思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

目次ー1

2004-12-31 | 目次(番号をクリック)
数字をクリックすると記事が出ます。 

教育

1. ?キャンプ・ダイビングーほんものの教育 
2.心身全体による愛 (教育?)
3.教育? 必要なのは、おどけ・ふざけ・悪さです -教育の原理ー
4. 心と心が通うこと
5.教育? 「教育の原理」へのトラックバックへ。
6.教育? 「子育てやら、親の役目やら」へのトラックバック
7. ♪いつも教育館に行くのが楽しみです 宮内智子(小4)
8. ☆私の原点 - 綿貫信一
9.子どもたちの実存を育てよう!!「新・教育基本法案」の歪んだ思想との闘い?
10.開き直る!東京都教育委員会。 抑圧するのが教育ですか?
11.哲学クラスのご案内ー白樺教育館・・・「事実学」から「本質学」へ
12. 「なぜ?」が人間をつくるー実存の源泉-?意味を問う
14. 「なぜ?」が人間をつくるー実存の源泉ー?自芽の成長
15. 「なぜ?」が人間をつくるー実存の源泉?「ソクラテスの無知の知」
16.えほん版「教育基本法」--教育における「理念」とは?
17. 「教育基本法」第10条=政府や官僚や政治家などが教育を支配してはいけません。
18. 「なぜ?」が人間をつくるー実存の源泉? 生きる意味の消去?創造?
19.人間と教育の原理ー「実存は本質に先立つ」ー優れた人
20.完・「東大病」ー『ソクラテスの弁明』ー死刑を宣告された「発見」
21.さあ、子どもたちの式根島「キャンプ・ダイビング」の始まりだ!!
22. ☆子どもたちの式根島キャンプ・ダイビングー2005アルバム
23.三者三様の感想ー「民知ー恋知と公共哲学」ー感謝です。
24.集団的自衛権による戦争には一切協力しないことが「正しい」のです。皆で子どもたちに教えていきましょう
25.仮面の顔―「まじめ・おとなしい・勉強が出来る」―殺人犯罪の子どもたち(「素顔同盟」)
26.子どもと一緒に勉強することは楽しいことーそれ以上の教育はどこにもありません。
27.点数とお金?手抜きして成果を上げる?(掃除をしながら考えたこと)
28.サルやイヌの属性を示す人間!?/キムテチャン氏・来館
29.中国人の「理」ー韓国人の「気」-日本人の「場」
30. 「する」ことと、「してもらう」こと
31 個性をつくることはできませんー個性とは湧き出るものなのです。ーシリーズ「教育の原理」
32.ありのまま、そのままを受容し、愛することーそれ以上はない。
33.子育てー教育は、民主制の現場です。
34.ことばで教育はできませんー若い父母のみなさんへ
35.愛国心は強制が不可欠-国民は命を犠牲にして国家の連続性を守るべきー八木秀次(安倍首相のブレーン)
37.日本政府・文部科学省による「反・道徳教育」から子どもたちを守るために。
38.受験を目的に生きる!?教育の本質-1
39.体遊びー豊かな心ー優れた頭 教育の本質ー
40.若者に
41.近代社会原理への無知がもたらす暴言―「国の監査官が学校を評価する」安倍首相の「美しき国へ」
42.現代の知的退廃の原因は、東大病(パターン知)にあります。







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?『ミニ・インターナショナル』 ラトルとベルリンフィルの革命

2004-12-28 | 趣味
『MINI International』(BMWミニの車の定期PR誌・オリジナルCD付・A4版70ページ)の13号日本語版に、2001年からベルリンフィルの常任指揮者を務める英国人サイモン・ラトルの大胆な教育プロジェクトについてのページがあります。
以下に、要約してご紹介しましょう。

プロジェクトの名前は、 「未来―ベルリンフィル」
これは、「エリート文化」と「大衆文化」のカップリングの試みであり、人々が芸術の方に向かって来ないなら、芸術の方から人々に向かっていこうというものだ。音楽とは、人々をつなぎ、調和させる芸術であり、暇つぶしや贅沢などではない。人々の根源的なニーズであり、権利なのであるーというラトルの思想に基づいて進められている。ベルリン市内各地で、16ものプロジェクトが立ち上げられた。

 たとえばベルリンフィルのメンバーは、社会的に恵まれていない地域の小学校3ヶ所で現代作曲家―リゲティの作品を題材に、数週間にわたるワークショップを組織した。和声その他の楽理について学ぶという企画だ。
また、不良の少年少女たちを含む中等学校の生徒が、ラベルのバレエ作品「ダフニスとクロエ」をイギリスの振付師の新演出で五週間に渡って練習し、最後にラトル指揮のベルリンフィルと共に上演した。
 昨年は、バレエともクラシックとも無縁の250人の子どもたちがストラヴィンスキーの「春の祭典」を上演。公演には2000人以上が来場し、映画「リズム イズ イット」が創られた。
 今年はヘンデルのオラトリオ「ベルシャザールの饗宴」が主要なベルリン市内地区のプロジェクトになっている。すべての学校、市民グループや老人ホームなども参加し、大規模な公演を行う。

 このようにラトルとベルリンフィルは、市内にしっかりとしたネットワークを紡いできた。
 ラトルは語るー「人々が私たちのところにやってくることはありません。私たち自身が彼らのところにおもむき、私たちの夢を共有するように誘うのです。子どもたちのプロジェクトという種をまきました。今後それがどのように育っていくか分かりません。しかし、このプロジェクトが私たち皆の生き方を変えたということは、確信をもって言えます。」
 
うーん。なんと素晴らしいことか!「クラシックは、ハイカルチャーの世界に留まってはならない。学校へ、工場へと出向いていかなければいけない。」というビートルズと同郷のラトルの信念と行動には脱帽するしかない。感動!感激! 
2004.12.28(武田康弘)




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必要なのは、おどけ・ふざけ・悪さです (教育の原理)

2004-12-23 | 教育

 お母様、お父様、 教育とか躾(しつけ)と思って(妄想してー失礼!) 子どもの心を抑圧し、歪めてはいませんか?
 発育、発達には順番があります。子どもは、十分にふざけ、おどけ、ばかを言い、けんかをし、悪さをしなければ、けっしてまともな大人にはなりません。早く大人にしようとすれば、小利口のつまらない人間か、外見だけを整えた偽善者か、心の深部に不満を抱えた犯罪予備者にしかならないのです。

 高校生になり、二十歳になって「狂って」いる青少年は、幼少期―小学生までの時期に、十分にばかを言い、やれなかった(保護者―親によって抑圧された)子どもたちの姿です。

 自然な<順番>をわきまえない大人の見栄や身勝手が、子どもを狂わせるのです。生まれつき悪い子どもなどいません。いるのは、エゴと偽善の外面(そとづら)人間としての大人だけです。子どもの問題?などはないのです。あるのは、大人の問題だけです。大人が、偽善者としての生・輪郭線だけの生をやめなければ、よい子は育ちません(『よい』とは?を参照してください)。ただの「事実学」に依拠した文部官僚や文教族の思想ー方法は、エロースのない形骸としての人間しか生まないのです。意味の濃い悦びの多い人生を歩めない人間が増えれば、日本社会は元から腐っていきます。

 記号操作だけの脆弱な人間や、口先だけのヘリクツ人間は、現代日本の愚かな「紋切り型」教育の所産なのです。意味の追求―自分の頭で考える力は、受験主義のマニュアル教育では育ちません。型にはめられた良い子―大人にとって都合のいい子は、何も生みません。

 順を踏むこと、「飛ばし」の英才教育をしないこと。これは教育の原理です。子どもは自分でいろいろと試してみる時間的ー精神的余裕が持てないと、主体性を持った思考する人間にはなれないのです。子どもを「病気」か「ロボット」にするために必死で努力する!? もうそろそろこんな「狂って」いて「損」で「愚か」で「非現実的」な行為は、やめにしたいものです。

 ○△式や進学塾のシステムで教育された「優等生」=底力のない上っ面人間たちは、社会から輝き・悦び・活力を奪ってしまいます。自分自身の生活と心の内側に善・美がないからです。外にある価値しか分からない心の貧弱な人間は、「よきもの」全てを壊してしまうでしょう。

 生活=体験=直観に根差した意味をつかめるよき心と頭を育てる条件は、子どものありのままの心を受け入れ愛すること、急がずに順を踏むことです。「おどけ・ふざけ・悪さ」から一段づつ階段を上ることが必要です。「飛ばし」をすれば、必ず失敗します。これは教育の原理です。

(『躾と称して子供の心を抑圧していませんか?』を改定しました。) 武田康弘




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この世の至高の存在とは誰か? 哲学?

2004-12-16 | 恋知(哲学)

生まれながらにして尊称で呼ばれる人間、敬語を用いられる人間が存在するとしたら、その社会は差別社会であり、民主制社会とは呼べません。

この世で一番偉い人、至高の存在とは、誰でしょうか?
それは、あなたです。わたしです。
この世の中であなた(わたし)以上に価値あるものは存在しません。これが、よき・美しい民主制社会の原理です。
人間の社会で、これ以上はないという至高の存在は、裸の個人としての一人ひとりの人間です。この原理の明晰な自覚化が、民主制社会の哲学なのです。 

皇室―皇族とは、不十分―未発達な市民社会が生み出した過去の残滓です。必要なのは、段階を踏んで徐々に彼らを〈市民社会〉に溶け込ませていく努力です。市民的自由―人権をしっかりと保障し、同時に特別視をやめていかなければいけません。時間をかけて穏やかに、一般的な「旧家」がもつ位置へとシフトしていくことが必要です。(『皇族の人権と市民精神の涵養』を参照して下さい。)

天皇を元首にするという自民党の憲法改正案は、よき・美しい市民社会を実現しようと努力する私たちへの挑戦であり、決して容認することはできません。

繰り返します。生まれながらに特別な存在として遇される人間がいるような社会は、民主制社会ではありません。
この世で至高の存在とは、裸の個人としての〈あなた〉であり〈わたし〉です。それ以上に価値あるものは存在しません。これは哲学の絶対の原理なのです。

固く形式的で偽善に満ちた国家社会ではなく、柔らかく愉しみの多い伸びやかな市民社会をつくり出すのは、あなたとわたしです。

白樺教育館のホームページー「17.人が生きるということ/哲学の本質」には、民主制社会の人間の哲学を記しました。少しハードですが、よろしければ見て下さい。
 これは、同時に、偉がりや独りよがりの嫌らしい心を、そのおおもとー発生源から絶つ哲学でもあります。原理は、自我をわざと徹底して肯定ー完全燃焼させること。そうすることで、人間の意識ははじめて透明になり、公正と拡がり=普遍性への道が開けます。
 (2004,12.17)


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?市民から市民へ ・ リング and ウエーヴ 武田康弘

2004-12-13 | 社会思想
[関連したBlog] 

『市民―シチズンとは?』に対するワタヌキ氏のトラックバック、まことに的確だと思いました。

ほんものの教育―しっかり意味をつかめる頭と精神的な強さー自立の心を育てる教育―シチズンシップをもった市民を育てる教育をしなければ、民主制社会を維持し、発展させることは不可能です。個人的な「快」に留まる狭い精神では、個人も社会も共にエネルギーを失ってしまいます。

品位の低い即物主義―近視眼的な成果主義は、もとから人間を腐らせ、すべてを水泡に帰してしまうでしょう。いま何よりも必要なのは、大元、原理を知るー見据える営みです。

社会への複眼的でかつ批判的な視点をしっかりと持ち、育てることなしには、何事も始まりません。

自民党の天皇を元首にするという憲法改正案は、われわれの市民社会に対する挑戦―世界の良識に挑戦する犯罪行為です。こういう破廉恥な思想―国体思想をもとから絶たなければ、天皇主義で洗脳され、戦争で亡くなった方々の魂は永遠に救われません。( 『国のため?「国」とはなんでしょう』を参照して下さい )

市民から市民へ、市民=シチズンの良識のパワーで波を起こしましょう!輪を広げましょう!
『市民精神』の旗の下、エロース豊かな人間関係を広げていこうではありませんか。
21世紀に白樺運動ーリング and ウエーヴ
( 『エリート主義 VS 市民精神』を参照して下さい。)
2004.12.13






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?市民=シチズンとは? (社会思想の最重要概念) 武田康弘

2004-12-10 | 社会思想
以下は、2003年10月に発表した文書を,鎌ヶ谷市の『街づくりーかまがや』からの依頼により加筆^改定したものです。(2004年12月10日)
実際に新聞に掲載するものは、これを少し短くした短縮版の予定です。

市民とは、自分が一人の個人であると同時に公民=社会人であることを自覚した人のことです。

 ここで注意しなくてはいけないのは、〈公民=社会人〉と、〈国民〉とは違う概念だということです。パブリック=公(おおやけ)の、ということと、国籍や民族とは何の関係もありません。
 市民=公民=社会人とは、自分は社会の中の受動的な一人の人間だ、というのではなく、自分はこの社会をつくっている一員なのだ、という自覚をもっている人のことです。繰り返します。市民とは、国民 (the- nation)ではなく公民(a-citizen)のことです。

公(おおやけ)とは、自分が生きている〈場〉の事は自分たちで考え、決定していくという自由と責任によってつくられるものです。その地域で、その国で生活している様々に異なる人々がよりよく生きていくためにはどのように考え、行為したらよいか?を問うことが公であり、パブリシティーとは、市民的な共同意識―市民的な共同体のことです。念のために付け加えれば、官・役所が公なのではありません。官とは市民生活を下支えするサービス機関です。

国民ではなく市民=シチズンという概念は、自治政治=民主制を支えるものであり、21世紀にふさわしい言葉=考え方です。(もっともわが国では、すでに500年前から惣村、自治都市、一向宗自治区など多くの地域で自治政治が行われていましたが)

市民=公民になるためには、教育が必要です。個人が個人であると同時に公的意識をもった共同体の成員となるための基本は、家族という社会の最小単位のなかで自分の役割を考え、果たすところから始まります。

 21世紀における教育の柱は、国の人―国民の育成ではなく、精神的に自立した〈市民=公民=本物の社会人〉を育てることです。
もちろん、日本の教育では、「古事記」を中心とした日本の神話や様々な伝統の文化を子どもたちに学ばせることは大切なことです。しかし、それを山県有朋など明治の保守政治家が拵(こしら)えた「国家神道」(天皇を現人神(あらひとがみ)とする擬似的な一神教)の世界に呪縛されたまま教える、というのではあまりにお粗末です。 

また、歴史や伝統を学ぶことは、それに縛られるためではありません。伝統から新たな世界を発見し、伝統を現代に生かすという視点がなければ学ぶ意味がなくなります。そもそも歴史というものは、私たちがどのように生きたいか?という〈夢―未来への思い〉から絶えず再解釈されていくものなのですから。

 あまりに当然のことですが、ふつうの多くの人々は、日本という国家のために生きているわけではありませんし、よき日本人になることが人生の目的でもありません。一人一人が自分の中の「ほんとう」や「よい」や「美しい」を追求し、魅力ある人間になったとき、結果として日本人や日本社会を輝かせることにもなるのです。私たちの大多数は、日本語を使い、日本語で考え、日本の風土と文化の中で生きています。どう転んでも日本人である人間に、ことさら「日本」や「愛国」を強調する教育をしようとするのは、ひどく不自然で、気持ちの悪い話です。背後には、国家主義や天皇―皇室崇拝のアナクロニズムのイデオロギーがあるのでしょう。イマジネーションに乏しい心の貧しい人、一人の人間としての精神的自立に失敗した人は、必ず外部に超越的な価値をつくるものです。

明治政府の作った天皇制国家主義を容認するような思想は、日本人の個人としての力を弱めることで、日本社会の活力を奪ってしまうのです。ほんとうの愛国者とは、自国の問題点をよく知り、それを解決・克服していく人のことです。単純な日本万歳!の思想では、国が滅んでしまいます。国家主義者や保守主義者は、成熟した市民社会(そこでは国籍や民族ではなく、一人ひとりの人間性―個人の能力・魅力が問われるのです)を築き上げていくための最大の障害です。 
 
 ちゃんと考えることで、まともな思想を育てましょう。馬鹿げた日本主義では、日本人が世界の人々に敬愛される日は永遠にやってきません。自分たちだけにしか通用しない変な「常識」ではなく、なるほど、と納得できる普遍性のある常識=良識を育てることがこれからの課題です。

 必要なのは、よき日本人を育てる〈国民教育〉ではなく、よき市民=公民を育てる〈市民教育〉です。それが最良の意味での「国益」となるのです。自国の近代史も批判的に見ることのできる余裕のある人間=市民を育てることは、世界からの深い信頼を得ることで、日本社会の発展を約束します。市民=シチズンとしての私たち日本人がつくるのは、従来の「国民国家」の枠組みを超えた「市民国家」なのです。21世紀の世界に必要な品位の高い理念=『市民精神』を育成する相互教育の努力を皆で始めようではありませんか。

「市民が主役」とは、そういう意味です。

(2003年10月1日―2004年12月10日改定)







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?最もよい人=魅力的な人とは?

2004-12-08 | 私の信条
最もよい人=魅力的な人とは、自分を愛し、何よりも「自分の心」を大事に生きる人です。

ほんとうに人を愛することができるのは、自分を大事にする人だけだからです。


最も悪い人=魅力のない人とは、自分の気分や都合で人を振り回す「自分勝手」な人です。

こういう人は、自分の心の世界が貧弱なので、人を愛することができないからです。


 武田康弘


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わたしが愛する指揮者―オットー・クレンペラー 

2004-12-07 | 趣味

 私の最も好きな、かつ尊敬する指揮者=オットー・クレンペラーのつくる音楽を前にすると、解釈がどうの、音色がどうの、テンポがどうの・・・と いうような批評家的言説はすべて色を失う。

 まるで大自然そのもののような豊かさと美しさと厳しさをもつ音楽は、比較を絶しているからだ。
 音の存在感、響きの強さー大きさに圧倒され、全身が痺れてしまう。
 ひとつひとつの音は十全に鳴り切り、一音一音の固有のエネルギーは完全に解放されている。音楽は巨大でゆるぎない安定感をもち、透明な美しさが空間を満たす。
 インテンポで悠然としているが、呼吸の深さとリズムのよさは、他に例を見ない。
 クレンペラーの鳴らす音楽は、まさに人類の至宝である。

 クレンペラーにとって、他者の批評などは眼中にない。聴衆に媚を売ることも、受けをねらうことも一切ない。音楽だけが絶対なのだ。彼は、金力も権力もはるかに下に見下している。自足し微動だにしない。人並みはずれた愛と情熱の持ち主だが、テンポは一定で、客観性を失わない。

 しかし、不思議なものだ。生前は、イギリス以外では人気のなかったこの無愛想で玄人好みの「巨匠」が、死後30年以上たった今、全世界で高い評価と人気を得るようなっている。わたしが高校生の時から「時代に抗して」支持してきたクレンペラーの再評価は、何とも喜ばしい限りである。


 クレンペラーの指揮する音楽を聴いてみようと思う方にお勧めするレコード(CD)は、ありすぎて困りますが、彼が83歳の時に録音したマーラー交響曲9番の第4楽章は、ぜひ聴いて欲しいと思います。この形而上的な美に震撼しない人はいないでしょう。 東芝EMI―TOCE3235・36。
 ベートーベンのシンフォニーからという方は、まず3番(英雄)をどうぞ。今年6月に再発売されたCDは、音質が大幅に改善されて、1959年の録音とはとても信じられません。余白には、エネルギーの横溢する超絶の名演―「レオノーレ」序曲第3番も収められています。東芝EMI―TOCE13004-定価1300円!は、安すぎます。買わなければソン?
 暮です。第九をという方は、1957年のロンドンでのライブをぜひお聴き下さい。フィルハーモニーオーケストラとコーラス、ルードヴィッヒ、ホッターなど最高の布陣で演奏された純音楽的名演を堪能して下さい。CDは、テスタメント.SBT1177です。輸入盤ですが、容易に入手できます。

 ほんものの音楽―芸術の力の偉大さをぜひ共に味わいましょう。心と頭と体=全身が痺れます。

(2004年12月7日)






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?真空管アンプ - 再トラックバック タケセン

2004-12-06 | 趣味
[関連したBlog]

ワタヌキ氏へ。

真空管アンプの視聴記、ありがとう。

真空管出力の音は、柔らかで、しなやかで、豊かな余裕のある美しさです。音像に実在感があり、音楽が生き生きとして、強い存在感を持ちます。
電子が鉱物の中を通るのと真空の空間を通るのでは、何か違いがあるのでしょうか?
不思議です。(タケセン)


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知?無知? 意味了解の「反復」 (哲学?)

2004-12-05 | 恋知(哲学)

「知」が先立つと、豊かさ、暖かさ、安定感、穏やかさ、優しさ、大きさを失って、とんがった嫌な人間になってしまいます。
では、「無知」がいいのか? いや、無知では面白くありません。新しさや洗練された美しさ・よさがなければ、日々の生活は張りー輝きー色を失い、生活から喜びや楽しさは減じてしまいます。

わたしは、意識的な「知」の世界につく者でも、無意識的な「身体性」の世界につく者でもありません。何がほんとうに「よい」ことなのか?-心身全体に深い納得がやってくるような考え=生活世界での思考と実践から生まれる「よい」につくことが大切だと思っています。
 ー 『よい』(最大のイデア)とは? を参照して下さい。ー

個別の学問がもたらす部分合理性の世界の下に広がる広大な「人間性」の領野―生活世界の「よい」の基準は、五感全体による深い納得に基づくもので、その「よい」が物事を判断する最終根拠となるのです。これは認識論の原理です。では、生活―経験に根をもつほんとうの「よい」はどのようにしたら得られるのでしょうか?

「人間性」に応えるこの「よい」の世界は、わたしが思うところ、行為であれ思索であれ反復することが喜びとなるような世界です。キーワードは「反復」です。反復に耐えうるまでに鍛えられた「知」は、無意識―身体にまで届き、それと融合する知、部分合理性を超えた知であると言えるでしょう。

単に概念的な知―言葉上の知にとどまらず、深く心身に届く知とは、意味了解の反復によってつくられる世界です。機械的な反復ではなく、意味を追いながらの反復には、豊かで確かな喜びがあります。それが知の上滑りー知が先立つことー主知主義の厭らしさー言葉上の理屈の世界を超え、知と心身・魂と肉体の統合を生み出すのです。

意味了解の反復に耐える確かな内容をもった考えや行為とともに生きることは、人生最大の幸せです。不動の確信―自信が自ずとやってくるからです。偏頗(へんぱ)な学者や芸術家等には用はありません。わたしは、<直観=体験から得られるほんものの知―心身全体で生きる根のある生活―深く納得できるエロースあふれる人生>を歩みたいと思います。

武田康弘 2004年12月4日(12月6日改定)



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「行動の哲学」へのトラックバック (哲学?)

2004-12-04 | 恋知(哲学)
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「行動の哲学」へ (再トラックバックです。)

まったくワタヌキ氏のいう通りだ思います。

問題に立ち向かう心、積極的に状況に関る心、権力や金力の横暴に屈しない心、そして、なにより自分に負けない心を深く支えることの出来る頭ー「能動的思想」を生み出す哲学でなければ、哲学には存在理由がありません。

「認識論」はあくまで認識論なのであり、それ以上でも以下でもないのです。

戦時中は天皇主義者になった西田幾多郎など多数の学者は、哲学者なのでしょうか?
ナチ党に進んで入党しヒトラーに過激な進言をしたハイデガーは、哲学者なのでしょうか? 政治権力者や社会的ステータスを持つ人間に擦り寄り、保守主義を支える言説をはき、彼らの横暴を見過ごす人間を哲学者と呼べるのでしょうか?

それが哲学者ならば、哲学が泣きます。そんな程度のものにソクラテスは命をかけたのではありません。

「民知」としての本来の哲学-「能動的思想」をうみだすために、哲学的思索を共にしていきましょう。(2004.12.4 タケセン)

わたしの創った「民知」という言葉=概念については、白樺教育館ホームページをご覧下さい



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理念=「有用な物語」の喪失ー保守主義への堕落 (哲学?)

2004-12-02 | 恋知(哲学)

理念=「有用な物語」をつくれなければ、人は、時流―状況に従い生きるだけか、または、その時々の気分に従っていきるだけという底の浅い生き方しかできなくなります。

私がいつも言う「能動的思考」とは、「有用な物語」をつくろうとする意識の働きーありようのことですが、1970年代後半以降の思想界は、マルクス主義への批判、というより反発から、サルトルの能動的思考-アンガジュマンーを嫌い、フランスの浅薄な新思想の直輸入と共に、ハイデッガーの受動性の思想の正しさを強調してきました。(マルクス主義がダメなのは、それが「物語」であるからではなく、「物語」であることを自覚できず、「科学的―客観的に正しい」と思い込んだところにあるのです)

その結果、理念という言葉にアレルギー反応を起こし、現状追認―保守主義の言動が社会を覆うようになってしまったのです。理念という概念に反発する奇妙―奇怪な「思想家」が大量に発生しました。

確かに、認識論―人間の認識の原理的なありよう、その意味と価値を解明するためには、いったんは徹底した受動性を身に付けることが必要ですし、具体的な認識にしても己を空しくして意識を透明にしなければなりません。しかしそれは、具体的・現実的次元でよく生きるための理念=「有用な物語」をつくるための前提としての作業にすぎないのです。

前提にすぎないものを本体だと勘違いすれば、人は、有用な物語をつくる必要や価値を自覚できず、保守主義に陥り、エロースの少ない底の浅い生き方しかできなくなってしまいます。
軽い人間の大流行、クールなことがかっこいい!熱いことはダサい、というわけです。時流―状況に流されること、その時々の気分で動くことがあたかも「正しい」かのごとく錯覚する精神の腐敗が進んでしまいました。

情熱を失えば人間はおしまいなのです。有用な理念やロマンを生み出せなければ、生きる意味は消えてしいます。 (「憧れ・想う世界」および「情熱」を参照して下さい)

どのような社会がよいか?という問いには、「客観的な正しい答え」はありません。
学問的分析によって人権思想や、自由や平等の理念が出てくるのではなく、逆にそのような皆が納得できる「力のある理念」の上に法学や政治学や社会学などの学問は成立しているのです。近代民主制社会の理論的支柱―ルソーの「社会契約論」も理念=有用な物語なのであり、経験的な「事実学」ではありません。

人生や社会の問題は、能動的思考が生み出す理念=有用な物語がなければ解決しません。こんな当たり前のことを強調しなければならないほど、日本の知的退廃は進んでいます。

ほんらい問題とされるのは、理念の質です。その内容がどのようなものか?どの程度のものか?現実問題の解決を可能にし、新たな未来を切り開いていくパワーをもっているか否か?なのです。お飾り、枕詞にすぎない理念=理念ならざる理念しか存在しない現状を変えていかなければ、日本人と日本社会に未来はありません。
 
ひとりひとりが、柔らかく豊かな心ー人間味あふれる愉しい世界ー生き生きとしたのびやかな人生をつくるための理念=有用な物語をつくり出し、共有できるものは皆で共有しようではありませんか。  1、2、3、ダァー!



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BMWミニ・クーパー讃 (趣味?)

2004-12-01 | 趣味

BMWミニ・クーパー讃 武田康弘


ただの実用の車ではなく、ステータスとしての車でもない。
内的な悦びをもたらす車。自分にしっくり馴染む車。
ミニ・クーパーは、私にとっての best-of-all。
外観スタイルも、内装デザインも、仕上げも、塗装も、すべてgood。
遊び心と実用性がバランスし、高い品位とスポーツ性を兼ね備える。
私の趣味と用途と道路事情に照らして、最も優れた車。
私がときめきをもって接することの出来る唯一の車。
-それがミニ・クーパーだ。
イギリス経験論とドイツ合理論の幸福な結婚!
ジェントルで、エレガントで、スポーティー。


私の求める車は、
質感が上質―本物であること、存在感のあること、何より私の心身にぴったりフィットすること。細部までよく考え抜かれ、すみずみまで神経が行き届いていること。造りの丁寧なこと。優しく美しいこと。

私の嫌いな車は、
長大、豪華、いかにもステータス=無用の長物の大型車。
ばかばかしい高出力、資源の浪費、欲求不満=公道をレース場と勘違いしている過激なスポーツ車。
色気なし、面白みなし=真面目なだけの実用車。



BMW-MINIとは?

「新世代ミニ」は、BMW(ドイツ)の開発―設計陣が妥協を排して創りだした名車、コンパクトカーのエポックメーキングです。

《 MINI COOPER(英・ローパー社)というブランド・クラシックモダンというデザイン・FF(フロントエンジン・フロントドライヴ)という車体構造 》を現代に生かすというコンセプトの下につくられています。

「動く居室空間としての快適さ」ではなく、「自在に走り動く乗り物としてのよさ」を追求した車です。
室内は運転に集中し、運転を愉しむことのできる空間になっています。部屋―居室とは全く異なる空間イメージです。

車体は低重心設計で、前後―左右ともタイヤは外側いっぱいに置かれているため、安定性が高く、かつ俊敏です。また、タイヤカバーはボディー本体より外にあるので、擦ってもその部分のみの交換で済みます。

一つ一つの計器類は、「もの」としての自立性を与えられています。内装の質感、細部のデザインに至るまで実によく吟味されていて、工芸品のような美しさをもち、心身によく馴染みます。 ものづくりに対する自信と気迫がつくりだす美しさー本物感には、誰もが感銘を受けることでしょう。

他に例を見ない深みのある美しい塗装(8工程)が強い実在感を与えています。
魅力的なコンセプトが目に見えるまでに徹底されているため、質感が高く、小型車でありながらその存在感は圧倒的です。

ボディー剛性値は同クラスの車の2~3倍で、コンパクトなためにBMWの大型車をも凌ぐとさえ言われます。
また6つのエアバックと共に、CBC、ASC+T、DSCと呼ばれる車両安定化のコンピューター制御装置を複数もち、安全対策にも万全が期されています。 

製造は、イギリスのオックスフォード工場で行われています。3交代で日産600台ですが、発売から3年半、常に品薄状態で、注文から納車まで3ヶ月ほどかかります。ユーザーが選択する箇所が多いため、まったく同じMINIは10万台に1台しかないといわれます。(2004.12.1)

まとめ:
MINI・クーパーは、質感が高く、大変上質な車ですが、少しも威張ったところがなく、可愛く、しっとりとした美しさを持ちます。スタイルのよさも、機能や性能の追求からくるもので、デザインを優先さたせたワーゲンの「かぶとむし」とは、思想が異なります。低重心、高剛ボディーは優れた「走り」を実現するための必然なのです。高い趣味性は、実用と融合し、ステータスとしてのいやらしさは全くありません。(2005.3.12)

MINI・クーパーの乗り味は?も見て下さい。クリック




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