ジョギングはシャンパンの味

ジョギング、写真、革クラフト、木工、パンつくり、日本の古代史などを趣味にして楽しんでいます。

宝塚古墳の埴輪が国宝に

2024年03月20日 17時38分12秒 | 日本古代史

ちょうど十年前くらいに、三重県の松阪市にある有名な船形埴輪を見に宝塚一号古墳を見学に行きました。

昨日の新聞にその船形埴輪が国宝になったというニュースが載っていました。【上の写真】
古代史の中では有名な埴輪で、私が見た埴輪はとても大きく存在感のあるものでした。

そして、その見学記をこのブログに載せましたので、以下に引用しておきます。

「宝塚一号墳の船形は庭の見学記」

この古墳は五世紀の初めの築造で旧伊勢国最大の大きさです。

 

 

 全長111mの前方後円墳で、全国的な大きさから云うと大したことはないのですが、造りだしから発掘された埴輪が多彩で、全国的に有名になりました。

 
 「展示されていた本物の装飾舟形埴輪」

 

 有名なのは全長が140㎝、高さ92㎝の舟形埴輪で、とくに、装飾を極めた舟形埴輪としては全国で唯一のものです。

 

 その他にも、発掘された、多彩な埴輪が松阪市埋蔵文化センターはにわ館で見学できます。 1700年前の埴輪の実物は素晴らしいもので一見に値します。 展示されている埴輪は今まで私が、見た埴輪の中で、一番素晴らしいものでした。

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初代天皇は西暦?年

2023年07月01日 17時20分05秒 | 日本古代史

私は古代スター好きですそれも古墳時代の辺りの年代は興味があります。

日本の国の歴史のスタートは史学的に言うと、詳しく書かれている魏志倭人伝に乗っている、女王卑弥呼の「邪馬台国」が一番確かな古い日本の国かと思います。【国の定義はむつかしいですが】

その他に、詳細はわからないのですが、
中国の後漢書に載っている西暦57年頃の倭の「奴国」(志賀島の金印で有名)、
同じく、後漢書に書かれている西暦107年の倭王の師升が「倭国王」と書かれている。
などが中国の史書には、倭国の国という表現がある。

日本の歴史書である、日本書紀、古事記では初代天皇は神武天皇となっている。
現在の古代史の研究では、本当に実在した天皇は、10代垂神天皇が最初の天皇、または15代応神天皇が最初の天皇、26代継体天皇が最初の天皇、などの説がある。
ちなみに、令和の今上天皇は126代天皇です。

神武天皇という記紀に書かれている内容に当てはまる天皇は、ちょっとそのままに人はいなかったと思うが、仮に初代がいたとして、日本の国の始まりの天皇の年代を考えてみると、

中国の歴史書から、年代がハッキリとわかっている歴史上の年代は、倭王武(21代雄略天皇)の上表文が中国の歴史書に西暦478年のことだと書かれている。

この年代から、初代天皇の年代を計算してみると、
日本の天皇の在位年数は歴史の統計学的な処理で4世紀~5 世紀の天皇の在位年間は10年/代とわかっている。
したがって、雄略天皇は21代天皇ですから、初代神武天皇の在位の時代は、
21代×10年=210年前となり、
初代が在位したのは、478-210=西暦268年頃となる。

面白いことに邪馬台国卑弥呼は魏に最初に使いを送ったのは、西暦239年で、最後に書かれている使者を送った年は、邪馬台国の女王が、西暦266年と中国史書に書かれている。

邪馬台国の後に、古代ヤマト朝廷が出来たとすれば、その最後の使者が贈られた266 年以降となるので、上で計算した初代天皇在位期間西暦268年頃と合う。

こんな、他愛もない計算をしたのも、ユーチューブ動画で、こんな計算をしている歴史学者がいて、それを見て、面白いと思ったからです。

 

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上毛野国、下毛野国

2023年06月26日 17時42分10秒 | 日本古代史

私が読む本は日本古代史の本が多いです。

今読んでいる本は「日本の古代豪族」という本です。

おおざっはに言うと日本の古代豪族と言われるのは、奈良の中央豪族の、物部、大伴、平群、葛城、三輪、中臣、蘇我などがあります。
また地方の豪族は筑紫、尾張、丹波、出雲、日向、吉備、関東の上毛野、下毛野などがあります。

ここで、以前から、私が不思議に思う事は、有力豪族がいたのは、九州から瀬戸内海、機内、伊勢湾くらいまでは、弥生時代の文化の伝来ルートなどから、理解できるのですが、
しかし、古代、機内から遠く離れ、文化の伝来ルートとも関係がない、北関東の地域の豪族【上毛野、下毛野など】がどうして古代に奈良の有力豪族と並んで大きな勢力を持っていたのか、不思議になります。

榛名山の麓のあたりは、古代から、文化が発達したのですが、今後、これらを調べたり、遺跡を訪れたいものです。

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吉野ケ里遺跡の石棺

2023年05月31日 17時59分13秒 | 日本古代史

今朝の新聞で表記の「吉野ケ里遺跡の石棺」記事を発見した。

石棺というのは、この時代、死んだ人を葬るために石の板を組み合わせて作ったお棺を作りました、それを石棺と云います。
このような状態で掘り出されると、大抵は中は土で埋まっていて、更に長くかかって石棺の中を調査する必要があります。

上の写真は50センチ角ほどの大きさの石でお棺の蓋をしてあるところまで、掘り出した写真です。

そこで、新聞以上の内容を知りたくて、動画や写真を含めインタネットで調べてみた。

この記事の内容は弥生時代を通じて、人が住んでいた遺跡である吉野ケ里遺跡で、未調査地を調査していて、発見したという内容です。

吉野ケ里遺跡は全国的に有名で、この時代の遺跡としては、大きくて、良く整備されている遺跡です。
いつも話題になるのは、邪馬台国の卑弥呼の時代に近いので、ここに邪馬台国があったのではという話題でよくニュースに出てきます。

私も、10年ほど前に、吉野ケ里遺跡を訪れました。
あの地方はこれといって何もない場所なので、とても重要な観光資源となっています。
ある意味、テーマパーク以上に人を、全国的規模で、集められる施設です。

今回の石棺発見の古代史的価値は、さほど期待できるものでないと私は思っています。
しかも、石棺の蓋はまだ明けておられないだけに、この時代の石棺が見つかるのは珍しい話ではありません。

しかも、この遺跡発見の動画記者会見をしていたのは、佐賀県知事でした。
通は考古学者が記者会見するものですが、政治家が出てきたことに、不自然さを感じました。
明らかに、この遺跡を再度売り出そうとしているように仕組んでいるように思います。
知事は、石棺の蓋石は六月に入ってから開けると予告、この吉野ケ里遺跡イベントを引き続きやろうとしているようです。

 

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なぜ弥生時代に人口が増えたか

2023年04月06日 22時09分07秒 | 日本古代史

弥生時代に人口が爆発的に増えたということは弥生時代に農業が始まったことと関連付けられてよく語られる。

上の図は、インタネットの記事から引用させていただいた、古代の人口推移のグラフです。

これによると、縄文晩期8万人の人口から、弥生時代の人口59万人に急へ、急に増加する。

理由としては、気候変動や、農業の開始などが主な理由として、今まで言われていた。

狩猟生活の、縄文時代から、稲作が始まった弥生時代になると、人口が爆発的に増えるのは、稲作により食料が安定的に収穫でき、多くの人口を養える量を収穫できるようになったからだと言われている。

今日は、それらとは、別の人口増加の理由を聞いた。

それは ある考古学者の話によると 人類が、稲作の開始により、コメを手に入れ、離乳食を手に入れたからだと言う。
初めて聞く人口増加の説明です。

離乳食が手に入ると、1年ごとに出産ができ 、子供が年子で、増えることができる、 これが人口増加の原因であるという。

調べると離乳食を持たない 狩獵民族では3年間隔の出生らしい。
とても興味深い人口増加の理由である。

母乳だけで育てると3年ごとの 出生というのは納得できる説明である。

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江戸時代初期のイタリア地図での日本

2023年02月08日 18時13分12秒 | 日本古代史

伊能忠敬が日本地図を完成したのが、江戸時代末期なので、それまでの日本地図は不正確な地図でした。
先日、インタネットニュースに「江戸時代初期のイタリア地図での日本」が掲載されていた。

この地図を見て面白いのは、この時代に、西欧諸国が、日本のどの場所に興味をもって、情報として知っていたかという事が分かるからです。

例えば、赤い線で囲ってある場所は「江戸、都(京都)、平戸、種子島」と書いてあります。
この場所に、西洋人は興味を持っていたという事です。

また、京都は大阪湾が京都まで入り組んで、海が続いているように地図は書かれている。
これは、当時の交通は、大阪から京都に行くのは船で淀川を使って行けたから、そう地図に書いたのであろうと思われる。

また、平戸も地図上は島になっている。これも、伝え聞いて書いたから、そうなったのだろうと思われる。
種子島も鹿児島近辺で唯一地名が書かれた西洋人に知られた場所になっている。

 

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古代史の本を買いました

2023年02月05日 18時03分21秒 | 日本古代史

今日は散歩の帰りに久しぶりに本屋に行きました。

家の近所にブックオフがあり、古本が売っています。
大きな本屋さんですが、コロナになってからは近付かなかったのですが、今日は久しぶりに行きました。

古代史の本が並んでいたので、その中から、三冊買ってきました。
古代史の本は、比較的、マニアックなので、高い値段から売れないので、何枚も値段札が貼ってあって安値で買えました。
新刊本なら、6千円以上したのが、安く変えたので、ろくに中身も見ないで喜んで買ってきました。

狗奴国の本は前に、図書館で一度読んでいる本で、中身は分かっています。

自宅近所の新刊書本の本屋さんは、売れないのか規模を縮小したので、こちらの古本屋の方が、内容は充実しています。

古本屋にも、時々は寄るべきと感じました。

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富雄丸山古墳の疑問⑵

2023年01月31日 22時20分49秒 | 日本古代史

先日、紹介した富雄丸山古墳の疑問⑴で、この古墳はとても立派な出土品が出た古墳ではありますが、


築造された奈良盆地の場所の位置関係から、その時代の有力な古墳のグループから離れた場所に築造された、という事が疑問点としてあります、さらに、その古墳の形が前方後円墳でなくて、一般にランクの低い人の古墳である、円墳であるという別の疑問点があります。

この時代、政権につながる有力な人の墓は、前方後円型の古墳が作られます。
序列から言うと、地方の有力者の場合、墓が円墳で作られたと考えられます。
したがって、普通に考えると富雄丸山古墳は富雄川の上流を支配していた、その近辺の地方の有力者の墓と考えられます。
しかし、出土品は地方豪族にしては、かなり立派な鏡と剣です。

そして上の図に富雄丸山古墳の出土品が出た場所が記されていますが、一般にその古墳の主なる被葬者は墓の中央に棺が埋葬されます。
しかし、今回の場合、国宝級の出土品は中央でなく司祭を行うべき古墳の端の場所に埋められていました。

一般に、古墳の中央頂上でなく、古墳の端に埋葬されている被葬者は、築造された後の時代になって、一族の人が古墳を利用して端に埋葬する可能性があります。
そういう点から言えば、今回のような立派な副葬品が出ることは考えられないと思います。


なぜ国宝級の今まで出たことのない立派な鏡と大きな太刀が埋められていたのか、とても不思議です。

出土した国宝級の遺物は鏡と大きな剣ですが、いずれも国産品であることが、それを生前、所持していた被葬者を類推する一つの手掛かりかと思います。

奈良盆地で金属加工していた、この地方の有力者の首長であれば、そのような副葬品があっても、おかしくないかもしれません。
いずれにしても、とても興味のある今回の国宝級の古墳の出土品です。

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富雄丸山古墳の疑問⑴

2023年01月30日 17時52分34秒 | 日本古代史

先日、新聞などで大きく取り上げられた富雄丸山古墳の出土物の「盾形鏡・大型蛇行剣」は国宝になるような貴重な発見です。

しかし、今まで、この古墳は大型円墳であるということ以外であまり注目をされていない古墳でした。
作られた時期は四世紀後半と言われているので、応神天皇の時代で、それらの古墳の主体は佐紀古墳群、馬見塚古墳群で、この古墳は、それらの古墳群から離れた位置にある。

上の図は奈良盆地の主な古墳を地図に示した資料ですが、今回の発見の前なので、ここには、富雄丸山古墳は載っていません。

富雄丸山古墳は、奈良盆地の北西の位置にある富雄川の上流にあります。
上図に私が赤線の丸で囲みました。
この時代の主な古墳は、奈良盆地の北にある佐紀古墳群(黄色の線で囲った位置)に主な古墳が集中しています。

その点から考えると、とても立派な出土品が出た富雄丸山古墳の被葬者は、その時代、主要な地位にあった人とは思えず、その時代のどういう地位にあった人かとても興味ある問題です。

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またも古代史の新発見

2023年01月28日 18時58分02秒 | 日本古代史

今日の新聞に熊本から出土した古代剣に604年の年号が象嵌されることがされていることが発表されていた。

さて象嵌というのは剣に鏨で彫り込みを入れて、それに銀の線を埋め込んで文字を表す方法です。
日本の昔で日本書記以前に文字記録がない中、古代剣に象嵌された文字は貴重な文字資料です。
日本には、刀剣の文字資料は、今まで十例しかありません。
これは聖徳太子の有名な冠位12階が発布された(603年)の、次の年の年号が記入されている象嵌剣です。
したがってこの地方の人がこの剣を大和朝廷からもらった、ということがその冠位12階の関係もあって非常に古代史の解明で興味を持たれるところです。

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日本古代史の新しい発見

2023年01月26日 22時38分07秒 | 日本古代史

今日の新聞の記事に、最近なかったような、日本古代史の発見の記事がありました。

たいていこういう記事は、大げさな見出しほどの記事が載っていないことが多いのですが、今回の記事を見て私も驚きました。
野球のホームベースの形のような戦争で使う盾の形をした大型の鏡と蛇のように蛇行した形の2 M 以上ある鉄剣が、古墳から発見されました。
私も趣味で、沢山の古代史関係の本や文献などを読んできましたが、盾の形をした鏡というのは初めて聞きました。
考えてみると亡くなった人を葬るのに、棺を悪霊から守るためのものとして、鏡は普通ですが、盾も一緒に葬られることがあるそうです、従って盾の形をした鏡は、盾と鏡の両方備えたものとして埋葬された人を守る鏡としては最強かと思います。
古代史上の大発見です。

これから、この遺物に関する、いろいろな研究が進んで、新しい古代史の知見が発表されるのが楽しみです。

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古墳の名前

2022年12月10日 18時44分09秒 | 日本古代史

私は昔から、日本古代史が好きで、特に、古墳時代に興味がある。

旅行する時も、古墳を見たくて、奈良の桜井市あたりはもちろん、他に、堺市は実家の墓が近いこともあって、両親の墓参りを兼ねて、訪れることが多い。

その他にも、九州の熊本、宮崎、長崎の古墳、中国地方の岡山・倉敷、山陰の出雲、福井など古墳を見たくて、旅行したこともあります。

その中て、古墳の名前の付け方も特別な言葉が多いようです。

一般的には、御陵の場合は天皇などの名前を付けて「仁徳御陵」などと呼ぶ場合もあるが、
今は、古墳は「○△山」「×□塚」などといった古来の名称の名前で呼ぶ場合が多い。

しかしそれが、例えば「天神山
」「稲荷山」「大塚山」「茶臼山」「丸山」「二子山」「二子塚」「車塚」「つくり山」などといった地名は日本各地に非常に多く、どこの地方でもある。

私が住んでる愛知県にも、上にあげた名前の古墳がある。
味美二子塚古墳ゃ車塚古墳や大塚古墳などがあります。

その他には、愛知県で一番大きな「断夫山古墳」という名前の古墳は
古事記にも書かれている、この地域の言い伝えから、「日本武尊」の奥さんの宮津姫と関連して、名前が付けられたと言われています。

 

 

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古代史のTV新番組

2022年04月05日 07時46分41秒 | 日本古代史

テレビ番組の関口宏の「もう一度、近現代史」は私の好きな番組でrす。
随分長い期間、視聴していましたが、先週で終わりまた。

その番組の後、今週から新しく始まったのは、「関口宏の一番新しい古代史」という番組が始まった。
最初の回は、日本民族はどこから来たかというような内容でした。

この種の番組は、MCの関口宏と彼の相方の解説内容と幅広い知識があって、初めて、面白くなる番組である。
今回は松岡正剛氏がこの役目をうまく果たしていて、更に、難しい学問上の課題については、史学家の吉村武彦氏が補完していて、面白く聞けそうです。
今後の放送が楽しみです。

 

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国の成り立ち

2022年04月04日 10時59分40秒 | 日本古代史

現在、戦争しているウクライナとロシアの両国について、両国が同じような言葉を使う事から、両国の国の成り立ちの説明がなされることがある。
もともと同じ兄弟国だったような説明もあるが、本当のところは複雑な事情のようだ。

所で、日本の国の成り立ちについての神話はあり、戦前はそれを学校で習ったが、戦後の教育を受けた我々世代は「国の成り立ち神話」は誰にも教えてもらう事は無かった。

古事記・日本書紀(記紀と略す)にこの国の成り立ち神話が書かれていて、戦前はその教育を受けたらしい。

最近、私は、古代史の本を読んでいると、自然と「国の成り立ち神話」に関して、記紀に記述された話を読むことになる。
国が生まれる神話の粗筋としては、イザナギノミコトとイザナミノミコトが塩を作る時のように、矛で海水をかき混ぜるて、その矛から滴るしずくが落ちて塩が積もって島となり、列島の主要な土地、大八洲(島)が想像されたという話である。

この話を記紀で読むと、当時西暦700年代初頭の頃に、この話を作った人は、その時代の自分たちの常識や、知識に基づいて、その時の主権者(天皇家)の都合に合う、「国の成り立ち神話」を作ったと思う。

そういう立場で「国の成り立ち神話」を見てみると、面白いことがいろいろとわかってくる。
そのうちの一つを紹介します。

大八洲(島)とは古事記では①淡路島②奈良の大和③四国④九州⑤隠岐⑥佐渡⑦壱岐⑧対馬となる(日本書紀では少し違う)、つまり、現在の古代史で分かっている、古代天皇家と深くかかわっているはずの出雲や備前(岡山)、紀伊、丹後などが出てこないというのは何故なのか不思議である。
当然、優先順位からして、四国より大和朝廷と関連が深いの出雲、吉備は最初に、生まれたと出てくるはずです。
当時の考え方としては、出雲や吉備(岡山)、紀伊、丹後などは奈良から行くときは、海上交通によることが多いので、島として扱うらしい。

その他にも、何故、最初に作られた天皇家の土地が淡路島なのかも興味のある問題である。
実際の天皇家の本領である、奈良の大和地方は二番目なのである。

その他にも、研究者の書いた本を読んでいると面白いことがいろいろある。

 

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「サーファーズ・イアー」という言葉

2022年03月31日 07時09分16秒 | 日本古代史

縄文時代の海の食物についての研究者の講演の動画を見ていて、表題の言葉を知った。

縄文時代人は海に潜って食物をとっていたらしい、その根拠は貝塚で見つかった縄文人の骨に、水に潜る人の特徴である、表題の「サーファーズ・イアー」が見つかるらしい。

正式には、「外耳道外骨種」というらしい。

インタネットによると、「外耳道外骨種」とは、
外耳道内における異常増殖
良性のものであるから特別の障害はみられない。
これまで環太平洋地域や太平洋内の諸島住民に発見されているが、珍しいらしい。
ペルー出土の古人骨のなかからも,また,日本の縄文時代人骨からも発見されている。
海女にしばしばこれがみられるところから,反復される冷水刺激が成因と考えられている。

また、遺跡から見つかる、西日本の弥生時代の人の骨にも、この特徴がよく認められるらしい。
其の事からわかることは、日本の古代人は海に潜って、魚や貝を取っていたらしい事が分かる。

実際に、古代日本人について書かれた、魏志倭人伝に、中国の使節が邪馬台国を訪れた時の、見聞録に、「今、倭の水人は良く海に潜って魚貝を取り・・・・」と書いていて、このことが、倭人の特徴として書いている。

古代日本において、上の史書からも、また骨の考古学的調査からも、倭人(弥生人)は海に潜っていたことが裏付けられることを知った。

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