思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「存在次元」と「具体・現実次元」の混同ー平面の生

2007-08-30 | 恋知(哲学)

われわれ日本人の困った問題が生じる原因は、「タケセンのブログにある通り、存在次元において自己を肯定できないために、具体次元において自己批判ができない」―ですよね。
と、高城長生館(整体院)の高城久さんが、今日、語気を強めて言っていましたが、ほんとうにその通りだと思います。

ここにあらゆる人間問題の根源がある、と言ってもよいでしょう。子育て・教育論もこのことに無自覚だと、何をどう考え・話してもみな砂上の楼閣です。

私が生きて在ること・存在していることの【驚異】-この私の存在を受容し、肯定すること。まず、その生の前提がしっかり得られないと、具体的・現実的な次元で自己省察・自己批判を繰り返しながら前進することはできません。逆に言えば、自己批判できずに、自己防衛ばかりしているのは、自己の存在を肯定できないところから生じる不幸だと言えます。

われわれ日本人の困った問題、
戦争責任を曖昧にする態度も、「理論」に隠れて実存(欲望)問題から逃げ、自己を欺瞞するような生き方も、世間体を気にして脅迫神経者のごとくにしか生きられない仮面の生も、他者への道徳的批判をしたり顔で繰り返すマスコミ人の無価値な言説も、「存在次元と具体・現実次元の混同ないしは無自覚」がもたらすものではないでしょうか。

24日のブログー「自己批判なき自己肯定は、よきものをなにも生みません」をぜひご覧下さい。クリック


武田康弘


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想い・実存と言語による一般化

2007-08-27 | 恋知(哲学)

みな人は、言葉にならない「想い」を抱えて生きていて、それは何よりも大事な実存の基盤ですが、言葉という一般化のアイテムを通じて「私」の想いを伝え、考えを述べ、表現することがなければ、「共に生きる」ことはできません。その努力を止めてしまうと、人は既存の組織体の中で「役割」をこなすだけとなり、社会人=公共人ではなく、団体人=組織人に陥っていきます。言語化(一般化)する努力を怠ると、逆に、仮面を被った「一般人」に陥るというわけです。
心の「想い」の世界・実存の生は、言語化という「一般化」の試練を経ないと、狭く固着し、個人性の開花・深化(普遍性)が得られません。自分で自分を抑圧する世界に入り、自我の内的成長を阻害させてしまう結果、自他のよろこびを生むことができなくなるわけです。

幼児が階段を上る=わがままの克服とは、私の世界を放棄することではなく、私という中心を豊かなものにし、私を実現することですが、そのためには、言語化という一般化の努力が必要です。たしかに一般化は、私の黙せるコギトー(自己意識)を抑圧する作用もありますが、しかし、その努力なしには、黙せるコギトーはよきものを生み出せないのです。私は私であることをやめないで、私の内実を豊かにしつつ、公共人になるーそれが人間精神の健康な成長です。

そのためには、【自問自答】と共に、【生きた対話】が必要で、それをわたしは実践(白樺・民知)しているのですが、多くの人が、実存から出発する自由対話=実存を活かす公共性の試みを生活の中で実践されることを願っています。公共性の獲得とは私を現実において活かすことであり、私を滅することとは反対です。空想ではなく、現実に私を活かすこと、実存の生を広げ豊かにすること、そのためには言葉によって一般化する努力、言葉にならぬ想いを多少とも言語化する・対話する努力が必要です。

心―実存世界の言語化を諦め、放棄すると、逆に個人性のよさは開花しません。個々人から立ち昇るパワー・面白み・魅力が減じてしまい「一般人」に陥っていきます。それが多くのわが日本人の現実ですが、ほんらい個性的に生きる他はない生身の人間が「一般化」してしまえば、生の悦びは消えるほかありません。

武田康弘



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自己批判なき自己肯定は、よきものをなにも生みません。

2007-08-24 | 恋知(哲学)

「私」がよく生きるには、自分の存在を深く肯定できなくてはなりません。自分を愛し大切にすることが必要です。「自己という中心」をしっかり持って考えることがないと、思考は宙に浮き概念遊戯にしかなりませんし、行為はパターン化してしまい、『生きた言動』ができなくなります。そうなれば、自他のよろこびは減じてしまいます。

しかし、自己の存在を大切なものと思い、受容し、肯定し、愛することは、具体・現実レベルの言動においての自己省察・自己批判がないと、自我主義や自己絶対化に陥っていきます。自己を存在次元において肯定し愛するというのではなく、「私」の具体的現実の言動に無批判的になれば、その人は人間性においては「死んでいる」ということにしかなりません。人間の心・意識・精神とは、いまの状態を越え出ることをその本質としているからです。言い換えれば、【常に変わることで自己同一を保つ】のが人間精神であり、変わり続けていなければ、心・精神は止水が濁るようにダメになっていきます。

具体・現実という次元において自分の言動を吟味し、反省し、批判することは、自己の存在を深く肯定できるようになるための基本条件だと思います。生き生きとした心身・ダイナミックな言動・人間性の魅力とは、具体・現実レベルでの厳しい自己批判の精神が生み出すもの、そうわたしは確信しています。

武田康弘




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隠匿(いんとく)は、感謝の心がない証左ー恥ずべき人生。

2007-08-20 | 私の信条

わたしは、いいこと聞いたな、と思うと、○○さんがこんなことを言っていたんだ、とみなに言う。いいよね~~と。子どもの言ったこと・したことでも、何々ちゃんがね、と紹介する。

わたしは、読んで感動した本があると、その著者を偉いと思い、ありがたいと思う。だから皆に紹介する。本の題名だけでなく、その中身を要約して。

それは自他の悦びを広げるすてきなことだと思うから。

でも、わたしは何度も何度も驚いた。
人から教えてもらったこと、人にやってもらったこと、本で読んだことなのに、○○さんという人がね、こんないいこと、面白いこと言ってたよ・やってるんだよ、とは言わないで、みんな自分の手柄にする人が大勢いることに。40歳もすぎてから知った。

自分が偉い!?!?って人に思わせたいのかもしれないけれど、いいこと・すてきなこと・楽しいこと・助かること・ありがたいことをしてくれた人に感謝する心がなければ、幸せや充実がやってくるとは思えない。

隠匿(いんとく)とは感謝の心がない証左で、ほんとうに恥ずべきこと、嫌らしいことだと思う。

武田康弘





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子育て・教育の最大の敵は「理想」を追うこと

2007-08-16 | 教育

子育て・教育に何よりも恐ろしいのは、親や教師が「理想」を持つことです。
目の前にいる子どもをよく接すること・よく見ることで、何をしたらよいか?を探るのではなく、親や教師の「理想」に子どもを誘導しようとするのは、根源悪だと言えます。
さまざまな不適応・自他への暴力が生じるのは、ありのままの姿を受容されなかった子ども=人間の心の悲劇です。

わたしは、過去に多くの実にさまざまな「不適応者」を見てきましたが、共通するのは、大人が「理想」をもって子どもに接した点にあります。
さまざまなヒステリー症状は、「ありのまま」を受け入れずに、「あるべき」姿を追い求めた結果です。

たとえ、既成の考え方や見方からはどんなに「異様」に見えても、それをまずは肯定し、受け入れることがはじめの一歩です。人間に「異常」というものはない、あるいは逆に人間とはすべて「異常」なものであるという認識を持つことで、人ははじめて「正常」になれる存在だという逆説を知らないと、よき子育て・教育はできませんし、悦びをもった人生は歩めません。

文字通りの「正常」であることは、人間が善・美という幻想上の価値を生きる存在であるかぎり有り得ない話であって、恋愛に象徴される聖なる「狂気」を自覚したときに、はじめて人間のよき生や美しき生は始まるのだと言えましょう。

「理想」―「あるべき」姿ではなく、赤裸々な自他の心の中に埋もれている善・美を発見すること、既成の基準にあてはめずに、自他のありのままの姿の中によきものを見出す努力、それが子育て・教育の核心であり、よく生きることです。「ありのまま」が肯定されたときにだけ、ただその時にだけ、人間は階段を上ることができるのです。

武田康弘




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感覚とイメージは言語に先立つ/心身全体による愛

2007-08-11 | 恋知(哲学)

言語による思索と交流=ほんとうに「生きた言葉」を用いるのに何より大切なことは何か?
それは、言語以前の「感覚や想像世界」を豊かにすることだと思います。

皮膚感覚で捉えること、
感じ知ること、
イメージを膨らませること、
全身で察知すること、です。

【運動・感覚次元】と【想像力の次元】を開発することに意識的に取り組む。その基盤を広げ強めることが、【言語による思索と交流】のためにも何より大切。わたしは、そう確信しています。

言語を先立てれば、言語は硬直化して死にます。先立つものは、こころ=感覚とイメージの世界のはず。「言語中心主義」に囚われていると、言語による思索も、狭く固い「言語 内 思考」に留まり、事象や事態や物事を「言語形式」の枠内でしか捕まえることが出来ず、ことばを増やすほど却って事象や事態や物事は見えなくなっていきます。本質からはどんどん外れ、誤魔化(ごまか)しの緻密化、一人よがりの衒学(げんがく)趣味に陥るだけです。

「哲学者とは哲学することで馬鹿になった人種のことだ」では、悲しく愚かです。

本を読み、あるいは情報を収集するだけでは、事象や事態や物事を掬(すく)い取るように掴(つか)むことは出来ず、有用な知は得られません。皮膚感覚やイメージ喚起力が弱ければ、「馬鹿になった人種」でしかないのです。

「言語による思索と交流」を豊かで意味深いものとするためには、【運動・感覚次元】と【想像力の次元】を開発することに意識的に取り組まなくてダメです。

皮膚感覚で捉えること、
感じ知ること、
イメージを膨らませること、
全身で察知すること、を日々の生活の中で心がけたいと思います。


以下は、以前に書いた『心身全体による愛』です。

 子育てー教育の基本は、心身全体による愛です。 

 文字通りの触れ合い、だっこしたり、おんぶしたり、ほほ擦りしたり、ふざけ合ったりすること。また、心のこもった視線や感情の豊かな抑揚のあることばで接すること。一言で言えば、心身全体による愛です。

 理屈以前の身体的な触れ合いこそが核心です。断言します。それがなければ、まともな人間には決して育ちません。

 愛とは、心身全体によるもの。子どもが自分を心底「肯定」できるのは、全身で愛されているという実感のみです。

 子どもを「言葉」だけで教育できると思っている人は、全くの能天気です。子どもが著しい適応障害を起こすのは、「理性」の不足からではなく、「愛」の不足からなのです。

 自分を自分で肯定でき・受け入れ・愛することができなければ、他者を肯定し・受け入れ・愛することは、不可能です。他者を肯定できなければ、中身のある人間付き合い=真の人間関係は決して生じません。

 人間関係とは、言葉で教育できるものではありません。愛や思いやりや優しさは、具体的に態度で示すことができるだけです。教え込むことが不可能な領域です。

 大人である私たちが、形だけで他者と関わる外面人間であっては、よい子は育ちません。本気・本音で他者と関わる勇気が必要です。愛の心があれば、ぶつかり合いは生産的になります。しかし、勝ち負けの意識が支配する愛のない不幸な心は、すべてを壊してしまいます。

 「心身全体による愛」は、人間の様々な営みを「よい」ものにするための絶対の条件なのです。言葉―理屈ではなく、実践です。そのように生きること、態度で示すこと、それ以外の方法がありません。

 子育てー人間を育てる基盤は、「心身全体による愛」にあるのです。心身全体で愛し生きることのできる人間を育てなければ、私たちの社会は砂漠化して生きる意味が消えてしまいます。

武田康弘



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31年目の「こどもたちの式根島キャンプ」から帰って

2007-08-09 | 教育

8月4日から8日まで、毎年恒例の式根島キャンプから帰ってくたびれてます。


全身で感じるー
自分が小さい者であることのよろこびを。

人の手が入っていない誰もいない海で泳ぐこどもたちの写真を一枚載せます。


(25歳の時に始めた【キャンプ&ダイビング】は、55歳になった今年で31年目)


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いま日本で一番ホットな場所は?参議院です。

2007-08-01 | 社会思想

安倍首相の思想の愚かさと危うさについては、昨年から今年にかけて何度も(何十度も)ブログに書きましたが、わたしの予言どおり(笑)―自民党38(実際は37)と民主党58(実際は60)の結果で新ウヨク思想は封じられることとなりました。

さあ今月からは、参議院の民主党が名前の通り民主主義を貫けるか?が焦点になります。経済的格差がひどければ、政治的に民主主義を現実のものとすることは不可能です。経済の格差を広げるような政治は、必ず軍事力を内外にアピールする必要に迫られてしまいます。

この根源悪を正すのが参議院です。なんと無用論まで出ていた参議院が、日本の政治を元から変える主戦場になります。理念通り、「良識の府」としての役割を果たすことになります。民主党がその初心を貫くことができれば、民主制を真に担保する法律を議員立法で参議院から出すことで、また、政府の国家主義的法案を否決することで、民主主義を具現化することが可能です。もし、否決法案を衆院に戻して三分の二の多数で強行採決をすれば、いよいよ大混乱で、解散総選挙が早まります。

いま、どこよりも参議院が熱い!
参議院の国会職員の人たちにも最高の舞台が回ってきました。縁の下の力持ちがどこまでよい仕事が出来るか?

武田康弘




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