兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

悪者博徒の代表・飯岡助五郎

2024年06月05日 | 歴史
飯岡助五郎は天保水滸伝では悪者博徒の代表である。子供の頃、見た映画では、配役は笹川繁蔵を高田浩吉、平手造酒が鶴田浩二で、非常に恰好良く、飯岡助五郎は近衛十四郎であり、いかにも憎たらしかったことを覚えている。助五郎は関東取締出役の目明しの二足草鞋の博徒であり、繁蔵の縄張りを狙い、お上を後ろ盾としたため、判官びいきの世間に嫌われる博徒だったのだろう。

(博徒名) 飯岡助五郎   (本名) 石渡助五郎
(生没年) 寛政4年(1792年)~安政6年(1859年)4月14日 享年67歳 病死。

飯岡助五郎は、寛政4年、相模国公郷村山崎(現・神奈川県横須賀市三春町)で半農半漁の石渡助右衛門の長男として生まれる。15歳のとき、江戸相撲の友綱部屋の親方に見いだされて、名主・永島庄兵衛と相談の上、村の人別帖から抹消、無宿となって相撲部屋に入門する。

しかし、入門後1年も経たずに親方・友綱良助の急死により、力士になることを断念した。すでに無宿身分であったため、九十九里浜に流れて、上総国作田浜の網元・文五郎の漁夫となる。

網元・文五郎の死亡後は、下総国飯岡(現・千葉県旭市飯岡)へ地引網の出稼ぎに出る。そこで相撲時代の大力で地元ヤクザを叩きのめして名前を売り、銚子から飯岡まで勢力を張る地元博徒・五郎蔵の代貸となる。助五郎30歳のとき、五郎蔵から飯岡一帯の縄張りを譲り受け、正業である飯岡の網元の事業も成功して、名実とも房総半島での博徒の大親分になった。

その頃、利根川流域の笹川では、助五郎より15歳年下の笹川繁蔵が勢力を拡大していた。当初、助五郎と繁蔵は同じ相撲出身でもあり、関係は良好だった。しかし、助五郎が関東取締出役の道案内の岡っ引きとなり、二足草鞋を履くと、両者間の関係は険悪になり、子分同志の抗争も頻発した。

天保15年(1844年)、助五郎に関東取締出役から繁蔵捕縛の命令が下る。同年8月6日、助五郎は50数名で繁蔵襲撃に向かったが、事前に察知した繁蔵側の奇襲反撃に会い、笹川側の死者は用心棒平手造酒の唯ひとりに対して、飯岡側は半数を失う大敗北となり、助五郎は、面目を失った幕府から入牢という屈辱を味わう。

一方、繁蔵は、捕縛を逃れるため、奥州へ逃亡していたが、3年後の弘化4年7月4日に故郷に戻ったところを、助五郎の子分・堺屋与助、三浦屋孫次郎、成田甚蔵の3名に闇討ち、殺害された。親分を殺された繁蔵の子分の勢力富五郎は、飯岡一家に復讐を図る。

しかし、嘉永2年(1849年)、勢力富五郎は、助五郎一家の後ろ盾でもある関東取締出役に追い詰められて、東庄の金毘羅山で52日間、役人たちと抗争したのち、自殺した。翌年に一連の騒動が、江戸で宝井琴凌によって嘉永版「天保水滸伝」として評判になった。丁度そのとき、飯岡助五郎が58歳の時である。

それから9年後の67歳で、飯岡助五郎は病死する。晩年の助五郎は、近所の子供たちから「川端のおじいさん」と呼ばれ、慕われる好々爺だったという。助五郎が後世まで悪者博徒の汚名を着るのは笹川繁蔵を闇討ちしたことにある。

1995年発行、「飯岡助五郎正伝」の著者・伊藤實氏によれば、暗殺事件については助五郎は知らぬことであり、子分たちが、勝手に実行した後に繁蔵の首級を助五郎に届けた。驚いた助五郎は、繁蔵一家の報復を恐れ、飯岡の定慶寺に繁蔵の首を、秘密裏に葬り、死ぬまで香華を絶やさなかったという。
(参考)「アウトロー・近世遊侠列伝」高橋敏著・敬文社

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写真は飯岡助五郎の墓。戒名「発信院釈断流居士」現在の千葉県旭市飯岡 光台寺にある

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