思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「一般性」への堕落は、人間性のエロースを消去する。

2008-11-27 | 日記
社会は、一般意思を基準にして営まれるものです。
これは、覆しようのないことです。
社会生活は、言語使用と同じく、「一般化」されなければ成立しません。これは原理です。

しかし、「一般化」を目的にしてしまうと、個人は個人としてのエロースを失います。
役所や学校(幼稚園~大学院)や会社(もちろん新聞社や出版社なども含む)の仕事は、「一般化」しなければ成立しませんが、それと、個人のよき生の問題は、次元が異なる話なのです。立体としてみる、さらには時間軸も入れて四次元世界として考察することが必要です。

現代の学的世界は、哲学史の専門家も含めて、立体視ができず、平面の緻密化・正確化でしかない知を広げることが進歩だという錯覚にとらわれているように見えます。
これは、個人の個人としてのかけがえのないエロースを、「一般化」の中に閉じ込めようとする個人支配の哲学や思想の蔓延と軸を一にします。

社会の考察や言語の使用は、「一般化」しないと成立しないために、どうしても二次元化しがちなのですが、ここに大きな落とし穴があります。個人のよき生=深い納得・豊かな意味を生みだすのは、立体的な知(ほんとうは四次元的な知)による他ないのですが、それを「公共性」(社会や言語)の概念の下に抑圧してしまう知(一般知・客観学)が支配的になると、人間は個人のエロースを開花させることができなくなり、内的には生きる意味が消えます。「私」の目はくもり、心は歪み、頭は不活性化していきます。「一般化」の海で個人は溺れ死ぬのです。

考えてもみてください。「私」の生の意味が、ただの「一般化」の深化・拡大にあるのなら、その固有の善美が鍛えられる=「普遍的なよさ」を獲得することにはならず、生の悦びが得られるはずはありません。

「私」は、どこまでも私の存在のよさを掘り進めることで公共性を獲得する、「私」の世界をより広く豊かに楽しくするために「公共世界」を拓くというという発想によらなければ、社会性・公共性は、個々人の心の中に根付く場所を持ちません。
「一般化」とは、どこまでも枠組みに過ぎず、生の実質・内容ではありません。人間の生の最大の問題は、「私」が何をし、どのように生きるか?ですが、それに一般的な答えを出すことはできません。深い納得・意味充実=「普遍性」の追求ではなく、「一般性」を先立てれば、人間も哲学も死んでしまうのです。

近代市民社会とは、ただの「ルール社会」ではなく、「流動的で主体的なルール社会」です。そのルールを決め・変えるのは、日々、立体的な生を歩んでいる一人ひとりの人間です。先立つのは、主体知・立体知・実存知であり、「一般化」をつくる一般知は、ほんらいは、実存知を育て・支えるためにのみ存在するのです。くりかえしますが、個人の努力は、「一般化」の海に溺れるためではなく、どこまでも「私」から逃げずに、主観性を鍛え、豊かにしていくこと、管理化・序列化・権威化とは逆の「エロース化」にあるのです。「一般化」という枠組み次元の話(=手段)を目的に転化させると、個性の魅力は消え、仕事や努力は味気のないものとなり、世界は色を失ってしまいます。

くれぐれも用心したいものです。


武田康弘
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「神」ではなく「善美」への憧れがよき生をつくる

2008-11-26 | 日記
一神教の「神」を求めるのではなく、
「善・美」に憧れ、それを目がけるという生き方、
それがわたしがよいと思う人生です。

何よりも大切なのは、「善・美」に憧れ、何がより「真」なのかを求めて
【自問自答】すること(自我の解放―豊饒化)と、開かれた【自由対話】のセットだ、そう思い、長年実践してきました。

「絶対神」という考え方から自由になり、人間的なよき世界=エロース豊かな健康な生を歩むためには、恋知の実践(「善・美」に憧れ「真」を求める営み)が必要で、それには生活世界の具体的経験に「私」の思考の基盤を置くことと、自問自答と自由対話を超越した「真理」など存在しないことを明晰に意識することが基本条件になる、わたしは、そう考えています。


武田康弘
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明日は、麻布セミナーの最終回ー「主観性の知としての哲学vsキャリアシステムを支える思想」

2008-11-20 | 日記
21日(金)は、麻布で、市民哲学講座2008『公務員を哲学するー市民社会と公共性』の最終回が行われます。テーマは、『主観性の知としての哲学VSキャリアシステムを支える思想』です。

夜7時~9時、講師は武田康弘です。
第一回は山脇直司さん、第二回は竹田青嗣さんでしたが、その時の写真は、白樺教育館ホームページで公開されています.http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori94.htm


今回は、金泰昌(キム・テチャン)さんも参加され、武田の話のあとに10分間話します。「哲学する」と銘打っている通り、司会の荒井達夫さん(行政監視委員会調査室)の話は5分、武田の話は40分で、立体的で刺激的な話を心がけ、その後は、文字通りの「自由対話」によって、キムさんも含め、参加者みなで「哲学する」にトライしてみます。官からの参加者も、市民として公共する営みに挑戦です。
終了後も、食事(中華)をしながら盛り上がりたいと思います。

当日参加も可能ですので、このブログの読者のみなさまも御遠慮なくご参加ください。参加費は2000円です。場所は、クリックしてください。
http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/access.html

武田康弘
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古林治ー武田康弘のメール対話(見田宗介・竹田青嗣らの東大公開講座を巡って)

2008-11-18 | 日記
以下は、「白樺ML」です。
古林治さんの『見田宗介・竹田青嗣らの東大公開講座の感想』(昨日のブログ)に対しての武田と古林のメール対話です。


古林さん、ご苦労様でした。

「主観性の知」が目的であることを自覚した後にはじめて「客観学」も位置づき意味をもちますが、ほとんど皆(とくに学者は)そのことの自覚が弱く、客観学や哲学史から演繹して主観性の知に到ろうとする逆立ちした発想=構えに陥りがちですね。

何をいまさらですが、認識論の原理中の原理は、「客観知」ではなく、直観=体験です。そこが原理上、絶対の始発点であることを明晰に自覚しなければ、哲学の理論はみな形而上学と化し、また、「客観学」は実学としての力・価値をもたず、権威の体系でしかなくなります(無用の長物)。

それから、
竹田さんの「資本主義の正当性を極める」という言い方はいかにも彼らしくて面白いですね~。
それで、哲学的に言って「自由」という概念・意味の先行性・根源性はまったく「正しい」とわたしも昔から主張していますが、その存在論的な自由を経験レベルで現実化するためには、制度的・法的に格差が広がらないような工夫(=機会としてのみならず、結果としても)が必要です。これは火を見るより明らかな話であり、存在レベルにおける平等性を生みだすシステムを構築できるか否か?(もちろん旧・社会主義国のような悪平等ではありません)が人類が生き残れるか否か?のキーである(竹田さんは「2050年には滅びる」と言ったそうですが、それほど人類はヤワではありませんので、ご安心を・笑)と武田は確信しています。

武田康弘
―――――――――――――――――――――――

古林です。

「資本主義の正当性」といい、先日の市民アカデミアでの「普遍資産」という言い方といい、最近の竹田さんは『市民社会の原理』を実現するための条件として経済問題(個人間および国家間の平等性)の解決に焦点を当てて積極的に
考え始めているように感じました。

過去のビッグネームの再評価・解釈からもう少し能動的な思考に移り始めているのかもしれません。何しろ、「資本主義の正当性」など誰も考えていませんから。
このあたりの話はもう少し時間を裂いて聞きたかったですねえ。
(人類が滅びる前に誰かが新たな理念を創出するはずだ、というのが竹田さんの意見のようです。)

ともあれ、竹田さん(および強いてあげれば基調報告の見田宗介さん)を別にすれば、あとは聞く価値はほとんどなかったように思います。
これが最高学府の有様でなさけない!
古林
――――――――――――――――――――――――

武田です。

「人類が滅びる前に誰かが新たな理念を創出するはずだ、というのが竹田さんの意見のようです。」(古林)

わたしの考えは、以下のような感じです。

学や知を先立てず、「私」が感受するところから始めるー「私」の心身の思いー「私」のしたいことにつき、そこから出発するという生の原則を明晰に自覚し、実行する。感じ知る=直接経験の世界を見据え、言語による概念化に逃避せず、「私」の心身を裏切らずに生きる。
客観学を集積するー知識量に価値を置くという「強迫神経症」から自他を解放することは、そのための必須の条件。
人間は観念動物なので、知のありようを変えないと何も変わらない。知の目的とは「主観性の知」を広げ深めることにあるーそれをみなが自覚すること、そういう教育に変えることが何より一番必要(絶対条件)。
そのように知のありようを革命しなければ、何事も始まらない。受験知(パターン化された客観知)に支配されている人間に期待することは、到底無理。
もし、「主観性の知」の追求を各人が自由に行えるようになれば、人類の知性は飛躍的に高まり、次々と襲うであろう困難をそのつど解決していくことができるようになる。それが私の確信。
(見田宗介さんの本を読むと、彼が「客観学」の虜であることを感じる。)

とにかく、新たな理念は、学者が出すもの(出せるもの)ではないでしょう。
実は、そのような「新たな理念」の提示はさほど難しいことではありません。一人ひとりの主観性の知の領野が開発されるような転回を成せば、みなの知恵が自ずと生み出すものだと思います。
肝心なのは、古い知の常識ー知を評価する基準(客観知の目的化)からいかに自由になるか?その方途を見つけて、その課題に応えることです。人間の知性のありよう・教育の革命こそが喫緊の課題です。

以上が武田による回答です。ご検討ください。
―――――――――――――――――――――

明晰な回答ありがとうございます。
『知の目的とは「主観性の知」を広げ深めることにある』
これが絶対条件。これ、すご~くよく分かります。
『受験知には何も期待できない。』
これ、当たり前ですねえ。
『一人ひとりの主観性の知の領野が開発されるような転回を成せば、みなの知恵が自ずと生みだすものなの。』
確かにそうなんだろうなあ、今やっている公務員改革の話もいずれ教育の話に展開してけばいいなあ、と思ってもいます。

竹田さんの場合は多分、【学】の世界でそれができると考えているのでしょう。
『教育』に関心がある、とも言ってましたから。
ただ、この場合の『教育』とは『学』のことであって、武田さんの言う『教育』とはかなり離れた概念だと思います。
『新たな理念は、学者が出すもの(出せるもの)ではないでしょう。』
そうであれば、竹田さんには【学】の世界から半歩踏み出してもらわないと。

古林
――――――――――――――――――――――――――

古林さん、丁寧な返信、感謝です。

「知」のありようを根本的に変える、というわたしの主張は、北欧では学校教育でもすでに行っているものです。ただし、わたしが考えているのは、①生活世界の内側からの視点を徹底させること。②五感を鍛え、センスを磨き養うことと「知」を深く有機的に結びつけること。③対話型(先生と生徒、生徒と生徒)の授業による「分かり合い」を広げること。④不断の自由対話の創出によって思考回路を広げ、柔軟化・複眼化すること。⑤自己決定の機会を日常の中に多くつくり、試行錯誤を常態化すること。⑥身の周りの人間、物、自然、社会のていねいな観察により具体的経験から意味を汲みだす能力を養うこと。⑥なんでも自分でやってみることで、現実性と想像力を相互補完的に強めること。等々です。
日本から見ればうらやましい限りの北欧の教育も、「主観性の知」の追求においてはまだまだこれからです。そのことは当の北欧の教育者も自覚していると思います。絶えざる試行錯誤による前進を彼らは自身に課していることでしょう。日本は(韓国や中国も)どんどん置いて行かれます。タケセン一人で立て直すわけにはいきませんので(笑)。

武田
――――――――――――――――――――――

ソクラテス教室(白樺教育館)で日常的にやってることですね。でも改めて文章化されると、う~ん、こりゃ大変だ!24時間頭を使いっぱなしになりそう(笑)。
でもほかに方法がないのは間違いなさそうです。

ps.『すでに行っている』という北欧の話は次の機会に聞かせてください。先日テレビで韓国の教育事情を見ましたが、日本よりひどくて絶句。

古林
―――――――――――――――――――――――

古林さん

そうですね~。32年間、試行錯誤でやってきたことですね。
言うまでもなく、社会問題の解決や人間のよき生の探求は、宇宙論をやるのとは根本的に異なります。
もし、それらを「有用な知」にしようと思うなら、現実との絶えざる応答、対象と共に生きること=責任をもって関わりながら哲学する以外にはありません。
ただ「書物の読解」で出来ることではないのです。当然ですが、人間の生や社会の現実については、書斎や教場という間接経験の世界では決められません。
理論と実践、思考と行為、行動と批評は、今更言うも愚かですが、両輪です。自問自答と真の自由対話以上に価値あるものはありません。
白樺の哲学と実践(=「主観性の知」を鍛えることにより現実に深く関与する)を更に前に進めたいですね。共に。

武田。
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見田宗介・竹田青嗣らの東大公開シンポの感想ー古林治

2008-11-17 | 日記
以下は、見田宗介さんの主催した公開シンポ(東大本郷)に出席した古林治さん(白樺教育館・副館長)の「白樺ML」メールです。


古林です。

昨日、竹田青嗣さんがパネリストの一人として参加する公開シンポジウム『軸の時代 l/軸の時代 ll ‐いかに未来を構想しうるか?‐』に参加してきました。
見田宗介さんが、未来を構想するために人間の歴史の中に現代をどのように位置づけるか、を提示し、各パネリストがその提示された考えに触発されて持論を展開するというものです。(ちなみに、見田さんの言う軸の時代llとは現代のことで、思想の課題
としては世界の「有限性」という真理を引受ける思想の枠組みと、社会のシステムを
構築することにある、ということです。)

今日は、そのご報告です。少し長くなるかもしれません。
(興味のある方は以下をお読みください。詳しくは次回の民知の会で。
 参考までに竹田青嗣さんのレジュメのみ添付します。パネリスト全員のレジュメが
 欲しい方は別途請求ください。直接PDFをお送りします。)


この公開シンポジウムは東大大学院の多分野交流演習の一環として行われるもので、当然ながら場所は東大でその関係者が参加者となります。多分、私のような一般人はほとんどいなかったろうと思います。30分前に本郷キャンパス法文2号館文学部1番大教室(200人程度?)に到着。でも半分はもう埋まってました。始まったときには立ち見もいて、この教室とは別にビデオカメラで別教室にも映し出されていました。別室も満杯!!

プログラムは以下の通り.
15:00 . 開会挨拶 立花政夫(東京大学文学部長)
15:05-16:05 基調報告 見田宗介(社会学/東京大学名誉教授)
16:15-18:30 全体討議
 (パネリスト) 加藤典洋(文芸評論家/早稲田大学)
 田口ランディ(作家)
 竹田青嗣(哲学/早稲田大学)
島薗進(宗教学/東京大学)
 (司会) 竹内整一(倫理学/東京大学)
18:30 閉会挨拶熊野純彦(「死生学」サブ・リーダー)


参加者の多くが(多分)専門家であったからかもしれません。さまざまな分野の人たちが
ざっくばらんに自身の意見を表明したゆえに、シンポジウム自体は大変好評だったよう
です。終了後、面白かったねぇ、という声がアチコチから聞こえました。
ただし、私には今一に思えました。

理由の一つは、基調報告の見田さんの講演が長引き、内容としては中途半端になり、その結果、各パネリストの講演時間も15‐20分と短くなってしまったことによります。
三田さんは3時間程度の講義が必要な内容を延々最初からはじめるものですから、1時間で半分も終らず、肝腎の部分は端折ることに。
話としては面白いんですけどねえ・・・・(高圧的な雰囲気はまったくなく、おそろしく博学で具体例を次から次へと出しながら早口で説明するのです。時に鋭さを伴いながら。
これなら学生たちから人気があるのも頷けます。)

もう一つの理由、こっちはかなり本質的な問題です。竹田青嗣さんを除くと各パネリストの思考の基盤が脆弱な故に、論自体に魅力、深さがありません。
特に加藤さんと島薗さんの思考の基盤はグラグラ。だから論が濁ってくるのです。
たとえば、『私利私欲と公共性の二元対立』(どっかで聞いたなあ、笑)などと言ってしまう加藤さん。【私】=【私利私欲】ではありません。意味と価値の上に生きる人間存在
(欲望存在)をどっかに置き忘れてしまってるように思います。(加藤さんは竹田青嗣さんに近い人のはずなのに・・・・)

島薗さんも同様です。基盤がない故に、『公共哲学や応用倫理、あるいは死生学の具体的な諸問題に即してこつこつと作業を積み重ねていく必要があるだろう。』(レジュメ参照)ということになるのでしょう。

それに比べると見田さんはずーっとまともです。ときどきちょいグラという程度で、え?というところもあるけれど、ところどころ鋭い論点が出てきたりします。
たとえば、こんな指摘もしていました。
『多くの人から批判されるだろうけれど、私は自由と平等と言ったとき、自由という理念を上位におかないとまずいと思ってます。平等を最初に持ってくると社会そのものの魅力が失せてしまうからです。』

田口さんは作家だけあって変な思想に染まっていない分、感覚的に鋭い指摘もしていました。

最後に竹田青嗣さんの話。
『近代社会の原理については、極めて有効なものと考えているが、軸の時代llでは資本主義の正当性を極めることが大事になる。2050年には(哲学的に言えば)世界は崩壊する。
今のままで行けば、財の奪い合いが始まり、最終的には核戦争が起こる。でもこれを避けることはできる。あなた方若い人たちが資本主義の正当性について明らかにすることだ。頑張って欲しい。欧米のものを追いかけるのではなく、自分で考えて欲しい。』
短い時間の説明なので、消化不良状態。実のところ、もっと話を聞きたいと思いました。

参加者は満足していたようですが、私としてはようやく対話的討論が始まる糸口が見えたところで終っているように感じました。
でも、これ以上突っ込むと困っちゃう人が出るかもね。それが【学】の限界かも、という気もしなくはありません。

以上でした。

古林治
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科学的思考を阻む小学校教科書?立花隆著「人類よ、宇宙人になれ」

2008-11-11 | 教育

 前々から困った教材だな、と思っているのですが、「論説文」と銘打たれて、小学校6年生の国語教科書(教育出版社)㊦に「人類よ、宇宙人になれ」が載っています。

 これは、天文学の基礎知識に乏しい立花隆さんが、「事件」のレポートでも書くようなレベルで書き下ろした文章ですが、付け焼刃のような表層的な知識に立花さん自身が振り回されていて、主張内容にまったく説得力がありません。

 こういう言葉だけの知識に基づく「論説」は、小学生の子どもたちに、科学の面白さ、論理的明晰性のもつエロースを知らしめることができないばかりか、科学への興味や論理的思考を奪ってしまいます。

 著者の立花さんは、人類が、宇宙両生類(地球を離れてもまたすぐに戻ってくる)になるのではなく、進化のとるべき道は、人類が地球外に出て宇宙人になることである、と結論しています。

 その理由は、大事故に備えて地球以外にもう一つの「宇宙船」を建造しておく必要があるから、というものです。まず「火星」を改造して人間が住めるようにし、さらに、遠い将来には太陽の死を免れることはできないから、「銀河系全体」へ、更には「銀河系外の星雲(島宇宙)」へと進出していく必要がある。そのためには今から宇宙開発を進め、資金を投じ、多くの資源と人材を注ぎ込んでいかなければならない、というのです。


 まず、ここで言われている太陽の死ですが、太陽系誕生から46億年、それを46cmのグラフで表せば、猿人からの全人類史は300万年、わずか0.3mmで、シャープペンシルの芯の太さにも満たないのです。太陽の死(同時に太陽系の死)までは後50億年。こういう時間スケールの極端な違いについてイメージできるように書かなければ、読む子どものイマジネーションはひどく歪んでしまいます。

 また、わずかな太陽エネルギーの変化が地球上の生物に致命的な打撃を与えるという「事実」から、火星をもう一つの地球に改造すべきだという結論は、荒唐無稽というほかありません。微妙なバランスの上にかろうじて成り立っている地球環境の維持が不可能であるときに、火星(表面積は地球の4分の1、気圧は150分の1)をその地球以上に安定したバランスにもたらすという主張は、論理を超越したオカルトのような話です。

 また、銀河系宇宙全体への進出、とは言っても、そのスケールについては一言も触れられていません。渦巻状の星・星間物質の集まりである銀河系の直径は約10万光年(95×10の16乗キロメートル)で、太陽系の一番外側を回る海王星の公転軌道の直径は約90億キロメートル、一億倍の違いがあります。地球から太陽までの距離を30倍した海王星までの距離をさらに一億倍しないとならないのです。

 このような桁違いの空間スケールについても全く触れずに、「進出していく」ために、今から多くの資金・資材・人材を投じる必要があるという主張には、絶句!です。

 まだまだ言えばキリがないのですが、このような主張を読んで、科学に興味がわき、論理的思考が育つなら奇跡でしょう。「反面教師」にしかなりません。
 わたしは、科学への関心を育て、論理的な思考力を養うのは、よい教育の基本だと確信しています。教科書会社の奮闘を期待します。



武田康弘

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「government」が「政治」!?いつまで続く「意図的」?な誤訳

2008-11-09 | 日記
オバマ氏は、
リンカーンの演説(・・・and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.)から「government of the people, by the people, for the people」を引用しましたが、これをNHKでは、あいかわらず「人民の人民による人民のための【政治】」と訳していました。

従来、日本の教科者も官府もみな、governmentを「政治」と訳してきましたが、これは明らかな誤訳です。「政治」は、言うまでもなくpoliticsで、governmentは、政府(行政府)を指します。

どうしてこのような初歩的な誤訳がいつまでも続くのか?

リンカーンは、大統領として演説したのです。大統領とは、立法府ではなく行政府のトップです。民主主義の下では「政府」とは、主権者である人民のものであり、人民のために人民によってつくられるのだ、そういう「政府」を地上からなくしてはならないー彼は、人民主権による民主主義国の行政府トップとしてそのように「政府」を規定したのです。

that government of the people(人々の政府)、それは、, by the people, for the people(人々により、人々のために)、という読みが文脈上一番ふつうで「正しい」読みでしょう。(なお、文章全体を「人々を統治する政府」と読むこともできますが、たとえそう読んだとしても、主権者が人民である限り、人民が人民自身を統治するというのは、民主主義の原則であり、意味内容は同じです。)

少し細かい話になりましたが、

上記のような内容をもつリンカーンの言葉を、【政治】と訳してしまうと、彼の思想は焦点を結ばず、意味が拡散してしまうのです。これは酷い誤訳だと言わざるをえません。
【政治】という「広い言葉」を用いると、「主権者の意思に従い民主主義の政治を実現するために働くのが政府なのだ」という意味(=政府というものの存在規定)があいまいになってしまいますが、これは文部省官僚や文教族の思惑による意図的な誤訳なのでしょうか?

もしそうならば、「犯罪」ですよ。


武田康弘
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続き

2008-11-06 | 社会思想
オバマ氏の強靭な民主主義の理念に基づく平明な言葉は、深く心を捉えます。

日本人の政治家との「格差」には、同じ人間なのに情けない、としか言えません。

「権威主義・序列主義・様式主義」の別名は、
「天皇制的心性」(上位者を絶対化し、既存の枠組みに固執し、主観・個人を消去し、無思想で生きる)ですが、
21世紀の現代なお「天皇制的心性」に呪縛されていたのでは、主権性の知に基づく民主主義の実践はとても無理です。

自分の頭で考え、自分の足で立つ、と言う基本がなければ、民主主義の原理である「自由対話」の文化は始まらず、脆弱な人間しか育ちません。

試験秀才(暗記による客観知の累積)しか育たず、主観性の知を鍛えた強靭な人間は生まれないのです。原理を踏まえて深く考え、能動的に生きる人間が育たないのは、ほんとに困った問題です。

その結果は、見るも無残な政治家しか出ない(政治家に限らずですが)ということですね。
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優れた「理念」が「現実」を動かした!嬉しいニュース=オバマ大統領誕生。

2008-11-05 | 日記
オバマ氏当選 初の黒人大統領
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=657728&media_id=2



とても嬉しいニュースです。

つい最近まで、黒人のオバマ氏がアメリカの大統領になるなんて、誰も予想した人はいませんでした。
でも、今日、それは現実になりました。

アメリカ民主主義の【現実】ではなく、
民主主義の【理念】が、
この誰も予想できなかった【現実】を生んだのです。

ほんとうに優れた理念(民主主義の原理に基づく理念)は、現実を変えることができるという証明です。何よりも必要なのは、原理の明晰化ですね。

もちろん、現実の具体的変革には大きな困難が伴いますから、これからが大変ですが。


ps.小浜市民からのオバマコールも、彼の演説・姿勢・顔からあふれる民主主義の匂いにひきつけれられてのことでしょう。わが国からも「主権在民」の民主主義を貫く政権を誕生させたいものです。)


武田康弘


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航空自衛隊トップの主張は、『靖国神社』の思想なのですが・・・・

2008-11-04 | 日記
田母神氏の更迭で幹部を処分
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=657093&media_id=2


航空自衛隊トップの主張は、『靖国神社』の思想なのですが・・・・


航空自衛隊のトップ
=田母神俊雄・航空幕僚長が日本の過去の戦争を正当化する論文を発表し、政府は、あわてて同氏を更迭しましたが、
この制服組の頂点であった人物が彼の論文の中で主張した内容は、『靖国神社』の主張と同じです。靖国神社発行の書籍や、展示物の説明や、靖国神社製作の映画の主張そのままです。

政府は、田母神俊雄・航空幕僚長の論文を批判したのであれば、
『靖国神社』の主張も受け入れるわけにはいかないはずですが、
政府・自民党の多数派や民主党の一部は、靖国神社に極めて親和的です。

日本の巨大な戦争行為への反省=なぜあのような戦争に到ったのか?
明治憲法下では主権者であった【天皇】とそれを支えた【官僚政府】(キャリアと政府エリート族)をどう評価し、なにを反省し、どのように変えるのか?

今日まで、自民党政府と霞ヶ関官僚がこういう極めて重大な課題から逃げてきたのは、天皇中心の神国日本を謳い、皇軍が行った日本の戦争はすべて聖戦であったとする「靖国思想」を容認してきたこととピタリと重なる大問題です。田母神俊雄・航空幕僚長を批判する根拠は薄弱と言わざるを得ません。

これからも政府と官僚は、天皇中心を主張する『靖国神社』に軍人・兵士の慰霊を独占させておくのでしょうか?もし、わが国が「主権在民」の民主主義を進めるのであれば、それは到底許されることではないでしょう。もう一度、天皇陛下の権威に従う文化と政治=国体思想を復活させるのがよい、というのなら話は別ですが・・・・。

武田康弘
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プライドある精神 vs エリート意識-- 新しい倫理の基盤

2008-11-01 | 日記
プライドを育て、エリート意識を廃す。
わたしは、これが、
よき公共・豊かな社会を生むための基本条件だと確信しています。
近代民主制社会における新しい倫理の基盤です。

しかし、全くの別物である「プライドある精神」と「エリート意識」を混同している人がいるようです。

以前に出したブログを再録します。



2008/01/30のBlog
プライドを肯定しエリート意識を否定するー民主制社会における倫理
[ 16:46 ] [ 恋知(哲学) ]

幼い子供たちを見ていると、「プライド」の塊です。
彼らは、【命の自負心】とでも呼んだらいいようなプライドを持っています。
だから、わたしは子供たちが大好きです。
自負心・矜持・プライドがあるから命が燃え、生き生きと輝いて、個人の自由がぐるぐると渦巻くのです。日々、人間として向上するのは、このプライドの力です。
大人でも精神の健全な発達をやめない人は、みな豊かなプライドを持っています。

ところが、個人を成長させるこのプライドを潰し、外的価値による序列意識に変質させてしまう教育がおこなわれると、プライドは歪んで病的になり、上下意識―序列主義へと変化してしまいます。いわゆるエリート意識です。

エリート意識は、民主主義の思想と社会を土台から破壊してしまう愚かな想念ですが、このことに気付いている人は、少ないように思えます。「エリート」という言葉をプラス価値だと思い込んでいる人が多いようです。驚くべきことに、「公共哲学」運動を進める代表的な学者の一人である桂木隆夫さん(学習院大学法学部教授・法哲学と公共哲学を教授)は、自著(「公共哲学とはなんだろう」)で、これからのあるべき民主主義の姿として、「大衆の中のエリート」とそれとは区別された「エリート」の双方の育成が不可欠だ、と論じていますが、こういう思想が生まれるのは、日本社会が、学歴を信仰する東大病とも呼ぶべき病にかかっているからでしょう。明治の超保守主義(天皇主義)の政治家である山県有朋らがつくった官僚制度(キャリアシステム)もまた、この信仰=病の中で生き延びてきたのです。

もし、公共と民主主義とが背反することになるならば、「公共哲学」とは、詐欺の名称に過ぎないと言わざるをえません(注)。なぜならば、個々人の自由に考える営みに依拠するのが哲学であり、哲学成立のためには、民主主義が必要であり、また逆に民主主義は哲学に支えられなければ形骸化するほかないからです。単なる理論の体系や思想ならば、独裁国家にもありますが、個々人の深い納得に支えられる哲学するという営みは、民主主義社会でなければ成立しないのです。史上はじめて民主制を敷いた古代アテネで哲学が誕生し、キリスト教が国教となった古代ローマで哲学が禁止された{ミラノ勅令により900年以上続いた『アカデメイア』(プラトンが創設した私塾の延長のような自由な学園)が閉鎖―「以後、何人も哲学を教えてはならぬ」}という歴史的経緯を見てもそれは明らかでしょう。

プライドなくして哲学する営みは成立しませんが、エリート意識に支配されれば、哲学は消え、単なる理論や知の体系による支配が生じてしまいます。健全で豊かなプライドの肯定・育成は個々人を輝かせ、民主的な公共社会を生みますが、病的に歪んだプライド=エリート意識の支配する社会は、序列主義・様式主義・管理主義しか生みません。

(注)もし、民主主義(対等な個々人の「自由の相互承認」に基づくルール社会)ではない公共性や公共社会について語るのであれば、「公共哲学」とは呼ばずに、「公共学」ないし「公共社会学」または「公共理論」とでも言うべきでしょう。

Ps.猫はプライド高き動物として有名ですが、彼らは序列社会をつくりませんし、飼い主とも対等です。犬との大きな違いです。

2008/01/31のBlog
プライドとエリート意識ー2
[ 12:22 ] [ 社会思想 ]

矜持(きょうじ)・プライドとは、自分の存在の肯定・誇りであり、一人ひとりの比較することのできない存在の独自の輝きを生む意識です。内側から湧き上がるものであり、特定能力の比較によって生じる上下意識ではありません。

個々人が異なる色・形・力を持ち、それぞれのユニークさを肯定し合うことで成立する社会を民主制と呼ぶわけですので、特定の能力を基準にしてその優劣で人間を評価する思想から生じる「エリート」という意識は、民主主義とは背反します。

具体的な個々の能力に優劣があるのは当然で、その優秀者が評価されるのはよいことですが、エリートという人間が存在するという意識・思想は、最悪の想念だと言わざるを得ません。「私」の努力は、内側から湧き上がる力=存在していることが価値であるという思いから開始されるのであり、他者の上に立とうとする思想・態度は、人間的なよきもの・美しきものを根こそぎにしてしまいます。自他を存在の深部で殺すのが、序列主義―エリートという意識です。

誰でもが自然にもっている矜持=プライドを肯定し健全に育てることが、民主制社会の教育・倫理の土台であり、それが互いの個性を伸ばし合うことで全体を支え・強くするのです。それとは別次元に国家意思や国家利益があるという想念は、エリートという上下意識が生みだす妄想に過ぎません。

みなの【内側から湧き上がる力】を伸ばすことがどれだけできるか?それが鍵ですが、そのためには、オープンであること・情報の共有が基本条件です。絶対者や特権者がいないからこそ大きく豊かになれる社会、それが民主制という社会であり、そのような基本思想を踏まえて生きるのが民主的人間です。深い納得を得るための自問自答と上下関係を廃した自由対話が、哲学と民主主義を成立させる基盤なのです。

武田康弘
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