荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『あなた自身とあなたのこと』 ホン・サンス @東京国際映画祭

2016-10-31 01:38:35 | 映画
 本作が先月のサン・セバスティアン映画祭(スペイン)に出品されて監督賞を受賞したちょうど同時期に、私はサン・セバスティアンにいて、でもそれは仕事のためだったので映画なんて見る時間はなく、会場にできたシネフィルどもの行列を指をくわえて眺めるばかりであったが、幸いこうして東京でホン・サンスの新作『あなた自身とあなたのこと』を見ることができた。
 ちょっとコケティッシュな女性主人公ミンジョン(イ・ユヨン)が、飲酒の制限うんぬんをめぐって彼氏(キム・ジュヒョク)とつまらないけんかをし、あえなく別居となる。画家らしい彼氏はひたすら未練の彷徨に酔い、ミンジョンは中年男たちとの飲酒に酔う。意識的にか無意識的にかは知らないが、ミンジョンは酒を飲むたびに他人になっていき、旧知の人物からの呼びかけや問いかけに別人として応答する。どこからどう見ても本人なのに(スネのアザはおそらくホン・サンスが付けさせたものだろう)、シラジラしく次から次へと他人になりすます。
 解離性同一性障害ということもありうる。多量のアルコール摂取によって、本当に彼女の脳をそうさせているのかもしれない。しかし映画は、そうした臨床的な黒い穴を回避して、飲酒滑稽譚にどうしても留まろうとしている。ミンジョンは、ゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』(1990)における「lui(彼)」つまりアラン・ドロンのようなものだろう。この映画を見終えたあと、陶淵明でも李白でもいいが、飲酒を人生の最上のものと位置づけた詩人たちとの精神の交わりを無手勝流に抱きながら、飲みたいところである(じっさいには仕事場に急いで戻っただけですが)。ホン・サンスの心身の健康が続いてほしいと思う(本作を見て、ちょっとばかり気がかりとなったが、それは杞憂だろう)。記念として陶淵明(紀元365-427)の飲酒詩でもコピペしておこう。

秋菊有佳色 by 陶淵明

秋菊有佳色   秋菊 佳色あり
衷露採其英   露をあびて そのはなぶさを採り
汎此忘憂物   この忘憂のものになべて
遠我遺世情   わが世にのこるる情を 遠くす
一觴雖獨進   一觴(いっしょう)ひとり 進むといえども
杯盡壺自傾   杯つきて 壺みずから傾く
日入群動息   日入りて 群動やみ
歸鳥趨林鳴   帰鳥 林におもむきて 鳴く
嘯傲東軒下   嘯傲(しょうごう)す 東軒の下
聊復得此生   いささかまた この生を得たり

【意味】秋の菊がきれいに色づいているので、露にぬれながら花びらをつみ、この忘憂の物に汎べて、世の中のことなど忘れてしまう。ひとりで杯を重ねるうちに、壺は空になってしまった。日が沈んであたりが静かになり、鳥どもは鳴きながらねぐらに向かう。自分も軒下にたって放吟すれば、すっかり生き返った気持ちになるのだ。
(注)下から2行目の「嘯傲(しょうごう)」とは、「うそぶいて自由な気持ちになること、世間を超越したさま」を意味する。



東京国際映画祭 ワールドフォーカス部門にて上映
http://2016.tiff-jp.net/ja/
*写真は映画祭事務局に掲載許諾を得て使用しています

『ジャクソン・ハイツ』 フレデリック・ワイズマン @ラテンビート映画祭

2016-10-26 01:56:17 | 映画
 フレデリック・ワイズマンは、場所を主語にしてカメラを向けてきた映画作家である。学校、病院、軍隊、動物園など、彼の出身地であるアメリカのありとあらゆる場所が被写体となったが、映画作家としての名声を得るにしたがい(依頼のバリエーションが増えるにしたがい)、ヨーロッパの名所をもその被写体に加えた。パリのコメディ・フランセーズ、クレイジー・ホース、ロンドンのナショナル・ギャラリーなどといった、世界を代表する名所が彼によって写された。
 最新作『ジャクソン・ハイツ』(2015)は再びアメリカ、それもニューヨークの一街区だけに被写体を絞っている。マンハッタン、ブロンクス、ズデーテン島、ブルックリン、クイーンズと5区しかないニューヨーク市の行政区(パリは20区、東京は23区、上海は16区、ロンドンは33区に区分されているから、NYの行政区分がいかに少ないか、1区の範囲が大きいかというのが分かるだろう)のうち、今作は、かつて治安の悪い地域の代名詞だったクイーンズにフォーカスを絞っている。「人種のるつぼ」と昔から称されてきたニューヨークにおいて最も移民の数多く住む地区である。私のような世代にとってはフィッツジェラルドの小説『グレート・ギャツビー』で「チリとゴミの谷」と称されていた、そんな冴えないイメージの土地である。
 ワイズマンのカメラはかたくなに個人へのまなざしを拒否する。もちろん、発言する誰かのアップショットこそたくさん撮られている。だからといって、その人の主語には絶対にならない。ニューヨーク市 クイーンズ区のジャクソン・ハイツという地区の「場所」のみを撮っているという姿勢を維持する。ここにはさまざまな住人がおのれの存在を主張している。コロンビアをはじめとするラテンアメリカ諸国の人々、インドやチベットなど南アジアの人々、中国系の人々、ユダヤ系もいればイスラム教徒もいる。そしてごくごく少数のようだが、おそらく入植時代の最も古いオランダ系住民も写りこんでいる。LGBTの「パレード」、あるいはNPO邦人「MAKE THE ROAD」のNY支部といった勢力が活発化している様子が、じつに生々しく写される。コロンビアやインドの民族音楽も屋外や店頭で演奏される。ブクブクと膨らんでいくかのような被写体の数と表情、声。と同時に、カメラはひたすらルーズヴェルト・ストリートとその周辺への停滞をみずからに義務づけていく。
 「場所」というものの重要性が、口酸っぱく述べられ、このごちゃごちゃとしてホコリっぽい、騒音と排気ガスに満ちたこの地区がいかに住民にとって居心地のいい場なのか、そのことのみが撮影され、録音されているのだ。マンハッタンから地下鉄で30分という交通の便の良さが注目され、ビジネスマンのための新しい居住区として再開発されることが匂わされている。映画で写された住民集会では再開発への反対意見が多数を占めていた。しかし、数年後あるいは十数年後、この映画で語られた無数のこまぎれの物語、ごちゃごちゃとした街区やショッピングモールが、歴史的資料になってしまわないという保証は、どこにもありはしない。


第13回ラテンビート映画祭(東京・新宿バルト9)にて上映
http://lbff.jp/

『彼方から』 ロレンソ・ビガス @ラテンビート映画祭

2016-10-22 04:36:21 | 映画
 今秋、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭およびラテンビート映画祭で上映された、ベネズエラの映画作家ロレンソ・ビガスの『彼方から』は、現在の中南米映画界の勢いをまざまざと映し出している。アレハンドロ・G・イニャリトゥ組のメキシコ人ギジェルモ・アリアガが原案と製作を、さらにアサイヤス『カルロス』、ソダーバーグ『チェ 28歳の革命』に出演したベネズエラ人俳優エドガル・ラミレスや、今年『ある終焉』が日本公開されたメキシコ人監督のミチェル・フランコらがプロデュースをつとめた本作は、チリのパブロ・ラライン監督の傑作にして、『チリの闘い』のよろこばしき後日譚と言っていい『NO』のカメラを担当したチリ人セルヒオ・アームストロングが撮影している。さらに、『ある終焉』に主演したティム・ロスと、ブラジル映画のヒット作『セントラル・ステーション』の監督ワウテル・サレスに「Thanks」のスペシャルクレジットが捧げられ、この人脈の渦は中南米映画の超エリートムービーと言っても過言ではない。
 まさか、いきなりヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲ってしまったのは、さすがに出来すぎの感もなくはない。しかし、ロレンソ・ビガスという映画作家が今後、どんなふうに化けていくのか、それはヴェネツィアの審査委員ならずとも期待をかけずにいられない。
 ベネズエラの首都カラカスの、油断ならぬ不穏な空気が、画面をたえず不透明にボケアシを作っていく。主人公の孤独な、何かを誰かを待ち続けているようなたゆたいが、街の不良グループのリーダー少年に近づいていくのあたりの、武骨な進展がいい。分かり合ったような、それでいて分かり合うことそれじたいに背を向けたような一進一退をくり返すこの年の離れた同性愛カップルが、こそばゆいまでにいい。
 ただ、最後の、『ある終焉』でも感じたことだが、衝撃のラストを用意しました、という画面の連鎖はいかがなものか。ミチェル・フランコしかり、ロレンソ・ビガスしかり、このラストの展開から浮かび上がるのは、逆説的に物語性への過度の信頼である。心理的な葛藤を扱うのはいいが、心理で終わるのはよくない。信じる者を裏切る、密告者として自分を規定しなおしてしまう主人公の不治の病は痛いほど分かるが、それをシナリオ的な処理、役者の表情づくりではなく、映画そのものの苦味として、痛みとして画面に定着できなかったものか?


9月に東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(スパイラルホール)、10月に東京ラテンビート映画祭(新宿バルト9)にて上映
http://rainbowreeltokyo.com/2016/schedule_program/from_afar

原田マハ 著『暗幕のゲルニカ』

2016-10-13 01:44:23 | 
 原田マハの新作『暗幕のゲルニカ』(新潮社)は帯文に「圧巻の国際謀略アートサスペンス」とある。たしかに、ピカソを専門領域とするキュレーターとしてMoMA(ニューヨーク近代美術館)に勤務する日本人女性の主人公・瑤子を中心に、MoMA、レイナ・ソフィア芸術センター(マドリード)、グッゲンハイム・ビルバオ美術館、国連、ETA(バスク過激派)などが地球規模でからんで権謀術数をめぐらすばかりか、スペイン内戦期の1937年から第二次世界大戦終戦直後の1945年にいたるパリ、オーギュスタン通りのアパルトマン4階(そう、ピカソのアトリエがあった場所であり、ここで大作『ゲルニカ』が描かれた)およびカフェ・ドゥ・マゴ、パリ万博会場といった過去の時空がパラレルに織り込まれていく。そして、大戦期のもうひとりの主人公はピカソの愛人ドラ・マールで、ドラと瑤子が合わせ鏡のような時間構造のなかで気丈に立ち回る。
 まるで映画を見るようなシークエンス処理——「映画を見るような」という紋切り型表現を使ってしまったが、これは2001年の9.11テロの時にさんざ使われた表現だ——は、主人公・瑤子がアメリカ人の夫をワールド・トレード・センターで喪ったことを契機として始動する。そして、著者がWebサイト「shincho LIVE!」のインタビューで語っているように、この小説を書いたきっかけは、次のようなものだという。

「〈ゲルニカ〉には、油彩と同じモチーフ、同じ大きさのタペストリーが世界に3点だけ存在します。ピカソ本人が指示して作らせたもので、このうち1点はもともとニューヨークの国連本部の会見場に飾られていました(ちなみに1点はフランスの美術館に、もう1点は高崎の群馬県立近代美術館に入っています)。しかし事件は二〇〇三年二月に起こります。イラク空爆前夜、当時のアメリカ国務長官コリン・パウエルが記者会見を行った際、そこにあるはずのタペストリーが暗幕で隠されていたのです。私はそれを、テレビのニュースで知りました。」

 主人公・瑤子がMoMAの前にレイナ・ソフィア芸術センターに勤務していたという設定のせいか、それとも『ゲルニカ』が、40年間にもおよぶフランコ総統によるファシスト独裁時代はアメリカのMoMAに避難していた、その「亡命」に寄与したスペイン青年貴族パルド・イグナシオ(架空の人物)に作者が肩入れし過ぎたためなのかは分からないが、本全体として、完全にではないにせよ、ややマドリード寄りに描かれているように思えた。現在ではカタルーニャ語表記が一般化しているジョアン・ミロを「ホアン・ミロ」と古色蒼然たる表記で登場させるあたり、作者の心情を物語っているように思う。だたし、ピカソの『鳩』の絵の真筆がなぜバスクの女テロリストの手元にあるのか、そのからくりは見事と言うほかはなかった。

『過激派オペラ』 江本純子

2016-10-10 12:15:03 | 映画
 「毛皮族」主宰の江本純子が、「毛布教」なる新劇団の旗揚げ公演その他もろもろを映画にする。自伝的なものなのだろうが、とにかくこの祝祭感、刹那感が素晴らしい。
 劇団主宰・作・演出をつとめる重信ナオコ(早織)が臆することなく垂れ流す、演劇という名を借りた下心の数々、恥も外聞もない、懇願とともにレズビアンセックスを完遂させる、そうした重信ナオコの情熱が演劇の台本と演出に直結していく、その公私混同の恥ずかしさ、みっともなさを、集まった団員たち(全員が可愛らしい女性たちによって構成されている)が、曲がりなりにもある期間は「才能」と断じ、ついていく。ベルトの下からベルトの上へと波及していく。これは貴重なこととしか言いようがない。
 ホースで水をかける重信ナオコに煽られて、団員たちが外に出て裸になって、シャッターの前でホース水を浴びる。このシーンが醸す解放感(しかし同時に「お約束」の醒めも感じられる)は、今年の映画界における一大クライマックスではないか。
 現代のさまざまな演劇人が映画に進出している。監督をしたり、脚本を担当したり。この流れは近年の若手演劇が興隆している証拠である。ところが、私はそれらのだいたい全部を見ているが、この方たちが舞台で成し遂げたことの半分も行っていないと思う。特に三浦大輔。舞台ではあれほどすごいのに。いや、未見の新作『何者』を見てから再考すべきだろう。とにかく映画というものの難しさを痛感する。
 江本純子は一頭地を抜く存在となった。くやしかったら、他の演劇人も『過激派オペラ』を越える映画を提示してほしいと思う。


テアトル新宿でレイトショー公開
http://kagekihaopera.com