これは したり ~笹木 砂希~

ユニークであることが、ワタシのステイタス

うちでの小づち(2)

2008年06月23日 20時45分16秒 | エッセイ
 申し遅れたが、私は高校で教員をしている。
 前任校で3年生の担任をしていたときのことだ。12月あたりから、卒業式前の予餞会で担任団から歌の出し物をしようという話になった。
「誰かピアノ弾ける?」
 学年主任が問いかけに、思わず考え込んだ。ピアノは弾けないこともないが、バイエルの下巻を終える前にやめてしまい、人様に聞かせるレベルではない。しかし、ピアノを弾けば歌わなくてすむというメリットがある。
 はっきり言って、音痴とまではいかないけれども私は歌が下手だ。全校生徒の前で歌うなどもってのほか。どちらに転んでも恥をかくのは間違いないが、より小さな恥ですむのはどちらだろう。究極の選択である。
「笹木さんはどう?」
 できないと即答しなかったせいか、学年主任の鋭い眼がこちらに向いていた。私はちょっとためらいつつ答えた。
「少しならできますけど……」
「少しか。他にできる人いないかなぁ?」
 しかし、誰も返事がない。いやな予感がした。
「じゃあ、笹木さん、頼んだよ。まだ3カ月もあるんだから、しっかり練習しといてね」
 学年主任はあっさり言い、呆然としている私に気付きもしない。
 なんてこったい……。
 歌は決まっていた。森山直太郎の『さくら』だ。楽譜を渡されて仰天した。
 音符が、5本線の上にも下にもはみ出している!!
 こんな広い音域は、当然バイエルには出てこないので、まずは楽譜を読むことから始めた。♭って何だっけ? この音符はなんでこんなにつながっているんだ?
 まるで『ダ・ヴィンチコード』に出てくるような暗号に四苦八苦しながら、1カ月後にはどうにか楽譜が解読できた。難しかった。
 しかし、我が家にはピアノがない。さいたま市の実家にエレクトーンがあるので、子供を連れて遊びがてら、練習しようと思った。が、
 だめだ、鍵盤が足りない!
 やはりピアノでなくては練習できなかった。予餞会まであと2か月。果たして『さくら』は弾けるようになるのだろうか。教師の見栄と意地とプライドにかけて、絶対成功させなくてはならない!
 それから間もなくのこと。帰宅し玄関先にあるものを見て、私は驚きの声をあげた。
「あっ、ピアノ!! どうしてここに?」
 そのときの私が一番必要としていたものが、何の前触れもなく現れたことに、ただ、ただビックリするだけだった。
「それはね、彩花ちゃんがもう使わないからって、ミキちゃんに送ってきたのよ」
 彩花ちゃんというのは夫の弟の娘、つまり私の姪である。たまたま引っ越すことになり、いらなくなった電子ピアノを私の娘にくれたらしい。信じられないくらい、タイムリーではないか。
「何とかして恥を最小限に」と念じた気持ちが、うちでの小づち登場となったのだろう。やはり、願いは叶うのだ。
 早速、その日からピアノの練習を始めた。彩花ちゃんには悪いが、ミキではなく私ばかりが占領することになった。
「お母さん、ずるいよ! ミキにも弾かせてよ!!」
 娘はブーブー文句を言ったが、こちらはもう必死である。
 仕事を終え、家事をすませてから毎日2~3時間は練習しただろうか。連日数時間の睡眠でひたすら努力した結果、ある程度まで弾けるようになった。だが、どうしても終盤でつっかえる。
「歌があるから、右手だけでも大丈夫よ。音を止めないようにして」
 他の先生に励まされ、学校でも音楽室を借りて練習した。本番まであと一週間という時期だった。自宅での練習にも、以前にも増して力が入る。しかし、がんばっても、できないものはできない。せっかくのクライマックスだというのに、リズムの速さに指が追い付かず、私の両手は鍵盤の上で迷子になり、むなしく彷徨うばかりだった。
 そして迎えた本番。出番までの短い間に何度か練習してみたけれど、やはり最後までつっかからずに弾くことはできなかった。
 前奏は問題ない。歌が始まればピアノの音は目立たない。間奏も大丈夫。歌が終わったときに、ピアノが途切れてしまうだけだ。
 私は自分にそう言い聞かせて、体育館のステージに上がった。全校生徒は550人くらいだろうか。ピンスポットが眩しくて、意外に客席は気にならない。おかげで、思ったよりも落ち着いて演奏を始めることができた。
 不思議なことに、そのときばかりは、一本一本の指先に鍵盤が吸いつくような感じがした。ただ音を出すだけでなく、「卒業おめでとう」という気持ちが曲に乗っていくような、今まで感じたことのない気分の高揚感があった。
 いける!
 弾いていて、とても気持ちよかった。間奏もこれまでで最高の出来だ。これはひょっとして、最後まで弾きとおすことができるのではないか?
 クライマックスの関所にかかった。気持ちの上では成功する気充分だったのに、やはり技術がついてこない。ひとつ鍵盤を踏み忘れると、たちまち連鎖反応が起きる。それまで上手に弾けていたというのに、あっという間にガタガタに崩れてしまった。
 もはや、これまで……。
 右手だけのたどたどしい演奏をしているうちに、歌が終わってしまった。
 万事休す!
 聞こえるはずのピアノが途切れ、見栄と意地とプライドが木っ端微塵になる瞬間がやってきた。
 刹那、やってきたのは静寂ではなく、割れんばかりの拍手と大歓声だった。誰が何を言っているのかわからないが、3年生が感動のあまり大声を張り上げ、感謝の言葉を叫んでいる。たくさんの生徒が頭の上に手を伸ばし、惜しみなく大きな拍手をしている。
 私はいかにも「みんなが聞いてないから弾くのをやめたわ」という顔をして、鍵盤から手を離した。心の中では、こちらのほうが拍手をしたいくらいだった。
 助かった!!
 これで、途中までしかピアノが弾けなかった事態がバレずにすんだ。なんという幸運! いや、悪運? まさかまさかの神がかり的なツキに、自分でも驚いて頬をつねりたいくらいだった。これもうちでの小づちのおかげである。

「先生、さっきのピアノ、ステキでした」
 あとから、同僚の女性がうっとりした表情で、私の演奏を褒めてくれた。
 これぞ、インスタント・ピアニスト。
 私は背中のあたりがかゆくなり、どうにも居心地が悪くて仕方なかった。



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コメント (6)
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