ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」 ブーゲンビル

2024-06-10 | 映画

始まった時には考えてもいなかったのですが、
この映画が放映時間2時間10分という超大作であったこともあり、
気がつけば場面ごとに4日に分けて紹介することになってしまいました。

山本五十六を描いた映画は、当然のことながらその最後は
ブーゲンビルで米機に撃墜された「海軍甲事件」で幕を閉じており、
本作も山本の乗った一式陸攻がブーゲンビルのジャングルに墜落し、
それを護衛隊が見送る、というシーンがラストになっています。

■南太平洋海戦


ヘンダーソン基地への艦砲射撃が成功したのを受けて、
アメリカ艦隊(青)は全艦隊をもって北上し、連合艦隊(赤)もまた
「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」を旗艦とする全機動部隊でこれと対峙しました。
(赤線青線はお節介ながらこちらで書き入れておきました)

昭和17年10月26日の南太平洋海戦です。


こ、この二人は・・・!
ミッドウェーの後しょんぼりしていた南雲&草鹿コンビではないですか。

このとき第三艦隊を指揮したのは他でもない、南雲中将でした。
この二人が「汚名返上のチャンスを」と願い出て、
山本が「温情人事」によって二人を留めたゆえの配置でしたが・・。


日本軍の攻撃によって炎上する「エンタープライズ」。

このとき日本側は損傷を受けたものの、空母「ホーネット」、
駆逐艦「ポーター」を沈没、「エンタープライズ」、重巡1隻を中破させ、
日本側は確かに「海戦では勝った」ことになりました。
南雲&草鹿の「汚名」も、返上されたといってもいいのかもしれません。

しかし・・・。


「未帰還機が多いようです」



その一例。
帰投中、機体と身体に傷を受け、持ち堪えられなくなって
海に落ちていく三上中尉(こんなちょい役に田村亮)。


最後まで声を枯らして励ましていた木村中尉は、
三上中尉の最後を敬礼で見送ります。

数字の上では日本軍の勝ちでしたが、多くのベテラン搭乗員と飛行機を失い、
そもそもこの目的であるガダルカナルの陸軍の支援には
兵力不足で結び付かなかったというのが真実のところでした。

つまりは「試合に勝って勝負に負けた」的な・・・?


もちろん兵站がそれで持ち直す事態にはならず、
ガダルカナルの陸軍は、弾薬はもちろん、食料もすでに底をつき、
「飢島」と呼ばれるにふさわしい地獄の様相を呈していきます。

■ガダルカナル撤退


この窮状を打開するために編成された第八方面軍の司令官は今村均大将。

オランダ領東インド(インドネシア)が降伏したあとは、
大本営に非難されながら寛容な軍政を敷いた人物でもあります。



旗艦の舷門で今村を迎える山本長官。

この「武蔵」という設定の船ですが、絶対海自の護衛艦だと思うんだな。
なんならサイドパイプ吹いてる人も自衛官かもしれん。
エキストラ程度ではこんなちゃんとした音は出ないはずだから。


せっかくロケで自衛艦をお借りしたからといって、
いくらなんでもこんなところでテーブル囲まなくても・・・。

この後ろの感じで、1968年当時のどの自衛艦かわかってしまう方、
もしかしたらおられませんかね?

映画では特に描かれていませんが、この二人は佐官時代から親交があり、
今村着任時の夕食会で、山本は

「大本営がラバウルの陸海共同作戦を担当する司令官が君だと聞いた時は、
誰だか同じ様なものの何だか安心なような気がした。
遠慮や気兼ね無しに話し合えるからな」


と陸海軍の側近らの前で今村に話しています。
のちに山本が戦死した際、今村はこの報に涙して悼みました。


二人が艦上で話し合ったのはガダルカナルの現状についてでした。

今村は赴任前に宮中に参内し、天皇陛下より、
ガダルカナルの将兵を万難を排しても救え、というお言葉を賜った、
と山本に告げ、山本もこれを恐懼して聞きます。


こちらは、切羽詰まったガダルカナルの参謀たちに、
総攻撃をかける機会は今でしょ!と詰められている百武司令。

「飢えで死ぬくらいならば玉砕の方がなんぼかマシです!」

ごもっとも。

しかし今の兵力では成功の見込みはまずない・・と司令は躊躇し、
困り果てて、ラバウルからの指示を仰ぐことにしました。


しかし、ラバウルの今村もこれ以上の戦力をガ島に投入することには及び腰。


業を煮やした山本は渡辺参謀を介してガ島撤退の可能性を探りますが、
陸軍側はそのメッセージを今村に伝えることすら拒否するのでした。

「武士の情けだ。
私としてはお取次ぎしかねるし、このままお引き取り願いたい」


つまり陸軍の立場からは撤退を言い出すことはできないと。
なんだろうこれ。プライドが許さない的な?

これを聞いた山本は、自分が「悪者」になって撤退を上に進言する、
そしてこれから海軍は撤退のため全力を尽くすことを決意しました。


そして海軍艦船により暗夜を利用した撤退作戦、「ケ号作戦」が始まります。
(画面はどう見ても真昼間ですが、それはこの際置いておいて)

山本は、

「動ける駆逐艦全てを投入、半数を失うかもしれぬ」

という覚悟でこの作戦に臨み、結果として駆逐艦「巻雲」を喪失、
軍艦数隻が損傷しましたが、将兵1万6000名余の撤退に成功しました。

2月7日のことでした。

■い号作戦



生前の山本五十六を撮った最後の写真として有名ですが、
これは昭和18年4月7日〜5日、南東方面艦隊と第三艦隊の艦載機により、
ガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、
オロ湾、ミルン湾に対して空襲を行った「い号作戦」終了時のものです。


映画は実際に残る写真に忠実な構図が取られています。
山本長官の白い第二種軍装が遠目に目立っていたのも史実通り。

このとき山本は「武蔵」を降り、ラバウルにきて自ら指揮を執りました。
艦を降りることは山本の本意ではなかったとされますが、
(『ニミッツのように艦上から指揮を執りたい』と言ったらしい)
これを説得したのは参謀長だった宇垣纏でした。

またしても歴史に「もし」はないとはいえ、このとき宇垣が反対せず、
山本がラバウルに来なかったら、海軍甲事件はあったでしょうか。

作戦は、参加航空機第11航空艦隊196機、第三艦隊184機の合計380機で、
各地の米軍港にある艦艇を攻撃するというのが目標でした。



出撃する飛行隊を見送る山本長官と幕僚たち。



艦爆隊長は、いつのまにか大尉になっていた木村でした。

ところで、映画でこの後艦爆の後席に乗り込む木村大尉は、
狭いコクピットになんと長刀を持ち込んでおります。
海軍って飛行機に長い刀は持って乗らないと思ってたけど違うのかな。

もちろん高官は事情が違い、山本長官は、撃墜された一式陸攻で
長刀を持ったままの姿で発見されているわけですが・・。



幕僚と共に帽振れをする山本。



この撮影時、渡辺元参謀ら、実際に山本五十六を知る人々が
映画の現場を見ており、おそらくは助言もしていたのですが、
全ての人々が、三船敏郎の演じる山本は
細かい所作の隅々まで本人そっくりだったと証言しています。





戦果は、駆逐艦1隻撃沈、貨物船1隻撃沈、2隻撃破、
油槽船1隻撃沈、コルベット艦1隻撃沈、掃海艇1隻撃破、
航空機は25機を損失せしめるというものでした。

しかし、我が方は零戦25機、艦爆21機、陸攻15機を失い、
戦果の割には損害が大きく、消耗度の高い作戦となりました。



幕僚を集めた山本は「い号作戦」の終了を宣言し、
それに伴い母艦飛行機隊を内地に帰す命令を下しました。



ほとんどが戦友の遺骨を抱いての帰還です。



山本五十六の敬礼は実に美しかったという証言があります。

駐米大使斉藤博が任務中客死した際、横浜まで「アストリア」が遺骨を運び、
それを遺族の立場で埠頭に迎えた犬養首相の孫犬養道子さんが、父上に、
斉藤未亡人に対するレディスファーストの身についた振る舞いを見て、

「誰?あのスマートな軍人」

と思わず尋ねると、父上の犬養健氏は、

「五十六。山本五十六」

と答えたという話が犬養道子氏の著書に遺されています。

後世の人々が語るその姿から、山本五十六という人物は
所作立ち居振る舞いを含め、写真には写らない魅力があったと考えられます。

その魅力は女性のみならず男性をも捉えるような類のものでした。
常に着るものには徹底的にこだわったという話もあります。


「長官・・・ご無事で!」

兵学校の入学から縁があった木村大尉も内地に帰ります。



翌日、山本は前線の部隊を激励するために前線に飛ぶことを計画していました。
行き先はブーゲンビル、ショートランド。

飛行部隊の帰国を見送った後、この映画では山本は
将兵の見舞いに病院を訪問したことになっています。



怪我しているというのに長官が見にくるからと、
ベッドの上で正座をさせられている怪我人、病人を見回り、
声をかけていた山本は、一人の負傷兵から声をかけられました。

彼はかつて加治川で山本を乗せた船の船頭の息子でした。

駆逐艦「長波」に乗っていてルンガ沖夜戦で負傷したという彼を、
山本は励まし、父親によろしくと告げます。


山本を慕う従兵の近江三曹は、「後百日のうちに」という書を見つけ、
山本が死を覚悟していることを確信し、ラバウルまでやってきます。

そして、第三種軍服を持って山本の前に現れ、
前線ではこれを着てください、と懇願しました。

ところで、山本五十六乗機が撃墜されたとき、なぜ白の第二種ではなく、
カーキ色の第三種を着ていたかについては、その直接の理由について
特に記述が見つからなかったのですが、おそらく、近江兵曹のように
目立つ白では敵の標的になりやすいので、という理由で
嫌がる?山本にカーキを着せた「誰か」がいたということでしょう。

ただ、もし白を死の覚悟の表明として選んでいたのなら、人生最後の瞬間、
初めての、しかもあまり好きではない第三種軍服を着ていたことは
装いにこだわりのあった山本にとって心残りだったかもしれません。


翌日長官機の護衛につく零戦隊、森崎中尉以下6名が挨拶に来ました。



居並ぶ中に、山本は見覚えのある顔を見つけました。
岩国航空隊で、飛行時間220時間!と大声で叫んだ元気な航空兵曹本田です。

今や飛行時間を630時間に増やした本田三飛曹ですが、
仲間はどうした、と聞かれて口ごもりました。


本田に変わって零戦隊の森崎隊長が、配属された彼の同期は22名で
生き残ったのはわずか7名であると告げます。


翌日、二機の陸攻に分乗した長官一行は、ラバウルを飛び立ちました。
後ろに乗っているのは参謀飾緒を付けているので、
航空参謀であった樋端久利雄中佐か、副官の福崎昇中佐のどちらかです。

樋端大佐(死後)は伝説の俊英で「海軍の至宝」とまで謳われた逸材でした。



しかしこの飛行はあらかじめ暗号解読により米軍の知るところとなり、
日本軍が時間に正確なことを利用し待ち伏せされていました。



現れた16機のP-38ライトニングと交戦になる零戦隊。
護衛6機に対し16機、これはもう勝てそうな気がしません。



結果として、陸攻は2機とも撃墜され、護衛の零戦隊は被害なし、
アメリカ側のP-38が1機撃墜されています。



このとき長官機は避難のために緊急着陸を試みたと言われます。
長官機に乗っていたのは山本と二人の中佐、そして高田軍医少将、
機長と副機長、偵察員、電信員2名、攻撃員、
そして整備員計11名で、この全員が戦死しました。

2番機も墜落しましたが、宇垣参謀長はじめ3名が救出されています。



映画では、その後1番機は被弾し、副操縦士と、
山本の後ろの中佐はすでに銃弾を受けて死亡しているように描かれており、
山本の右肩には銃創が見えます。


ここでは、山本の遺体に背部盲管銃創があったとする報告通り、
機上ですでに戦死していたと描かれていますが、実際は、
墜落後発見された遺体の状況から、墜落しばらくは生きていたものの、
全身打撲か内臓破裂により翌日早朝ごろ死亡した可能性が疑われています。

なぜこのような齟齬が生まれたか、なぜ正確な検証がされなかったか。

それは、山本がなまじ神格化された存在だったため、
墜落してしばらく生きていたというより、機上で射撃されて即死した方が
連合艦隊司令長官山本五十六に相応しい、と周りが忖度して
その最後の姿を修正しようとしたからではないかと思われます。

それを疑う理由は、実際に発見された遺体の腐敗具合から、
山本がしばらく生きていたことが当時から推測されているのにもかかわらず、
軍医が墜落現場における検死の際、軍服を脱がそうとしたところ、
渡辺参謀が強い口調でそれを制止し、それをさせなかったことがあります。

長官を敬愛する彼らにとっては、正確な死因を追求し記録に残すよりも、
神・山本の物語を完璧に紡ぐことが優先されるべきだったのでしょう。


日本側で山本の死因がはっきりしていなかったように、
アメリカ側でも正確な撃墜状況は長らくわからなかったそうで、現在は
撃墜した「候補者」二人の共同ということに落ち着いているそうです。

映像もないので真実は永遠に謎のままです。


しかし、発見されたとき山本は座席に座り、
軍刀に手をかけていたことだけは確かです。



零戦が見守る中、ジャングルに墜落し黒煙を上げる長官機。


滂沱の涙を流しながら敬礼する零戦隊の六人でした。

「昭和18年4月18日、長官山本はブーゲンビル島の上空において戦死した。
真珠湾攻撃より1年4ヶ月、日米開戦に極力反対した山本五十六は、
志と違い、皮肉にも彼自身戦争遂行の重大責任を担い、
自らの死によってその節をまっとうしたのである。」

ナレーターはこれも聞いてびっくりの大物仲代達也でお送りしました。



終わり。

映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」ガダルカナル

2024-06-07 | 映画

映画「連合艦隊司令長官 山本五十六」三日目です。
本日扉絵左上の百武晴吉陸軍中将ですが、昭和17年、
ガダルカナル島奪回のために派遣された第17軍の司令官でした。

ところでこの百武という変わった名前に覚えがありませんか?

当ブログでは入手した海軍兵学校の遠洋航海記念アルバムをもとに
シリーズとしてここで紹介したことがあるのですが、
練習艦隊司令官としてこの年(淵田美津雄が在籍していた)の
遠洋航海を指揮したのが、晴吉の兄、百武三郎大将でしたね。

兄なのになぜ名前が三郎なのかというと、百武家は5人兄弟で、
三郎の上に二人(おそらく一郎か太郎、二郎という名前の)兄がいたからです。

百武家は三郎、源吾(海軍大将)そして晴吉と3人の将官を輩出しており、
三郎と源吾は海軍史上唯一、兄弟の海軍大将となりました。

晴吉陸軍中将は、兄三郎に似て眼鏡の細面ですので、
映画の百武役はあまり、というか全く似ていません。



これは三郎の弟海軍大将の五男、百武源吾ですが、
不思議なことに?こちらにそっくりです。

映画の配役担当がこの人と写真を間違えていたのではないかと思うくらい。

そして、左下の栗田健男ですが、これはもう全く、
誰がなんと言おうと似ておりません。
「全く似ていないで賞:海軍部門」を謹んで進呈します。

逆に、「そっくりで賞:陸軍部門」を差し上げたいのが今村均陸軍大将

佐々木孝丸という俳優は多才でプロレタリア作家、翻訳家などの面を持ち、
スタンダールの「赤と黒」の翻訳(フランス語)も行っています。



さて、続きと参りましょう。

ここは岩国海軍航空隊。
現在は米海兵隊が運営しており、軍民共用の岩国錦帯橋空港となっています。


訓練を終了し、これからおそらくは南方の戦地に送られる
新人航空兵たちを前にしているのは、あの木村中尉でした。


今日は山本長官が岩国基地に視察に訪れていました。


一人一人の前に立ち、前列の航空兵に飛行時間を尋ねる山本。

「220時間であります 」「230時間であります」「210時間(略)」

零戦以前のパイロットは、総飛行時間300時間でどうにか操縦がまともにでき、
500時間で列機が務まり、7〜800時間でようやく一人前、
1000時間でベテランだったそうですが、それらのベテランは
ミッドウェーの後くらいになると多くが戦死してしまい、
200〜300時間クラスが戦争に出されることになりつつありました。

■ガダルカナル攻防戦


下矢印は、エスピリッサント島に進出するアメリカ艦隊、
上からきているのはラバウルに進出した日本軍の第2、第3艦隊です。



そのちょうど間にあるのが・・・ガダルカナル島です。
両軍の凄惨な争奪戦が始まる、ということを説明しているのですが、
この図がわかりやすくて、感心してしまいました。



昭和17年8月24日の第二次ソロモン海戦の大戦果を報告するのは
大本営の平出(ひらいで)英夫報道部長

実物

ここで余談です。
2020年の朝ドラ「エール」でも扱われた戦時プロパガンダの一つに、

「音楽は軍需品なり」

というのがあり、この言葉の生みの親が平出大佐でした。

当時の音楽家にとってはこれは贅沢品と迫害されないための錦の御旗となり、
多くの音楽家がいわゆる戦意高揚のための協力を行いましたが、
彼らのほとんどは、戦争が終わるや否や慌てて?アリバイを主張したり、
あれはやむなく、などと保身のために言い訳しました。

わたしの知る限り「空の神兵」の高木東六氏はその典型だった気がします。
時世と価値観の変化を思えば、それを責めようとも悪いとも思いませんが。



その頃、陸軍部隊はガダルカナルに進出したものの、
米軍はすでに三本もの滑走路を完成させ、そこから猛攻をかけてきました。



ここトラック島の旗艦「大和」司令室では、黒島&渡辺参謀をラバウルに送り、
陸軍との話し合いを行うよう要請が行われました。

テーマは補給のための物資輸送です。
連合国軍が8月7日にガダルカナルに奇襲上陸したのを受けてのことでした。



海軍側がこのとき提案したのがいわゆる「鼠輸送」でした。
夜間、高速の駆逐艦を用いるしかなかったので、輸送量が限られ、
貨物クレーンも搭載していないことから、大型武器の運搬はできませんし、
月が明るい時期には駆逐艦が発見されやすく実行できませんでしたが、
それでも述べ350隻の駆逐艦が投入され、2万人が輸送されました。



駆逐艦で輸送を行うことを非効率的だというのは、辻政信参謀
トラック島に戦艦がゴロゴロ「遊んでいる」のだから、
大船団を組んで輸送してくださいよ、とつっかかってきます。

渡辺参謀が、駆逐艦を輸送に出すのは海軍にとっても大変な犠牲である、
少しは海軍の立場も理解してもらいたい、というと、

「しかし、ミッドウェーの失敗は海軍ですよ?
ガダルカナルだって先に手を出したのは海軍だ」

と、(海軍側にとって)ムカつくことをズバリ。


険悪になる雰囲気を宥めたのは流石の百武司令でした。

「どうか陸海心を一つにしてこの難局を乗り切っていただきたい。
それがこの百武の願いです!」

本物への似ていなさもあって、わたしもそうだったでしょうが、
この一言がなかったら、この司令官が誰だかわかる人はいなかったでしょう。
よっぽどこの時代の戦史に詳しい人でもなければ。



いよいよ「鼠輸送」が決行されることになりました。
駆逐艦は昼間敵との接触を避け、北方航路を30ノットで進みます。

駆逐艦には本格的な上陸用舟艇も積めないので、
手漕ぎの小型上陸用舟艇に物資兵員を移して、
駆逐艦の内火艇で曳航する方式が基本でしたが、時としてこの映画のように
ドラム缶に入れた食料や弾薬を縄でつないで海上へ投棄しました。

「これで一体どれくらい味方の手に届くんだろうな」

「いいところ5分の1さ」

水雷戦隊を自認する駆逐艦乗員が、自らの任務を自嘲しつついうと、
たちまち先任が、

「ガダルカナルで飢えて物資を待つ将兵のことがわからんのか!」

と怒声混じりに叱咤し、皆は(´・ω・`)となります。


物資の受け渡しのために陸軍の兵たちが海岸に集結しました。

「作業かかれ〜!」

隊長が怒鳴ると、なんとびっくり、皆海岸で服を脱ぎ出すじゃありませんか。

実際の鼠輸送では、海に流したドラム缶などの物資を、
現地部隊の大発が回収するという方法がとられていましたが、
この映画では大勢が泳いで物資を集めに行くということになっています。



大発でもしばしば回収に失敗することがあったというのに、
人が・・泳いで?



駆逐艦では物資の投下が始まりました。



まるで夜間遠泳大会。
本当にこんな生身で物資を拾いに行っていたんでしょうか。


その時、駆逐艦が連合軍に発見され、空襲が始まりました。

夜間は敵戦闘機の飛行も限られていたので、この映画のように
夜間の作業中敵飛行隊の空襲がどれくらいあったかは疑問ですが、
輸送に向かう日中の往路復路は見つかるたびに空襲を受け、
この結果、聯合艦隊はガダルカナル作戦中の半年で駆逐艦を14隻喪失、
損傷は述べ63隻におよぶ被害を出しています。

またWikiによると、駆逐艦がこれほど損害を受けた理由は、
当時の聯合艦隊の艦隊型駆逐艦が、

「缶室か機械室のどちらかに浸水すると動かなくなる」

という弱点を持っていたことでした。
たまりかねて海軍は鼠輸送専用の輸送艦、

第一号型輸送艦
二等輸送艦(第百一号型輸送艦)

を作ったほどです。
ちなみに第一号型は日本で初めてブロック工法で建造された艦でした。
必要は発明の母?

それから、鼠輸送の最中に、つまり夜間、敵水上部隊がやってきて
夜戦になだれ込んでしまうことが数回ありました。

ルンガ沖夜戦、ビラ・スタンモーア夜戦、クラ湾夜戦などがそれです。
日本の駆逐艦は夜戦が得意だったので、これら艦隊戦には勝ち気味でしたが、
もちろん本来の目標である輸送に支障をきたしたことは否めません。

この映画でも物資どころではなくなり、輸送任務を行っていた
「叢雲」は航行不能、「夏雲」は沈没した、という設定です。

実際の「夏雲」はサボ島沖海戦に「衣笠」と合同で戦闘に当たるため、
「叢雲」は海戦で沈没した「古鷹」の乗員の救出のために出動し、
空襲によって「叢雲」は航行不能、「夏雲」は沈没しています。


司令官室の連合艦隊軍艦名簿に赤で❌をつける渡辺参謀でした。


無言で司令官室に戻り、スローテンポの「佐渡おけさ」を唸る山本。


そんな山本を心配気に眺める従兵の近江三曹。
そんな近江に、山本は、これから二種軍装を着用するから用意してくれ、
とさりげない調子で命令しました。


そのとき、「大和」に陸軍の船が着舷しました。
陸軍の船だから大発?と思いましたが、妙にモダンです。
ラバウルにこんな近代的な船があったのか?



やってきたのは陸軍参謀本部の辻政信でした。
ガダルカナルでの輸送作戦が実を結んでいないこと、
なんとしてもガ島を奪還したいことを語ります。

「後続部隊として第二師団がラバウルに集結しております。
百武司令官は『これ以上海軍に迷惑かけては』と、自ら輸送船に乗り込み、
裸の船団でガダルカナルに乗り上げるとまで申されております!」


これはどの程度史実に忠実かは少し疑問があります。
ガダルカナルの実情を無視して攻撃を強行した本人でありながら
失敗に対する対応策を迅速に行わなかったのもまた辻であり、
ここまでガダルカナルにこだわりながら、具体的な策を出しませんでした。

この誤った作戦指導が多くの人命を失う結果となったという説もあります。

そして本人はというと、現地でマラリアにかかり、
鼠輸送のため到着した「陽炎」に便乗して撤退しています。

「毀誉褒貶が激しく歴史的評価は真っ二つ」

という辻政信ですが、石原莞爾のようなキレ者というわけではなく、
戦後のCIAは、この人物について、

「政治においても情報工作においても性格と経験のなさから無価値」

「機会があるならばためらいもせずに第三次世界大戦を起こすような男」


と断じています。
軍人としての資質がなければ、真の意味での道徳心もないってことですか。



山本は、辻に

「百武司令には、乗るなら駆逐艦に乗って行くように」

と伝言させました。(意味不明)
そして、ゆっくり飯でも食っていきたまえ、などと言います。

これは実際にあったことで、辻が「大和」に山本長官を尋ねた際、
物資統制にもかかわらず山海の珍味が食卓に並んでいたのを見て、

「海軍はゼイタクですね」

と皮肉を言ったそうですし、その少し前、
トラック島泊地で第四艦隊司令長官井上茂美中将の接待で
海軍専用料亭(料亭小松)の宴席で芸者がいたことなども、
同じく不快と違和感を感じていたことを自ら書き遺しています。

料亭小松の「お国を思う覚悟の出張」(空襲による芸者の犠牲も出た)や、
山本長官のせめてもの「心づくし」など知るよしもなかったからですが、
のちにそれらのことを聞かされた辻は、

「下司の心をもって、元帥の真意を忖度しえなかった、恥ずかしさ。
穴があったら入りたい気持ちであった」

と、自分の言動を反省したそうです。
CIAからは酷評でしたが少なくとも自省できる人物ではあったようです。


ついで山本は本作中似ていないで賞大賞の栗田健男(左端)を呼びました。

「ガダルカナルの戦局を打開するために、『金剛』『榛名』で
泊地突入し、艦砲で敵飛行場(ヘンダーソン基地)を叩いて欲しい」

ヘンダーソン基地艦砲射撃

「やらせていただきます」

この映画では草鹿の反対を圧して栗田がこう言っていますが、
実際は、作戦に当初及び腰だった栗田が、山本の

「ならば自分が大和で出て指揮を執る」

という言葉でやむなく?引き受けたという経緯がありました。


そして「金剛」を旗艦とする第三戦隊が出撃しました。



このとき「金剛」「榛名」は合わせて966発の艦砲を発射し、
ヘンダーソン飛行場は半分強の飛行機が被害を受け、
個別の戦果で言うと「日本軍の勝利」となりました。



泊地艦砲攻撃を命じた第三戦隊出撃を見送る山本を、
従兵の近江兵曹は心配気に見つめ、藤井政務参謀(藤木悠)に、
なぜ長官はいつも目立つ白い第二種軍曹をしているのかと尋ねます。

山本は「大和」艦上で、

「あと百日の間に小生の余命は全部すりへらす覚悟に御座候」

と言う手紙を故郷に送っていますが、次にその手紙を書くシーンが挟まれ、
白の二種軍装が山本にとっての「死装束」だったことが示唆されます。


続く。




映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」ミッドウェー

2024-06-04 | 映画

映画「連合艦隊司令長官山本五十六」続きです。

前回、加山雄三演じる伊集院大尉のモデルが、「雷撃の神様」こと
村田重治大佐(最終)であるという話をしましたが、
今日のタイトル画で「友永丈一」としたのは、本作ミッドウェー海戦部分で、
伊集院大尉は友永中佐と同じ運命を辿るからです。

本作の登場人物は一部を除き歴史上の人物が実名で登場しますが、
加山雄三の役は村田大佐と友永大尉のどちらもをモデルにしているため、
唯一この役だけが創作名を与えられているというわけです。

また、黒島亀人先任参謀については、一番知られている肖像ではなく、
本作俳優(土屋嘉男)に似ている若い時の写真を挙げてあります。


真珠湾攻撃後、陸軍は「海軍だけに手柄を立てさせまいと」(黒島談)
大陸進出作戦を強く主張していましたが、
山本の目的は一刻も早く講和に持ち込むことですので、
敵艦隊を叩くため、ミッドウェー作戦を提案しました。


そんな折、劣勢を跳ね返すためのアメリカの捨て身の作戦、
「ドーリトル空襲」が起こります。

空母「ホーネット」を発艦したB29の編隊が本土を襲撃し、
このことは軍上層部をにわかに動揺させ、

「太平洋に防空の砦を築くべし」

としてミッドウェー作戦が決行されることになりました。

劇中、採用された空母「赤城」艦上における敬礼シーン(実写)
ちなみに敬礼しているのは士官のみ



ミッドウェー島への発進攻撃命令を下す機動部隊司令長官、南雲中将。


【軍歌】🎌『日本海軍・出航ラッパ』~映画版~

この時の出航ラッパは、このYouTubeで聴くことができますが、
東宝オリジナル(にしてはよくできている)なのだそうです。

帝國陸海軍喇叭集

本物はこの25番目。
ちなみに「防水」「診察」という喇叭があって驚きました。



「両舷前進びそーく」


「一航戦、赤城、加賀、出航しまーす」


「赤城」飛行隊の士官室は、皆意気軒昂そのものです。
木村中尉の幼馴染の写真(恋人でもないのになぜか持っている)
を皆で回し見して揶揄ったり、山本長官の噂をしたりと、和気藹々。



そして一航戦の飛行隊は、いよいよミッドウェーに向けて飛び立ちました。

本作の特撮模型は、船より飛行機の方がよくできているような気がします。
船はどうしても海面がうまく再現できないので限界があるようですね。

攻撃隊はミッドウェーに差し掛かると米軍の迎撃機と交戦、
その後ミッドウェー島の攻撃は予定通り決行されることになりますが、
作戦司令部には、第一次攻撃隊だけでは効果があまり得られず、
第二次攻撃隊の必要があるという打電が入ってきます。

(ちなみにこの連絡をしてきたのは、伊集院大尉のもう一人のモデル、
友永丈一大尉で、通信文は『カワ・カワ・カワ』)


しかしながら、第二次攻撃隊は敵機動部隊との交戦に備えて待機中でした。


そのとき「利根」の索敵機が、空母のない米艦隊の発見を告げてきました。
ここで機動部隊は後世に禍根を残すミスをしてしまいます。

米機動部隊からの攻撃はないと判断した草鹿は、待機していた航空勢力を
全てミッドウェーに向けてしまうことを決定したのでした。

しかも(映画では語られませんが)実はこの索敵機は、敵索敵に発見され、
近くに日本軍の機動部隊がいることを悟られてしまっていました。



そして、魚雷を陸用の爆雷に付け替えるという命令が下されます。
言うまでもなく第二次攻撃隊をミッドウェーに向かわせるためです。


模型チックな昇降機で付け替えのため甲板から降ろされる飛行機。



そのときです。
索敵機は空母2隻を伴う米機動部隊を発見しました。



「  なにい?!」

歴史に「もし」はありませんが、つい考えずにいられません。
もしこのとき、海軍が出した索敵機が、先の小規模艦隊の代わりに、
空母を伴う米機動部隊を発見していたら、結果はどうだったかと。

少なくとも空母4隻壊滅という事態だけは避けられたでしょうか。


そのとき「飛龍」の山口多聞司令から、米機動部隊に対し
直ちに発進の要ありと認む、という打電がされてきました。

しかし、雷撃機を発進させるには、護衛の戦闘機が出払っていて手薄です。
ほとんどの戦闘機はミッドウェー隊の掩護に行ってしまっていました。



「仕方ない、正攻法で行こう!」

上空直掩戦闘機を呼び集め、再び雷装への付け替えが命じられました。


全員なんでやねんって内心ツッコミ入れながら作業していたと思う。
爆弾が剥き出しになっている今、攻撃されたらどうすんの、とか。


そこに、日本軍にとって絶望的なお知らせが。
敵機動部隊飛行隊がこちらに向かっているというのです。

この一連のシーン、草鹿参謀長演じる安部徹は汗ダラダラ流してます。


急かされまくった攻撃隊がやっとのことで発進していきました。


しかし次の瞬間、米機動部隊攻撃隊が牙を剥いて空母群に襲いかかります。


この、爆弾が甲板を貫き爆発炎上する特撮は見事です。


修羅の海に浮かんだ機動部隊上空を、
たった一機になった伊集院大尉の機が航過しました。


「加賀、沈みます!」

沈みゆく「加賀」に敬礼をする伊集院大尉。(冒頭画)


山本長官の座乗した「大和」に、戦果を伝える電報が届けられました。

「敵艦載機の攻撃を受け、赤城、加賀、蒼龍大火災」

続いて、

「山口司令官より無電、『飛龍は健在なり』」



「山口司令官宛て打電せよ。飛龍の健闘を祈る」



「飛龍」からは艦載機攻撃隊が離艦していきます。
伊集院大尉機はこれらと合同で攻撃に当たることになりました。


燃料タンクを増槽に変えると言う飛行士に、
300マイル飛べれば十分だ、と淡々と返す伊集院大尉。

「はあ?」

「帰ってもおそらく母艦は沈んでいるだろう」

実際の友永丈一機は、ミッドウェー島を攻撃したあと、
母艦に戻って給油していますが、その際左翼タンクが破損していたので、
整備を担当した兵装長が、

「これでは片道燃料になります」

と出撃を制止したのを振り切って出撃しています。

映画の会話はこの時の「片道燃料」を盛り込んでいると思われますが、
友永大尉は、米艦隊までの距離は近いから帰れると計算していたようで、
決して最初から「帰らない覚悟」を決めていたわけではありません。

そして伊集院大尉のもう一人のモデルである村田重治大尉は、
ミッドウェーでは「赤城」から「辛くも」(wiki)生還しています。


映画では、伊集院大尉の艦攻は、米空母「ヨークタウン」に対し、



「テー!」

と魚雷を命中させた後、「ヨークタウン」の艦橋に激突自爆しました。

wikiによると、友永機と思われる隊長機を撃墜したのは、
「サッチ・ウィーブ」の発明者ジョン・サッチ少佐でした。

友永機は、機銃弾を浴びせられ、両翼が炎に包まれながらも、
「ヨークタウン」に魚雷を投下するまで飛び続け、
その最後の瞬間を目撃したサッチ少佐は、

「日本の指揮官機はリブをむき出しにしながらも何とか飛行をつづけ、
海中に墜落する寸前に魚雷を投下し、
ほとんど絶望的な状況でも最後まで任務を果たそうとした。」


と感嘆称賛の言葉を送っています。

「ヨークタウン」はこの攻撃により自力による航行が不能になり、
ハワイまで曳航されることになりましたが、
結局その途中で伊号第百六十八潜水艦に撃沈されることになりました。

聯合艦隊機動部隊の中で唯一最後まで残った「飛龍」も損傷を受け、
指揮官山口多聞少将、加来止男艦長を乗せたまま、
他の3隻の空母と運命を共に自沈することになります。



大敗北が決定し、夜戦を断念した聯合艦隊は、
これ以上の攻撃の必要なしとの判断に伴い、
ミッドウェー作戦の中止を決定しました。



「陛下にはわたしがお詫び申し上げる」

鎮痛な面持ちで反転する「大和」の司令官室に一人向かう山本。


「そして三日間が経過した」

この三日の間に、山本長官は夏服に衣替えなさったようです。



渡辺戦務参謀も衣替え。
一般的には6月1日が第二種軍服着用の区切りでした。



「長良」に乗っていた機動部隊の将官が報告のため「大和」に集まりました。
ところが、この南雲と草鹿だけは第一種軍服のままです。

現実的に考えれば、着替えを乗せたまま「赤城」が沈んだからですが、
それにしても、この二人以外全員真っ白なのは何故でしょうか。



それはおそらく制作側がこの構図にこだわったからだと思います。

情報収集と作戦の不手際で大失敗し、打ちひしがれている二人。
この「戦犯」の二人をあえて「黒いまま」残すことで、
その心情と立場を視覚化したかったのではないでしょうか。

このとき山本は、ミッドウェー作戦失敗の全ての責任は自分にあるとして、
彼らに批判的だった黒島亀人に対しても、

「南雲・草鹿を責めるな」(wiki)

と釘を刺しています。

おそらく自分に全責任があるということを痛感していた山本は、
部下だけに今回の敗戦の責任を取らせることができなかったのでしょう。

そして、汚名返上の機会を与えてほしいという二人の願いを聞き入れ、
再編された空母機動部隊の指揮を引き続き執らせました。

このような明らかな責任者への処分に見られる「身内に対する温情主義」、
さらには、ミッドウェーの敗戦を世間に対し隠蔽したこと、
作戦失敗の原因追及等、反省と今後への対策が全く行われなかったこと。

これらもまた、日本をその後の運命に導く一因になったと言われています。

続く。



映画「連合艦隊司令長官 山本五十六」真珠湾

2024-06-01 | 映画
 
昔、東宝映画は毎年8月15日の終戦記念日に合わせて
戦争大作を公開(8.15シリーズ)していた時期がありました。

本作「連合艦隊司令長官 山本五十六」は「日本の一番長い日」の翌年、
昭和42年最大のシリーズ超大作として制作され、大ヒットをおさめました。

本日のタイトル画は、俳優と演じた人物の写真を並べてみました。

草鹿龍之介=安部徹、宇垣纏=稲葉義男、米内光政=松本幸四郎、
南雲忠一=藤田進となります。

全体的に、最近の戦争ものより実物と似ている俳優が多い印象なのは、
当時を知る人々がまだ世間の大半を占める時代に制作されたせいでしょうか。

わたしの感想としては一番違和感があったのは藤田進の南雲忠一です。

もっとも、誰が一番本人と容姿の点で乖離していたかというと、
それは間違いなく山本五十六を演じた三船敏郎といえますが、これは
映画という表現の中では全く違和感なく受け入れられるから不思議です。

歴代の山本五十六を演じてきた俳優は、大河内傳次郎に始まって、
佐分利信、山村聡、小林桂樹、マコ岩松、役所広司、豊川悦司、舘ひろし、
加藤剛、古谷一行、香取慎吾、ともうほとんど誰一人全く似ていませんが、
おそらく役者が山本五十六を演じるとき、そこに求められるのは
容姿の問題ではなく、「存在する意義」そのものの表現力なのです。

その意味で、当時、山本五十六を直接知っていた人々から、
まるで本人が乗り移ったかのように似ている、とまで言われた三船は、
この歴史的人物を演じるに真に相応しい役者だったのだろうと思います。

■日独伊三国同盟締結



戦前のある年、新潟県加治川。



一人で観光の川下りをしている男性客がいました。



ご存知我らが山本五十六(当時海軍次官)。


船頭との会話の流れでなぜか船端で逆立ちをおっ始める山本。

加治川急流下りの船の舳先で逆立ちは実話であり、
そのほかアメリカ行きの船の中でのパーティで階段の手すりの上とか、
妙義山頂の岩の上とか、とにかく危ないところで逆立ちして
皆がハラハラするのを楽しんでいたようです。
身内からの証言もあります。

「逆立ちのおじさま」

舳先での逆立ちのエピソードは、2011年の同名映画で、
役所広司版山本五十六もやっていましたね。


そんな山本を護衛するとして現れた憲兵隊二人組。
この頃山本は三国同盟に米内、井上茂美とともに反対しており、
賛成派からプロパガンダされ、暗殺の噂さえありました。

山本は海軍芸者の巣であるレス(料亭)の宴席に彼らを呼び、

「陸軍さんは威張ってばかりで野暮だ」

などと陸軍の悪口を言うエス(芸者)に彼らを揶揄わせてご満悦です。


昭和14年8月、海軍省。


この暑苦しい顔の海軍少尉、木村(黒沢年男)は、飛行学生として
霞ヶ浦航空隊に赴任途中、山本海軍次官に挨拶に来ました。
貧しい家出身の彼が兵学校の試験の際、山本が推薦したという縁です。


次に待っていたのは、陸軍の辻政信参謀長たちとの面会です。
彼らは、三国同盟に反対する山本を説得に来たのですが、

「では、我々陸軍だけで(反対のための行動を)やります!」

と息巻く辻に、山本は口元を歪めて笑い、

「太平洋を歩いて渡るとでもいうのかね」



その日、独ソ不可侵条約が締結され、それを受けて首相平沼騏一郎は

「欧州情勢は複雑怪奇」

という名言?を残し、総辞職しています。

従来日本政府が準備していた政策をこれで全て打ち切らざるを得なくなり、
「別の政策が必要になってしまったから」
というのが複雑怪奇声明の内容で、要するに、

「国際情勢を判断できず、外交政策を立てられなくなってもうお手上げです」

という意味の総辞職であったと言われています。


当時の海軍大臣米内光政(松本幸四郎)と語り合う山本。
山本が敬語を使っているのは、米内が海兵の3期上だったからで、
法術学校教官時代で同室になって以来、二人は親友という間柄でした。

映画では山本の海軍次官の職を労うような発言がされていますが、
これは逆で、米内を海軍大臣に推したのが当時次官だった山本です。

三国同盟には山本と共に反対の立場でしたが、その理由は

「海軍力で及ばない英米をはっきり敵に回すことになるから」

という「海軍の論理」によるものであり、
決して大局的な観点からのものではなかった、とする意見もあります。



模型特撮はお馴染み円谷英二の手によるものですが、
CGのクォリティの爆上がりした昨今、この当時の特撮を見ると、
なんだか物悲しい気持ちになるくらい、作り物感が拭えません。

ちなみにこちら戦艦「長門」でございます。



旗艦「長門」の聯合艦隊司令官室で書をしたためていた山本の元に、
山本のお気に入り参謀、渡辺安次少佐がやってきました。



演じているのは平田昭彦。



この有名な写真で一番右に写っているのが渡辺参謀です。

本作撮影現場で、平田昭彦、三船敏郎に挟まれて座る渡辺氏

一般人と並ぶと三船も平田もレベル違いの超イケメンであると実感する写真。

平田は、じゃなくて渡辺参謀は、陸軍が三国同盟締結のため、
反対している米内に海軍大臣を辞させるという情報を持ってきました。
そして、後任の海軍大臣は賛成派の及川古志郎に代わります。



海軍首脳会議で、山本は最後まで三国同盟の危険性を訴えます。

及川新海軍大臣(中央)に、もし同盟を結んだら、
英米の勢力圏から輸入している生産物資が途絶える危険があるが、
どうするつもりなんですか、と詰め寄りますが、
もう締結は決まったことだから・・・・と及川むにゃむにゃ。

ちなみに及川の左の白髪は永野修身軍令部総長。(似てない)


昭和15年9月27日、締結は正式に決定されてしまいました。

■真珠湾攻撃


真珠湾攻撃の艦載部隊がそのための訓練を行ったのは、
オアフ島と地形の似ていた鹿児島湾でした。


訓練に参加している艦爆の指揮官席には、木村中尉がいました。
操縦員の野上一飛曹を演じるのは往時のアイドルスター、太田博之です。



後席から思いっきりやれ!と野上をけしかけたら、よりによって
「雷撃の神様」伊集院大尉の飛行機とニアミスしてしまいました。


木村中尉は真っ青になって伊集院大尉に謝りに行ったところ、
さすが神様、大尉(加山雄三)は鷹揚に部下のミスを許します。

伊集院大尉のモデルは、おそらく真珠湾攻撃の際
「赤城」飛行隊長だった、村田重治大佐(最終)と思われます。

ちなみに、支那事変の際、アメリカ海軍の砲艦「パナイ」を誤って撃沈し、
国際問題になりかねない「パナイ号事件」を起こした本人でもあります。

劇中、伊集院はこの訓練の意図がさっぱりわからないとして、

「市街上空は高度40m、海に出るなり高度5mの『雑巾掛け』、
しかも標的は動かない停泊中の船・・・はて?」

と呟いていますが、軍機となっていた真珠湾攻撃の内容を、
村田だけは上から聞かされていたと言われており、おそらくそれは本当です。



「(アメリカとまともに戦っても勝てないから)
先制で打撃を与えて早期講和に持ち込む」


という山本の真珠湾攻撃の企画意図並びに開戦に関する考えは、
本人ではなく、黒島亀人先任参謀の口から永野修身軍令部総長(白髪)、
伊東整一軍令部次長(その右)に説明されています。

「開戦劈頭、一挙にアメリカ太平洋艦隊を撃滅して
早期講和の機会を掴む以外に道はないのです!」




いよいよ開戦は避けられないとなったある日、
戦艦「長門」における作戦会議では、新型魚雷の採用、
真珠湾に至るコース(北回り)などが確認されていました。


これが最終的に決定されたコース。(棒で押さえているところが単冠湾)


草鹿龍之介参謀長南雲忠一機動部隊司令長官は、
大艦隊が秘密裏に真珠湾にたどり着くことの困難さを挙げ、
副案の検討を提案しますが、山本はそれを切り捨てました。

「国力の違うアメリカと四つに組んで戦うことができないからには、
先制攻撃で敵の奥深くに切り込むしかない」


それに対し、今後反対論は述べず、作戦実行に全力を尽くす、という草鹿。


その後、近衛文麿首相(森雅之)に海軍としての勝算を問われ、山本は

「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。
然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。
三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は
日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」

というあの有名な発言で返します。
井上茂美海軍大将はこの発言は失敗だったという考えで、

「優柔不断な近衛さんに、海軍は取りあえず1年だけでも戦える、
間違った判断をさせてしまった。
はっきりと『海軍は(戦争を)やれません。戦えば必ず負けます』
と言った方が、戦争を回避出来たかも知れない」


と戦後語っています。
そして山本本人はというと、この時の近衛に対して、

「随分と人を馬鹿にした口調で、現海軍大臣と次官への不平を言ってたが
あの人はいつもそんな感じだから別に驚かない。
要するに近衛公や松岡外相等を迂闊に信頼して海軍が浮き足立つのは危険」


嶋田繁太郎に当てた手紙に書いています。
その後首相は近衛から東條英機に代わりました。


そしていよいよ作戦発動に向け・・

「攻撃命令は『ニイタカヤマノボレ』!」


機動部隊は単冠湾を抜錨し・・・。

・・・って、このシーンの特撮は残念すぎ。
予算のなかった「ハワイ・マレー沖海戦」の方がよくできていたような・・。
白黒の方がアラが目立たなくて良かったのかも。



模型のスケールも「ハワイ・マレー沖」より小さそうですよね。
キャスティングにお金を使いすぎて特撮にあまり回せなかったのか?



そしてここ「赤城」艦橋では・・・・

「ニイタカヤマノボレ、イチニイゼロハチ」

頂きました。


開戦の命令を受け、山本は藤井茂戦務参謀に、
開戦の通告が攻撃以前に手交されることを念押ししています。



これに対し、藤井参謀(藤木悠)は心配はいらないと返事しますが、
実際はいろいろアクシデントがあって攻撃後になり、
日本が騙し討ちをしたというイメージになってしまったのはご存知の通り。



ちなみにこの写真で山本の右側にいるのが藤井参謀です。


マストにZ旗が掲揚されます。

「皇国の荒廃この一戦にあり。
各員一層奮励努力せよ」



「かかれ!」


時々実写の映像が混じっています。



「オアフ島だ・・・攻撃態勢作れ」



「全軍突撃せよ!」
「テー!」
「命中!」

オアフ島の山間を縫うように進んだ機動部隊攻撃隊、
真珠湾攻撃の幕が切って落とされました。



結果を待つ司令部の元に届いた電報を通信参謀(佐原健二)が読み上げます。

「我奇襲に成功せり!」



喜びに沸く司令部の中で、一人重い表情の山本五十六。
戦果報告の中に空母が一隻もなかったことを憂えているのでした。



世間は初戦の勝利に対するお祝いムードに沸き立ちました。

軍内ですら、あらゆる機関で戦勝祝賀会が行われる有様でしたが、
山本はそれらの招待を厳しい表情で全て断りました。

アメリカがこのままで済ませるとは思っていなかったからです。



しかし、機動部隊の面々には全員に休暇が与えられました。
早速故郷に帰った木村中尉は・・



幼な馴染み矢吹友子(酒井和歌子)と姉澄江(司葉子)に再会しました。
この二人は単なる華添えキャストで、物語の筋にはなんの意味も持ちません。

姉澄江は両親のいない木村をお針子をして働いて育て、
最終的には兵学校にまで入れた苦労の人です。



日本軍はその後しばらくは破竹の進撃を続け、
太平洋地域においてアメリカ、イギリス、オランダを駆逐し、
南方支援地帯を確保するに至った・・・と思われました。


山本はここですかさず講和の道を探るべきだと考えました。



が、なまじ初戦で連戦連勝してしまったため、国中のムードが
停戦を良しとしないというところまで暴走しつつありました。

「平和など言い出そうものなら国賊扱いだよ」

と米内。
それではもう一度講和の機会を作るにはどうしたらいいか。

相手がそれに応じずにはいられない状態とは、更なる打撃を与えること。
山本に言わせれば、それは空母部隊を撃滅することに他なりませんでした。

そして、このとき講和の機会を求めて深追いした結果、
日本はミッドウェーで敗戦への道に足を踏み入れてしまうことになります。


続く。


「スィートハート・ウィングス」爆撃クルーの遺品〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-29 | 航空機

オハイオ州にある国立アメリカ空軍博物館。
まだコロナ禍にあった夏、そのとき滞在していたピッツバーグから
単身車で一泊して見学に行って見た展示物をご紹介しています。

今日は、本人や遺族によって博物館に寄付された
ヨーロッパ爆撃クルーの持ちもの(遺品)を見ていきます。


■ バーニー軍曹のA-2ボマージャケット



第15空軍の砲塔砲手SSgt(スタッフサージャント、E6)
エミール・バーニーが着用していたA-2ジャケットです。



背中側には気合の入った絵が施されています。


何しろ皮革におそらくペンキか何かで手描きしたものなので
かすれてしまって見にくいですが、爆撃ミッションを行った都市が、
爆弾を落とすB-17、墜落するBf-109とともに描き込まれています。



左胸のマークは爆弾を持って飄々と歩くアメリカの象徴、ハクトウワシ。

足元に見えるのは雲でしょうか。
第15空軍の部隊章です。


S/Sgt. Emil B. Barney 

バーニー軍曹は1944年11月、アドリア海上空でBf109の攻撃を受け、
制御不能に陥ったB-17からバベイルアウトし、2日後に救助されました。

戦争が終わるまで彼は捕虜になっていましたが、
終戦後生きてアメリカに帰り、1995年に69歳で亡くなりました。

ポピヴチャック軍曹35回の出撃記念



連結された50口径の弾丸は、第306爆撃群のB-17トップ・ターレット砲手、
TSgt(マリオン・"ミッキー"・ポピヴチャックが、
参加した35回の戦闘任務を表して製作したものです、

この人、かなりまめで、かつコレクター資質を持っていたらしく、
これらの弾丸のカートリッジには、
35回のそれぞれの任務を報じるスターズ&ストライプス紙の記事が、
切り抜かれて畳んだのが収められています。

せっかくですのでその一つ、1月5日付の新聞記事(画面右)
を訳しておきます。

「重爆またも出撃、供給ラインを爆破」

第8空軍は昨日、ドイツの補給拠点に対する猛攻を再開した。
1000機以上のフォートレスとリベレーターが、
300機以上のムスタングに遮られながら、
ケルンから南はカールスルーエまで、東はフランクフルトの先まで、
広範囲にわたって通信拠点や鉄道基地を攻撃した。

天候は依然として障害であり、

重爆撃機は計器を頼りに爆弾を落とさねばならなかった。
掩護のマスタングの一群は、梢を擦り、機関車や貨車に激突した。
敵戦闘機の攻撃はなかったという。


第8飛行隊のミッションは、セント・ヴィ近郊の通信センターに対する

RAFミッチェルとボストンによる午前中の攻撃に続くものであった。

それ以前には、RAFランカスターがボルドーの北西50マイルにある

ジロンド川河口のドイツ軍部隊、大砲、補給基地を攻撃していた。

天候のため第9空軍の飛行機はさらに1日出撃を中止したが、

RAFの第2戦術空軍の機は500回以上の出撃に成功し、
マース川河口のドイツ軍の要塞を攻撃し、
鉄道や国道沿いの機関車や線路を銃撃した。


コレクションのなかに、一つだけ先端が赤いトレーサー弾がありますが、

これは、1945年1月10日のミッションで、彼の乗ったB-17が
酸素システムと2基のエンジンを破壊され、
ベルギーに不時着したということを表しているのだとか。

このコレクションを作成した"ミッキー"・ポピヴチャック氏は、
わたしがこのとき滞在していたピッツバーグの人で、
2010年に亡くなった後はアレゲニー国立墓地に埋葬されました。

戦後はピッツバーグで車のパーツ会社を経営していたようです。

■ ガードナー軍曹のフィールドジャケット




第15空軍の尾翼砲手、ラリー・ガードナー軍曹の野戦用ジャケットと鞄。
遠征中、彼は指を撃ち抜かれ、B-24は敵地上空で撃墜されましたが、 
幸いガードナーは脱出し、イタリアのパルチザンに救出されました。

このジャケットの背中側には、ホットスタッフというロゴと共に
TNT爆弾に腰を下ろす挑発的な金髪美女の絵です。

ジャケットのデザインは現代でも通用しますし、
なんならこの絵もアメコミ風でいけそうです。


カバンには部隊マーク。
クラウンを被った骸骨とTNT爆弾の意匠です。



ジャケットもカバンも、おそらく本人が
落ちない油絵の具かペンキでペイントしたと思われます。

■ ライアン・バーカロウ大尉の遺品



ライマン・バーカロウ大尉は、
最初の25回の任務でシャトル空襲の任務に参加しました。

陸軍航空隊のルールで、25回の任務を終えた者は任務を降り、
帰国して退役することもできたのですが、
大尉はその後も戦闘飛行を志願し、ヨーロッパで任務を行いました。

そして1945年3月19日、二度目通算49回目の爆撃任務である
ルールラント・ドイツ上空で戦死しました。

なぜ戦死した大尉のA-2ジャケットが残っているかなんですが、
これは彼が第一期ミッションのときに着ていたもので、
第二期にあたって新しいジャケットをあつらえていったからです。

襟元にホイッスルが付いていますが、これは
撃墜されて海に落ちたとき、救助に合図を送るための非常用でした。



米空軍がシャトル空襲の際に使用したムービーカメラ。
ロバート・ウォルシュ空軍大将は、シャトル空襲が終わり、
物資をソビエトに引き渡すよう命じられたとき、
このカメラを「保存」した(つまり隠して渡さなかった)そうです。


カメラに使うコダックの「コダクローム」16ミリフィルム。



ソ連から出撃した攻撃隊

第8空軍

第15空軍

の爆撃ミッション航路が記されています。
第8空軍はイギリス、第15空軍はイタリアに根拠地を置いていました。


バーカロウ大尉が受賞した名誉賞の数々。
左から:

パープルハート

「スィートハート」ブレスレット
バーカロウ大尉が妻のフローレンスにプレゼントしたもの

USSR(ソ連)のバッジ
公式に与えられたものかどうかは謎

エアーメダル
第一期任務達成に対して与えられたもの

金の「スィートハート」ウィングス
翼の真ん中にハートのあるモチーフを、英語圏では
「スウィートハート・ウィングス」といいます。

これは中央にアメリカ軍のマークがあるだけでハートではありませんが、
バーカロウ大尉が、これもフローレンス夫人に
結婚1年目の記念として1942年8月30日にプレゼントしたので、
あえて「スィートハート」と呼んでいるのではないでしょうか。

大尉が亡くなった日から考えると、
彼らの結婚生活は2年半しかなかったということになります。


続く。



海上自衛隊東京音楽隊 第66回定例演奏会 2024年5月21日

2024-05-26 | 音楽

初夏を思わせるある5月の夕、すみだトリフォニーホールで行われた
海上自衛隊東京音楽隊の第66回定例演奏会に参加しました。


パンフレットの表紙に掲載された絵は、
指揮棒を持つ手とその先に手を伸ばし躍動する女性を描いたもの。

自衛隊には各方面の才能を持った人が潜んで?いるので、
もしかしたらこれも関係者の作品かもしれません。


一階通路の後ろほぼ真ん中というラッキーな席でした。

開演前、ホルンと太田紗和子一等海曹のピアノ伴奏による
モーツァルトのホルン協奏曲第1番の第1&第2楽章、
そして「浜辺の歌」という内容のミニステージがありました。

(演奏が始まると撮影禁止となり、係が注意をして回っていた)

コンサート・ファンファーレ「躍動」
渡邉大海

音楽隊には楽器演奏だけでなく作曲に才能を発揮する隊員が多数います。


過去、そんな人たちが残した曲が重要なレパートリーとなって演奏され、
受け継がれていくのを、私たちは見てきました。
(特に河邉一彦元隊長の『旅立ちの日 Departure』は名作)

この日初演されたこの曲もまた渡邉大海(ひろみ)一等海尉の作品で、
おそらくこのコンサートのために書き下ろされたものだと思われます。

パンフの紹介によると、渡邉一尉は東京音楽隊の教育科長とのこと。

音楽隊では任官する=指揮者となる、という意味でもあります。

教育科というのは初めて聞きましたが、自衛隊音楽隊の教育組織のことで、
入隊後の基礎教育過程を行う担当部署です。

音楽隊員になるには自衛官採用試験に合格するのが最低条件で、
海上自衛官としての基礎教育をまず教育隊で受けるのですが、

この教育隊は音楽隊専用ではなく、そこでは一般隊員と同じ過程を受けます。

音楽隊員を志望する者は、教育隊終了後、さらに実技試験を経て
「要員適性検査」に合格してのち、海士音楽過程、初任海曹過程、
海曹音楽過程等を経ることによってそれぞれ入隊資格が得られますが、
渡部一尉はこの教育科のトップということなのだろうと思われます。

ちなみに幹部ですが、音楽隊の幹部(音楽幹部と呼ばれる)は、
部内幹部候補生試験を受け、合格したのち幹部候補生学校で訓練を受けて
管理職&指揮者という道を歩むことになるということです。

海上自衛隊東京音楽隊一等海尉 渡邉大海 
(CALM ~凪・和・静~) 
さいたまスーパアリーナけやき広場 火曜コンサート
渡邉一尉の他の作品です。
そこはかとなく漂う昭和の香り。

♬ 吹奏楽のための交響的素描「オセロ」A.リード

オセロ 〜 5つの場面によるコンサートバンドのための交響的描写
(A.リード)


アルフレッド・リード博士ご本人の指揮が見られます。
「アーセナル」「エル・カミーノ・リアル」などはよく演奏されますが、
この曲をコンサートで聴いたのは初めてでした。

ベルディのオペラ「オテロ」(イタリア語ではOtello)では、
不義の疑いをかけられ夫に絞殺されるデズデモーナが前夜に歌うアリア、

「柳の歌〜アヴェ・マリア」は、彼女の死の覚悟の表明となっており、
こちらはさすがシェイクスピアの三大悲劇の一つと感じさせます。

本作第3楽章はそれを思わせる悲痛でロマンティックなものでした。

作曲者アルフレッド・リードは特に日本と関係が深く、
生前、積極的に日本の高校生バンドを指揮していたらしいので、
自衛隊にもかつて同じステージで演奏したことがある人がいるかもしれません。

ところで今日知ったどうでもいい話をもう一つ。
アルフレッド・リードは実は本名「フリードマン」だそうです。

この名前はまごうことなきアシュケナジム・ユダヤの家系を意味しますが、
なぜご本人がこの名前を嫌った(避けた?)かはわかりません。

音楽をしていると、ユダヤ人であることで有利にこそなれ、
逆に何か不都合なことある?と日本人は思ってしまうのですが、
ご本人はそう思われたくなかったということなんでしょうか。


♫ シェナンドー アメリカ民謡

ご存知バージニア州に流れる広大な河を歌った民謡です。
三宅由佳莉二等海曹がノスタルジックに、繊細に歌い上げました。

Shenandoah (Arr. F. Werle and M. Davis)
まるで心が洗われるようなアメリカ空軍バンドの演奏をどうぞ。
歌手もコーラスも空軍音楽隊の隊員でしょうか。

USA State Song: Virginia - Our Great Virginia [Traditional]
この旋律はバージニア州の州歌に使われています。

画像の、人が誰かを踏みつけにしているのが気になった方のために説明すると、
バージニア州の旗の意匠は
「槍を持った美徳の象徴が堕落した専制政治を行う暴君を踏みつける」
なんだそうです。
なんか我々日本人の感覚では色々ありえませんよね。
踏みつけという行為もさることながら、それをシンボルにするってどうなの。

♪ スクーティン・オン・ハードロック
:三つの即興的ジャズ風舞曲
D.R. ホルジンガー

Scootin' on Hardrock

ミズーリ州出身の作曲家デイビッド・ホルジンガーの作曲です。

この曲で7分の3✖️7分の4の変拍子がグイグイドライブしていたように、
ホルジンガーは、変拍子を多用する作曲家だということだそうです。
特に打楽器群の皆さんは血湧き肉躍るって感じできっと楽しいだろうなあ。

あるサイトで、ご本人のこの曲についてのノートを見つけました。

私のオフィスから東に半マイルほど行くと、
かつてのメインストリート、ハードロック・ロードを横切る。

この小さなコミュニティは、最初の20年間は繁栄していたが、
30年前にこの街が吸収されると、ハードロック・ロードは
未来と「郡による維持管理」の両方から見放され、大打撃を受けた。

全長わずか1マイルの道の老朽化した地区には数軒の家が残っている。
廃業した馬小屋や運動場、それに加えて「ジョイント」が2軒、
小さな食料品店、溶接工の店、スクラップ置き場がいくつもある。

もうハードロック・ロードをぶらぶら歩くことはない。
あそこを車で通るのは、行ったことのある場所から
行ったことのない場所へ行くためだけだからだ。

とにかく、地元の人たちだけは、どこへ行くにも近道だと思っている。
でも昔は、ハードロック・ロードが町の中心だったんだ。

「スクーティン」はスクーターのScootinであり、
「素早く:速く行くこと」という意味だそうです。

I'll have to scoot (= leave quickly) or I'll miss my train.
(早く行かないと汽車に乗り遅れる)


のように使います。



ところで冒頭に貼ったのは、この日ロビーで配られていたパンフの表紙で、
こんなスリップファイルに入っていました。

空自はカラカル、海自はウサギ、陸自はタヌキと・・ハツカネズミ?
陸自のネズミさんが可愛いぞー。

米軍=黒マスク、日本軍=白マスク

パンフの中身は海上自衛隊の活動紹介とリクルート。
日米合同でサイバー対処訓練もしてますよっと。


下の写真は7Fの軍楽隊なんですが、あらためて、
米軍音楽隊ってセーラー服もありなんだなと気づきました。

深く考えたことはありませんでしたが、そういえば
自衛隊音楽隊は海士でもセーラー服を着ませんよね。

調べたところ、自衛隊に入隊後、海士にはセーラー服が支給されますが、
音楽隊員に正式に配属になると、専用の制服があるので、
その時点でセーラー服は返納することになっています。

但し車両・給養などの業務を行う音楽隊海士はセーラー服を着用します。

アメリカ海軍では昔からセーラー服が正式なステージドレスの一つです。

【アメリカ第七艦隊音楽隊】@湘南台ファンタジア2022
([US 7th Fleet Band] @ Shonandai Fantasia 2022)

まあ、「踊る大紐育」を見たことがあれば、
これでジャズをやってこそアメリカ軍楽隊!というイメージですよね。



♬ マーチ「プロヴァンスの風」

休憩を挟んで後半が始まりました。
前半の渡邉一尉に変わり、音楽隊長植田哲生二等海佐が指揮を執ります。

この日、一階席前方には制服の女子高生の姿が多数見えました。
学校単位で申し込むのか、音楽隊のご招待かはわかりませんが、
自衛隊音楽隊が次世代への吹奏楽の伝承と教育を
活動目標の一つに据えていることは、間違いありません。

学生たちもプロの演奏に触れる機会が多いほど勉強になりますし、
なんと言っても自衛隊の宣伝と潜在的入隊希望者となってくれます。

そんな高校生たちのためにもしかしたらこの曲は選ばれたのかも・・・。

プロヴァンスの風 フルver 響け!ユーフォニアム 届けたいメロディOP

ご存知とは思いますが、本作制作はあの京都アニメーションです。
テロップに名前のある作画総監督の池田晶子さんも事件の犠牲者の一人です。

♫ 「ハウルの動く城」ファンタジー

吹奏楽のための交響的ファンタジー「ハウルの動く城」 (Wind Orchestra)

自衛隊音楽隊の演奏会でいつも感心させられるのがプログラム構成です。

そのときの話題や社会情勢などから関連するテーマが選ばれたり、
季節やアニメ、映画作品からなど、いろんなアプローチがありますが、
その選択はいつもよく考え抜かれており、聴衆を最後まで飽きさせません。

曲の硬軟、有名無名、難易のバランスが全体で取れていて、
どんな年齢層の人も最後まで楽しめる工夫がされているのです。

宮崎駿監督の「ハウルの動く城」のテーマ「人生のメリーゴーラウンド」、
そして「世界の約束」は、同ジャンルでも人気のある曲で、
どちらも初めて聴く人にも受け入れられる美しい旋律を持ちます。

♬ 明日への手紙

手嶌葵「明日への手紙(ドラマバージョン)」

ジブリ作品の「テルーの唄」「コクリコ坂から」も手がけた歌手、
手嶌葵の歌ったこの作品を三宅二等海曹が、ピアノ、クラリネット、
パーカッションの小編成バンドをバックに歌いました。

おそらく東音メンバーの手によるものだと思いますが、
ボーカルに寄り添うこのバックのアレンジが、涙が出るほど良かったです。

三宅二曹の透明感のある声もこの曲にぴったりでした。

♫ パリのアメリカ人 ジョージ・ガーシュウィン

Gene Kelly & Leslie Caron - Dancing Scene 04 – An American In Paris
Gene Kelly & Leslie Caron - Dancing Scene 05 – An American In Paris
あえて映画のダンスバージョンを貼っておきます。
ジーン・ケリー最高。

今年はオリンピックイヤーです。
東京オリンピックが一年延期になったせいで、
今年の夏にパリオリンピック開催、とアナウンスで聞いて、

軽く驚いたのはもしかしたらわたしだけではなかったかもしれません。

そこで最後の曲に選ばれたのがこの「巴里のアメリカ人」
An American in Parisです。

ところで、昔々、実家にあったLPレコードは、
A面が「ラプソディ・イン・ブルー」、B面が「巴里のアメリカ人」でした。
この扱いは、あたかも後者が前者のオマケみたいな印象を与えたものです。

しかし、単体でこの曲を聴くと、とてもそんなことは言えません。

この日は、改めてそれを実感させられる演奏が聞けました。

この曲の「お手軽感」については、ガーシュウィン本人ですら

「ベートーベンのシンフォニーってわけじゃないです。
ユーモラスで、厳粛さは全くないですしね」

と言っていたそうですが、だからと言ってこの曲が
音楽的な価値においてもB面扱いというのは大いに間違っています。

そして、この曲はこの日のプログラムの最大の聴きどころとなりました。

演奏時間ほぼ17分と、切れ目なく続く楽曲としては大作で、
それだけに演奏の構成や聴かせ方にも指揮者の腕が問われるところですが、
この日の植田隊長は、この曲を鮮やかな水彩で仕上げるようにさらりと、
かつ丁寧にダイナミクスをコントロールし、飽きさせませんでした。

1920年代、アメリカ人の旅行者(フランス人のいうところの”田舎者”)が、
車の喧騒の中シャンゼリゼ通りをそぞろ歩き、
カフェの前で立ち止まって中から聞こえてくる音楽に耳を留めたり、
セーヌ河を過ぎてふと故郷を思い出し、物悲しくなったり、
フランス風のチャールストンの響きに包まれたりする様子を描く。


確かに「深い意味のない標題音楽」ですが、その描写センスは一流です。

具体的には、始まってすぐ、彼(アメリカ人)は車の喧しいホーンに驚き、
おそらく運転手から怒鳴られたりするのですが、(F・モレシャンによると、
パリは上品マダムでも車の運転のとき歩行者を大声で罵ったりするらしい)
このホーンが、実に本物っぽくて大満足でした。

・・・というか、本物のホーンだったのかな?

実は、このタクシーのホーンについては作曲者の思い入れがあって、
ガーシュウィン、パリから帰るときに、わざわざ

車のホーンを4本買って持ち帰った

というのです。
チャイコの「序曲1812年」の「大砲」ではありませんが、
ちゃんと楽譜には「タクシーホーン」という指定があります。
ガーシュウィンのオリジナル譜はこのホーンを
「A♭、B♭、高めのD5、 低めのA」
で記していましたが、現代の楽譜ではD,C,H,Aとなっています。

今ではこんな楽器が使われます。

タクシーホーン

Kolberg Taxi Hornだと、お取り寄せで21万円税別となるそうです。
高っ。
しかし、この楽器、この曲以外に使い道あるんだろうか。

また、これが調達できない場合、トランペットで代用するそうです。
この日の東音がどちらで演奏したかは恥ずかしながらわかりませんでしたが、
もう本物じゃないかってくらい、ホーンの音そのものでした。

あと、ダイナミクスといえば、街の喧騒や、アメリカ人のウキウキした気分、
それらがパリ独特の香りすら感じるほど生き生きと表現されていました。

後で知人と、この日の演奏中一番満足した、と言い合ったものです。

♫おまけ


いただいたパンフレットの日米共同訓練の様子。
「きりしま」と「ジャクソン」のツーショット。
仲良きことは美しきかな。


というわけで、東京音楽隊演奏会のご報告を終わります。
彼らの弛まぬ研鑽といつもながら完成度の高いステージに拍手を送りつつ。



コードネーム「ミッキー」ブラインド爆撃作戦〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-23 | 航空機

appleTV制作の「マスター・オブ・ザ・エアー」劇中、
バーで一緒になったアメリカ航空隊とRAFの隊員の間で
アメリカの白昼攻撃を巡りちょっとした言い合いが起こるシーンがあります。

搭乗員が足りない、というアメリカ軍クルーに対し、RAFクルーは、

『それは君らが馬鹿みたいに昼間攻撃するからだ』

と半ば揶揄するかのように返すのですが、
その言葉は、アメリカ軍搭乗員たちがただでさえ持っていた

危険な昼間の攻撃に対する不安をドンピシャで言い当てたものだったので、
彼らはそれに対し猛烈に反発を始めるのでした。

そこで、すかさずナレーションが入ります。

RAFの夜間爆撃は民間人相手の無差別攻撃であるのに対し、
アメリカの白昼細密攻撃は軍事施設だけを狙ったものだった。


お決まりの「正義のアメリカ」礼賛です。

2000年代になってもアメリカ人がそう思いたいのは勝手ですが、
それでは、夜間の無差別爆撃で何万人という民間人を殺戮した
あの東京大空襲はなんだったのか。
市民を無差別に虐殺した2発の原爆はなんだったのか。


実際のところ、アメリカとイギリスは連合国同士で打ち合わせた上で、
昼の軍事施設爆撃(米)と夜の無差別爆撃(英)で切れ目なく相手を攻め、
ピンポイントで生産を遅らせつつ、民衆の戦意を削ぐということを
二交代制でやっていたというだけにすぎないのです。

ノルデン照準器を持っていたアメリカが細密攻撃を行い、
そうでないRAFがそれ以外を請け負った。
つまり役割分担の違いというだけのことではないですか。

昔から、日本の戦争映画は果てしなく自虐、
アメリカの戦争映画は果てしなく自画自賛というのが相場ですが、
この最新の映画においてもその傾向は健在ということが確認できました。

ちなみに、映画では、RAFグループの嫌味な態度に
アメリカ人たちはすっかり腹を立てて、別れてから

「チッ・・・だいたいRAFってなんなんだよ」

「Riffraff(役に立たない人、ゴミ)だろ」

と悪口を叩くのですが、実際に白昼攻撃に向かう前に
彼らの言ってることは正しい、とうなだれるのでした。

責めるなら交代制で苦労する方を選んだ上層部を責めるんだな。



 ブラインド攻撃 「ミッキー」



俺ら軍事施設を細密攻撃するぜ人道的に!とドヤったアメリカですが、
目視ではさすがに細密攻撃が功を奏するわけではありません。

概してヨーロッパ上空は曇りがちで、そうなると
アメリカ軍の爆撃隊はほとんど目視できなくなるわけです。

そこで、重爆撃機はH2Xと呼ばれるレーダーシステムを使用し、
雲の上からブラインド攻撃を行いました。

その名も、

コードネーム"ミッキー "Mickey"

上の写真は1944年10月25日、ドイツ・ハンブルクの石油精製工場上空。
「歩けそうな」くらい厚い雲が立ち込めていますが、
何ヶ所か真っ黒い部分が見えています。

これは第8空軍の爆撃を受けた地面から立ち昇る黒煙です。

それにしてもなんでミッキーなのか。
やっぱりアメリカでミッキーときたら・・・あのネズミよね?

■ H2X "ミッキー "の名前の由来



H2Xは、正式にはAN/APS-15として知られ、
第二次世界大戦中にブラインド爆撃に使用された
アメリカの地上走査レーダーシステムです。


B-17パスファインダー 通称「ミッキーステーション」

中央の円形スコープが表示画面です。
H2Xは空軍の夜間爆撃システムから開発され、
1944年初めに米空軍で初めて使用されました。

米空軍の「H2X」はレーダー・プラットフォームの代名詞であり、
マサチューセッツ工科大学放射線研究所で開発されました。
アメリカ初の空対地レーダー搭載航空機のための極秘プロジェクトです。

第8空軍の最大の功績のひとつは、敵戦闘機、敵対空砲火の前にも
一度も作戦を後退させなかったことらしいですが、
ヒットラーがロシアの冬将軍に勝てなかったように、
同じことがヨーロッパの天候には言えませんでした。

実際多くの任務が、ルート上や目標地域上空の悪天候のために、
中止、中断、回収されています。

この事態を打開しようとしたミッションが、「ミッキー」でした。

「ミッキー」という名前を生み出したのは、第812爆撃中隊長で、
第482パスファインダー爆撃群配備の中心人物の一人であった
フレッド・ラボ中佐です。

Major Fred A. Rabo 

1942年と1943年、ヨーロッパでの爆撃隊の任務を成功させる上で
大きな問題となるのが冬季の天候不順であることは
第二次世界大戦が始まる前からアメリカ空軍の共通認識でした。

RAFは、以前から同じような天候の問題に対処するため、
航法補助として電波ビームとレーダーを開発していました。

そこで爆撃隊の中の人がパスファインダー・グループの計画を打ち出し、
その後1943年8月20日、第482爆撃群(パスファインダー)が、
電波ビームとレーダー装置を使用する爆撃隊として組織されます。

ラボ中佐は、パスファインダー・グループ設立のため米国に戻り、

M.I.T.放射線研究所で開発されたレーダーを装備したB-17を入手しました。

レーダー付きB-17

M.I.T.レーダーはH2Xとして知られていました。
機首の下に格納式H2Xユニットを装備したB-17を初めて見たフレッドが、

「あのレドーム、ミッキーマウスみたいだな」



といったことから、このニックネームは定着し、
その後「ミッキー」と短縮されて作戦名になりました。


せっかくパスファインダー(開拓者)というかっこいい名前があったのに、
このおかげで、第二次世界大戦の残りの期間中、
H2Xレーダーユニットは「ミッキー・ユニット」、
オペレーターは「ミッキー・オペレーター」と呼ばれることになります。

アメリカ人だからこっちの方が本人たちも嬉しかったかもしれませんが。



■ H2Xパスファインダー


H2Xを使えば、夜であろうと昼であろうと、雲に覆われていようといまいと、
同じ精度で都市の位置を特定し、大まかな地域を標的にすることができます。


ロッテルダム南西のオランダ沿岸を示すH2Xスクリーン。 

この時攻撃したオランダ沿岸の地図。

ミッキーは目視爆撃ほど正確ではありませんでしたが、
悪天候でも中止せずに戦略攻撃を続けることができました。

最初のH2Xを搭載したB-17は1943年11月3日、第8爆撃機部隊が
ヴィルヘルムスハーフェン港を攻撃したときに初めて実戦で使用され、
この時の任務は最初のことだったので「パスファインダー・ミッション」、
搭乗員はまだ「パスファインダー・クルー」と呼ばれていました。

攻撃方法は、以下の通り。

アメリカ陸軍航空隊のパスファインダークルーと、

RAFのパスファインダークルー(どちらもアメリカで訓練を受けている)
を乗せたレーダー装備パスファインダー機が編隊の先に飛び、
レーダーによって目的をマーキングしたときに爆弾投下します。

それを見た全ての爆撃機が、続いて爆弾を投下します。


ベルリンに目標を定め、到着したらどこに爆撃すべきか、
レーダーによってわかるというわけです。



なぜかフランス語説明による「ミッキーセット」に必要な道具。
左端のアンテナですが、これ、何かの形に似ていませんか?

そう、ボール・ターレットです。

この設置のために、のちに第91爆撃群がボール・ターレットの場所に
H2Xの回転アンテナ用腹側半球レドームを設置するようになり、
後のB-24リベレーターに搭載されたH2Xもターレットに取って代わり、
ボールターレットは格納式に変えられました。

ボールターレットをレーダーレドームに改造したB-24「パスファインダー」

胴体着陸したら砲塔ごと潰れて死ぬしかなかったB-17のボール砲塔砲手は、
これを聞いて微妙な気持ちになったかもしれません。

「ミッキー・セット」は副操縦士の後方(無線オペレーターの位置)
の飛行甲板に設置され、戦闘地域にさしかかると、
ミッキー・オペレーターがパイロットに進路を指示し、
爆弾投下時には爆撃兵と連携して指揮を行いました。



ミッキーが最初に使用されたのは1944年4月5日の
プロイエシュティ攻撃(タイダルウェーブ作戦)でした。

その結果については、もうみなさんご存知の通り。

以前同作戦について説明したように、この作戦は対費用効果で言うと、
アメリカ軍の損失多すぎと言うことで結論づけられていましたよね。

このとき新兵器であるレーダーは確かに正しく機能したのですが、
いかんせん、ドイツ軍の防空陣地上空をまともに通過する経路だったため、
激しい対空砲火と迎撃で多数の損害と犠牲を出してしまいました。

攻撃そのものの被害が多すぎたので、「ミッキー作戦」も、
それに見合うだけの戦果だったかというと、微妙だったということです。


続く。




「小さな戦友」戦闘機掩護〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-20 | 航空機

アメリカ空軍博物館の爆撃機関連展示、
今日は爆撃機を掩護した戦闘機についてです。

ところで今更ですが、戦闘機が爆撃機を守る行動のことを
「掩護」といい、「援護」とはあえて違う漢字を使うのは、掩護には
「敵の攻撃から味方を守る」という援護より狭い意味があるからです。

■ファイター・エスコート


戦略爆撃作戦の前半部分で書きましたが、この頃のアメリカ空軍は
ドイツ国内の標的を攻撃する重爆撃機に護衛戦闘機を持ちませんでした。

理由は単純で、小さな戦闘機では航続距離が短かったからです。
途中まではついてきても、肝心の敵地近く、
敵戦闘機がやってくる辺りまで来られる戦闘機がなかったのです。

その結果、重爆撃機の乗組員は壊滅的な損害を受け、
作戦そのものの継続が危ぶまれるまでになりました。

そこでアメリカが工業力と技術力を傾け開発した結果、
1944年初頭までに、P-47とP-38が改良され、
ドロッパブル(使い捨て)燃料タンク、そしてP-51が導入されます。

このことで戦闘機の航続距離の問題は解決され、
同時にアメリカ軍の重爆撃機の損失は減少。

このことはルフトバッフェの戦闘機の損失数を拡大させ、
1944年6月のDデイ侵攻に対抗することができなくなっていきます。


爆撃機編隊の上空に戦闘機が描く芸術的な白い線。
これは防御のための「傘」といわれます。


B-24爆撃機に随伴するP-47サンダーボルト
パイロットはカメラ目線ですね。

頑丈なサンダーボルトは1943年半ばにヨーロッパで就役しました。
 当初、P-47はドイツ国境を越える爆撃機を護衛するには
航続距離が足りませんでしたが、その後の改良で航続距離が伸びています。


第20戦闘航空群P-38パイロット、アーサー・ハイデン中尉と地上クルー。
「ラッキー・レディ」という彼の戦闘機のボディにはトップハット
(シルクハット)のマークがたくさん描かれていますが、
ハット一つがすなわち爆撃機の護衛任務一回を表します。

そして彼の敵機撃墜数は2(3かも)。


B-17の主翼近くを飛ぶイギリス空軍(RAF)のスピットファイア
このパイロットも写真を撮られているのがわかってこちらをみています。

1943年半ばごろのショートレンジのスピットファイアは、
このようにアメリカ空軍の重爆撃機の護衛を行いました。
アメリカ軍パイロットが操縦することもあったようです。



そして満を持して1943年末にヨーロッパで導入された
高速長距離戦闘機P-51マスタング
アメリカ空軍の究極の護衛戦闘機となりました。



有名な第4戦闘機群の司令官、ドン・ブレークスリー大佐
ベルリンへの護衛任務で使用した地図(コピー)。
ベルリンの場所は赤い星印で示しておきました。

 黒い線は爆撃機の進路を、赤い線は護衛戦闘機の進路を表しています。

全く違うところから出発してドイツ上空に入るところでランデブーし、
爆撃任務を終えたらドイツ国境を出るまで同行し、
そこから先は別れてそれぞれの基地に帰投します。

第4戦闘航空団はこのミッションで26機の敵機を撃墜したと主張しました。


ブレイクスリー大佐



第4戦闘機群パイロットのサインがされた、
スピットファイアの独特の形をしたプロペラブレードと時計。

1943年3月1日、スティーブ・ピサノス中尉が離陸しようとして、
ランディングギアを格納するのが早すぎて機体が地面を擦り、
プロペラのブレードが折れてしまいました。

翼の上にある時計は、9時8分を差して止まっています。
おそらく決められた離陸予定時間は0900だったのでしょう。

プロペラにはその時参加していた戦闘機パイロット
(多くは有名なRAFイーグル飛行隊に所属していた志願兵)
全員のサインがありますが、何が目的でしょうか。

骨折した友人のギプスに皆がサインするみたいなノリ?

戦闘機パイロットの階級はほとんどが中尉で、
キャプテン(大尉)が4名、少佐(ドン・ブレイクスリー)が1名です。

第4戦闘航空群は「イーグル飛行隊」と呼ばれ、
当初はP-47 サンダーボルトを運用していましたが、
パイロットたちは鈍重なP-47に不満を持っていました。

リパブリックP-47D

1943年4月に西ヨーロッパ上空で初の戦闘任務に就いたサンダーボルトは、
高高度の護衛戦闘機としても、低空戦闘爆撃機としても使用され、
その頑丈な構造と空冷ラジアルエンジンにより、
激しい戦闘ダメージを吸収してなお飛び続けることができました。
(ただし航続距離はない)




ダンボマーク

1943年後半までに、航空群司令官のドン・ブレイクスリー大佐は、
より軽快で機動性の高いP-51 マスタングに機材を更新します。


NMUSAのノースアメリカンP-51Dマスタング

P-51Dは1944年春にヨーロッパに大量に到着し、
アメリカ空軍の主要な長距離護衛戦闘機となります。

多用途のマスタングは戦闘爆撃機や偵察機としても活躍しました。
終戦までにマスタングは4,950機の敵機を撃墜していますが、
これはヨーロッパにおけるアメリカ空軍の戦闘機の最多記録です。



ちなみに、P-51の配備に際し、第8空軍司令部は
第4戦闘機隊のパイロットが機材を受け取ってから
24時間以内に運用が可能であることを条件にしたのですが、
ブレイクスリーはこの条件を飲み、パイロットたちに

「目標に向かいながら操縦の仕方を覚えるように」

と指示したという逸話が残っています。

んな無茶な。
余程部下の基礎能力を信頼していたってことなんだろうか。



ガンカメラのフィルム・マガジン。
ドイツ上空での護衛任務に就いたP-38ライトニングに装備されていたもので、
Bf 110の後方砲手が放った7.92mm弾に命中した痕があります。


P-38パイロットのロイヤル・フレイ中尉が任務の際に携行した、
イギリスの金属職人によって作られたナイフ。

1944年2月10日、フレイ中尉はドイツのミュンスター近郊で撃墜され、
ベイルアウトして捕虜になり、戦後アメリカに戻りました。


親も何を思って息子にRoyal という名前をつけるのか

 フレイ中尉は後にアメリカ空軍博物館のシニアキュレーターとなりました。



そのことから、当博物館に展示されているP-38Lは
フレイ中尉のマーキングで塗装されることになりました。

ライトニングが初めて大規模な任務に就いたのは1942年11月。
ドイツ軍パイロットは、早速この戦闘機に


Der Gabelschwanz Teufel
デア・ガーベルシュヴァンツ・トイフェル

「分かれ尾の悪魔」

というあだ名を付けます。


展示されているP-38Lの左側にあるトップハットのマークは、
パイロットのロイヤル・D・フレイ中尉が飛行した
爆撃機護衛任務を表しており、黄色い帽子=5回、
白い帽子=1回なので、出撃回数合計9回ということになります。


ライトニングが戦闘活動を開始した当時、これが
ドイツへの爆撃機を護衛できる航続距離を持つ唯一の戦闘機でした。

そして1943年4月18日。

太平洋戦線でこの別れ尾の悪魔の性能が遺憾無く発揮されることになります。

真珠湾攻撃の立案者であった山本五十六提督を乗せた航空機を、
P-38の編隊が待ち伏せし、これを撃墜するのに成功したのでした。



続く。


「戦車を撃つのは卑怯」?ドイツ軍の高射砲〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

国立アメリカ空軍博物館の展示から、
爆撃機関連で今日は高射砲をご紹介します。

■88mmFlaK 36高射砲

FlaKとはFlugabwehrkanone
(フルーク アプヴェーア カノーネ)
の省略形で、ドイツ軍では8.8cm対空砲であることから
「アハト-アハト(Acht-Acht)」
連合軍は88の英語読みでエイティエイトと呼んでいました。


FlaKという言葉は言いやすいので、
連合軍でも将校以外はこのように呼んでいたようです。
単語に分けると、

Flug(フルーク)=航空機
Abwehr(アプヴェーア)=防衛
Kanone(カノーネ)=大砲


となります。

汎用性の高い88mm砲は、第二次世界大戦中、ドイツの主力対空砲でした。
88mm弾が高度で爆発すると、ギザギザの金属片が飛び散り、
近くの航空機(とその内部の人間)を切り裂く威力がありました。
また、空には特徴的な黒い雲が垂れ込めたといわれています。

88mm砲の高速射撃は対戦車砲としても威力を発揮し、
遠方の地上目標に対しては通常砲としても使用することができました。

ドイツ軍の「砂漠の狐」として英雄だったエルヴィン・ロンメルの副官、
ハインツ・シュミット中尉という人の回想でこんな話があります。

北アフリカで捕虜になり尋問を受けていたイギリス軍の戦車兵が、
彼らを負かした88ミリ高射砲を憎らしげに見ながらこう言いました。

「高射砲で戦車を撃つのは卑怯ですな」

それを聞いたドイツ軍の砲兵が、勢い込んで口を挟みました。

「”アハトアハト”以外では撃ち抜けない装甲の戦車で攻めてくるのは
それ以上に卑怯じゃないか!

解説しよう。

装甲の強さで定評のあるマチルダII歩兵戦車に絶対の自信を持ち、
北アフリカの208高地に攻め入ったイギリス戦車隊ですが、
待ち受けていたドイツ軍の88ミリに装甲板を貫かれたのです。

作戦開始から三日でイギリス軍は撤退しましたが、
その戦車損失の原因の大半は高射砲にありました。

ついでにロンメルが出たので、思い出した昔読んだ本の一節によると、
ロンメル将軍は連合国軍からも畏敬の的となっており、
イギリス(軍?)では「Do Rommel」という言葉が

たしか「うまくやる」という意味に使われていたとかなんとか。

ちなみにロンメルは、その人気と名声を周りに妬まれたのもあって、
ヒトラー暗殺計画関与の疑いをかけられ、自決してしまいました。

惜しい人を亡くしたものです。

【ゆっくり解説】エルヴィン・ロンメル ゆっくりでごめん


閑話休題:博物館の88ミリ砲は、連合軍の戦略爆撃作戦中に
ヨーロッパで使用されたドイツ軍の典型的なタイプとなります。



砲身にペイントされた白いリングは、いわゆる「撃墜マーク」で、
砲員によって撃墜された航空機の数を表しています。



対空砲火の直撃は爆撃機にしばしば壊滅的な損害をもたらしました。

写真の爆撃機もちょうど高射砲弾がヒットしたところですが、
驚くべきことに、このB-17の10人の乗員のうち5人は、
制御不能に陥る前にベイルアウトすることに成功しています。


(おそらくボール砲塔砲手は脱出できなかったでしょう)



「FlaKの煙は、外に出てその上を歩けるほど分厚い」

とは、対空砲火の激しさを言い表す常套句でした。
写真に見える黒い雲は炸裂する対空弾によって生成されます。



このチャートはドイツの各種対空砲の射程距離を示しています。
最小の7.92mmと最大の150mmでは、
その射程距離に38フィートの開きが出てくるということがわかります。

88ミリ対空砲は有効射程26フィート、
最大射程33フィート、マキシマムで36フィートまで届きます。
スペックでは、

有効射程14,810m(対地目標)
7,620m(対空目標)
最大射程11,900m(対空目標)


とされています。
チャートは連合国側によって作成されたもので、
米空軍の重爆撃機は、これを踏まえて有効射程の限界で飛行していました。


対空砲が構造物に当たった時の衝撃を表す壁の展示です。

ここに20ミリ対空砲実物が展示してあるのですが、
20ミリ砲が当たった時こんなふうになるものでしょうか。

これは戦車も破壊する88ミリの痕ではないだろうか。



20mm対空機関砲 フラークヴィアリング38
Flakvierling 38 20mm Antiaircraft Gun

20mm Flakvierling 38は第二次世界大戦中のドイツの対空砲です。
Vierlingとは、四連装を意味します。
ドイツ語で「四つ子」というときは「ヴィアリング」というそうです。
そういえば、双子は「ツヴァイリング」だったっけ。

共通の架台に4つの砲身を搭載し、折り畳み式シート、

折り畳み式ハンドル、弾薬棚を備えていました。

架台は三角形の台座で、各脚には砲を水平に保つジャッキが付いています。
トラッカーは2つのハンドホイールを使って手動で砲を

トラヴァース(旋回)&エレベート(上昇)させます。

砲は2つのフットペダルによって発射され、自動またはセミオートで作動。
低空飛行する連合軍機に対して広く使用され、
しばしば対空砲塔やその他の常設架台に設置されました。


訓練中

仕様
口径:20mm(0.79インチ)
銃身長:4.08m 51½インチ(フラッシュハイダー含む)
重量:1,509kg 3,200ポンド
高さ:1.6m 10フィート1インチ(銃を高くした状態)
最大垂直距離 4,012ヤード
発射速度:実用800発/分

サイクル1,400発/分 サイクリック
マガジン装弾数:20発
装弾数:16マガジン(320発)


制作はマウザー社。
88ミリ砲はクルップ社です。

■ドイツ戦車兵グッズ

「フライヤーの脅威;対空砲火」

壊滅状態に至ったといえ、ドイツ軍の対空砲火(対空砲火)は、
アメリカ空軍の飛行士たちをますます苦しめていました。

戦闘機・爆撃機のパイロットの任務は基本低空で行われますが、
任務中、もし対空砲火の直撃によって機体が致命的な打撃を受けたとき、
もし低空だったらベイルアウトできるだけの高さがありません。

対空砲はFliegerabwehrkanoneの略で、
大都市で見られる128mm砲まで様々なサイズがありました。

最も効果的な対空砲は、20mm軽対空砲と有名な88mm両用砲でした。



1、ルフトバッフェ・ヘルメット
ドイツ軍の高射砲手が防護のために身につけていた標準タイプ

2、FlaK砲手のバッジ
対空砲に従事する砲兵が身につけていた

3、FlaKコンバットバッジ
受賞された高射砲手に与えられた戦闘バッジ



スポッティング双眼鏡
ドイツ製10倍双眼鏡。地上から狙いをつけるため使用。



6、ルフトバッフェ・ベルトバックル
多くの高射砲手がドイツ空軍の所属でした。

7、20ミリ対空砲弾
典型的な20ミリFlak対空砲の砲弾。
(太い万年筆かと思った)

8、コンピュータ
レンジと方向を計測するコンピュータ。
88ミリ砲の砲手たちが使用していたもの。

最後に、とんでもない誰得おまけを。

wikiの20ミリ高射砲のページにこの武器が登場する映画、
ゲーム名が掲載されていて、ゲームだと「艦つく」「ウォーサンダー」、
映画だと「インディジョーンズと運命のダイヤル」なんかがあります。

そして、もう一つ高射砲が登場する映画が問題の


「Eine Armee Gretchen」(陸軍のグレッチェン)

この作品は、第二次世界大戦末期、人員不足のドイツ国防軍に
主に士気を高めるという目的で金髪女性派遣団が結成されるという話。

戦闘シーンもそれなりに出てくるようですが、
つまりは「そういう」映画のようです。

しかも、たった一件寄せられた評価によると、深みはもちろん演技も酷く、
そっち方面から(そっちってどっち)見ても中途半端な駄作ということです。

それにしても、ドイツ人がこんなおふざけ映画を?と思ったら
案の定制作はスイスで、発表当時も低評価の嵐だったようです。

でもwikiに載ってるくらいだから、少なくとも高射砲は
ちゃんとしたレプリカか本物を使ってたってことなんだよなあ。

小道具担当が意地を見せたか、それとも現物を手に入れたか。
それを確かめたくても、日本でこの映画見る方法は多分ないと思いますが。



続く。


「ラッキー・バスタード・クラブ」〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-14 | 航空機

アメリカ空軍博物館の爆撃機シリーズより、今日は、
「Missing in Action」任務中行方不明、というタイトルのコーナーです。

パネル中央には冒頭の涙ぐむ美女が、

「Please...get there and BACK!」
(お願い・・無事に戻っていらして!)


と訴えており、その下に

BE CAREFUL WHAT YOU SAY OR WRITE
(何を言うか、何を書くか注意してください)


とあり、これが実は防諜啓蒙ポスターであることがわかります。

うかつにしゃべったり手紙に書くことで、
愛する人が無事に帰れないかもしれないと脅しているんですね。


彼女の恋人たちの任務は、情報が漏れることによって失敗し、
それはひいては彼らの命が失われると言うことにつながります。


■ 大空襲、大損害、クライシス


1943年後半、米空軍は重爆撃機部隊の増強を続けました。
しかし、敵陣深く進入して目標を攻撃するにつれ、
驚異的な損失が昼間戦略爆撃の概念全体を脅かすようになります。

敵地深くまで飛んで爆撃ミッションを敢行。
「メンフィス・ベル」のように25回任務を達成するまで
撃墜されずに生き延びられるほうが稀というものでした。



編隊を組んで飛ぶB-26の周りに見える小さな黒煙は、
地上から撃ち上げられる対空砲です。


つまりアメリカ空軍の初期の想定が間違っていたのです。

掩護なしの重爆撃機は敵戦闘機から身を守ることはできませんが、
不運なことに、当時のアメリカ陸軍航空隊の戦闘機は、
敵陣深くまで爆撃機に随伴して攻撃できる航続距離を持ちませんでした。

映画「メンフィス・ベル」でも、途中まで援護してきた戦闘機が
ある地点で挨拶をして帰っていくのを、乗組員が吐き捨てるように
ここまでかよ、みたいなことを言うシーンがあったと記憶します。



2本平行にたなびく煙は、もしかしたら墜落機のもの?

1943年に限ると、第8空軍の爆撃機乗組員のうち、
25回の任務を完遂したのはわずか約25%で、残りの75%は死亡、
重傷を負った、あるいは墜落機から脱出して捕虜となりました。



高射砲に被弾し、エンジン部分から激しく炎を噴くB-24。



ドイツ上空で対空砲火が直撃したB-24リトル・ウォーリア。

ベンソン中尉

 副操縦士のシドニー・ベンソン中尉一人だけがベイルアウトしましたが、
ベンソンは地上で怒り狂ったドイツ民間人に暴行を受け、死亡しました。

日本でも、ベイルアウトしたアメリカ人航空士が民衆に暴行された例はあり、
長髪だったせいで、アメリカ人と間違えられた日本人の海軍飛行士が
民衆のリンチにより死亡したという事件も起こっています。

この事件以降、航空隊員は袖に日の丸をつけるようになりました。


任務を完遂できる確率が低いことを知りながらも、
爆撃機乗組員は勇気をもって粛々と任務を遂行しました。



1943年11月、ドイツのゲルゼンキルヒェンへの任務後、
対空砲火で脚を負傷し、救急車に運ばれる
爆撃手マリオン・ウォルシェ陸軍中尉。

回復後も飛行を続けるも、1944年2月にまた撃墜され、捕虜となりました。


「ソンバー(Somber)・デューティー」

somberとは単純に色や明るさが地味とかくすんだ、とか暗い時に使い、
そこから「厳粛な」「陰鬱な」「重苦しい」という意味を持ちます。

葬列を表現するのに「somber march 」などということもあり、
軍隊でいうところの「ソンバー・デューティー」とは、
死者にかかわる後片付けを表すときに使われます。

この写真では、任務に出た爆撃機搭乗員が行方不明になったので、
関係者に身の回り品を送り返すためにロッカーを整理しており、
おそらく搭乗員の戦友が、黙々とこの「地味で陰鬱な任務」を行っています。

残された戦友の恋人の写真を目にしながら、
彼もまた明日は自分、と考えているかもしれません。


■ 「ラッキー・バスタード・クラブ」


いくつかの爆撃機グループには、幸運にも
戦闘任務に生き残った者たちのための
『ラッキー・バスタード・クラブ』

なるものがありました。

「バスタード」はご存知の方もいるかと思いますが、
決して上品ではない、「野郎」みたいなニュアンスの言葉です。

”ラッキーバスタードであることを祝って”

これは、ナチス・ドイツに対する多くの空中攻撃に参加し、
対空砲火、戦闘機の攻撃、悪天候にもかかわらず、
各ミッションから無事に帰還したリチャード・R・ベンソン曹長が、
満場一致でラッキー・バスタード・クラブのメンバーに選出されたことを
証明するものであり、彼と、
このクラブの勇敢で幸運なメンバー全員に

この詩を捧げるものである。

ああ、戦いの英雄、国の誇り
誉れ高き勲章を受けし者よ
女たちの歓喜のため息の対象よ
大空を駆け巡り、戦いの傷を負った勇士よ
臆することのない魂で、自分の仕事をやり遂げた


対空砲火に怯えつつも
最高の決意をもって、多くの任務をこなしてきた
暴力団を一掃し、平和をもたらすために

何千トンもの爆薬でナチスを吹き飛ばし
ナチスを数千トンの爆薬で吹き飛ばした;

ルールでの進軍の道を開き
そして、自由と勝利を確かなものにした

正義の十字軍、ガラハドよ
君が受けるべき栄誉は決してない、
ウイスキーと女とジャイブの家に帰れ;

ラッキーな野郎だぜ 生きて戻るなんて
(You're a lucky bastard to be alive.)

■ ミッシング・イン・アクション


かと思えば。

これは重爆撃機の護衛中に撃墜されたP-38パイロットの妻に送られた、
「行方不明」(Missing in Action)の恐るべき通知です。
これらの電報は何万人もの航空兵の家族に送られました。

ワシントンからサンディエゴ在住である
ナンシー・L・マッカーティ夫人に送られた通知には、

「あなたのご主人であるベンジャミン・F・マッカーティ中尉が
5月9日以来フランスで行方不明になっていることを、
陸軍次官が深く残念に思っているとお伝えしたいとのことです」
ダンロップ准将代理

この通知を受け取ったナンシー夫人の心痛はいかなものであったでしょうか。
しかしこの通知を受け取った約1ヶ月後のことです。



ナンシー夫人はとりあえず安堵の涙を流したに違いありません。

「国際赤十字からたった今届いたばかりの報告です。
ご主人であるベンジャミン・F・マッカーティ中尉が
ドイツ政府の戦争捕虜となっていることがわかりました」

さらにラッキーなことに、マッカーティ中尉は終戦後解放され、
無事に生きて故郷に帰り、妻との再会を果たしました。



戦争中戦地に愛する人がいた人々は、おそらくこの
ウェスタン・ユニオンの電報がくることを恐れていたことでしょう。

ウェスタンユニオンは創立1851年という長い歴史をもつ金融&通信社で、
第二次世界大戦中は電話もまだそれほど普及しておらず、
特に長距離の通信にはテレグラフが中心だったので、
ほぼ独占企業としてこのような軍事通信も担っていました。

テレグラフの内容は、ウィリアム・R・マッカレン軍曹
について1945年4月にわかった情報のようですが、
この人物について調べたところ、1943年の爆撃任務で乗っていた
「サンタアナ」という爆撃機が撃墜され、ドイツで捕虜になっていました。

大きく引き伸ばされたテレグラフの前には、次のような文字が見えます。

「忘れてはならない・・・
第二次世界大戦中、自由のための戦いに命を捧げた
29万2千人のアメリカ国民にこの展示を捧げる」


続く。



「フレンド・オア・フォー?」〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-11 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示より、
第二次世界大戦時の爆撃機を中心にお話ししてきました。



前回はその戦いに命を捧げた人々と任務を取り上げましたが、
そこに名誉メダル受賞者を受けた下の二人のコーナーがありました。



スタッフサージャント、メイナード『スナッフィー』スミス(左)と
同じくアーチボルド・マティエスの二人です。

■一人で乗員全員を救出
メイナード・ハリソン『スナッフィー』スミス軍曹
SSgt Maynard Harrison ”Snuffy" Smith

アメリカにもその時代の流行りの名前があります。

最近は、男の子ならリアム、ノア、オリバー、ジェームズ、エリジャ、
女の子ならオリヴィア、エマ、シャーロット、アメリア、ソフィア、
こんな感じがトップ5ですが、逆にどうも古臭い、と感じる名前もあります。

思い出したので余談なんですが、この人の「メイナード」という名前は
現代には完全にアウトオブデートでイケテナイみたいです。

あるドラマで、主人公の夫が、生まれてくる子供に
どうしても祖父の名前であるメイナードをつけたいというのですが、
妻はこの名前が古臭くて大嫌い。
結局妥協して通名はイニシャル「MJ」になったという話がありました。

流行りの名前は当時のポップカルチャーやイベントの影響を受けるので
「メイナード」は南北戦争時の銃のせいで流行った頃があったのでしょう。

さて、そのメイナード・スミスがなぜ勲章を受けたかといいますと。


1943年5月、彼がボール砲塔砲手として乗り組んだ爆撃任務で
ブレスト上空を飛んでいた爆撃機が対空砲火を受け、火災が発生しました。

スミス二等軍曹は、電源を喪失したボール砲塔からすぐさま飛び出し、
重傷を負った乗員2名を手当てしながら機関銃を撃ち、加えて、
消火のために燃えている破片と弾薬を外に放り出しながら消火器を使い、
消火器が無くなると最後には放尿によって火を消そうと試みました。

飛行機はイングランドにたどりつき、着陸した途端真っ二つに裂けました。
後で調べたら機体に3,500以上の弾丸と対空砲の破片が命中していました。


火災に関しては、ほとんど彼一人の働きで、乗員全員が助かったのです。

この大活躍で、スティムソンから直々に勲章をもらったわけですが、
同じ週、彼は説明会に遅刻したため、罰として
KPポリス(厨房の雑用、芋むきとか)をさせられている真っ最中でした。

しかもその後、彼はPTSDのせいで職務成績不振となり、何をやらかしたか、
兵曹から二等兵に降格、さらに永久追放(不名誉除隊)になりました。

ただ幸いにも、故郷では英雄としてパレードで歓迎され、
軍の悪口をいいながらフロリダで静かに晩年を過ごし、
最終的にはアーリントン国立墓地で永遠の眠りについています。



■ 我が身の危険を顧みず・・・

アーチーボルド・マティーズ兵曹(上段左端)
SSgt Archibald Mathies
ナビゲーター:ウォルター・トゥルンパー少尉(下段右から二人目)
2/ LT Walter Edward Truemper
機長:クラレンス・ネルソン中尉(下段左端)

1/LT Clarence R. Nelson

名前について書いたので流れでいうと、この「アーチーボルド」。
メイナードもたいがい?ですが、こちらもなかなかな気がします。
事実、この名前がアメリカで人気があったのは19世紀後半で、
名前ランキングのある情報によると、


「20世紀初頭には急速に廃れ、1920年にはランク1,000以下だった」

彼が生まれたのは1918年ということですが、スコットランド移民だった
彼の両親は、アメリカの流行がわかっていなかったのかもしれません。


アーチーボルド・マティーズ二等軍曹

は、戦死後その勇敢な行動に対し名誉勲章を授けられました。

1944年2月20日、ライプチヒ攻撃のため搭乗したB-17、
愛称「テン・ホースパワー」の操縦席が対空砲と戦闘機の攻撃を受け、

その結果副操縦士が死亡、機長は重傷を負います。

そこでマティーズはナビゲーター、トゥルンパー少尉と二人で

故障した機を帰投させ、基地管制塔と連絡を取るところまでこぎつけました。


ウォルター・トゥルンパー少尉

ただちに基地司令からの命令で、全員がベイルアウトを命じられました。
しかしマティーズとトゥルンパー少尉は、

「重傷の機長がまだ残っていて、見捨ててはいけないから、
基地に機体の着陸を試みさせてほしい」

と懇願します。

司令は経験の浅い二人では損傷した機を着陸させることはできないと判断し、
飛行機(と瀕死の機長の命)を諦めて脱出することを命令しました。


トロッコ問題ではありませんが、司令はこのとき、
瀕死の一人と二人の命を明らかに天秤にかけ、後者を選んだのです。

いや、確率で言うなら、一人諦めるか三人とも死ぬかの状況において、
限りなく後者の方が可能性が高いと判断したのでしょう。

しかし、マティーズと少尉は着陸を強硬に主張しました。

苦渋の決断で司令は着陸許可を出し、飛行機は3度着陸を試みますが、
最終的に(滑走路にではなく)空き地に墜落し、
マティーズ軍曹とトゥルンパー少尉は二人とも死亡
しました。

負傷した機長は墜落の時にはまだ生存していましたが、
その後病院で死亡したので3名全員が亡くなったことになります。


左上から、ネルソン中尉、トゥルンパー少尉、
マティアス軍曹(バックは墜落した機体)

「時間がなくなり、日の光が薄れ、
アーチー・マシーズの持久力はすでに妥当なレベルを遥かに超えていた。」

「大佐の目にも生還の希望が薄れつつあることがますます明らかになった。
大佐は管制塔を通してウォルター・トゥルンパーに爆撃機を海に向けさせ、
自動操縦に切り替え、2人にパラシュートで降下するように指示した。」

「マシーズもトゥルンパーも、その命令の意味を十分に理解していた。
しかし自らの極限状況にも関わらず、二人とも自分たちが助かるために
ネルソン中尉の生存の可能性を放棄する気はなかった。」

「遂に司令はテン・ホースパワーに再び着陸を試みる許可を無線で送る。」

「機体は突然左に方向転換し、大きく急降下して管制塔を通り過ぎた。
着陸しようとして、赤いフレアを発射した。
そして1マイルほど離れた野原に向った。

航空機は17時00分にわずかに機首を下げた姿勢で
時速200マイルの速度で衝突し、地面に沿って50ヤード以上滑った後、
土の山に衝突し、クラッシュした。

「この時のテン・ホースパワーの墜落で生き残ったのは 1 人だけだった。
救助隊が到着したとき、クラレンス ネルソン中尉はまだ息をしていた。

彼はその夜遅くに病院で亡くなったのだが、
アーチー・マシーズとウォルター・トゥルンパーは、
最愛の指揮官を、ともかくも生きて帰国させることには成功したのだ」

このコーナーではマティーズ軍曹だけが強調されていますが、もちろん、
25歳で亡くなったトゥルンパー少尉もパープルハートを授与されています。


appleTV制作の「マスター・オブ・ザ・エアー」第3話には、
この件を彷彿とさせるエピソードがあります。

レーベンスブルグ攻撃に出た機が撃破され墜落していく中、副操縦士が被弾。

死んだものと思って全員ベイルアウトをしようとしたとき、
副機長は生きていて虫の息をしていることがわかり、機長は脱出を拒み、
全員を脱出させ、一人操縦席に残って空き地に不時着を試みます。

しかし、無事に草地に着陸したと思われた機体は大きくバウンドし、
その先の低地に機首から突っ込んで大破炎上するのです。

機長の最後の言葉は、

「Oh, God.」(『まずい』と翻訳されていた)

でした。



■ 「フレンド・オア・フォー?」


砲手は一瞬の判断で発砲するかどうかを決定しなければなりません。

しかし距離が長かったり、角度によっては、
戦闘機が敵か味方かを確かめるのが非常に難しくなります。

そこで航空機を認識する訓練が行われました。
これは生死にかかわる状況下で砲手が正しい選択をするため必須でした。



英国空軍の教官から認識訓練を受ける第8空軍の下士官搭乗員たち。 
触覚で航空機を識別する訓練です。

触覚で識別できたとして、本番にどう役立つんだろう・・。


航空機認識模型

1/72スケールのプラスチック製航空機認識模型が大規模に製造され、
民間ボランティアによって作られた数十万個の木製模型が配布されました。

左上から:P-38ライトニング、Bf110
左下から:Pー51マスタング、スピットファイア、Bf109、Fw190



「スポッターカード」

トランプをしている間も楽しみながら識別訓練ができる優れもの。

というわけで、当時航空兵の間には写真の左側にある
「スポッターカード」なるものが出回りました。




いまでは激レア品として取引されています。
艦艇の形を取り入れた海軍版もありました。

「ビューマスター認識キット」

と言うのがそれです。
上の写真右下に見えるのはビューマスターです。


戦争が始まる直前に設立されたView-Master社は、
戦時中、航空搭乗員の機種認識と距離推定訓練用に、
約10万台のステレオビュアと数百万枚のディスクを製造しました。

戦争が終わると、ビューマスターは様々なイメージのビューワーを作り、
おもちゃとして1960年代、子供たちに大人気となりました。

ビューマスタージャンルの色々

なんか現在はプレミアがついてお値段がすごいことになっています。
こういうのも軍事技術の戦後平和利用っていうのかしら。


続く。




殉職した機関水兵〜潜水艦「レクィン」最終回

2024-05-08 | 軍艦

ピッツバーグのカーネギー博物館に展示されている潜水艦、
「レクィン」を紹介するシリーズ、いよいよ最終回です。



後部魚雷室を改装して設置した航空管制室(乗組員はCICと呼んだ)には、
かつての名残であるロッカーが並んでおり、
そのうち4つの窓が展示ケースとして利用されていました。

最後のウィンドウは、殉職した「レクィン」乗組員のメモリアルです。

■ 殉職した「レクィン」乗組員



マール・ハロルド 'ティンク’ ガーロックJr.
Marl Harold "Tinker" Garlock, Jr.


の、ペンシルバニア州にある墓地の碑銘には、こうあります。

Gave his life in faithful service in his country
aboard the submarine USS Requin

潜水艦レクィンに乗艦し、祖国への忠実な奉仕に命を捧げた


死亡日は1962年9月21日、没地はヴァージニア州ノーフォーク。
このことから、「ティンカー」ことガーロックJr.水兵が、
潜水艦基地での「レクィン」艦上で死亡したことがわかります。



死亡時、ガーロック二等機関兵はわずか20歳でした。
「レクィン」が初めて第二次世界大戦末期の哨戒に出たときには
まだ2歳でものごころもついていなかったに違いありません。

第二次世界大戦で戦闘を行わず、さらにはレーダーピケット艦として
冷戦中の哨戒に出たときも、「レクィン」は敵への魚雷を撃つことなく、
したがって戦闘による乗員の損失はないまま、退役を迎えました。

その「レクィン」で唯一、たったひとり殉職したのがガーロックでした。

展示ブースにある当時の新聞記事にはこのように書かれています。

”ティンカー” ガーロック、海軍潜水艦で死亡

マール・H・ガーロックの故郷の両親に悲劇が襲ったのは、
彼らが息子の死を知らせる以下のテレグラムを受け取ったときだった。

ノーフォークの海軍基地所属、マール・H・ジュニアについて:

「私はアメリカ海軍を代表して、あなた方のご子息である
マール・ハロルド・ガーロック・ジュニア(S394898)が、
去る9月21日、
酸素欠乏による窒息によって死亡したことを
ご夫妻に対し深い遺憾の意をもってお知らせします。

ご子息は国に奉仕中に亡くなりました。
あなた方の大きな喪失に、心よりお悔やみを申し上げます。

もし、あなたがた、そして何か特別なご要望に対し、
わたしたちが力になれることがありましたら、
すぐにでもテレグラムでノーフォークまでご連絡ください」

テレグラムの送信者は、「レクィン」艦長である
E・L・フラニー大尉であった。

のちに分かったことによると、この界隈の誰もが知る人物、
「ティンカー」は、潜水艦のエンジンルーム(ポンプ室という説もあり)で
ソルベール10グリース除去剤を使用して作業中だったが、
密閉された空間で除去剤に含まれていた溶剤を吸って死亡したのであった。

「ティンカー」は海軍に勤務3年目で、メカニックの資格を持っていた。
彼の遺体はその後フィラデルフィアの故郷に運ばれ、葬儀が行われた。


ガーロック機関水兵の死亡診断書を見つけました。

直接的な死因(A) 窒息と中毒
による(B)トリクロロエタン吸入

とあり、「任務中」にチェックが入れられています。
そして、

退役軍人の場合は戦争の名前、平時の場合は平時

という欄に、

Peactime

とあります。
’e’が欠落しているのがミスなのか、これが正式な省略のかはわかりません。

いずれにしても、戦争が終わって(冷戦中とはいえ)平時に、
直接の戦闘などが予測できない中で、まだ20歳の息子を失い、
家族や友人はさぞ狼狽し、悲嘆にくれたことでしょう。


■ 潜水艦を使った戦時広告



航空管制室となって全ての魚雷装備が撤去されたスターンルームは、
ここだけ見ると全く普通の船室のような様相になっています。

ドアの向こうは現在もスタッフが使用する部屋になっています。



このコダックの宣伝ポスターは、1943年に製作された
一連の「軍隊もの」のひとつです。

私たちの安全を守るために、彼らが毎日直面していることを考えると
......彼らにこの喜びを与えるには十分小さいように思える。

任務の合間に彼らが互いに笑い合う姿は、
実は彼らがホームシックにかかっていることなど窺い知れない。

本当のことを語ることができるのは、狂気の日々なのだ。

家からスナップ写真を受け取ったときの彼らの表情。
まるで何か素晴らしいものを手に入れたかのように。

フィルムはまだ不足している。
陸軍と海軍は多くのフィルムを必要としている。

だからこそ、あなたも、手に入れることができるすべてのロールを
最大限に活用してください。
彼が見たがっている人や場所を写しだし、交換するのだ。

あなたの手紙を本当の "故郷からのスナップショット "にしてください。
イーストマンコダック、レチェスター、N.Y.


右上には戦時中らしく、プロパガンダというか戦意高揚の意味で

”Take her down "を覚えていますか?

という文言が読めますが、残念ながらそのあとは
ぶれていて判読できませんでした。


「テイク・ハー・ダウン」(潜航させよ)は、第二次世界大戦において
日本海軍の特務艦「早崎」と潜水艦「グロウラー」が交戦した際、
甲板で銃撃を受けて倒れたハワード・ギルモア艦長が
自分を犠牲にして艦を潜航させるために最後に叫んだ言葉です。



「戦時のタフな使用のために、
バッテリーに新しいスタミナを」

オーウェンス・コーニング社
(Owens Corning Corporation,NYSE:OC)

は世界最大のガラス繊維及び関連製品製造会社です。


主力製品はガラス繊維製の断熱材であり、第二次世界大戦中、
同社はグラスファイバーのバッテリー素材を生産していました。


現在、この他の主力製品は繊維強化プラスチック (FRP) などの複合材料で、
船体や自動車のルーフ、パイプ、風力発電向けの羽根に利用されます。

"Fiberglas"®は、同社の商標だったというのはちょっと驚きです。


■「レクィン」”サルベージ”ドローイング


国立公文書館から提供された USS「 レクゥイン」の原画のコピーです。

アーカイブには、数枚の大判図面、数千枚の青写真、
およびレクインの勤務時代の多くのログと通信が含まれています。



ほとんどがレーダーだったので、今ここのコンパートメントには
これくらいしか当時の機器が残されていません。

ハイドロステアリングのギアモーター。



航空管制に必須だったジャイロ。



さあ、というところで、艦内の見学を全て終わりました。
あとはこのラッタルをのぼっていきます。



最後に、階段の上からスターンルームを撮っておきました。



甲板に上がります。

他の同じツァーのメンバーの姿はほぼ影も形もありませんでした。
赤いシャツのツァーガイドは、何か質問があったら聞いてください、
程度のことしかいわず、ほとんど何も説明してくれませんでしたが、
とにかく全員を艦外に出すために、私たちが上がっていくのを待っています。

急かされている感があってゆっくりできませんでした。
もうちょっと見学時間に余裕が欲しかったなあ・・・。



というわけで、カーネギー博物館の「レクィン」見学レポートでした。

終わり。



映画「Uボート基地爆破作戦」The Day Will Dawn 後半

2024-05-05 | 映画

映画「Uボート基地爆破作戦」、原題「The Day Will Dawn」後半です。


例によって派手なアメリカ公開時の同作、
アメリカタイトル「アヴェンジャーズ」ポスターがこれ。

「前線の新しい秘密を描いたスリリングなドラマ!」

という煽り文句。
「新しい秘密」って何だろう。




ノルウェーからイギリスに戻ったメトカーフは、本社での仕事を再開しますが、
日に日に飛び込む戦争による損失のニュースに触れるたび、
自分自身が戦線に身を投じて祖国を救いたい思いに駆られていきます。


そんな彼に、先輩記者は、武器を取ることだけが戦いではないといい、
報道記者にしかできない戦い方をするべきだと説きます。

例えばホームフロントで国民一人が心構えを持ち、
勝利のために「経済活動」を行うよう家庭に呼びかけるなど。

ごもっともでありメトカーフもそれに納得するのですが、
ところがどっこい、運命は彼にそれを許してはくれなかったのです。


その頃、イギリス海軍情報局では、ノルウェーのどこかにあるとされる
Uボート基地を探し出すために動き出していました。

「誰かこの辺に詳しい人物はいないか」

「ピットウォーターズ中佐を呼べ」

ピットウォーターズ中佐とは?



メトカーフが空襲下のバーで飲んでいると、彼をドイツ船から助けた
駆逐艦の艦長だったピットウォーターズ中佐が「偶然」現れました。

もちろんこれを偶然と思っているのはメトカーフだけです。

ピットウォーターズ中佐、にこやかに挨拶を済ませると、
いきなり何のスポーツをやっていたか聞いてきました。
メトカーフが学生時代にかじったスポーツを適当に答えると、

「それならもちろん泳げますよね?」

「?」

「あなたモールス信号は打てます?」

「・・・いえ・・何なんです?」

「なに、すぐ覚えますよ」



「グッドラック!」

「・・・あなたも」(?)

この人、目が全然笑ってなくてこわ〜い。

「ああそうそう、乗っていた船が銃撃を受けたっていう件、
あのことで私の友人があなたと話したいと言ってましてね」

「今からですか・・いいですよ。行きましょう」

「あ、ところで結婚してます?」

「いいえ」

「近親者とかは?」

「いませんが」

「それはよかった。家族なんてつまらないですからな」


イギリス海軍、メトカーフに何をさせようとしているのでしょうか。
ドイツ船が彼を攫った理由も謎のままですが。



ピットウォーターズ中佐に海軍司令部に連れて行かれ、
そこでメトカーフは情報部のウェイバリー大佐に紹介されました。

「君はいい記事を書きますね」

「ありがとうございます」

「愚者の後知恵って感じだけどね(Wise after the event)

イギリス人らしい上から目線の嫌味にムッとするメトカーフを尻目に、
なるほど健康そうだね、はい近親者もいないそうですなどと、
何やら勝手に話を進めていく二人。

そしていつのまにか彼は、
「ノルウェーのUボート基地を探し出し、攻撃する」
という海軍の作戦に参加することになっていました。

なるほど、で、日本語タイトルがこうなったわけね。

なぜ彼に白羽の矢が立ったかは、彼がUボートの攻撃を受けたからですが、
だからって、ただ船に乗って攻撃を受けただけの人を、
ろくにその時の状況も聞かずに現場に放り込むかな。



次の瞬間、軍用機に乗せられた彼は、あれよあれよという間に
パラシュートを装着され、目的地上空で降下させられていました。

「三つ数えたらパラシュートの紐を引っ張ってください。
ハッピーランディング!」

ハッピーランディングじゃねえよ。素人になにさせるだ。

案の定、降下するところをドイツ兵に目撃され森の中を逃げ回ることに。
メトカーフ、自分を守る武器すら持たせてもらってません。
必死で身を隠しますが、そのうち一人に見つかってしまい、万事休す。


と思ったら彼はオーストリア人で、メトカーフを見逃すどころか、
イギリス海軍の作戦に通じているらしい?人物で、
しかも、彼の受け入れ先であるパン屋も教えてくれます。

どんな偶然だよと言う気もしますが、映画なのでもうどうでもいいや。


受け入れ先のパン屋の親父から、メトカーフは衝撃的なニュースを聞きます。

一つは、皆の意見を代表したアルスタッド船長が収容所に入れられたこと。
そして、もう一つは、カーリがグンター署長の権力と金になびき、
婚約したため、村人の非難の的になっているという状況でした。


パン屋はメトカーフを、村の学校で校長をしているオラフに紹介しました。
前半の結婚式シーンでカーリの友ゲルダと挙式した新郎で、
彼を目的地のラングダールに連れて行く役目を引き受けたのでした。

オラフを演じるのは、このブログでご紹介するのもなんと三度目、
すっかりお馴染みになったニアール・マクギニス(Niall MacGinnis)

「潜水艦撃沈す」49th Parallel (1941)で、
逃走中仲間に射殺されるドイツ軍水兵の役、
「潜水艦シータイガー」We dive at dawn(1943)で、
結婚したくない男CPOマイク・コリガンを演じていた人です。



オラフと歩いていてドイツ兵に誰何され、隙を見て逃げたメトカーフは、
ドイツ-ノルウェー親睦パーティに紛れ込みますが、
そこでグンターと一緒にいるカーリを見てショックを受けます。



そこに、体重0.1トンデブのドイツ軍司令官がやってきて、
この場にいる全員の身分証を点検すると言い出しました。

メトカーフが逃げたことが報告されたようです。


その時、カーリは会場の一席で目を伏せているメトカーフに気づきました。
彼が身分証を持たずここに忍び込んでいることも察したようです。



事態を混乱させるために彼女が咄嗟に取った行動、
それはコップでテーブルを連打することでした。


それは、内心ドイツ軍のやり方に鬱屈としたものを抱いている
周りのノルウェー人たちに、抵抗の形として伝播していき、
連打の速度はだんだん速くなっていきます。

ドイツ人たちはそれに苦い顔を・・。



司令官に命ぜられたグンターが連打をやめさせ、皆を取りなし、
楽隊に演奏を命じて何とか雰囲気が元に・・、と思ったら、



ノルウェー人の楽隊員がコップ連打のリズムを使ったアドリブを始めました。
残りのメンバーも調子を合わせてアグレッシブに盛り上げます。


騒乱状態の中、律儀に身分証確認の任務を遂行するさすがのドイツ兵士。

ドイツ兵がメトカーフに近づき、あわや、というとき会場は真っ暗に。
カーリが部屋の隅にあるブレーカーを切ったのでした。

暗闇の中カーリは素早くメトカーフに近づき、逃げ込む場所を指示しました。


その後落ち合った二人。

カーリは、グンターと婚約したのは父親の釈放が条件だったから、
と釈明し、メトカーフはこれまでの彼女への想いを打ち明けました。

父親のアルスタッドが逮捕された理由は、
イギリスのラジオが流していたノルウェー国王の言葉、

「私は国民を見捨てない」

という言葉を紙に印刷して人々に配ったからでした。

そして父親を逮捕したのは他ならぬグンターで、彼は
父親の釈放と引き換えにカーリに婚約を強いたのです。


程なくして、イギリス海軍にノルウェーからの暗号が入りました。

「Uボート基地確認 重厚な偽装あり ラングダルより22キロ南方
水曜22時半以降に大西洋攻撃の計画あり」


カーリの父アルスタッドが釈放されて帰宅しました。
「現場監督」(foreman) は船上での娘のあだ名です。

アルスタッドは、潜水艦基地を爆撃する連合軍機に
位置情報を伝えるメトカーフに付いていくことになりました。


ドイツ海軍が艦隊出撃の準備を始めました。
このとき、ドイツ軍人の間でこんな会話があります。

「どうして海軍は総統に敬礼(ナチス式敬礼)しないんだ」

「英国海軍を手本にしたため、伝統を受け継いでいる部分がありましてね。
我々も修正を試みているんですが」


映画はここで悪質な印象操作をぶち込んできます。

「生存者を救出するなどという”騎士道精神”まで受け継いではいませんが、
とにかくドイツ海軍は総統にナチス式敬礼はしないのです」

アメリカとイギリスは、戦後もこの

「ドイツ海軍は生存者を救出しない」

という文言を好み、ドイツの「残虐ぶり」を強調しようとしてきましたが、
実際にはそうではなかったことは、「ラコニア号事件」が証明しています。
ラコニア号の乗員を救出するU-156とU-506

この後、メトカーフが地上から発光信号で航空機を誘導し(!)
偽装が施されたドイツ潜水艦基地は見事爆撃されます。

この一連の爆撃シーンは、実際のストック映像からの流用多数。



役目を終えて帰ってきたメトカーフにカーリは父の安否を訊ねます。

「お父さんはもう帰ってこない」



作戦成功の知らせは海軍情報部にも入りました。

「マーシュのおかげだな!」

「メトカーフです」

「そう言っただろ」

「・・失礼しました」

Mしか一致してねーし。


しかしそれで済むほどドイツ軍は甘くありません。

首謀者がメトカーフであることも当局はすでに掴んでおり、
彼と協力者8名を逮捕し、処刑すると通告してきました。


次々と引き立てられていく人々。
その中には、ゲルダの夫、オラフもいました。

グンターは、メトカーフが見つからなければ、8人を処刑すると脅しています。
ゲルダはカーリに、人質になった人たちの命を救うために
メトカーフの居場所を教えるように懇願しにきたのでした。

その話を陰で聞いていたメトカーフは、警察に自首しました。


カーリの元にグンターが来て、メトカーフの自首を告げました。

彼は、それでもカーリがまだ処罰対象になっているため、
自分と結婚すれば命を助けることができると持ちかけます。

きっぱりとそれを拒否するカーリ。
父の釈放のために婚約はしていましたが、その父も亡くなった今、
こいつと結婚するくらいなら死んだほうがマシということですか。

それを聞くとグンターはいきなり外にいたドイツ兵に彼女を逮捕させました。


警察署で、捕えられた人々と一緒になったメトカーフは、
こんな演説をします。

「あなたはここに製油所と称して潜水艦基地をつくった。
部下はノルウェー語を話す。なぜか。
彼らは子供の頃、戦争でここに逃れてきた人々だからだ。
ノルウェーの人々が空腹だった彼らを助けた。

その彼らが今では侵攻する大隊を構成していて、
『親切な人々』を殺すことができる。

しかしここで我々を殺したとしても、ほんの少しに過ぎない。
他には何百万人だっているんですよ。
漁師、パン屋、商人、教師・・普通の人々がね。

あなた方はその全てを殺すことなんてできない。

『その日』は来ます。あなたが思うよりもはやく。
皆が立ち上がり、自由になる日が。

そのとき、あなたに神のご加護がありますように」




ヴェッタウ司令は鼻白んだ様子になりましたが、
それでも彼の意見には何も言わず、全員を逮捕させました。


同じ房に閉じ込められ、処刑を待つだけの8人。

夜明けと同時にドイツ語の掛け声が房の前で響き、
兵士たちが8人のうち「最初の4人」を処刑のために連れ出します。

そしてすぐそばの処刑場から聞こえる命令と銃声。
こういうとき最後に牧師を立ち合わせたりしないか?



ゲルダの夫、オラフと彼らを含む4人が息を飲んでその時を待っていると、
にわかに外が騒々しくなりました。


このとき、英海軍部隊が潜水艦基地に到達していたのです。



そしてコマンド部隊が基地を強襲。
基地からは彼らの強襲ボートが船着場に乗りこむまで、
ドイツ側から何の反応もなく、全く反撃もなかったようで何よりです。



さっさと基地を後に自分だけ逃げようとする基地司令(私服になってる)。
協力させるだけさせといて逃げる気か!とすがるグンター。

司令は面倒になって、利用価値のない彼をさっさと射殺してしまいました。


このとき、木造の家が爆破されるシーンがありますが、これは
実際にノルウェー海岸をイギリス軍特殊部隊が襲撃した際の映像です。

このときコマンド部隊が攻撃したのはノルウェーの魚油加工工場などで、
この映像は当時のニュースリールに残されたものでした。

この映画に挿入されている実写シーンは、
ニュース映画やその他の現実の映像から抜粋されています。


「・・・イギリス海軍が来たわ」

このデボラ・カーの凄まじい演技を見よ。


捕虜になったドイツ兵たちが船に乗せられるシーンですが、
これ、もしかしたら第一次世界大戦のこの写真を参考にしてる?

WW1 blinds soldiers
WW1 - Weapons and Technology 


写真の人たちが目隠しして前の肩を掴んでいるのは、
彼らが戦闘で視力を失ったからなんですが・・・。

このシーンの人たちは、捕虜として目隠しされているようです。



ゲルダとオラフはイギリスに行って住むことになりました。
この短期間(数時間くらい?)になぜそこまで決まったのかは謎です。
イギリス軍が難民を受け付けてくれたのかな。

「子供はイギリスで生まれることになるが、血はノルウェー人だ」

ところで、いかにこの時代のノルウェーの状況について知らない我々も、
映画はイギリス制作であり、演じているのは全員がイギリス人、
全てがイギリスに都合よく描かれていることも知っておく必要があります。


ノルウェーはイギリス寄りであったとはいえ、中立国で、チャーチルは
ドイツより先にノルウェーを「占領」しようとしていましたよね。

ノルウェーはイギリスに占領された方がラッキーだったはず、というのは
あくまでイギリス人の考えにすぎず、ノルウェー人にすれば、
どちらかに占領されるならドイツよりはまし、程度だったと思うんだけどな。

放っておいたら中国かロシアに取られてしまうという理由で、
国内の偉い人に頼まれるようにして朝鮮を併合した日本が、
そのことをいまだに恨まれ続けているという例もあることですし。
(まあかの国の民族的気質がかなりの粘着質ってのもありますが)

占領される側から見たとき「良い占領」などは存在しない。
防衛上のいかなる正当かつ合理的な理由があったとしても、占領は占領、
国民主権が他国に奪われるという現実には違いないのですから。


そして、ノルウェーを離れる人々は、
村に残る人々に別れを告げ、船は岸を離れて行きました。



メトカーフはもちろんイギリスにカーリを連れて帰ります。
これからノルウェーはドイツに占領されることになるからですね。



最後に流れる字幕には、このようにあります。

「今、ナチスのくびきの下にひれ伏している12の有名な古代国家では、
あらゆる階級と信条の人民大衆が解放の時を待っている。
その時は必ず訪れ、その荘厳な鐘の音は、夜が過ぎ、
夜明けが来たことを告げるだろう。

1941年12月26日、アメリカ合衆国上院で首相チャーチルが行った演説です。

The night is past and that the dawn has come.

映画のタイトルはこの一節から取られました。
実際のノルウェーの「夜明け」は、この時点から4年後のことになります。


終わり。




映画「Uボート基地爆破作戦」The Day Will Dawn 前半

2024-05-02 | 映画

今日は1942年イギリスで製作され、わずか五ヶ月後には
アメリカでも公開された、戦争「系」映画をご紹介します。

まず、この「Uボート基地爆撃作戦」という邦題ですが、
例によって、あまり映画の本質を突いていません。

主人公はイギリス人のジャーナリスト(と言っても競馬記者)。
彼がポーランド侵攻を境に会社からノルウェー特派員を命じられ、
偶然の重なりにより歴史の瞬間を目撃し、自らも命の危険に曝されていく、
という内容なので、まるで戦争もののようなこのタイトルは変ですね。

原題は「その日は夜明けになる」(直訳)。

映画の制作された1942年は、ポーランド侵攻後のヨーロッパ、
並びに世界がどうなっていくか、まだ誰にも何もわかっていません。

The Day Will dawn というタイトルからは、
その頃ヨーロッパに住むすべての人々が陥っていた混沌とした暗闇から、
いつ夜明けになるのかという、そこはかとない願望が読み取れます。

それに比べてよく分からんのが、アメリカで公開された時のタイトル、

「The Avengers」(アベンジャーズ)

アベンジャーズというと現代の我々にはマーベルしかないわけですが、
映画を観た今となっては、こちらの「復讐者」というタイトルも、
なんだかほんのりピントがはずれているような気がしないでもありません。

ただはっきりしたのは、アメリカ人ってこの言葉が相当好きってことかな。

ところで、ここで本題、なぜ映画の舞台がノルウェーだったかですが、
それは当時ノルウェーが中立国だったことが理由でしょう。

ただ、第一次世界大戦時から国際紛争では中立を維持していたノルウェーが、
歴史的にイギリスとは経済的・文化的にも協力関係だったことから、
中立といっても、限りなく連合国寄りだったことを踏まえる必要があります。

第二次世界大戦が開戦するとノルウェーは公的に中立を宣言しますが、
ドイツは、連合国が共闘に引き込む可能性を憂慮し、
盗られる前に盗れ!!とばかりにノルウェーを占領にかかりました。

【ゆっくり歴史解説】ノルウェーの戦い【知られざる激戦10】
海戦の解説が多めなのでぜひ。

連合軍がフランス侵攻後、そちらにかかりきりになったので、
ノルウェー政府と国王ホーコン7世はオスロを放棄して亡命、
海外からレジスタンスを指導しましたが、結局ノルウェーは
ドイツに占領されることになり、終戦まで統治下に置かれることになります。

本作は、ノルウェーの戦い前夜からが舞台として描かれます。


ノルウェー空軍省、戦争省、そして
ノルウェー王国政府に感謝する、とあるのですが、
ここでとんでもない間違い発見!

NORWEIGAN(×
NORWEGIAN(


字幕を書く職人がGとIの前後を間違えただけだけだろうとは思いますが、
よりによって謝意を示すための字幕でスペルミス、これはアウト。


気を取り直して。
1939年9月のことです。



ドイツはポーランドに侵攻しました。


開戦にここぞと浮かれ、いや活気づくイギリス某新聞社のお偉いさんたち。

しかし、新聞各社が腕利きの記者を特派員として各地に送っている中、
この新聞社では、派遣する記者の人数不足に困っていました。

この際、若くて元気で記事が書ければ何が専門でもいい、
と一人が言い出し、政治部の花形記者フランクは、

「心当たりがある」



フランクは、友人の競馬担当記者コリン・メトカーフが、
戦争で競馬が中止となったため、クビになったばかりなのを思い出しました。

「あんなやつ、馬の知識しかないし、そもそも下流(でた階級差別)出身だ」

と社の幹部たちは渋りますが、彼のコミュ力を買っていたフランクは、
反対を押し切り、ノルウェー特派員として彼を推薦したのです。


8ヶ月後、メトカーフはノルウェーにいました。

何やら綺麗なお姉さんとデートなどしています。
ちゃんと特派員の仕事はしているのか。



オスロの街を歩きながら、

「夜のろうそくは燃え尽き、
霧深い山の頂に陽気な日がつま先立ちしている」


などと、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の一説を口ずさみ、
ついつい溢れ出る教養をダダ漏れさせてしまうメトカーフ。


二次会?で入ったバーで、メトカーフはノルウェー海軍の水兵たちと
ノリで「ルール・ブリタニア」を合唱してすっかり大盛り上がり。


このシーンのセーラー服、フランス軍と間違えてない?と思いましたが、
ノルウェー海軍の制服って、フランスと似ていたんですね。
白黒なのでわかりにくいですが、セーラーの襟の色が間違っています。

当時は白黒写真しか資料がなかったせいかな?



その時、同じバーの一角に、ドイツ海軍御一行様がいて、
「英国は決して奴隷にはならず」という「ルール・ブリタニア」に対抗して、
ナチスの党歌「ホルスト・ヴェッセルの歌」をがなり始めました。

しかしながら、わたしに言わせれば、この選曲が良くない。
僭越ながら海軍軍人というものを微塵もわかっておらん。

仮にも海軍たるもの、ここでナチスの歌なんか歌いますかね。
同じ映画の中で、「海軍軍人はヒトラー式敬礼はしない」と言って
微妙な海軍とナチスとの乖離を語っているのに、詰めが甘いというか。

こんな時には、やっぱりこれでしょう。

「我らは今日乗船する」 日本語歌詞付き [ドイツ海軍歌]
Heut geht es an Bord
必見:Uボートの実戦映像集 後半にはデーニッツ閣下も登場

ちなみに「眼下の敵」でUボートのクルト・ユルゲンス艦長のもと、
総員で歌っていた「デッサウアー」も、実は歩兵の歌ですので念のため。

(ところで今、ふと某国の公共放送局制作スタッフの無知のせいで、
陸海軍ごちゃ混ぜにハワイに収監されていた日本軍捕虜が、
全員で仲良く『艦隊勤務』を歌っていた戦争ドラマを思い出してしまった)

今回この映画がこの時わざわざ「ホルスト・ヴェッセル」を歌わせたのは、
単に「ナチス」を強調するための意図からきているのかもしれませんが。


さて、そのうち一人のドイツ水兵が荒ぶってものを投げ、鏡が割れるのを見て
白髪の老いた船長が立ち上がり、いきなりドイツ水兵を殴りつけると、
それがきっかけで場内全員による大乱闘になってしまいます。

メトカーフは迷うことなく乱闘に加わり、件の船長アルスタッドと意気投合。
ドイツ水兵を店から追い出した後、船長は彼を自分の船に招待しました。



メトカーフは乗り込んだ船で船長の娘、カーリと衝撃の出会いをしました。

カーリ・アルスタッドを演じるのは、ご存知デボラ・カー(Kerr)
「王様と私」「地上より永遠に」「旅路」などに出演し、
「イギリスの薔薇」とも称えられた美人女優です。

船の上で無様に転んだコリンを大笑いする彼女。
しかし顔を煤で汚していてもその美貌は隠せず。

(但しその笑い声は妙に甲高くて耳障りで、個人的にはイメージ台無しです)



ところで、さっきまでメトカーフとデートしていた女性は、喧嘩の際、
彼によって店から避難させられた後、最初の店に戻って、
やはり最初からそこにいた二人の男性と何やら密談をしていました。

彼女、どうやらドイツ側のスパイだったようです。
特派員である彼に近づいたのは、情報を得るためだったんですね。

ここで老婆心ながら一言。

政府要員、軍人、報道公務員その他国家機密に関わる、特に男性諸氏は、
(もちろん自衛官を含みます)やたら高めの女(又は男)が近づいてきた時、
冷静に自分について客観的に見直してみることも大事かもしれません。

こんな相手にグイグイ来られるほど、俺って今までモテてたっけ?と。
自分が案外モテると思いたい、その気持ちはわからなくもないですが。

個人的見解ですが、自他ともにモテを認める、実質MMな人材には、
そういう輩は決して近寄ってこないような気がします。


さて、航海二日目、アルステッドの船は、ドイツ海軍のタンカー、
「アルトマルク」Altmarkとすれ違いました。

アルトマルク号事件

「アルトマルク」は、ドイッチュラント級装甲艦
「アドミラル・グラーフ・シュペー」
(DKM Admiral Graf Spee)

の通商破壊活動によって沈められた商船から収容された
イギリスの船員を捕虜として載せていました。

「シュペー」がラプラタ沖海戦で自沈したため、
補給すべき相手を失ってノルウェー領海にいた「アルトマルク」は
ノルウェー官憲による立ち入り調査を受けることになります。

しかし「アルトマルク」は、その際捕虜の存在を隠してやり過ごし、
何も問題とならずに、そのまま通航を許されました。

同じ日、イギリス空軍機が「アルトマルク」を発見し、
イギリス海軍は、駆逐艦「イントレピッド」 (HMS Intrepid, D10) と
「アイヴァンホー 」(HMS Ivanhoe, D16) を派遣して
「アルトマルク」をフィヨルドに追い込んでから、
 駆逐艦「コサック」による強制接舷のち「アルトマルク」に乗り込み、
乗組員7名を殺害の末、捕虜を解放しています。

これが「アルトマルク号事件」です。

このことは国際的にも大問題となりました。



その後、アルステッドの船はUボートに発見されました。
(映像は実写)


その時、カーリとメトカーフは、デッキでジャガイモの皮を剥きながら、

「ジョージ・ベネットって知ってる?」

「読んだことあるわ。ノルウェーのイプセンの作品は?」

「読むよ」

「シェイクスピアやディケンズも読むわ」

とマウントの取り合いをしていたのですが、


そこにUボートが浮上してきました。



一連の映像は本物のUボートの戦闘シーンから流用されています。



Uボートは船に艦砲を撃ち込み、船は全壊し沈没しました。
しかし制作予算の関係で肝心の沈没救出シーン等はいっさい無しです。


沈没から逃れた小舟がアルスタッドの村に帰着すると、ちょうど
カーリの女友達ゲルダの結婚式が行われていました。

船を沈没されたのに、ウキウキと結婚式に駆けつけるカーリ、
そんな彼女を「踊りが好きなんだ」と目を細めて見送る船長。

沈没の後誰一人傷一つ追わず、衣服も濡れずに帰還できたどころか
全員が事故について忘れてしまっているかのように陽気です。


しかし、アルステッド船長はちゃんとするべきことを知っていました。

彼はUボートに攻撃されたことを、パーティの席で
地元の警察署長、オットマン・グンターに報告しますが、この警察署長、
ドイツ寄りの立場であるせいか、船長の報告を軽く受け流します。

しかも貴社のメトカーフにに向かって、あくまでお客として滞在しろ、
ここで余計なことをするな!と釘まで刺してくるのでした。



おまけにこの男、カーリに結婚を申し込んでいることもわかりました。
彼女に好意を持っているメトカーフには何かと面白くない人間です。



さて、ここはドイツ軍が駐留している某所。

司令部にやってきたグンター警部は、この体重0.1トンの司令官、
ウルリッヒ・ヴェッタウにメトカーフとUボートの件を報告しました。

ちなみにこの人、全くと言っていいほどドイツ人に見えません。
演じているのはフランシス・L・サリバンというイギリス人俳優です。

ちなみにこの人の痩せてた頃



グンターはヴェッタウ司令からドイツ軍の侵攻が近いことを知らされると
自分の地位と人気を利用して村人を「説得する」と力一杯約束しました。


その頃メトカーフはUボートの件を報告するためにオスロに向かっていました。


オスロのホテルに到着したメトカーフはそこでフランクに会いますが、
なんと自分がいつのまにかクビになっていたことを知らされます。

理由は、世界が注目する「アルトマルク号事件」が起こっている間、
アルステッドの船に乗っていて連絡が取れなくなっていたからです。

せっかくノルウェーに派遣した記者が、仕事せず行方不明なのですから
上層部の怒りもクビも、ごもっともといったところです。


メトカーフは漁船沈没の件をオスロの英国大使館に報告に行きますが、
大使館の駐在武官も何やら半笑いで微妙に真剣味がありません。
それでも何とか海軍に連絡をとってくれました。

つまり、誰もがこのとき次のドイツの目標が、
中立を標榜するノルウェーだとは思っていなかったってことなんですね。


しかし、メトカーフが、昨夜、在ノルウェードイツ大使館で行われた
ノルウェー政府の関係者を招待したパーティで、「火の洗礼」
(バプティズム・オブ・ファイア)という映画が上映され、
その内容がポーランドでの軍事作戦の記録だった、と報告すると、
新聞社は即座に彼のクビを撤回し、大ニュースだと盛り上がりました。

なんでそうなる。
っていうか簡単にクビにしたり取り消したりするな。


そのときホテルのロビーでは、メトカーフを訪ねてきたカーリに、
よりによってメトカーフの同僚の記者がウザ絡みしていました。

気の強いカーリはセクハラ記者を勢いよく平手打ちします。



彼女はメトカーフに、昨日村の近くの港にドイツ商船が来たこと、
軍艦ではないが巨大な船が3隻であったことを伝えに来たのでした。

「喫水線が深いのに、全く荷卸しをしていないの。
その『貨物』とは人間、つまり兵隊ではないかしら」

さすがは船長の娘で自身も船乗りです。
そして彼のために編んだ変な帽子を渡し、頬にキスして去って行きました。


ところが。

彼女と別れて乗り込んだタクシーは、そのまま彼を拉致し、
意識が戻ったとき、彼は船室に寝かされていたのです。

何のために?誰が彼を?


そしてついにヒトラーは軍をノルウェーに侵攻させました。
デンマークを一日で陥落させ、易々と上陸してきたという形です。

チャーチルは元からノルウェーの占領を目論んでおり、
ドイツのに対抗して英仏軍を上陸させましたが、
ヒトラーに察知されて先を越されていたため、
精強なドイツ軍にフルボッコにされてしまいました。

この時のことを、チャーチルはのちに自伝で、

「我々の最も優れた部隊でさえ、活力と冒険心に溢れ、
優秀な訓練を受けたヒトラーの若い兵士たちにとっては物の数ではなかった」


と回顧しています。



メトカーフが連れ込まれたのは、ドイツの民間船でした。
映画ではいっさい説明されませんが、彼は
ブレーメン港に向かう船に載せられたようです。

別に縛られるわけでも虐待されるわけでもなく、本人も怖がる様子もなく、
ドイツ人船長とチクチク嫌味を言い合う様子は、色々と謎です。

大体、拉致までして一介のイギリス人記者を船に乗せる理由って?


そしていきなり場面は6週間後、どこかのイギリスの海峡に変わりました。
このとき、とんでもない部分がカットされていたことがわかりました。



6週間前、ドイツの船に乗っていたはずのメトカーフが、
このシーンではなんの説明もなくイギリス軍艦に乗っているのです。

そこで改めて映画のストーリーを検索したところ、実はこの6週間の間に、

「英国の軍艦がメトカーフを乗せた船を妨害し、彼を解放するが、
英国に連れ帰る前に、フランス北西部からの英国の撤退作戦、
エアリアル作戦を支援するため、彼を降さずにシェルブールに行く」

という出来事があった(けどカットされている)ことを知りました。
こんな大事な部分のフィルムをカットしてんじゃねー(怒)


まあそれはよろしい。よろしくないけど。
シェルブールではドイツ軍の総攻撃が始まっていました。


そこでメトカーフは、空襲で負傷し、瀕死で路上に寝かされている
新聞社の同僚、フランクを発見します。

「とくダネだ。フランス軍に奇妙な命令が出ていて、橋を爆破しなかった」

と妙なことを言って彼はそのまま息絶えました。
ちなみに、この「伏線」は映画の中では永遠に回収されません。

そこで一生懸命考えたところ、おそらくノルウェーの戦いで、
ドイツ軍がフランス侵攻した際、

「フランス軍に奇妙な命令が出ていて、
なぜか橋を二つも爆破せず残していた」


という意味かと思われます。

・・思われますが、それが本当だったのか、そんなことがあったのか、
そこから先は調査が追いつきませんでした。<(_ _)>


続く。


至上任務 「ある砲手の死」〜国立アメリカ空軍博物館

2024-04-29 | 航空機

国立空軍博物館の爆撃機シリーズ、今日は
重爆撃機のガンナーについて取り上げます。
その前に、伝説の爆撃機「メンフィス・ベル」の「マーキング」について
そのコーナーから紹介します。

■「メンフィス・ベル」パブリシティ・マーキング



ヨーロッパでの25回の任務を終え、アメリカに帰国後、
全米をツァーして「国際販促ツァー」をおこなった「ベル」。

行く先々で、民衆の好き勝手な「マーキング」、
国民の熱い思いが生んだ各種落書きが機体にに残されました。

もちろん現在展示されているメンフィス・ベルの機体には
そのような痕跡は一切なく、全てが修復されています。


ツァーで歓迎されたベル

乗員には、彼らを色々と利用したい人や追っかけの女性が群がり、
ヨーロッパ上空を飛んだ機体には、その姿を一眼見ようとする人、
近づいて触ろうとする人、なんなら落書きしたい人が群がりました。

上の写真には

「F.J. De GRASSE BANGOR, MAINE」

メイン州バンゴーのド・グラッセさんの名前が見えます。



もうやりたい放題。

後ろには手型を残そうとする人たちの集団が。



ツァー当時、モーガン機長の爆撃ミッションは、
わかりやすくこんなふうに機体左側にペイントされていました。



各種落書きに紛れて誰かがシュワスティカ(鉤十字)を一つ増やし、

さらにこいつは「S」に文字を付け足して「Sally」にしてしまいました。

窓の下には

S/St C.E. Winchell

という「メンフィス・ベル」メンバーの名前がありますが、

これも正式なペイントではなく落書きされたもので、
ペンキの色から推測するに、「Sally」と同一人物の犯行だと思われます。

おそらく、メンバーの身内か航空隊関係の人物でしょう。


民衆の落書きはほとんどが自分の名前。



「マサチューセッツ、誰それ」
「なんとか技術軍曹」
「カール・デロース、ウィルミントン デラウェア」


とどれも名前と出身地など。
ちなみにこの写真の白い部分は、機左側の星マークペイントです。

その後、機体は展示のために修復され、すべての落書きは消されました。



しかし、時はすぎ、2000年代になって当博物館が修復をしたとき、
このカール・デロースさんのサインも修復の過程で浮き上がってきました。

博物館は、彼や他の落書きの名前もちゃんと公式文書に記録したそうです。
歴史的な機体だから、落書きといえども歴史資料。

ご本人たちも本望なのではないでしょうか。

■ ガンナー



第二次世界大戦の銃爆撃機、B-17フライング・フォートレスや、
B-24リベレーターに乗り組んだアメリカ陸軍航空隊のガンナーは、
手動で狙いを定める機関銃(「フレキシブル・ガン」)と
電動式の銃座を駆使して機を敵戦闘機の攻撃から守りました。

爆撃機乗組員の半分が砲手として乗り組んでおり、
彼らの持ち場は、上部砲塔(1名)、ボール砲塔(1名)、
2基の腰部砲(2名)そして尾部砲塔(1名)です。

他の乗組員は、副次的な任務として状況によって防御砲を適宜操作しました。


B-17機首

初期の重爆撃機は、機首に手動で操作できる
フレキシブル・ガンを装備していただけで、
敵戦闘機からの正面攻撃に対して大変脆弱でした。


B-24機首

B-17B-24どちらも後期型で、強力な二連装機首砲塔を装備しています。


くわえタバコ

尾部砲塔。B-17は射界が限られた手動式でしたが・・・、



B-24は広範囲をカバーする自動式の尾部砲塔を備えていました。

■ B-17スペリー砲塔



博物館に展示されているこの上部砲塔は、

アメリカ初のフルパワー機銃砲塔設計の一つです。

電気油圧システムにより、砲塔の2.50口径M2ブローニング機関銃と、
Traverse and Elevation Mechanism T&E M2の両方を駆動しました。
2門の発射速度は合わせて毎分1,400~1,600発。

前にも描きましたが、砲塔上部の砲手はフライトエンジニアでもあります。


その理由は、上空からの攻撃を防ぐだけでなく、
配置的に機体のすべてのシステムを把握し、
飛行中のエンジンや燃料を監視することが要求されたからです。

この砲塔は、エマソン・マニュファクチャリング社によって製造、

スペリー・ジャイロスコープ社によって設計されました。
名称の「スペリー砲塔」は設計社名から取られています。


対空砲でダメージを受けた上部砲塔脇。
砲手はおそらく無傷ではいられなかったでしょう。


B-17インベイジョンII(通称ヘルザポッピンHellzapoppin
の上部砲塔砲手TSgtハリー・ゴールドスタイン

この機は当初、戦争債券ツァーの候補となっていましたが、
25回の任務を終える前、1943年4月に撃墜されてしまったため、
代わりにメンフィス・ベルが選ばれたという経緯があります。

「ヘルザポッピン」は対空砲火でコクピットと主翼が炎上し、
機体はブレーメン近郊に墜落、乗員全員が行方不明となりました。

■ Duty Above All 「至上任務」


サトゥ”サンディ”サンチェス軍曹 TSgt Sator "Sandy" Sanchez

は、三機目となる爆撃機の、
自身66回目の任務で戦死した航空砲手でした。

彼にとって2回目の任務の最後に、敬意をこめてB-17に彼の似顔絵が描かれ、
それは "Smilin' Sandy Sanchez "と呼ばれました。


本人とのツーショット

第8空軍の第95爆撃群において25回目の戦闘任務を終えた後、

彼は戦地に残ることを志願し、合計44回のミッションに参加しました。

1944年の夏には半ば強制的にアメリカに送り返されましたが、
23歳の彼は3度目の戦闘任務に志願し、
イタリアの第15空軍第301爆撃集団に配属されます。

1945年3月15日、ヨーロッパでの戦争が終結する2カ月も前に、

サンチェスはドイツのルールランドの石油工場を爆撃する任務に志願。

 爆撃中、彼の乗った機体は対空砲火で大破のち爆発しました。
サンチェス以外の乗員は全員ベイルアウトしましたが、
 サンチェスの遺体は発見されることはありませんでした。

サンチェスが戦死して6週間後、ヨーロッパでの戦争は終結しました。



彼に与えられたメダル各種


サンチェスが66回目の任務で墜落した
B-17G(S/N 42-97683)の垂直尾翼の左側。

 この尾翼部分は1993年に発見されたとき、
ドイツの墜落現場近くの農家の小屋の一部として使われていました。



第52装備整備飛行隊が1996年に博物館のために回収しています。

サンチェスは技術軍曹、つまり上部砲塔砲手でした。

被弾後、機長のデール・ソーントン大尉は乗組員に脱出を命じましたが、
乗員のうち9人がベイルアウトしたところで、
バランスを崩したB-17「スマイリン・サンデー・サンチェス」は、
よりによってサンチェスだけを道連れに爆発し墜落していきました。

生存者は捕虜となり、シュターラーク・ルフトに収容されました。



最後に、繰り返しになりますが、
「ボールターレットガンナーの死」という詩を原文とともに書いておきます。

The Death of the Ball Turret Gunner
 
From my mother’s sleep I fell into the State,
And I hunched in its belly till my wet fur froze.
Six miles from earth, loosed from its dream of life,
I woke to black flak and the nightmare fighters.
When I died they washed me out of the turret with a hose.

砲塔砲手の死

母の眠りから、私は州の中に落ちた

濡れた毛皮が凍りつくまで、その腹の中でうずくまった

地上から6マイル、人生の夢から解き放たれた

黒い対空砲と悪夢の戦闘機で目が覚めた

私が死ぬと、彼らはホースで砲塔から私を洗い流した



続く。