いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<小江戸> 滋賀 彦根

2022-07-02 07:39:14 | 小江戸

 「滋賀 彦根」

 彦根藩の城下町として栄えた。
 「小江戸彦根の城まつり」を開催し、小江戸としてアピールしている。*Wikipedia より

 昭和27年(1952年)に国宝に指定されている彦根城天守は、江戸幕府の重鎮、井伊家の居城であり、250年余りに亘って平和を維持した武家政権の拠点のひとつです。
 「武威の象徴」である天守や櫓だけでなく、「権威を演出する舞台」であった御殿や、広大な大名庭園が現存・復元されており、近世城郭の骨格をなす歴史遺産が今日まで伝わっています。

 市を挙げて「歴史と伝統を活かしたまちづくり」を推進しています。*https://www.kkr.mlit.go.jp/kensei/town/rekimachi/qgl8vl0000001rl6-att/summit_hikone.pdf より

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<小江戸> 静岡 磐田

2022-07-01 07:02:41 | 小江戸

 「静岡 磐田」

 東海道の沿道の町のひとつ(ただし、東海道五十三次には含まれていない)。天竜川の河口に位置しており、東西水運の中継地としても栄え、大都市の文化が持ち込まれた。*Wikipedia より

 【ぷらっと遠州さんぽ】「遠州の小江戸」と呼ばれた湊町、磐田市<掛塚>を歩く。
 遠州の小江戸と呼ばれる「静岡県磐田市掛塚」。小江戸(こえど)とは、「江戸のように栄えた町」の事を言います。
 遠州灘と合流する天竜川河口にほど近い掛塚は、天竜杉など北遠の木材を江戸や大阪へ運ぶ為の拠点「掛塚湊(かけつかみなと)」として栄えた町です。

 今回は、廻船問屋跡や伊豆石の蔵など多くの史跡が残る町「掛塚」を、てんぐちゃんと一緒にお散歩してきました!

上の地図は、歩いている途中で「お、なんだあれは!」と目に入ったものをまとめたものです。ちょっと歩くだけでも多くの発見がありました ^^
それでは遠州の小江戸「掛塚」を一緒に覗いてみましょう!

天竜川と共に生きた掛塚

こんにちは。遠州(静岡県西部地方)の郷土史をテーマに張り子作家をしている坂田吉章と申します。
いつもは相棒のてんぐちゃんの後ろに隠れ、張り子を作りながらのんきに暮らしているのですが、珍しく表にでるお仕事なので緊張しておりますがどうぞよしなにです。

今回のお散歩は、磐田市と浜松市を繋ぐ掛塚橋のちょっと北にある「掛塚橋木橋跡」からスタート!

現在はもうない橋ですが、当時日本一長いと言われた876mある木橋が掛塚にありました。昭和30年(1950)頃は、現掛塚橋と旧掛塚橋が並んでいた時期もあったそうです。

川沿いを少し歩くと小さな祠を発見。

掛塚の名前の由来の1つに、度重なる天竜川の氾濫で町が欠けた「欠け須賀」からきているという話もあります。横須賀などがあるように、須賀は海辺の土地を表すそうです。今でこそ大きな被害を出していない天竜川ですが、かつては「暴れ天竜」と恐れられ多くの町や命をけずってきたと聞きます。このお地蔵様は、亡くなった方を供養すると共に現在の町の人達を見守ってくれているのかもしれませんね。感謝!

湊町らしい槙囲い

 天竜川の向こうは浜松市。右奥に浜松市のランドマーク「アクトタワー」も見えます。

 天竜川沿いには町へと繋がる小道がたくさんあり、町中へと歩みを進めます。町を歩くと湊町でよく見る「槙囲いの生垣」からなる道がたくさんある事に気がつきます。

槙囲いの道は表情いろいろで面白い。
これらはイヌマキと呼ばれる植物で、「遠州のからっ風」と呼ばれる強い風から守ってくれたり、堤防としての役割も持ちます。また掛塚は湊町の繁栄と比例し火災が多かったそうですが、イヌマキは燃えにくい木として防火林の役割も担う頼もしい存在だったようです。

小さい頃、イヌマキの実をよく食べてたなあ。
天竜川から町へ抜ける途中にあったお稲荷様の跡地。
掛塚湊を守る「貴船神社」
室町時代以前の創立と歴史あり

地図の北側を散歩し南側へ向かう途中「貴船神社」へも立ち寄りました。
水を司る神様「たかおかみのかみ」が御祭神で、町の船乗りや廻船問屋を中心に愛され掛塚湊を守ってきた神社です。

構え獅子の狛犬が迎えてくれました。珍しい〜
 1枚目が「阿」、こちらが「吽」ですね。
拝殿を覗くと、航海の無事を祈る為であろう海を連想する多く奉納品が目に入ります。中でも目を引いたのがこちらの船の模型。

明治30年(1897)9月の大祭の折の奉納。
「ブリガンチン型」と呼ばれる西洋式帆船の模型で、磐田市の有形民俗文化財に指定されています。高さ2mくらいあり迫力がありました。

拝殿の中にはあきらかに歴史のありそうな古いお面もあり、上段には天狗も!

掛塚と天狗は何か関係有るのかな?と調べてみた所、貴船神社が拠点となる「掛塚まつり」では竹馬(たけうま)と呼ばれる天狗が現れるそうです。竹馬は先端が裂かれた太い竹「バレン」を使い、祭り行列の道中を祓い浄めてくれる天狗なんだとか。とはいえこの天狗面と竹馬が関係あるかは定かではないので、神主さんとお会いできれば聞いてみたいと思います。

、、、天狗から話が脱線した気がするので、戻ります。笑

本殿の裏には「掛塚港廻船之碑」と書かれた大きな石牌が!

こちらの石牌は、掛塚が湊町だった事の証に建てられたそうです。湊町ならではの史跡の多く残る神社でした。

お昼のごはん処

ちょうどお昼時だったので貴船神社から少し東に歩いた場所にある鰻屋「うなぎのたなか」さんにお邪魔しました。うなぎ一筋40年。関東風ならではのふっくらやわらかい鰻を堪能させて頂きました◎

うな丼(2,200円)。嬉しいデザート付☆
レトロな昭和建築「旧掛塚郵便局」

お昼はちょっと贅沢してしまいましたね。貴船神社方面へ戻り、そこから少し南下すると国の文化財「旧掛塚郵便局」があります。石積み風?昭和建築っぽくてかわいいです。

日本らしい漆喰を使った郵便マーク。
掛塚郵便局は「長谷川家住宅」とも呼ばれます。当時 廻船問屋を営んでいた長谷川家が郵便業務を請け負っていたからです。実はこの建物はなかなかの奥行きがあり、住宅として使われていた面影も残ります。

鬼瓦に郵便マーク!ピントが外れてて恥ずかしい。笑
ちなみにこちらの郵便局、賃貸として借りることもできるみたいです。史跡を使ったカフェなどにしても面白そうですね。

郵便局の奥には伊豆石の蔵もありました。

伊豆石は富の象徴であり、江戸城や皇居にも使われています。掛塚は、北遠の木材を掛塚湊から江戸や大阪へ運ぶ事業もあり栄えた町なのですが、木材を江戸へ降ろしたのち船のバランスをとるため伊豆石を持ち帰ってきていたそうです。ちなみに窓廻にも家紋や唐草を彫刻するなどの技が光っていてかっこいいのでぜひ目を凝らしてみてください。

町の色をつくる廻船問屋
市の文化財「津倉家住宅」
郵便局から少し西へ歩くと、江戸時代から明治時代にかけて栄えた廻船問屋「津倉家住宅」も。現在の建物は明治に建てられた掛塚のシンボルでもあります。津倉家住宅の中は一般公開する時もあるとの事。噂に聞く大黒天の祀られた欅(けやき)の大黒柱を拝んでみたいです。

ふと玄関の上のマークが気になり写真をパシャリ。

火消しが使う鳶口がモチーフ
調べたところ、東京火災(今の損保ジャパン)のマークでした。

掛塚には伊豆石を使った史跡が多く残っていますが、津倉家を少し南下した所にも立派な伊豆石の石垣がありました。

縞柄がかっこいい!
こちらの石垣は、廻船問屋「山文」を営んでた林家のお屋敷。外からも立派な桜の木やなまこ壁の蔵も見えます。林家は、静岡銀行の基礎を作った「平野又十郎」の生家だそうです。

掛塚にある「十郎島」という地名は「平野又十郎」から来てるのかな?
掛塚まつりの中町の屋台はこのなまこ蔵の中で作られたそうです。
町の中を巡るたくさんの水路から、水の理を活かした暮らしを想像できます。それらの中心にあったのは廻船問屋で、掛塚郵便局の長谷川家もそうですが廻船問屋が町の色を作っていたんだなと感じます。

国の有形文化財「つるや酒店」

林家のお屋敷のを南下すると、国の登録有形文化財「つるや酒店(靏谷家住宅主屋)」がありました。

玄関上にはレトロなホーロー看板?も
店内に入るとお酒の木製看板が出迎えてくれます。クラシックでかっこよいです。

天與と世界長
看板左には店名の入った徳利も。

着物の女性が描かれた物もお酒の看板。お酒の名前は手元のノートに控えめに書かれているだけというクールなデザイン。

つるや酒店は当時お酒の販売もしていましたが蔵元でもあり、掛塚湊のお酒も県外へ届けられていたそうです。現在の建物は明治17年頃に建築され、場所でいうと上の写真右側に位置します。

店内では徳利と通帳をもったたぬきさんとも会えます。当時はたぬきさん同様、お客さんが徳利をもって店へ通い、お酒を注いでもらうスタイルだったんですって。

最後に

遠州の小江戸「掛塚」、湊町ならではの史跡が多く楽しくお散歩させて頂きました。屋台祭りとして有名な「掛塚祭」も湊町ならではのお祭りで、掛塚が天竜杉の集まる湊だったから文化財になるほどの屋台を作る事ができたと聞きます。コロナがなければ毎年10月に貴船神社で開催するのでまた足を運んでみたいと思います。

排水溝のタイルもお祭り。掛塚のお祭り愛が伝わります。
また 江戸から持ち帰った伊豆石や天竜川の青石を使った史跡、貴船神社に赤レンガの蔵があるなど、湊町であるとともに文化の交流地だったという事も強く感じる町でした。

地図の北側にあった謎の石垣(青石?)
貴船神社の赤レンガの蔵
余談ですが、「みなと」という漢字は「港」と「湊」の両方の字を見かけると思います。「港」は水路、「湊」は船が発着する場所という意味との事。右辺だけ見ると「巷」は「通路」、「奏」は「集まる」という意味を持ち、掛塚では「掛塚湊」という字を多く見た気がします。

最後まで読んで頂きありがとうございました。ぜひ、記事上部の地図を見て気になる場所があれば足を運んでみてください。

それでは!

*https://www.rinkaku-enshu.com/reading/serialization/?sid=239 より

 

 掛塚湊の碑/「遠州の小江戸」と呼ばれた掛塚湊|磐田市

 磐田市の掛塚(かけつか)地区はかつて大坂と江戸を結ぶ廻船の中継地、天竜川の舟運の荷降ろしの湊として繁栄しました。繁栄を今に伝える「掛塚湊の碑」が磐田市駒場の海洋公園に立てられています。また貴船神社境内に掛塚港廻船之碑(大正13年建立)があるほか、白羽神社に船絵馬が奉納されています。
 繁栄を今に伝えるのが貴船神社の祭礼
 掛塚湊の「回漕業及材木商 林文吉」(川口屋)
 余り知られていませんが、江戸時代から明治にかけて掛塚湊(かけつかみなと)は商業港として栄えました。
掛塚湊は、天竜川の河口を利用した天然の良港で、天竜川流域はもちろん遠州一円の物資を集結し、船で江戸や大坂へと運びました。江戸時代には、天竜川上流域で産する木材の集積地にもなり、幕府の御用材・御用米の廻送する拠点にもなっていたのです。
 徳川家康江戸入府後に、江戸の町づくりや江戸城の築城にも天竜川上流の木材が使われています。
江戸が大火にみまわられれば、木材の需要が急増し、その都度、掛塚の廻船問屋は繁栄するという仕組みになり、その意味でも「小江戸」としての繋がりと繁栄がありました。

 天竜川の河口のため湊は浅くて船の出入が難しいということで、往路は木材を積んだ御用船ですが、帰り荷は伊豆石や塩、雑貨などがわずかにある程度だったそうです。
今も掛塚周辺に伊豆石が多く見受けられるのは、船を安定させるために積み込んだ伊豆石の名残。

 江戸時代も中期になると、天竜川上流の木材は切り尽くしてしまい、掛塚の廻船問屋は、御用米の運搬に参入します。
伊勢国や美濃国の幕府の年貢米を江戸に運ぶことで掛塚の廻船問屋はさらに財を成します。こうして廻船問屋が建ち並んで、「遠州の小江戸」といわれたほどの賑わいをみせました。
 明治18年には新港が誕生し、明治19年〜明治28年に繁栄のピークを迎えますが、明治22年に国府津駅〜浜松駅間に東海道線が開通し(現在の御殿場線回り)、天竜停車場(現天竜川駅)が営業を開始して、徐々に貿易拠点としての使命を終えました。
 ちなみに最盛期の明治25年には36軒の廻船問屋が59隻の大型船を所有していましたが、明治40年代には掛塚港の輸送力は鉄道輸送に食われて大幅に減少しています。

 明治30年に初点灯した掛塚灯台が現存(往時とは違う場所に移設されています)。
 掛塚本町に鎮座する貴船神社は、掛塚湊の守護神で、廻船問屋などの崇敬を受けました。10月の例祭は『掛塚まつり』と呼ばれ、今も繁栄時代に造営された豪華絢爛な屋台が曳き回されます。
 掛塚湊の廻船問屋である遠州屋、中屋、川口屋はその建物が現存しています。

*https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/hamamatsu/iwata-city/kaketsukaminato/ より

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<小江戸> 山梨 甲府

2022-06-30 07:37:35 | 小江戸

 「山梨 甲府」

 甲府勤番が置かれ、幕臣が江戸と甲府を盛んに往来し、江戸の文化が持ちこまれた。*Wikipedia より

 「甲州夢小路」とは

 小江戸情緒が息づく、明治、大正、昭和初期の甲府城下町を再現

 石畳を配した路地には店舗が立ち並びます。

 古材を使用した兜作りの建物

 玉屋が入る建物は、古民家で実際に使用された古材を組み直した兜造りの建物。古い梁が張り巡らされ重厚感のある造りです。

 歴史ある街並みを再現した「甲州夢小路」。
 古民家や蔵、倉庫など、昔の建築様式を取り入れた店舗のほか、水路や石畳が配され、レトロな雰囲気の路地を歩く楽しさが味わえます。

 明治初期まで、200年以上住民に時刻を知らせていた「時の鐘」を再現。

 「甲府市史」などによると、時の鐘は寛文年間(1661年~1673年)、今の中央2にあたる横近習町に設置され、その50年ほど後には現在の甲府駅北口に近い愛宕町へ移転された。以降、200年以上、住民に時刻を知らせていたが、明治時代初期に取り壊された。

 時の鐘の写真や図面が残っていないため、明治時代の建築で時の鐘を模写した可能性があるといわれる法性山玄法院(同市天神町)の鐘楼をモデルに再現。この鐘楼は戦時中に取り壊されたが、写真が残っている。

 甲州夢小路は、観光立県山梨の新しいランドマークとし誕生しました。

 江戸時代、甲州は徳川幕府直軸のおっとりした天領であったといわれています。幕府からのお役人や旗本などが住み、洒落た小江戸文化が甲府にありました。時が進み、明治、大正、昭和初期。宝飾加工や絹織物づくりも盛んになり、太宰治や井伏鱒二が滞在するなど、ハイカラさんが多かったと言われます。その頃の甲府の通りをもういっぺん歩いてみたくなりました。

 「歩いて楽しめるまち」甲州夢小路。

*https://koshuyumekouji.com/about/ より

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<小江戸> 神奈川 厚木

2022-06-29 07:04:13 | 小江戸

 「神奈川 厚木」

 東海道の脇往還であった厚木街道の宿場町。「厚木の盛なる、都とことならず」と渡辺崋山が記した。「小江戸あつぎ創造会議」を立ち上げ、小江戸訴求を行っている。*Wikipedia より

 小江戸・あつぎの魅力を再構築
 「小江戸あつぎ」の街なみと水辺環境を楽しむ観光まちづくり調査 神奈川県 厚木商工会議所

 江戸時代には相模川の渡し場の宿場町として栄えた厚木。当時からその町並みは「小江戸」を呼ばれてきた。この歴史風情と、相模川の水辺の環境を厚木観光の資源として確立、PRしていく。

 取り組み内容
 厚木の東部地域は江戸時代に相模川の渡し場の宿場町として栄え、その風情ある街並みは「小江戸」と称された。本事業では、この歴史的資源に現代の地域資源である相模川の優れた水辺環境や商店街の活動などを結び付けた新たな観光ルートの可能性を調査した。地域住民へのアンケートからは、小江戸に関する認知度の低さから、情報発信の必要性を認識。商店街や行政へのヒアリングでは空き店舗の活用など、集客の具体的なアイデアが寄せられた。これらの調査結果をまとめ、小江戸情報を総合的に発信する施設の整備、歴史文化資源を楽しめる街歩き、相模川と商店街が連携した水がテーマのレクリエーションなど、複数のモデルプロジェクトを選定した。

 今後の展開
 小江戸の風情を伝える仕掛け
 現存しない小江戸の歴史風情を来訪者に伝えていくために、小江戸の面影を記した、水辺の散策マップなどの導入を検討。水辺環境の整備をはじめ既存の関連事業との連携を図り、モデルプロジェクトの円滑な展開に努める。

*https://feelnippon.jcci.or.jp/projects/detail.php?id=0425 より

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<小江戸> 千葉 大多喜町

2022-06-28 07:03:53 | 小江戸

 「千葉 大多喜町」

 大多喜は、徳川四天王の一人本多忠勝が大多喜城を築城した歴史を持つ町です。
特に城下町の面影を残す久保、桜台、新丁地区には、江戸時代から変わらぬたたずまいを残す建物が点在し、昔を偲ばせています。

 町では、城下町大多喜の歴史や文化を活かしたまちづくりを進めようと、平成12年度から10年計画でスタートした「街なみ環境整備事業」を進めています。店舗や一般住宅等で建物の改築や石畳・店頭看板の設置など、景観を整備しています。

*http://www.town.otaki.chiba.jp/index.cfm/10,392,60,129,html より

 千葉県夷隅郡(いすみぐん)大多喜町にある「大多喜城(おおたきじょう)」。かつてこの地を治めていた大多喜藩の城があった場所に建てられた再建天守閣の城です。周辺にはかつての城下町の面影を残す町並みや、四季折々の風情を楽しめる自然も残り、一日のんびりと散策するにはぴったりの場所。今回はそんな「大多喜城」の見どころをご紹介します。(なお情報は記事掲載時点のものです。詳細は公式サイトなどでも事前確認することをおすすめします)

 大多喜城とは

 千葉県夷隅郡(いすみぐん)大多喜町、最寄のいすみ鉄道大多喜駅から歩いて15分ほどの場所に立つ「大多喜城」は、1975年にかつての城址に再建された天守閣を持つ城です。現在天守閣は、千葉県立中央博物館大多喜城分館として、かつてこの地を治めていた大多喜藩を始めとする房総一帯の歴史や城について学べる施設となっています。またかつての城下町であった大多喜町内には、江戸情緒を色濃く残す建物や町並みなどがあり、房総の小江戸としても親しまれています。

 「城下町散策」で江戸情緒に触れる

 大多喜城の城下町であった大多喜町内には、かつての風情を色濃く残す建物や町並みがあり、「房総の小江戸」の愛称で呼ばれる人気の観光スポットです。いすみ鉄道大多喜駅の西側エリアには、かつての大手門址や「商い資料館」として往時の大多喜商人の暮らしぶりなどを展示している土蔵造建築物、1849年築の国の重要文化財である渡辺家住宅など、数多くの見どころが点在しています。グルメスポットなどもあり、ゆったりと城下町散策を楽しむのにぴったりのエリアとなっています。

*https://rtrp.jp/articles/115641/ より

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<小江戸> 栃木 栃木

2022-06-27 07:09:14 | 小江戸

 「栃木 栃木」

 栃木「蔵の街」の魅力

 栃木県栃木市。ここは「蔵の街」として知られています。巴波川(うずまがわ)が流れるこの地域は、江戸時代からこの川を利用した交易で栄えた街。この街には、今でも江戸時代から残る歴史的な建造物が数多く残されています。街を散策すると、まるでタイムスリップをしたかのような気分に。あちこちに残る古い商店などを発見することができます。

 観光の入り口となるのが「栃木駅」です。北口を出ると…え?これはポケモンのボール?こんなオブジェに惹かれてしまいます。JRと東武鉄道が構内でつながっているので、どちらからでもアクセスできます。

◆アクセス
<電車の場合>
JR両毛線・東武日光線「栃木駅」
<車の場合>
東北自動車道 栃木I.C.から県道3Kmほどで栃木市へ
蔵の街には「蔵の街駐車場」や旧市役所など駐車できる場所が数ヶ所ありますので便利です。

 意外な驚きがある「塚田歴史伝説館」

 塚田歴史伝説館は、江戸時代に巴波川を利用して木材を運んでいた木材回漕問屋だった場所。趣ある建築物ですが、中にはなんとハイテクロボットが待っています!

 え?本物??と目を疑うほど精巧に作られた、ハイテクおばあちゃんロボット。三味線を弾きながら語ってくれます。時々まばたきまでするので、ちょっと怖いぐらいです。他にも館内では、ハイテクロボットによる蔵芝居などが楽しめます。ロボット達が大活躍。

 豪商のお庭も眺めることができます。水琴窟があり、なかなかの風情あるお庭です。

 お祭りが再現されている「とちぎ山車会館」

 県指定有形民俗文化財の山車の保存を兼ねて作られたのが「とちぎ山車(だし)会館」。館内1階では、栃木市で2年に1度行われる「とちぎ秋まつり」が、映像、光、音で再現されています。意外と見ごたえがあり楽しめます!本物の秋まつりを見てみたくなりますよ。

 3台の山車が常に展示。定期的に他の3台の山車と入れ替えて展示されています。祭りの時期に行ってしまうと、祭りで山車を利用しているため、山車を見ることはできなくなっています。2階にはお祭りで使われる道具や衣装などが展示されています。

 会館前の広場ではときどきマーケットが開催されることも。画像は5月の連休に開催された古本市です。事前に蔵の街ホームページで、催し物をチェックしておくのがおすすめです。

 蔵の街にはなくてはならない「巴波川」

 巴波川は舟で観光することもできます。船頭さんが舟の上から蔵の街を案内してくれることで人気になっています。ゆったりと舟に揺られながら眺める街並みは、陸から見るのとは少し違っていて、景色に溶け込んでいるかのような気分に。

 歴史的建造物を見てまわりましょう

 パステルカラーの味のある建物は「栃木市役所別館」。大正時代に建築された建物で、国の登録有形文化財に指定されています。

 3棟の土蔵を改修して「とちぎ蔵の街美術館」として使用しています。およそ200年前に建てられたという、この土蔵だけでも見ごたえあります。中には、栃木県ゆかりの美術品などが展示されています。

 創業嘉永元年。建物を見に行くだけでも価値がある、「三枡屋本店」。こちらは老舗の人形店です。ひな人形や羽子板を、今でも購入することができます。吊るし雛や和雑貨も売っているので、素敵なお土産に出会えるかも。

 国の登録有形文化財であるこちらの建物は「下野新聞社栃木支局」です。文久元年(1861年)に建築されたこの建物を下野新聞が購入し、改築してこの姿を残しているそうです。

 *https://icotto.jp/presses/3404 より

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<小江戸> 千葉 佐原

2022-06-26 06:16:16 | 小江戸

 「千葉 佐原」

 佐原は利根川水運の中継基地として栄えた場所で、現在でも川沿いを中心に江戸情緒あふれる古い町並みが残っています。

 重要伝統的建造物群保存地区に選定されています

 都心からはクルマで約1時間半(高速利用)ほど。日帰りのプチ旅行や休日のお出かけにピッタリの場所なんです。

 今回は、そんな佐原を満喫する一日コースをご紹介したいと思います!

 

 舟めぐりで佐原の景色を満喫!
 佐原に来たらまず体験してほしいのが、(こちらの)“舟めぐり”です。

 古い町並みが残る小野川沿いを舟に乗って散策します。陸とはひと味違った風景を、ゆったりと約30分間楽しむことができますよ。

 舟は心地よい速さで進み、風が感じられて気分爽快です。

 左手に上州屋酒店の建物
 中橋を通過
 時折り、船頭さんが景色やこの町の歴史についてお話してくださり、楽しいひと時を過ごすことができました。

 舟からの景色は雰囲気満点で、思い出に残りました。佐原に来てこれに乗らないのはもったいないと思いますので、ぜひ…!

 料金は大人(中学生以上)1,300円、小学生700円、小学生未満は無料(保護者同伴)です。休日の場合、比較的人が少ない早めの時間帯がおすすめです。
※運行は10時からです。

【小江戸さわら 舟めぐり】

◆所要時間:約30分
◆運行時間:10:00〜16:30
季節によって運行終了時間が変わりますので、詳細は公式ホームページをご確認ください
◆料金:大人1,300円 小学生700円

 レアな味のジェラートを食べよう
 舟めぐりの後は、甘いものを食べて休憩するのはいかがでしょうか?

 木造の味のある店舗
 ぶれきめら駐車場内にある“お休み処”

 こちらのお休み処では、珍しい“しょうゆ味”のジェラートを味わうことができます。

 しょうゆ味のジェラート400円。地元佐原にある生醤油を使用

 クリーミーな中にほんのりとお醤油の味がして、“塩キャラメル”のような味です。さっぱりとした甘さで、美味しいですよ。ここでしか食べられないオリジナルですので、ぜひ食べてみてください。

 “薬膳生姜味”のジェラートもあるので、生姜がお好きな方はそちらもぜひ…!

 売店の横には休憩所があるので、ゆっくりと座って食べることができます。

 ぶれきめら お休み処外観
 千葉県香取市佐原イ1720 ぶれきめら駐車場内

 伊能忠敬旧宅&記念館
 佐原は、日本最初の全国実測地図を作った“伊能忠敬”とゆかりが深い場所でもあるんです。

 伊能忠敬は、17歳の時に佐原の伊能家に婿に入り、江戸に出て測量を始める前の30年余りをこの町で過ごしたそうです。

 佐原在住時代の家が今でも残っており、自由に見学することができます。

 醸造業などを営んでいた土蔵造りの店舗があり、当時の雰囲気を味わうことができます。

 他にも、炊事場や書院、土蔵がありました。

 9時~16時半まで無料で見学することができるので、ぜひ立ち寄ってみてください。

 さらに伊能忠敬のことを知りたくなった方には、川を挟んで向かい側にある「伊能忠敬記念館」をおすすめします。

 「伊能忠敬記念館」。入館料は大人500円、小・中学生250円

 記念館では、伊能忠敬の人生を年代順に詳しく知ることができます。

 “地図を作った人”として知られていますが、測量を始める前も商人として才能を発揮したり、天明の飢饉のときに村人を助けたりと佐原で大活躍をしています。

 伊能忠敬の意外な一面を知ることができますよ。もちろん、測量に関するものや地図も展示されています。

 ちなみに、伊能忠敬が測量を始めたのは50歳で江戸へ出てから。平均寿命が60歳の時代にすごいエネルギッシュですよね。館内にある映像コーナーでは、忠敬のことを分かりやすくまとめたアニメがあるので、ぜひ見てみてください。

 

*https://www.timesclub.jp/sp/tanomachi_ex/chiba/sawara/001.html より

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<小江戸> 埼玉 川越

2022-06-25 07:44:55 | 小江戸

 「埼玉 川越」

 「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と江戸時代から謳われ、喜多院には江戸城の建物の一部が移築されている。松平信綱・柳沢吉保といった江戸幕府の重臣や親藩が藩主を務めた川越藩の城下町であり幕府から重視されてきた。古く鎌倉幕府の有力御家人であった河越氏と江戸氏は同族で、室町時代に太田道灌が川越城と江戸城を築城し川越街道で結ぶなど古来から武蔵国内で特殊な関係にあった。江戸時代以降は新河岸川の舟運で江戸と深く結びついた。旧市街地北部の7.8ヘクタールの区域が重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。「COEDOビール」など市内特産品にも小江戸の名が冠される。また西武新宿線本川越~西武新宿間を走る特急「小江戸」も川越に因んだものである。江戸の天下祭の往時の姿を最もよく伝える川越まつりが行われている。*Wikipedia より

 「喜多院」

 埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参詣客が訪れる。

 江戸城遺構
 江戸城にあった建物は川越に最も現存している。1638年(寛永15年)の川越大火で焼失した際、3代将軍徳川家光の命で江戸城の建物が移築された。客殿には徳川家光誕生の間と言われている部屋があり、家光の乳母春日局の間を含む書院、庫裏も移築されている(全て国の重要文化財)。喜多院の北方には江戸末期に建設された川越城本丸御殿が現存しており、江戸時代初期と末期の御殿建築を直接比較することができる。

 「蔵造りの町並みと西洋建築」*小江戸川越ウェブ より

 明治26 年3 月17 日に発生した「川越大火」により街の3 分の1 が焼失してしまいましたが、この際に蔵造りの建物だけは焼け残り、蔵の防火性に気づいた商店主らは以後、こぞって蔵造りを採用しました。その後、行政や市民団体の尽力により、平成11 年(1999)に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。また、大正〜昭和期の看板建築なども多数残されており、今でも店舗として使用されています。

 川越には「蔵造りの町並み」が今も残っています。蔵造りは類焼を防ぐための巧妙な耐火建築で、江戸の町家形式として発達したものです。今の東京では見ることのできない江戸の面影をとどめています。
平成11年12月には国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、平成19年1月には「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されました。

 「時の鐘(鐘つき堂)」

 蔵造りの町並みにひときわ高くそびえる川越のシンボル「時の鐘」。江戸時代初頭から城下の町に時を告げ、庶民に親しまれてきました。度重なる火災で鐘楼や銅鐘が焼失し、現在建っているのは4代目に当たります。昔と変わらず今も時を告げており、その音色は平成 8年、環境省の「残したい“日本の音風景100選”」に認定されました。

 「菓子屋横丁」

 素朴で昔懐かしい味を今に伝える菓子作りの店が立ち並びます。昭和初期には70軒以上の店があったといわれており、その後店舗数は減ったものの、人情味あふれる横丁の情緒は今もなお残されています。ニッキやハッカ、お団子などの懐かしい香りが漂う菓子屋横丁は、平成13年環境省の「かおり風景100選」にも選定されました。

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<小江戸> 小江戸とは

2022-06-24 08:05:12 | 小江戸

 「小江戸とは」

 「江戸のように栄えた町」「江戸時代を感じさせる町」といった意味合いで使われる、都市の比喩的な表現。代表例としては、川越(埼玉県川越市)、佐原(千葉県香取市佐原)、栃木宿(栃木県栃木市)が挙げられる。

 現代的定義としてはおおむね、「江戸との関わりの深い町」「江戸の風情を残す古い町並みを残している町」である。古い町並みがいまなお残っている部分については、観光地となっているところもある。「江戸のように栄えている」という意味で使われた。「小江戸」という言葉そのものは以前よりあり、江戸時代から川越は歴史的に繋がりが深く「江戸の文化が真っ先に伝わる繁栄した町」という意味あいで呼ばれていた。しかし、改めて「小江戸」という言葉がクローズアップされたきっかけは、1996年に開催された「小江戸サミット」である(「小江戸サミット」については後述)。

 そのほか、千葉県夷隅郡大多喜町・神奈川県厚木市・山梨県甲府市、静岡県磐田市(旧磐田郡竜洋町)掛塚・滋賀県彦根市なども、小江戸と呼ばれることがある。

 「小江戸サミット」

 栃木市・川越市・香取市の3市の市長および市民が一堂に会し、交流する催し。1996年の栃木市を会場とした第1回から始まり[1]、以降は3市の持ち回りで開催されている。

*Wikipedia より

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