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めいぷるアッシュEnnyの日々是好日

北の都③

終戦から78年。
昨日はあの街がやられた。その前はあそこの街がやられた。日本全国いつ空襲に遭うかわからない日々が続いていた。

今はロシアからのミサイルがウクライナの何処に着弾するかわからない日々が続いている。


「一期一会」と聞くと初めて会った人と二度と会えないかも知れないのでその時間を大切にしなければと思ってきましたが。
少し考え違いをしていました。




雪の原野  井上靖


私は高等学校時代を金沢で過ごした。
柔道部にはいっていて、あまり勉強しないで、
殆ど柔道の稽古に明け暮れていた。
勉強するためではなく、柔道をやるために
高等学校にはいったようなものであったが、
今になってみると、そうした若い日の
送り方も、それはそれでよかったのでは
ないかと思っている。
誰に強制されるわけでもなく、自分で自分を
そうした生活に投げ込んでいたのである。
冬休みも、夏休みもないような烈しい
部生活であったがしごくとか、しごかれるとか、
そうした強制的なものはいっさいなかった。
退部したければ、いつでも退部できたが
ただ退部しなかっただけである。

他の学生たちが、思想問題で悩んだり、
哲学書を耽読したりしている時、
私たちは私たちで、なぜ毎日こんな辛い
柔道の練習をしなければならないかという
ことを論じたり、そのことで悩んだりして
いたのである。
多少取り組む主題が単純であっただけである。
大体、大学に進んでまで柔道をやる気は
誰ももっていなかった。
高等学校三年間だけを道場で過ごし、
非力な少年たちが研究に研究を重ねた
寝業というものを武器にして、
全国高専大会で優勝して
それでさっぱりと柔道とは別れようと
思っていたのである。
従って、三年だけの柔道であり、
三年だけの生き方であった。
他の生き方をしてもよかったし、他の生き方
の方にもっとすばらしいものがあるかも
知れなかったが、たまたまどういうものか
柔道というものと関わり持ってしまい、
その関わりを棄てなかっただけのことで
あった。

そうしたことが感心すべからざることか
知らないが、とにかく若き日の毎日を
埋めた道場が、先年犬山の"明治村"に
移された。道場は"無声堂"という名であるが、
とにかくその無声堂は、廃屋にもならず
取り壊されることもなく、明治村の一画に
長くその姿を遺すことになったのである。


この四月(昭和四十九年)の終わりに、
その明治村の無声堂に、部歌を刻んだ額と、
かって部員であった者の名札を掲げる
掲額式というか、入魂式というか、
そういった式が行われることになり、
それに私も出かけて行った。
妻も連れ、幼い孫たちも伴った。
そのような雰囲気の集まりであった。
かってこの道場でどたんばたんやった
五、六十人の人たちが集まった。


何十年ぶりかで部歌を合唱したあとで、
私は短い挨拶を振り当てられたが
妙に胸が詰まって挨拶ができなかった。
部歌も歌えなかったし、スピーチも
できなかった。
新聞社の人は、若い日の感激が蘇った
という風に受けったらしかったが、
そういうようなものではなかった。
いっしょに道場で毎日を過ごした
一年上の部員たちがすっぽりと脱けて
しまっていることに胸を衝かれたのである。
一人だけ姿を見せていたが
他の当時の選手たち何人かは来ようにも
来られなかった。
みんな戦争で亡くなっていた。
当時高専大会で名を知られていた何人かの
青年たちは、若い日の三年を道場で送り、
大学に進み、そして短い社会生活ののちに、
大陸の戦線に赴いて、弾丸の中に生命を
曝してしまったのである。
その時まで彼らの死を忘れていたわけでは
ないが、ふいにその死に対する感慨が烈しく
迫って来たのは、無声堂の畳の上に立って
いたからであろう。
そして彼等が無声堂でそうであったように、
いろいろなことに悩み疑問を持ちながらも、
毎日の野戦生活を黙々として耐えて
行ったに違いないと思った時、
そしてまたこの無声堂に於いて自らを律し、
自らに課していたものが、彼等の生涯に
とっていかなる意味を持っていたであろうと
思った時不意に思いが停まり、
言葉が停まってしまったのである。


私はその掲額式が終わるまで、道場の畳の
上に坐っていて、私は一体、戦死した
一年上の選手たちといつ別れたのであろう
かと考えていた。一人一人考えていったが、
いつ別れたのか記憶していなかった。
ふしぎに思い出さなかった。
道場を離れては、さして深い交わりと
いうものはなかった。同学年の選手たちとは
今も年に何回かは顔を合わせているが、
一年上の選手たちとはそういう関係ななかった。
無声堂に於いてだけ固く結びついて
いたのである。


私は、その時ごく自然に、自分が別れたのは、
高専大会に出掛けて行く朝、
この道場で行われた宣誓式に於いてであったと
思った。宣誓式というと大袈裟であるが、
これから行われる試合に於いて、
卑怯な振舞いのないようにと誓い合う
だけのことである。
しかし、当時の若い私たちには、
一年間の苦しい道場の生活がすべて終わって、
あとは試合に出掛けて行くだけであるという
特殊な感慨のある行事だった。
私はその行事の場に於ける選手たちそれぞれの
宣誓する姿を、一人一人眼にうかべる
ことができた。確かにそれは宣誓の式であると
共に、三年生の選手たちにとっては、
道場に於ける最後の日でもあった。
大会が終わると、彼等は部生活から自由になり、
柔道着を着る必要もなければ
道場の畳を踏む必要もなかった。
翌年の春卒業してしまうので、落第でも
しない限り、大会に出場することは
できなかった。要するに、
柔道の稽古をする意味はなくなって
しまうのである。




その年、私たちは高専大会で準優勝戦で
松山高校に敗れたが、その宣誓式の朝は
よもやそのようなことが起ころうとは思って
いなかった。高校選手としては超弩級の者が
三年の部員に固まっていたので、私たちも
優勝するつもりでいたし、他校からも
そのように見られていた。
その超弩級の選手たちがもうしあわせたように
今はなくなってしまっているのである。

それはともかくとして、私の瞼の上に思い出
されてくる七月の半ばの、ある朝の無声堂の
情景は、宣誓式のそれであるに違いなかったが
それ以上に、今の私にとっては"別れ"の儀式以外
何ものでもなかった。
宣誓式のきびしさというより、"別れ"という
ものの持つきびしさであった。
私はその時以来、彼等に会っていないという
気がした。実際にその日以後、道場に於て、
彼等とそのようにしては会っていないのである。
青春特有の情熱と感傷に採られた四十余年前の
ある朝の無声堂の情景を、それまでとは私は
全く異なった感慨で思い出していた。
それは青春の一時期を、共にふしぎなものに
賭けた友同志の"別れ"式典であるに
違いなかった。そして私たちと別れた彼等は、
私の知らない生活を持ち、私の知らない時に
戦線に赴き、私の知らないうちに
戦死してしまったのである。


私もまた昭和十二年、日中戦争の初めに
応召して、大陸に渡ったが、私の方は
戦死することもなく、
その翌年三月帰還している。
脚気衝心で倒れて、そのために一人だけ
部隊から離れて、送還させられてしまったの
である。
 部隊から離れたのは、応召した年の
十一月の下旬であった。それまで二十日ほど
部隊は元氏という集落に駐屯していたが、
突然三日工程の順徳というところへ
進発命令が降った。
この日華北には最初の雪が降り、
見はるかす平原は一夜にして
真白になっていた。
 二十日間の駐屯生活の間、私は民家の
土間にアンペラを敷いて、
その上に身を横たえていた。手も、足も、
顔も風船のようにふくらんでいた。
部隊が進発して行く朝、軍医によって後送の
手続きがとられ、私だけ駐屯地からかなり
離れたところにある元氏の駅に残される
ことになった。そこで前線から来る貨車を
捉えて、後方の石家荘の野戦病院に
赴くようにということであった。
私は部隊共に、三十分ほど行軍し、
元氏駅まで行って、そこで部隊と別れた。
駅には二人の歩兵がが居たが、彼等にとって、
私はひどく厄介な預かりものであるに
違いなかった。
 私は二人の兵隊が土間に私の寝床を
作ってくれている間、雪に覆われた駅の
ホームから雪の原野を行軍して行く部隊を
見送っていた。
私が第三者として、自分が所属していた
部隊を眺めたたのは、その時が初めてであった。
広漠たる雪野のただ中に置かれた部隊は
極めて小さく無力に見えた。隊列は長い
一本の鎖となって段落ある真っ白い丘陵の
波立っている中を、丘に隠されたり、丘から
現れたりしながら、次第に遠ざかって行った。
私は駅に残された
自分も不安であったし、いま見送っている
部隊も不安であった。
独立輜重中隊という名の部隊でであったが、
戦闘能力の殆どない車輛部隊であった。
この部隊との別れは、実際にまた、
同班の若い兵隊三名との別れであったし、
私に後送の処置をとってくれた軍医との
別れでもあった。そして私が名を知らぬ他班の
多勢の兵隊たちとの別れでもあった。
みな戦死したのである。

戦争というものを振り返ってみた時、
何とも言えぬ心の痛みと共に思い出されるのは、
日本中に無数の"別れ"がばらまかれていた
ことである。
駅頭にも、村役場の前にも、家々の門口にも、
"別れ"があった。
日本中が"別れ"で織りなされていた。
戦争によってたくさんの日本の都市は
灰塵に帰してしまったが、それから二十余年
にしてそれらは多少性格の変わった新しい町
として生まれ変わっている。
"別れ"の悲劇の方はいかんともする術はなく、
依然としてそのままの形で残されている。
ただ、歳月というものが、その悲劇を舞台の
正面から遠方へと押し遣っただけのことである。

こんど無声堂の掲額式に出席して、
思いがけず新しい一つの"別れ"
を発見した思いであった。
華北の雪の日の部隊との別れは私の
生涯における胸の迫る思い出であるが、
若い日の無声堂の宣誓式もまた今にして思うと、
青春の輝かしさの中に仕組まれていた別離の
ドラマに他ならなかったのである。
迂闊なことであったが、私はその友だちと
別れて、四十数年後にして初めて、
その友たちのために胸を裂かれたのである。

(京都武徳殿)
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