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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 三線

2021-08-25 10:40:59 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「三線」

 Description / 特徴・産地

 三線とは?
 三線(さんしん)は、沖縄県那覇市などで生産されている楽器です。ユネスコ無形文化遺産の組踊(クミウドゥイ)や県の無形文化財である琉球歌劇のほか、民謡やポップスなどさまざまな音楽で用いられ、その素朴な音色は多くの人々を魅了しています。
 三線は棹、胴、糸巻きのパーツからできており、棹の形状によってそれぞれの型に分類されます。代表的な型は7種類あり、その型を作り出した琉球王国の名工の名がそれぞれに付けられています。
 三線作りには繊細な職人技が求められ、原木選びから数十年かけて仕上げることも珍しくないといいます。チーガと呼ばれる胴の部分には蛇皮が使われているのが特徴です。蛇皮張りの三線を持つことは、昔の沖縄において富の象徴でもありました。縁起を担ぐため、床の間に「夫婦三線(ミートゥサンシン)」として三線を2丁飾ったり、漆塗りの箱に納めた三線を「飾り三線」と呼び大切にしてきたりと、三線は沖縄の文化において楽器としてだけの価値を超え、特別な意味を持って人々と関わっています。

 History / 歴史
 三線 - 歴史
 14世紀末、独立国家として栄えていた琉球王国に、中国大陸から三線の原型となる三絃(サンスェン)が持ち込まれました。15世紀になると三線は士族のたしなみとして推奨。17世紀初頭には正式な琉球王国の宮廷楽器として歓迎行事等に使われ始めます。同時に、三線打(三線制作者)を管轄する役職を設けることで名工が育成され、優れた楽器が生み出されてきました。また、組踊等の芸能文化が隆盛したことなどから、三線の宮廷音楽における主要な楽器としての地位が確立されました。
 廃藩置県に伴う府県統合等により、琉球藩は1879年に沖縄県へと変わり、三線の担い手であった士族たちは地位を剥奪されます。しかし、彼らが地方へと下ることで三線は庶民へと伝わり、これが広く普及していく契機となりました。
 1945年の沖縄戦による被害で失われた三線も多くある一方、1955年以降、戦火を逃れた名器が重要文化財として保護され始め、琉球王国から続く三線の文化は今もなお守り続けられています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/sanshin/ より

 三線の歴史
 琉球の歴史と文化に育まれた伝統楽器。 600年の永きにわたって人々に寄り添い、 心の音を奏で続けてきた三線の足跡をたどってみましょう。

 三線の伝来
 沖縄はかつて琉球と呼ばれていました。東シナ海の中心に位置していた琉球列島はその地理的特性を生かし、東アジア周辺の国々と古くから盛んに交易を行っていました。独立国家として栄えていた琉球王国に14世紀末、中国福建の閩江(ビンコウ)下流の住民である閩人(ビンジン)三十六姓によって三線の原型となる三絃(サンスェン)が持ち込まれました。15世紀になると当時の王・尚真(ショウシン)により士族の教養の一つとして奨励されるようになりました。その後琉球から大和(堺)に伝えられ、三味線として普及していったと言われています。

 琉球での発展
 琉球王国は17世紀初頭、三線を宮廷楽器として正式に採用し、歓待などの行事に使用するようになりました。同時に、三線製作者である三線打や、三線打を管轄する役人・三線主取(サンシンヌシドゥイ)などの役職を設けることで、卓越した名工を育て、優れた楽器を生み出してきました。この頃から琉球では組踊(クミウドゥイ)などに代表される歌舞芸能が盛んになり、三線も宮廷音楽における主要な楽器としての地位を確立することになりました。

 近代における普及
 三線の担い手であった士族たちは、1879年の廃藩置県により、その地位を失うことになりました。地方に下った士族たちから、三線は庶民へと伝わり、やがて村の祭事や村芝居などで用いられるようになり、広く普及していきました。

 琉球の宝として今も
 1945年、激しい沖縄戦により多くの尊い人命と有形無形の文化財が失われました。琉球政府時代の1955年、名器とされていた三線3挺がいち早く特別重要文化財に、1958年までにその他の名器8挺も重要文化財として指定され、1972年の本土復帰に伴い沖縄県指定有形文化財になりました。1995年にはさらに9挺が追加され、現在では20挺の三線が工芸品として指定されています。そして2012年、三線は26番目の沖縄県伝統工芸製品に指定されました。今日三線は、世界遺産に登録された組踊や琉球古典音楽、琉球歌劇や民謡、民俗芸能、ポップスなど様々な音楽シーンで用いられ、その素朴な音色は多くの人々を魅了しています。

 三線の魅力
 三線を愛してやまなかった沖縄の人々。 今も伝わる逸話の数々からは、三線が楽器としての価値を超え、 沖縄の文化の中で特別な意味を持って人々と関わってきたことがうかがえます。

 名器の音色は海を越えて!?
 昔、本部備瀬(モトブビセ)に住むある男が名器と呼ばれる三線を持って毛遊び(モーアシビ)(若者が野原で歌い、踊り遊ぶ夜会)に出掛けたところ、三線を取り替えられてしまいました。残念に思っていると3kmも離れた伊江島の方向から海を越え、聞き覚えのある三線の音色が聞こえてきました。早速、島にわたり方々訪ね歩いたところ、「あまりにもその三線の音色が良いので、つい悪気をおこして拝借してしまった」という人がおり、詫びて返してくれました。

 豊かさのシンボルとして
 昔の沖縄において高価な蛇皮張りの三線を持っていることは、その家庭が裕福だということの象徴でもありました。門扉がなく、風通しのため雨戸をあけておくことも多かった琉球家屋。屋敷の床の間に三線を飾ることは、外を歩く人や招き入れたお客に自らのステータスを示すことを意味していました。古い文献には「米30俵と交換」「馬1頭と交換」「田畑と交換」など、沖縄の人々の三線への強い愛着を感じさせられる記述も多く残されています。

 工芸品としての魅力
 三線の魅力を語る時、美術工芸品としての価値も忘れてはいけない大切な要素の一つです。
 熱心な三線愛好家の中には、三線のその美しい形状に対してまるで女性を愛でるように「ちゅらかーぎー(美人)」と形容する人も少なくありません。三線を漆塗りの箱に納め「飾り三線」と称し、たとえ弾けなくても持っていることに意味があったとされている時代もありました。また、床の間に三線2挺を飾る「夫婦三線(ミートゥサンシン)」を持つ事は縁起が良いとされています。

 

 伝統的な7つの型
 三線は棹、胴、カラクイ(糸巻き)から成り立ち、棹の形状によって型が決まります。 代表的な7つの型は、それを生み出した琉球王国時代の名工の名前がつけられています。 棹の太さや糸蔵の長さ、天や鳩胸の形などを見比べてその違いをみつけてみましょう。

 南風原(フェーバル)型
 最も古い型とされていて、棹は細めで小ぶりなのが特徴です。野丸と鳩胸の区別がほとんどできません。

 知念大工(チニンデーク)型
 三線主取(サンシンヌシドゥイ)(三線製作者を管轄する役人)に任命された知念の作とされています。天と鳩胸にかすかに稜線があります。

 久場春殿(クバシュンドゥン)型
 三線の中では最も大型です。下方へ近づくにつれて次第に太くなります。胴内部の心の付け根には段が施されています。

 久葉の骨(クバヌフニー)型
 久場春殿(クバシュンドゥン)の作と言われています。横から見るとクバ(ビロウ)の葉柄に似ていることから名付けられました。棹は最も細く、下方へ近づくにつれ太くなります。7型の中で最も小ぶりです。

 真壁(マカビ)型
 最も普及している型で、名工・真壁里之子(マカビサトゥヌシ)の作とされています。盛嶋開鐘に代表されるように、琉球王国時代に「開鐘」(ケージョー)と呼ばれていた型はこの真壁型を指します。

 平仲知念(ヒラナカチニン)型
 知念大工の系統に属する平仲の作とされています。天の湾曲が大きく、中央と鳩胸の稜線が特徴的です。

 与那城(ユナグシク)型
 名工・真壁里之子(マカビサトゥヌシ)と同時代の与那城の作と伝えられています。棹は厚みがあり、糸蔵は長めで鳩胸も大ぶりな作りです。通称ユナーと呼ばれています。

*https://okinawa34.jp/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 南風原花織

2021-08-25 10:39:10 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「南風原花織」

 Description / 特徴・産地

 南風原花織とは?
 南風原花織(はえばるはなおり)は、沖縄県島尻郡南風原町を中心に生産されている工芸品です。
 県内で採取された琉球藍やフクギなどの植物を用いて染色された糸で織り上げられています。
 南風原花織の特徴は花のように美しい図柄に立体感があること。一見すると刺繍のように緻密な図柄は、長年の修行と経験を積んだ職人だけがなせる技です。
 History / 歴史
 南風原花織の歴史は古く、明治時代にはその技術を伝承したという記録が残っております。
 大正3年(1914年)には、南風原村立女子補修学校が設立され、多くの婦女子が花織の技術を習得し、先祖代々から伝わる技術と合わさって独自の技術を発展させていきました。
 戦後は、生き残った人たちが貧窮生活の中からあらゆる材料をかき集め、再興に向け織物の生産に尽力し、現代においても時代のニーズに応じて改良されながら織り続けられています。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/haebaruhanaori/ より

*https://kougeihin.jp/craft/0137/ より

 

 南風原花織:王朝の祝い着として発展

 繊細な花柄を織り出す紋織物
 かすりのように、経緯が一本ずつ交互に織り合わせれる織物を平織といいますが、2本、3本と糸をとばして変化をつけた織物を組織織もしくは紋織といいます。沖縄ではそれを「花織」といい、南風原花織は多様な色彩の花糸を使った立体感のある浮き柄が魅力的で、高い人気を得ています。
 かすりに代表される一般的な平織りでは、タテ糸を通す綜絖(そうこう)と呼ばれる器具を2つ使うのが普通ですが、南風原花織では8枚ほど(多いときは10枚)もの綜絖を順番に操作して図柄を浮かび上がらせます。それだけ複雑で職人の腕が問われ、たいへんな手間と時間をかけてつくられる織物です。


 母から娘と伝わっていった伝統技法
 南風原町では、明治のころから花織の技法を母から娘へと伝承させてきました。1914(大正3)年4月には南風原村立女子補修学校が設立され、たくさんの女性が織物の技術を習得しました。先代から伝わる花織の技術とあいまって、独自の花織・浮織の技法を確立していきました。


 南風原花織の特徴
 南風原花織の染色の特徴は、県内で採取される琉球藍、福木、テカチ染め等の植物染料を用いることです。化学染料については、絹は酸性染料、木綿はスレン染料、反応染料、直接染料を用いています。
 南風原花織には、ヤシラミ花織、クワアンクワアン織り、タッチリーなど、産地にしか存在しない名称がありその模様は花のように美しく図柄に立体感がでて華やかな印象を受けます。

*https://www.haebaru-kankou.jp/index.php/texitile/haebaru-hanaori.html より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 知花花織

2021-08-25 10:27:12 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「知花花織」

 Description / 特徴・産地

 知花花織とは?
 知花花織(ちばなはなおり)は沖縄県沖縄市知花で作られている織物です。
 知花花織の特徴は、布の地に花のような文様が織り込まれていることです。このような連続した幾何学模様を織り込んだ織物を紋織物と言い、華やかな文様のルーツは南アジアから伝わったものとも言われています。
 知花花織には縦方向に柄が浮き上がる経浮(たてうき)花織と刺繍のように柄を織り込む縫取(ぬいとり)花織とがあります。素材は木綿が主に使われていましたが、絹や羊毛を用いることもありました。織り込まれた模様は、通常反物では同じ模様が連続して続きますが、知花花織では最初と最後で違う模様が織り込まれることもありました。その理由は、琉球王朝時代に税金として収められていた織布が多かった中、知花花織は徴税の対象となっていなかったからです。
 祭事の際にも知花花織の着物を着用して祭祀を行っており、その風習は現代にも受け継がれています。

 History / 歴史
 知花花織 - 歴史
 知花花織の起源ははっきりとわかっていませんが、一説によると18世紀頃には旧美里村(現在の沖縄市)の周辺で花織が織られ始めたと言われています。琉球王朝は盛んに中国や南アジアと交易を行っており、花織のルーツは南アジアから伝わったと考えられています。
 知花花織は王府の貢布の対象となっていなかったことから自由な意匠で作られ、知花村の祭事に着る衣装としても根付いていきます。旧暦の8月14日に行われるウマハラシー(馬競争)、8月15日のウスデーク(臼太鼓)で五穀豊穣を願う祭事では知花花織が用いられてきました。しかし、明治以降になると徐々に衰退の一途をたどるようになります。
 第一次、第二次世界大戦後、沖縄が壊滅的な被害を受けると、その技術は完全に途絶えてしまいました。しかし、1989年(平成元年)に知花花織は100年ぶりに復元され、現在では行政の支援も受け着物だけでなく、ネクタイなどの小物も製作するなど意欲的に生産に取り組んでいます。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/chibanahanaori/ より

*https://kougeihin.jp/craft/0136/ より

 百年の眠りから目覚めた幻の知花花織

 【 知花花織とは 】
 知花花織(ちばなはなおり)とは、沖縄本島の旧コザ市と旧美里村が合併した現在の沖縄市発祥の織物。過去二度の大戦で、全ての織物が焼失してしまったことやアメリカ統治、日本本土復帰など、激動の時代を迎えた沖縄で、織物技術の継承が進まず、完全に途絶えてしまった幻の花織り。100年後、一人の男の手によって復元された知花花織は、現在、指定文化財に指定され、各方面での活躍がめざましい。

 2度の大戦で・・・

 沖縄は琉球王国時代より、多彩で気品に溢れた多くの工芸品を生み出していますが、その中でも特に染織に関しては、宝庫と呼ばれるほど多くの技法が現存します。

 ただ、知花花織においては、第一次、第二次と二度の大戦で、ほとんどの花織りが焼かれてしまったことや、その後のアメリカ統治、日本本土復帰など、激動の時代を迎えた沖縄において、織物技術の継承がうまく進まなかったことなど、さまざまな困難があった。

 壊滅危機にある知花花織の染織技法を途絶えさすまいと、先人のあらゆる努力もむなしく、知花花織の歴史は、ついに、完全に途絶えてしまったのです。

 沖縄は染織の宝庫
 織り手そのものの感性 
 今に残る過去の知花花織は、かなり自由奔放なデザインが特徴で、織り始めから終わりまで、同じ模様の連続ではなく、思うがままに模様を変化させながら織られいますが、それには理由があるのです。

 沖縄の染織のほとんどが、琉球王府への租税として、厳しい制度の下で創られていたため、織子の自由な感性で織られるということはありませんでした。

 しかし「知花花織」は、そのような貢布としての制約はなく、村の祭りの衣装や晴れ着として、織り手そのものの感性が、そのまま反映されていたのです。

 庶民に愛される織物ゆえの夢とロマンにみちあふれた花織が、完全に途絶えたことが残念でなりません。

 立ち上がった一人の男

 知花花織発祥の地である旧美里村(現沖縄市)出身の幸喜 新(コウキ シン)氏。
以外にも、知花花織との出会いは、一枚の新聞記事。当時、美里花織(みさとはなおり)と称された織物が紹介されていて、幸喜氏の生まれ育った美里の地名が付された織物の存在に強い衝撃を受け、後の琉球大学大学院で修士論文の研究テーマ「旧美里村における経浮花織技法の調査・研究および復元」で、本格的に、知花花織の研究が幕をあけることとなる。

 美里花織(みさとはなおり)とは、どのような織物なのか。美里とは沖縄市の美里地域を指したものなのかなど、手がかりの少ない中のスタートだったと言う。

 家宝として守られてきた知花花織との出会い

 知花花織の歴史が途絶えて100年の月日が経過した今。
 花織技術を知っている人も現存していない状況の中、完全に途絶えた歴史を復活させるのは容易ではない。

 それでも、僅かな情報の中からスタートし、信頼関係を築きながらの涙ぐましい努力。繰り返しの地道な聞き取り調査を行った結果、戦時中、家宝として守られてきた知花花織を見せてもらうまでにたどり着いたそうです。

 100年以上の時を経て、目の当たりにする知花花織の技術力の高さと美しさに、強い衝撃を受けた事を、今でも鮮明に覚えているそうです。

 知花花織の技術力の高さ

 「無」から「有」に変えたいと願う瞬間
 また、知花花織を身にまとい五穀豊穣を願う祭祀(知花ウスデーク)との出会いも忘れられない。戦中戦後を通し、一時途絶えていたウスデークは、知花の女性達により、戦後いち早く復活したそうですが、さまざまな障害を乗り越えることが出来ず、その後、完全に途絶えてしまったようです。

 知花花織の復元とウスデークの復活。単なる一個人の研究で終わることなく、地域のために貢献できることとして、たとえ一人でもこの仕事をスタートさせたい。それは「無から有に変えたいと願う瞬間だった。」と幸喜新氏は言う。
 その後、沖縄市市長をはじめ、多くの支援者の尽力により、ついに、100年の眠りから目覚めさせることに成功した。

 五の四までも(いつの世までも)

 一つの花(柄)は、四つ角に五つの組の■と、中心に四つの組の■とで構成されています。これは・・・

 いつ(五)の世(四)までも永遠に、あなたへの愛は変わらない。

 という深い思いが込められており、島の美童達は、いとしい人の為に、1本1本心を込めて織り、愛する人に思いを託した女性の愛のしるしだったのです。

また、結婚す際に、花嫁が花婿の家族や親戚に贈ることもあったと言われ、紺、白、赤の優しい色合いは、その落ち着いた感じの素朴さが魅力だ。

 素材は、木綿が主で、その他に芭蕉・絹・羊毛なども使用されています。花織の伝統的スタイルは、藍(琉球藍)で染められた紺地に絣、もしくはさらに格子柄の組合せ、そして浮模様が入るというものです。

 

 職人の真剣勝負

 準備に2週間を費やし、1日の生産量わずか数十センチ。

 いくつもの工程を経て、織り上げられる同花織りは、1694本の緯糸を1本1本手作業で綜絖に通される。

 織り機に準備するまでに「約2週間」を費やし、織れる量は「1日にわずか数十センチ」と地道な作業の繰り返しにより、ようやく形として表れる織物の仕事は、相当な根気や忍耐が必要とされる。

 タンタンと快調に聞こえる機の音ですが、1通たりとも気が抜けない、職人の真剣勝負なのです。

 100年の眠りから目覚めた幻の花織、受け継ぐ職人の技(匠)をご堪能下さい。

 歴史を刻む沖縄のおばぁ

 18世紀には、既に技術として確立していたとされる知花花織は、臼太鼓(ウスデーク)と言われる五穀豊穣を願う女性の祭り(旧暦8月15日)に、村の女性が着る衣装で、自ら織り着飾った花織りを自慢する風習があったようです。 

 また、馬乗り競争(ウマハラシー)と言われる男性の祭り(旧暦8月14日)に、馬乗用上着や芝居の晴れ着などとして、広く庶民に愛された衣装なのです。

 

 【 知花花織の今 】
 現在、知花花織の復元は、「知花花織復元作業所」にて行われており、デザイン、琉球藍の染色技術と管理、色糸の染色、絣括り、製織など、技術の錬磨と研鑽に情熱を注いでいる。 また、自由な感性で織られた知花花織は、他地域の織物と比べ、独自性に富み、貴重な民族文化財とされ、沖縄市指定文化財に指定されるまでに評価される。今後も、各方面での活躍が期待されています。

*https://www.rakuten.ne.jp/gold/fellows/chibana03.htm?scid=af_pc_etc&sc2id=af_115_1_10000448 より

 

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 琉球漆器

2021-08-25 10:23:12 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「琉球漆器」

 Description / 特徴・産地

 琉球漆器とは?
 琉球漆器(りゅうきゅうしっき)は、沖縄県で作られている漆器です。中国から伝来した漆器の技法を巧みに取り入れ、沖縄独特の琉球漆器へと発展させ、その技術と芸術性は海外でも広く評価されています。
 琉球漆器の特徴は、加飾技法が多種多様なことです。沖縄独特の加飾技法である「堆錦(ついきん)」は、中国の「堆朱(ついしゅ)」と言う技法からヒントを得て完成しました。立体的表現ができる技法で、他の産地には見られない味わいがあります。
 伝統的な朱色漆と黒色漆の大胆なコントラストが美しい花塗(はなぬり)など、鮮明で斬新な華麗さも人気です。他にも「沈金(ちんきん)」、「箔絵(はくえ)」、「螺鈿(らでん)」などの技法があります。
 沖縄は漆の生産地としても大変恵まれた気候条件があり、ディゴ、エゴノキ、ガジュマル他の良質の素材を採取することが可能でした。産地としての好条件と職人の努力によって琉球漆器は独自の地位を確立しています。

 History / 歴史
 琉球漆器 - 歴史
 琉球漆器の歴史は、琉球王国時代の14~15世紀頃に始まります。中国との貿易が盛んだったため、漆器の技法は中国から伝わりました。
 15世紀に琉球王国が統一されると、組織的に漆器を作るため貝摺奉行所(かいずりぶぎょうしょ)が設置されます。政治と信仰の結びつきが強い琉球地域では、祭祀や儀式で漆の装飾品や首飾り玉などを使用しました。琉球の士族や王族はもとより地方でも、漆器は人と神を結ぶ儀礼の場所で使用されてきたのです。
 1609年(慶長14年)に薩摩藩が琉球王国へ侵攻した時に、接収した琉球漆器を徳川家康に献上しました。薩摩藩の進行以降は、中国よりも日本との外交や結びつきが強くなります。
 16~17世紀の琉球漆器は、朱、緑の漆に「沈金(ちんきん)」技法を使用した作品や朱漆に「螺鈿(らでん)」の作品が中心です。17~18世紀は、黒漆に赤や青の夜光貝を使った細かな「螺鈿」の作品に変化します。
 18~19世紀には朱漆に、「沈金(ちんきん)」、「箔絵(はくえ)」、「堆錦(ついきん)」などの技法が用いられました。
 1879年(明治12年)の廃藩置県以降は、琉球漆器は民間の工房や漆器会社が製作しています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/ryukyushikki/ より

 沖縄らしさが際立つ透明感ある朱色
 日本には黒の漆器が多いけれど、琉球漆器は透明感のある朱色が持ち味。デイゴの木やニービ(小禄砂岩)といった沖縄ならではの素材と、漆に好条件の高温多湿の気候を生かして、人々は古くから独特の漆芸を育んできた。

 
 朱色に黄色や緑の取り合わせ
 南の太陽のもとでは鮮やかな色がきれいに映る。朱色に金色の線で花が描かれたなつめ、軽くて丈夫なデイゴの木で作られた朱塗りの盆。黄色いゆうなの花や緑の松がついたカラフルな硯箱は、琉球漆器特有の「堆錦(ついきん)」という技法で作られている。漆と顔料を混ぜて餅のようにした堆錦餅(ついきんもち)を、うすく伸ばして、花や松の形に切ってはりつけるのである。
 堆錦のほかにも、キラキラ光る貝をはりつける「螺鈿(らでん)」、模様の部分に金箔をはる「箔絵(はくえ)」、彫った線に金箔を入れる「沈金(ちんきん)」など、さまざまな技法がある。
 「これだけいろいろな手法を使っている産地はないと思う。」
と話すのは、漆器作り40年になる松田勲さん。展覧会で数々の賞を手にしている伝統工芸士である。


 失敗からヒントをもらう
 好奇心のおう盛さには驚かされる。漆器作りの職人は技法ごとに分業することが多いが、松田さんは、蒔絵(まきえ)、螺鈿、沈金、箔絵をそれぞれの師匠から学び、堆錦も含めていくつもの技法を使いこなしている。「ぼくは全部やりたかった。人があまりやらないこともやっています。」
 たとえば総張りといって、薄くのばした堆錦餅をなつめ全体に張り、さらに上から模様の形に切った堆金餅をはる。あるいは庭で拾った葉っぱに漆をつけて香合に張り、葉だけ取って葉脈の跡を残す。
 失敗からヒントをもらうことも多い。「だからおもしろい。ミスの中から、どこか使えないかなと考える。失敗したのをほったらかしておいて、あとで見たらきれいな色になっていた。それならこれを全体にやったらどうかな、とかね。」


 親方に教えられたこと
 小学校のころから絵が得意だった松田さんは、高校で漆器の勉強をした後、黒江漆器の産地、和歌山県海南市の会社に弟子入りした。6人兄弟の末っ子としてかわいがられて育った松田さんにとって、初めてのひとり立ちである。はじめの頃は、まわりに沖縄出身の人はほとんどいなかった。
 「寂しかったですね。親方はとてもいい人で、食事も一緒にして家族のように接してくれたけど、短気でね。こっぴどく叱られたときは沖縄を思い出した。つまずいたことは何度もあるけど、仕事でミスして怒られるのは当たり前。そんなことで負けないさー。」
 親方にすすめられて日本画や書道を習った。漆器の基本中の基本である写生は、親方に教えてもらった。当時覚えた草の描き方は今でも頭に残っている。
 4年間、蒔絵を学んで沖縄に戻った。ほかの技法も勉強して腕を磨き、展覧会に出品するようになっていった。


 おもしろいものを探してる
 技術に熟練しても、デザインがまたむずかしい。写生帳や本を見てもなかなか決まらないことがある。パッと浮かんだときは、仕事もあっという間に進んで気持ちがいい。段取りも瞬時に組み立てられる。しかしそんなときでも、頭の中のイメージと実際にできた物との間には差がある。
 「仕上りは理想の70%から80%。100%の仕事は不可能に近いんじゃないか。完璧な物はまだない。」
 これからはどんな作品を?「いきあたりばったりよ。おもしろいものはないかと、いつも探してる。なんでも前向いて行かんといかんでしょう。」
漆に出合って40年。好奇心はますます健在だ。

 
 職人プロフィール

 松田勲 (まつだいさお)

 1944年生まれ。伝統工芸士、県の無形文化財伝承者、沖展会員。

 こぼれ話

 琉球王府がまもり育てた漆器作り

 中国から漆器が伝わったのは、琉球王国が中国や東南アジア諸国と盛んに交易していた15世紀ごろのことでした。琉球では独自の漆芸が花開き、将軍家への贈り物として、また中国への朝貢品として、優れた品がたくさん作られました。王府は貝摺(かいずり)奉行所という機関を設けて、漆芸をまもり育てていたのです。
 貝摺奉行所では、貝殻を小さく切ってはる螺鈿(らでん)の技法を中心に製作していました。1日かけて一寸(3センチ)角くらいしかできない、かなり精巧な仕事をしていたようです。
 当時から作られていたもののひとつに、東道盆(トゥンダーブン)があります。中国からの冊封使(さっぽうし)をもてなすときに使った器で、8~9種類のごちそうが入るように中が区切られています。
 こういった大きな器には、デイゴの木が使われます。木の目が粗いので、大きさのわりにびっくりするほど軽いのです。それでいて丈夫で、乾燥しても変形することはありません。おもに沖縄本島中北部のものが使われています。また、お椀などの小さなものには、本島北部のシチャマギ(エゴノキ)を使います。

*https://kougeihin.jp/craft/0523/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 壺屋焼

2021-08-25 10:19:35 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「壺屋焼」

 Description / 特徴・産地

 壺屋焼とは?
 壺屋焼(つぼややき)は沖縄県那覇市壺屋で主に生産されている陶器です。焼物(やちむん)とも呼ばれ、沖縄を代表する陶器の一つとなっています。
 壺屋焼の特徴は、沖縄特有の釉薬を用いた色とりどりの力強い絵付けです。庶民が用いる器でありながら装飾性に豊み、様々な技法を駆使した意匠は、大正時代の民芸運動家である柳宗悦(やなぎむねよし)らによって広く紹介され世に知られるようになりました。
 壺屋焼は荒焼(あらやち)、上焼(じょうやち)と呼ばれる2種類に分かれ、主に酒や水の瓶などに使われた簡素な荒焼に比べ、上焼は様々な種類の釉薬を使い分け1200度の高温で焼締めます。こうして焼かれた壺屋焼はどっしりとした重量感と風格があり、沖縄の豊かな自然風土を写し取った焼物と称されます。
 使用される釉薬の中でも特に白釉は、消石灰とモミ灰に沖縄の土である具志頭白土と喜瀬粘土を混ぜた壺屋焼特有のもので、壺屋焼の特徴である温かみの表現に重要な役割を担っています。

 History / 歴史
 壺屋焼 - 歴史
 沖縄の焼物(やちむん)の起源は、14世紀~16世紀頃に大陸からもたらされた高麗瓦が由来とされています。この頃、琉球王朝は中国や東南アジア諸国と盛んに交易を行っており、壺屋焼の一種である荒焼(あらやち)もこの頃に技術が伝えられたと言われています。
 17世紀に入って琉球王朝は江戸幕府薩摩藩の支配下となり、それまで盛んに行われていた外国との貿易も影を潜めるようになりました。そこで当時の琉球王、尚寧王(しょうねいおう)は朝鮮から陶工を呼び寄せ窯を開き、朝鮮の作陶技術を積極的に取り入れた焼物を作るように推奨しました。こうして、壺屋焼の元となる上焼(じょうやち)が沖縄で焼かれるようになりました。
 やがて1682年(天和2年)、王府内にあった首里、知花、湧田の窯が、牧志村の隣、現在の壺屋に統合され、これが現在へ続く壺屋焼の始まりとなりました。
 明治以降になると、いったん壺屋焼は安価な焼物の大量生産に押されて生産が下火となります。しかし大正時代に入ると民芸運動の高まりとともに注目されるようになり、遂には1985年(昭和60年)、陶芸家の金城次郎が沖縄県で初めて人間国宝に認定され、壺屋焼は沖縄を代表する伝統工芸品として広く知られるようになりました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/tsuboyayaki/ より

 心なごむ、人と焼物の力強いあたたかさ
 琉球王国の時代から300年余り、那覇の壷屋の町で、陶工から陶工へ受け継がれてきたのが壺屋焼である。素朴なあたたかさは、沖縄を訪れる多くの人を魅了している。窯元の7代目、新垣勲さんにお話をきいた。

 
 やさしい白がなごやかな雰囲気を演出する
 琉球の人々は、海を越えて中国、タイ、ベトナムなどアジアの国々と盛んな交易を繰り広げてきた。南国の風土もあいまって、琉球王国では大和(日本)とは異なるのびのびと豊かな文化が花開いた。そのひとつが、地元の言葉で「やちむん」と呼ばれる焼物、壺屋焼である。壺屋焼の皿にチャンプルー(炒めもの)や刺身を盛ると、食卓はなごやかな雰囲気に包まれる。秘密は、生成りのようなやさしい白色。化粧がけといって、白土を溶いたものをかけた、壺屋焼ならではの色だ。人間国宝、金城次郎さんの作品をはじめ、魚の絵を大胆な線で彫った皿や壷が知られている。


 壺屋焼は大きく二つにわけられる。このように化粧がけに線彫りや赤絵をほどこしたものを上焼(じょうやち)、上薬をかけない素朴で力強いものを荒焼(あらやち)と呼ぶ。どちらも赤土がベース。魚、エビ、花など、モチーフにも南国らしさが感じられる。新垣勲さんは、魚や鳥を描いた躍動感あふれる作品をたくさん生み出している。工房を訪ねると、おばあちゃん、奥さんと一家総出で、絵付や線彫りの最中だった。新垣さんは、民芸運動の柳宗悦、浜田庄司らと交友のあった栄徳を祖父に、名陶工と呼ばれる栄三郎を父に持つ。焼物を始めたのは高校生のときだった。最初の一年はようじ入れにじっくり取り組んだ。次に湯飲み、花瓶、壷と、だんだん大きなものを習得していった。

 いいものは残り、悪いものは消えていく
 「苦しかったこと?ないです。普通ですよ。当たり前のことですから。」苦労を苦労と思わずに通りすぎてしまうような、気持ちのゆったりしたところが沖縄の人にはある。大胆な絵柄やほっこりした形は、そんな大らかさから生まれるのかもしれない。
 新垣さんは早くも二年目には、ほぼ思い通りの物が作れるようになったという。さまざまな工程の中でも好きなのはろくろびき。
 「なんでかねー。得意といえば得意なのかねえ。」
 今、新しい花瓶の形を模索中だ。
 「形が違えば花を生ける人の発想も変ってくるでしょう。思いついたらすぐ作ってみる。だめならやめてまた別のものを考える。いいものは残っていくし、悪いものは消えていく。」
 私たちが選ぶときは、どんなところに気をつければいいのだろうか。
 「焼物は使ってみないとわからん。実際に使ってから次を買ってほしい。」
 たとえば、ご飯茶碗の内側に線彫りの絵があるものは、食べるときに、はしが溝にひっかかることがある。店で見ているだけでは、こういうことは気付きにくい。
 酒を注ぐカラカラや、底が三日月型をした携帯用酒器の抱瓶(だちびん)は、沖縄らしいおみやげとして喜ばれている。泡盛を酌み交わすのにうってつけだし、インテリアとして飾っても力強さがある。シーサー(獅子像)も老若男女に人気が高い。新垣さんは、「伝統的なものは作り続ける。それとともに自分だけの作品、残るような作品を作っていきたい。」と話していた。


 職人プロフィール

 新垣勲 (あらかきいさお)

 窯元、新垣製陶所の7代目。高校生のときに仕事を始めて40年になる。壷屋陶器事業協同組合元理事長。

 こぼれ話

 災いから守ってくれるシーサー

 土は赤土がベースです。小さいものは手びねりで、大きいものはろくろも使います。手や足をろくろで作るのです。素焼きのものと釉薬をかけたものがあります。忠さんの父親の高江洲育男さんは、手びねりのシーサーで名高い「現代の名工」でした。忠さんはろくろの名手として、また勢いのある魚の絵などでも知られていますが、育男さんが亡くなってからはシーサーにも積極的に取り組んでいます。「うちの親父のシーサーはハンサムなんだよ。親父がやるのを見ていて、簡単そうに見えていたところがむずかしいね。」
 彫刻のように動きがあるので、作っていておもしろいそうです。

*https://kougeihin.jp/craft/0431/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 琉球びんがた

2021-08-25 09:45:19 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「琉球びんがた」

 Description / 特徴・産地

 琉球びんがたとは?
 琉球びんがた(りゅうきゅうびんがた)は、沖縄県首里市周辺で作られている染織品です。その起源は14世紀から15世紀の琉球王朝時代にまで遡り、王族や士族などの婦人が礼装として着用していました。
 色鮮やかな染色模様の「紅型(びんがた)」と藍色だけを使用した藍染め模様の「藍型(あいがた)」に区別されます。また、それぞれの型も技法により、型紙を使用する「型付け」とフリーハンドで模様を描く「筒引き」に分かれています。型付け染めは着尺(きじゃく)や帯、筒引き染めは引幕や風呂敷などの染織品が作られてきました。
 琉球びんがたの特徴は、南国ならではの豪華な色合いと大胆な色使いです。模様は古典的な柄から近代的な柄まで多種多様で、沖縄の自然には存在しない模様も多く含まれています。
 特に古典柄は、日本本土をはじめ中国や東南アジアの影響を受けた模様も少なくありません。色鮮やかな琉球びんがたは、沖縄の自然に融合しながら、先人達により受け継がれる神秘的な染め物です。

 History / 歴史
 琉球びんがたの起源にははっきりとした記録がありませんが、14世紀の書物にはすでに紅型(びんがた)と考えられる記述があり、その存在が確認されています。
 当時の琉球王朝は、東シナ海の中継地として貿易が盛んで、その範囲は近隣国の日本や中国だけにとどまらず、東南アジアにまで及んでいました。そのため、貿易を通じて中国やインド、インドネシアなどの染色技法なども伝わり、それらの技法を取り入れて琉球独自の発展を遂げ、琉球びんがたが誕生したと考えられています。
 その後、琉球王府の保護の下、東洋の優れた布として貴重な貿易品となり、中国や江戸幕府へ献上されていたとも言われています。多種多様な素材や模様、色は、年齢や性別、階級などにより区別されていたそうです。
 第2次世界大戦の被害が大きかった沖縄では、びんがたの型紙や道具の多くを焼失しました。しかし、戦後に懸命な復興が行われ、琉球びんがたは再び沖縄の伝統染織品として守り続けられています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/ryukyubingata/ より

 南の太陽にも負けない鮮やかな色
 染織が盛んな沖縄にあって、ただひとつの染めが琉球びんがたである。もともとは王族、士族の女性が晴れ着として着ていたもの。南国らしい鮮やかな色とやさしい柄が調和して、多くの女性たちをひきつけている。

 
 びんがたの振袖はあこがれの的
 工房の端から端へ張り渡された淡い緑とピンクの布に、テッポウユリやブーゲンビリアの花が踊っている。筆が布をこするシャカシャカという音が響く。普天満紅型工房の佐藤実さんは、妻の真佐子さん、娘の真由美さんと家族三人で、特別注文の衣装に色差しをしていた。
 実さんは琉球びんがたに取り組んで27年、高い技能を持つ伝統工芸士だ。新しい柄に意欲的に挑戦し、美しい作品を次々に生み出している。
 「すべての工程を自分でできるのが魅力です。最初から最後まで一人でできる。頭に浮かんだイメージを引っ張り出して、染めて、形にしていくのは楽しいですね。」
 5年前、娘の真由美さんが成人式を迎えたときには、家族で2週間かけて振袖と帯を作った。華やかなびんがたの振袖は、沖縄でもあこがれの的。そのあでやかさはたくさんの人の目を喜ばせた。


 その日の気持ちや体調が色に表れる
 びんがたを印象的にしているのは、赤、黄色、紺、緑といった鮮やかな色だ。南の明るい光に映える、風土にあった色が使われている。地は染料で染め、模様は顔料で色差しをする。実さんに顔料の配合を見せてもらった。9種類の顔料を豆汁(ごじる)という大豆の汁でペースト状にし、それを配合して色を作る。わずかな差で違う色になってしまう微妙な作業だ。
 「気持ちが充実しているときと、していないときで色が変るんです。」
 心や体の状態がそのまま作品に現われる。手仕事の怖さであり、おもしろさでもある。ひとつの作品に使う色は9~18色。赤系統の淡い色から差していき、徐々に濃い色に移っていく。塗った色をしっかり付着させるために、刷り込みを行なう。これはびんがた独特の工程だ。もう一度色を差し、その上から女性の髪の毛で作った筆で刷り込み、色を均一にならす。
 「こすることで布に塗ってある糊の小口がなめらかになり、やさしい線になります。型紙の厚み、糊の厚み、みんな手伝ってびんがたのやわらかさが出るのです。」


 古典は次の世代に伝えていける
 製作に励む一方、気軽に触れられる展覧会を企画するなど、びんがたを広く知ってもらうための地道な努力を重ねている。高価な着物と思われがちだが、「色も模様も古典的で流行に左右されません。古くならないから、次の世代へ伝えていける。そう考えると決して高くないと思いますよ。」
 むやみに流行は追わない。流行を追わないことにも努力は必要だ。そして新しい柄や色づかいを考えたり、新しい楽しみ方を提案することも忘れていない。
 「いくつもの色が入っていると、目は着物より人にいくのです。着ている人が引き立ちます。年齢や作法にとらわれず、自由に着てほしい。着物に限らず、イブニングドレスにしてもいいと思います。大事に使っていただければうれしいですね。」
 そう話す実さんの目は、たいへんな工程を着実に進めながら、琉球びんがたの行く末をしっかりと見据えているようだった。


 職人プロフィール

 佐藤実

 1948年生まれ。
 73年に普天満紅型工房に参加。伝統工芸士。琉球びんがた事業協同組合理事長。


 こぼれ話

 味わいのあるやわらかな線を出す突彫り

 琉球びんがたには独特の技法がいくつもありますが、「突彫り」はその代表的なものです。びんがたには型紙を使う手法があります。その型紙を彫るときの小刀の使い方に特徴があるのです。普通、小刀は手前にすべらせて紙を切ります。こうすると線はシャープになります。それに対して突彫りは、小刀を上から当て、垂直に下ろして切っていきます。
 「むずかしい彫り方ですが、慣れると曲線を自由に彫ることができます。ぽってりしたソフトな線になって、びんがたならではの味わいが出ます」と佐藤さんはいいます。
 出来上りを大きく左右する作業ですから、道具も大切にしています。小刀は自分で作ります。竹に刃をはさみ、糸で固定します。刃の先はグラインダーでけずって、曲線を持たせます。一人一人が使いやすいように工夫をこらしています。
 琉球びんがたのほっとするようなあたたかさは、長い工程の中で生まれてきますが、こうした目に見えないところにも秘密が隠されていました。

*https://kougeihin.jp/craft/0211/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 八重山上布

2021-08-25 09:39:20 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「八重山上布」

 Description / 特徴・産地

 八重山上布とは?
 八重山上布(やえやまじょうふ)は、沖縄県八重山郡周辺で作られている織物です。苧麻(ちょま/からむし)の手紡ぎ糸を使って織られ、古くは琉球王朝時代に貢布としても利用されてきました。
 沖縄地方の織り物の中で唯一「刷込捺染技法」(すりこみなっせんぎほう)を用いて作られる織物で、焦げ茶色の絣模様が浮かび上がる清涼感あふれる白上布は、主に夏用の着物として用いられます。
 八重山上布の糸や染料に用いられるのは、八重山の自然から得られる草木です。主原料は苧麻から作られる繊維で、染料にはヤマイモ科の「紅露」(クール)が使われます。織り上げられた後、八重山地方の強い日差しのもとで日晒しを行うことで深い色合いへと変化し、さらに海水につけることで地色が白く晒され絣模様がより鮮やかになります。
 八重山上布の特徴は、苧麻手紡ぎ糸のさらっとした風合いと風通しが良いこと、白地に浮かび上がる大らかな絣模様です。苧麻から一反の着尺を織るための糸を作るには、経糸(たていと)が約50日、緯糸(よこいと)が約40日かかります。非常に根気のいる作業であるため、近年ではラミー糸(手紡ぎではない苧麻の糸)を経糸に使用したものも増えています。

 History / 歴史
 八重山地方ではかなり古くから苧麻(ちょま)を使った織物が用いられていたことが、『李朝実録』の記述などからわかっています。琉球王朝時代には琉球王府の御用布として、お抱えの絵師が作った図案をもとに上質の麻布がつくられるようになりました。
 1609年(慶長14年)に薩摩藩が琉球に侵攻し、人頭税が課せられるようになると、八重山上布は貢布としても利用されるようになります。島の女性達は織物に従事することになり、琉球王府の監視下で織り柄も精緻なものへと発展して、現在の八重山上布が完成されたと言われています。この時代の八重山上布は貴重品として、ごく一部の人しか身につけることはできませんでした。
 1886年(明治19年)、人頭税が廃止されたことで、八重山上布はこの地方の産業として発展をはじめます。この頃「短機」と言われる織機が考案され、機織りに従事する男性も増えていきます。
 大正時代になると改良された織機が使用されるようになり、糸の張りむらがなくなって経絣のずれのない更に品質の高い織物が作られるようになりました。
 現在は沖縄県や石垣市が一丸となって、後継者育成のための事業を立ち上げています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/yaeyamajofu/ より

 熱帯の自然に育まれた繊細な美しさ
 手紡ぎの麻糸で織られる八重山上布は、サラッとした手触りと涼やかな色柄が身上。夏の着物として人気が高い。優れた作品でいくつもの賞を受賞している新垣幸子さんに、八重山の自然と上布についてうかがった。

 
 琉球王府の時代、八重山は染料の供給地だった
 新垣さんの作品には、若葉をわたる風のような清々しさと、自然をいつくしむやさしさが感じられる。たとえば、沖縄の美術工芸家が集う「沖展」の今年の出品作。緑色の濃淡の地に白の絣がなんともさわやかな一枚だった。
 「こちらは、1月下旬から2月いっぱいが山が美しいんです。若葉で明るくなります。一番好きな木は相思樹。葉が細くて木漏れ日がとってもきれい。よく木漏れ日を見にでかけましたよ」
 山を歩くのが好きという新垣さんは、上布は八重山の自然の産物だということを、控えめな口調で語ってくれた。
 八重山は、植物の分布で見ると熱帯の北限なのだという。だから、沖縄本島や宮古島にはない染料植物が手に入る。たとえばクール(紅露、和名はソメモノイモ)。芋のようなもので、刻んだりおろしたりして、絞った汁で染める。ほかの染料のように煮出す手間がいらない。琉球王国の時代には、王府の指令で久米島に出荷していたそうだ。


 植物で染めた色には、いやな色がないんです。
 ほかの染料も豊富で、山や庭にあるものを無理なく使っている。新垣さんは、フクギという木の皮を煮出した黄色と、藍を重ねて染めて緑色を出す。
 「緑の作品が多いので、好きなんですかと、よく聞かれるんですけどね、とくに好きというわけではなくて、たまたまフクギがたくさん手に入ったから染めたんです。」
 フクギは屋敷の防風林としてあちこちに植えられている。百年、二百年のものは、抱えきれないほどの大木になる。家を建て替えるときなどに、切り倒されるという話を聞きつけると、その家に皮をもらいにいく。幹は器を作る人たちが使う。見事なリサイクルである。庭のクチナシの実がいっぱい取れたときは、それを染料にする。台風のあと山にいったら大きなシイの木が倒れていて、染めてみたらきれいな銀鼠(ぎんねず)が出た。新垣さんは、「植物で染めた色はいやな色がないんです。みんな美しい色なんですよ。」という。


 コバルトブルーの海と太陽が布を白くする
 染料以外の条件もそろっている。石垣島は水がいい。これも染織には大切なこと。道具の面では、山があって材木が切り出せるので、昔から指物大工さんが多かったことが役に立った。機が改良されて、沖縄県で初めて高機ができたのがこの地域だったという。
 おしまいはコバルトブルーの海。織りあがった布は海水と天日にさらされて白さを増す。八重山上布特有のやわらかな白は、この「海ざらし」から生まれるのである。どこまでも透明な海に白い布が揺れる光景は、南の島ならではのものだ。


 古典をふまえつつ、顔の見える作品を
 八重山上布は個性豊かだ。図案から、染め、織り、仕上げまでを一人が担当する。
 「一人一人が顔の見える作品を作っています。自分の体を動かせば、ひとつのものが出来上がるという喜びがあります」
 難しい括りや、単調な作業を乗り越えて完成したものは、苦労を帳消しにしてくれるという。新垣さんに今後の抱負を聞かせてもらった。
 「古典柄を見るとホッとするんですね。不思議な力があるんです。古典柄を復元していきたいですし、沖縄らしさをうまく取り入れた作品ができたらいいなと思っています」糸と向き合って30年。まだまだやりたいことがつきない様子だった。


 職人プロフィール

 新垣幸子 (あらかきさちこ)

 1945年生まれ。
 途絶えていた括染の八重山上布を、研究の末、見事に復活させた。作品は高く評価されている。

 こぼれ話

 失われた「括染」を復活させるまで

 「茶と白しかなかったところに、色が入ってきました。みんな色を使いたいから、括染をやる人がどんどん増えていったわけです。」
 捺染のほうも、海ざらしを復活させたことで品質がよくなりました。「ミリ単位の柄など、括染ではできないものが捺染ではできるんです」と松竹さん。今では絣の細かい繊細なものが作られています。白地に茶絣の捺染と、色とりどりの括染。二つの上布は今、個性を競いあっています。

*https://kougeihin.jp/craft/0135/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 八重山ミンサー

2021-08-24 21:14:18 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

Description / 特徴・産地

 「八重山ミンサー」

 八重山ミンサーとは?
 八重山ミンサー(やえやまみんさー)は、沖縄県八重山郡竹富町や石垣市で作られている織物です。起源は定かではありませんが、アフガニスタン地方で見られる絣の帯が中国を経由して伝わったものだと考えられています。琉装の角帯として用いられていました。
 八重山ミンサーの特徴は、経緯ともに木綿糸を使って織られるたてうね織りで、縞と絣の柄が使われることです。八重山ミンサーは普段着の帯として織られてきたもので、ミンは綿、サーは狭い帯を表しています。
 素材には、藍染の木綿糸が用いらます。絣模様は手括り(てくくり)で作られ、紺と白の鮮やかな対比が特徴的です。使われる染料は、インド藍や琉球藍、紅露(クール)、フクギなどの植物染料の他、近年では化学染料も使われます。
 高機で筬(おさ)を使う織り方と、使わない手締めという織り方があり、織り上がったものは手触りや締め心地が大きく異なります。

 History / 歴史
 八重山ミンサーはアフガニスタンから中国を経て、八重山地方に伝わった織物だとされる一方、木綿発祥の地であるインドから伝わったという説もあります。16世紀初めの琉球王朝時代には、木綿布(ミンサー)が使われていたことが古い文献からわかり、この頃すでに八重山ミンサーが織られていたと考えられます。
 八重山ミンサーはかつて通い婚だった頃、婚礼のしるしとして女性から男性へ贈られていました。5つと4つで図案化された市松模様のような絣模様の両側に、細い線でムカデの足のような縁取りがあり、これには「いつ(五)の世(四)までも、ムカデの足のように足繁く通って欲しい」という娘たちの思いが込められています。
 竹富町を中心に作られていたミンサーは、現在では石垣島でも織られています。かつては紺一色でしたが、現在は色も豊富で、芭蕉や苧麻、絹などさまざまな糸が使われたものもあり、観光客向けに小物や袋物などさまざまな製品が作られるようになりました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/yaeyamaminsa/ より

 今も昔も島の暮らしに欠かせない宝物
 300年の歴史があるという八重山ミンサー。一本の細帯には、その時代時代に生きた人々のさまざまな思いが込められている。内盛さんにとって、ミンサーは一生の宝。これからもずっと織り続けたいという。

 
 未来の夫へ、新妻からの贈り物
 真っ白なサンゴの砂を踏みしめて石垣に囲まれた赤瓦の家をのぞくと、縁側に2台の機が並んでいた。ここ竹富島で生まれ育ち、幼いころから織物に親しんできた内盛スミさんの仕事場である。1台には絹織物、もう1台には、紺地に白の絣(かすり)の鮮やかなミンサーがかかっていた。
 ミンサーは、八重山のほか、与那国、読谷、首里と、沖縄県各地で織られてきた木綿の細帯。藍染めで幅10センチくらいのものが基本だが、土地によって模様が少しずつ異なる。
 八重山の柄は、4つと5つの長方形を組み合わせたもの。「いつ(5)の世(4)までも末永く」という願いが込められ、婚約が決まったときに、女性が織って男性に贈ったという。縁取りの模様は「ヤシラミ」、つまりムカデの足で、「足しげく通ってください」の意味だそうだ。


 しめ心地のよさは「手締め」ならでは
 内盛さんに織るところを見せてもらった。小柄な体をスルリと機にのせたかと思うと、シャッシャと手足を動かし始める。ふつうの機織りとはなにか動作がちがう。これが竹富島のミンサー独特の「手締め」という織り方だった。
 経糸(たていと)の間に緯糸(よこいと)を入れるとき、機の筬(おさ)でトントンと打たずに、刀杼(とうひ)を手前にグッと引くようにしてよこ糸を寄せる。力がいるし、帯の幅を一定にするにはかなりの熟練が必要だ。
 「手締めはたいへんですよ。でも、織り上がったものには味がある。ぬくもりがある。筬で織ったものは、本当はミンサー織りと言いたくないんですよね」
 戦後は筬打ちが増えたものの、今も手締めにこだわって織る人たちがいる。なるほど、ふたつを比べてみると、手締めのものは木綿なのにしっとりとやわらかい。目がつまっていて模様が浮かび上がる。なによりしめ心地のよさに定評があり、使えば使うほど味が出てくるそうだ。
 帯は一度手に入れたら一生使えるもの。こんな帯を手元において、自分も年をとりながら、どう変化していくのか見てみたいものである。
 長く使うものだけに、細長い一枚の布にはいろいろな思いが込められる。
 「うちのお父さん、主人のお父さんですけれども、子供のころ、この島でミンサーを織ってたおばあちゃんがお守をしたわけ。だからずっとそのばあちゃんの帯をしめてたですよ。私が嫁にきたときからね。あんまり使いすぎて端の糸が切れてたんですよ。私が新しいのと交換してあげようといったら、『お守をされたからお母さんの片身と一緒なんだよ』といって、絶対しめてくれなかった。半分に折ってずーっと使ってました。亡くなるまでずっとあの帯だった」


 竹富島の人たちを助けた時代
 内盛さんが最も盛んにミンサーを織ったのは、昭和30年代後半から40年代にかけてだった。竹富島を訪れる観光客が増え、おみやげとして人気を集めたのだ。米軍の将校夫人が集団でやってきて、帯やミンサーのテーブルセンターを買っていくこともあった。
 島の女性73人が織っても、間に合わないほどだった。家族は総出で手伝った。おばあちゃんが経糸を作り、お父さんが絣を巻く。藍染めも各家庭でやっていた。
 寸暇を惜しんで織ったおかげで、内盛さん夫婦は子供たちを進学させることができたという。ミンサーは内盛さんにとって一生の宝となった。最近は絹や麻を織ることが多くなったけれども、2台の機のうち1台は常にミンサーを織るように心がけている。
 「機から消したくないからね。好きなもんを織っていても、これはやらんといかんというのが心の片隅にある。ずっと機に乗せておこうという気持ち。私を助けてくれた大事なものなんです」
 竹富島で最も大きな行事である種子取祭のとき、人々はムイチャーという芭蕉布の着物にミンサーをしめて踊りに参加する。昔も今もこれからも、八重山の暮らしに欠かせないものであることに変りはないようだ。


 職人プロフィール

 内盛スミ (うちもりすみ)

 大正14年生まれ。
 母親の機織りを見て育ち、結婚後、本格的に取り組む。竹富町織物事業協同組合理事長。


 こぼれ話

 麻、芭蕉、絹……多彩な竹富島の織物

 豊かな自然に恵まれた竹富島では、八重山ミンサーのほかにも、麻の八重山上布、芭蕉布、木綿と苧麻のグンボウなど、古くから伝わる多様な布が織られています。
 麻は琉球王府の時代にもたらされたといわれています。首里城からきた役人が、仲筋集落のヌベマアという娘を連れていき、お礼に麻の苗と甕をくれたと言い伝えられています。

*https://kougeihin.jp/craft/0134/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 喜如嘉の芭蕉布

2021-08-24 21:11:49 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「喜如嘉の芭蕉布」

 Description / 特徴・産地

 喜如嘉の芭蕉布とは?
 喜如嘉の芭蕉布(きじょかのばしょうふ)は、沖縄県北部の大宜味村(おおぎみそん)喜如嘉で作られている織物です。芭蕉と呼ばれる大きな植物から繊維を取り出し織られたもので、沖縄では古くから着物の生地として親しまれてきました。
 喜如嘉の芭蕉布の特徴は、風通しのよいさらりとした生地であることです。薄く張りがある布は「トンボの羽」とも形容され、体に張り付きにくく、湿気の多い沖縄で珍重されました。沖縄では自生している芭蕉ですが、喜如嘉ではより良質な糸を採るために栽培を行い、剪定を行うなどして糸を採取するまでに3年を要します。
 収穫された芭蕉は手作業で下処理を行い、糸に加工します。一反の芭蕉布を織るのに掛かる時間は芭蕉の採取から約3ヶ月、必要な芭蕉の木は60本にも及びます。こうして糸芭蕉の栽培から染め織りまで、地元の素材を使い一貫した手作業で行われる織物は国内でも少なく、喜如嘉の芭蕉布が幻の織物と呼ばれる所以となっています。

 History / 歴史
 喜如嘉の芭蕉布 - 歴史
 芭蕉布は古くから沖縄で作られてきた織物で、一説では13世紀頃から作られていたと言われています。琉球王朝時代には王族や貴族が上質の芭蕉布を身に付けるため、王府内に「芭蕉当職(ばしょうとうしょく)」という役職を設け、王府専用の芭蕉園を管理していました。
 時代が進むにつれ、芭蕉布は庶民も身に付けるようになり、沖縄の各地の家庭で自家用に生産されるようになります。1895年(明治28年)には、喜如嘉の女性が無地や縞模様がほとんどだった芭蕉布に絣模様(かすりもよう)を取り入れたことをきっかけとなり、工芸品として発展するようになります。
 喜如嘉では農業の副業として芭蕉布の生産が盛んとなり、品評会でも優秀な成績を収めるようになりました。1939年(昭和14年)には東京三越で特産品即売会に出品し、喜如嘉の芭蕉布は注目を浴び、広くその名を知られることとなります。戦時中は生産中止を余儀なくされましたが、終戦した1945年(昭和20年)には直ちに生産を再開し、意欲的に芭蕉布の復興に取り組みました。
 1972年(昭和47年)に芭蕉布は国の無形文化財に指定され、喜如嘉は芭蕉布の里として貴重な織物を現在に継承し続けています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kijokanobashofu/ より

 土に触れる喜びから始まる芭蕉布作り
 生成りの地に茶色の絣が入った芭蕉布は、女性ならだれでも一枚は手に入れたいと思うのではないだろうか。カリッと軽く風通しのいいこの布は、芭蕉を育てるところから、手間と時間をたっぷりかけて作られている。

 
 「今時こんな美しい布はめったにないのです」
 那覇から車で2時間、左手にコバルトブルーの海を見ながら、名護からさらに北上すると、右側に点々と芭蕉の畑が見えてくる。芭蕉布の糸の原料になる糸芭蕉だ。バナナによく似た木で、幹を切り倒して繊維を取る。
 喜如嘉の芭蕉布会館を訪ねると、人間国宝の平良敏子さんが糸枠を手に、他の人にまじって黙々と仕事をしていた。広い部屋を歩き回る小柄な姿は若々しく、とても81歳にはみえない。
 芭蕉布は出来上るまでの工程が長く、信じられないほどの手間と熟練を要する布である。芭蕉を育て、繊維を取り、糸を績んで、染めて、織る。経験による勘が必要なので、単調な作業を何年も繰り返さないと技を身につけることができない。苦労の末に完成した布は軽くしなやかで、ためいきが出るような美しさだ。
 芭蕉布の魅力を広く世に伝えたのは柳宗悦だった。「今時こんな美しい布はめったにないのです。」という一文で『芭蕉布物語』を始めている。現代では、敏子さんの作品を見てとりこになる人が多い。天然の色も、乾いた布の風合いも、素朴な絣の柄も、より自然なものを求める今の人の感覚にしっくりくるのかもしれない。


 糸に触れているだけで楽しい
 敏子さんのもとで芭蕉布を作って14年になる平良京子さんにお話をきかせてもらった。京子さんは、母やおばが織物をしていたので昔から道具にはなじみがあった、という。手仕事が好きで、保母として働きながら手芸や土いじりをしていたが、もっと深くやってみたくて芭蕉布の道に入った。
小声で控えめに語る京子さんは、芭蕉にすっかり心を奪われている様子だった。
 「入って1週間は糸繰りをしました。糸に触れているだけで楽しくて、いい気分になりました。芭蕉の繊維に魅力があるのでしょうか。そのせいか、これまで苦しかった記憶はありません」
 織り始めて2年たったころ、初めてツバメの柄の絣ができたときは、とてもうれしかったという。

 織りは全体の100分の1、それまでが長い
 「畑から始められるところにもひかれます。土から布になるまでを、通して見ることができますから。土地の自然の恵にいつも触れていられる喜びがあります。」
 1反分の糸を取るには200本もの芭蕉の木が必要になる。いい糸はいい畑からと言われるだけに、糸芭蕉の栽培は大切な最初の段階。肥料を入れたり、葉や芯を切り落とすといった作業が欠かせない。ときには工房の人たち全員が畑に出て一日中農作業をする。
 刈り取って糸にするまではさらにたいへんだ。皮をはいだり、大鍋で煮込んだりと、手間のかかる作業が何工程もある。織りより、その準備のほうがずっと長い。京子さんは敏子さんに「織りは全体の100分の1」と教えられたという。
 「ひとつひとつの段階が次に響いてくるので手が抜けません。次の仕事のことを考えてやるといい製品になります」
 高温多湿を好む芭蕉は、南国にしかない植物。糸を触らせてもらうと、乾いているのになめらかな感触が心地よかった。風土にあった素材を使った沖縄独特の織りを、これからもずっと大切にしていきたいと京子さんは思っている。
 「今日中に仕上げてしまいたいんです」
 とつぶやきながら、足早に絣結びの作業に戻っていった。

 職人プロフィール

 平良京子 (たいらきょうこ)

 1952年生まれ。後継者育成事業に応募し、平良敏子さんのもとで14年の経験を積む。

 こぼれ話

 素朴でユニークな絣の柄

 芭蕉布の絣の柄は、暮らしや自然の中からモチーフが選ばれています。ひとつひとつ見ていくのは楽しいものです。喜如嘉芭蕉布事業協同組合理事長の平良美恵子さんに、呼び名の由来などを教えてもらいました。
 「麦の穂」は帯地に使い、お太鼓に柄がくるように結びます。「ゴーマーイ」は、回りを囲むもののことで、がに股で歩く人のことをこう呼ぶことから名付けられたのでは、ということでした。「クワ(小さいワ)ンカキー」は「環掛」と書き、鎖のような連なっていく模様です。「ハチジョー」は八丈島の絣の柄からきたものではないかといわれています。
 ほかにも、トゥイグワー(小鳥)、ジンダマー(銭玉)など、たくさんの種類があります。どれもシンプルなものですが、いくつか組み合せて、より複雑な模様にすることもあります。

*https://kougeihin.jp/craft/0133/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 与那国織

2021-08-24 20:52:32 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「与那国織」

 Description / 特徴・産地

 与那国織とは?
 与那国織(よなぐにおり)は、沖縄県八重山郡与那国町で作られている織物です。与那国織の特徴は、独特の風土と手作りによって染め織り上げられた素朴な美しさです。織りの技法により、花織物の「与那国花織」、縞織物の「与那国ドゥタティ」、紋織物の「与那国シダディ」、絣織物の「与那国カガンヌブー」に分類されます。どの織物も島に自然に生える植物から作られる染料で染められた後に手織りされ、通常、デザインから染色、織りに至る作業を1人が担当します。
 最も多く織られる与那国花織は、子縞柄と小さな花模様が織り出される直線的な幾何学模様で、時代の流れと共に色彩やデザインが変化しています。また、身ごろ4枚(=ドゥ)で仕立て(=タティ)られるドゥタティは、夫婦を表すミウト絣の模様が織られた細帯・カガンヌブーと共に、お祭りなどで着用されてきました。ゆっくりとした時間の中で織り上げられる与那国織は、島特有の着物や帯だけでなく、手ぬぐいやネクタイ、バッグなどの製品も作られるようになっています。

 History / 歴史
 与那国織の始まりは、室町時代に当たる15世紀頃と言われています。朝鮮の史書「李朝実録」には、1479年に朝鮮からの漂流民からの見聞録として既に与那国島では機(はた)で布が織られていたことが記載されています。
 また、16世紀前半には献納品として琉球王府へ納められており、役人のみが与那国花織の着用を許されていました。琉球王府では外国との貿易を通じて織物技術や材料を積極的に取り入れ、洗練された染織が多彩に発展したと言われています。
 戦中戦後は糸の入手が難しく、漁業網を解いて織っていた時期や機織り自体が途絶えていた時期もありましたが、1979年(昭和54年)には与那国織の復活を目指して「与那国町伝統工芸館」が建てられ、今日まで豊かな織物文化を伝え続けています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/yonaguniori/ より

 今も暮らしの中に息づく与那国織
 晴れた日には台湾が見える与那国島は、周囲27キロ、日本の最西端に位置している。女性の米寿のお祝いに糸巻きを配る習慣のあるこの島では、ゆったりとした時間の中で個性的な織物が作られていた。

 
 30人の女性が思い思いに織る布
 与那国織というのは、与那国花織、ドゥタティ、シダティ、カガンヌブーの総称である。外国語のように響く布のひとつひとつを、崎元徳美さんに教えてもらった。崎元さんは、衰退していた島の織物を復興させた徳吉マサさんの孫にあたる。沖縄本島にある県の工芸指導所で2年、同じく本島の南風原町で琉球絣を3年経験し、与那国に戻ってきた。今、島では30人の女性が染織に取り組んでいる。崎元さんを筆頭に、20代後半から30代の若い女性も活躍している。デザインから、染め、織りまでを一人が担当し、自分のペースで進めていく。

 織り込まれる花の色は台湾から
 最もたくさん織られているのは与那国花織である。代表的な柄は、白と黒の格子縞の中に赤と黄色の「花」が入っているもの。花というのは小さな四角い点の集まりで、サイコロの5の目のように並べたり、ひし形に配置したりする。点の数によって、ダチンバナ(8つ)、イチチンバナ(5つ)、ドゥチンバナ(4つ)と呼ばれる。
 白と黒は島に古くからある色だが、「赤や黄色は旅から入ってきたんです。」と崎元さんはいう。「旅」というのは、島の外に行くことの意味だ。台湾に行った人が持ち帰った帯をほぐして、赤や黄色の糸を織りこんだのが始まりだった。台湾は、本土はもちろん沖縄本島に比べてもずっと近いところにある。昔から関係は深く、70歳以上のほとんどの人は仕事や勉強で台湾に行った経験を持っている。
 赤と黄色の花を黒が引き締める花織は、可憐で、しかも落ち着いた趣きだった。


 島中の人に愛されてきたドゥタティ
 沖縄の織物の産地では、地元の人がその織物を着ている光景を見ることはめったにない。ほとんどは本土で販売されるからだ。そんな中、島内消費が9割を超えるのが「ドゥタティ」である。苧麻(ちょま)から績んだ糸や綿で織る、白黒青の格子柄の着物。もとは畑仕事をする野良着だった。男女の別はなく、黒いえりが付いた筒袖。丈はふくらはぎまでしかない。一反で2着作れる経済的な着物である。
 中でも最も一般的な「ゴバンドゥタティ」は、ギンガムチェックだ。「よく、これは流行柄?ときかれてくやしい思いをするんです。与那国の伝統柄なんですよ。」と崎元さん。
 旧暦6月の豊年祭のときには、島の人は皆、この着物に身を包む。ベビー用もあり、遠く離れている孫のために買う人も多い。
ドゥタティには「カガンヌブー」という細い綿の角帯をしめる。沖縄のほかの地方ではミンサーと呼ばれる、絣模様が入った綿の細帯である。


 旅の無事を祈りながら織るシダティ
 最後の「シダティ」は、沖縄本島ではティサージと呼ばれる手ぬぐいのこと。白い木綿の地に7色の糸が織りこまれている。旅に出る人の無事を祈って贈ったもので、今でも人が亡くなると、これで鉢巻をして棺に納める。死者が女性のときはより美しく結ぶ。
 崎元さんに織物作りの魅力をきくと、「私は織っているときが好きです。布に仕上がっていくのが楽しい。」という。現在は、絹、綿、苧麻が使われているけれど、「島にあるほかの素材を使ってみたいですね。ヨナグニサン(天然記念物の蛾)のまゆ、リュウゼツランなど、過去に試されているものもありますが、新しいものを見つけたい」と抱負を語ってくれた。

 

 職人プロフィール

 崎元徳美 (さきもとさとみ)

 1967年生まれ。県の工芸指導所などで沖縄各地の染織を学び、与那国織に取り組む。

 こぼれ話

 植物の中でも体にいいものしか使わない

 与那国織では島に自生している植物を染料に使っています。黄色が出るフグン(フクギ)、茶色のティグティ(シャリンバイ)、ベージュや黒のカサギ(アカメガシワ)、インド藍……。ハイビスカスを枝ごと使ってうすい緑色を出すこともあります。
 ほかの島と同じ植物を使ってもこの土地の色に染まります。シャリンバイは、沖縄本島では茶色ですが、ここではピンクがかった色になります。
 「水のせいではないかといってるんですよ。ここの水は石灰分が多いので。」と崎元さんはいいます。
 染めも織りも一人でやるため、染めの材料は自分で島の中から探してきます。人によってやり方や回数が違うので、同じ色になることはないそうです。
 「私たちは身近にある草木で、食べても大丈夫なものしか使いません。煮出す人にも、着物を着ける人にも悪くないように。」ガジュマルの葉はヤギが喜んで食べるから大丈夫。そう考えるやさしい人たちの手で与那国織は作られています。

*https://kougeihin.jp/craft/0132/ より

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