思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

近代民主主義国家には、自由と平等を否定する思想の自由はありません

2010-01-29 | 社会思想

人権と民主主義の思想に基づく主権在民の近代民主制国家には、「根源ルール」ないし、「原ルール」とも呼ぶべきものがあります。端的に言えば、「思想の自由を否定する思想」の自由は認められないというルールです。例えば、戦前の「国体思想」(天皇神格化による日本主義)を現実政治や社会生活の場面で主張することは許されていないのです。

近代市民社会では、自由と平等の理念は絶対的であり、この理念に反する行為は認められないのです。

人として生まれながらの差別、特別待遇は、認められません。したがって、「天皇」に主権者である国民の意思で一定の仕事を与えるのはよいですが(儀礼としての国事行為を担わせる)、天皇を生まれながらの特別な人間として遇したり、特別な存在として見ることを求めるのは、近代民主主義の哲学と明らかに背反します。それは、通常のルールに反するのではなく、根源ルールに反するのです。これは、現代社会に生きる者にとっての基本常識=哲学思想なのですから、わが国が主権在民の民主主義を国是とするならば、教育の場で、子どもたちにそのことをしっかりと教えなければいけません。現在のネットウヨクは、こうした「常識」に無知であるために、議論以前の言辞を振り回すことになっています。

古代政治の中心者であった天皇、神主の代表であった天皇、明治政府がつくった国家神道の現人神であり現実政治の主権者でもあった天皇。そうした天皇という存在に、現代政治がなお何か特別な価値を置き、その思想を社会の成員に強制することなどは論外である。これは、現在ではふつうに誰でもが知っていることですが、哲学する(自分で考える)習慣に乏しく、無思想的なわが国の精神風土の中では、「ありえないはず」の想念がいつの間にか新たな意匠のもとに復活してしまう可能性がゼロだとは言い切れないので、あえて、書いておきます。

近代民主主義国家に「絶対者」を置くことはできません。絶対者は個人の想念の中にだけで認められるのであり、社会的・現実的な次元においては認められないのです。

近代民主主義の社会では、自由と平等の理念の下に、社会の成員が互いの自由を認め合い、互いの努力によって国をつくるのであり、したがって、近代社会では、「私」は、プライベートな私でありながら、公共的な私でもあるという二重性(さらに組織や団体の一員としての私を考慮すれば、三重性)をもちます。この「相互性」による社会・国家運営は絶対的であり、これを超えた絶対者や特別者を現実の社会思想の中に設けてはなりません。これが近代民主主義国家の根源ルール(原契約)なのです。個人であると同時に市民であるわたしが、あなたが、国家をつくっているですから。

以上は、現代社会に生きる者にとって当然の前提となる思想ですが、あえて記しました。


武田康弘
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コメント

霧が消え、スッキリ晴れました (C-moon )
2010-02-05 11:40:40
 
僕はこれまで、憲法の定めるところによる「思想と良心の自由」から、いかなる思想がはびこっていても仕方ないのかな……と思っていました。
思想的にも心情的にも、排他的で硬直的で強権的な、しかも幼稚な右翼思想と左翼思想には辟易していたのですが……
こんなふうに実に短絡的と言えば短絡的で、恥ずかしい話、考えも何もないところにいたわけです。
 こんな僕ですが、タケセンさんのブログを最初から拝見させていただきながら、ようやく理解できるようになりました。
そして今回の冒頭の
”人権と民主主義の思想に基づく主権在民の近代民主制国家には、「根源ルール」ないし、「原ルール」とも呼ぶべきものがあります。端的に言えば、「思想の自由を否定する思想」の自由は認められないというルールです”
 この部分を読ませていただき、これまで霧が巻いていた光景がスッキリ晴れました。もう最後まで砂浜に波が吸い込まれるように読ませていただきました。
すっかり心洗われました。心もですけど頭の中もです。
恥ずかしい話ですが、憲法にも僕は認識を大きく欠いていました。
すべては、近代民主主義の主権在民の上に成り立っている……ですね。
また、ブログに戻りまして、勉強させていただきます。





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プレートルのレスピーギ YouTube映像ー唖然とする名演!

2010-01-28 | 趣味

2008年に続き、今年もウィーンフィルのニューイヤーコンサートを指揮したフランスの自由人・ジョルジュ・プレートル。
元旦の衛生中継で見るプレートルは、85才という年齢がにわかには信じられない若々しい指揮ぶり。艶やかで躍動する音楽を奏で、元気いっぱい。聴衆は熱狂していました。

そのプレートルがレスピーギの三部作を指揮した映像がありますので(「プレートル」のコミュの方から紹介)お知らせします。
三部作のうち、「ローマの噴水」と「ローマの松」の二つです。

プレートルの豊かな主観性の音楽は、明晰かつ豊饒、知的にして官能的、艶やかなエロースの芸術です。ロマン主義とは無縁の真のロマンが全編に満ち溢れ、ホール全体に広がります。わたしは、あのトスカニーニの伝説的な名演を凌ぐ、最高のレスピーギだと思います。みなさんもぜひ堪能してください。2009年7月、85歳目前のプレートルです。

お時間のない方は、まずは、「ローマの松」4の5分間をどうぞ。DVDが出ないかな~。


ローマの噴水  ローマの噴水2

ローマの松1  ローマの松2  ローマの松3  ローマの松4



わたしの【プレートル賛】は、1年前の文章がありますので、貼り付けます。

「職人技に支えられた豊饒な主観性」

プレートルのつくる自由でこだわりのない音楽は、実に豊かです。
音楽の表情は(指揮する顔の表情も)変化に富み、飽きることがありません。
明晰にして豊饒です。
プレートルの音楽の豊かさは、アインザッツに無頓着で、各プレーヤーの自発性に任せていることに一因があると思います。
また、テンポも、プレートルの心身に忠実に刻まれているようで、聴いていて心地よいものです。ただし、楽譜の指定とはかなり異なることもあるようですが。
何より素晴らしいのは、音楽学的な窮屈な感じが全くなく、楽曲の意味が判然と伝わることです。全体がわしづかみにされて、明瞭に示されるので、とても分かりよいのです。

プレートルは、内外(フランスとオーストリア)で大きな音楽賞を受賞していますので、「異端」ではないはずですが、彼のつくる音楽は、ベートーヴェンやマーラーの交響曲においても、従来の演奏とは様相が大きく異なります。意味が濃く、表情がとても豊かで、分明かつパワフル。楽しいのです。楽譜に書かれた音楽が「客観」として示されるのではなく、プレートルという人間の「主観性」のエロースに満ちているので、面白く、長大な交響曲も繰り返し聴きたくなるのです。彼の主観性の豊かさ・魅力は、長年、オペラの指揮で身につけた確かな職人技に支えられているので、強く安定しています。

2008年、ニューイヤーコンサートの指揮者としてウィーンフィルの楽団員が選んだプレートルは、83歳にして突如大注目されるようになりました。昨年、録音後17年間もオクラになっていたマーラの交響曲・第5番、第6番が、『レコード芸術』誌で特選盤となり、第5番は、2008年度の「レコードアカデミー賞」・大賞も受賞しました。

従来の「客観主義」による正確・緻密な演奏とは大きく異なる「主観性」の豊かさに基づく演奏が、このように高く評価されるようになって、わたしは嬉しい限りです。
いま、時代が、更に言えば、大袈裟かも知れませんが、人類の文化・文明が大きく変わろうとしているのかもしれません。なんだか、ワクワク、ドキドキしますね~。

武田康弘
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昨日の記事(検察の人事を変えること)のURLの間違訂正と池田香代子さんのブログ

2010-01-28 | 社会批評

昨日の記事で、URLが間違っていました。
訂正します。http://www.geocities.jp/ku_kai2006/4benkyokai.html
ココをクリックで出ます。昨日の記事中のURLも訂正しておきます。



なお、ついでに『ソフィーの世界』の名訳で知られる池田香代子さんのブログのURLは、こちら(クリック)。

言葉の達人だけあり、読み易く、とても面白いですので、ぜひご覧下さい。

最近のエントリーは、

★霞ヶ関のみなさんへ

★「責任のへらへら」坊ちゃん 説明責任のばか

★今夜「インビクタス」試写会トーク イーストウッドは変わったのか

★この喜びをひとりでも多くの方がたと 名護市長選

★クロスオーナーシップが国会で&「出禁」は禁止を

★検察の首に鈴をつけるか がんばれ東京新聞

★政教分離訴訟で最高裁が違憲判決? いやもう現場はズブズブです

★「700の志が国家を動かすこともある」 DAYS JAPANの訴え

★「お上(かみ)の事には間違いはございますまいから」
ムネオ語録「検察はフォワードに出てきたGK」@民主党大会
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結語ー検察の民主化のためには「人事」を変えること。

2010-01-27 | 社会批評

元大阪高等検察庁の公安部長の証言を読みました。
中小企業経営者の相互扶助暖帯KU会第四回勉強会より)http://www.geocities.jp/ku_kai2006/4benkyokai.html

検察庁の内部が腐っていることがよく分かりました。これでは、日常的に「冤罪事件」を引き起こすのは当然です。元・公安部長の証言により、国策調査や長年にわたる裏金つくりの詳細を知ると、崩壊した旧社会主義国の官僚(制)を想起します。

問題解決のための条件は、「人事」を根本的に変えることです。

警察庁と並び、キャリアシステムの象徴である検察庁の「人事の硬直性」は、言語に絶するもので、検事総長に誰がなるかは、新聞報道によると、三代先まで決まっているとのことです。わけ知りの方によれば、三代どころではない、とのことですが(笑)。

検察庁という一つの官僚組織の内部で秘密裏に行われている人事=【旧帝大(東大&京大)法学部による一元支配】から、
開かれた民主的人事に変えること。
これは、検察浄化―検察民主化のための基本条件です。


武田康弘
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コメント

驚くべき司法官僚組織の現状 ( C-moon )
2010-01-27 19:24:57

『中小企業経営者の相互扶助暖帯KU会第四回勉強会』を読ませていただき、検察庁が日本でもっとも腐っている行政組織だということを思い知らされました。
こんな組織に社会正義を問われたくありません。
また腐っていることを知りつつ、権力と結びつこうとする政治家やマスメディア、大企業があります。
マスメディア、大企業は、検事総長、検察幹部たちの華麗なる再就職先です。
加えて、「政治・検察・報道のあり方に関する有識者会議」の報告書によれば
『法務省刑事局をはじめ同省幹部の枢要ポストは検察庁から出向した検事で占められているという独特の人事配置がなされていることから、法務省と検察庁はきわめて密接な関係を有しており、両者は実質上一体的な組織であるとみて差し支えない実態がある』

このようにガンが増殖し蝕んでいるかのような司法官僚組織の現状に、政治と国民が免疫系細胞にならないといけないですね。
これまで免疫であるべき政治が、ガン細胞を増殖させていたわけですからかなり重症です。
思いきった外科手術と再発防止を望みます。
それには、改革勢力への国民の支持……これに尽きると思います。
そして諦めずに我々も発言できる場で発言していくことが大切ですね。
ささやかなながら、僕も声をあげていきたいと思います。
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民主主義の意味が分かっていない (青木)
2010-01-28 10:50:12

口では、言葉では民主主義と言ってるのに、実際は官僚主義の思想を振り回し、その思想・体制を崩そうとする者を潰そうとする行為をしているのを見るととてつもない矛盾を感じます。

税金で雇われている検察官の人事が民主的でないというのはひどい話です。
「民主主義」の意味がちゃんとわかってないのではないのでしょうか。

あるいは。本当の民主主義よりも今まで守られてきた古い主義・体制を必死に守ろう、国民よりも自分達の安泰生活の保証が大事だと思っているのでしょう。
この状況は、醜いエゴをむき出しにしているのが見えて、不愉快な気持ちになります。



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倫理にもとる検察官ーもはや評すべき言葉もない。

2010-01-22 | 社会批評

今日のニュースで報じられましたが、菅家さんの再審裁判で、当時の検察官は、反省も謝罪もしませんでした。

あろうことか、「菅家さんが無実だという証拠が示されなかったから・・・」と発言していましたが、この元検察官の無知には言葉を失います。推定無罪の原則は、人権と民主主義の国ならばどこでも当然のことで、「日本国憲法」では第38条に明記されています。
無実だという証拠がないから有罪!!??だというなら、誰でも有罪にできます。

こういう大原則をわきまえない検察官が「法の番人」なら法は命を失います。地位のある者(検察官)は大きな間違いに対して謝罪さえしない。倫理は消え、国は滅びます。わたしは、強い公共的な憤りを持ちます。

有罪とされ、極刑が言い渡された人間の言語に絶する苦しみが分からない検察官に対しては、もやは評すべき言葉もありません。


武田康弘
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以下は、ミクシイ・コメントです。


きくっちょ
2010年01月23日 01:00

ニュースより失礼。

DNAっていう結果的に間違ってたとはいえ証拠があった。

DNAの結果が間違ってたのは検事の責任ではない。

証拠もあって本人も自白した。

自分はやってないという犯人は腐るほどいる。

この状況で検事はどうするべきだったのですか?

もちろん謝罪はしたほうが良いですが彼としては職務をまっとうしたにすぎないと思いますが。
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*まちゃこ*
2010年01月23日 01:41

ニュースより失礼します。
今回のニュースは意見(責められる対象)がたくさん別れているようですね。
その中でタケセンさんの日記で引っかかるところがあり、コメントさせていただきました。
今回検事の方が実際どのような言い方をしたのかは知りませが『無実だという証拠が示されなかった』と言ったのなら、=『無実だという証拠がなかった』とはとらえることは出来ないと思います。
確かに、少しでも無罪の疑いがあればそれは無罪になるべきですが、今回のケースは警察から渡された証拠にはそのようなものはなく、また警察が『示さなかった』のかもしれませが、検事の方を無知と言うのは違うと思いました。
ともあれ、今回のような事はきっと過去にたくさん起きていますし、今のDNA鑑定ももしかしたら将来『100万人に1人を確定するだけのモノ』とか言われるのかもしれません。
どうにか改善されていって欲しいものです。
長々と失礼しました。
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ジャック
2010年01月23日 03:18

ニュースから失礼します。
個人的な感情から言うと、この元検事の態度には苛立ちを覚えました。
またなぜ菅谷さんは「自白」→「撤回」→「自白」と曖昧な回答を
してしまったのかということがすごく気になります。
単に菅谷さんの性格が問題だったのでしょうか?それとも取調べが
きつくてそう言わざるを得なかったのでしょうか?

一部の方々は元検事は仕事を全うしただけのことで、謝罪する必要はないと仰っていました。確かに「仕事」という見方からはそうかもしれません。でも個人的には冤罪によって17年間という貴重な時間を失い、苦痛を味わってきた菅谷さんにとって、次のステップを踏むためにはまず一つの区切りが欲しいのは当然ではないかと思います。
取調べは正しかったとか間違っていた云々より、これから大変な思いで生きていかなければならない菅谷さんにせめて激励の言葉ぐらいはかけて欲しかったなと思いました。
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ざらすとろ
2010年01月23日 11:45

もし現政権が本気でデモクラシーに基づいた政治を行おうとしているのなら、真っ先に司法制度のあり方を大幅に改革しなければならないと思います。

立法、行政、司法の中で一番腐っているのは、司法です。

少なくとも、この北朝鮮並みの99%以上の有罪確定率というまったく信じがたい状況を改善するには、まず裁判官が地方の簡易裁判所に島流しされる事を恐れるような状況をこそ真っ先に変えなければなりません。

そして検察の権限を監視する仕組みをきちんと造って機能させる必要が在ります。
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C-moon
2010年01月23日 11:54

検察の仕事を全うしただけだ……しかし明らかなミスを犯した。
いかなる理由があれ、どんな仕事であれ、自分の仕事で結果的にミスが生じ
相手に不利益をもたらせた場合、まず謝罪することが”人”ですよね。

自分の子供には、みなさんそう教えるのではないでしょうか。

法の順守に関わる、強権を持っている検察官が
刑法上のもっとも重要な原則―推定無罪から大きく逸脱している現状。
検察の長い習慣が、冤罪を発生させているわけですから
国民はもっと厳しい目で、強権を持っている検察を見つめてほしいです。
”推定無罪”と”疑わしきは被告人の利益”に……これは一体です。
この原則が崩れた時、法は機能を失い暴走します。
かろうじて今回は、再審というカタチで”疑わしきは被告人の利益”が
何とか守られましたが失われた菅谷さんの17年間の人生はもどりません。
”疑わしきは被告人の利益に(罰せず)”は裁判所の原則。
”推定無罪”は、検察の原則……
明らかに検察は、菅谷さんの件では、無視しています。

刑法学者の団藤重光さんは、「冤罪が存在する限り、死刑制度は反対である」
ということを言っていますが、この言葉は重いです。

そして、今回の小沢氏を巡る検察とマスコミもこの原則を逸脱しています。

いつも世の中を測る自分の中にある秤の均衡を保っていただける日記に感謝しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン
2010年01月23日 14:41


きくっちょさん

被告側は、DNA鑑定の再検査を求めづづけましたが、実行されませんでした。検察側は、まったく言い訳ができません。ミスという次元を超えた大問題です。

*まちゃこ* さん

「確かに、少しでも無罪の疑いがあればそれは無罪になるべきですが、今回のケースは警察から渡された証拠にはそのようなものはなく、また警察が『示さなかった』のかもしれませが、検事の方を無知と言うのは違うと思いました。」

今回の事件に限らず、
警察が犯人だとした人物について、「無実の可能性がある証拠」を警察が検察に出す、ということはないのです。ですから、
検察の仕事は、警察の言をうのみにせず、白紙でもう一度検証するところにあります。これが原理です。
検事が推定無罪の原則(=人権を守る責務をもつ民主主義国家の大原則)踏まえないのですから、無知だと言うほかにないのです。

ジャックさん
ざらすとろさん
C-moonさん

コメントありがとうございます。


コメントを寄せられたすべてのみなさん、
踏み込んでのご意見、感謝です。


武田康弘


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民主制のシステム上の問題ー検察庁への提言

2010-01-21 | 社会批評

今朝のフジテレビに出演した元東京地検特捜部キャップの話ですと、
違法かどうか、事件にするかどうか、の判断は、同僚とさえ協議・議論せず(してはならないとのこと)担当検察官と上司という縦の関係のみで決定するのだそうです。

閉じられた一つの機関の中で、誰を捜査するか、何を捜査するかが決められ、その判断の妥当性を検証する仕組みが存在しないのです。これは、民主主義のシステム上の重大な欠陥だというほかありません。

ほんらいならば、立件するかどうかは、少なくとも、対等な立場の3人以上の合意が必要なはずです。

主権者である国民から選挙で選ばれた政治家を取り調べることは、慎重の上にも慎重でなければなりません。それが単線的な縦の上下関係の中で立件されてしまうのは、恐ろしいことで、この方法では、民主主義国家の基本要件を満たしません。

今までも、多くの政治家が検察の判断でその政治生命を断たれてきましたが、検察の間違いやバランスを欠いた判断が批判されることなく、また、問題があっても誰も責任を取っていません。

政治家の事件のみならず、多くの冤罪事件についても、誰も何も責任を取らないなら、【法治国家】の根本が揺らいでしまいます。検察から「クロ」と決めらたら、その時点で、世間から葬られてしまうという現状は、人権や民主主義にとって極めて危険です。

繰り返しますが、民主主義の根幹に関わる政治家の違法行為を立件する場合は、少なくとも対等な立場の3人以上の全員一致の判断が必要で、立件にあたっては、理由と個人名を公表する必要があります。

戦前の「官=公=国家」という思想に基づいて運営されてきた官僚組織は、「日本国憲法」の発布と共に、主権者となった国民へのサービス機関に変わったのですから、検察の判断の妥当性を担保するための意識+制度改革は、極めて重大な問題なのです。

これは、小沢氏vs検察庁などという低次元の話ではなく、日本国家の根幹に関わる民主主義の重大問題なのです。民主党、自民党という政治的な争いというレベルの話ではありません。


武田康弘
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2 コメント


いまこそ哲学者は発言すべき (内田)
2010-01-21 23:08:01

武田先生

これは、小沢氏vs検察庁などという低次元の話ではなく、
日本国家の根幹に関わる民主主義の重大問題なのです。民主党、自民党という政治的な争いというレベルの話ではありません。

 ⇒ブログの上記のご発言拝見。先生のように民主主義の根本(根拠:アルケー)の問題として考えると、マスコミの報道は如何に表層的なものであるかが分かります。
小沢氏vs検察庁とか民主党vs自民党という図式、よくて政治的信頼性の喪失による民主主義の危機ぐらいにしか思っていないでしょう。
大新聞などは、検察のリーク記事を一面トップにして根本的な問題分析はまったく出来ていません。
問題分析が出来ないから有効な対案も出せない。これは、今に始まったことではないですが知的退廃です。
民主主義の根本である「民による支配」(言葉は強いですが)を徹底し機能する方法を提案しない限り、官僚はサービスマンとはならず 「官僚による支配」という逆立ちした行為を継続することになるでしょう。

正に今年は、経済的だけでなく政治的(日本国の民主主義)にも『歴史の峠』の年と思えます。

今こそ根拠(原理)探求の学たる哲学に従事する、哲学者は発言すべきときです。
  
内田
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また思いをあらたにしました。 (C-moon )
2010-01-21 23:25:03

なぜ石川議員を国会開会3日前に逮捕しなければならなかったか、その杜撰性、横暴性に良識あるフリーのジャーナリストや弁護士、元検察官など法律の専門家たちが声をあげ始めていますが、大手のマスメディアに見られないのは、検察のこうした民主主義のシステムの上の重大な欠陥さえ、見過ごしてしまっているからというのも一つの要因なのですね……
 強大な権力を握っている検察をチェックする機関がないというのが大きな問題ですが、(法務大臣だけですか……)それを本来なら野放しにしない役割を果たすのが、マスメディアだと思います。しかし機能していないどころか検察と複合体になっている司法記者クラブ……

 国家試験に合格しただけで、有権者の意志の洗礼を受けていない官僚のエリート意識っていったい何処から生まれるものなんでしょう。
権力を権力と感じられなくなるほど自己浄化作用のない官僚組織から、有権者の洗礼を受けた政党政治に政治を取り戻さなくてはいけないことを痛切に感じる内容と意見です。

また思いをあらたにしました。ありがとうございます。





コメント (3)
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基本的人権と民主主義の発展には、検察庁の再編成が必要です。

2010-01-20 | 社会批評

検察庁のきわめてお粗末な捜査能力は、最近の一連の政治事件で、誰の目にも明らかです。埼玉県知事の事件でも、鈴木宗男氏の事件でも、検察の主張の多くは根拠のないものだったことが裁判の過程で明らかになりました。

しかし、問題は、その【思い込み捜査】による検察の逮捕・取り調べ・起訴により、政治家は政治生命を失ってしまうところにあります。

たとえ、裁判で多くの容疑が晴れても、逮捕された政治家の政治的生命は、検察に「黒」と見られた時点で終わりになってしまいます。これでは、検察による政治支配であり、代議制民主主義にとって、許し難く、恐ろしい話です。

外国人から、日本の官僚独裁政治を支える組織が検察庁であり、【検察は、日本の民主主義の敵である】と断じられる所以です。

鳩山政権は、「検察官僚主義」に終止符を打ち、市民主権の民主主義の国をつくるために、警察組織と共にキャリアシステムの最たるものである検察組織の抜本的な改革に着手する必要があります。これが喫緊の課題であることは言を俟ちません。


武田康弘
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コメント

深く賛同いたします。 ( C-moon)
2010-01-21 14:51:09

はじめまして。
ニュースから訪問させていただきました。

小沢問題に関する検察の姿勢へのご意見、深く賛同いたします。

貼り付けられた読売新聞記事もそうですが、各メディアの一連の報道は
「関係者によると」という言い回しで、内容は特捜部しか知りえないものです。
3名の秘書逮捕後の記者会見がありましたが、その他記者会見を開いた様子もなく
検察によるリークと思われても仕方のないものです。

それをメディアが鵜呑みにし、立証されていない事実があたかも事実として
立証されているかのように報道され我々国民に予断を与えています。
予断は世論調査の結果を見ればわかるとおりです。

刑事訴訟法には予断排除の原則が明記されていますが
すでに検察は自らこの原則の分水嶺を越えていると判断せざるをえません。
こうした状況は、大本営発表を彷彿させ怖ろしいものを感じます。
検察は民主主義を理解しているのかさえどうか不安になります。

明治以来の独裁権力、霞が関の体制を護ることだけに終始し
その急先鋒として社会正義を掲げ突っ走っているのではないかと危惧しています。
改革が真っ先に必要なのは、強大な権力を握った検察であることに同意いたします。

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検察庁と小沢氏、あるビジネスマンの見方

2010-01-18 | メール・往復書簡


以下は、わたしのブログを読まれての意見です。
ある大企業に勤める方で、公共的な役職にもつく方から寄せられたメールです。



今回の東京地検は特に異常と思えます。

政治資金報告書の記載漏れとか虚偽記載が問題なのか?それとも贈収賄なのか?4億円のお金の一部が怪しいお金で厳罰に当たる問題と考えているのか?
確信があるならターゲットを明確にして、堂々と捜査に当たればよいと思います。

ただ、このような曖昧なことで、公党の幹事長にたいして何をしようとしているのでしょう?検察ファッショといわれる問題です。小沢つぶし、民主党つぶしなのでしょうか?(官僚側の抵抗)私には分かりません。

早く国会で予算を通して、一国でも早く日本国経済を上向かせる努力をしないと大変なことになるのではないかと心配です。

小沢さんは不本意でしょうが、同義的政治的責任及び軽微でも法律に触れるようだったら相当な覚悟を持って国会等で説明していかないと、このままでは予算を人質に小沢さんの幹事長辞任ということになりかねません。

マスコミもひどいですね。小沢さんは確かにグレーかもしれませんが、国民から選ばれた代表が、このうな曖昧な形で公職から追われていったら、まったく恐ろしく思います。

内閣支持率がすでに40%台に急降下との事です。注意信号です。今考えるべきことは、検察のわけの分からないリークにより騒ぎ立てるのでなく、国民、市民の生活から何が今必要かを考えるべきでしょう。

小沢さんのことで現政権の足を引っ張るのではなく、早期政策実行によりこの停滞状況から如何に抜け出すかを考えるべきと思います。私は、ビジネスパースンですので本当にこの一年は歴史の峠だと思っています。世界経済から取り残されたらどうなるか?本当に怖いことです。

杞憂でしょうか?

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検察は日本の民主主義の敵ーウォルフレン

2010-01-15 | 社会思想

次々と冤罪事件を引き起こしている検察ですが、その日本の検察を、第三者である外国人はどのように見ているかを知るのは、わたしたち日本人にとって、有意義なことでしょう。

世界的に著名なジャーナリストでありオランダ・アムステルダム大学教授でもあるカレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、ベストセラーとなった『人間を幸福にしない日本というシステム』(1994年刊)の中で、次のように述べています。


同書110ページ
検察は日本の民主主義の敵
日本の検察官たちは、日本の民主主義実現のうえで、最終的な、そして最も手強い障害物になりかねないとわたしは思っている。

日本の検察官は異常に強大な権限を持っている。逮捕・尋問・起訴するかしないか、自分ひとりで決める権限がある。外国人は、検察官にこのような高度の裁量権が与えられていることを知って驚いている。
知れば知るほど魂消る(たまげる)のは、有罪判決率が99.8パーセントと桁外れなことである。日本の裁判官は、いつも検察の言うことに同意していることになり、これでは、裁判は、実質的に検察官によって行われているも同然である。

検察庁は、まず第一に現状維持に関心がある。それが秩序維持の最善の方法だと思われているからだ。これは、日本の民主主義にとって重大なことだ。なぜなら既成秩序とはすなわち官僚独裁のことだからである。日本の民主主義を実現するためには、官僚の意思決定に政治家の支配が及ぶようにしなくてはいけない。それは現状を激しく破壊することになるだろう。官僚たちはなんとかそんなことにならないように努めるだろう。

日本の検察庁は法務省の統制化にあるから、結局は官僚制度全体の下僕ということになる。つまり、官僚たちが強力な政治家に脅威を感じはじめたら、検察が面倒をみるのだ。田中角栄にこれが起こり、金丸信にも起きた。小沢一郎やほかの改革政治家たちにも同じことが起きるかも知れない。

たしかにそうだ。でも政治家は腐っているのだから、検察が狙った政治家の身の上にその後おこったことは当然の報いだ、とあなたはおっしゃるかもしれない。もう一度申し上げるが、これは日本の政治制度への誤解の中で最大のものだ。この誤解を解く三つの要素をしっかり認識してほしい。
第一は、この本の前のほうでお話したように、政治家として名を成すには、大金持ちの家系に生まれないかぎり、金権政治の修羅場をくぐらざるをえないこと。第二は、政治家が選挙運動用の費用を集めるにあたって、どこまでが公式に許される範囲かきわめてあいまいなままだということ。第三は、恣意的な官僚支配のために、企業は政治家の取りなしに頼るのを余儀なくされているということだ。(115ページ・結)


あなたは、どう思われますか?

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検察庁は、説明責任を果たさなければ、官僚独裁に陥ります。

2010-01-14 | 社会批評

今回の小沢氏関係先への一斉捜索に限らずですが、
検察は、有無を言わせぬ権力=強制力を発動するにあたっては、その権力の源である国民にきちんとした説明が必要です。しかし、その義務が果たされていません。

強制力の発動に至った理由は、マスコミの推論以外にはなく、検察庁自身の説明がありません。これは、主権在民の民主主義国家としては、極めて重大な問題です。

民主主義の手続きに則り、主権者の重い権利として選んだ政治家に対する捜査は、慎重の上にも慎重でなければなりません。少しでも「判断」に普遍性・妥当性を欠けば、主権在民の原理に立つ民主主義の根幹を揺るがすことになります。

官僚支配を守る最後の砦の役を果たしてきた日本の検察は、民主主義の発展を阻害する最大の要因になりかねない
と、著名なジャーナリストでありアムステルダム大学教授でもあるウォルフレン氏は言いますが、

検察庁は、しっかりと説明責任を果たし、そのような疑いを持たれぬようにしなければなりません。ただでさえ検察は、【冤罪事件】を次々と引き起こしてきたのですから。

マスコミも、検察の言動を「絶対化」して伝えるのは、大変危険であることを自覚しなければいけません。検察の判断を即・真実として報道するのでは、戦前の「天皇主権の官僚主義国家」の時と変わりません。現代の日本は、主権者は市民・国民であり、すべての権力の源は国民にあるという原則こそが絶対的なのですから。


武田康弘


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高校生が批判ー長谷部泰男東大法学部教授の主張

2010-01-11 | 社会思想

1月7日(水)のブログにました長谷部泰男さん(東大法学部教授)杉田敦さん(法政大学法学部教授)との朝日新聞の対談記事を読んだ高校生二人の感想と意見を記します。


(A君)
長谷部さんは、宮内庁が独自で定めた「30日ルール」は大事だ。カントも言うように天皇を利用価値のある「手段」として扱ってはならず「目的」として扱うべきだ、そうでないと、天皇や皇室独自の価値や尊厳が崩されてしまう、というが、
その考えは、おかしいと思う。
誰か特定の人や家族に尊厳があるとすれば、その他の人や家族には尊厳はない(少ない)ことになってしまう。ぼくたちは、みな対等・平等な価値をもった人間であって、特定の人が生まれながらして「偉い」というのは、第二次大戦の前と同じ考えでしかないと思う。いまの憲法は、天皇主権から国民主権に変わり、天皇は儀礼的なことをする人でしかないはず。長谷部さんは憲法学者だと言うが、どうしてこんなおかしな主張をするのだろう?昔と同じ思想をもつ人なのかな。

(Bさん)
東大の教授だから自分が偉いと思っているんじゃないの?自分が昔の天皇みたいな気持ちなのかもしれない(笑)。

(A君)
官僚が決めるという今までのやりかたが「民主的」と言っているように読める。官僚=東大だから、政治家ではなくて、官僚の方が上だと言いたいのかな。「宮内庁長官」の発言がいいと言っているし、「内閣法制局」の憲法解釈がいいとも言っている。でも、これはすごくおかしいことだと思う。タケセンもブログに書いているけど、三権分立の三権の一つの「内閣」の下にいろいろな行政機関があるのに、その機関(役所)が、内閣が決めたことに従わない独自の権力をもったら、民主制ではなくて、官僚制になってしまうはず。

(Bさん)
そうね。杉田さんもそうだけど、長谷部さんのは、違う次元の話を一緒にして語り、自分の意見が正しいと言っているから、間違いだし、すごく分かりにくい。現状維持のために話を誤魔化している感じて、学者なのに「官僚ぽい」。

(A君)
内閣法制局の問題でも、長谷部さんは、アメリカやフランスでも同じようなものがあるからいいんだ、って言うけど、これはひどい話ですよ。同じようなものがあるといっても、その中身や位置づけは日本と同じだとはとても思えないし、それに、状況が異なるほかの国の話を持ち出しても、「よい」ということの証明にはならないはず。だいたい、ここで云われている9条の解釈のことは、アメリカやフランスの例を出しても意味ないですよね(笑)。

話が戻るけど、この論理のすり替えみたいなことは、天皇問題への発言でもそうで、カントの言った「目的として扱え」というのは、平等な一人ひとりの人間の尊厳という意味なのに、天皇制という制度の問題と次元を混ぜて言うから、読んでいてすごく気持ち悪い。個人の人間の話ではなく、天皇や皇室という制度は、もし「利用価値」がないのなら、それを国民の税金で維持している必要はないはず。主権者の意思で、儀礼(そういう仕事)をしてもらっているだけなのに、そういう民主主義(国民主権)の基本がはっきりしないから、意味がすっきり通らないんだと思う。

(Bさん)
なんだか、官僚主義という「古きよき伝統を壊そうとする政治家」を攻撃する!?(笑)っていう感じ。
それにしても、論理をすり替えたり、次元の違いを無視して混乱させるようなひどい対談を、どうして『朝日新聞』は載せるのかな~?その意図が分からない。新聞記者も名前が偉いとイイものだと信じてる?

(A君)
一元化はダメ、とか権力は多元的であるべき、とか、言葉の表面だけを見るとなんとなくイイように見える(聞こえる)けれど、よく考えると、ほんとはひどい話で、政治は成り立たなくなる。責任がはっきりせず、バラバラで、空気で動く、空気に縛られる。でも、それが戦争を引き起こしたんだし、戦後も無責任で、昔の思想を反省できない原因になっていると思う。

(タケセン)
うーーん、素晴らしい感想&意見だね(感心)。ありがとう!
その無責任性を生んでしまう日本人の考え方と権力構造の問題を主題化して世界的なベストセラーになったのが、ウォルフレン(オランダ)の『日本権力構造の謎』という本なんだが、レジュメがあるから後で見てもらおう。
自分の頭で生き生きと「考える力」が豊かになると、灰色の日本人から脱却できるよね~~(笑)。単なる「事実学」から「意味論」へ、だね。


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歴史は眠らないー「ニッポン 母の肖像」第一回(NHK「知る楽」)

2010-01-08 | 教育

いま、NHKの「知る楽」(知るを楽しむ)で、
歴史は眠らないー「ニッポン 母の肖像」の第一回を見ましたが、江戸時代の子育て・教育の優れた思想と実践に心底感動しました。

とりわけ、乳幼児に他の親が乳を与え、生涯関係を結ぶ「仮親」という風習や、
代え子(子どもを預け合い育てるー貧しい家の子は裕福な家で、と異なる環境に置き育て合う)風習、大原幽学の人間味溢れる思想・実践には、深い感動を覚えました。

世界にも例を見ない実に優れた【公共】の思想と実践がわたしたちの国にはあったのですね。足元をもっとよく見なければ、と思いました。
早速、テキストを注文しました。



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「事実学」以前ー長谷部泰男・東大法学部教授の主張

2010-01-07 | 社会思想

昨日(1月6日)の朝日新聞朝刊に、長谷部泰男・東大法学部教授と杉田敦・法政大学法学部教授の対談が載っています。一読、唖然としましたので、ブログにします。

地方政府においては、主権者の意思は議会と首長の二元によって代表されますが、
中央政府においては、主権者の代行者である国会議員が総理大臣を指名し内閣をつくるので、権力は二元代表制ではありません。しかし、三権分立という民主主義の仕組みに基づいて権力が行使されるのは、言うまでもないことです。義務教育でみなが学習することです。ーーー以上は、基本の確認です。


長谷部さんは、「憲法一元化、想定せず」という見出しで、
違憲立法審査権という民主主義の仕組み(三権分立)の話を持ち出し、それによって、宮内庁や内閣法制局という官僚組織の権力行使を正当化するという、にわかには信じ難し論を展開しています。内閣の下に置かれる各行政機関に、それ独自の権力を認めるというのでは、主権在民を原理とする『日本国憲法』の基本理念に反し、違憲としかいえません。さまざまな立場の人の意見をよく聴く、ということが大切であるのは当然ですが、それと、権力行使のありよう及び正当化の問題とは次元を異にする話なのです。

東京大学法学部の憲法学者がこのような主張をするとは驚きですが、宮内庁や内閣法制局の独自判断をよしとする彼の主張を支えるのは、長年にわたり、東大法学部支配=官僚主義による政治を進めてきた現実(エリート主義)を肯定したいという暗黙の想念でしょう。

わたしは、あまりのお粗末に、ただ唖然として新聞を見返しました。
哲学(意味論としての知=本質学)なき個別学問は単なる「事実学」に過ぎませんが、これでは、「事実学」にさえなっていません。


武田康弘


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