ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





上:プランナー。中央区新富1-15。2007(平成19)年2月7日
左:まつ坂。新富1-15。2011(平成23)年11月7日

1枚目写真は『佐藤家住宅』の向かい側にあった建物。「プランナー」は1986年と1979年の住宅地図にあった会社名。写真のガラス戸にある社名は読めないが、それとは異なる。建物は2017年に周辺の建物と共に取り壊されて、現在は「Axas銀座アジールコート」(2018年12月築、10階建49戸)というマンショに替わっている。
昭和27年頃の火保図では、住所は新富町2-13で「(待合)長谷川光仲」である。向かい側の佐藤家住宅と同じく待合だった家らしい。改装されてはいても建て替わったとは思えない。
路地の奥は、戦前築と思える長屋風の建物が並んでいる。居酒屋の「まつ坂」の奥は「町田写真製版所」

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佐藤家住宅。中央区新富1-11。2007(平成19)年2月7日

当ブログ『瀧亭/新富1丁目』で出した建物だが、そこではちゃんと記述されてないので改めて紹介する。
佐藤家住宅は『中央区>佐藤家住宅』によると、大正14年に建てられた待合の建築。花街だった新富町の面影を伝える建物だ。「門塀を廻し、門扉には花頭窓を設け、材の細い垂木を吹き寄せにするなど優美な意匠が随所に見られる。/2階の庇は、2本の角材と1本の皮つき丸太材を交互に並べた垂木とし、野地板との間に線の細い丸太材を設えるなど数寄屋風の意匠も見られる。/内部の間取りは、客と他の客、裏方の導線が重ならないように工夫が施されており、旧待合の間取り性格が見られる。/旧部材を大切にしたリフォームがされている。」と解説されている。
正面2階の右側の窓の手すりが、2010年頃に左側の手すりのように木で復元された。

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民家。中央区新富2-5
2007(平成19)年2月7日

平成通りの築地橋近くの、京橋税務署の横を東へ入った横丁にあった民家。窓の庇が壁とカーブでつながっているのが特徴。空襲の被害を免れた地区にあるので、戦前築の看板建築が残っていたのかも知れない。ストリートビューでは、2009年12月には存在しているが、2013年7月では現在の「アパホテル」がほぼ完成している。
写真右のタイル張りの家は「榎本歯科医院」で現在も同じ。榎本歯科は1921年の開業で、現在は三代目だという。2021,22年頃に外壁のタイルが貼り替えられた。

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横浜大桟橋診療所。横浜市中区海岸通1。2009(平成21)年7月26日

大桟橋にあった「公益社団法人日本海員掖済会」の診療所のビル。「掖済(えきさい)」とは、腋(わき)に手を添えて救い導くことを意味するとか。掖済会は明治13年に前島密が中心になって設立された。たぶん当時からの名称なのだろう。病院ではないので病室はないようだ。テナントとして幾つかの会社が入っていたらしい。
週刊 横濱80’s>商船運輸現場事務所』によると、ビルは1955(昭和30)年に建てられ、後に5階が増築されたが再び5階は撤去されて4階建てに戻された。当サイトには1982年に撮影された5階建てのビルの写真が載っている。
2013年頃には診療所は閉鎖され、2016年頃にビルは取り壊された。現在は公園のようなただの広場になっている。


左:2009(平成21)年7月26日。右:ストリートビュー2016年4月より

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同發菓子工場。横浜市中区山下町95。2009(平成21)年7月26日

本町通りの西の裏通りになるシルク通りの東端にある倉庫だったと思われる建物。写真左に行くとすぐ中華街で、同發菓子工場の後は「横浜中華街パーキング」という大きなビルの駐車場。「中華菜館 同發」は横浜中華街の広東料理の大型店。中華菓子や点心の売店もある。「同發菓子工場」というから月餅や肉まん等を作っていると思われるが、よく分らない。
週刊 横濱80’s>同發菓子工場が「工場」の建物について詳細に調べていて、昭和2年頃に建てられたナブホルツ商会の生糸倉庫だった可能性があるとしている。『横濱80’s』が参考資料の1つにしている『開港のひろば第59号、「横浜の外国商館」展余話』(横浜開港資料館発行)』に「山下町95番地に1887年(明治20年)から1931年(昭和6年)まで生糸の輸出と時計の輸入製造販売を行っていたスイス系商社のナブホルツ商会(Nabholz & Co)」という記述があるそうだ。1931年以降は、「絹・人絹織物の輸出を行っていたインド系商社のキシンチャンド・チェララム商会、ジ・ラムチャンド商会、ウトマル・エンド・アスダマル商会の三社」が進出する。
開港のひろば第127号』には、横浜の政財界が関東大震災で神戸へ去ったインド商人を呼び戻すべく、「横浜市の低金利融資を受けた日本絹業協会が、住居・店舗・倉庫一体型で、すぐに商売を始められるインド商人専用の建物を建設した」とある。同發菓子工場の建物がその1棟かもしれない、ということだ。
「シルク通り」の名称は生糸の貿易商がこの通りを中心に多数あったことによるのだろう。写真の建物が同發のものになったのは1970年代前半という。

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アパート。横浜市中区山下町73。2002(平成14)年1月19日。

本町通りの県民ホール入口交差点の南西角にあったアパート。写真右が本町通りとの角で、そこから南に入った横丁から撮っている。写真左の建物も窓が同じデザインなので右の建物と同じアパートなのだろう。古い航空写真を見ると、写真左の棟はシルク通りで曲がって、L字型平面をしている。
現在は「アクティ横浜山手」(2006年11月築、13階建108戸)という大きなマンションに替わっている。

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横浜税関紅葉坂寮。横浜市西区紅葉ケ丘8。2010(平成22)年4月10日

掃部山公園のすぐ南、県立音楽堂の向かい側にあった建物。1970年頃の建設だろうか。横浜税関紅葉坂寮の土地建物は2013年1月、関東財務局によって競売で売却された。現在は「クオス横濱紅葉坂」(2015年2月築、7階建64戸)というマンションが建っている。

写真の寮の南に隣接して「第三管区海上保安本部紅葉ケ丘宿舎」があった。ベランダのある一般的なマンションの外観で、2017年に取り壊された。写真は撮らなかったがストリートビューで見られる。現在は「KDXレジデンス横濱紅葉坂」(2021年3月築、6階建75戸)というマンションに替わった。


横浜税関紅葉坂寮。写真中央の塀の表札が「第三管区海上保安本部/紅葉ケ丘宿舎」

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花咲団地。横浜市西区花咲町4–111。2003(平成15)年2月8日

紅葉坂の下からなんとなく撮った写真。花咲団地は日本住宅公団により建てられた団地。日本住宅公団は1955年7月の設立で、1981年10月で解散、2004年7月に都市再生機構(UR)が引き継いでいる。
『ウィキペディア』によると、「住棟の1階部分はすべてピロティ構造になっている。また、斜面に立地するという立地条件から、全ての住棟は階段状の形状の設計になっている。竣工は1958年(昭和33年)、4棟から構成(4階建て、北廊下型、3LDKのみ)賃貸住宅 - 37戸。分譲住宅 - 51戸全88戸」。写真手前から1号棟~4号棟。入口が塞がれているように見えるが防犯のためだろうか。
2008年から建替えが進められ、2011年11月に「横濱紅葉坂レジデンス」(壱番館98戸、弐番館88戸、参番館182戸)が竣工した。今でも「花咲団地」で通用するのだろうか。

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左:ワカツキ通商。台東区台東3-7
右:金美堂箔押所。台東3–10。2003(平成15)年10月23日

左写真は、末広会商店街(すえひろレンガ通り)の南の裏通りで、当ブログ前回の「N邸、M邸」のはす向かい。写真右のワカツキ通商の社名は「台東区近代洋風建築調査報告書[データ編]」(平成8年3月)から。銅板貼りの家と共に「Brilliage御徒町」(2022年1月築、4階建)というマンションに建て替わった。

右写真は「N邸、M邸」の西の街区で、写真中央の2軒と突き当たりの縞の日よけが「金美堂箔押所」。「ホットスタンプ金美堂」とガラス戸にある。写真右の路地との角の家も製本関係の工業所らしい。
金美堂の左の「黒木製作所」の看板建築が建て替わっただけで、景観は今もほとんど変わらない。

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N邸、M邸。台東区台東3-8
2003(平成15)年10月23日

末広会商店街(すえひろレンガ通り)の南の裏通り(間に路地がある)。
戦前築の3軒の家がならんで写っている。撮影時には写真右枠外にもう2軒、トタン貼りの看板建築がある。写真右に看板だけ写っている「石川自転車商店」は3階建の看板建築で、2014年頃正面が改装された。銅板張り看板建築の左の家はストリートビューを見ると、2010年にはすでになく、駐車場になっている。

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