってもきます。個々人から立ち昇る〈魅力〉を奪う国家主義をその根元から断つための思想の闘いに、また新たなエネルギーが充填されました。

みなさん、ぜひ、ご一読を。


武田康弘
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競輪も競馬も競艇も、サッカーくじも、みんな賭け事ですよね

2010-07-04 | 社会批評

人類の歴史始まって以来、「賭け事」はずっと続いてきたとのこと。

日本では、政府が認めた賭け事以外は禁止ですから、野球賭博は重罪で、職も奪われ、社会的にも抹殺されるのです。

でも、オグリキャップの死は、とても悲しまれ、競馬などには、天皇賞という賞まであります。

賭け事は、よい事であり、また、悪い事でもある、となりますね。


ところで、「競輪・競馬・競艇」などの収益は、ガラス張りになっているのでしょうね。
「宝くじ」は問題大ありで、「仕分け」でいろいろ指摘されていましたが、なんだか、あちこち怪しそうな気もします。
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石原東京都知事の意向ー議論禁止の通達は憲法違反です。土肥信雄さんへのエール

2010-07-02 | 社会批評

石原慎太郎都知事の意向により、職員会議での議論を禁止する通達を出した東京都教育委員会の行為は、民主制の基本原理を逸脱していて、明白な憲法違反です。しかし、露骨な憲法違反の東京都の行為に対して、民主主義の原則の理解に乏しいマスコミ関係者の反応は鈍く、一人で闘う元・三鷹校長の土肥信雄さんへの支援は弱々しいものです。教え子たちの熱烈な土肥コールとは対照的ですが、わたしは、わが国に民主主義をしっかり根付かせるには、この問題は極めて重要だと考えます。


以下は、「公共哲学メーリング」へのわたしのメールですが(一部加筆)、この場でもまた異論・反論を嫌がり、積極的に討論する文化がありません。ほんとうにわが日本はどうなるのでしょうか。


「言論の自由」という基本がない教育機関、わが日本の精神風土は、本質的に非民主的であるようです。
【自由で対等な討論】というほんらいの民主主義を体現する文化をわが国に根付かせるには、まだまだ多くの努力が必要です。

「ディベート」(ソフィストの営み)を否定したところに生まれたのが「哲学」(ソクラテスの営み)だということさえ知らない人が多いために、なにがほんとうか(=善美のイデア)を求めて議論する厳しいエロースの世界が拓けないのですね。

ハーバードのサンデル教授の授業(弁論ショー)には関心をもっても、ほんとうの公共哲学―【具体的経験を自分の頭で考え⇔互いの自由・人権を認め合うことを基盤にして忌憚のない討論をし⇔自分の責任で判断して決める】―を実践することがないようです。

大衆の感情的判断=500人の陪審員制の裁判で死刑になったのがソクラテスですが、21世紀の日本でもまた排除の正当化=土肥さんの訴えは退けられてしまうのでしょうか。それはあってはならないことですが・・・・

せめて、公共や哲学に関心のある人々だけでも、ヴォルテールの言葉を実践してほしいと願います。「わたしは、あなたの言うことに一言も賛成できない。しかし、あなたにはそれを言う権利がある。わたしは、その権利を死を賭けても守るつもりだ。」
わたしは、小学6年生のとき読んだ『社会のしくみ』(美濃部良吉編)という図鑑本に載っていたこの言葉に心底感動し、それ以降46年間、座右の銘にしています。


武田康弘

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公共哲学MLは民主主義に反する (荒井達夫)
2010-07-02 23:57:36

私は、参議院調査室主催の「新しい公共について考えるパネルディスカッション」(2010.6.24)で、「公・私・公共三元論は、民主主義に反する思想である」とパネリストたちが述べたことを公共哲学MLで紹介し、この議論の重要性について指摘しました。ところが、MLの管理者である小林正弥教授(千葉大学公共哲学センター長)は、私の発言が「公共哲学宣言」の趣旨(三元論)に反し、参加者から苦情が出たとの理由で、私を除名処分(=登録削除)にしました。公共哲学MLという思想・良心・言論・表現の自由が最も重んぜられるべき場所で、このような野蛮な行為が現実に行われたことに、私は大変な衝撃を受けております。

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当事者として。 (タケセン)
2010-07-03 12:09:01

わたしは、当日のパネラーのひとりであり、
シリーズ『公共哲学』20巻(東大出版会)の最高責任者である金泰昌さんとの『哲学往復書簡』の中で、公と公共を分けるべきという「三元論」を批判した人間ですが、金さんとは「共に哲学する」友人です。

「公と私とを媒介するものとしての公共を考える」という思想の提唱者である金泰昌さん自身は、公共哲学とは特定の主張ではなく、三元論に拘るのではおかしい。大事なのは、異論の存在であり、異なる者との議論だ。公共とは、特定の人々の専有物であるはずがない。なぜ、日本では異質の他者を認めず、排除しようとするのか?制圧・排除・同化というのは、人間を不幸にする、と繰り返し力説しています。わたしとの電話でも、「公共的良識人」紙でも。

わたしは、三元論の見方は、現実を見るのにはピッタリであり、支持していますが、それが社会の原理的な思想となったら大変です。
福嶋浩彦さんも当日、強調していましたが、公(おおやけ)にしろ公共にしろ、それは「市民の考え」のことであり、役所・官が公や公共ではないのです。官は、「市民の公共的な考え」を実現する手段・道具に過ぎないのであり、それ自身が公とか公共だとしたら、民主主義ではなくなります。

こういう簡明な原理を明晰にしないと、民知、民力の民主主義は実現しません。ふつうの人々の良識につくのが民主主義であり、「学」にせよ「官」にせよ「政」にせよ、「エリート」による政治は、脆弱な人間と社会しか生まないのです。世界最高の科学者や哲学者を集めたナチスドイツや、天皇主義の日本や、テクノクラートと呼ぶ優秀な官僚によるソビエトの政治が無残な結果に終わった歴史の教訓を忘れてはいけません。

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公共哲学ML・除名の理由 (荒井達夫)
2010-07-03 17:29:21

私は、以下の文章を公共哲学MLに流して、除名されました。極めて公共性の高いものと思われるので、公表することにします。

荒井達夫です。

私は、「新しい公共について考えるパネルディスカッション」で、司会者として、「公・私・公共三元論」の妥当性を問題にしましたが、その際、三元論者であるという稲垣久和さんの新著「公共福祉という試み」にある次の記述を読み上げ、これと「新しい公共宣言」にある添付の記述の関係について、パネリストに意見を聴きました。

「「公共」に比べて、日本語の「公」(おおやけ)はあまりに漠然としていて、社会科学的な用語としては定義しにくい言葉なのですが、まずは「お上」という意味、しいて政治の仕組みのなかで表現すれば国家機構、政府、自治体など制度化された強固な組織を指している場合が多いと思われます。以下このような意味で、「公」という言葉を「公共」とは区別して使います。」(稲垣久和さん)

鳩山前総理の施政方針演説では、「これまで「官」が独占してきた領域を「公(おおやけ)」に開き」となっていたのですが、「新しい公共宣言」では、「これまで政府が独占してきた領域を「新しい公共」に開き」となっており、「公」と「公共」の区別もなくなっているため、特に「新しい公共円卓会議」の中心メンバーで、「新しい公共をつくる市民キャビネット」の共同代表でもある福嶋浩彦さんに、その辺の話をきちんと聞いて、「新しい公共」の基本的な考え方を確認しておきたかったのです。

福嶋さんの回答は、

「公」も「公共」も市民の意思でしかなく、「官」の「公」も「公共」も、あってはならない。「官」は、市民の意思を実現する道具に過ぎない。 「公」と「公共」を分ける考え方(三元論)は、民主主義に反し論外で、「新しい公共」にならない。

という非常に明解なものでした。

福嶋浩彦さんの発言は、「公・私・公共三元論」が「新しい公共」を実現するために有害な思想であるというに近い内容でした。そこで、私は、社会思想として「三元論」をどのように評価すべきかを竹田青嗣さんに問いました。

竹田さんの発言は、「三元論」は近代市民社会の原理に反する極めておかしな思想であり、民主主義が成り立たない、という明解に言い切った内容でした。

なお、竹田さんは、近代市民社会の原理を提示した思想家、特にルソーとヘーゲルが重要であり、その原理を超えるアイデアは存在しないと述べましたが、これは、私が、竹田さんの著書「哲学ってなんだ―自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)」を紹介したことを受けた発言でした。

私が竹田説を紹介したのは、この小さな哲学の入門書に書かれていること、とりわけルソーの社会契約や一般意思についての説明が、非常に明解・妥当であり、さらにそれが、主権在民に立脚した国家公務員法96条「すべて職員は、全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない」を解釈する際の前提になると考えているからです。

以前、大阪経済法科大学の市民アカデミア2008で、竹田さんが行った講演「市民社会の哲学的基礎」を聴いた人事院の若い企画官が、「公務員研修で行うべき重要な内容」と述べていたことがありましたが、今回のパネルディスカッションでは、人事院の現職の局長(前公務員研修所長)が参加し質問もしていたので、この点について相当に理解が広がったのではないかと考えています。

郷原信郎さんには、「新しい公共」と官の意識改革、これとコンプライアンスの関係、また、官の改革におけるキャリアシステム問題の重要性等について聞きました。

郷原さんは、コンプライアンスとは単なる法令の遵守ではなく、社会の要請に応える法令の解釈運用でなければならず、また、社会の要請が何であるかには正解はなく、それを考えるためには、本当に大切なことは何か、何が重要なのかを、自分の頭で考え、問い、議論を続けていく姿勢が必要であると、述べていました。とても分かりやすい言葉での説明でしたので、聴衆の誰もが十分に理解できたと思います。

行政監視は、「法律が誠実に執行されているかどうか」の監視ですが、郷原さんの話は、法律の「誠実な」執行とは何かを考えるについて、大きな示唆を与えてくれるものでした。

また、郷原さんは、武田さんの意見に深く共感して、正解を探しているだけの受験知人間ではなく、現状に疑問を持ち、常に自分の頭で考え、議論し、決定することができる人間を育てなければ、真の民主社会は実現できない、という武田説について、さらに賛同する旨の意見を強調していました。

今回のパネルディスカッションは、それぞれ仕事も生活も全然違うパネリストたちでしたが、「新しい公共」について考えるうえで、本当に大切なことは何かを議論する方向へと話が自然に流れ、まとまっていきました。

サンデルさんのディベートの訓練のような議論ではなく、物事の意味と価値を問う本物の哲学の議論に近づいた感じがました。(それが、写真の皆さんの表情に現われているように思います。)


コメント (3)
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