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<四国八十八箇所> 第63番札所 吉祥寺

2024-06-02 06:08:59 | 巡礼

 「吉祥寺」

 吉祥寺(きちじょうじ)は、愛媛県西条市にある真言宗東寺派の寺院である。密教山(みっきょうざん)、胎蔵院(たいぞういん)と号す。本尊は毘沙門天(当寺では「毘沙聞天」と表記)。四国八十八箇所第六十三番札所。毘沙門天を本尊とするのは、四国八十八ヶ所では当寺のみである。

 本尊真言:おん べいしら まんだや そわか
 ご詠歌:身の中(うち)の悪(あ)しき悲報を打ちすてて みな吉祥(きちじょう)を 望み祈れよ
 納経印:当寺本尊(四国八十八ヶ所六十三番、四国(東予)七福神)
 沿革
 寺伝によれば弘仁年間(810年 – 823年)に空海(弘法大師)が光を放つ檜から毘沙門天・吉祥天・善賦師童子を刻み、安置したのが起源といわれる。

 そのころの寺は、現在地より南東にあたる坂元川谷間の山中[2][3]の現在は吉祥寺藪と呼ばれている箇所にあり、塔頭を21坊も有するようになっていたが、豊臣秀吉の四国征伐の際、天正13年(1585年)に小早川隆景が高尾城を攻めたとき、その山中にあった当寺も兵に放火され、全山焼失した。本尊は助けだされ麓の大師堂のあったところに移されていたが、万治2年(1659年)に塔頭の檜木寺(かいぼくでら)と合併して現在の地に再建された。

 昭和51年(1976年)、当時の住職が発起して周辺の札所にて「四国東予七福神霊場」を開創した。開創に至っては周辺の七福神が奉安されている寺院にて江戸時代末期ごろから信仰があった為である。なお、四国東予七福神霊場の専用納経色紙は当寺にて1枚1,000円にて授与している。

 なお、インドのVaiśravaṇaにあたる尊格は、日本では漢訳経典(不空訳『毘沙門天王経』など)に基づき「毘沙門天」と表記するのが普通だが、当寺では毘沙門天の別名、多聞天の聞の字を充て「毘沙聞天」としている。

 境内

 山門
 本堂:本尊・毘沙聞天坐像は60年に一度開帳の秘仏で次回は西暦2038年。本尊前仏(毘沙聞天王・吉祥天女・禅尼師童子)を開帳し毘沙聞天王増益護摩法を、また雙身敬愛天浴油法(毘沙聞天浴油法)を厳修している。
 大師堂

 吉祥寺 福聚閣
 福聚閣:七福神のうち寺本尊の毘沙聞天を除く六神を祀る。
 鐘楼
 庫裏
 くぐり吉祥天女:この像の下をくぐると、あらゆる貧困を取り除き、富貴財宝を授かると伝わる。
 成就石:本堂付近から目を閉じて金剛杖を持って石が置いてある場所まで歩いて行き、石に開いてある穴(直径約30 cm)に金剛杖を突き通すと願いが叶うと伝わる。
 句碑:松尾芭蕉「婦留池や蛙飛びこむ水能音」が成就石の後ろにあり、吉田真照「有難や美阿登慕うて二十五歳」がその右にある。
 山門を入って左側に鐘楼、手水場があり、少し進んで右に庫裏と納経所、左に本堂、その左に大師堂である。

 宿坊:なし
 駐車場:なし。付近に民営駐車場あり 普通車:300円(1時間)。
 寺宝
 マリア観音像 - 純白の高麗焼の像、高さ約30 cm、長宗我部元親が救出したスペイン船長より託されたとされる。
 黒漆塗梅唐草金銀蒔絵女乗物 - 江戸時代、高鍋藩主秋月種徳女照子(潤性院)が小松藩主一柳頼親へ輿入れの際に乗った女乗物(身分の高い女性用の駕籠)。2015年1月3日公開された。

 吉祥寺  愛媛県西条市氷見乙1048

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第62番札所 宝寿寺

2024-06-01 06:57:39 | 巡礼

 「宝寿寺」

 宝寿寺(ほうじゅじ)は、愛媛県西条市小松町にある真言宗善通寺派の寺院(元高野山真言宗→単立を経て)。天養山(てんようざん)、観音院(かんおんいん)と号す。本尊は十一面観世音菩薩。四国八十八箇所第六十二番札所。なお、元札所の一之宮神社もここで記述する。

 本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
 ご詠歌:さみだれのあとに出たる玉の井は 白坪なるや一宮かわ
 納経印:当寺本尊、四国(東予)七福神・布袋尊
 縁起と歴史

 聖武天皇の勅願によって天平年間(729年 – 748年)大国主大神の信託により大国主大神ら三神を白坪の里(現在地より約1km北に中山川があり、その北岸あたり)に奉斎したという、その際、道慈によって、その法楽所として傍らに建立され金剛宝寺と名付けられた。

 大同年間(806年 – 810年)空海(弘法大師)が逗留し光明皇后を模写した十一面観世音菩薩像を刻んで本尊とし、寺名を宝寿寺に改めた。またこの頃国司だった越智氏の夫人が難産で空海に祈念を頼み、空海は境内の玉ノ井(現存しない)の水を加持し越智夫人に与えたところ、夫人は玉のような男子を無事出産したことから、喜びの余り2首の歌を詠じて献納した。その1首が今も伝わる御詠歌である。これにちなみ、本尊は安産の観音として信仰を集めるようになった。

 たびたび中山川の氾濫に遭っており、1145年(天養2年)に堂宇を再建した際に山号を「天養山」と改めている。

 天正13年(1585年)羽柴秀吉による四国攻めで荒廃した。寛永13年(1636年)宥伝上人によって当寺だけ新屋敷の現在地付近に移されて再興されたので、巡拝者は白坪の神社に札を納めた後、当寺で納経を行うこととなった。この際に本尊と同じく安産の仏として在家信者より奉納された布袋尊像が現在も本堂に合祀されており、四国(東予)七福神霊場の本尊となっている。その後の延宝7年(1679年)藩主の命により洪水を避けるために今度は神社が当寺の横に移転された。その後に残っている納経帳によると、納経は本尊名ではなく「伊豫國一宮大明神 別當寶壽寺」と書かれていた。

 明治初期の廃仏毀釈によって当寺は神社と分離され廃寺となったが、大石龍遍上人によって1877年(明治10年)に神社の南隣に移し再興され、大正10年(1921年)には予讃線鉄道工事にともない、さらに南側の現在地に移転した。

 霊場会退会と再加入
 2015年3月に四国八十八か所巡りの寺院(札所)でつくる「四国八十八ヶ所霊場会」(以下「霊場会」)は宝寿寺の住職に対して同会の運営要領を遵守することおよび未払いの会費の支払を求めて民事提訴した。訴状では宝寿寺側が参拝者への暴言などで遍路巡礼を妨害したと霊場会が主張する一方、宝寿寺側は妨害行為は無く、退会しているため運営要領を順守する必要は無いと主張していた。

 2017年3月22日に高松地方裁判所丸亀支部において霊場会の請求は棄却され、宝寿寺の霊場会からの退会が認める判決となった。同年3月30日に霊場会が控訴を断念して判決が確定した。

 納経時間は判決確定後しばらくは、納経時間が8時~12時・13時~17時、納経料+白黒御影料(1体200円)の負担となっていたが、2018年6月1日から、納経時間は8時~17時(昼休み無し)で、白黒御影は納経帳と納経軸へ納経した場合は従来通り無償での授与であった。

 ただし、カラー御影は霊場会のものではなく、従来の白黒御影を黄色で着色して印刷した宝寿寺オリジナルのカラー御影であり(1体200円)、納経料は、納経帳:600円、掛軸:800円、白衣:300円だが、納経をしない場合は拝観料(車遍路の場合は駐車料金)として、300円の徴収であった。

 なお、霊場会は宝寿寺が退会して空き番になった62番札所について、納経や朱印の拒否を防ぐことを目的として、61番札所の香園寺の駐車場に「六十二番礼拝所」として納経所を設置していた。

 2019年12月1日より宝寿寺の全ての運営を86番札所の志度寺(真言宗善通寺派)が当面の間の仮措置として引き継ぐ(住職籍も志度寺の住職が兼務する)ことになり、改めて霊場会に再加入した。それに伴って霊場会は同年12月15日をもって「六十二番礼拝所」を閉鎖した。これにより霊場会に再加入後の参拝時間や納経料は他の札所と同様になり、駐車料金は無料となった。

 境内
 本堂内陣正面:本尊・十一面観音立像(総高約二尺、玉眼)秘仏※平成30年(2018年)1月~令和元(2019年)年12月1日まで特別開帳された。本尊前仏・十一面観音立像、地蔵菩薩立像、内陣左:脇侍千手観音立像、布袋尊立像(四国(東予)七福神)他。内陣右:脇侍・不動明王立像(長い間正面に鎮座していた時期があったが、元の位置へと移された)。
 大師堂:大師坐像(木造彫眼彩色。像高36.0 cm。木造素地の厨子(宮殿)に安置されており、右手に金剛杵を逆手にとり、左手は数珠をとって膝上におく通例の像容である。足元の水瓶と沓は固定しないで台上に置かれており、厨子と大師像は江戸時代初期のものといわれている。)、修行大師立像。※大師堂の開帳は不定期であるが、平成30年(2018年)1月~令和元年(2019年)12月1日まで終日開帳された。連なって大師堂右隣は仏像収蔵庫となっている(非公開)。厄除けに霊験があるといわれており、年齢の数だけ「南無大師遍照金剛」と唱えると良いとされている。
 香炉:天井に風鈴を吊れるようになっており、願い事を書いた風鈴を奉納できる。1個1,000円。
 一宮稲荷社(祠): 明治10年(1877年)に大石龍遍上人によって寺が再興された際、京都の伏見稲荷・岡山の最上稲荷・愛知の豊川稲荷を護法神として勧請し、寺門の興隆・人々の護世安楽を祈願して建立された。「失せ物」・「合格祈願」にご利益有り。
 厄捨て場:投厄玉の穴に願いを一言云って厄石に投げて割れたら願いが叶う。一回200円。
 真念遍路道標(愛媛県歴史文化博物館に長期展示中)
 石碑:本堂の対面に昭和期に立てられた前佛奉納記念碑があり、前田伍健の川柳「佛縁の宝寿大寿の観世音」が同氏の筆により刻まれている。また、この石碑の傍に四国(東予)七福神霊場にちなんで布袋尊像が新たに置かれている。
 庫裏
 東側から境内に入ると右手に手水舎、稲荷社、大師堂が、その先に本堂が建っている。納経所は正面奥にあり、その背後は元本堂。

 宿坊:なし
 駐車場:あり(無料)

 文化財
 県指定有形文化財
 孔雀文磬(けい)1面 – 肩幅17.2 cm、裾張り18.8 cm、中央高7.8 cm、縁厚0.8 cm、鋳銅製、鎌倉時代初期、昭和40年(1965年)4月2日指定。

 宝寿寺  愛媛県西条市小松町新屋敷甲428

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第61番札所 香園寺

2024-05-31 07:45:57 | 巡礼

 「香園寺」

 香園寺(こうおんじ)は、愛媛県西条市小松町南川にある真言宗系の単立寺院(元御室派の寺院)。栴檀山(せんだんさん)、教王院(きょうおういん)と号す。本尊は大日如来。四国八十八箇所の第六十一番札所であり、子安大師の寺として親しまれている。

 本尊真言:おん あびらうんけん ばざらだどばん
 ご詠歌:後の世を思えば詣(まい)れ香園寺 止(と)めて止まらぬ白滝(しらたき)の水
 納経印:当寺本尊、白瀧不動明王
 沿革

 寺伝によれば、用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が建立し、天皇からは教王院の勅号を賜ったとされる。天平年間(729年 – 749年)には行基が巡錫。大同年間には、空海が巡錫中、当寺の門前で身重の婦人が苦しんでいた。空海は栴檀の香を焚いて加持祈祷をすると元気な男の子が無事に出産した。また、栴檀の香を焚いて、安産・子育て・身代り・女人成仏を祈る四誓願の護摩修法をした。以来、安産・子育ての信仰の寺となったという。

 実際の創建年は不詳であるが、奥の院の白滝不動から北へ行った海岸あたりで中山川下流に大日という場所があり、そこにあった大日堂が白滝不動で修行する人達の納経所になって、さらに大日如来を本尊とする寺になり、現在地へ移ったとも云われている。

 天正年間(1573年 – 1592年)兵火に遭って焼失したが、江戸時代に入り小松藩主一柳氏の帰依を得て寛永年間(1624年 – 1644年)に再興されている。また古くは、高鴨神社の別当寺であったとされる。

 1903年(明治36年)36代住職になった山岡瑞園大和尚により、1914年(大正3年)に本堂を再興、大正7年に「子安講」を創始し、全国はおろか海外にまで講員を拡大し隆盛に尽力した。 1976年(昭和51年)本堂は妙雲寺に移築され、その跡地に、高さ16m座席数620余の鉄筋コンクリート造りの大聖堂が建立される。

 境内

 大聖堂:本堂と大師堂を兼ねる。二階の堂内で、前立本尊と大師像を拝顔し参拝できる。一階中央にも外から参拝できるように簡素な仏像が祀られている。
 遍明堂(釈迦堂)
 子安大師堂:赤子を抱いた鋳造の大師立像
 聖徳殿(祠):聖徳太子を奉る。
 鐘楼
 戦争慰霊観音像
 句碑:参道の右側に1995年に立てられた種田山頭火の句碑「南無観世音おん手したたる水の一すぢ」「秋の夜の護摩のほのほの燃えさかるなり」と左側に川柳句碑「偉い子はいぬがどの子も親思い」がある。
 参道を進むと左側に手水場が、右に鐘楼があり、その奥に遍明堂(釈迦堂)、正面に本堂と大師堂を兼ねた大聖堂が建っている。大聖堂の右側に聖徳殿と子安大師堂がある。大聖堂の外の前に大きなローソク線香立てがあり、それらを灯してから、大聖堂の向かって右から外階段を上がって二階ホールに入る。中は舞台と観客席があり、舞台中央に前立本尊の大きな金色に輝く大日如来が鎮座していて、秘仏本尊はその後ろの厨子にひっそりと置かれている。大師像は舞台右の厨子の中に奉られている。

 宿坊:なし。(定員250名の子安会館は、閉館)
 駐車場:75台、大型3台。無料。

 文化財
 西条市指定文化財

 一柳直卿の扁額「栴檀山」「教王院」(市指定工芸品)
 大日裏山2号古墳(市指定史跡)

 香園寺  愛媛県西条市小松町南川甲19

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第60番札所 横峰寺

2024-05-30 07:07:30 | 巡礼

 「横峰寺」

 横峰寺(よこみねじ)は、愛媛県西条市小松町にある真言宗御室派の寺院。山号は石鈇山(いしづちざん)、院号は福智院(ふくちいん)と号す。本尊は大日如来。四国八十八箇所六十番札所で石鎚山の西遥拝所。

 本尊真言:おん あびらうんけん ばざらだどばん
 ご詠歌:たて横に峰や山辺(やまべ)に寺建てて あまねく人を救ふものかな
 納経印:当寺本尊、奥の院 星ヶ森・石鈇大権現、四国 (東予) 七福神・大黒天
 概要
 標高745 m付近にあり伊予国では最高所で関所寺、八十八箇所の中で雲辺寺に次いで2番目(本堂の位置で比較)の高さ。明治の神仏分離以前は蔵王権現を祀り、その後一時期は石鎚神社の横峰社となった名残りで、本堂の前には一対の狛犬がいる。

 湯波と虎杖と白滝の三カ所のいずれかからの険しい遍路道を登るしか行きつけなかったため、麓に前札所のある三つの札所の一つであったが、1984年(昭和59年)当寺より約1.5 kmの所まで林道が開通し、あと約30分緩やかな道を歩くのみとなった。その後、さらに林道は伸びて今では約0.5 km歩くだけになっている。

 四国八十八景63番に「霊峰石鎚の真正面~史跡横峰寺道から名勝星ヶ森へ~」で選定されている。

 歴史
 寺伝によれば、白雉2年(651年)役行者が石鎚山を臨む星ヶ森で修行をしていたところ、山頂付近に蔵王権現が現れたのでその姿を石楠花の木に刻んで小堂を建て安置したのが創建といい、その後行基が天平年間(729年 – 748年)に入山した。また、延暦年間(782年 – 806年)石仙(灼然)が住持し桓武天皇の脳病平癒を成就したことから菩薩号を賜り、当寺には金の御幣(現存せず)を賜ったと伝えられる。

 大同年間(806年 – 810年)には空海(弘法大師)が入山し星が森で星供養の修法をした際、蔵王権現を感得し、大日如来を刻んで本尊とし、堂宇を整備したという。

 承応2年(1653年)澄禅が訪れたときには、蔵王権現(本地阿弥陀如来)を祀る本社があり、その前に石仙を祀る開山堂、本社に対面するように大日如来および弘法大師を祀る本堂があったと記されている。

 いつのころか四国霊場巡拝は、当寺を打った後、当寺より5町未申の方角(約0.5 km南西)に上がった鉄ノ鳥居(星ヶ森)で参拝し、ここより9里先の山中にある石鈇山蔵王権現(前神寺)への参拝を済ますようになっていた。その対抗として、江戸時代初期、札所としての便宜をはかるためとして里寺納経所(通称里前神寺)を橘郷(現在の石鎚神社口之宮本社の場所)に設置された。前神寺(通称奥前神寺)は標高1,400 mで過酷な環境の山中ゆえ本寺機能は里に移っていった。それでも納経は「石鈇山大悲蔵王権現 別當前神密寺 里寺納経所」と書き別当職の独占をしていたが、本寺となった里前神寺より奥前神寺に近くなった当寺は、その管理権と別当の称号を確保しようとしていた。そして、当寺が納経帳に「石鈇山蔵王権現 別當横峰寺」と記帳したのが発端で、ついには奥前神寺の地所をめぐって前神寺と争いになり、明和6年(1769年)御室御所(仁和寺門跡)の裁定を受けるが、別当を専有してきた前神寺に負け、佛光山石鈇社(当寺境内にある蔵王権現社のこと)の別当とされ、「石鈇社蔵王権現 別當横峯寺」と記帳するようになる。だが、公儀の裁定では奥前神寺の名称は常住社に変更させ、その地所は西条藩から小松藩とすることができた。

 明治初年の神仏分離令によって、当寺は廃寺となり石鎚神社(当時は石鉄神社)の西遥拝所横峰社となることとなった。神社とされた境内には仏教の物は排除されたので、本尊の大日如来像などは、仁王門から少し下がったとこから入った所に堂が建てられ納められ、横峰寺の名でははばかれるので、横峰寺が「おうみねじ」と読めることから同じ音である大峰寺と名付られた。そして、60番札所は麓の清楽寺に移され、230余戸の檀家は香園寺へと移された。明治8年(1875年)に正式に廃寺となる。しかし、明治10年には遠くて祭祀に支障が出ているとのことで檀家総代より横峰寺の再建願いが出され、明治13年(1880年)にようやく檀信徒の協力により大峰寺の名前で復興し、1885年(明治18年)には札所が返納される。そして、1909年(明治42年)に元の横峰寺の名に戻される。

 境内

 山門(仁王門)
 本堂:本尊は金剛界大日如来坐像(全身も光背共に金色)、向かって左に蔵王権現立像(右手右足を上げ左手は刀印の真っ黒い姿、像高は本尊と同程度)、向って右は石仙菩薩(しゃくせんぼさつ)いずれも秘仏。両脇陣には弓矢を持つ赤い着物の左大臣と黒い着物の右大臣の半跏像で拝観可能。お加持用の権現像は単体。護摩焚き壇が中央にあり。本堂の中の前室部分に入って参拝できる。元の石鈇社跡に建つ。
 大師堂:2014年に大師像は修繕され同年9月以降開帳されている。元の大日堂跡でかつては本尊大日如来と両脇に如意輪観音および大師像が祀られていた。
 歓喜天堂
 鐘楼
 星供大師:元は石仙菩薩を祀っていた開山堂の跡地に立つ。
 星月堂(納骨堂)
 妻白大明神社:当地の鎮守社。
 稲荷社(祠)
 庫裏・客殿・納経所
 大峰寺の跡:明治の神仏分離の時、境外に堂を造り本尊や仏具を避難したところ。仁王門の下の2丁石仏の直下の道を境内から見て左に約200 m入ったところにあり、石垣が残っている。(大峰寺の跡)
 山門を入り参道を進むと右に手水場があり、左に行くと庫裏・客殿・納経所が、右の石段を上がると正面に鐘楼・星供大師があって、その右に本堂が建つ。本堂の向かいの参道を進むと正面に大師堂が、その右に聖天堂がある。 シャクナゲが境内一面に咲きほこる5月上旬はそれ目当ての観光客も来て、ゴールデンウイーク期間は自動車が渋滞するほどである。

 宿坊:なし ※かつては別院の信徒会館に宿泊ができた。
 駐車場:50台。平野林道(有料)を利用の山上駐車場(冬期は積雪注意)。

 文化財
 国の名勝

 星ヶ森 - 石鎚山遥拝所。0.1767ha。平成29年10月13日指定。
 国の史跡
 伊予遍路道 横峰寺道 - 国分寺から横峰寺までの遍路道のうち、旧状をとどめる総延長約2.1 kmの区間が指定されている。
 二十丁の位置にある湯浪休憩所付近から五丁石付近までの約1.7 km。平成28年10月3日指定。
 五丁石付近から山門までの0.396 km。平成29年10月13日指定。
 伊予遍路道 横峰寺境内 - 21.694913 ha。平成29年10月13日指定。
 県指定有形文化財
 木造大日如来坐像 - 本尊の金剛界大日如来像、檜の寄木造、漆箔、彫眼、像高93.5 cm、平安時代末期作、昭和40年4月2日指定。
 金銅蔵王権現御正体(みしょうたい) - 銅製鍍金、高さ22.2 cm、幅14.0 cm、平安時代末期作、昭和40年4月2日指定

 横峰寺 愛媛県西条市小松町石鎚甲2253

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第59番札所 伊予国分寺

2024-05-29 07:11:25 | 巡礼

 「伊予国分寺」

 伊予国分寺(いよこくぶんじ)は、愛媛県今治市国分に位置する真言律宗の寺院。金光山(こんごうざん)、最勝院(さいしょういん)と号す。本尊は薬師瑠璃光如来(薬師如来)。四国八十八箇所第五十九番札所。伊予府中十三石仏霊場の第7番霊場。札所寺院としては、単に「国分寺」と称するのが通例である。

 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
 ご詠歌:守護のため建ててあがむる国分寺 いよいよめぐむ薬師なりけり
 歴史
 天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つである。国分寺は『金光明最勝王経』による国家鎮護の寺であり、当寺もそれから山号・院号がつけられている。寺伝では聖武天皇の勅願により行基が開創し、第三世・智法律師のとき、空海(弘法大師)が逗留し五大明王の画像を、その後、真如は法華経を奉納したとされる。

 史実としては、具体的な創建年は定かでないが、『続日本紀』には天平勝宝8歳(756年)、伊予国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したとの記載があり、この頃には完成していたものと思われる。

 興亡を繰り返し、天慶2年(939年)の藤原住友の乱、元暦元年(1184年)の源平合戦、貞治3年(1364年)の細川頼之による兵火などで焼失、また、天正12年(1584年)長宗我部元親の侵攻の際に焼き討ちにあって荒廃したが、そのたびに再興される。焼失を免れた多くの古文書によって律令制衰退後に国分寺の多くが荒廃していく中で同寺が伊予における仏教信仰の中心地として曲がりなりにも維持されてきたことが明らかになっている。

 現在の境内は伊予国府のあった所とされ、かつての境内は東へやや離れた位置にあったとされる。寺の東方100メートルほどのところに塔の礎石が残されており、かつての国分寺東塔跡と認められている。

 境内

 本堂:寛政元年(1789年)に再建されたもの。
 大師堂
 金毘羅堂:本堂と大師堂の間に棟つづきである
 弁財天祠
 握手修行大師像
 七福神石仏
 薬師如来の薬壺
 書院:奈良時代から平安時代初期にかけての寺宝や文化財、旧国分寺からの出土品を保存している。
 鐘楼
 石槌蔵王大権現遥拝所の石碑:昭和2年仲秋の建立
 数段の石段を上ると右に鐘楼があり、正面の石柱門(両脇に1本づつ桜の木があったが向かって右側が老木にて伐採された)を入ると境内である。すぐ左に手水場(薬壺から水が出る)があり、右には薬師如来の薬壺、握手修行大師像があり、正面に本堂が建つ。本堂の右側に大師堂があり、左に書院、納経所がある。

 宿坊:なし
 駐車場:20台。大型3台。普通車で200円。
 春日神社:1050年(永承5年)当寺鎮守として勧請された。1611年(慶長16年)城主により再建されるが、明治初年神仏分離により167坪が当寺から分離独立。

 文化財

 県指定有形文化財
 紙本金地著色柳橋図:1双、昭和40年3月29日指定
 国分寺文書:3巻、昭和32年12月14日指定
 今治市指定天然記念物
 とうつばき(唐椿):昭和45年3月30日指定
 今治市指定有形文化財
 十二天画像 12幅:昭和40年12月22日指定
 随求菩薩画像 1幅:昭和40年12月22日指定
 弘法大師画像 1幅:昭和40年12月22日指定
 不動明王画像 1幅:昭和40年12月22日指定
 両界曼荼羅図 2幅:昭和40年12月22日指定
 普賢菩薩画像 1幅:昭和40年12月22日指定
 十六羅漢画像 1幅:昭和40年12月22日指定
 十三仏画像 1幅:昭和40年12月22日指定
 後西天皇宸筆 1巻:昭和39年2月29日指定
 大般若経 402巻:昭和40年12月22日指定
 綸旨院宣奉書等通直判物 1巻:昭和39年2月29日指定
 霊乗上人言上状附綸旨庁宣等案 1巻:昭和39年2月29日指定
 坪付 1巻:昭和61年4月2日指定

 伊予国分寺 愛媛県今治市国分4-1-33

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<四国八十八箇所> 第58番札所 仙遊寺

2024-05-28 07:25:16 | 巡礼

 「仙遊寺」

 仙遊寺(せんゆうじ)は、愛媛県今治市玉川町別所にある高野山真言宗の寺院。作礼山(されいざん)、千光院(せんこういん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所第五十八番札所。

 本尊真言:おん ばさら たらま きりく
 ご詠歌:たちよりて作礼(されい)の堂にやすみつつ 六字を唱え経を読むべし
 概要

 標高312mの作礼山の8合目辺りにあるが境内まで昭和時代中頃にできた登山車道により階段を上ることなく境内に行け、山上ゆえ近郊の札所では唯一今治市街から瀬戸内海まで見渡せ、登山車道の脇には桜、ツツジ、石楠花、紫陽花、紅葉など季節おりおりの花々が楽しめる。天然温泉と精進料理の宿坊を備え、1月第2日曜日には「厄飛ばし柴燈大護摩」があり、8月9日の直近日曜日には四万六千日大法会として夏祭りがある。小山田住職は霊場の世界遺産化の推進に熱心で、四国の札所では珍しく本尊と大師像を通年公開している。

 沿革
 天智天皇(在位661年 – 672年)の勅願によって伊予の大守越智守興(おちもりおき)が堂宇を建立した。本尊の千手観世音菩薩は海から上がってきた竜女が一刀三礼して彫ったという言い伝えがある。このことから「作礼山」が山号になった。また、40年にわたって伽藍を整備した阿坊仙人という僧が当寺に暮らしていたが養老2年(718年)に雲と遊ぶかのように突然姿を消してしまったことが「仙遊寺」の由来になっているという。

 空海(弘法大師)が四国巡錫の折に当寺で修法を行ったとき、病に苦しむ人々を救済しようと井戸を掘り、また荒廃していた伽藍を修復し再興、興隆したとされる。

 江戸時代に荒廃してしまったが、明治初期に宥蓮(ゆうれん)上人が再興した。宥蓮上人は明治4年日本最後の即身成仏として入定していて、当寺に供養塔がある。

 昭和22年(1947年)に山火事に遭い全山消失により仙遊寺文書も焼失、だが、本尊と大師像は難を逃れる。昭和28年(1953年)に本堂は昔の姿のまま再建、大師堂は昭和33年に再建される。

 境内

 山門(仁王門)
 本堂:本尊は6尺(約1.8 m)の立像で平安時代後期の作と云われているが痛みが激しく京都国立博物館内にて3年をかけ修復されたのを機に平成16年(2004年)より公開されるようになった。文化財としては無指定。
 大師堂:大師像を拝顔できる。
 鐘楼:それまで境内中央にあったが2016年1月に改装され端に移動。
 新四国八十八ヶ所御砂踏み霊場:修行大師石像を八十八の舟形石仏が取り囲みその周りにお砂踏み場がある、
宥蓮上人供養塔(五輪塔):明治五年壬申八月二十有六日寂
 龍燈桜の碑:旧暦7月9日になると竜燈がつらなり竜燈川を遡り境内にあった桜の枝にかかったとの伝説のある桜の木の跡
瓦投げの鳥居:龍燈桜辺りから境内下を見ると赤い鳥居が斜面にある。
 仏足跡、千体仏、子安観音像
 弘法大師お加持の井戸:仁王門をくぐって境内に上がる旧参道の徒歩道のほぼ中間地点にあり。
 観音霊場写しの石仏と天智天皇ゆかりの五輪塔:境内の背後の山一帯に33体の観音像を平成8年7月に設置。大師堂の左脇に登り口がある。その観音石像が点在する山頂へ向かう尾根に、天智天皇を供養したと云われる五輪塔がある。

 宿坊
 当寺への車道を上がって行き仙遊寺下休憩所を過ぎると仁王門があり、仁王門を左に見過ごしてさらに上がり切り突き当りを右に行くとバス回転場で左に行くと境内前の駐車場に到着する。本堂の背後から境内に入って行く。歩きは仁王門から山道を登ると境内にたどり着き、目の前に石仏に囲まれた修行大師石像があり、その先に鐘楼、右に大師堂があり、その先に本堂が建ち入口には四国で一番大きい賓頭盧尊者像があり中に納経所がある。千体仏は本堂左奥、その先に大きい子安観音像が立つ。

 宿坊(創心舎):部屋数12室、定員50名(要予約)
 駐車場:30台、大型4台。道路維持費として400円(軽自動車・普通車の場合)を納経時に払う。
 仙遊寺下休憩所:池を配した東屋のある小公園で、龍女宮がある。
 句碑:弘法子「お遍路の心の旅の憩い寺」が車道脇に、みのる「南無大師木の実に打たれありがたし」が寺下休憩所にある。

 文化財

 今治市指定有形文化財
 五輪塔:天智天皇ゆかりの五輪塔。昭和45年3月20日指定。
 今治市指定名勝
 八幡山・犬塚池・作礼山:当寺から臨んだ犬塚池の風景。昭和39年3月1日指定。

 仙遊寺 愛媛県今治市玉川町別所甲483

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第57番札所 栄福寺

2024-05-27 07:32:53 | 巡礼

 「栄福寺」

 栄福寺(えいふくじ)は、愛媛県今治市玉川町にある高野山真言宗の寺院。府頭山(ふとうざん)、無量寿院(むりょうじゅいん)と号す。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所第五十七番札所。

 本尊真言:おん あみりた ていせい からうん
 ご詠歌:この世には弓矢を守る八幡(やはた)なり 来世は人を救う弥陀仏(みだぶつ)
 沿革

 寺伝によれば、弘仁年間(810年 – 824年)巡錫に来た空海(弘法大師)が、嵯峨天皇の勅願により、瀬戸内海の風波海難の平易を祈って府頭山々頂で護摩供を修し、その満願の日に海はおさまり海上に阿弥陀如来が影向した。その尊像を山頂に引き上げ堂宇を建て本尊として開基したと云われている。その後、貞観元年(859年)大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡から京都山城に分社の男山八幡(石清水八幡宮)を創建するため近海を航行中暴風雨に遭いこの地に漂着した。上人は府頭山の山容が山城の男山に似ており、しかも阿弥陀如来は八幡菩薩の本地仏であることから、この山頂の境内に八幡明神を勧請し神仏習合の「勝岡八幡宮」を創建した。

 その後、荒廃していたが、源頼義が此の国の刺史となった時に、河野親経とともに国中に薬師堂49箇所、八幡宮を8箇所を建てたが、京都の男山八幡を参考に勝岡から現在地に移し造営した当社が随一であり山内に清泉があったことから「石清水八幡宮」と号し、麓に阿弥陀堂も構えたが、中世の戦乱の災にかかり一時に煙雲にのぼりぬとなる。

 真念の情報により書かれた『四国遍礼霊場記(寂本1689年刊)』によると遍路人は東から当山に上がり西に下って現在の境内前を通って次の札所(仙遊寺)へ向かっていて、東側山麓にあった浄寂寺の修行僧がその阿弥陀堂跡に遍路人の寄宿所を建て、その寺が八幡宮の催事を執り行っていた。なお、浄寂寺が催事を執行する以前は当寺が行っていて、長福寺と称したが、後に乗泉寺と称するようになり、寛政4年(1792年)に栄福寺と改称した。『四国遍礼名所図会(1800年刊)』にあるように山頂にあった堂舎を中腹の栄福寺境内に移築し現在も使われている大師堂となった。納経をになっていた当寺は江戸時代後期の納経帳によると本尊名は書かれず「伊豫一國石清水八幡宮 別當栄福寺」と記していた。

 明治初年の神仏分離令で、山頂の本社八幡大菩薩に隣接していた阿弥陀堂の海中より出現したという謂れのある阿弥陀如来像と本社の前にあった金毘羅社は栄福寺境内に移され、別当関係は解消され神社と寺はそれぞれ独立し、札所は真言寺院だったため当寺が引き継いだ。昭和8年(1933年)以降は、犬に引かせた箱車で足の悪い15歳の少年がこの寺で足が治り、その箱車を奉納したという話から足腰守りのお寺としても信仰を集めている。

 境内
 本堂:本尊阿弥陀如来坐像は秘仏。現住職が本堂で婚礼を挙げた時に開帳された。
 大師堂:大師像を拝顔できる。
 薬師堂:薬師如来半跏像を拝顔できる。
 金毘羅堂:扁額は金比羅となっているが、金毘羅権現を祀っている。
 鐘楼
 句碑:弘法子「四国路は遍路道より明けの春」が手水舎の横にある。
 八幡宮への西からの上り口付近から右に入って行く。山門はなく右手に鐘楼があって、折り返し参道奥に本堂がある。本堂右手前に大師堂、その右に薬師堂、金毘羅堂、庫裏・納経所がある。

 庫裏
 演仏堂:現住職・白川密成の兄で建築家の白川在の設計。
 宿坊:なし
 駐車場:10台、大型不可(駐車料金:100円)。
 グッドデザイン賞

 2011年に設置されたトイレ設置が日本産業デザイン振興会主催の「2012年度グッドデザイン賞」を受賞した。国産材のヒノキなどの間伐材として組み立てることができる独自の工法として使用、男子用、女子用、身体障害者用の3棟で、参拝者から評価されている。

 依頼されたのは現住職・白川密成の兄で建築家の白川在である。

 栄福寺 愛媛県今治市玉川町八幡甲200

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第56番札所 泰山寺

2024-05-26 05:45:36 | 巡礼

 「泰山寺」

 泰山寺(たいさんじ)は、愛媛県今治市小泉にある真言宗の寺院。金輪山(きんりんざん)勅王院(ちょくおういん)と号す。本尊は地蔵菩薩。四国八十八箇所第五十六番札所。

 本尊真言:おん かかかび さんまえい そわか
 ご詠歌:みな人の詣りてやがて泰山寺 来世(らいせ)の引導(いんどう)たのみおきつつ
 沿革
 寺伝によれば弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が梅雨期に当地を訪れた際に、蒼社川が氾濫していたが、村に伝えられる悪霊の祟りと考えられていた。空海は村人と堤防を築き、河原で土砂加持の秘法を七座にわたって修し、満願の日に空中に延命地蔵菩薩を感得し治水は成就した。空海はその修法の地に不老松を植え、感得した地蔵菩薩像を刻み金輪山々上に堂宇を建て本尊として安置したという。泰山寺の名は延命地蔵経中の「女人泰産」からとったものである。一説には道教の五岳の一つである東岳泰山からの引用ともいわれる。

 天長元年(824年)には淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備え10坊を持つ規模となったものの数度の兵火により衰退し、空海が不老松を植えた山麓の現在の場所へ移築された。

 境内
 本堂:安政元年(1854)再建。
 大師堂:昭和60年(1985年)落慶。大師像を拝顔できる。
 鐘楼:明治14年(1881年)建立。今治城内の太鼓楼の古材で再建された。
 仁王像:仁王門は無く本堂と客殿の間の廊下に立っている。
 不動明王石像、役の行者石像、理源大師石像、如意輪観音石像・・・
 弁財天祠:小さい池の中に祠。
 不忘松:弘法大師が寺を建立した際に手植えしたという伝説が残る初代の松の切り株が祀られた祠があり、足腰に御利益がある。現在は三代目の松が育っている。
 持仏堂:如意輪観音菩薩像を障子戸が開いていれば見ることができる。(入口を入って正面)
 今治市郊外の田園の中、石垣に囲まれた高台にあり、2000年に改修された白い漆喰塀が美しい。数段の石段を上ると石柱門が立ち境内に入る。正面に客殿その右に納経所さらに右に鐘楼がある。大師堂は右後ろになる。本堂は左奥にある。

 宿坊:定員80名(季節営業 3〜5、9〜11月のみ)
 駐車場:30台、大型4台(駐車料金:普通車200円)

 泰山寺  愛媛県今治市小泉一丁目9-18

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第55番札所 南光坊

2024-05-25 07:49:01 | 巡礼

 「南光坊」

 南光坊(なんこうぼう)は、愛媛県今治市別宮町にある真言宗御室派の寺院。別宮山(べっくさん)、金剛院と号す。四国八十八箇所第55番札所であり、本尊は大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)で、同霊場で唯一。

 本尊真言:おん あびらうんけんばざらだと ばん 
 ご詠歌:このところ三島に夢のさめぬれば 別宮(べつぐう)とても同じ垂迹(すいじゃく)
 沿革
 推古天皇御代2年(594年)勅により、大三島東海岸側に大山積神社(明治初年以降は大山祇神社と改名)の元となる遠土宮(おんどのみや)が祀られる。

 のち国司越智玉澄は、大宝元年(701年)大三島の西海岸側に大きな社殿を造営し遷座しようと始めるが、社殿が完成し遷座の儀が行われ大山積神社が完成したのは養老3年(719年)である。また、海を渡るため風雨の時祭祀が欠けることを憂い、文武天皇の勅を奉じて大宝3年(703年)大山積神を当地(伊予国越智郡日吉村)に勧請し社殿を造営し始め、同時に、本宮の大山積神社の法楽所として大三島に24坊を建立、その1つが南光坊である。当地の宮は、本宮より早い和銅5年(712年)に完成し、「日本総鎮守三島の地御前」として奉祀され別宮と称した。その後、正治年間(1199年 – 1201年)大三島の24の僧坊のうち、南光坊を含む8坊(中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵坊・宝蔵坊・西光坊・円光坊・南光坊)が別宮の別当寺大積山光明寺の塔頭として移された。

 弘法大師(空海)は弘仁年間(810年 – 824年)四国巡錫の時、別宮に参拝して坊で御法楽をあげられたとされる。

 天正年間(1573年 – 1592年)に伊予の全土を襲った長宗我部元親の四国平定の際、その軍勢により八坊すべて焼き払われることとなった。

 慶長5年(1600年)藤堂高虎が今治藩主に任ぜられると八坊のうち南光坊のみを再興。今治藩の祈祷所に定め祭典料を賜わせられ、薬師堂を再建した。[3]また、四国八十八箇所の札所となっていた別宮の別当寺として納経を行い「日本總鎮守 大山積大明神 別當南光坊」と記帳するようになっていた。

 江戸時代には今治藩主久松家からも尊信を受け祈祷所として定め別当職を持続し、広大な寺域を誇った。

 寛雄(かんゆう)住持の時(1700年代)、讃岐の金毘羅大権現を勧請し金毘羅堂が造られる。

 江戸幕府製作の『寺院本末帳』には伊予国の欄に「仁和寺末 南光坊 末寺一宇 安養寺」とあり御室仁和寺を本寺とする中本寺(田舎本寺)として栄え、仁和寺から「院家」の称を賜るなど高い格式を有している。

 明治初頭、神仏分離令にしたがう形で、大山積神の本地仏として別宮の本殿に奉安してあった本地大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)および二脇士と十六王子が南光坊の薬師堂に移され、55番札所の本尊は、大山積神(大山積大明神)から大通智勝如来となり、当寺は別宮から札所を受け継ぎ分離独立した。また、本式は遍路なれば大三島へ渡るとされていたが、四国八十八ヶ所の札所は全て寺院のみとなったので四国八十八ヶ所巡拝として大三島に渡る遍路はいなくなった。なお、大三島の本宮の本地大通智勝如来は東円坊に移され現存しているのでそちらへの参拝はできる。

 明治27年(1894年)頃山号を「大積山」から「別宮山」と改称している。

 大正5年(1916年)には時の住職・天野快道和尚により現存の大師堂が建造される。長州大工の建築技術が結集した建造物で、その文化的評価は高い。

 第二次世界大戦では激しい空襲(今治空襲)に晒され、昭和20年(1945年)8月、金毘羅堂と大師堂以外の本堂・本尊・庫裡什物等伽藍の多くを焼失した。

 昭和53年(1978年)、かつて当寺住職だった天野快道大僧正が京都醍醐寺の座主に就いていた縁もあり、真言宗御室派から真言宗醍醐派に転派し、総本山醍醐寺の末寺となった。

 戦後の復興は難渋したが昭和56年(1981年)11月本堂再建。平成3年(1991年)薬師堂再建、平成10年(1998年)山門鐘楼堂完成、平成14年(2002年)四天王像を安置した。平成22年(2010年)大師堂を改修。

 平成25年(2013年)真言宗醍醐派から離脱。同年11月25日、歴史上長く密接な本末関係を有していた仁和寺を総本山とする真言宗御室派に再び加入し、その末寺に復した。

 空襲により本堂と共に焼失した後、本堂再建時に以前の約2倍の大きさで造られた本尊大通智勝如来坐像は両脇仏とともに秘仏であったが、平成26年(2014年)11月9日から16日まで開帳された。また、南光坊の本来の本尊不動明王立像も同時に焼失していたが、持仏堂の再建時に元の姿に近い形で造られている。

 境内

 山門(四天門):外側と内側に二体づつ四天王を配置し寺を守護する大型の楼門。南光坊の別称『日本総鎮守三島地御前』の扁額が掲げられている。
 本堂:法華経第七化城喩品に説かれ、過去世における釈迦如来の父でありまた師とされている大通智勝仏が本尊。その姿は蜾髪で冠は無くそのまま、左手を上にした智拳印を結ぶ。脇侍は向かって右に観音菩薩立像と左に弥勒菩薩立像で、本尊と共に同じ厨子に入っており三体とも秘仏。
 大師堂:本尊は弘法大師像。第二次世界大戦時の空襲での戦禍を免れた。伝えられるところによれば、数多の焼夷弾が境内に落とされたが、そのいずれもがこの堂の屋根を滑り落ち、堂内にいた避難者の全員が無事であったという。
 金毘羅堂:金剛薩埵と摩利支天が脇仏で、本尊は権現像の姿であるが住職も見たことが無く定かでない。
 瑠璃光殿(薬師堂)

 筆塚と菅笠:昭和29年(1954)書道家川村驥山が当寺に訪れた時、当時の住職と意気投合その縁で菅笠を譲ってもらい後年に筆塚が建てられた。菅笠には「應無所住而生其心」と書かれている。
 弁天祠:山門の右にある池の中の小島にあり。
 中門:今治城を明治初旬に取り壊したとき譲り受けた門で、休憩所になっている。
 大日如来石像:伊予府中十三石仏霊場12番
 白衣観音石仏・十三仏石仏・水子地蔵石仏
 五輪塔墓:中興の祖である天野快道(1846 – 1923)の墓。
 修行大師像
 持仏堂(護摩堂):不動明王立像と二童子、非公開。
 句碑:芭蕉「ものいへは唇寒し秋の風」が本堂の左前に、 光風亭靜道「暮かけて一里もク禮ず秋の山」がその左に、深川正一郎「来島の渦にも遊び秋遍路」が山門を入って左にある。
 山門の右手に弁天祠があり、山門をくぐって進むと右に大師堂、左手に筆塚がある。さらに先の右手に金毘羅堂と薬師堂が立ち並ぶ。 金毘羅堂と薬師堂の間には、五輪塔墓、水子地蔵、十三仏石仏、白衣観音がある。正面奥に本堂が建ち、その右に修行大師像が、左に大日如来石像、庫裏・納経所がある。

 宿坊:なし
 駐車場:30台。大型2台。無料。

 南光坊 愛媛県今治市別宮町3-1

 *Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第54番札所 延命寺

2024-05-24 07:53:02 | 巡礼

 「延命寺」

 延命寺(えんめいじ)は、愛媛県今治市阿方にある真言宗豊山派の寺院。近見山(ちかみざん)、宝鐘院(ほうしょういん)と号す。本尊は不動明王。四国八十八箇所第五十四番札所。

 本尊真言:のうまくさんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かんまん
 ご詠歌:くもりなき鏡の縁とながむれば 残さず影をうつすものかな
 納経印:当寺本尊、奥之院・薬師如来
 概要

 境内には馬酔木(あせび)の木が多く、春の彼岸のころから美しい花をつける。桜やつつじも多く植栽され、花の寺としても知られている。また、真念の道標(みちしるべ)で最古とされるものが残されている。

 歴史
 寺伝によれば、聖武天皇の勅願を受けて養老4年(720年)行基が不動明王を刻み現在地の北の近見山(標高243.5 m)の山頂に堂宇を建立して開基。弘仁年間(810年 – 824年)には空海(弘法大師)が嵯峨天皇の勅命によって再興し、不動院圓明寺と名付けたという。

 かつては谷々に百坊を有し信仰と学問の中心であった。鎌倉時代文永5年(1268年)には著書の多いこと日本一で学問は内外に通じ、深く後宇多天皇の尊崇を受け、生前に国師の号を賜ったほどの学僧凝然(示観国師)がこの寺の西谷の坊で八宗綱要を著したことは有名で、当寺境内に供養塔がある。

 しかし、再三戦火に焼かれて境内を移転し、享保12年(1727年)に現在の地に移転した。その時期に当寺の庭園を造園した際に植木として植えられたというツブラジイが現存している。

 明治初年の神仏分離令で四国遍路は神社に参拝することがなくなったことから、本札所の大山祇神社を四国遍路として参拝することがなくなった。そのため大三島へ渡る理由がなくなり、かがり火(円い明かり)としての円明寺の意味合いを失ったためと、53番54番と同名の札所が続く混乱を避けるため、当寺は通称の延命寺を寺号とした。

 境内

 山門:仁王門
 中門:総けやき造りの単層の小型の門、もと今治城の城門の一つで天明年間の建造と云われている。2020年11月屋根瓦葺き替え。四隅に鶴亀瓦像。
 本堂:本尊は宝冠不動明王坐像で60年に一度開帳の秘仏で2016年に開帳され、それに先立ち本堂の修繕が行われた。再三の火災から逃れているので火伏不動尊と呼ばれる。厨子の向かって左脇には五大明王の大威徳夜叉明王と金剛夜叉明王、右脇には降三世夜叉明王と軍荼利夜叉明王が拝観できる。
 大師堂:大師像を拝観できる。右脇に興教大師像。厨子の下にタイムカプセル(1992年11月23日埋蔵)が埋められ2042年11月に開かれることになっている。
 鐘楼:「近見二郎(市・文化財)」と「近見三郎(現役)」の2つがある。なお「近見太郎」は長曾我部の軍勢に盗難に遭い連れ去られるぐらいならと自ら海に沈んだと云われている。
 薬師堂:近見山山頂にあった薬師堂の本尊薬師如来が祀られていて、奥の院とみなされている。
 行基菩薩の報恩供養塔:大師堂の右上壇にあり。
 庄屋越智孫兵衛の墓:享保年間の飢饉から農民を救い飢餓者を出さなかった。
 含霊堂:阿方の近見(八代)学校が明治23年廃校になった折、校舎が当寺に移築され、周辺の行き場のない仏像が集められ祀られた。納経所の部分が職員室であった。
 仁王門を入ると左手の丘の上に鐘楼があり、さらに目の前の小型の中門の右手にも鐘楼がある。その門を入ると、少し先に手水場があり左には薬師堂、納経所がある。石段を少し上ると正面に本堂が建ち、左の石段を上り詰めると大師堂がある。

 宿坊:なし
 駐車場:大型とマイクロは(6台)は池より外側に、普通車(30台)は山門脇を越えて中門前にある。(駐車志納金:普通車100円)。

 文化財

 今治市指定有形文化財
 梵鐘:宝永元年(1704年)鋳造。昭和63年(1988年)指定。
 今治市指定保存樹
 ツブラジイ:目通3.2 m、樹高20 m(推定)、樹齢200年以上(推定)。昭和50年4月3日指定。

 延命寺  愛媛県今治市阿方甲636

*Wikipedia より

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