思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

至高の音楽=ベートーベン・ベルリオーズ・モーツアルト

2005-02-28 | 私の信条
私の好きな3人の作曲家。

生きることを支え、命のパワーを増大させる音楽は、ベートーベン。

想像力を刺激し、心に自由を生み、情熱をかき立てる音楽は、ベルリオーズ。

心身にリズムを与え、新鮮な空気のように頭を癒す音楽は、モーツアルト。



わたしが、困難や苦境-厳しい状況をエロース豊かな世界に変えてしまうことができるのは、彼らの音楽の力です。

わたしが、悲惨・陰鬱・停滞から無縁なのは、彼らの音楽を聴くことが出来るからです。

彼らの音楽は、どんな宗教や哲学よりも深く大きな啓示です。


いつも、いつも、感謝しています。


武田康弘 2005.2.28


2004年私のベストテンは、コチラ  (クリック)
音楽再生装置=オーディオは、コチラ (クリック)




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BMWミニ・クーパーの乗り味は?(趣味?)

2005-02-26 | 趣味

2004年10月30日、BMW・ミニクーパーが納車されてから4ヶ月、この小さな上質車(コンパクトカーのエポック・メーキング)の乗り味をご報告!しましょう。

まず、何より素晴らしいのは、ミニが他に比較しようのない「絶対的」な車であることです。ミニのコンセプトに賛同する人にとっては、これ以上の車は世界のどこにもありません。
 
日本車でいえばトヨタのヴィッツ・日産のマーチと同程度の大きさのボディーですが、車重は200キログラムも重く、ドアーは、まるで金庫の扉のように重厚です。一般道でスピードを出しても(数字は言えませんー逮捕!されそうですから・笑)ミシリともいわない高剛性ボディー。低重心でコンパクトなので、まるで弾丸のよう!!に走りますが、不思議なほど安心感があり快適、長時間ドライブでも疲れません。

ホールド感のよい、しっかりとしたシート(見た目も最高)も、安定感―安心感に貢献しています。ハンドルも程よい太さがあり、国産車よりもかなり重く粘りがあるために、車を運転しているのだという確かな実感があります。サスペンションも適度な硬さがあり、路面を感じて走るのは気持ちのよいものです。フワフワ柔らかい車では神経が鈍磨して危険です。

タイヤの位置が前後左右とも外側いっぱいなので、運動性に優れ、狭い場所での取り回しにストレスがありません。

内装部品・計器類も一つひとつが「もの」としての自立性を与えられていて、質感が高く、工芸品のような趣があり、それがまた運転の充実感をもたらします。

エンジンは1600cc、ノーマルでも最高速は200キロメートルです。私は電装系(低損失コード、イリジュウムプラグ、バッテリー補強コンデンサー)のみのチューンで、エンジン本体には手を加えていません。120馬力強でしょうが、動力性能は十分です。ただし、エンジンオイルは寿命を重視した超耐久性(なんとオイル交換は2万km!)のものなので、「走り」を極めるためにはそれなりのものと交換するとよいでしょう。私はオイル添加剤のみで済ませていますが。

特に走りを重視するマニアの方には、スーパーチャージャー付のクーパーSがお勧めです。1600ccの同じエンジンですが、170馬力です。BMW純正―ジョン・クーパー・ワークスをセットすれば210馬力になります。日本の高速道路では限界的な加速とスピードが得られると思います。

でも、そんなギラギラした話や数字的なことは、ミニに乗っているとどうでもよくなります。お洒落で、上質で楽しく、運転していると気分がよくなる車、それがミニです。
私のミニは新色で、紫に近い紺色―ブラック・アイ・パープル、屋根はホワイトです。

ミニは、惚れた人には、いつでも「絶対」でいてくれる車です。他の車はいりません。
ただし、二輪車は別です(笑)。「マジェスティー」がいいですよ。

BMWミニ讃」も見て下さい。


余談になりますが、ほんとうは、近場で天気のよい日ならば、自転車が最高ですね。永遠の乗り物は、人力のスマートな転換―タウンバイク・ロードサイクル・シティーサイクルでしょう。昨年、25年間乗ったサイクリング車が壊れたので買い換えましたが、安くて、普段の街乗りに最高!の自転車(ジャイアントのクロスバイク)に出会いました。お勧めです。




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☆私の原点 - 綿貫信一

2005-02-23 | 教育

小学5年から中学3年までの5年間、私は白樺教育館(旧称「我孫子児童教室」)に通っていました(高校、大学の時も不定期でタケセンを訪ね、学びました)。思えば今から20年以上も前のことです。

不思議なことに、今、当時のことを振り返ると、肝心の授業についての記憶があまりないのです(笑)。これは、テスト対策に暗記をしたり、秘技のようなものを教わるといった、特別なことが一切なかったからだと思います。

自分の頭で考えること、一言で言えばこの極めて当たり前のことをタケセンが自然にサポートしてくれる、というのが白樺教育館での授業でした。

自然で当たり前過ぎて、授業であんなことをした、こんなことをした、ということはあまり思い出せませんが、タケセンや友人達と共に過ごした白樺教育館での時間は、とても強い印象として心に残っています。

私にとって白樺教育館は、原点そのものです。

私は今環境の仕事をしていますが、教育館の恒例行事であるキャンプダイビングに行っていなければ、おそらく今とは違った仕事をしていたでしょう。また、今でも続いている写真やオーディオといった趣味も、教育館にあった写真暗室やカメラ、オーディオなどがきっかけになっています。

自分の頭で考えること、自然にふれあうこと、楽しい趣味を持つこと-これらは私自身の生を豊かなものにする上で必要かつ重要なことです。まさに白樺教育館は私にとっての原点です。

綿貫信一(36才)


綿貫君(36才)が、白樺教育館(旧称「我孫子児童教室」)体験談を書いてくれましたので、アップします。メールに、「白樺教育館は私の原点であり、体験談を書くことは、自己分析のような感覚です。」と書かれていたのには、感動!しました。感謝です。どうもありがとう。 武田康弘(52才)

「いつも教育館に行くのが楽しみです」宮内智子(小4) も読んで下さい。






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速報!ヨーロッパ憲法・総選挙結果ースペイン (j.マシア)

2005-02-22 | メール・往復書簡

武田様
以下のメールを公共哲学関係のメーリングリストに流しましたので、参考までに転送致します。
山脇直司

昨年3月のスペインのマドリードでのテロ事件に関して「テロに打ち勝つ平和運動」というメッセージを送ってくれたスペイン在住のマシア神父から、今回のスペインでの選挙に関して、以下のメッセージが届いたので、転送します。日本の今後の政治のあり方に対する皆さまの政治的想像力への刺激財として、各方面に転送して頂ければ幸いです。 山脇直司



 日本人の友達への通信 (2月21日零時) J.マシア 

ただいま、ヨーロッパ憲法に対する国民の意思表示を表す総選挙の結果が明らかにな り、総数(75、5%以上)賛成だったという良い知らせをみなさんと分かち合 いたい。

去年までの前政権は積極的ではなかったが、今回は現政権(社会党)も、野党(前政
権の人民党)も一緒になってヨーロッパの一致をつよめる路線を打ち出すことができてありがたかった。

スペインは人口的にも経済的にも大きな重みはないのに、去年イラクから引き上げ、 不正な侵略戦争に反対し、米国に向かって「否」と言えたのはドン.キホーテ的な精神の現れとでも言えるだろうか。今回ヨーロッパでヨーロッパ憲法を支持する国民意志表示をこのように表すのはスペインがはじめて。

とにかく、ユートピアの少ない世の中にいながら平和への夢を見続けたいものである。戦後六十年の日本がど うか平和憲法を守り続けて下さるように願いつつ... 

 J.マシア (マド リード、コミリャス大学にて)。


(改行、下線、字句の間違え訂正は、私・武田です。)

真剣な思想の交換ー山脇・武田 メール公開・第五弾ークリック







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2004年私の音楽体験ークラシックの10枚 (趣味?)

2005-02-21 | 趣味

完結しましたので、一括して、アップします。
パート1~4として4回に分けてアップしたものは、重複するので、削除しました。


2005/01/11のBlog

2004年クラシック私のベストテンーその1


まずは、アルゲリッチの新譜を2枚、
共に、ネコ科の動物のようなしなやかさで、刺激的なピアノです。

?ベートーベン・トリプルコンチェルト と シューマン・ピアノ協奏曲 指揮はラビィノビッチ、(EMIの輸入版 5 57773 2)
 両曲とも従来の演奏にみられた重さや粘りがなく、爽快でとても気持ちのよい演奏です。相変わらずアルゲリッチの技量の高さには唖然!とさせられます。

?プロコフィエフ「シンデレラ」 と ラベル「マ・メール・ロア」二台のピアノによる演奏です。もう一人のピアニストは、なんとミハエル・プレトニョフ。「シンデレラ」は、プレトニョフの編曲によるものです。
(グラモフォンの輸入版 00289 474 8172)
「シンデレラ」は実に面白い曲です。知的にも身体的にもエキサイト!
CD盤のデザインーシンデレラの靴も楽しい。

(2005.1.11)



2005/01/20のBlog

2004年新譜推薦のパート2です。

パート2でご紹介するのは、アルゲリッチに共鳴する知性と野性を併せ持ったフランスの女性ピアニストーグリモーの二枚です。

?このCDのジャケット冒頭には、演奏者からのメッセージが載っています。要約して一部をご紹介します。

はじめにーエレーヌ・グリモー

『絶望の大海に現れる未知なる希望=愛、愛はコミュケーションそのもの。音楽家はそのやりとりを始める者。肝心なのは演奏家でも音楽でもない。重要なのは聴衆。

どの人間にも知られざる別の人間が内在している。人は、変貌し新しい自分を見出さなければならない。己の方を向くのではなく、永遠に向かって歩いて行くのだ。

過去を懐かしむのではなく、創造的未来に答えを見出せばいい。普遍への歩み、相反する万物が和解に向かっていく動きを。それは規則正しく鼓動する私の「命」そのもの。』

エレーヌ・グリモーは、神秘的で、快活、奔放で、真面目、知的で愛らしい1969年生まれのフランスのピアニストです。
私は、ベートーベンの合唱幻想曲が好きで(「白樺教育館」落成記念の音楽)、このCDを買ったのですが、これは、通常のクラシック音楽のCDではなく、プログラム自体が強いメッセージ性をもっています。
野生のオオカミの保護活動に取り組むグリモーの精神を暗示するかのような選曲です。現代曲で始まり、ベートーベンの「テンペスト」、「合奏幻想曲」、現代作曲家ペルトの大規模は作品「クレド」。最後に付録でバッハの小品。類例のない大胆な選曲です。
ジャケットもグレモーの刺激的な言葉が満載です。とても只の「ピアニスト」には納まらない魅力あふれる人間がつくるアルバム=「クレド/エレーヌ・グリモー」(グラモフォンUCCG1184-2548円)をぜひお聴き下さい。バックは、サロネン指揮、スウェーデン放送オーケストラ・合唱団。

?もう一枚は、4週間ほど前に再発売になった1985年―グリモー15歳の時の初録音。清新、若さのみが可能にしたリリシズム、そしてパワー。ラフマニノフがコートを脱いでいます。このすばらしい「野生の調べ」は、1050円で買えます。買わないと損!
ラフマニノフ・ピアノソナタ2番、音の絵、他(DENON―COCO 70754)

(2005.1.20)



2005/02/03のBlog

ベストクラシックのパート3です。(順位はありません)

今回は、ニコラス・アーノンクール指揮のハイドンとバルトークです。

?一枚目は、バルトークの最高傑作・「弦楽器・打楽器とチェレスタのための音楽」と「管弦楽のためディヴェルティメント」です。

「弦・打・チェレスタ」の冒頭は、人の声=肉声に聴こえて、ギョッとします。それほどまでに完璧なバランスでオーケストラが鳴っているのです。

しかも学究の徒でもあるアーノンクールのすごいところは、ピエール・ブーレーズのように、分析的・楽曲解説的演奏に陥ることが全くないことです。豊かで伸びやか、表現力に満ち、音楽が自然に息づいています。

20世紀最高の作曲家のひとりーバルトークの内面の声を直に聴くような見事な演奏です。オーケストラは、ヨーロッパ室内管弦楽団、しなやかで柔らかな響きです。
(RCA、BVCC-34109、2548円)


?二枚目は、ハイドン晩年の傑作「天地創造」です。

旧約聖書とミルトンの「失楽園」を元にした台本(ヘンデルの依頼で書かれたもの)による宇宙創生の物語ですが、平明で美しく、楽しいオラトリオです。絵画的で、次々と場面が変わり、長さを感じさせません。

天王星の発見者として著名な音楽家のハーシュエルをイギリスに訪ね、彼の天文台で惑星などを見せてもらったことも作曲の動機になっているようですが、ハイドンの宇宙への開眼・感動が音楽に透明な快活さをもたらしているのかもしれません。

アーノンクールの指揮は、明確な理念の下、実にきめ細かく、オーケストラも声楽もほれぼれするような美しさです。録音のよさもあり、同曲のベストではないでしょうか。
(BMG、BVCD34016~17・二枚組 3780円)

二枚ともクラシック音楽界の変革者―ニコラス・アーノンクールの実力の高さ、表現者としての大きさ・普遍性を感じさせる極めて質の高い名演です。
(2005.2.3)



2005/02/20のBlog

2004年クラシック私のベストテンーパート4-完結!

?
ヒラリー・ハーンの弾くメンデルスゾーンとショスタコービッチのヴァイオリン協奏曲。ロマン主義のメンデルスゾーンではなく、20世紀の叙情性―ショスタコービッチに引き寄せられた新鮮な美しさー知的な官能性が頭脳を癒します。美しく才知溢れる若い女性―己の存在の価値を疑わない健康な心身が生み出す音楽は、深さはありませんが、大変気持ちのよいものです。(sony-SIGC16-CDとSACDのハイブリッド盤3150円、CDのみの盤は2520円)2003年の新譜です。


以下は、再発売盤です。
?
ベートーベンの交響曲の中でも、最もひとつひとつの音が、強く大きなエネルギーを持って鳴ることが要求されるのが3番「英雄」でしょう。40年間近く、第3の主要な演奏はみな聴きましたが、私にとってのベストは、いつもクレンペラー盤でした。愛想はありませんが、クレンペラーの呼吸―リズムのよさは無類の安定感と心地よさで聴く者を魅了します。2004年に再発売されたCDは、驚くほど音質が改善されていて、1959年の録音とはにわかには信じられません。余白の序曲「レオノーレ」3番も空前絶後の名演です。恐ろしいほどの力に満ちた音が完全に鳴り切っていて、心身にパワーが漲ります。
(EMI―TOCE13004-1300円)

?昨年亡くなった無冠の帝王―カルロス・クライバー、♪音符が命を持ち、いつも艶やかに輝いていた(だだし、たまにしか指揮棒を取らなかった)彼の名盤からは、1992年の踊りながら指揮をしているような、ウィーンフィルの「ニューイヤーコンサート」をどうぞ。SACD盤も出ました。1989年の演奏と共に恒例の「ニューイヤーコンサート」の頂点です。(sony-sicc334-1680円、SACDとのハイブリッド盤はsicc10008-2100円)

?
再発売の最後の推薦盤は、グルダの自由闊達なピアノです。ジャズ?のような自作の作品とモーツアルト、ドビッシー、ショパンなどを弾いた1990年のミュンヘンでのライブー『グルダ ノン・ストップ』です。12年前に買ったCDのジャケットに、私は、
happy-freedom-beautifulと書きました。うきうき楽しいピアノですが、一筋縄ではいかないのがグルダです。お聴き下さい。(sony-sicc335-1680円)

(以上、順位はありません)

(2005.2.20)





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♪いつも教育館に行くのが楽しみです 宮内智子(小4)

2005-02-17 | 教育

『白樺教育館』のソクラテス教室に通って2年8ヶ月になる宮内智子さん(小4)が、体験談を書いてくれました。


 《 いつも教育館に行くのが楽しみです 》 宮内智子


最初は、母に言われて白樺教育館に行っていました。

行ったばかりの時、算数が苦手でした。先生(武田先生)のところに来てから、気楽に

質問でき、やり方・問題の意味などよく分かるようになりました。

そして先生と話していると、話がいろんな方向に進むので、一つの事からいろんな事が

学べて、とっても楽しいです。

今では算数が得意な教科となっています。国語では漢字の読み書きや意味、物語を読

んでそこから分かることなどを学びます。学校での毎日の勉強が分かって、楽しくなりま

した。

私はバレエをやっていますが、バレエのDVDやバレエ音楽のCDを借りたりしていま

す。自分のきょう味があることを教育館では調べることが出来ます。本もたくさんあるの

で、いつも教育館に行くのが楽しみです。(以上、改行以外は原文のまま)



宮内智子さんは、小学2年生の6月から『白樺教育館』のソクラテス教室に通っています。
よい作文をありがとう。教師冥利!感謝です。 武田康弘



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「選ぶ」ー新たな哲学の核心 (受動から能動への転回) 哲学?

2005-02-14 | 恋知(哲学)

「選ぶ」とは、「惹きつけられた」という受動性を、能動性へと転化させる営みです。

あるもの(ひと)に惹かれるというのは、理屈ではありません。論理の力ではなく、直観の力によるのです。それゆえに、惹きつけられたもの(ひと)は、人間存在のありようを明かします。

ひるがえって、その己の直観を反省してみると、自分が何者であるかが見えてきます。あるもの(ひと)が、なぜ? どのように?自分を惹きつけたのかを知ることは、自己存在の了解なのです。

その惹きつけられたもの(ひと)を、「選ぶ」ことは、能動性への転換であり、責任の発生です。選ぶことは、その人の存在のありようが、受動性を超え、能動的な責任を伴って開示される出来事です。

惹きつけられるという受動性に固執した人間存在論は、ハイデガーに見るように、現状追随の人生(ナチ協力者)を招いてしまいます。彼に限らず、本質的に受動的でしかない大学の講壇「哲学」学者たちが、哲学にもたらした損害は、計り知れないもです。

惹きつけられたもの(ひと)の記述に留まらず、なぜ選んだのか?どのようにして選んだのか?という選びの記述にまで進むことが、能動的存在論とでも呼ぶべき新たな核心的な哲学の領域を開拓することになる、と私は考えています。
 
選びの記述―意識化は、己の存在の充実をもたらし、人格の統合をつくり出すゆえに、何よりも重要な人生の営みであるはずです。誰にでもできる、しかも、最も正当な哲学の営為、それが選びの記述=能動的存在論だというのが、私(武田)の哲学です。

受動性の哲学に終止符を打たなければ、哲学に未来はありません。

 
2005.2.14 武田康弘



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自分自身でいること (信条?)

2005-02-13 | 私の信条
自分自身でいることができれば、人間存在は自由でありながら安定を得ます。

自然体であるなら、命は、無理な輝きではなく、自然な輝きを放ちます。

自己存在の肯定は、心身に落ち着きを与えます。内的なエネルギーに満ちるからです。

外的(俗世間的)な価値観に縛られ、他者の評価にビクビクする神経症とは無縁な、充実した世界を生み出します。

自分が真に取り組みたいと思うことに、ためらわずに向かうことが可能になります。

私が私であることは、よい果実をたくさん実らせる最大の条件です。

何より求められるのは、己の内なる声を聴き、それに従うことです。

現代人病=脅迫神経症から解放されなければ、真に価値あることは何も出来ません。

自由と安定、エロース豊かな悦びは、自分自身でいることからしか生じないのです。


2005.2.13 武田康弘





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マシア神父(スペイン)からのメッセージ「テロに打ち勝つ市民運動」

2005-02-11 | メール・往復書簡

私とメールで思想的なやりとりをしている山脇さんのご友人ーマシア神父からのメッセージです。「真剣な思想の交換ーメール公開」もご覧下さい。


東京大学教員の山脇直司です。
私の友人であり長らく上智大学で教え、この2月からマドリードに帰ったマシア神父
から、スペインでの3.11以降の一連の動きについて日本語で感動的なメッセージ
を頂いたので、転送致します。
山脇直司


≪テロに打ち勝つ平和運動≫

J.マシア、S.J.(スペイン・コミリャス大学生命倫理研究所長)

3/11にスペイン人および多国籍社会のマドリードで生活している人々の心の中
には二つの実感がまざっていた。つまり、悲しい事件のつらさとすばらしい出来事の
刺激であった。悲しい事件というのは三台の列車同時多発テロであった。すばらしい
出来事というのは平和を求める動きの盛り上がりであった。

一週間以上経った今日は、アトチャ駅に何千本もの蝋燭が燃え続けている。その前に
一日中祈る人が集っている。壁や柱にも、蝋燭の合間の床にも手書きの札が一杯。そ
れを読むと胸が高鳴る。「われわれはみん兄弟」、「あなたがたを忘れない」、「国
籍の壁をやぶろう」、「戦争は解決ではない」、「あの列車の中に我々は皆のっ
ていた」等など...

そして、3/14の選挙の結果引き起こされた政権交代によって戦争反対と平和支持
の運動への明るい展望が開かれたスペインのこのごろである。

では、その出来事の実感が覚めないうちに以下の箇条書きをまとめることにした。平
和と和解の世の中を作っていくために日本の読者にとって参考になれば幸いである。

 ◇ ◇ ◇
 
1.<多国籍社会の被害者>

犠牲者の大部分は移民労働者と学生だった。モロッコ人もふくむ11国籍の人々で
あった。在留許可を持たない人もいると推測されたが、政府は被害者とその家族に在
留許可を与え、国籍がほしければそれも与えると発表して、かれらを安心させた。
「たとえ不法入国者だとしても、安心して病院にいらしてください」と述べた法務大
臣の対応の仕方が、注目された。マドリッド市長の言葉も印象的だった。「この事件
をきっかけにけっして移民やイスラム系の人々一般に対して差別してはいけません。
彼等はわれわれであって、われわれは彼等である」。と

2.< 教会はあくまでも平和を訴え、戦争に反対する>

爆発が起こった駅のそばにあるイエズス会の教会で、マドリードの枢機卿がミサを行
い、和解と平和を訴えた。多くの教会でも死者の冥福を祈り、平和を求める集いが行
われた。説教の中で次の訴えはよく聞こえた。「テロに打ち勝つのは爆弾や戦争でも
なければ、嘘や暴力でもない」。テロリストにも、犠牲者の中にも、モロッコ人がい
たが、モロッコで行われた犠牲者の葬儀では、カトリックの司教とイスラムのイマム
(導師)とユダヤ教のラビ(聖職者)が共に祈り、平和を訴えた。

3.<諸宗教の反省>

スペインのいくつかのイスラム教のモスクの責任者たちはテロ事件を断罪し、被害者
の冥福を祈った。「イスラムのテロ」という言い方をやめて、われわれは「アルカイ
ダのテロ」というべきであろう。イスラムの中でも自分達の伝統について反省をおこ
なっている宗教者もいれば、原理主義的にコランを解釈するものもいる。キリスト教
の中でも、福音的な平和をもとめる者もいれば、原理主義的に戦争を宗教で正当化し
ようとする者もいる。どの宗教でも自己反省が必要である。キリスト教は十字軍や宗
教裁判に対して反省と謝罪をしたように、諸宗教におけるその歴史にみられたそれな
りの暗いところを乗り越える必要がある。

4.<戦争は解決ではない>

イラクへの先制攻撃はテロにうちかつどころかそれを増やしたことがあまりにも明確
になった。チェチェニアに対するロシアの態度もパレスチナにたいするイスラエルの
攻撃もますます暴力の連鎖を招いている。ブッシュ大統領の側近で力を握っている
「軍人」と「企業」と「原理主義的なイデオロギ-」に反対することは世界的に現在
の最も緊急な課題である。

5.<「テロとの戦い」という言葉を避けて、「テロから市民を守り、暴力から解放
する」と言う方が適切である>

テロリストたちのことを「敵軍」とみなすよりも「犯罪人」とみなすべきである。そ
うした犯罪に対する国際的な対策は必要であることが認められる。しかし、その対策
はミサイル、戦争、爆撃などではなく、別な方法を取るべきである。例えば、テロリ
ストの金銭的源泉を制御したり、テロリストが育つ国の協力を得たり、警察の国際的
な協力を強めたりすることがあげられる。しかし、イラク戦争での過ちを繰り返すべ
きではない。その過ちというのは、国際法を無視したこと、倫理的に認められない先
制攻撃を正当化しようとしたこと、グアンタナモ基地で捕虜された人々の人権をまも
らず法治国家のルールをやぶったこと、全世界でテロを引き起こす原因を増やしたこ
と(9/11やバリ島やカサブランカやマドリッド等でテロによって死んだ人の数よ
りもアフガンやイラクで死んだ一般市民の数が多い)。

6.<一般市民こそ主人公>

3月13日の平和行進には、雨の中、205万人が参加した。若者、お年寄り、乳母
車に赤ちゃんを乗せた若い夫婦。プラカードには「平和」の言葉が目立った。テロ反
対の行進は、戦争反対と平和を求めるものでもあった。やはり、9.11の時とはさ
まざまな面で違いが見られる。主体は政治家ではな一般市民であった。

7.<政治家の操作と軍事の力よりも世論の声が強い>

当初から国際テロではないかという推測があったが、それを隠して、スペイン内部の
問題だと見せかけようとした
政府の対応は市民の反感をかった。一年前に戦争を支持した現政権への批判が高まっ
た。選挙の結果は、政権交代が実現した。

8.<恐怖の投票よりも勇気の投票だった>

テロの恐怖の中で選挙が行われれば、 与党・保守党が勝ち、テロへの対応が米国追
従になるかもしれないと予測した人々もいたが、結果は一般市民による平和への叫び
が勝った。決してテロリストに譲ったからではなく、テロと暴力と戦争などに打ち勝
ちたいからこそわれわれは政権交代をもとめたのである。

9.<われわれは皆被害>

10歳のこどもが記者から聞かれていた。「あの電車の中に学校の友だちがいました
か」。答えは、「殺された200人は僕の兄弟です」。なるほど、彼は被害者ととも
に痛みを感じ、自分も被害者だと感じていた。

10.<われわれは皆加害者>

霊安室で遺体を運んでいた職員は、心の痛みでたまらなくなって、「殺人者を殺せ」
と叫び出した。彼を慰めたのは被害者遺族であった。一部分しか残らなかった殺され
た子どもの遺体を前に、立っていたお父さんは、その職員を抱きながら言った。「お
ちついて下さい。私たちは復讐を求めない。戦争と憎しみはもうたくさんだ。平和、
平和を…殺された息子の死が無駄にならないよう … 私も怒っているけれど、暴力を
止めましょう。黙って祈ったほうがよい…」。放送されたこの言葉には、録音してい
た放送局員の泣き声が混じっていた。

11.<許し合うこころこそ暴力に打ち勝つ>

犠牲者遺族から、次のような手紙が届いた。「私は3.11で息子を殺されました。
痛みで胸が一杯ですが、私たちと共に泣いてくれた人々を通して、神の慈しみを感じ
させられました。みなさんにもお祈りをお願いしますが、それは息子のためではなく
(なぜなら、息子は天国にいるからです)、テロを実行した人々と、それを計画した
人々のために祈ってください。彼等がもたらした傷をいやすため、また、彼等を支配
している悪を、彼等自身がそれを乗り越えるために必要な愛を見出すことができるよ
うに、祈ってください。私たちは息子の遺体を前にして、暴力が世の中からなくなる
よう全力を尽くすことを誓いました。世界に暴力より愛を選ぶ人々が増えれば、いく
らテロが起きても、愛が打ち勝つと確信しています」

(マドリッドにて、2004年3月20日)。






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真剣な思想の交換ー山脇・武田 メール公開・第五弾

2005-02-09 | メール・往復書簡

「公共哲学とは何か」(ちくま新書)の著者―山脇直司さんと私のメール公開、第五弾です。 (山脇さんは、現在、公共哲学ネットワークで活躍。東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻教授。)

思想のやりとりが踏み込んだものになってきました。

現代の思想状況を肥やしに新しい土壌をつくり、そこからよき果実を実らせることができるか?まだ何とも言えませんが、努力を続けます。課題は大きいほど面白い!

山脇さんと私は、「書評」が縁で知り合い、面識はありません。
互いに真剣な「緊迫感のある言葉」をリアルタイムで公開します。



From: 白樺教育館ー武田康弘
To: yamawaki
Sent: Saturday, February 05, 2005 11:30 AM
Subject: 本

『公共哲学京都フォーラム・談論シリーズ1・二十一世紀の日本の教育課程』
拝受しました。

よい試みだと思います。
公共教育の新しい考え方が、議論の中から浮かび出るような編集です。

ただ、結論には基本的に賛同しますが、何か踏み込みが弱いな、とも感じます。

比喩的に言えば、この本に限らず、「公共哲学」が、「正法眼蔵」の道元とダブルのです。他力念仏の親鸞との違い、を感じます。
道元が親鸞に包み込まれるなら、真の普遍性ー広大な無限の領野が開けるのでは?と思いました。

そのためには、
思考する人たち自身の実存の問題ー自分はなぜ受験勉強をして有名大学に入ったのか? どんな実存的欲求がこういう研究に向かわせているのか? その己の思考と立場にどれだけの正当性があるのか?・・・・という根源的な問いに答えることだと思います。

けだし、哲学とは、学際的学問のことではなく、人生の意味と価値の探求だと思うからです。深く己自身の問題から出発することが、普遍性獲得への条件だ、というのが私の立場です。

ともあれ、お互いよき志を活かし、ふつうの多くの人々の深い納得をうるような「公共の哲学」のために、力を合わせて頑張っていければ、と思っています。

贈呈本、どうもありがとうございました。

武田康弘。
山脇直司様。




From: yamawaki
To: 白樺教育館ー武田康弘
Sent: Sunday, February 06, 2005 3:01 AM
Subject: Re: 本

武田康弘様
早速のお返事ありがとうございます。

公共教育の新しい考え方が、議論の中から浮かび出るような編集です。ただ、結論には基本的に賛同しますが、何か踏み込みが弱いな、とも感じます。

・そのとおりです。これはまだ市販以前の段階のものなので、出版する時は、再編集したいと思っています。

比喩的に言えば、この本に限らず、「公共哲学」が、「正法眼蔵」の道元とダブルのです。他力念仏の親鸞との違い、を感じます。道元が親鸞に包み込まれるなら、真の普遍性ー広大な無限の領野が開けるのでは?と思いました。

・うーーん。親鸞が道元を包み込むというようなことは、思いもつきませんでした。アウグスチヌスがトマス・アクィナスを包み込むようなものでしょうか。となると、恩恵論が自由意志論や存在=善論を止揚するということなのでしょうね。その考えには魅力を感じます。

そのためには、思考する人たち自身の実存の問題ー自分はなぜ受験勉強をして有名大学に入ったのか? どんな実存的欲求がこういう研究に向かわせているのか? その己の思考と立場にどれだけの正当性があるのか?・・・・という根源的な問いに答えることだと思います。

・この根源的な問いが成り立たないところに、今の日本社会の大いなる病があると思います。深刻ですね。

けだし、哲学とは、学際的学問のことではなく、人生の意味と価値の探求だと思うからです。深く己自身の問題から出発することが、普遍性獲得への条件だ、というのが私の立場です。

・実存主義の影響大の武田さんらしいお考えで、共鳴します。ただ、公共哲学を遂行したい私としては、それと同時に、制度論や政策論も「哲学として」考えたい。その意味で、少しヘーゲル的な立場を採りたいと思います。

ともあれ、お互いよき志を活かし、ふつうの多くの人々の深い納得をうるような「公共の哲学」のために、力を合わせて頑張っていければ、と思っています。

・はい。それで、私の友人のひとりにスペイン人のマシア神父がいます。彼は「大乗起信論」や和辻の「風土論」をスペイン語訳し、ウナムノやリクールに傾倒しているリベラルな天才肌の哲学者ですが、その彼が昨年3月のマドリッドでのテロ事件と政権交代に関して私宛に送ったメールが、あちこちのインターネットに掲載されて大きな反響を呼びました。生と死、宗教、公共哲学を考えるための感動的な内容なので、改めて添付致します。

山脇直司

〔マシア神父のメールは、長いので、別枠でご紹介します。ー武田〕




from:白樺教育館ー武田康弘
To: yamawaki
Sent: Sunday, February 06, 2005 1:42 PM
Subject: Re: 再返信です。


山脇様。
返信、ありがとうございます。

竹田青嗣さんが「群像」の2003年8月号と、2004年8月号の二回で書いた「ヘーゲル」論(かなりの分量)は、優れたヘーゲル読解だと直感しました。
専門の山脇さんはどう感じますでしょうか?お時間のある時にでも見て下さい。

竹田「ヘーゲル論」の二回目の結論部分を、書き写してみます。

『「自由」の自覚は、まず「享受」へのエロスとして芽生え、次に、「関係」の中での自己配慮および存在配慮のエロスとして展開してゆく。・・この進展は本質的な必然性を持っている。

ヘーゲルが近代社会からつかみだした最大の思想は、それが「自由の相互承認」という根本原理を持ち、それ以外の原理においては進展しえない、ということにあった。マルクスの最大の思想は、この原理が社会における人間関係の「正当性」に帰結しないならば、帰結するように原理を鍛えなおし、それによって社会の構造を変革しなければならない、ということである。

近代は、「自由」な人間的精神の国に向けてひとたび始発点を持ったが、それはまだその長い道程の途上にある。われわれがこの社会を人間的創造の活動の多様な相互承認ゲームへと推し進めていくことができれば、人間の「精神」は、いっそうその豊かな本質を発現するにちがいない。』


《もっと、もっと、大胆、自由に広がる想念(真に現実的な想念は、実現するまでは「異常」に映るもの)、従来の哲学の概念を超えた哲学が必要だ、と言うのが私の考えですが。ヘーゲルも単なる一通過点にすぎない》


只一人、という地点に徹底した親鸞が開いた(開いてしまった)他力の宇宙は、学識という小さな世界とは無関係に、万人にとって魅力的な世界です。実は、どんなに誠実で、広く深い「自力」も、「他力ー内ー自力」であることを了解すれば、具体的にして普遍的な世界、知もその一部として包み込む情感豊かなエロースの世界が開けるのでは、と思っています。

 
では、また。失礼します。 武田。




From: yamawaki
To:白樺教育館ー武田康弘
Sent: Sunday, February 06, 2005 6:43 PM
Subject: Re: 再返信です。


武田康弘様
お忙しい中、お返事ありがとうございます。

Blog「思索の日記」はちょくちょく覗いており、私もコミット無き批評に陥らないよう自戒していきたいと思います。

それで、竹田青嗣さんの本はほとんど読んだことがないのですが、下記の解釈は「私以上にヘーゲルに好意的な」優れたものだと思います。このような「人間ー社会」観の実現のためのは、武田さんが強調される哲学的エロースとロゴスの教育を教育現場に導入するしかないでしょうが、それが一体どのような戦略の基で行われたらよいか、ご示唆頂ければ幸いです。

というのも、私、昨年11月パリのユネスコ本部で開かれた哲学デーに参加したとき、高校レベルでの哲学オリンピックをしたらどうかという提案がなされたのですが、それを実施したら日本は惨敗するだろうなという思いを強くしているからです。

かつてサルトルらが講演したことのあるユネスコは、今年で60周年を迎え、現代のグローバルな危機に対処すべく、「批判的思索力」を「国際公共政策」に反映できるような哲学教育(これはまさに公共哲学のアジェンダですが)の推進を世界各国に呼びかけています。

それでユネスコ活動に積極的ににコミットし始めた私は、これを真剣に考えていかなければなりません。これからもこの点で、武田さんの思索から多くを学ばせてもらいたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。

山脇直司


第一、第二弾は、1月13日のブログ
第三弾は、1月15日の二本目のブログ
第四弾は、1月24日のブログ





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ブログ「思索の日記」の特質―白樺教育館ホームページの出窓

2005-02-08 | その他

私のこのブログ「思索の日記」は、「白樺教育館ホームページ」を補うものとして、昨年11月に開設したものです。
ブログは簡便ですが、いろいろ制約が多く、逆にホームページは多くの情報を重層的に載せられますが、手間暇がかかります。相互のよいところを生かし合い、立体化しようというのがねらいです。

もともと、背景が分からない不特定多数の方々へ、明瞭な意図をもった「思索の発信」をすることは、大変な困難を伴います。まったく逆転した伝達になってしまうこともあります。しかし、それを恐れて、あたりさわりのない言説や玉虫色の言説、現状肯定的な言説に終始するなら、思索の発信の意味がなくなります。

根源的で、かつ、短く、明確な文書は、強いメッセージ性を持ちますが、同時にひどい曲解にさらされることにもなります。その弊害を少しでも軽減するために、私の知人による「私のプロフィール」を載せるとともに、「白樺教育館」の思想と実践を文書と写真で見られるようにしてあります。

また、ブログ文書の内容を詰めると、多くの説明を省略せざるを得なくなりますので、その結論に至る根拠を示した文書とリンク(ブログな内のものと教育館ホームの双方に)させています。

しかし、ソクラテスが強く鋭く指摘(「パイドロス」の最後の十数ページ)したように、生きた対話で伝えるしかない思想というものを、文字のみで伝えようというのは、本来は困難な営みなのだという自覚は、しっかり持ち続けなければならないと思っています。

ともあれ、私の思索をよき養分として活かして頂いている方々に、これからも、面白い、役に立つ、刺激的な思索―現状変革に寄与する思索を発信していきます。元気のでる、状況を飲み込むような、パワー溢れる能動的な思想を!

武田康弘


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トラックバック批判ー他者の意見と自分の意見の区別をつけること

2005-02-07 | その他
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bondollさん、
あなたが、自民党の人が好きで、 私は、『自民党という巨大組織に群れ集まる人は、本質的に「ずるく」「いやらしい」人が多いな、』と感じていても、それは、それです。別にどうということはありませんが、

デタラメなことを言うのは謹んで下さい。

「日本でなにが良いかといえば、それはもう、宗教が無いこと。
信長はずいぶん派手好きで粗野なので、好みではないんだけど、彼のいいところは、徹底的に宗教兵士を退治したことかな。 
あのおかげで、ずいぶんと日本の宗教の発展は阻止されて、めでたしめでたし^^。 死んだ坊さんはお気の毒だけど兵隊だしね^^」


織田信長のおこなった大量殺戮の歴史を知らないとは驚き!ですね。
「根絶やし」といって、女性、赤ん坊も含めて、浄土真宗の村(自治区)全員を殺戮した、常軌を逸した残虐行為を、「宗教兵士を退治した」、とは何とも驚くべき暴言!です。宗教がない、というのも嘘ですが、今は触れないでおきます。

「宗教も政治も余興の一種としているのでとても落ち着いた国になっているw
政治や宗教に熱い国であるほど、ここ35年間で他国の人間を殺した数が多いしね. そんなものに熱心になるのが利に適わないのは、とてもよくわかる^^」


ここ35年、と限っているところがずいぶんと、戦略的ですね。
日本が、天皇制国家を確立した1890年代(明治20年代)以降の戦争―大量殺戮の歴史、殺戮者の人数は、どの宗教国家よりも多い(15年戦争だけで、2500万人以上)という厳しく悲しい歴史―その原因は、どこにあると考えているのですか?

もし、それが、「天皇教」という明治政府(山県有朋)がつくった擬似一神教にある(私の見解)とするならば、戦争責任や天皇制の問題をなし崩し的に回避し、国体思想の清算も行わず、今また民族の誇りを謳うという自民党の思想と行為には、当然、ノーということになるはずです。

民主制社会は、ふつうの多くの人々の関心と参加によって維持されるのです。批判、とりわけ長く政権を担っている政党に対する厳しい眼が失われれば、その社会には、さまざまな癒着が蔓延し、止水が腐るように活力を失っていきます。これは原理ですよ。

「社会は個人の集合ではあるけども、社会が出来てからは、そんな理屈は通用しない.今はもう社会がなくては個人は生きてゆけないようになってるし、それを求めたのも個人.」

そうであるなら、個人がその社会のありように対して責任を負う、ということになるはずですが、あなたの結論は、何ともひねれたニヒリスティツクなものになっています。「冗談」で書いているのですか?

「宗教やScreaming政治活動や、自由、尊厳なんかの空想ものは、SFでは「スペースオペラ」というジャンルになる^^
スペースオペラはね、子供向きです
大人になりましょう^^」


これが結論ですか? そうだとすると、「大人になるのは、よしましょう!」ということになりますね。

growing-young―若々しく年をとることー、これが私の信条です。よき子ども性を失わずに、大人になることですが、この場合の大人とは、「自分はこの社会の受動的な一人の人間だというのではなく、この社会をつくっている市民=公民=社会人だという自覚をもっている人」という意味です。

問題から逃げる人、「いやらしい人」、ソフィスティケートされた「ずるい人」になることではありませんよ。念のため。

私の思想・見解・感想・感じ方に対する疑問や批判は歓迎しますが、事のついでに揶揄したり、論点をずらして別の話にすり替え、それをトラックバックに書くという「騙し」の手法を使うことは、基本のルールに反する行為です。

大人なら、自他の区別くらいはつけて下さい。「えげつない」行為はやめましょう!

2005.2.7 武田康弘


 


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批評するのではなく、能動的に問題に取り組もう!(信条?)

2005-02-06 | 私の信条

「論理的な正しさ」それ自体を執拗に追い求め、世の書物の一つ一つを「正しさ」を基準に評定し、「正しさ競争」に邁進する。一生をそれで終える? そんな人生は、イヤですね。

優れた認識のための努力は大切です。透明な意識を得るための方法を探り、日々それを実践することは、欠かせません。澄んだ意識、シャープな分析、囚われのない認識を得ることには大きなエロースがあります。

しかし、それは、あくまで前提にすぎません。観想に終わったらアウトです。生の意欲は消えてしまいます。肝心なのは、何をするか?です。具体的な建築・創造へと向かうことです。

受動的な生に留まれば、だんだん元気がなくなり、エネルギーは枯渇していきます。他者の生き血を吸って生きる!人間になってしまいます。

私は、子育て・教育に取り組む、教育問題に取り組む、市政問題に取り組む、政治の改善の方策を考えることに取り組む、音づくりに取り組む、写真を撮ることに取り組む、建築に取り組む、新たな考えを生み出すことに取り組む・・・・さまざまなことに直接取り組みます。人に何を言われようと、人は人なのですから、自分が取り組みたいと思うことに逡巡なく、取り組みます。真っ直ぐに、愚直に、バカに徹して。

能動的、現実的に取り組むわけです。
批評家的に「問題を問題にする」のではありません。

教育の問題を問題にする、政治の問題を問題にする、というのは、批評を職業にしている人には意味のあることですが、主体的に生きている人―能動的・現実的に生きている人には、無意味な話です。

原理的な次元の問題ならば、「問題を問題にする」というこの二次的な態度―立場は成立しますが、現実問題への取り組みとしては、「問題を問題にする」という立場は成立しません。原理の次元を超えて、現実次元の話しまでも「批評家的な態度―見方」で物事を考え、取り組めば、真に意味あるものとしては取り組まないという取り組み、にしかなりません。

生業をもって現実的に生きている人間が、批評家のように二次的立場で現実問題を論じるような態度をもてば、まさに百害あって一利なしです。

主体的に生きることで、始めて真のエロースは降り来たるのです。
観想から能動へ、批評から行動へ、それが生きる!ことです。 共に!!

武田康弘





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自民党の体質ー憲法の理念問題 (トラックバック) 社会?

2005-02-04 | 社会思想
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[メタフィジカルな気分]とうとう憲法改正の波がうねり始めたようです」へのトラックバックです。 わたしは、作者の感想に共感します。


私は、自民党という巨大組織に群れ集まる人は、本質的に「ずるく」「いやらしい」人が多いな、と感じています。

自分自身としての内的な「よい」(真善美)を育てながら生きることが出来ない人は、自分の外部に絶対的な価値(彼らの場合は「国家」)を求めるしかありません。

不幸なことに、わが国には、個人を救済するよき宗教の力が弱いために、外部とは、イコール 世俗の権威、ということになってしまいます。(本来の浄土宗ー浄土真宗は、裸の個人の心を救済する宗教でしたが)

残念なことに、現在のわが国は、一党支配、一極集中、一校絶対、、、のヒステリーです。個人の豊かさー内面世界の大きさがありません。テレビを見ると、まさに、「顔は顕現する」!です。うむ、いやですね~。変えていきましょう!

一人一人の人間を尊重し、愛する社会ではありません。単一の価値観を「ソフト」に押し付けるシステム=「人間を幸福にしないシステム」(ウォルフレン)です。生きている人間ではなく、「国家」や「家系」という概念を愛する!という倒錯、それが国体思想(別名「天皇教」)です。

日本には宗教がない、というのは、半分ほんとうで、半分うそです。世俗を超越した新たな価値をつくる、という意味での宗教はありませんが、世俗の価値を絶対化してしまう「世俗教」という宗教は、深く人々を拘束していますから。

宗教とは意識しない宗教(世俗的な価値とは異なる価値が分からない「世俗絶対教」)なので、なんとも厄介です。批判者は、変な人・危険人物・非国民・・という扱いを受けてしまい、体制(世俗の価値)べったり=自民党や大きいものに寄り添う女々しい(男々しい?)人間がまともな社会人!?となってしまいます。

民主制社会成立の基本条件は、個人が批判精神をもった自立人であることですが、それとは逆の人間を育て、評価するようでは、お先真っ暗です。
私は、できることならば、何とか個人が自分の内部に「よき」ものを育てながら生きる=広義の哲学すること、を広げ、根付かせたいものだと思い、日々奮闘しています。

日本人や日本の伝統を、大きいものに寄り添う こずるい人間たち が、自分たちに都合のいいように勝手に解釈し、全国民に押し付けるなどということは、あってはならないことです。そんなことを許すなら、戦前、「天皇教」の洗脳教育を受け、その国家の戦争政策で亡くなった方々の霊は、永遠に浮かばれません。

ほんとうの愛国者ならば、問題点をしっかり見据え、根本的な解決の道を考えるはずです。明治政府がつくった神話を引きずりながら、「日本人とは?」を論じることしかできない自民党などの「日本主義者」は、それこそ国を滅ぼす人たちです。

必要なのは、よろこびの多い、個人を個人として尊重し・愛する社会の創出です。そのための原理を明示すること、世界の多くの人々の共感と感銘と尊敬をうる言葉と行為をつくり出すことです。決して、「国のため」でなく、今生きている「一人一人の人間のため」、を貫く政治思想を強く、高らかに、歌うことです。

私のブログ-ジャンル「社会思想」? ? ? ? ?は、そのためのささやかな一助です。今生きている人が幸福になることが、過去に生き、死んでいった人たちへの最大の報恩なのです。これは原理です。(2005.2.3 武田康弘)




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社会? 議員の仕事・前文(理念)

2005-02-02 | 社会思想
昨年9月より私が主宰する「哲学と市政の会」では、我孫子市議会改革の前提となる「議員の仕事とは何か?」について、討論してきました。

以下は、『議員の仕事』前文(理念)です。この理念に導かれての具体的な仕事の内容については、会のメンバーで、議会での所属会派が異なる二人の市議(とびら /
あびこオープン)が作成中です。



議員の仕事・前文(案) 武田康弘

民主制社会の本質は、? その社会の成員が例外なく法の下に平等であること、政治上の決定はすべて「法の支配」を受けること、いわゆる〈法治主義〉と、 ? 抑圧のない自由な議論と多数決によって政治上の問題を解決していく〈議論主義〉にあります。

したがって、その双方に関わる議会とは、民主制社会の屋台骨を支えるシステムだといえます。

行政(市役所)は、市民サービスのための具体的な仕事を行う機関ですが、議会は、行政のサービスが議会の承認した枠組みの中で、公正・公平・スムースに行われているかをチェックします。議会とは、市民社会の民主的な運営を保障するためのシステムなのです。

そのために議員は、特定の人物や団体の利益を図る言動を厳しく規制されています。議員に何よりも求められるのは、公正の精神です。議員の本来の仕事は、主権者である市民の代行者として、民主制社会を守り発展させていくことにあります。


直接民主主義と議員

民主主義という考え方は、自治政治の実践によって支えられています。

日本でも500年以上前から惣村(そうそん)、自治都市、一向宗(いっこうしゅう)自治区など全国各地で住民による自治政治が行われてきました。

明治政府以来の中央集権政治を、市民自治へと転換する必要が求められている今、市民の市政への直接参加は、重要な政治課題となっています。

そのため議員は、市民が行政に直接関与する仕組みを拡大・整備することに努めなくてはなりません。

同時にまた、市民自治を拡げていくための市民運動には積極的に参加し、「公共性をもつ市民の考え」をよく自分自身のものにすることが求められます。

議員は、「市民主権」をよりよく実現していくために、市民の代行者として、また市民の行政への参加を支える者として、重い責任を負っています。



「議員ー実存と仕事」も合わせてご覧下さい。





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