思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ノーと言えるあなたと私に。危ない思想の中曽根康弘、石原慎太郎に「ノー」を!

2005-03-31 | 社会思想

なぜ、日本人は恫喝型の権力者に弱いのでしょう?

「石原や中曽根は、はっきりものを言うから、支持する。」という人がいますが、それで支持するなら、ヒットラーも支持することになりますね。

政治権力者の場合でいえば、思想内容こそが問題にされなくてはならないはずです。

大きく分ければ、?明治政府が意図的につくった「天皇制国家」、膨大な嘘で固めたイデオロギーの方向に近づける形で日本の未来を考えるのか?中曽根の天皇元首論がそれを代表する思想。
?市民主権社会―人間の自由と平等の人権思想を拡げ深める方向に新たな日本があると考えるのか? これについては私、武田康弘の「皇族の人権と市民精神の涵養クリックをご覧下さい。

この見定めこそが、あなたとわたしと子どもたちの将来を、上意下達の、形式が先立つ固い社会にしてしまうか? 異論が歓迎され、それに依拠する彩り豊かな社会に移行していくか? の分岐点になるのです。

私は、黙っていないで、少しの勇気を持ちたいと思います。一人ひとりが、じっとして小さくなっていれば、それに見合った未来しかやってきません。自分たちの生活と社会は自分たちで守りつくる以外にはないのです。恫喝や権力主義に屈すれば、エロースの乏しい窮屈な社会しか与えられません。

オタク的な狭視野なものの見方ではなく、大きく人間や社会全体の問題についてのイマジネーションを広げれば、個人としての私の人生も彩り豊かな幅の広いものになります。

新たな「市民精神」による「市民主権社会」を生み出せるか? 「エリート」による「国家主義」の方向に舵を切るのか? 日本はいま大きな分岐点にあると思います。何よりも一番大事なことは、政治権力者の思想内容、その方向性を見定めることです。

合言葉は、「受動から能動へ」です。どんどん発言しましょう。勇気を出して。たとえ、そうとは思えないとしても、わたしたち一人ひとりの実存には大きな力があるのです。
 
 日本をよく知る外国人は言います。日本の著名な政治家の多くは、何の普遍性もない頭の悪い「日本主義者」でしかなく、学者の多くは、紋切り型の言説を繰り返すだけの「機械的な頭」しかない人、それに反して日本のふつうの人々は、ずっとよく考えていると。

2005.3.31 武田康弘





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怒・「石原慎太郎くん、いい加減にしなさい。」横暴な独善者には退場してもらいましょう!

2005-03-30 | 社会思想

28日夜、NHK「クローズアップ現代」で、東京都教育委員会による「君が代」強制指導の実態と、「日の丸」を壇上の真ん中に飾ることの強制指導の実態とを見ました。

学校の自由も先生の自由も生徒の自由も一切ありません。上からの徹底した強制と締め上げは、見ていて激しい怒りがこみ上げてきました。日本の首都がなぜ隣の独裁国を真似しなければいけないのか!陰湿な暴力を連想させるおぞましい「力」による強制は、許しがたい愚行です。

その権力主義的な発想と態度は、NHKの解説者も憤りを隠せないほどひどいものでした。

居丈高で紋切り型の「横山洋吉」という名の教育長と「賀澤恵二」という名の課長は、「モラル!?として先生、生徒に強制指導する」と息巻いていましたが、モラルが一番欠けているのは、この二人であることは、おそらくこのテレビを見ていた人に共通する認識だろうと思います。

更にたちの悪いのは、この役人たちを後ろで操る石原慎太郎という小心者ゆえにヒステリックによく吠える政治家であることは、言わずもがなでしょう。「石原くんよ、権力を使って自分のイデオロギーを他者に強制する悪戯はいい加減によしなさい。」と都庁にはメールを出しておきましょう。 そういえば、君は、都知事になるずっと前に、月間「マリンダイビング」誌で、おれは水中銃で魚を撃つのが好きなんだ。撃った魚が第一次世界大戦の複翼機のようにキリキリと旋回しながら堕ちていくのを見るのは快感だ、と言っていましたね。自分がどのくらい民主社会の政治家に不向きかを自覚して、一刻もはやく辞職することを私は勧告したいと思います。

明治天皇賛歌の「君が代」の強制―「天皇制国家主義」の復活は、天皇自身も反対しているはずですが、それを目論んでいるかのごとく、国家主義丸出しの首都東京の「狂育」には背筋が寒くなる思いです。人権無視・人権侵害がこれほど白昼堂々と教育の場で行われている社会を、いったい何と呼んだらよいのでしょうか? 国旗と国歌を「踏み絵」として利用し、モラルという言葉を悪用して思想統制を行う狂気を、ブログ者皆で正していきましょう。石原知事と東京都教育委員会の所業に反対する記事をどんどん広げていこうではありませんか。

もう、35年も前のことですが、私は都立高校3年の時、NHKの「10代ともに」という番組に出て、当時の東京都教育長・小尾虎夫と議論し、だいぶやりこめた記憶がありますが、彼の方がはるかに紳士的な物言いだったなと、思い起こしました。

日本人にいま一番必要なのは、自由です。自由に考え、発言し、行動する人がこれほど少ない国は、「先進国」のどこにもありません。自分自身の政治的、思想的な意見を言わない、言えない教育をし続けてきて、今またさらに黙らせようというのは「狂気」以外の何ものでもありません。自由の行き過ぎ?などという笑止な発言をする人がいますが、ワガママや犯罪はあっても、自分の考えをつくり主張し行動する自由な人は、わが国にはごく稀にしかいません。いま日本社会に一番求められることは、自由な個人をどう育てるか?なのです。思想統制をし、国家主義を復活させることではありません。精神的に自立した魅力ある個人の育成こそが急がれるのです。形式主義の古い道徳を持ち出し、鋳型にはめることが「マナー」だという低レベルの思想は、日本を元からダメにしてしまいます。日本万歳の国家主義者こそが、私たちの国を貶める最たる人たちなのです。真に自由に自分の頭で考え、行動することのできる人をどう育てるか? 家庭も学校も会社もその課題に真剣に取り組まなくてはならないのです。個人の自由な考えと行動がなければ責任という意識は発生しません。それがいま一番大切な課題です。くれぐれもお間違えのないように。賛成する自由?はどんな独裁社会にもあるのです。民主制社会では、「反対する自由」が保障されなくてはいけないのです。一から勉強し直しなさい。石原くん。

独裁社会以外のどこに、卒業式のやり方を自分の学校で決められない国があるのですか!事細かに政治=行政権力が卒業式のやり方を指導し、従わなければ処分する!何という愚かで、ハレンチな所業でしょうか。こんな独裁権力をどこの誰が都知事や行政マンに与えたというのか!レベルの低い小説家にして独善者が、自民党の国家主義者と徒党を組み、子どもたちと教師たちに手前勝手な命令を下すなどということを、私は都立高校卒業生として、元・生徒会会長として、けっして許すわけにはいきません。なぜ多くの都民がこんな三文文士の言いなりになっているのか?なんとも不可解です。


後日、私が「白樺文学館」創設時に入手した文書=志賀直哉</b>が2月11日の建国記念日制定―紀元節復活に反対した文書をご紹介しましょう。私の手元に生原稿のコピーがありますので。

2005.3.29(30日改定) 武田康弘




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ルサンチマンの政治家―山県有朋の呪縛力!!

2005-03-28 | 社会思想

今なお「市民精神」(クリック)の育成を阻んでいる山県有朋がつくった「国家(観)」は、どのようにして誕生したのでしょうか?私たち日本人のもつ「常識」とは、実は彼によってつくられた「虚像」でしかないことの明晰な自覚が、「人間を幸福にしないシステム」からの出口になると思います。

呪縛の源泉―山県有朋についてのレポートを私の教え子―古林到くん(高校3年生)が書きましたので、その中から、?生い立ち?行動原理?行ったことの三点をご紹介します。(内容、文章ともに到くんのオリジナルです。)


山県有朋について 古林 到


1 山県有朋の生い立ち

 まず、彼がどのような環境で育ち、どのような人間であったかを簡単に説明せねばならないだろう。そうでなければ、彼が後に行った政策・行動の理由は、恐らく理解しにくい。

 有朋は、江戸時代の後半に長州の萩で生まれた。父は藩の中間(最下層卒族)である。中間、卒族など、武士階級の説明をしておくと、まず頂点に家老、その下に「上士」として寄組、大組(これらは役職の名前)などがある。そしてその下に「下士」として、無給通、膳夫、寺社組などがある。ここまでが正式な「士族」である。その下に「準士族(士雇)」として諸細工人、船大工、梶取、茶屋組などがいる。そしてこの下にやっと足軽や厩の者、飯炊き、六尺、中間などの「卒族」がくる。この武士階級のピラミッドの中で「昇格」というものはほぼ皆無である。そして卒族の中でも「中間」は、戦時における武具や旗の持役など、人夫のようなものであったので、もっとも軽んじられる存在だった。町中で士分の者に会うと、土下座してあいさつせねばならないほどであったという。

恐らく、彼の家庭の貧しさは想像を絶するものだっただろう。そして更に、母親は有朋が五歳のときに早世してしまっている。後妻は幼い有朋をうるさがるばかりで、まるで面倒は見なかった。代わりに有朋の面倒を見たのは祖母だったが、有朋に出世の望みをかけ、人に負けるな、強くなれと口うるさく言っていた。

また、彼が幼い頃のエピソードに次のようなものがある。
彼が友達と、川に向かって誰が一番遠くまで投げられるか、石投げをして遊んでいた。その時、川に投げるフリをして、有朋より一つ上の士分の家の子が、有朋の後頭部に石を投げつけた。あまりの痛さに有朋は激怒し、謝れと叫んでしまった。その士分の子は、まさか中間の子が自分に逆らってくるとは思わなかったらしく、逆上して怒鳴り返した。それで頭に血が上った有朋は、その士分の子を川に落としてしまった。士分の子の訴えを聞いたその父親は、有朋の家に押しかけ、有朋を事件現場まで拉致し、文字通り半殺しにした後、川に投げ捨ててしまった。その後祖母に助けられた有朋は、武士になりたい、武士にさえなれば、とむせび泣いたという。

 このような悲惨な環境で育ち、蔑まれてきた生い立ちが、彼を地位と権力への欲望が人一倍強い人間に育ててしまったのだろう。本来ならば、彼の「武士になる」という夢は叶うことなく、彼の生涯もひっそりと終わるはずだったのだろうが、この後、藩内の改革として「家柄や資格を無視して、有能な人材抜擢をする」という方針が出され、彼にも出世のチャンスが訪れた。そして、幕末の動乱を通して明治となり、トントン拍子に出世していった有朋は、明治政府、特に軍部で重要な役割を果たす地位についていったのだ。


2 山県有朋の行動原理 

それでは、彼の生い立ちを踏まえた上で、今後彼がとることになる政策や行動の根幹にはどのような考え方、信念があったのかを考えていきたい。

 高杉晋作の下で奇兵隊の幹部となっていた有朋は、維新後すぐに海外視察へと赴いた。馬関戦争で欧米列強の近代軍備にコテンパンにされたことが身に沁みていたので、かれは「国家建設のためには強大な軍事力を持たねばならない」と考えていた。そのための勉強・研究として、ヨーロッパ諸国の軍備を見に行ったのだ。しかし有朋はヨーロッパで信じられないものを目にする。

 丁度この頃のフランスは、民衆の蜂起による世界初の労働者自治政府ができる直前であったし、欧州全体で社会主義が発展、人々が自由と自治を求めて騒然としていたのだ。青年期の、松下村塾の経験からガチガチの尊皇思想に凝り固まっていた有朋にとって、これらはとても理解できるような状況ではなかった。そしてそれは「天皇を頂点とする素晴らしい国家のためには、やはり町人や百姓は甘やかしてはならない、愚民どもは黙らせておかねば」という彼の考えをより強固なものにした。そして有朋は生涯、民主主義や民権思想といったものを目の敵にし、弾圧し続けることになる。天皇中心の国家が真に良い事だと彼は信じ切っていたし、何より、彼の心の奥底にある、地位と権力への欲求がそれを(意識的にしろ無意識にしろ)許さなかったのだろう。真の民主主義がなってしまえば、彼の望むような、地位もくそも無くなってしまうからだ。

 この深層心理と、尊皇思想という信念が、有朋の後年の行動の原動力になっていくことになる。(あるいは、彼の地位と権力への欲求という深層心理に、尊皇思想という信念が、彼の行動を正当化させるための「口実」を与えてしまった、という方がいいかもしれない。)


3 山県有朋の行ったこと 

では、具体的に彼がどのような行動、政策をとっていったのか見ていきたいと思う。

 海外視察から戻った有朋は、兵部省(後の陸海軍省)の高官となった。(高官とはいえ、様々な事情から実質は兵部省のトップである。)そして有朋は、まず軍事面から彼の理想像に近づけることになる。廃藩置県により、各藩の私兵となっていたものを天皇の新兵とし、更に徴兵制を導入。これにより、天皇を頂点とした中央集権国家に相応しい、統一された軍隊をつくろうとした。

そして更に、これは明治中盤の話だが、彼は陸軍の軍制をフランス式からプロシャ式に変えている。実はこれは重要な変化で、フランス式は、軍隊は政府の指揮下にある、という国民的軍隊であり、プロシャ式は政府の指揮下にあるのではなく、独自に行動できる絶対主義的なものである。(己の権力欲のため)軍隊を政府の管轄ではなく、全く独立した天皇直属のものにしたかった有朋にとって、これはとても重要なことだったのだ。(いうまでもなく、これが第二次世界大戦における日本の軍部の暴走の原因の一つとなった)

 しかし、明治六年「山城屋事件」により、有朋は一度失脚することになる。山城屋事件とは、官僚に献金する代わりに、軍需品の納入を独占していた山城屋が、有朋の了解の下に官金を借り出し、それを相場資金として投資したが、投資に失敗し、返却出来なかった、という一連の出来事が発覚した事件である。山城屋和助は長州出身で、奇兵隊時代の有朋の部下である。つまり、「同郷だから」「元部下だから」という、極めて個人的・私的な感情で癒着していたのだ。言うならば、これは近代初の(明るみに出た)汚職事件であり、これが現在も続く汚職や癒着の前例をつくってしまったと言えよう。(余談だが、この後も彼はこのようなやり方で、自分の子分の面倒はよく見、甘い汁を吸わせてやることで自派閥をひろげ、自分に反対する者を黙らせながら、日本の政・官界を掌握していった。)

 この事件によって、本来ならば山県有朋の政治生命も終わるはずだった。しかし、彼の地位と権力への異常な執着心による裏工作と、様々な事情によって彼は再び「陸軍卿」として返り咲いた。また、これも様々な事情によって、陸軍は長州閥で固められてしまい、そして陸軍をバックに有朋の内閣での発言力は更に強大なものとなった。しかも、高杉晋作や西郷隆盛、木戸孝允や大久保利通といった、軍政や政治的手腕に優れた人物達が次々と亡くなっていき、有朋の地位と権力は押し出し式に上がっていった。

そしてその後、日本にも自由民権の思想が広がり始めてきた頃、前述したように、民主主義や民権思想といったものを己の理想の敵とみなし、恐れていた有朋は、民権党の暴動を皮切りに、いよいよ民権思想の弾圧と抑止、撲滅に取りかかる。彼はまず(民権党の暴動に軍隊の一部が加担していたこともあって)軍部内の統制に取り組んだ。「軍人訓戒(後の軍人勅諭)」をつくり、忠実・勇敢・服従の軍人の精神として掲げた。上官への絶対服従(上官の命令は天皇の命令と思え!というもの)、階級の秩序を乱さぬこと、民権思想の禁止など、軍人の言論、思想の自由を徹底的に抑圧した。天皇のためだけに動く、忠実な軍隊をつくるための完全なる戦闘ロボット育成スローガンである。

また、軍隊を政府から独立したものにするために「天皇直率の参謀本部」を設置した。これには、自由民権運動の広がりに対し、その影響から軍隊を守るために、軍は政治の外に出しておかねばならない、というねらいもあったが、何より、「天皇直率」ということはたとえ内閣がなんと言おうとも天皇の許可があれば好きなだけ戦争が出来るということであり、軍部のトップともなれば、その権限は絶大なものとなる。しかも軍事力を背景に、行政への発言権も更に強大になる。これは、これから有朋が自分の理想の国をつくる為に政・官界へ乗り出すときの布石ともいえよう。そして更に、有朋は軍内に「憲兵」をつくり、軍人の倫理や規律、思想動向を見張らせた。また、軍学校の生徒にも(民権思想の影響を受けたと思われる)庶民出身の者が増えてきていたので、陸海軍刑法に「軍人の政治関与の禁止」という法を追加した。

 この後、海外視察に出た伊藤博文の参事院議長の席を預かった有朋は、政・官界でも本格的に活動することになる。有朋はまず、「集会条例」「新聞条例」「出版条例」を改正(改悪)し、集会の自由、言論の自由を拘束、各地で起こる民権運動を、警察を総動員して鎮圧、民権急進派をことごとく根絶やしにした。更に、「各府県会議員の連合集会、および往復通信を禁止」し、全国的に横のつながりのある政治結社を瓦解させた。また、板垣退助の存在で辛うじて統一されていた自由党には、三井財閥から引き出した金で(策略によって)板垣を豪遊させ、癒着を偽装して内部分裂をさせた。大隈重信の改進党に対しては、三菱財閥との献金関係を言いふらし、自由党に攻撃させた。このようにして有朋は、権力と謀略をフルに活用して、己の理想と欲望を満たしていった。

 伊藤博文が帰国し参事院議長の席を返した有朋は、今度は内務省のトップ、内務卿となった。(更に参謀本部長も兼任しているので、警察と軍両方の指揮権を握った!)そして有朋は、自由党を挑発し、自由党員や農民にわざと蜂起させ、それを徹底的に鎮圧した。

更に、相次ぐ弾圧への反感から、自由党員の多数当選が予想される衆議院とは別に、政府に都合のいいほうへ誘導するための「貴族院」という議会を設けた。貴族院の議員になる資格は「華族」であること。彼らは「皇室の守護」として様々な特権を与えられている。この「華族」というのも、有朋が貴族院をつくるために事前に設けた「華族令」によるものであり、当然、有朋自身も華族に列せられている。用意周到とは正にこのことだろう。

更に、警察制度も軍隊同様、「市民へのサービス」というフランス式から、国家の権威の執行機関であるというドイツ式に変えた。警官の地方差を払拭、統制し、本署の下に分署、分署の下に駐在所と、国民への監視網を細かく張り巡らせた。更に、「治安妨害の恐れのある人間が皇居三里以内にいた場合、それを追放できる」「一切の言論、集会を禁止する機能を内務大臣に与える」などの、無茶苦茶な法を盛り込んだ「保安条例」をつくり、その権限を存分に使った。

 この後、紆余曲折を経て内閣総理となった有朋は、悪名高き(?)「教育勅語」をつくった。「青少年が悪い風潮に染まって政治運動に走るのは、教育の主眼が知識や技術の習得に傾きすぎて徳育がおろそかになっているからだ。」という意見の下、「天皇を道徳の基礎とする国教の樹立」など、道徳教育の基本方針となる草案が文部大臣から出され、それを有朋が「日本人は皆天皇のために生き、死ぬべきだ」ということを強調してアレンジしたものだ。

いうなれば「軍人勅諭」の全国民向け版のようなものだ。具体的には、「この国は天皇を中心につくってきたものである」という、歴史上ほとんどなかった天皇統治の国体のデッチ上げを始まりとして、国民を「臣民」(天皇のために、天皇の下に生きている)とし、一旦国に一大事があればお国(=天皇)のために尽くさなければならない、などの内容を盛り込んである。また、天皇は天照大神の子孫、「現人神」だ、という明治政府のデッチ上げた国家神道を補強するものでもあり、これを国旗(日の丸)と御真影、国歌斉唱の強制と組み合わせて国民に(幼い頃から)国体思想を植え付けるための道具としたのだ(勿論、有朋自身は、この国は天皇を中心につくられた国家だと信じて疑わない。)これで、国民を民権思想から離すと同時に、天皇のための人形にしようと目論んだのだ。たとえ嘘でも、小さな頃から何百回も聞かされていれば、本当だと思い込んでしまうだろう。事実、その後のこの国の人々は有朋の目論みどおりになっていく。この「教育勅語」は間違いなく、山県有朋の最大の悪行の一つだろう。

 程なくして首相を辞任した有朋だったが、この後も議会などへの謀略を続けていく。元々彼は「議会などは、結局は天皇専制の装飾に過ぎない。議会が国体に反抗するのなら、買収も選挙干渉も、議会操縦の一手段であり、当然容認されるべき」と本気で信じていたし、今までも自分の信念を貫くためなら、買収なども平気で行っていた。日本初の政党内閣が出来たときも、軍部や司法省、内務省や貴族院など、日本の政・官界の隅々まで張り巡らせてある自派閥の網と、有朋の子分であり、彼によって送り込まれた陸相と海相達の裏工作と妨害によって分裂、あっけなく瓦解してしまった。

 そしてこの後、有朋は再び首相となり、組閣する。勿論、自派閥の人間で固めてだ。まず彼は、対ロシア戦の緊張が高まる中で軍備拡張のため、地租増徴案の議会通過に尽力した。選挙権所有者の大部分がこの法案で増税される地主だったので、まともな方法で通るわけがない。地租増徴反対同盟を警察力で弾圧しつつ、地主(ブルジョア階級)をうまいこと抱き込み地租増徴期成同盟を結成、続いて「憲政党をロシアと戦うことは日本にとって避けられぬことであり、そのためには軍備拡張が不可欠だ」として説得、それでも反対の動きはおさまらないので、彼は宮内省から莫大な金額を引き出し、それをばら撒いて議員たちを買収していった。これらの努力によって地租増徴案は見事に(?)通過した。あからさまな不正行為の数々だが、先にも触れたように有朋自身はこれらの行為は正しいと信じ切っていたし、内務省などの警察機関や、司法関係は彼の派閥で固められていたので、まかり通ってしまったのだ。

 そして、それが終わると、続いて対民権思想として政党員の行政機関(官僚組織)への進入を拒否するため、「文官任用令」を制定、天皇が任命した親任官以外は、高等文官試験を通った者しか任用できないようにした。これが、現在の日本の問題点の一つとなっている「官僚主導政治」の始まりとなる。

また、ブルジョア階級の増大により近代的労働者階級が形成され、社会主義思想と組織運動が広がり始めているのを見た有朋は、それらを民権思想と同様、己の理想の「天皇制国家」の敵と見なし、それらの弾圧と根絶に取り組む。「治安警察法(後の治安維持法)」を制定し、労働運動を若芽のうちに根こそぎ摘み取った。そして、先に書いた文官任用令をはじめとした、官僚(行政)に権力を集中させ議会(立法)を下に置くための制度づくりに尽力した。
尽力した。また、年々増していくブルジョア階級の政界進出意欲に対し「あんた方は黙って金儲けをしていればいい、後のことは一切わしらに任せてくれ」と抑え、代わりにブルジョアジーの意向をより多く議会に反映させ、政治資金の供給源の確保を図った。これが、現在にも続く政・官界と金持ち(昔で言えばブルジョア階級、現在で言えば特定の大企業など)の癒着の原形といえるだろう。 (古林 到)


「20世紀の世界に負の遺産を作り出した最大の人物」とも言われている山県有朋につい知る人はまだまだ少ないでしょう。古林到くんのレポートは、貴重なものだと
と思い、ご紹介しました。いかがですか? (武田康弘)





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裸の私「実存」のよさ=魅力に、社会・公共は、依拠しているのです

2005-03-26 | 恋知(哲学)

人間の「生」と「教育」を考える。(シリーズ「教育基本法」改悪との闘い?)

実存性の追求は、社会性の追求に優先するという原理

社会・公共問題に取り組むことが、実存としての己の人生の追求を上回ると、それはつまらないもの、エロースの乏しいものに陥ります。そういう人は、自分から逃げる嘘=方便として社会・公共問題を持ち出しているからです。ルサンチマンを抱えた人の問題提起は、真の問題を隠す嘘でしかないために、決して自他を幸福にしません。

自己欺瞞の人生=外見を優先させた社会性という「仮面」をつけたまま社会・公共問題に取り組めば、害あって益なしです。裸の個人としての己を後景にして社会を語れば、それはタテマエ=内容の伴わない理念主義の発言にしかなりません。空疎・形骸の言語ゲーム=ディベートや公式的発言は、興ざめ以外の何ものでもありません。

実存性の追求は、社会性の追求に優先します。本当に自分に正直に生きている人は、社会人としてのステータス獲得のために、個人としての人間のよさ=魅力を犠牲にしたりはしません。これが逆転している人は、ありのままの自分の心を偽り、何かしらのイデオロギーを先立てる逆立ちした人生を歩む人です。

実存としての自己は、社会人としての自己に先立つ、という原理をしっかりと身につけた者同士が、社会的・公共的な活動を共にすることで、その営みは始めて真に社会的有用性をもつのです。「仮面」をつけたままの偽りの人間が社会問題に取り組んでも、それは中身のない形だけを取り繕うものにしかなりません。本物の社会性・公共性を創り出すためには、実存性の追求=裸の個人のよさ・魅力の開発が必要です。私は、極めて不十分ながら、そのことをいつも心に留めて生きています。

日本人が、よき公正な社会、活力ある魅力ある社会をつくるための必須の条件は、個人としての人間のエロースを開発する努力にあるのです。右や左の理念主義、とりわけ自民党・文教族の「愛国心の育成」という理念を優先させる逆立ち=低次元の観念論の影響を元から断たなければ、よき人間性と社会・公共性を生み出す営みは、出発することすらできないのです。

己の実存のよろこびを広げ、深めることを先に・中心に・土台にしなければ、社会・公共という概念は意味をもちません。実存なき社会とは昆虫の世界にすぎないのですから。本来、人間の社会とは、裸の個人=実存のために存在するのです。個々人を生かすのが社会であり、「国家のために私を犠牲にする」などというのは、精神病者の戯言でしかありません。

2005、3、26 武田康弘 


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嬉・ブログ内で成立!!「アイデンティティ」の踏み込んだ議論=「民知」

2005-03-24 | メール・往復書簡

「互いの誠実さへの信憑」が心のどこかで成立していると、全く趣味もタイプも違う人間同士が、ブログ上のやり取りで議論を深めることができるという貴重な経験をしました。
ブログ者は、「民芸」 クリックならぬ、「民知クリックを実践し、広げていきませんか?


現代人の重要な課題―「アイデンティティ」についてのやりとりを以下に貼り付けます。


以下は、lucienさんのブログです。

昨日続いて、宮台の言う「流動性社会」について考え続けてしまっている。
流動性社会とはアイデンティティの得にくい社会のことだ。たいていの人はただのサラリーマンであり、ただの主婦であり、ただの学生であり、ただの自営業者であり、ただのニートである。サラリーマンなどはクビになれば代わりの人間など掃いて捨てるほどいるのが現実だ。その人にしかできない仕事や行為を為せる人間はごく少数で、あなたのやっていることは別にあなたがやる必然性を持っていない。誰でもできることなのである。人間が生きていくにはアトリビューション(属性)=共同体からの承認が必要だ。しかし現在の社会に生きることは常にそれが脅かされている。
それを解消する手段として宗教があるだろう。某創価学会を思い起こしてみれば、選挙に勝利するために粉身砕骨するあの人たちの顔の輝きは何なのだろう、と、羨ましくさえ思える。
私とてかつて変な夢想に囚われたことがある。三島由紀夫を耽読していた当時、強引に「祖国防衛」という目的を作り出し、盾の会という共同体を作り出し、「文化概念としての天皇」、つまりアイデンティティの根源としての天皇を戴いて自決したあの事件について深く知るにつれ、戦前の「皇国の臣民」としてのアイデンティティとはいかなるものであったのかリアルなものとして妄想した。
三島由紀夫事件もアイデンティティの問題が根源にあるとして切り取ることができそうである。無いアイデンティティを強引に作り出す奇怪さがそこにある。豊穣な創造力+強烈なアイデンティティへの欲求が重なってあのような結果を招いたのだが、一般人には危険極まりないものだと気がついて、私はなんとかバランスを取り戻すことができた。

社会からの承認を得たいとする欲求が強すぎるとどんな奇形が発生するのか。私にはホリエモンが思い浮かんでしまう。
逆に社会からの承認を諦めてしまえばどうなるか。そういった人たちは脱社会化し、無規範的な行動に陥るか、自分でオリジナルな行動規範を作り出してしまうかだ。社会とは無関係な場所に自分勝手なバモイドオキ神を創造した酒鬼薔薇が好例だといえる。

「承認の供給不足」はそういった脱社会的人間たちを量産すると同時にホリエモンのような奇形も生み出してしまう。また、精神的な問題を抱える人たちも生み出している。
現在の成熟化社会における最大の問題はこのアイデンティティの問題なのではないか。いったいどうしたら良いというのだ。
昔のような地域共同体の復活などあり得ない。おせっかいババアにお説教ジジイと共に閉域で生活することはもうあり得ないだろうし、マスメディアやネットなどのマスコミニュケーションのもたらす存在の流動性は地球上の隅々にまであまねくスタンダートとして確立しつつある。
これからますます殺伐とした社会になることは覚悟しなければならない。そういうことを考えていると本当に絶望的な気分になる。こういう状態が長く続くと、一人のカリスマの出現によって一気に全体主義へ流れていくことも容易に想像できるからだ。



私(武田)のコメント

[タケセン] [2005/03/22 02:06] [ MyDoblog ]

同感です。
鋭い指摘だと思います。

現代社会では、「意味論」(本質学)なき「事実学」の積み上げが「知」だとされてしまうために、直観=体験能力が養われず、心身全体による会得=腑に落ちる納得が得られません。

自己のアイデンティティとは、深い納得=「意味充実」の世界がもたらす充足感によりますが、ゲームとしての「知」では、やればやるほど自己解体を加速し、ニヒリズムを招来してしまいます。

世間から隔離されて育ったお坊ちゃま(三島)も、百科事典相手に育った東大坊や(ホリエ)も、人間の最終の拠り所=「内在」として知覚が希薄なのでしょう。哀れです。


lucienさんのブログ

コメントどうもありがとうございます。
お返事が長くなりそうなので、いっそ記事にしてしまいたいと思います。

日本では一般的には意味論というのは非常に難しいことだと思います。
よく言われていることですが、キリスト教圏では論理や倫理の最終的な保証を神が受け持っているので、意味論が回転し展開することができるのですが、日本では意味論を追求していったらとたんに虚無に転落するような気がします。
共同体の知恵としての「神」という概念が、本当に私たちの社会にも必要だと感じます。もちろん宗教的な神ではなく、神と同様な機能を果たす、何がしかの共同幻想ですが。
戦前までは明治政府によって天皇が復活して地域共同体の上部にメタレベルの共同性を構築し、急激な文明的近代国家へとまとめあげることに成功したわけですが、戦後になって経済成長に目処がついた1980年代あたりから成熟社会になると、とたんに足元に虚無が広がっていることに気づかざるを得ないわけです。

何がしかのメタレベルの神的な共同幻想は自分のアイデンティティを試行錯誤の下に構築できる人たちが多数な社会なのでしたら必要のない措置だと思いますが、いかせん、私を含めて他者からの「承認」の供給を待ち続けてしまうような凡人だらけなのですから。昨今の占いブームの根源もここにあると思います。そしてますますこの傾向は加速するはずですし、非常に危険な状態にあるような気がしてなりません。
この状況につけこめばオウムの麻原みたいな詐欺師が簡単に事を成せますし、殺人にいたる敷居の低い人間たち(些細なことで殺人に至るような)が増えるはずです。

メタレベルの共同幻想を作り出す(これ自体が危険なことなのですが)のでなければ、自分で意味の試行錯誤をし、内面の強度(濃密さ)を作り出せるようなスキルを開発する必要があると思います。
しかし、私にはそのスキルをどのように開発すれば良いのか、さっぱりわからないのですが。この仕事はおそらく、広義のクリエイター、哲学者、思想家、芸術家、音楽家、教育者、小説家、政治家、科学者、などが知恵を振り絞って即急に取り組まなければならないと思います。
[ 更新日時:2005/03/22 23:50 ]


私(武田)のコメント

[タケセン] [2005/03/23 14:08] [ MyDoblog ]

lucien様。よい議論ができて感謝です。 

自己肯定ができるような「小さな物語」をつくりつつ生活すること、その積み上げ以外に、アイデンティティの確立はないと思います。

肝心なのは、「情報知」と「心身全体による会得」の違いの自覚、その図と地の関係を逆転させないこと。足は大地に根を張って、心は宇宙を駆け巡る、というわけです。

この種の問題解決には、残念ですが、「専門家」は無力です。日々の創意工夫という「足元」から以外に出発点はありません。

外にではなく、誰でも、自分の中に神ならざる「神」はいるー至高のよきものは、あなたやわたしの内部にのみ住んでいる、と考えるのが哲学の立場です。 

よろしければ、2004.11.23.と 12.16 のブログもご覧下さい。 武田康弘



lucienさんのコメント

[lucien] [2005/03/23 18:26] [ MyDoblog ]

武田さま
こちらこそコメントいただいて光栄です。

『外にではなく、誰でも、自分の中に神ならざる「神」はいるー至高のよきものは、あな
たやわたしの内部にのみ住んでいる、と考えるのが哲学の立場です。』
このような信念の元に試行錯誤ができるように、学校で教えるべきでしょうね。アイデンティティを心身全体で会得するのがまず第一なのはまったくそう思います。

現在は「情報知」が圧倒的に優位になっていますが、だんだんとそういった弊害に気がつく人が増えていると思います。子供が、他者とのコミュニケーションを取りながら遊ぶ重要性を指摘する学者も増えていますし。だいたい「音読することによってボケない」という最近の健康法の流行なんかも、情報と肉体的なパフォーマンスの融合の重要性が再発見されているように見えます。

しかし、アイデンティティの問題というのは難しいですね。はっきり言って私の手に負えません。



私(武田)のまとめです。

lucienさんは、私の手に負えないと言っていますが、ここには、答えがきちんと示されています。
後は、この原理をどのように実行していくか?だと思います。


余談になりますが、lucienさん、様々な問題を真正面から主体的に受け止めて思考されています。今の日本人には、稀有な人だと思います。これからもぜひ、楽しく気張らず、自由な文書―思考を続けて下さい。 「民知」と共にあらんことを!

2005.3.24 武田康弘



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「日本人は、カエルのように死んでいく」? 隠れた時代の異変―大日向雅美

2005-03-22 | 社会思想

一昨日の東京新聞に、大日向雅美(恵泉女学園大学教授)さんの時代批評が載っていました。私はまったく面識のない方ですが、強く共感しましたので、ご紹介します。

隠れた時代の異変 論じる流れ起こせ 大日向雅美

「カエルはいきなり熱い湯の中に投じられると暴れるが、水から入れて徐々に温度を上げると、抵抗することもなく、息絶えていくと聞いたことがある。今の日本社会の政治に対する国民の姿勢がカエルのように思えてならない。

政治的な凪(なぎ)状態が一番怖い。(右傾化の)波がひたひたと押し寄せているのに、人々は、真正面から取り組む気概を失っている。

(教育基本法の改正案では)、個人主義教育の弊害が指摘されるが、公の精神は、私を殺して得られるものではなく、よりよく個が生かされてこそ得られる。これまで果たして個性や人権がそこでうたわれた理念どおりに尊重されてきたのかが、問われるべきで、法律の文言を変えて済む問題ではない。教育問題の解決に体を張って苦闘している人々の声に耳を傾けると、基本法改正の方向も明らかになることだろう。」(抜粋の文責は武田)


このあまりに当然の主張が実行されないところに、現代日本の恐ろしい程の危機があります。

身を挺して教育や社会問題にあたる人間を、「変人」か「馬鹿」か「間抜け」か「危険」な人物とみなすような世の中には未来ー希望はありません。

「国を愛することを法律に明記すれば、最後には人を愛する人間になる」!!??
「個人尊重の行き過ぎが、親父狩りのような非行を生んだ」!!??という前・文部科学相の主張を東京新聞で読んだ中一の女子は、「これって言ってること反対じゃない!」「何にも分かってない!」「完全にいかれてるよね。」と言っていましたが、まったくその通りです。

 日本の中学一年生は、これだけまともな判断ができるのです。(だから出来ないようにする?)

世の思想家や評論家と言われる方々、受動性の精神に浸り、現状肯定の理論―哲学!?を緻密化する努力=自己弁護や、犬の遠吠えのごとく「進歩的」な理念を安全地帯から叫ぶだけという小心者・テイタラクからそろそろ脱出したらいかがでしょうか? 失礼! 「りこうの壁」を取り払う努力が大切です。

身を挺して事にあたらなければ、ほんとうのことは何も見えてきません。エロースはやってこないのです。これは原理です。

2005.3.22 武田康弘




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「正しい」思想!? 哲学者とは恋に生きるエロースの人(ソクラテス)

2005-03-20 | 恋知(哲学)


「正しい」思想?「正しい教育」?「正しい」人生?人間?「正しい」地域?国?
へんですね~。「魅力ある」・・や「よい・美しい」・・ならば分かりますが、「正しい」・・は、意味不明です。
「正しい」か「間違え」かは、本来、狭く限定した領域についてしか言い得ません。

哲学や思想の世界で言えば、認識論(人間の認識の意味・ありよう=主観の構造)については、相当程度に「正しい」記述・解明も可能ですが、能動的な生き方の問題については、「正しい」はないのです。より「魅力的」な考え方、より「人生を楽しめる」考え方、より「問題解決可能な」考え方、一口で言えば、より「よい」考え方・生き方を求めることができるのであって、「正しい」思想?を考えることはできません。「正解」は存在しませんから。ほんらい「恋知」と訳されるべきソクラテスの哲学とは、「客観学」ではなく、「主観性」を深めることで普遍的な了解をつくりだす営みです。

生きることをより深く味わうこと、より魅力的な人生を創造すること、より深い納得を得ること、そのために哲学(知に恋すること)は、あるのです。哲学とは、「正しい」思想を提示するものではありません。エロース豊かな善美(よい・美しい)の世界に憧れる人生を歩むこと、それが哲学です。

ソクラテス・プラトンの哲学とは、エロース(恋)の情熱に基づく対話=「能動的な」人生のことであり、受動的な「観想」の態度ではありません。静的な理屈の世界ではないのです。大学の中で「研究」!?できるものではありません。野に・人々の中に・現実社会にあるのです。ソクラテス・プラトンによる哲学者の定義とは、「知恵を愛し、美を求め、詩・音楽を好み、恋に生きるエロースの人」です。より「よい=魅力」ある人生・社会とは何か?を探求し、憧憬し続ける者のことです。

(古典中の古典、プラトン著「饗宴」と「パイドロス」は、座右の書。ただし、岩波文庫の「饗宴」は、訳が古く、読むの難儀します。鳥影社の多田さんの訳ー「饗宴・愛を巡る七つの物語」が読みやすいです。「パイドロス」は岩波文庫でも大丈夫です。)

潜在的な「よい=魅力」を顕在化すること、それが哲学本来の役目です。

2005.3.20 武田康弘




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子どもたちの実存を育てよう!!「新・教育基本法案」の歪んだ思想との闘い?

2005-03-18 | 教育

シリーズ?です。ブログ者の力を合わせて、子どもたちの「実存としての生」を後景にしてしまおうとする自民党・文教族のイデオロギー(新・教育基本法案)を打ち破りましょう!!共に。
新教育基本法案についての具体性をもった批判は、シリーズ?以降で行います。


人間と教育の原理ー「実存は本質に先立つ」

わたしが思う「優れた人」とは、吸い取り紙のような吸湿性をもった人です。
襞(ひだ)が細かく、襞が多く、襞が深い人です。
逆に言えば、自分の心を、素直に・自然に・自由に開くことのできる人です。
死ぬまで「固まらない」人です。

「伝統」という概念に固執し、縛られ、固い鎧兜を着た人には、発展性がありません。優れた人とは、「伝統」から新しい世界を生むことのできる人です。
古いものに縛られ、自由な想念を広げることのできない人は、自他を共に不幸にします。

自民党文教族の人たちの顔は、総じて固く神経質な顔ですね。人間的な柔らかさ・面白みがなくエロースの少ない顔です。既成秩序が優先し、自由な発想が乏しく、内容の豊かさは後回しで、保守的で固い論理をもった形式好き、特に国旗と国歌を熱愛するフェティシスト、そんな顔にしか見えません。失礼!(エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』ー顔は顕現する!!)

このような人たちは、本来、最も「子どもたちの教育」にはふさわしくないはずです。ある特定の傾向に人間を閉じ込める=固い「理念」を優先させるやり方は、本質的に人間の教育には合いません。本来、大人は虚心に子どもの姿を見て学ぶのです。スキンシップを含む「心身全体での対話」という方法が教育における理念なのです。予め決まった内容を持たない「理念ならざる理念」です。

人間の様々な事業の中で、唯一、教育のみが通常の意味での理念をもってはならない営みです。実存する子どもたちを見て、どれだけ吸い取り紙になれるか?一見、非合理にしか見えない子どもの言動・全身から発するメッセージを、心身の全体でどこまで受け止めることができるか?が、勝負なのです。子どもたちの実存のありようによって、常に自在に変化してゆく通常の理念とは異なる「理念」が求められます。人間教育においては方法が理念の役目をもつのです。「実存は本質に先立つ」からです。

「よき人間を育てる教育」のためには、「工場生産物の品質管理」とは正反対の思想と方法が必要とされます。人間は何かのために存在するのではなく、生きること=存在すること自体が価値・エロースなのですから。

2005.3.18 武田康弘


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続・ブログの危機!!結語ー「人権擁護法」と「人権委員会」のゆゆしき問題(改定ー増補)

2005-03-17 | 社会思想

3月13日夜、法制のプロの方と、3時間あまりにわたり話をしましたが、いくつかの基本的な点について聞き、確認をとることができました。感謝です。

?まず、この法案が対象とする「人権侵害」とは、主に市民=一般の人どうしの間での差別=人権侵害についてであり、国家権力―行政などによる人権侵害からの救済を主たる目的にしたものではないということ。

?次に、人権委員会の立入検査権については、法的に問題はないこと。なぜなら、立入検査は犯罪捜査を目的とするものではなく、また「政府」からの独立性をもつ独立行政委員会(公正取引委員会や人事院など)がすでに存在し、それらの合憲性は承認されているから。

?何が差別かの具体性をもった規定は、法文には一律に書くことはできない。なぜなら、差別は年齢性別などはっきりと分かるもの以外は、心の問題であり、その時々の社会常識により判断基準が変わるから。

以上3点です。


私の見解を以下に記します。

?について言えば、最大の人権侵害の問題は、国連からも改善勧告が出されているように、法務省の管轄である入管の収容場や刑務所・拘置所の問題であり、東京都教育委員会による個人の思想・信条の自由への抑圧、国際人権機関により批判されている警察の不当逮捕や長期拘留、その他種種の行政機関等によるもの、犯罪等の被害者に対するプライバシー無視のマスコミ報道、度を越したサービス残業に象徴される民間会社の不当な労働強要などです。

こうした公権力やマスコミや会社等から個人の人権を救済する制度をつくることが喫緊の課題であることは、常識ある市民にとっては自明のことです。

ところが、今回の「人権擁護法」とその下に新たに作られる「人権委員会」は、権力による侵害をあとまわしにして、個人間の問題を対象にするというトンチなものでしかありません。

深刻な家庭内暴力(幼児虐待等)に対処するため・・・とも言われますが、それならば、そのための限定法で対処するのが当然で、ブログの文書等も含むあらゆる市民生活を包括する法(人権擁護法)と制度(人権委員会)を新設するのは、?法務省がその権限を他府省に渡したくないという省益と、?市民の思想と生活を一定の枠内に閉じ込めたいとする思惑以外には動機がないと、私には思えます。

体制にとって都合の悪い人を、「差別発言をしている」と、複数の人が示し合わせて「人権委員会」に訴え出れば、どういうことになるのか? 個人の自由とパワー、熱気と元気と挑戦の気概が削がれることは、誰の眼にも明らかです。自由で大胆な意見が縦横に飛び交う社会でなければ、人々は生気を失い、生きる意欲が減衰してしまいます。これは人間の生の原理です。


? これは、とんでもない誤魔化しの論理です。立入検査が犯罪捜査を目的としないと法律に書いても、実際にはそれと同じ機能を果たすことが大いにあり得るからです。また、公正取引委員会の「立入調査」は、会社等の団体へのものであり、一般市民の家庭への立入調査ではありません。人事院の権限も、政府に対するもので、市民とは何の関係もありません。個人の家への立入調査が、裁判所の出す捜査令状なしで行えるという「人権委員会」の新設は、当然憲法第35条に抵触すると考えなければなりません。法案作成者の方、第13条、31、33条と共にもう一度お読み下さい。


? 政治制度としての差別問題解消の領域を超えて、心の領域・言語表現における差別の問題を法律で規定し、それを監視することは「市民社会の原理」とは相容れません。
法律(ルール)の本質が合理性にあることは論を待たないでしょう。法律が人間の内面・心・モラルまで規制するとしたら、合理性という法律の本質に反してしまいます。
道徳を権力で強制したらどういう事態になるのか?民主制社会は終焉を迎えてしまうのです。

結論:
こういう市民社会の原則をわきまえない法律と制度をつくろうというのは、民主主義の基本思想(哲学)を知らない人の所業です。この法案は、廃案にする以外にはありません。

なお、この問題の牽引役になっているブログの管理者は、日本の過去の問題ーアジアの人々への人権侵害の問題に対しての反省がなく、国家主義の色合いが強い人たちのようです。私の反対理由とは、考えの基本が異なります。

この「人権擁護法」と同等以上に問題なのは、「教育基本法」の改悪です私を捨てても公に尽くす精神の育成、を公言する「狂った」人間たちの企てからどうしたら子どもたちを守れるか?これから皆で考えましょう!ブログ者の団結で「市民精神」(クリック)による未来を切り開こうではありませんか。


2005.3.16.(増補17日) 武田康弘






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ブログの危機!!ホリエモンどころではありません。団結しましょう!

2005-03-09 | 社会思想

いよいよ「人権擁護法」という名の 「言論規制」 が始まりそうです。

もし、私たちネットの騎士(女)!?が「ブログ」という新しいメディアを使って、政府の危険な方策を阻止できれば、ひとりひとりの市民のパワーが政治権力に勝つ!という新しい時代の到来ともなります。

 災い転じて福となす!ように私たちブログ者は、団結しましょう!そうしましょう。


以下は、私たち「白樺メーリング」のメンバー勝部市議(我孫子市)からのメールです。


勝部です。

堀エモン→ライブドアといったつながりで、興味深い内容の書き込みを見つけました。

「人権擁護法案反対にご協力をお願い致します」

という趣旨で、書かれています。

私も、我孫子市議会のことばかりで、国会の様子に疎くなっていたのですが、少し気になる法案が可決されようとしているようです。

人権擁護の名の下に、言論、思想の自由を規制する危険性があるということです。

ネット上で、いろいろ書き込みしている内容が、国により、検閲されることになり、政府批判などができなくなりそうです。(勝部)



できることを考え、どんどん「勝手に阻止運動」を展開しましょう!!

私も友人・同士の衆院議員や首長や市会議員も交えて運動をつくっていこうと思います。政党の枠を超えて「民主主義とは何か」を考え、語っていきたいと思います。ただし時間がありません。期限は3月15日です。私は、いま、緊急に行動を始めたところです。

私たちネットの騎士(女)!がそれぞれできることをして、何とかして法案成立を阻止しましょう。問題の本質は、見えないところで人権擁護委員が決められ、差別や人権侵害の判定が恣意的に下されるところにあります。

ヴォルテールの有名は格言を思い起こしたいと思います。「あなたの言うことには一言も賛成できない。しかしあなたにはそれを言う権利がある。私はその権利を死を賭けても守るつもりだ」

波を起こし、輪を広げましょう!!!どんどんリンクを張り、ネットで包囲!?


関連するブログ=「観た聴いた読んだ想った 」(クリック)

yahooのブログもみて下さい。(リンクークリック)


武田康弘




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同じ穴の狢―ホリエモンと旧・経営者―べジータが偉い!?

2005-03-07 | 社会思想
「何のため」はないーただイチバン強いことを求める、というのが『ドラゴンボールZ』のべジータでした。

一番金持ちになること、一番大きな会社になること、自分または一族が覇権を維持すること。それが目的!?!? ニーチェが描いた超人・ツァラトゥストラの「ライオン」段階(両者ともかなりみすぼらしいライオンですが)に留まる人たちの「学芸会」にはエロースが乏しいですね。

「真実はなくても、金さえあれば皆がついてくる」というのが、彼らの本音のようです。

「点数」それ自体、「貨幣」それ自体、「権力」それ自体、「腕力」それ自体、「性交」それ目体が目的!? 目的ならざる目的の世界。理念やロマンのない人間が幅を利かせる世の中には「ニヒリズム」しか与えられませんね。

「点数」も「貨幣」も「権力」も「腕力」も「性交」も、豊かな理念やロマンの世界に支えられた日常を《地》として持っていないと意味を失います。人間を幸福にしません。これは原理です。

何よりも人間に必要なのは、真・善・美に憧れるロマンの心です。美しいこと(人)・よいこと(人)・真実なこと(人)に憧れ、それを求める心です(哲学???を見て下さい)。

ソクラテスが二千数百年前に看破した人間の生きる意味と価値=善美のイデアという幻想価値だけがあらゆる人間の営みを支えるという「実存の原理」が忘れられ、貨幣いう幻想価値が、善美という幻想価値を上回ると、人間―社会は死んでしまいます。

ベジータではなく、悟空がいいですね。そう、あの超人・ツァラトゥストラは、「駱駝(らくだ)」から「ライオン」、そして「子ども」へと進化したのでした。


リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラ』(小澤征嗣・ボストンso)を聞きながら。


2005/03/07 武田康弘





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「りこうの壁」3月13日―武田康弘・講演会のお知らせ

2005-03-05 | その他
来週日曜日の私の講演会のお知らせです
お近くの方はぜひどうぞ。どなたでも参加できます。



権威に従ってしまう心が生じるのは、「馬鹿」と思われるのを恐れるからでしょう。

心が権威に縛られていては損です。知ることから考えることへ!受動から能動へ!

元気がでるエロース豊かな「知」の障害は、利口でいようとする心です。「馬鹿」の勧

め!?



とき:
2005年3月13日(日)午後1時~3時

場所:
鎌ケ谷市中央公民館(イトーヨカドー向かい)
新京成線(松戸~京成津田沼)の初富下車、徒歩1分
(東武野田線・柏より「新鎌ケ谷」乗換え、次が「初富」)

主催:
とわの会

後援:
鎌ケ谷市

入場料
無料

お問い合わせは、 shirakaba2002@k.email.ne.jp まで。






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「寛容の精神」のために必要なのは、「非寛容の精神」です。

2005-03-03 | 私の信条

寛容の精神とは、裸の個人同士・あなたとわたしの人間関係のためには、何より必要な態度です。

しかし間違ってはいけません。政治権力者や経済的な支配者の言動に対して寛容の精神を発揮する!としたら、ブラック・ジョークにしかなりません。

例えば、中曽根元総理は、懐古的な「元号」強制法案を作った男ですが、こういう人間が、「日本の教育改革に全力で取り組む!」ことに寛容であるとしたら、市民主権社会の発展は間違いなく阻害されます。

民主制社会の維持・発展のためには、彼のような人間の思想と行動には、明白にノーという必要があるはずです。再び国家主義の思想を喧伝する権力者に対しては、「非寛容」の精神こそが必要です。

現代の日本人の精神は、受動性の思想=思想ならざる思想に支配され、個人に対しては非寛容、権力者には従順という、 「真・善・美」に憧れる心とは程遠いものになっているのではないでしょうか。

自民党と文部官僚が長年推し進めてきた既成秩序に従順な人間づくり、体育会系の人間を優遇する教育政策は見事に?功を奏し、権力や体制を批判する者は、変な人・危険者とみなすがごとき不健全な精神が蔓延しています。日本社会の右傾化ー矜持を失ったテイタラクは眼を覆うばかりです。

実存者としての個人は、交換可能な「人」ではありません。私は、人間を受動者に陥れる歪んだ思想―既成社会の枠組みに個人を閉じ込める保守主義を、日々の具体的な行動の次元から変えていかなければいけないと考えています。

金の力で政権を維持している自民党の代議士が、「金の力で何でも出来ると思っているのはケシカラン」と言い、組織を上げて裏金作りに明け暮れている警察が、「青少年の非行を取り締まる」と言う。外部の厳しい監視の目が入らないこういう腐った団体・組織に「寛容」な精神を持つ!?保守主義の人間は、必ず、裸の個人―弱い立場の人間に対しては「非寛容」です。

哲学とは裸の個人―実存として生きる人間の側にたつものです。明治天皇へ奉げられた天皇讃歌=「君が代」を学校現場に強制することに象徴されるような国家主義のイデオロギーに対しては、断固としてノーを言う「非寛容」の精神が何よりも大切なはずです。

政府権力者が教育の場に自分たちのイデオロギーを持ち込むのが当たり前という風潮をこのまま許すなら、日本の社会は裸の個人から発するパワーを失い、必ず衰退していくでしょう。

健全な人間は、国を愛するのではなく、何よりも人間を愛するのです。権力を使って時代錯誤の「愛国心」を強要しようとするのは、裸の個人を愛することのできない歪んだ思想の持ち主にのみ可能な所業です。

限りない愛と寛容の精神が必要なのは、裸の個人―あなたとわたしに対してです。くれぐれも間違えのないようにしたいと思います。

武田康弘 2005.3.3




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目次ー2

2005-03-01 | 目次(番号をクリック)
目次2
数字をクリックすると記事が出ます。

書評 

 1.書評『公共哲学とは何か』山脇直司著(ちくま新書)720円 
 2.書評『現象学は思考の原理である』.付・竹田青嗣さんからのメール.
 3.書評『新・サルトル講義』澤田直著(平凡社新書
4.日本の政治家の皆さんへ。エマニュエル・トッドをお読み下さい。
5.日本の伝統とは、子どもを可愛がることー「11の約束」
6.竹田青嗣著『言語的思考へ』ー世界的名著の解題的書評
7.本紹介ー「多神教と一神教」本村凌二著(岩波新書)
8.問題提起としての書評ー「公共哲学とはなんだろう」桂木隆夫著
9. 『哲学者の誕生』―ソクラテスをめぐる人々(納富信留著・ちくま新書)
10.冒険する頭(ちくま少年図書館)


メール・往復書簡

 1.著者ー山脇さんからのメール「公共哲学とは何か」 
 〔1と2は一緒にでます〕
 2.山脇さんへの返信ー「公共の哲学」をめぐって
 3.山脇さん(「公共哲学とは何か」ちくま新書の著者)の再返信とわたしの再再返信 
 〔この日の二つ目の記事です〕
 4.国会職員の方からのメール HNK問題/+私の考えの補足
 5.公開―リアルタイム・関係づくりー実存(論)と公共(学)
 6. 「新・サルトル講義」(平凡社新書)の澤田直さんより 
 〔この日の二つ目の記事です〕
 7.真剣な思想の交換ー山脇・武田 メール公開・第5弾
 8.マシア神父(スペイン)からのメッセージー「テロに打ち勝つ市民運動」
 9.速報!ヨーロッパ憲法・総選挙結果ースペイン (j.マシア)
10.嬉・ブログ内で成立!!「アイデンティティ」の踏み込んだ議論=「民知」
11. ☆とても大事な問題提起だと思います。-Lucien氏の実存と社会実感
12.櫻井よしこさんの変心? 『社会問題への取り組み』(Aさんとのメール)
13.東大病=思考力の衰退ーメール公開
14.東大病ー近代天皇制=ヒステリーの制度化
15. 「マジメ」とは狭い囚われの自我のことー自他を不幸にします。あなたは?
16.「東大病」の克服のためにーML・メール公開
17.うむ~「周り」は自己抑圧人!自分と世間ー(白樺ML公開)
18.メールー「東大病と公務員」 根源的不幸を断つのが「民知」=「恋知学」
19.危険な「自民党」の顔―愛国主義(国体思想)は国を滅ぼします。(メール公開)
20.「民知」の核心点、キーワード-質問へのお答え
21.エロース論 (公共哲学MLメール公開)
22. 「労働組合と天皇教」(Aさんからのメール)
23.中国問題、女の子、生の哲学、自他との闘い、教育の核心 (白樺メール公開)
24. 「靖国参拝おおいに結構」への批判的コメントから、「千人のソクラテス」へ。
25.お上が与える憲法=「自民党改憲案」=「大日本帝国憲法」への退行=頭の悪さの証明!
26.山脇さんとのメールでの思想対話ー「和」の精神について(付・ユネスコ報告)
27.「集団的自衛権」、愛国心、フェティシズム、ロマン、批判精神、人間愛、、、対話が完結
28.なぜ、「和」の精神が「同」の強要になってしまうのか? 「和」問答の続きです。
29.天皇制についての思い・考え=lucien さんの問題提起を受けて。
30.書き言葉に冷淡なのはなぜ? 活字が生きた現実の軽視を招きませんように。
31.戦争ゴッコー男の子の成長(メール対話)
32. 「超越」へのコメントー茨木のり子さんの詩「倚りかからず」
33.国?国側?についての有益なメール交換ー専門知と全体知
34.皇室の存在が「公」をつくるーへのコメント返し(ブログ・ミクシィ内)
35.靖国神社の思想は日本人にも到底受け入れられない
36.天皇問題への見事なコメントーもったいないので、記事にします。
37. チョムスキーとメディアー白樺ML
38.疲れたらすぐ休もう!ーネクロフィリアに陥らずにエロースの生を拓くために。






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