思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

クリュイタンスのドビュッシーとフォーレ HMVへのレビュー

2010-02-28 | 趣味

以下は、HMVへのレビューです。

クリュイタンス指揮、パリ音楽院管弦楽団&合唱団によるドビュッシーとフォーレの名演奏の再発売(この組み合わせでの発売は初めて)。


洒落の極み、強靭かつ優美、現代の偏差値音楽家の「つまらなさ」と対極にあるエスプリに満ちた音楽。ダンディズム&エロースとでも言いましょうか、大人の色香と子どもの無垢が合わさったかのようなドビュッシーのイマージュ(管弦楽のための映像)と、
美そのもの、発売から40年以上にわたり同曲のベストとされてきたフォーレのレクイエムの組み合わせ、

フランス音楽の20世紀最高の指揮者であったクリュイタンスの生む硬質で品位が高い名演奏は、聴くたびに感動を新たにします。
また、この輸入盤は、わたしが以前に購入した日本盤よりずっと音がよいです。繊細でかつ豊か、音の鮮度が高く、生き生きと音楽が再現されています。

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「武田哲学の整理」 石橋湛山のこと、親鸞のこと・・・(内田・武田メール)

2010-02-25 | 日記

武田先生

私もいまだにいろいろ本を読んだり、学会へ行ったら恩師と勉強したりしておりますが、現実のレベルで武田先生の行っている運動が現実生活を活きる上で最も納得できるのです。それは如何に崇高な学問を構築しても現実生活から乖離していたらそれまでの話しです。
つまり純粋学問の探求は大切なことですが、私の望んでいることはそれだけではないということです。
その武田先生の哲学の根幹・柱をきちんと理解して、先生や皆さんと共に新しい哲学を開く橋げた(架け橋にはなれませんが)ぐらいにはなれたら良いと思います。難しいですね。(笑い)

【武田哲学の柱】

次元1.「自我の考察の問題」、「哲学的な実存論(哲学的エロース論)」
     ⇒よく活きる、楽しく、気持ちよく活きる、活き方にかかわる次元のこと。

峻別→-------------------------------------------

次元2. 「知の次元の問題」、「哲学的知の目的論(哲学的知性論)」
⇒知の目的である①「主観性の知」の次元と、知の手段である②「客観知(学)」の次元の違いを
明晰に自覚すること。

        次元2-①  「主観性の知」⇒知の目的  
   峻別→---------------------------------------
        次元2-②  「客観知(学)」⇒知の手段


次元1「自我の考察の問題」と次元2「知の次元の問題」は別次元  
次元1 ≠ 次元2  次元1と次元2は哲学的な価値次元の高低はない

次元2中の次元2-①「主観性の知」と次元2-②「客観知(学)」は別次元
次元2-① ≠ 次元2-② (哲学的な)知の目的は 次元2-① であり
次元2-②ではない 
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

それに、先生と石橋さんのこと共感できたことは嬉しいことです。
私の研究もがんばらなければなりません。正に哲学者かくあるべし
で白樺思想と石橋さんの思想はやはり近いですね。
以下は感想です。


先ほどブログ拝読、石橋さんへの言及共感しました。『石橋湛山評論集』を読まれてのことですね。確かに石橋さんは、英米の哲学だけでなくルソーを始めフランスの哲学から影響を受けました。(ベルグソンなど)そして、田中王堂から指導を受け自らの思想を確立したわけです。
このような『民主主義・平和主義・自由主義』の思想家・言論人があの時代に日本にいたことは誇りです。戦後は、保守党の第二代総裁で総理大臣にまでなったのですから。ここのところが興味深いし大切です。
また、世界的にみても一国の宰相が、全集15巻にも及ぶ言説を公にした人は世界でも石橋さんだけでしょう。山県有朋を「死もまた社会奉仕」と言ったことは正に痛快です。今のジャーナリズムの低レベルには困ったもので、比較になりません。
さらに、石橋さんは官僚批判と共に現代的な文脈に耐えることの出来る初めての地方分権論を主張した人でもあります。

内田卓志
――――――――――――――――――――――

内田さん
そうですね。
「生活世界」という海の中に「学」の小島はあるのだ、という強い自覚と言明がどうしても必要です。
うむ~、「武田哲学の整理」ですね。いろいろありがとう。
武田

―――――――――――――――――――――――――

武田先生

こちらこそご多忙中にしつこく伺いまして失礼しました。
今後とも同朋同行でお願いします。
同朋同行と言えば親鸞聖人ですが、親鸞聖人は日本人の心の故郷のような人ですね。五木寛之さん親鸞を書き、今村仁司さんの遺著が親鸞です。
内田

――――――――――――――――――――――――――――

内田さん
あれだけ赤裸々に自己を見つめ、裸になり、しかも少しも崩れない。
世界の実存哲学の最高峰!にしてかつ宗教者。天皇制国家権力と根源的に闘い、しかも少しも過激ではないのは、彼が真の主体者として実践と共に生きたからでしょう。
どのような対象化(客体化)も色あせる能動性=主体性は、他力本願という深き受動性から生まれたのですが、これほどの深みをもつ人は、世界にもいないでしょうね。
武田

―――――――――――――――――――――――――――――

武田先生

まったく賛成です。私も学生の頃から『歎異抄』を読んでどれほど感動したかしれません。
確かに『教行信証』は引用も多く大変難しいですが、いつか読破したいと思ってます。親鸞聖人の声がきっと聞こえるでしょう。正に、世界に誇りうる大人物です。憧れてやまない方です。
「悪」や「罪」の問題をこれほど深く思索した思想家はいなく、煩悩具足の凡夫の私には大変な救いになる方でもあります。

内田
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長谷川等伯の衝撃―東京国立博物館で没後400年展

2010-02-24 | 趣味

今日、上野の国立博物館で、長谷川等伯没後400年展を見てきました。

これだけの作品を一度に見られるとは驚きです。

高校生の時「松林図屏風」をみて全身に鳥肌が立ち、その奥深い美に魅了されてから40年、わたしにとって最高の日本画家は、ずっと長谷川等伯でした。今日、その全貌を見て、震えました。

繊細と大胆、自由と様式、柔軟と硬質、写実と抽象、伝統と革新、めくるめく多彩な世界です。抽象やシュールまである!

この凄まじいばかりのエネルギーはどこから来るのか。

繊細で優しい世界と、剛毅で強烈な世界と、夢幻的な世界とが一人の人間によって描かれている。この空と間の絶妙の構図は、世界のどこにもないもの。深遠かつ平明。

ぜひ、長谷川等伯という衝撃を経験されることをお勧めします。来月22日までです(クリック)。

武田康弘
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異端の匂い (C-moon )
2010-02-25 15:51:03

”繊細と大胆、自由と様式、柔軟と硬質、写実と抽象、伝統と革新、めくるめく多彩な世界です。抽象やシュールまである! ”
”繊細で優しい世界と、剛毅で強烈な世界と、夢幻的な世界”

まさにアンビバレントの世界ですね。
僕は激しくアンビバレントに惹かれています……もちろん等伯にも。

ほぼ同時代に活躍した等伯、利休、織部。
この三人にすごく興味があります。それは正統に対する異端の匂いみたいなものを感じるからです。
この中で、利休は正統として称賛されていきますが、利休の魂は、どこか孤独で異端であったのではないかと感じています。
利休に大きな影響を受けた織部も、利休と同じように切腹に処せられるという壮絶な最期を遂げ、そこに至る経緯にも異端的なものを感じます。
等伯の晩年も必ずしも恵まれていたわけではなく、一斉風靡した三人ですが、三人とも生き方、取り組み方、求め方の根底にあるものが、必ずしも当時のパトロンたちに歓迎されていたわけではないように思います。
作品や作風は異様に愛されたけれど、孤高に彩られたものだった……
それが三人の作風の底に流れているのではないかなと感じます。
特に等伯は、当時の主流とも正統とも言える狩野派に損なわれていたし、出生地の能登は、当時の異端的な宗教、日蓮宗でもあり、等伯も熱心な日蓮宗徒だったと聞きます。そうした正統に背を向ける精神的土壌が、必然的に培われていた……僕の勝手な推測ですが。

以前、金沢で等伯の作品を見ながらそんなことを感じました。

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おおいなる指針(タケセン=武田康弘)

よいコメントをありがとう。

今回の没後400年展には、等伯の宗教画、巨大な釈迦涅槃図をはじめ、日蓮の肖像画なども多数展示され、信仰の力が創作の背後にあったことが分かります。鎌倉時代の宗教革命(法然、親鸞、日蓮)は、知恵の宗教であった仏教を万人の「救い」に力点を移すことで「民」のものとし、巨大なパワーを得ました。その後の安土桃山時代には、この新仏教が大きな勢力を持ちましたが、自由で人間味あふれる「異端」の文化の開花は、ほんとうに血湧き肉躍るものですね。

わたしは、言語中心主義による「事実学」の累積が価値だとする知のありようを、イマジネーションに基づく「意味論」としての知に転換すること、換言すれば、「客観主義の知」(試験知)から「主観性の知」(民知)への価値転倒をはかることで、文化・文明の転回を実現したいと思っています。鎌倉時代の偉大な宗教者たちとその後の「異端」の文化創造者たちは、そのための大いなる指針になると思います。






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「一般意思」とは何か。

2010-02-23 | 社会思想

ルソーのいう「一般意思」とは、
十分な情報が公平・分明に与えられ、特定の考えに誘導されることが全くないという条件の下で、互いの差異を何よりも尊重するという立場により、完全に自由で対等な討論が活発に行われることでつくられる公共的な意思のこと、と定義できます。
一般意思は、その社会の構成員の全員参加による集会で「共通の利益」のみを目がけてつくられるのですが、それは、各人が「個別の利益」を追求することから生じるもので、多様な個別の利益が十分に主張される中で次第に明確になる「共通の利益」です。
それは、「法」として表現されます。

「一般意思」とは上記の意味なのですが、どうも学者を含めて誤読する人が多く、「一般意思」を全体主義に結びつけるような荒唐無稽の解釈さえ出回っています。ほんとうに困ったものです。民主主義とは「自由・対等・多様・公正な議論」によってつくられる公共意思=「一般意思」に基づくという原理が曖昧になれば、民主主義は元から崩れてしまいます。

したがって、小学生からの順を踏んだ議論の実践と自分たちのことは自分たちで決めるという自治の実践がしっかり行われないと、民主主義はうまく作動しません。今はまったく等閑に付されていますが、「議論と自治の教育」は、民主制社会では何よりも大切なのです。

武田康弘
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ネットウヨクとのやりとり、不幸な若者を生んでいるのは、かつてのサヨク学者

2010-02-22 | 社会思想

いわゆるネットウヨクと言われる人が、下のブログを見て、コメントしてきましたが(mixi内)、そのやりとりの最後の部分と、ヒロミさんのコメントを載せます。

なお、ネットウヨクの人は、本は読まないで、ウヨク学者や評論家がサヨク攻撃のために用意した紋切り型の言葉を繰り返しますが、サヨク運動で挫折し転向したウヨク学者の罪はほんとうに重いと思います。昔は、過激な暴力による運動でかき回し、今は自由と人権・民主主義を否定する極めて危険な思想(国体思想)で若者を洗脳する、なんと愚かで罪深いことか!

・・・・・・・・・・・・・・

やり取りは、ここまでで10回以上に及びましたが、
その最後の部分と、ヒロミさんのコメント、及び、わたしの応答です。


アイウ
2010年02月21日 20:55

石橋湛山のルソー解釈はタケセンさんとはちょっと違っていませんか?

「代議政治の論理」の中で石橋湛山は書いていますよ。
(引用開始)
何となれば、なるほど或る社会或る国家に生るることは偶然であるが、この社会を改造することは人間の力にある。また帰化あるいは死によってこれから逃れることも自由である。しからば則ち私が石橋と呼ぶ家族の一員であり、日本と呼ぶ国の一員であることは偶然であったかも知れぬが、それが現在の如き石橋家、現在の如き日本国の一員であることは決して偶然ではない。自由意志の選択である。されば我々は仮令形式的に申し合わせはしないまでも、現在の社会に満足してその制約の下に生活して居る限り、それを社会契約だと言うに、大した差し支えはない。私はこの意味において、社会生活の論理はルソーのいわゆる社会契約なりと見るものである。
(引用終了)

石橋湛山は日本国民であることを自由意思として選び取り、その制約下で生きることを選択することを「社会契約」だととらえたのです。

「国家というものがなんだかわからん」、などと言っているような脱税犯・鳩山由紀夫のような人には石橋湛山みたいな考え方はできないと思いますね。

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タケセン
2010年02月21日 23:07

「なるほど或る社会或る国家に生るることは偶然であるが、この社会を改造することは人間の力にある。」

これが社会契約の根本の意味ですよ。主権者が国をつくるのです。右の国体主義、左の共産主義のような全体主義ではなく、デモクラシーの本義はそこにあるのです。
わたしが、あなたが、国家をつくるのです。個人の自由と責任において。この原理を弁えない人は、全体主義者でしかありません。

「私が石橋と呼ぶ家族の一員であり、日本と呼ぶ国の一員であることは偶然であったかも知れぬが、それが現在の如き石橋家、現在の如き日本国の一員であることは決して偶然ではない。自由意志の選択である。」

これは、石橋湛山が哲学者であると感じさせる名文句ですね。 「状況・内・存在」である人間は、しかし、その状況を主体的に引き受けようと決意することではじめて状況を変えうる存在になる、それが人間が他の生物と截然と異なる「実存」であることの証なのです。

なお、もう一度言いますが、ルソーの社会契約について語るのは、それを真面目に読むことが最低限の条件です。光文社文庫を購入して、時間をかけてしっかり自分の力で読むのです。

その後で、真面目な質問や意見(=ウヨク・国体イデオロギーを流布する為の言説ではなく)があれば、できる範囲でお応えしましょう。
今回は、これでお終いです。

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ヒロミ
2010年02月22日 05:04

タケセンへ
ひとことコメントさせてください

以前のことですが
友だちと彼女の家庭のこと社会のことなどランチしながら話をしたことが数回ありました。彼女はとても強い問題意識を持っていて なんとかしたいと思っているなら私も同じだから 意義のある話ができたらと思いよく話をしました 私もいくつも意見を求められれば私の思うことを話しましたし解決へと向かうような有意義な会話がしたいと思っていましたが 彼女は決まって最後には 「世間てそんなものだし 結局我慢するしかないししかたがないのよ」と前・未来へではなく後ろに戻って自分のなかで話を終わらすので それも毎回なので今まで話したことはどこいったんだと私は異常に疲労したのものでした。「世間」が言ってるから、「世間」がそうなってるからしかたないってなんでしょう
それをつくっているのは私たちひとりひとりじゃないかと 何度かは話したのですが。私の話し方の下手もあったのでしょうと思いますが。
それこそ
このブログの「国家」だっておなじではないでしょうか
私たちひとりひとりが生きていてこそ
国というものが成り立ち 私たちが働いたお金(税金)と私たちの意思で 政治にたずさわる人たちを選び、雇い 運営しているのですよねだからなおさら私たちひとりひとりがしっかりとものごとをみる目をもたないとだめだと思います。ちょっとそれますが 強烈な洗脳をうけ、戦争で国(天皇)のためにと尊い命をおとしていった多くの若者や人々を思う時 激しい怒りと涙があふれます。強い洗脳はされつつも 彼らの中にも何故自分がこんなことで死ななければならないのだろうかという(口にするだけでさえ死を意味することだったのでしょうか)思いが心の奥にあったのかもしれない。二度と繰り返してはならないことだと強く強く思います。

☆身近な人たちとどんどん話題にしていく時にブログをとても役だたせていただいています☆。

では(^-^)
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タケセン
2010年02月22日 12:09

「私たちひとりひとりが生きていてこそ国というものが成り立ち 私たちが働いたお金(税金)と私たちの意思で 政治にたずさわる人たちを選び、雇い 運営しているのですよねだからなおさら私たちひとりひとりがしっかりとものごとをみる目をもたないとだめだと思います。」(ヒロミ)

ヒロミさん、その通りですね。

一人ひとりの想い・意思の前に、予め、「日本国家とは何であるか」が決められ、それに従うように教育・強制するという「戦前のイデオロギー」(虐げられた少年時代をもつ山県有朋らは、自由民権運動を根絶やしにするために、天皇神格化による官僚支配の日本をつくったが、それは、江戸時代の国学者・本居宣長の権威を利用してねつ造した【国体】という想念を、義務教育を通して全国民に植えつけることによって成し遂げられた。現在のウヨクは、未だにその想念に囚われている人たちで、哀れ)は、
1945年、ポツダム宣言を受諾して降服した後、63年前の1947年5月3日に施行された近代民主主義思想に基づく「主権在民」の新憲法により、根本的に改められたわけですが、
いまだに、市民精神(「私」は社会・国家をつくっている一人の人間だという意識)が弱く、民主的倫理に基づき、民主的人間として生きるという自覚と実践にひどく不足しているわけです。

ヒロミさんの言うとおり、良識をもった公共人として生きることをみなが実践することで、自由で豊かで魅力的な人間と国を生みだしていきたいですね。人間味あふれる社会を共につくりましょう!!国民みなが、市民という自覚をもって生きるのが「新しい公共」(=みなの参加でつくる公共=民主主義)なのですから。
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人として生きる(石橋湛山・研究者)

石橋湛山は、
「人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として人間として生きるためである。 決して国民として生きるためでも何でもない。(略)人の形づくり、人の工夫する一切が、人を人として生かしむることを勇逸の目的とせるものである。」
と言っています。

ブログにコメントされた方の意見は、またもや石橋湛山の根本思想を無視しているのです。石橋の思想は、国家や国民を固定的に実体化して拝み倒すような思想とは正反対なのです。それは、田中王堂から受け継いだ徹底個人主義を原理とした人間観に立脚しており、常に一個人の「生活」を尊ぶところの「人間中心主義」の思想なのです。その意味で石橋湛山は正にラディカル(徹底的・根源的)な民主主義者であり自由主義者でした。

石橋湛山の思想の根本には、今言ったような人間観や国家観に基づく思想があり、その上で武田先生の言うところの「状況・内・存在」として国家とか国民とかを引き受けようと言っているのです。

石橋湛山が、第一に日本国民であることを自由意志として選び取り、その制約下で生きることを選択することを「社会契約」と捉えた、とするコメントされた方の意見は、正に逆立ちした議論で困ったものです。石橋は言っています。人として生きる「この目的に反するならば、我々はそれを変改せねばならぬからである。」


以下は、国家と宗教及び文芸 明治45年5月号『東洋時論』から引用

人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として人間として生きるためである。 決して国民として生きるためでも何でもない。宗教や文芸、あに独り人を人として生かしむるものであろう。 人の形づくり、人の工夫する一切が、人を人として生かしむることを勇逸の目的とせるものである。

かくいわば人あるいはいうであろう。しからばいかにして宗教と国家、文芸と国家との相衝突矛盾することが あるかと。

しかしその衝突するのはその本来の目的、その本来の立場が異なっておるがためでなくて、 その1つの目的を達するため、1つの立場をとるために、一時矛盾撞着するのである。 言い換えれば、時代に相応せざる制度、思想を時代に相応するものに改造せんとする努力である。

されば、「国民として生きる前に人として生きねばならぬ」 と言う言葉は、私の意味を以てすれば、「国民として生きる前」ばかりでなく、 「宗教の中に生きる前」「文芸の中に生きる前」「哲学の中に生きる前」 に人は人として生きねばならぬのである。 否、生きざるを得ないのである。 何となれば、国家も宗教も哲学も、文芸も、その他一切人間の活動も、 皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものであるから、 もしこれらの或るものが、この目的に反するならば、我々はそれを変改せねばならぬからである。




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「国家のため」「国家を愛する」という言説は、成立しません。

2010-02-19 | 社会思想

国家のために、国家を愛する、
国家の意思、国家の欲望、
という言い方、考え方は、まったく意味不明としか言えません。

人間や自然を「愛する」、みなの「ために」、わたしたち国民の「意思」、誰かさんの「欲望」というのは、よく分かりますが、
「国家の」、という言い方・考え方は、内容がなく、意味が取れません。

かつて、埼玉を本拠地に活動していた「プロ教師の会」(河上亮一氏、諏訪哲二氏ら)という団体は、「学校は国家空間である」として、教師や生徒の自由はない、と主張していましたが、この「学校は国家がつくったものだから自由はない」という主張なども、論理を超越した形而上学的言辞でしかありません。言うまでもなく、学校をつくっているのも、国家をつくっているのも、自由で対等なわたしたち主権者の「一般意思」であり、それとは異なるところに国家意思があるとするのは、近代民主主義国家においては原理上許されないからです。

主権者の公共的意思=公論により、国家は、その内容も形もつくられるのであり、もしそうでないならば、主権者とは別に主権者を超越した「何者」かが存在していることになります。

わが国における天皇という存在も、憲法1条にある通り、「主権の存する日本国民の総意に基づく」ものであり、どのように天皇および皇室を遇するかは、主権者である国民の一般意思のみが決定するわけです。「主権在民」とはそういう意味であり、これは近代民主主義国家が成立するための原理中の原理です。

社会思想においては、よく意味が分かる言葉で語り合うことが大切です。共同主観を形成することが求められているのですから。「国家のため」・・・というような曖昧で明瞭な像を結ばない言葉には何の利益もありませんし、しばしば極めて有害です。もし、「国家の」と言うのならば、誰もが納得する説明をしなければなりませんが、それは不可能でしょう。

武田康弘

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検察庁の小沢氏への捜査は違法―会計士が立証「政治資金収支報告書」

2010-02-18 | 社会批評

検察庁の小沢氏への捜査は「国策捜査」であることを会計士が立証しています。
お読み下さい。http://ow.ly/17rXH

明日、検察庁の「裏金づくり」と「国策捜査」の実態が、元大阪高等検察庁の公安部長・三井環さんの講演で明らかになります(☆)

「主権在官」の官僚主義から「主権在民」の民主主義への転換には、大変な闘いが必要なのです。キャリアシステムに象徴される官僚主義とは、東大法学部支配のことですが、120年間も続く「受験エリート」による非民主主義な国家運営を変えるのは、私たちふつうの市民です。


☆「けもの道」と呼ばれる検察の陰謀が、2001年の4月22日に行われました。鳥越氏の【ザ・スクープ】で検察の裏金工作を内部告発するために朝、自宅を出た三井環大阪高等検察庁公安部長は、捕まり、朝日新聞の23日一面トップになるはずだった記事は幻となりました。先月、刑期を終えて出所した三井氏は、来る2月19日18時45分~21時、在日本韓国YMCA9階ホールで、「検察には小沢幹事長を攻撃しないといけない理由がある」という題目で講演します。告発されれば検察幹部70名が懲戒免職になっていたという事件の全貌が話されます。☆


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テストと部活の【成績】、どちらも勝ち負けだけ。教育のないわが日本。

2010-02-16 | 教育

子どもの内的な発達・充実ではなく、勉強や運動の「成績」を問題にする、それは、まったく教育ではありません。「成績」を基準に人間を見る・育てる、という思想は、必ず人間性を歪めます。度を越せば破滅です。

「成績」という他者との比較を生きる基準にすれば、勉強は、文字通り、嫌なことを強いられるものでしかなくなります。「関心を持つ・学ぶ・分かる」という知的世界の面白み、広がりは消え、ただ他人との競争・順位争いでしかなくなりますが、それでは、「内的」な意味・価値の世界はつくれず、ただ「外的」な勝ち負けだけがある、ということにしかなりません。どこまでいっても生の充実はなく、死ぬまで意味の分からない競争を強いられるだけです。

「私」の内的な基準・内的な動機・内的なよろこびがなく、外なる価値に一生を支配される人生に、幸せがくることはあり得ません。

これは、運動部の部活動でも全く同じです。スポーツ・運動するよろこび・身体を使う面白さを味わうところに主眼がなく、「成績」に主眼が置かれれば、スポーツ・運動は、本来の意味である楽しみを失い、辛いことを我慢する自虐趣味にしかなりません。内的よろこびにつくのではなく、「成績」を目的にすれば、スポーツ・運動は人生を貧しくするアイテムにしかならないのです。

日本の教育が貧しいのは、「私」のよろこびを広げるという教育の基本がなく、「成績」=外的基準で個人を序列づける思想しか持たないからです。「豊かさ、魅力、よろこび」が基準にならなければ、何もかもが大元から崩れ去り、人間の教育は成り立たないのです。これは原理です。主観性の豊かさを広げ・鍛える、という人間の生の基本を知らない教育は、人間を幸福にしません。「私」の意味充実がなければ、世界のすべては色あせ、価値を失ってしまいます。

武田康弘
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エリートとは知を愛さない人間 ( ざらすとろ )
2010-02-18 20:15:39

この国における学校というところは、ものを考えない家畜人ヤプーの製造が目的です。そこに知を愛する喜びなんか持つ人間が出ようものなら、
体制にとって非常に迷惑なだけで、そういう能力のある人間はごく一部のエリートだけいればいいというところなのでしょう。

しかし明治時代からそれを熱心にやってきたお陰で、しまいにはエリートさえもいなくなってしまいました。それこそものを考えようとする人間、知を愛する人間が社会に関わる余地が一切なくなった。

人は誰しも成功した体験に固着したがってしまうものですが、
そこに固着すると痛い目に遭う場合があります。
成功したのだから確かに嬉しいことではあります。

しかしそこに落とし穴があります。
いつも通用すると状況も観ずに思い込んでしまいます。

そういう時,その成功した体験が通用しない状況に立たされても
状況などの変化に気付かずに失敗してしまう。
これは非常に危険なことです。

ところが非常に困ったことに、そういう失敗をしてこなかった連中がこの国を牛耳っていて、更に言えば仮に失敗をしても他人に責任転嫁することが構造的に許されてしまう連中がこの国をめちゃくちゃにしてしまった。
この点に日本国の運営上の大きな問題があると思います。

本当に大事で有益なことは失敗した体験です。
失敗から学ぶことのほうが遥かに有益で、勉強になります。
その体験は必ず次への教訓となって活かされる。

よく実力主義とかいうけれど、みんな言葉の定義を間違えていて、
あれは成果主義と言い換えた方がいいんです。

なぜならば実力というのはよくわからないものです。
ある役割を与えられてはじめて実力というのは発揮できる種類のものです。表面的なノルマで計測できない部分があります。

そしてそのような表面的なノルマ主義で切り捨てられたものが,実力の養成に於いて非常に重要であったりする場合があるのですが、これはなかなか分からない。
で、ノルマ主義を押し進めた結果、誰も幸福にはならなかったのだし、
社会全体の生産性も能率も、結果としてボロボロになってしまいました。


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国会と行政の改革―「内閣法制局」という根本問題

2010-02-14 | 日記

三権分立(立法権、行政権、司法権の権力分立)は、言うまでもなく民主制の屋台骨です。

「国会は、国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関である」という憲法41条の規定にある通り、法治国家における中心は国会です。

ところが、実際に法律をつくっているのは、国会ではなく、行政機関(霞が関)なのです。
行政機関(各役所)が自分たちに都合のよい法案をつくり、また改正案や廃止法案をつくって、それを「内閣法制局」が取りまとめ、そこから閣議を経て国会に出すのです。国会はそれを採決するだけで、議員立法は例外的、それが現実です。

ほんらいの民主主義による政治を行うには、行政機関が法律案をつくるのではなく、国会議員が法律案をつくる必要があります。そのために、国会(衆議院と参議院)に法制局があるはずなのですが、話題になるのは「内閣法制局」ばかりで、肝心の「衆議院法制局」と「参議院法制局」は影が薄いのが現実です。

こういう矛盾した国の仕組みを根本的に変えなければ、民主制による政治は現実化しません。法案づくりまでも行政(役所)に握られていたのでは、国会議員の力はつかず、国会は形骸化してしまいます。主権在民に基づく民主主義を実現するためには、選挙で選ばれた国会議員が立法を行う必要がありますが、そのためには、衆・参の法制局の大幅な改革=充実が急務です。


武田康弘
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いい加減にしてください、政治の三面記事化。お母さんを証人喚問!?

2010-02-12 | 社会批評

あまりにバカバカしく、見ているだけで怒りがこみ上げてきます。鳩山首相の弟さんも政治家のはずです。「母と電話で話したときに云々」、ほんとうにいい加減にしてほしいと思います。挙句の果て「お母さんを証人喚問」!?

難問山積の政治課題、官僚主義からの脱却という120年来の課題を前にして「お金、お金」で揚げ足取り、こんなことをいつまで国会でしているつもりでしょうか?愚か過ぎて話になりません。

お金を必要としない政治の仕組みづくりには大いに賛成しますが、いまやっていることはそれとは全く無縁の政争の具としてのお金問題でしかありません。国民生活や民主主義の発展とは関係のないレベルでの首相攻撃で、「失点稼ぎゲーム」でしかありません。

政治家の仕事は、他の政治家のフトコロ具合を暴くことではないはずです。三面記事の面白さで人の関心を買うつまらぬ所業はやめて、本質問題にしっかり取り組まなくてはいけません。主権者は、もっと重大な課題に取り組んでもらうために国会議員を選んだのです。権力闘争に明け暮れ、品位のないやりとりをするのは、ほんとうに恥ずかしいことです。税金を払って国会議員を雇っているのは、わたしたち国民なのですよ。

武田康弘


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『思索の日記』に高い評価と推薦を頂き、とても感謝です。

2010-02-12 | 書評

Cmoonさんに、わたしのブログをとても高く評価し、推薦して頂きました。大変うれしく思います。感謝するとともに、転写させて頂きます。

Cmoonさんは、全く未知の方でしたが、最近、わたしの検察問題のブログにコメントを頂き、mixi内で、「マイミク(友人)」になりました。


僕の愛読ブログ 
Cmoon

◇『思索の日記』http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen

 最近マイミクになっていただいた、タケセンさんのブログですが、僕はとうてい論評などできません。
なぜなら生まれたからには、学ばなければいけないものが、丁寧に優しく語られているからです。
 今僕は最初に遡り読ませていただいていますが、これまで僕がしてきた”勉強”と言われるのもが、いかに空虚なものであったか、知識偏重の底の浅いものであったかを優しく諭し、導いてくれます。
それは一言でいえば”哲学”です。でも、僕がそれまで認識していた、堅苦しい哲学ではなく、本来、哲学とはこれほど、人間味あふれた優しいものであったのかと気付かせ、その先に導いてくれます。

mixiページはこちら
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=548859&from=navi


◇『きっこのブログ』
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/

”単なる自己満足ブログです。 操作された嘘の情報を信じるのはバカの勝手。真実を書くのはあたしの自由”

 ご存じの方は多いと思います。ブログランキング、日記、雑談分野で断トツの人気を誇っています。ただ面白いだけじゃありません。
きっこさんの真贋を見極める冴えた視線は鋭く、だからといって読者に緊張感を与えることなく、真実を融かしていくんですね。
かなり惚れ惚れする内容と文章です♪

◇池田香代子ブログ
”感じた 動いた 考えた”
http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/2010-02.html#20100211

 ご存知のようにドイツ文学翻訳家、ドイツ文学研究家でたくさんの優れた成果を残されています。
また、911とアフガン報復攻撃を受けて出版した『世界がもし100人の村だったら』がベストセラーになり、その印税でたちあげた「100人村基金」で、NGOや日本国内の難民申請者の支援をしています。

ブログも示唆に富んで、優しい視線で広く世界を見つめ、考えさせられることが多い内容の濃いブログです。


◇カナダde日本語
”カナダで日本語を教えるdesperateな女教師のブログ”

http://minnie111.blog40.fc2.com/

 きっこさんと並んで、ブログ主の美爾依(みにー)さんもすでに著名人らしく、いろんなブログで称賛されています。
政治ブログランキングにエントリーしていますが、3位を下ることはないほどの人気ブログで、鋭い視線で政治を斬りまくっています。
きっこさんにしても 美爾依さんにしても、政治を語れるってとても素敵なことだと思います。

*『きっこのブログ』も『カナダde日本語』も人気ブログだからということで読み始めたわけではなく、いろんなブログを読んでいるうちに辿り着いたんですね。


◇『永田町異聞』
http://ameblo.jp/aratakyo/entry-10455238322.html

 元大手新聞社、社会部記者の冷静な視線で見つめられた政治記事です。
熱過ぎて少しはみ出してしまっているブログと一線を引く優れたブログです。リンクされている方も多いです。
僕は感じるんですけど、記者を辞められたのは惜しいです。
こうした視線が、今もっとも必要とされているのに。
(組織にいると思うように書けないと思いますが……)


◇『日々坦々』
”日々の出来事をボヤキつつ、日本が直面している諸問題の根源を追求する”

http://etc8.blog83.fc2.com/

篤い内容です。内容もリンクも充実しています。注目のブログです。


◇『世に噛む日々』

http://eiji008.blog19.fc2.com/

 ブログ歴は短いけれど、たちまち知れわたりあっという間にランキング入りです。
ブログ名どおり世に噛みついています。権力に噛みつく優しい戦士……かな。


他にもありますが、また次回。

僕は思うんですけど、どこもかしこも似たような報道を流しているテレビニュースや何を言いたいかはじめから想像のつく報道番組、一方的なワイドショーなんか観ているより、ずっと世の中が見えてくる。

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「政治と金」ではなく「官僚主義」(=東大法学部支配)を変えることが政治の核心

2010-02-11 | 社会批評

わたしたち日本人の一人ひとりのエロース=主観性の豊かな開花を阻害してきたのは、明治の超保守主義の政治家・山県有朋らがつくった「近代天皇制」(東大法学部卒の「天皇の官吏」によるエリート支配)である、そう断じて間違いありません。

この「人間を幸福にしない日本というシステム」を変えるには、お上=官僚支配に終止符を打たなければなりませんが、それには、主権在民を原理とする民主主義革命が必要です。

官僚支配を終わらせるのは、わたしたち主権者の代行者=政治家にしかできません。しかし、120年間以上も続いてきた「官=公=国家」という非民主的な支配との闘いに勝利するのは、並大抵のことではありません。民主党政権も、官僚制度の改革から「宮内庁」と「検察庁」を例外とする方針を示さざるを得ないのを見ると、それがよく分かります。

官僚主義を支えるイデオロギーと強制権力(宮内庁と検察庁)を政治=主権者の意思の届かない所に置いてしまえば、改革とは名ばかりのものになり、主権在民の原理は生きて働くことがありません。このことを強く自覚している最大の政治家は、小沢一郎さんでしょう。

小沢さん以外で、検察の民主化と宮内庁の民主化を言明した有力政治家はほとんどいません。昔は、石橋湛山(第二代自民党総裁・第55代総理大臣)のような主権在民の原理を深く自覚した骨のある政治家はいましたが、今は、原理を踏まえブレない人は極めて少ないのです。わたしは、印象に過ぎませんが、鈴木宗男さん、辻元清美さん、自見庄三郎さん、山下栄一さんなどの方は、高く評価します。しかし、彼らも上記の問題=官僚主義の核心部分を明晰に自覚し、それを変える意思があるかどうかは、知りません。

いま問われている政治の課題は、「政治と金」(注) という次元をはるかに超えて、日本の民主化という大問題なのです。本質を見損なっては大変です。

「ディベート」ではなく、なにがほんとうなのか?をめぐる「真剣な議論や対話」を原理とする民主主義の実践を担保するために、政治の仕組みをどう変えるか、そのためには、国会改革、官僚機構改革のみならず、学校教育の根本的な改革も不可避です。旧体制を支える思想・暗黙の想念にまで下りなければ、何も変わらない・変えられないのが、日本の現実なのですから。

(注)「検察は日本の民主化の敵ーウォルフレン」(クリック)


武田康弘

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コメント


霧が晴れて来ました (this boy)
2010-02-11 14:48:07

何かよく分かりませんが今まで頭の中で
モヤモヤしていた霧が少しずつ晴れそうな
気がします。

この行き詰った日本の官僚支配社会からの脱却
を図るべく、民主党政権には大いに期待しています。

今回の検察VS小沢問題をひも解いて行くうちに
この官僚制が日本の癌であることが確信出来たような気がします。

これから少しずつかも知れませんがタケセンさんの実践されていることを拝見させて下さい。

今後ともご指導宜しくお願いします。
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感謝です。 (タケセン=武田康弘)
2010-02-11 21:06:45

this boyさん
よくお読み頂き、とても感謝です。お役に立てれば嬉しいです。今後ともよろしくお願いします。
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C-moon

ひとつひとつ賛同します。

政権交代選挙数ヶ月前、俄かに飛びだした、小沢氏をめぐる「政治と金」の問題に、日本が遭遇している変革の本質が隠されていると思います。
西松建設ルートでも小沢氏を起訴できず、逆に西松建設と大久保秘書の公判では、検察の捜査がいかに杜撰であったか、明らかにされた直後の石川議員の逮捕です。そして一年にも及ぶ、検察と大手メディアが一体となった小沢ネガティブキャンペーン……
多くの良識ある国民は、すでにネガティブキャンペーンで隠そうとしている本質が何であるのか、少しずつ気付いてきた感触が僕にはあります。
しかし、まだまだ大きく不足していると思います。
そして今回の捜査でもまた起訴ができす、まだ執念深く小沢氏の財布を疑い、いまだ終わろうとしないネガティブキャンペーン。
しかしこんなのを繰り返すほど、検察とマスコミの姿勢を疑問に思わなくてはいけません。本質は、隠そうとすればするほど浮かんでくるものですから。少し俯瞰的に見れば、すぐに分かるともいますが。

検察と大手メディアの品位のなさ。横暴さ。国民を見下している姿勢。
本質を隠し続けようとするためには手段を選ばない狡猾さ。
この辺りのことをもっと多くの人に感じてほしいですね。

そして本質とは、タケセンさんが言われている「日本の民主化」そのものだと思います。

そしてもういいかげん、ここにもっと多くの人が気付かないといけないと思います。圧倒的権力を持った独善的検察と一体化している官僚組織が、何を求めているのか。
このまま検察が暴走したら、どんな暗澹たる国家が現出するのか。
その時になってからではすでに遅く、再び民主化から大きく離れてしまうと思います。

凶暴化した検察と肥満化しのけぞりかえっている身体の固い霞が関。
宦官化した宮内庁……
仰るように、明確にここを改革すると変わらず言い続けてきた政治家は、小沢氏だけだと思います。
だからここまで狙われている。貶められている……
そこを多くの国民に感じ取ってほしいです。

これまでメディアによって印象付けられたイメージから、早く脱却してほしい。でなければ見えるものまで見えなくなり、結局損なわれるのは国民なのですから。





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わたしは、政治家を信頼します。

2010-02-08 | 社会批評

主権者であるわたしたちの意思の代行者として日々激務をこなす政治家を、「信用できない者」と見るのは、自分で自分の首を絞めることでしかないでしょう。

120年以上にわたり続いてきた山県有朋らのつくった官僚主義(東大法学部が支配するキャリアシステム)によって硬直化した政治を変え、新たな民主主義による政治を現実に作動させるには、途方もない力が必要です。

わたしたち主権者の代行者は、選挙で選ばれた政治家のみです。いまなお明治政府がつくった「近代天皇制」の想念を引きずる政治の世界で、ほんとうに新しい政治・真に「主権在民」の原理を貫く政治を現実化するのには、大きな困難があります。旧い制度、慣習を変えることは容易ではなく、奇麗事だけではすみません。

現実は「絵に描いた餅」ではないのですから、わたしたちが選んだ政治家を信頼し、彼らに大いに活躍してもらわなくてはなりません。プラスの目で見、応援することが皆の得になるはずです。わたしたち市民は、大きな目、豊かな心をもちましょうよ。

厳禁の精神は、人間的なよきものを破壊してしまいます。


武田康弘
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コメント

小沢氏続投支持ー67%
(Cmoon)
2010-02-09 17:55:08

元秘書起訴、小沢不起訴直後に大手新聞社、通信社が行った世論調査結果を背景に、未だ収まらぬ小沢ネガティブ報道ですが、検察とマスメディアが、同じ方向に向いたまま走り続ける怖ろしさを感じます。

 今回の問題で大手マスメディアは、一年近くひとりの政治家だけを、諸外国に例が見られない独自権力を持つ検察が捜査し続けることへの疑問を感じたことがあるのか。一度でも検証したことがあるのか。
またリーク問題が世間を騒がせている中で、「リークはない」と言い続けるだけで、自らマスコミの在り方を検証した報道があったのか。
民主党の自浄作用を求めながら、検察もマスメディアも自浄しているのか、大きな疑問が残ります。

 こうした中で、まともな世論が形成されるとは思いません。
ひとりの政治家に説明責任を求めるだけで、検察もマスメディアもここ一年の経緯の説明責任を果たしていません。
検察の起訴、不起訴の発表は、記者クラブ、それもカメラ禁止で行われました。
小沢氏の記者会見は、カメラ持ち込み可、フリーランスの記者も入りオープンでした。ここで述べたことに、まだ説明責任が足りないというメディア、野党……。なぜ検察とメディアにも求めないのか、メディア自らは果たそうとしないのか。
国民を見下げているのが明らかです。
主権在民の民主主義を官僚権力とマスコミ権力が貶めているのは明らかです。
私たちは、今に始まったことではなく、このような貶められた状況に長い間居続けてきました。これまでの政権は官僚体制を改革することがなく、マスコミも官僚の暴走を監視する能力もありませんでした。
ロッキード裁判もこうした状況の中で進められたと思います。

検察とメディアは正義であった……
そんな証明をしたかったかのような今回の世論調査です。

 朝日新聞と読売新聞の設問をよく見たのですが、かなり疑問に思います。明らかに誘導しています。同じような結果が出ていることから、通信社の設問も同じようなものでしょう。(推測はよくありませんが……)
地方紙には、通信社の記事が溢れています。世論調査の結果も同じように日本の隅々に広まります。怖ろしいことです。
というのは、TBSラジオの討論番組「アクセス」では、逆の結果が出ているからです。こうした結果が見逃されています。

『あなたは小沢幹事長の続投を支持しますか?』
支持する:398人(67%)
支持しない:133人(22%)
分からない:64人(11%)

新聞とテレビ報道だけではなく、こうしたラジオの討論番組に耳を傾けている人たちは、真実をつかんでいる人、感じているが多いのではないか。
そんなふうに感じました。

 いずれにしても、官僚改革を断行しようとする、すでに手続きを始めた初めての政権です。その政権を支える政治家は、私たちが民主主義の正統な手法によって選びました。官僚改革を委ねました。
僕も自分で選んだ政治家を信頼します。託した政権を支持します


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皆が官僚の所業に怒っていますー昨晩のブログへのコメント

2010-02-06 | 社会批評

以下は、昨晩のブログへのミクシーブログへのコメントです。
無味乾燥、受験勉強と事実学しか知らない官僚の頭脳が生む『反・エロース』の所業に対して、まともな人間は、みな怒っています。ほんとうに腹の底から怒っています。

もう、いい加減に変えましょうよ。
検察庁は、官僚主義の最大の敵とみなす政治実力者を狙い撃ちする「国策捜査」(元・大阪高等検察庁公安部長の証言)をやめなければ、ウォルフレン氏の言う『検察は日本の民主化の最大の敵』であることを証明することになりますよ。

元・官僚の司会者によるニュース番組(日本テレビ)をはじめ、マスコミは、「検察正義」を喧伝する報道を改めなければ、戦前の【大本営発表】と同じことにしかなりません。わたしたちは、暗い時代にも少しもひるむことなく「デモクラシー」を説き続けた石橋湛山(自民党第2代総裁・55代総理)のような偉大な先達をもっています。政治家や報道関係者は、「ルソーの主権在民思想に基づく反・官僚主義・平和主義」を掲げた哲学者であり、ジャーナリストであり、政治家であった石橋湛山のけい眼と気骨から多くを学ばなければならないでしょう。(彼は、官僚主義の産みの親である最悪の政治家、山県有朋の死に際して、「死もまた社会奉仕」と言い放った。)

わたしたちは、検察(官僚)やマスコミの先導により洗脳される国民であっては、「人間を不幸にするシステム」から永遠に抜け出すことができません。


mixiブログコメント欄

ざらすとろ 2010年02月05日 23:58

町並み一つとっても美意識のかけらも無い事以上に,
身体が不自由な立場の人への配慮が全く感じられない事が
すべてだと思います。

権力を持っている側が人間に全く優しく無いんです。
どうすれば人々が過ごしやすい暮らしを実現できるのか
問題にさえしない。
人間らしい暮らしとか、そういうことは一切考えない。
あるのは自分たちの内輪の保身だけ。

そこには真善美への希求はもちろんのこと、知識の蓄積としての教養のかけらも感じられない。フランスは官僚の力が強いけれども、一応エリート層はちゃんと教養がある。
この国の官僚どもは試験勉強しか出来ないクズばかりです。
それはこの国のあり方を観ているとよくわかります。

そういう連中が権力を牛耳っている限り、選挙で誰に投票しようとどうしようと意味が無いことです。

あの米軍でさえ京都に原爆を落とさなかったというのに、戦後、京都をあんな風にゴミにしたのは一体誰なのでしょうか?
せめて執政者に教養や見識がせめて私程度でもあれば、あのような取り返しのつかない無惨な状態にはならなかったはずです!!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

hiro 2010年02月06日 00:18

さらにひどいのは一度決めてしまうと変えられないことですね。
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タケセン 2010年02月06日 12:03

この社会は、日本国家は、わたしが、あなたが、つくっているのであり、官僚がつくっているのではない、このバカバカしいほど当然の原理が踏まえられないために、すべてが狂ってしまうのですよね。
子供たちに、学校教育でこのことをしっかり教え、日々、対話と自治の練習をさせる、教師や親も共に「私は、この社会・国家をつくっている一人だ」との自覚を持ち、生きる。こういう国民運動が必要です。官僚主義を根絶し、主権在民の民主主義を推し進めるための「日本革命」を!です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

C-moon 2010年02月06日 13:33

まるで囚人ナンバーのように思えてきます。
そして、冷たく乾いた感覚で管理されているような嫌な気分です。
想像力の欠如。想像力を培う真・善・美の意識と感受性の欠如そのものの発想ですね。

彼らが作りだすものは、すべて同類で冷たく硬直して愛着の欠片もありません。
陳情しても改める気配もなく、自ら変わる気配もなく、
まるで不毛の荒野と化しているのが、官僚の世界ではないでしょうか。

今が改革のチャンスですね。これを逃すとまた芽を摘まれてしまいそうです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
this boy 2010年02月06日 14:45

>「私は、この社会・国家をつくっている一人だ」との自覚を持ち、生きる。

正にそのとおりでグサっと来ます。
会社でも家庭でも全く同じですね。
大河の一滴・・されどそれが大河になる。
自覚を持つ・・・肝に命じるようにしたいです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Unknown (青木 )
2010-02-11 14:50:09

私のブログで猫の視点から書いてみました。


白猫のエリです。
今日はあたしの目から見て、感じたことを書きます。

要するに、受験勉強しかしたことがない・自分の頭で考えて行動したり話したりしたことがない官僚の言動について怒ってるのね。
東大などエリートコースを歩み、それによって権力を得た人達が今まで社会を動かしてきたもんだから、自分達の権力や安定した地位を脅かす出来事=政治実力者(小沢さんや今までの政治・社会システムを変えようと試みる人達)を潰そうとして「検察正義」を通そうとする。検察もエリートコースの代表の一つだから、検察正義と称して自分達の権力と地位を守ろうとしているってことだね。
でも私達国民はマスコミからの情報で、検察が正しいことをしている、政治実力者は悪者だから排除するという出来事が正しいと思わされているんだね。
検察が正義の味方-政治実力者は悪者という単純な図式にして、私達を洗脳し、本当に「おかしいこと」に気付かせない、疑問を抱かせないよう巧みに操ってるってことなんだ。
私達がその問題に疑問を持ち、権力者達の今までの「自分達の生活は安泰だ」というスタイルを崩さない限り、本当の「民主化」はないし、この国は変わらないということだね。

人間ってあたし達猫と違って、ありのままの姿でいられない生き物なのかしら?
学歴や肩書きがないと認めてもらえないとか、権力を持って自分が良いように動かしたいなんて変な社会なのね。
あたし達より不幸なのねぇ。 


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国土交通省がつくる醜悪――ナンバープレートのひどさは、官の仕事の象徴です。

2010-02-05 | 社会批評

運輸省(現在の国土交通省)の官僚が勝手に決めたナンバープレートのデザインの悪さは呆れますが、軽自動車は、さらに原色の黄色!ですから、もう評しようもない酷さです。

人間の生の意味は、善・美に憧れ、求めるところに生じるのですが、この生の原理を知らない代表が官僚だと言われても、抗弁のしようがないでしょう。まったく美的センスを持たず、ただ識別できればいいという考えは、人間と社会にひどい醜と悪をもたらします。

街中で、一番身近で、みなが目にするのがクルマのナンバープレート、ところが、運輸省が独断で決めたこのデザインのひどいこと、これをよいと思う人はまず皆無でしょう。

まして、軽自動車のナンバープレ-トは、キツイ黄色。せっかく自動車メーカーが苦労してよいデザインのクルマをつくっても、ドクドクしい原色のために、台無しです。

日本人の美意識と街の景観を害(そこな)う愚かな官僚の所業には、ホントウにうんざりします。彼らを雇っているのはわたしたちで、その給与は税金です。官僚が、このような低次元の仕事しかできないのは、「人間の生の意味は、善・美に憧れ・求めるところに生じる」ということを知らないからでしょう。ヨーロッパとの大きな差は、ここにその最も深い原因があるのです。

「事実学」を積み上げることが偉いという勘違いー「意味論としての知」(=哲学)の貧困は、善美に憧れ求める心と頭を生まないために、私たちの国をひどく醜くしているのです。広がりゆく美のない世界をつくるというのは、ひどい悪業です。役人・官僚は、このことを深く自覚しなければなりません。
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