雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

三島由紀夫の言葉 「明日死んでも……」

2024-05-28 06:30:00 | ことばのちから

                

三島由紀夫の言葉
 「明日死んでも……」1968年茨城大討論会

  「明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん。今日は死ぬかもしれないという気持ちだったら、どれだけ人間は全身的な表現を毎日繰り返せるかわからない」
 1968年、56年も前の話になるが、茨城大学の学友会が主催する学園祭に作家の三島由紀夫が
招へいされた。1968年11月16日のことだ。
1968年の世相
この年の1月には、東大医学部無期限ストに突入・東大紛争が始まり、
 2月には成田空港阻止・三里塚闘争集会等社会不安が募り始め、
 学生運動が活発になり、デモ行進が頻繁に行われ、学生間のイデオロギー対立に基ずく、
 暴力事件も頻繁に起こり、警官隊との衝突も頻繁に起こった。
  新進気鋭の小説家石原慎太郎は政治家としてのスタートを切り、
 青島幸雄、横山ノック等タレント議員が出現した。
  文学の世界でも、川端康成がノーベル文学賞を受賞し、
 三島、石原、大江の若い作家たちの間で、
 「文学で何ができるか」といった、文学の役割論が戦わされた。
 三人のうち最後まで文学のみちを維持したのは大江健三郎のみだった。
  年末には未解決現金強奪事件「三億円事件」も起きている。

楯の会設立

茨城大学文化祭の討論会(1968年11月16日)に三島が出席する少し前の同年10月5日、
三島は「楯の会」を設立している。
 設立目的: 日本の伝統と文化の死守
 活動内容: 左翼革命勢力の関節侵略に対する防備
  日本の文化と伝統を「剣」で死守する有志市民の戦士共同体として組織された。
                              (ウィキペディア参照)
 当時、三島は小説家として人気を博していたが、
論客として一橋大や早稲田大で学生との討論会に積極的に出席し、持論を語った。
「守るべきものは何か」「未来は存在するか」という論旨のもと、三島は、
「明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん」
と三島は熱く自分の人生に裏打ちされた「論」を、学生に向かって語り掛け、
学生の言うことにも真摯に耳を傾けた。
  (eiga.com)
(1969年5月13日、東京大学駒場キャンパス)
この討論会の一年半後に、三島は自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自決します。
茨城大討論会に三島を招いた学生・小野瀬さん
 小野瀬さんによれば、当時の学生運動の真っただ中、反政府・反体制を訴える組織もある中、
学友会は政治活動を持ち込まず、学内の正常化を求める立場だったと言う。
 三島は学生からの質問を正面から受け止め、答えた。3時間半があっという間に過ぎた。
それから二年余り経った1970年11月
25日、三島は陸上自衛隊の市谷駐屯地で自決した。
社会人として活躍していた小野瀬さんは、出張先でこのことを知り、
「こころの中に空白ができ、力が抜ける思いだった」と語る。
あの日、母校茨大の討論会で三島は何を我々に伝えたかったのか。
 小野瀬さんは、国際協力活動など、喜寿を迎えた今でも続けているという。
その背景には、あの日の三島の言葉がある。
明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん。……
 最後に三島の言葉に大きな影響を受けた小野瀬さんの生き方を紹介します。
「私は命ある限り、一生懸命に生き、その命を使って社会に貢献したい」。
情熱をかけて毎日を過ごせば、よりよい社会につながると信じる。
                               (朝日新聞2024.5.16記事を参照し構成・編集した)
マルチン・ルター(ドイツの宗教改革者)の言葉
 たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える

 生きる力を情熱に変えて、真摯に生きていこうとする心情は三島の言葉と通じるものがある。

「世界滅亡」の危機に晒されても、

希望を失わず決してブレることのない強靭な精神がこの言葉にはある。

いずれにしても、三島の言葉にもルターの言葉にも、

私たちを引き付けてやまない言葉に託した強い思いがある。

それは、「いま自分にできることを精一杯やっていこうという決意」が

この言葉の中に潜んでいるからに違いないと思う。

      (ことばのちから№15)                    (2024.05.07記)

 

 

 

 


 


 

 

 

 

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駅弁

2024-05-20 06:30:00 | つれづれに……

駅弁立ち売り
 なんとも懐かしい「駅弁立ち売り」の写真である。
 かつては、旅の風物詩として旅情を誘う風景であった。
 「ベントーベントー」と大きな売り声で、
 ホームに入った列車が停車している間の短い時間のうちに弁当を売り歩く「弁当屋さん」と
 それを買う客との間のやり取りが私は好きだった。
 発車の合図のベルがホームに流れ、「ゴトン」と汽車がゆっくり大きな車輪を回す。
 窓からお金を握りしめ、弁当屋を呼ぶ声に緊迫感がある。
 今と違って汽車はゆっくり発車するから、お金をとりそこなったとか、
 逆にお金は渡したが弁当をもらえずになんてアクシデントは起きなかったのだろう。
 懐かしい昭和のプラットホームの風景である。
 現代のようにファミレスがあり、コンビニやスーパーには多彩な弁当が並んでいる時代と違って、
 日常から非日常の世界へ旅立つ旅行者にとって、
 「立ち売り駅弁」は、何よりの楽しみであり、ごちそうだったように思う。

 (写真はウエブ朝日新聞より引用)
 駅弁立ち売りの懐かしいスタイルである。
  滋賀県米原駅の構内で販売を復活させた「井筒屋」の駅弁である。
  1889(明治22)年に駅弁を始めた老舗で、井筒屋は30年ほど前まで立ち売りをしていたが、
  担当者の引退と共になくなった。
  記事は、「担当者の引退」とともに駅弁立ち売りはなくなったと書いているが、
  それは、消滅の原因の一つで、汽車から電車に替わり窓が開かなくなったことや、
  食料特に外食産業の普及などにより、時代にそぐわなくなったための消滅だった。
  長距離鈍行列車も無くなり、高速電車は瞬く間に目的地に着いてしまう。
  駅ホームでの立ち売り駅弁が姿を消したのは、こうした効率や利便性を追求した結果の
  帰結だったのだろう。
  便利性と快適性を鉄道に求めた結果、
  私たちは「旅情」という大切な感性をどこかに置き去りにしてしまったのだ。
   井筒屋の駅弁の復活は、駅側からの「旅客の弁当ニーズにこたえられないか」という要望で、
  に応えたものらしいが、当面は常時販売ではなく、時期を決めての販売となるらしい。

   時代
の流れに消えていった「立ち売り駅弁」だが、
その始まりは、明治18(1885)年7月16日、日本鉄道から依頼を受けて「白木屋」という旅館が販売したのが最初らしい。
 この日に開業した日本鉄道宇都宮駅で販売された。
「おにぎり2個にたくあんが2切れ」を竹の皮に包んで販売価格は5銭だったと記録にあります。
 この時代天丼が4銭で食べられたというから、結構割高な値段だった。
それでも、当時は列車の運行本数が少なかったために、5銭は赤字覚悟の値段だったようです。
              ※日本鉄道とは、国有鉄道ではなく、日本発の民営鉄道で、明治39(1906)に国有化された。

 公式の記録がないので、駅弁の元祖争いは多くの説がある。もっとも宇都宮説も確かな証拠があるわけではない。例えば、群馬県・信越本線横川駅で荻野屋が明治18(1885)年に駅弁を販売している。
  
以下、インターネット駅弁資料館の記事を参照にまとめました。
 〇 大阪府・東海道本線大阪駅説
    明治10(1877)年に発売。
    (大阪駅の開業が1874年ですからひの3年後には駅弁が販売されたことになります)
 〇 兵庫県・東海道本線神戸駅説
   「神戸駅史の年譜」によると、明治10(1877)年7月に「立ち売り弁当販売開始」と書かれているそうで
   す。(神戸駅の開業が明治7年で、その3年後には立ち売りの駅弁が始まっていた)
 〇 東京都・上野駅東北本線上野駅説
    
明治16(1883)年7月28日を発売日としています。この日が上野駅の開業日にあたります。
   「上野停車  場構内 弁当料理 ふぢのや」とあり、上野停車場とあり、
   これが駅構内なのかプラットホームなのかは不明です。

 〇 群馬県・高崎線熊谷駅説
    明治16年7月28日、熊谷駅が開業した日に「駅の売店で寿司とパン」
   が売られた、とありますが、これを駅弁と称してよいものかどうか疑問が残ります。

 〇 福井県・北陸本線敦賀駅説
    明治17(1884)年に駅弁発売。敦賀駅は明治15年開業。明治17年には柳ケ瀬トンネルの開通により便利 
   性が増し、これを記念しての駅弁販売か。

 〇 群馬県・高崎線高崎駅説
    明治17(1884)年、上越線の開通に伴い、おにぎりの販売を始めたのが始まり。

 〇 栃木県・東北本線小山駅説
    明治18(1885)年、小山駅開設に伴い、駅前で売られていた「翁(おきな)寿司」が駅の中で売られるよ
   うになったのが始まり。

  おなじみの「幕の内弁当」の駅弁の登場は、1889(明治22)年姫路駅といわれています。
  メニューを紹介します。
   ・たいの塩焼き  ・伊達巻き   ・焼きかまぼこ  ・だし巻き卵 ・大豆こんぶ煮付け
   ・栗きんとん   ・ごぼう煮つけ ・少し甘みをつけて炊いたゆり根 ・薄味で煮つけたふき
   ・奈良漬と梅干し(香の物)    ・黒ごまをふった白飯
      豊富な品数ゆえに、おかずに目移りがして、口の中で味が分散され、「味わう」
      という行為が減殺されるような気がして、「大人のお子様ランチ」風の「幕の内弁当」は
      敬遠してしまいます。
       現役時代、出張や会議、研修会等が多くあり、たいがいは問答無用の「幕の内弁当」でした。
      だれの好みにも会い、クレームか起きる確率が少ないという理由で、主催者側が便利に選んでし
      まうということもあったのでしょう。そんなこともあって、
      私は、幕の内弁当が好みでなくなりました。
      この弁当は1890年代に開発販売されました。

      明治22(1889)には、小さな土瓶に入った温かいお茶が発売され、
      「汽車土瓶」と言われていました。一方、首から下げた弁当に加え、土瓶のお茶が加わり、
      「立ち売り駅弁」は結構な体力を要求される職業になりました。
  今でも生き残っている人気「駅弁」を紹介します。
   シウマイ弁当 …1954(昭和29)年
   峠の釜めし  …1958(昭和33)年
   ますのすし  …1912(明治45、大正元)年
   だるま弁当  …1960(昭和35)年
   いかめし   …1941(昭和16)年
    それぞれの地域の特徴と吟味した食材を取り入れた、「ご当地弁当」は、
    駅弁から道の駅、高速道路サービスエリア、デパートでの
   「駅弁大会」などで人気弁当となっています。

   駅弁が亡くなり、同時に旅の旅情も半減してしまった現在ですが、
   私は、汽車の座席で母と食べた駅弁がわすれられず、今でも駅弁を買い、
   駅の待合室などで食べることにこだわっとています。
    

(つれづれに…№116)   (2024.5.18記)

 



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「夫のうれしい涙」

2024-05-10 06:30:00 | つれづれに……

「夫のうれしい涙」

   うれしい時も、悲しい時も、涙は流れてくる。


   「人前では泣くな」
   「男は泣くな

   私の子ども時代には、そういわれて育った。
   「泣くな」、「泣くな」。
   どんな悲しいことがあっても、辛いことがあっても
   涙をこらえて泣かなかった。
   もっと正確に言えば、人前で泣かなかった。
   こらえた。

   小学低学年のころ、いじめにあった。
   不快感は残ったが、それだけのこと。
   しかし、同じようないじめが続けば、我慢ができなくなる。
   反撃に出る。
   相手を力でねじ伏せる。暴力によって相手を委縮させる。
   喧嘩は負けては意味がない。勝つために手段は選ばない。
   相手が泣いて悲鳴を上げるまで徹底的に痛める。
   それでいじめはなくなった。

   決して泣かない少年だった。

   それが崩れたのは、嫁いだ姉が亡くなった時だった。
   物言わぬ姉の顔を見て、こらえていた涙がとめどなく流れた。
   声は出さなかったが、こらえようにも感情の制御がつかず、
   大好きだった優しい姉の枕もとで涙を流し続けた。
   涙が枯れてその場を離れ、トイレにこもった。
   悲しみの緊張が狭いトイレの中で一気に崩れた。
   大きな声で泣き続けた。

   以来、人前で泣くことを忌避することはなくなった。
   母が亡くなり、長兄が亡くなり、長姉が亡くなったときも泣いた。

   悲しい時には泣いた。
   うれしい時には……
   泣くほどうれしいことに出会ったことがない。
   でも、「ありがとう」という言葉は、なんども言った。

   朝日新聞に「ひととき」という読者の投稿欄がある。
   65歳になる主婦が「夫のうれしい涙」というタイトルで投稿している。(4月1日記事)

   彼女の夫は、定年まで会社で勤め上げ、定年を迎えた後、小学校の用務員として7年を務めた。
   体もきつくなってきたため、今年の3月に退職の意向を学校へ伝えた。
   ところが年が明けた1月末、仕事中に倒れ、病に伏してしまった。
   退職を2か月後に控えた時期の予期せぬ出来事だった。
   夫が入院して2週間がたったころ、一通の宛名の書いてない茶色の封筒が届いた。
   「飼育委員」と小さな字が書かれていた。
   夫が務めていた小学校の飼育員の子どもたちからの手紙だった。
   夫の喜ぶ顔が見たいと、妻は自転車を走らせた。
   子どもたちが飼育しているモルモットの小屋を夫が倒れる前に、作ったことを妻は知っていた。
   以下、全文を掲載します。

   その小屋やモルモットの絵、それに飼育委員全員からの感謝の手紙が封筒に入っていた。
   結婚して36年。夫が私の前で涙を流したのは長男が亡くなったときと今回の2回。
   2度目はうれしい涙で本当に良かった。

  

   在職中の夫が退職間際に作ったモルモットの小屋が、
   飼育委員たちの心を動かし、感謝の手紙となった。

   第二の職場に選んだ小学校の用務員の仕事。7年勤めあげ、体もしんどくなってきて、
   職を辞したあと、妻との穏やかな第三の老後の人生をスタートさせる予定だった。
   それを、子どもたちの感謝の手紙は、
   病との戦いでスタートせざるを得なくなった男への
   何よりの励ましとなるプレゼントであった。
   飼育員たちの感謝の手紙を、入院先のベッドの上で何度も読み返しながら、
   泣いている夫を見つめる優しい妻の姿が浮かんでくる。
 
 (つれづれに…№115)       (2024.5.9記)

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能登半島災害を謳う

2024-05-04 06:30:00 | 人生を謳う

能登半島災害を謳う
   多くの人がこの連休を利用して故郷へ帰省し、道路も、鉄道も、飛行機もほぼ満席の状態であった。
  海外への脱出旅行で飛行便もほぼ満席。
  能登半島地震から5月1日で4カ月が過ぎた。
  大勢のボランティア希望者が県の特設サイト登録し、
  現地の希望に沿ってボランティアを派遣するシステムがととのっている。
  登録者はほぼ埋まっているが、受け入れ側の態勢整わずに、抑制気味だという。
  どこでどんなボランティアが必要なのかさえ、なかなか把握できない現状がある。

  4カ月過ぎた現在でも被災地では、インフラが十分でなく、
  ボランティアは500円のボランティア保険に加入し、食事や飲み物、
  マスクなどは各自で用意することになっている。
 (朝日新聞5/1掲載 珠洲市のボランティア・水野義則氏撮影)
  朝日歌壇から能登地震関係の短歌を集めてみた。

 地震きて元旦能登のすざましさ逃げて逃げてのアナウンスの声   ……平野 實
   
   地震から4カ月過ぎた今でも、あの日テレビ画面から流れる
   アナウンサーの幾分興奮気味の「津波が来ます。逃げてくだ
   さい」と繰り返される声が耳の奥に残っている。

                   
 おろおろと椿の幹につかまりておさまるを待つこの大地震に   ……太田千鶴子

   被災者の恐怖が「おろおろと椿の幹につかまりて」の言葉に
   集約されている。わたしは、東日本大震災の時、農村の集落
   を歩いていて、大木にしがみつきざわざわと葉擦れの音に危
   険を感じ道路に四肢をついて身の安全を図った経験がある。

                       
 すてさんの歌に知りたる朝市の通りの火らし夜空を焦がす   ……阿武順子
 輪島のひと山下すての歌にある震災前のしずかな暮らし    ……大谷トミ子

   「すてさん」とは、輪島の住人で、豊かな感性で朝市の様子な
   どを歌に詠み朝日歌壇の常連だった。テレビの映像は数件の家屋
   から火の手が上がっている映像が火災の初期の正体を映していた。
   様々な悪条件が初期消火を阻害し、大きな火災を生んでしまった。
   「能登は優しや土までも」と謳われた半島の街が一転して、瓦礫
   の山になってしまった。

 
 能登地震に募金しにゆく福島の復興途上の浪江町の吾は ……守岡和之

   福島県浪江町は放射能の汚染がひどく、一部期間困難地区が解除に
  なったが、にぎやかさを取り戻した地区はほんの一部に過ぎず、車で
  海岸に向かって走れば、瓦礫の山はなくなったものの、家の土台と門
  柱だけ残した家が当時の悲惨さを今に伝えている。海岸に立つ浪江小
  学校は津波にあったが、生徒は全員無事に近くの高台に避難した。
  現在は震災遺構として開放されている。
  被災した者同士、痛みを分け合う。
  震災から13年を経てなお、復興途上と言わざるを得ない福島の厳しい現実がある。

 時を経るごとに死者数増えてゆくニュース悲しき正月三日  ……戸沢大二郎
 「この下に人間が居ます」と張紙し倒壊家屋の側で待つ家族  ……山口正子 

   日ごと増えていく死者の数と、行方不明の数が、厳しい現実の姿を
  物語っている。いったい誰が瓦礫の下敷きになっているのだろう。
  母とか父とか特定の人ではなく、「人間」と書いたところに、作者の
  怒りや、悲しみ、悔しさが滲んでいて、心を打たれる。

(人生を謳う№25)          (2024.05.03記)

 

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読書案内 「霧笛」ルイ・ブラッドベリ著

2024-04-27 06:30:00 | 読書案内

読書案内(再掲・改訂) 「霧笛」ルイ・ブラッドベリ著

             短編集太陽の黄金の林檎より
               2012.9刊 ハヤカワ文庫SF

眠りから覚めた一億年の孤独

 孤独岬の灯台。

突端から2マイル(約3200メーター)離れた海上に70フィート(約21メーター)の高さにそそり立つ石造りの灯台。

 夜になれば、赤と白の光が点滅し船の安全を見守る。

霧の深い夜には霧でさえぎられた灯りを助けるように、霧笛が鳴り響く。

霧笛の音……。

〔……誰もいない家、葉の落ちた秋の樹木、南めざして鳴きながら飛んでいく渡り鳥にそっくりの音。十一月の風に似た音、硬い冷たい岸に打ち寄せる波に似た音、それを聞いた人の魂が忍び泣きするような音。遠くの町で聞けば、家の中にいることが幸運だったと感じられるような音。それを聞いた人は、永劫の悲しみと人生の短さを知る〕

 寂しくて孤独に震え、一度聴いたら忘れられない霧笛の音が、濃い霧に覆われた孤独岬の灯台から流れる。

 霧の出始める九月、霧の濃くなる十月と、霧笛は鳴りつづけ、やがて十一月の末、一年に一度、あいつが海のかなたからやってくる。深海の暗闇の眠りから目を覚まし、一族の中の最後の生き残りが、海面に姿をあらわす。

 全長九十から百フィート。

 長く細長い首を海面に突き出し、何かを探すように、霧笛の流れる霧で覆われた海面を灯台めざして泳いでくる。

 永い永い時間のかなたで絶滅してしまった恐竜。

 数億年の眠りから目覚めその霧笛に向かって、恐竜が鳴く、霧笛が響く…。

恐竜の鳴き声は、霧笛の音と見分けがつかないほど似ている。

孤独で、悲しく、寂しい鳴き声だ。

 霧笛が鳴る…恐竜が吠える…お互いが呼び合い、求め合うように呼応する。

 霧笛を仲間の呼び声と錯覚し、深海の深い眠りから目を覚まし、数億年待ち続けた仲間の呼び声に孤独な怪物は灯台に近づいてくる。

 その時、燈台守が霧笛のスイッチを切った。たった一匹で気の遠くなる時間にじっと耐え、決して帰らぬ仲間をただひたすら待たなければならなかった孤独。

 彼は霧笛の消えた灯台に突進していく……。

 喪われ二度と会えないものを待つ孤独が、読む者の心を切なくさせるSF短編である。

                           ハヤカワ文庫2006年2月刊 評価 ★★★★★

  仲間たちが死に絶え、たった一人生き残った恐竜。
  深い海の底に潜んで、気の遠くなるような永遠の時間を
  仲間の誰かが迎えに来ることをただひたすら待っている。
  孤独に絶えて……
  霧笛の音が、彼には仲間の呼んでいる声に聞こえる。
  
  失われていくものの孤独が、
  絶滅していく生物の無言の声が聞こえてくる。

 

  私たちは、この世に存在するものの希少なものに関心を寄せ、愛でようとする。
  先人たちが作った、縄文土器の造形を岡本太郎は、芸術だと称し、
  「芸術はバクハツだ」と言った。

  古代人たちのまだ文字を持たなかった時代に、
  創造した奇妙な形のものを『火焔土器』と名付けた。
  体内に満ち溢れ、ほとばしるエネルギーが、
  「炎」という形を「土器」写し取り、表現したのだろう。

  あるいは洪水を恐れて、高台の日当たりのよい場所に住んだ彼らにとって、
  「火」と「水」は大切な自然の恵みであったろう。
  同時に、時によっては災難をもたらす元凶でもあったことを彼らは肌で感じていたに違いない。
  生活に恵みをもたらす「水」や「火」はこうして土器の形へと発展していったのだろう。

  水の躍動を「水紋」で表現したのも、火の躍動を「炎」のイメージとして発展させたのも、
  生きるために必要な精神の具現化だったのだろう。
  
  形のもの 目に見えない存在
   私たちは異形のもの、例えば人魚、河童などにも興味をひかれ、
  各地に買ってそれらが存在した証として、それらのミイラなどが残っている。
  平安の貴族社会では、物の怪など正体不明のものがこの世を跋扈し、
  人を呪い殺し、感染症を流行らせた。
  雪女も民話の中に座敷童と共に人々の関心を集めている。
   現代ではツチノコ騒動があった。ネス湖のネッシーなど、まだみぬものへの興味は、
  憧れの的であり、恐れでもある。
   縄文人が造形した土器も、自然への恐れであり、自然への畏怖だったのかもしれない。
  
  ゴジラは放射能によって生まれた怪物であり、
  どのような理由があってか、文明が作り出したものを徹底的に破壊しつくす。
  科学が作り出した放射能の落とし子が、その文明を破壊しつくす姿に、
  どこか悲しいゴジラの文明への怒りが見えてくる。
  ハリウッド映画のキングコングにも、文明社会で生きていけないコングが美女に
  愛情を注ぐシーンに哀れさを感じる。

  灯台が発する霧笛を仲間の呼ぶ声と錯覚して、海底の底で眠る生き残りの恐竜が、
  孤独の長い時間から目覚め、現代によみがえる姿は、哀れで悲しい。

 (読書案内№191)         (2024.4.26記)
  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  
  



  

    

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今日のことば(5)  「嘘」(2) 「嘘のスパイラル」

2024-04-17 06:30:00 | 今日のことば

 今日のことば(5)  「嘘」(2)
  「嘘のスパイラル」 
「嘘の誘惑に対して」(前回続き)
嘘は一つでは終わりません。
嘘を隠すための嘘
嘘を正当化するための嘘をつくことに必ずなるからです。
そして、やがて何が本当の自分なのかわからなくなってしまう。
それほど寂しいことがあるでしょうか。

嘘をついても見抜かれなかったと
ほくそえんでいる人がいるなら
それは大変な錯覚というものです。
なぜなら
嘘をつくたびに
心は傷つき
魂はカルマを深くしているからです。
やがて
嘘をつくことにも慣れ
恐れもなく痛みもなく
嘘と同化してしまうのです。
         ※ カルマ(Carma)  人間が持つ心の奥に存在する「業」で、宿命とも訳され、「因果応報」という言葉がある。
                  善悪どちらのカルマも、それぞれの応報(結果)が導かれる。

  「
嘘」についての考察がわかりやすく、ていねいに述べられてきた。
このあと、著者が最も言いたかった言葉が続く。

人は誰でも
自分に嘘をつけない心を持っています。
良心――。
あるがままの事実を温かく見守の心
あらゆるものを大切にする心
あらゆる存在の前に謙虚に自分を置く心
嘘はこの良心の働きを奪い、眠らせてしまいます。
嘘は良心の窓を塗りこめてしまうのです。
愛の光
いのちの光
そして
生かされている事実を見失わせてしまうのです。

   「嘘依存症」という病気があるのなら、水原一平氏の行為は最も信頼に値する大谷翔平を裏切り、
  申し訳なかったと謝罪する気持ちではなく、不正が露見しても「口裏合わせ」を依頼して、
  この期に及んでなおも自己保身を図ろうとする行為は正に、「ギャンブル依存症」以前に、
  「嘘依存症」の最たるものと思わざるを得ません。

  「あるがままの事実を温かく見守の心」を喪失し、「あらゆる存在の前に謙虚に自分を置く心」
  を見失ってしまい、嘘によって「良心の窓を塗りこめてしま」った愚か者の末路を見るような思いです。
  
  私たちに一番大切なことは、
  「生かされている事実を」忘れない生き方ではないかと思う。/
  私たちは、生きているのではない、この世界に「生かされている」のだ。
  自然に生かされ、人と人の絆に生かされ、決して傲慢になってはいけない。
  
   日照りの時は涙を流し/寒さの夏はおろおろ歩き/
   みんなにでくのぼーと呼ばれ/
   褒められもせず/苦にもされず
   そういうものに/わたしは なりたい
                 (宮沢賢治・雨ニモ負ケズ)

       どこかで、宮沢賢治の生き方に繋がるような高橋佳子氏の言葉です。
  世間のしがらみの中でたくさんの余分と思われるものを背負いながら生きている私たちには
  なかなか難しい生き方かもしれませんが、そういうものにわたしはなりたい。

   (今日のことば№5)           (2024.04.16記)

 

 

 

 

 

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今日のことば(4)  「嘘」(1) 

2024-04-14 06:30:00 | 今日のことば

 今日のことば(4)  「嘘」(1)

 嘘の誘惑に対して

  何気なくついてしまう嘘。

   責められるのが嫌で
   馬鹿にされるのが嫌で
   除け者になるのが嫌で
   愛想をつかされるのが嫌で
   誉められたい一心で
   認められたい一心で
   立場を守りたい一心で
   つい、言ってしまう嘘
   ないものをあるがごとく、やったことをやらなかったごとく
   吹聴したり、隠したりする。
   恐怖心からの嘘
   虚栄心からの嘘
   投機心からの嘘
   嘘は、何気ないものであっても
   最も恐ろしい誘惑の一つでしょう。
        (新祈りのみち 至高の対話のために 高橋佳子)
著者・高橋佳子氏について私は知らない。
 引用した「ことば」は800ページ以上もある単行本のなかから引用した。
巻末のプロフィールによると、幼少のころより、人間は肉体だけでなく、目に見えないもう一人の自分――魂からなる存在であることを体験し、「人は何のために生まれてきたのか」「本当の生き方とはどのようなものか」という疑問探究へと誘われる。現在68歳。
 哲学者、宗教者、霊感の強い人などそのどれにも属するような雰囲気があるけれど、
一定の枠におさまり切れない人のように思う。

  何気なくついてしまう「嘘」は、人間の感性の「最も恐ろしい誘惑」の一つでしょう、
と読者に投げかける。窮地に陥ったとき、何とかそこから逃れたいという思いで「嘘」をつく。
一度ついた嘘に、これをカバーするためにまた嘘をつく。
嘘のスパイラルに陥ってしまえば、取り返しのつかない人生の破滅が待っている。
 嘘によって窮地を脱出したように思えても、嘘はもつれた糸をほぐすようにほころび、
心の傷口を大きくしてしまう。
 
多くの政治家が、嘘の轍(わだち)に足をとられ政治生命を絶たれるのを見てきた。
「記憶にございません」ということばに託された「嘘」。
「嘘をついているのではありません。記憶にないのです」という大ウソ。
人間として恥ずべき行為で政治姿勢を問われ、倫理観を問われているのに、
「記憶にない」と、人間として政治家として絶対に忘れてはならないことに記憶は味方しない。
都合の悪いことを忘却の彼方に追いやるほど、人間の心は便利にできていない。
 嘘をついてでも、
名誉と地位を守りたいと何ともあさましい人間の自己防衛本能だ。
「嘘の誘惑に負ければ、破滅が口を開けて待っている」


♪せめて一夜の夢と 泣いて泣き明かして 
 自分の言葉に嘘は つくまい人を裏切るまい
 生きてゆきたい 遠くで汽笛を聴きながら♪
              
(アリス 「遠くで汽笛を聴きながら」)

  嘘をついたら楽になれるのに、悔し涙かもしれない辛い涙を流して
若者は「嘘はつくまい 人を裏切るまい」と、青春の荒野をさまよう。
嘘の誘惑に負けない青春の旅立ちを謳う名曲である。

 (今日のことば№4)             (2024.3.13記)

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今日のことば(3)  「目」 観察眼と感性

2024-04-09 11:54:12 | 今日のことば

今日のことば(3)  「目」 観察眼と感性
   最近小説をあまり読まなくなった。
   特に小説部門においては、シリーズ物が多く、
   これはこれで気軽に読めて楽しい読書時間を過ごすことができるが、
   読んだ後何も残らない。
   出版事情にもよるのだろうが、人気作家のシリーズ物は当たりはずれがなく、
   読者が付きやすく、版を重ねる予測がつく。
   人気シリーズになれば、一番労力を使う「主人公」の人物設定など、
   シリーズで培養された人物像に基づいて話を進めることができ、
   ストーリーの筋立てに専念できるメリットがある。
   シリーズものは一定の水準を維持した「小説」を書き、量産もできるメリットがある。
   だが、安易にストーリーの面白さに重点が置かれ、
   深みのない物語が乱造される危険性も持っている。
   
   代わりにノンフィクションをよく読むようになった。
   伝記物もよく読む。随筆などもよく読んでいる。
   これらのジャンルは、執筆者の『感性と観察眼』が見事に結晶し、
   著作に当たっての書き手の本気度が示されるから、
   読者の私もぐいぐい著作の中に引き込まれていく。

   今日のことばは、向田邦子のエッセイ集、『父の詫び状』からとった。
   ありふれた日常生活を見つめる作者の目は、優しくどこかにユーモアを含んでいる。
   読んでいて疲れた気持ちが落ち着きをとり戻し、
   いつの間にか作者の著作の世界に引き込まれている自分に気づくことになる。

   エッセイ集『父の詫び状』から動物の「目」についての文章を紹介します。

    動物園へ行って、動物の目だけを見てくることがある。
               ライオンは人のいい目をしている。虎の方が、目つきは冷酷で腹黒そうだ。
    熊は図体にくらべて目が引っ込んで小さいせいか、陰険に見える。
    パンダから目のまわりの愛嬌のあるアイシャドウを差し引くと、ただの白熊になってしまう。
    ラクダはずるそうだし、象は、気のせいかインドのガンジー首相そっくりの思慮深そうな、
    しかし気の許せない老婦人といった目をしていた。
    キリンはほっそりした思春期の、はにかんしているのかもしれない。だ少女の目、
    牛は妙に諦めた目の色で口を動かしていたし、馬は人間の男そっくりの悲しい目であった。
    競走馬でただ走ることが宿命の馬と、はずれ馬券を細かく千切る男たちは、
    もしかしたら、同じ目をしているのかも知れない。

     このエッセイは、「魚の目は泪」という題で400字詰め原稿用紙で18枚に及ぶ長い内容だ。
    表題から連想するのは芭蕉の「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を連想させる。

    46歳の晩春、平均寿命50歳未満と言われた江戸時代芭蕉は、
    後に芭蕉庵と呼ばれる千住の住まいを他人に明け渡し、
    「前途三千里」の奥の細道の旅へと旅立ちます。
    芭蕉の門弟や友人、芭蕉を経済的に支えた杉山杉風など多くの門人、知人たちが見送りに来た。
    「春が過ぎてゆく千住の別れに、芭蕉を慕う人々が悲しんでいる。春の別れを惜しんで鳥が啼き、
    魚だって目に涙を浮かべている」。
     春の別れを惜しむ芭蕉の胸中にはきっと、生きては戻れぬかもしれない旅寝の健康への不安と、
    俳聖への路を極めたいという決意があったのだろう。
    
     期待を込めながら、冒頭に目を通す。
    「子供のころ、目刺しが嫌いだった」魚が嫌い、鰯が嫌いというのではない。魚の目を藁で突き通す
    ことが恐ろしかった。見ていると目の奥がジーンと痛くなって…

     芭蕉を期待していたのに、いきなり「目刺し」の目が嫌いだと、読者の度肝を抜く。
    で、話は次のように展開していく。
     網にかかったカタクチイワシは、日差しにさらして一気に煮干しにする。生きながらじりじりと陽
    に灼かれ死んでゆく、そう思ってよく見ると一匹一匹が苦しそうに、体をよじり、目を虚空に向けた
    無念の形相に見えてくる。
     さらに、魚の目についての記述が続く。
    目が気になりだすと、尾頭付きを食べるのが苦痛になってきた。
   …鯵や秋刀魚の一匹付けがいけない。母や祖母にくっついて魚屋に行く。
   見まいと思っても、つい目が魚の目に行ってしまう。どの魚も瞼もまつ毛もない。
   まん丸い黒目勝ちの目をしている。
   とれたては澄んだ水色をしているが、時間がたつにつれて、
   近所の中風病みのおじいさんの目のような、濁った目になる。
   焼いたり煮たりするとこれが真っ白になるんだ、と思うと悲しくて、
   なるべくお刺身や切り身にしてもらうように、それと
なく頼んだりただをこねたりする。
   
    次から次へと魚の目についての話が展開される。
   芭蕉さんの有名な句はいつ出て来るんだと思うころ、芭蕉さんが登場する。
   「行く春や鳥啼き魚は目に泪」
   芭蕉大先生には申し訳けないが、私は今でもこの句を純粋に干渉することができない。
   次の文章で作者はさりげなく、その理由を述懐する。塩が振られたざるに並べられた魚の目が、
   泣いたようにうるんでいるように見えるし、
   「鳥が啼く」を思い浮かべれば、祖母の飼っている十姉妹が日差しを浴びてさえずる場景を浮かべてし
   
まう。
    ここまで話を進めるのにまだ、全体の五分の一しか進んでいない。
   漁師に打たれて木の枝から落ちて死ぬ直前の猿の目の話になり、
   日本人形の目の話になり、鳥の目の左右上下に動く目が嫌だと言い、猫の目の観察になる。
   最後はある男の足裏に出来た「ウオの目」の話で落をつける。
   最後の二行は次のようにつづられている。
     行く春や鳥啼き魚は目に泪 
    この人にとって、俳聖芭蕉のもののあわれは、わが足元なのである。 
  向田邦子は話の展開がうまい。言葉が紙の上で踊るように生き生きとしている。
  鋭い観察眼と感性が読者を捉えて離さない。
  芭蕉の句が、魚の目の話になり、動物の目の話に進み、最後の落は足裏に出来た「ウオの目」
  で落ちをつける。ウイットにとんだ筋運びは、読者を飽きさせない。

   
映画雑誌編集記者を経て放送作家となった作品には「だいこんの花」「七人の孫」「寺内貫太郎一家」
  「阿修羅のごとく」などいずれも庶民の暮らしを描いて人気ドラマになった。
  1956年8月航空機事故で急逝。才能の花開きを予感させる作家の惜しまれる死だった。
  享年51歳。     
                              (2,024.4.9記)

 

 

 

 

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能登半島地震 (13) 二次避難所から一次避難所へ戻る

2024-04-06 06:30:00 | ことばのちから

「やっぱり地元で…」戻る一次避難所 朝日新聞2024.03.06

ホテルなどの二次避難所から、
「一次避難所」に戻りたいと希望する被災者が増えている。(リード文より抜粋)


 能登半島地震の被災地では、一次避難所の小学校の空き教室や体育館、
公民館などに避難した人などのうち、高齢者や病気療養中の患者、
プライバシーに制限のある集団生活を送るのが難しい被災者を中心に、
二次避難所としてホテルなどの比較的生活環境の落ち着ける場所を、
希望者に提供してきた。しかし……

住めば都にはならなかった

 珠洲市のMさん(85歳)は、被災後金沢市の姉の元に身を寄せた。
しかし、2月末には一次避難所の小学校に戻ってしまった。

 「金沢は水もトイレも使えるし、あったかい寝床もあった。
 でも、知り合いも話し相手もいない。珠洲なら知った人ばかりだもの」

 珠洲市は人口減少により、過疎の進行が進む町である。
若い人たちは珠洲の町を出ていき、高齢者比率が高い町になってしまった。
でも、そのような街だからこそ、人と人とのつながりが深く、
近所づきあいの中に、助け合いの精神が色濃く残っている。
残った者同士、幼なじみの気心の知れた仲間たちの集まる地域だった。

 震災の被災者になり一次避難所に生活の場を移したが、
集団生活になじめず、金沢の姉の家に移った。
住み慣れた珠洲と違って、Mさんにとって見慣れぬ風景の街で暮らすことは、
一歩外に出れば、知らない人ばかりのご近所さんに、故郷珠洲の風景が思い出される。
「帰りたい。珠洲の街に」。
望郷の思いに耐えがたく、Mは故郷珠洲に帰ってきた。

 被災した家に住むことはできないから、
また一次避難所での集団生活が始まった。
ここの生活には、規則があり、気疲れもする。
だが、ここには震災で激変してしまった故郷の風景だが、
それでも生活の匂いがあり、この土地に根っこを下ろした安心感があった。

 避難所での朝食が終わると、傾いた自宅に戻り、
瓦礫の片付けや、畑の野菜の世話をする。
自宅は傾いてしまったけれど、やらなければならない仕事があり、
それが何より生活の張りになり、生きがい対策にもなる。

 「明日の自分もわからない。でも、わたしは珠洲にいたい」

珠洲市のTさん(69歳)は、親族のいる大阪府に避難した。
3月上旬には、大谷小中学校の体育館の一次避難所に戻ってきた。
自宅の荷物整理や罹災証明の再申請が目的だという。

「近所では家が倒壊し、亡くなった人もいた。
 そんな中で、大阪での不自由ない暮らしはうしろめたい」

珠洲市長
は、二次避難所から一次避難所へ戻ってくる被災者を、
「お戻りいただけるのはありがたい」
と収容人数に比較的余裕のある一次避難所への斡旋をしている。

石川県輪島市の場合
 震災から3カ月経過して、最も多い時で167ヵ所あった一次避難所は、今50ヵ所に減少している。
4月からは倒壊家屋などの公費解体の手続きが始まる。
 市職員の避難所への通しが付き、
解体作業に関連する職務に職員を配置する段階にきている。
「そこでまた一次避難所に人が増えると対応が必要になる。
戻りたいという人を受け入れたらきりがない。心苦しいが断るしかない」
(担当職員)
 対応職員の不足がまねく、苦渋の選択なのだろう。
だが、住み慣れた故郷の避難所に戻りたいという被災者を戻ってくるな、
と言わないまでも、対応職員が不足しているから一次避難所に戻るのはご遠慮願いたい、
という方針がよいのかどうか疑問は残る。

一次避難所になっているある公民館の現状
「輪島に戻りたい」
「家が倒れて、帰るところがない」
 いずれも、切実な問題だ。
 一次避難所から、二次避難所に移ったものの故郷から離れ、
 知らない人達の中で暮らすのに疲れ、故郷帰還の願望が高まる。
「家が倒れて、帰るところがない」という表現のなかにも、
二次避難所に移った生活がうまくいかなかったための
故郷願望の切実な願いがあるに違いない。

県はどう考えているか
 県の担当者は、「(二次避難から一次避難への逆流を)断る想定はしていなかった」
と想定外であったことを明かす。
一次避難の運営は各市町村の対応で、判断の統一は難しい。
従って、避難所の開設に期限などの決まりはなく、
仮設住宅の促進など支援を急ぐ必要があると、歯切れの悪い回答が返ってくる。

遠くの避難所、能登特有の地形
 県はいち早くホテルや旅館などを二次避難所として確保した。
能登半島の被災地では、
二次避難所とするみなし仮設として活用できる住宅が少ないという事情もあり、
二次避難所は県内の別の自治体や県外が採用された。
住み慣れた土地を離れ、見知らぬ人たちとの生活に疲れ、
望郷の念に駆られた人も少なくはない。
「一次避難所に戻るということを念頭に置いた避難、
生活再建の計画づくりを進めることが重要」(京都大学教授・矢守克也 防災心理学)
と指摘する。
 能登半島の復興は、日本の半島や離島などの地域づくりに関わる重要な課題を示している。
地震災害の教訓を、今後検討されるであろう「創造的復興プラン」に反映し、未来への教訓としたい。


            (ことばのちから№13)              (2024.4.5記)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




                     









 

 

被災の奥能登4市町、人口減に拍車 前年比3倍超
産経新聞2024.4.1

支援活動で福岡県から訪れ、「輪島朝市」付近で手を合わせる男性=1日午後1時53分、石川県輪島市(渡辺恭晃撮影)

市町別の減少数は珠洲市が227人で前年同時期(24人)の9・46倍に達した。輪島市336人(前年同時期150人)、能登町129人(同20人)、穴水町71人(同28人)だった。

2月の転出者数は珠洲市が115人で前年(11人)の10・45倍となった。輪島市は239人(前年132人)で、能登町79人(同15人)、穴水町55人(同16人)。県人口は前月比0・15%減の110万4587人。

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喫煙のけむり

2024-03-31 06:30:00 | つれづれに……

煙草の煙

【1966(昭和41)年11月11日 朝日新聞朝刊掲載

   何やら偉そうな訪問客をサザエさんが迎え入れる。
  サザエさんの接待にも終始無言で、あろうことかテーブルに置いた灰皿には目もくれず、
  床の上に灰をまき散らす。怒り心頭、サザエさんは客がかぶってきた帽子を灰皿代わりに床に置いて、
  姿を消す。傍若無人な喫煙者に対するささやかで、しかも怒りの鉄槌だったのでしょう。

  昭和24(1949)~25年ごろだったと思う。東映の時代劇・笛吹童子だったり、紅孔雀が劇場をにぎわし、
 嵐寛寿郎の鞍馬天狗などが一世を風靡していた。
 小学生が一人で映画を見に行くことは禁じられていたが、
 わたしは一週間の小遣いをためて日曜日にはいつも映画を見に行っていた。
  当時は3本立で、映画が終わるとブザーがなり、場内が明るくなる。
 小学生が一人で映画を見に行くのはご法度だった。
 わたしは明るくなると座席の下に身を隠し次の映画が始まり、
 場内が暗くなるまで背中を丸めてうずくまっていた。

  懐かしい思い出だが、場内はたばこの煙で目が痛くなり、涙が出てくる。
 のども痛く、大好きな映画を隠れてみることの罪悪感と、
 たばこの煙に悩まされていたことを鮮烈に覚えている。
 
 漫画が掲載され1966(昭和41)年の成人男性の喫煙率は、
約84%で喫煙率が最も高かった年だそうです。

1971(昭和46)には五木ひろしが四度も芸名を変え、「よこはま たそがれ」で一躍売れっ子になった曲。
  よこはま たそがれ ホテルの小部屋
  くちずけ 残り香 煙草のけむり
甘く切ない失恋の歌だが、未練のないすっきりした今風の歌謡曲に仕上がっている。
小道具の『煙草のけむり』が効果的に使われている。
 
それから3年後の1974(昭和49)年には、中条きょしの「うそ」が一世を風靡した。
  折れた煙草の 吸い殻で
  あなたの噓が わかるのよ
冒頭の歌詞である。女心を機敏に捉えた歌が大ヒットした。
無造作に灰皿にもみ消された煙草をみて、男の嘘を敏感に捉える女心がなんとも切なく哀れである。
どちらも山口洋子の作詞である。
煙草が歌謡曲の小道具として、重要な位置を占めていた懐かしい時代の歌である。
煙草を小道具として作詞された歌。
〇 カサブランカダンディ (沢田研二 作詞・阿久悠) 2005年発売
    
ききわけのない女の顔を 一つ二つはりたおして
    背中を向けてタバコを吸えば それで何もいうことはない
〇 ブルーライト ヨコハマ (いしだ あゆみ 作詞・橋本 淳)2013年発売
    あなたの好きな タバコの香り
    ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ

〇 15の夜 (尾崎豊 作詞・尾崎豊) 2019年発売
    
    落書きの教科書と外ばかり見ている俺
    超高層ビルの上の空 届かない夢を見てる
    やりばのない気持ちの扉破りたい
    校舎の裏 煙草ふかして見つかれば逃げ場もない

 煙草は長い間、時代を象徴するように、状況や雰囲気を代弁するような役割を担ってきた。

1900年代に入っても煙草はどこでも吸えた。喫煙禁止の場所などなかったようだ。
病院の待合室、レストラン、新幹線や飛行機などどこでも喫煙可能だった。
駅のプラットホームは、線路で投げ捨てられた吸い殻でいつも景観を汚していた。
大学の部室は汚れた灰皿に吸い殻が山のように盛られていた。
大学生にして、すでにヘビースモーカーが何人もいた。

冒頭に示した漫画が掲載された年に、日本で国際ガン会議が開かれ、

煙草の有害性とともに、日本では禁煙運動が進んでいないと指摘された。

週刊誌はこれを受け「われわれはタバコを吸いすぎるか」(週刊朝日)、

「緊急特報 タバコ飲み必読の最新ガン自衛策」(週刊現代)などの特集記事が組まれ、

売り上げに貢献した。現在で考えられないような、

喫煙習慣に対するなんともおおらかな対応でした。

受動喫煙の害
 煙草が及ぼす健康への害は、時代の流れと共に理解が進んでいきます。

 単に喫煙者が煙草を止めるだけでは、

 喫煙の害は防ぎきれないことが研究者の努力で世間的に認知されてきました。

 喫煙しなくても、喫煙者が吐き出す煙草の煙を吸うだけで、

 喫煙した時と同等の害を及ぼすことが分かってきました。

 2003年には健康増進法が施行され、その後法改正を経て喫煙による健康被害問題は、

 喫煙のマナーからルールへと変わっていった。

改正の概要は次の通りです。
 基本的な考え方 第1 「望まない受動喫煙をなくす」
   受動喫煙が他人に与える健康影響と、喫煙者が一定程度いる現状を踏まえ、室内において、
   受動喫煙にさらされることを望まない者が、
   そのような状況に置かれることのないようにすることを基本に、「望まない喫煙」をなくす。
 基本的な考え方 第2 受動喫煙による健康影響が大きい子ども、患者等に特に配慮
   子供など20歳未満の者、患者等は受動喫煙による健康影響が大きいことを考慮し、
        こうした方々が主たる利用者となる施設や、屋外について、受動喫煙対策を一層徹底する。
 基本的な考え方 第3 施設の類型・場所ごとに対策を実施 
   「望まない受動喫煙」をなくすという観点から、施設の類型・場所ごとに、主たる利用者の違いや、
   受動喫煙が他人に与える健康影響の程度に応じ、禁煙措置や喫煙場所の特定を行うとともに、
   掲示の義務付けなどの対策を講ずる。
   その際、既存の飲食店のうち経営規模が小さい事業者が運営するものについては、
   事業継続に配慮し、必要な措置を講ずる。
                         
 (2018年7月に健康増進法の一部を改正する法律)

何時でも、何処でも喫煙が許され、「受動喫煙の害」などという概念がなかった時代。

上野駅14番ホームは、東北本線の列車の終着・始発駅ホームだった。
金の卵を載せた就職列車が到着したのもこの14番ホームだった。

近隣から東京に日銭を稼ぎに働きに来ているブルーカラーたちが、
仕事を終え一斉に列車に乗り込み、煙草をふかし、
酒を飲み通路に新聞紙を敷いて将棋などを指す風景が毎日見られた。
降車駅に到着するまでの、
仲間たちとの楽しい団らんが一日の過酷な労働を癒してくれる時間でもあった。
生活が豊かになり、長距離鈍行列車が廃止になっていく過程で、14番ホームも役目を終了した。
今、14番線のホームの入り口には、井沢八郎の「あゝ上野駅」歌碑がひっそりと、
忘れられたように置かれている。
むせるような煙草の匂いとざわめきが、生きることに必至だった時代を懐かしく思い出させる
煙草の匂いである。      
     (つれづれに…№138)           (2024.03.30記)  






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