荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

『帰ってきたヒトラー』 ダーヴィット・ヴネント

2016-06-30 04:14:03 | 映画
 アドルフ・ヒトラーが現代のベルリンにタイムスリップして巻き起こす珍騒動であると同時に、ファシズムの足音がもうそこまで近づいていることを示した作品。最初は、そっくりさんタレントによるショーにすぎないと誰もが(最初にヒトラーを発掘して売り出したフリーランスのTVディレクターもふくめて誰もが)高を括っている。しかしバラエティ番組の人気者になった彼が、長い沈黙とレトリックを弄した煽動的なコメントによって、番組収録現場の観覧者や視聴者をうっとりとさせ、ドイツ国民の内に秘めた蒙昧な独善主義、排外主義、アーリア優性主義がもたげさせるための装置と化していく。
 今まさに作られるべき作品だと言える。イギリスがEUからの離脱を選んだのは、排外主義が彼らの本音であることを隠し立てする必要を感じなくなってしまったからであり、ドイツがギリシャのシリザ政権を痛めつけるのは、財政再建のための「緊縮策」という美名のもとでギリシャの財産を収奪するためであり、パリで同時多発テロが起き、シャルリー・エヴド事件が起きたのはEUが域内の通行を自由化したことによる副作用だと言いたい反動主義者が数を増やしているためである。これら現代の政治的危機を、ヒトラーのタイムスリップによって説明しきってしまおうという不敵さが、この作品にはある。そしてタイムスリップしたヒトラーとは、私たちの心のなかに巣くっているものだというのである。
 極右の台頭と民主主義の脆弱化を、ブラック・コメディによって物語化する。これはナチスが政権を奪取する前に、『カリガリ博士』(1920)や『ドクトル・マブゼ』(1922)が未来予想図として物語化されたのと符合してしまっているのだ。現代には、もっと多くの『ドクトル・マブゼ』が必要だ。『帰ってきたヒトラー』をもっと踏みこむことは可能だし、そうした作品がたくさん生まれて、ディフェンスが硬められたらいい。そして日本でもぜひ『帰ってきたヒトラー』のような作品が作られたらいいと思う。


TOHOシネマズシャンテほか、全国で上映中
http://gaga.ne.jp/hitlerisback/
*監督名についての議論の部分は、本記事を読んで作品を見に行こうか考えてくださる方にはあまり関係がない話題に思えたため、コメント欄に移動しました。

『64 ロクヨン』 瀬々敬久

2016-06-24 08:15:41 | 映画
 『64 ロクヨン』の前編につづいて、ようやく後編も見終えた。原作の映画化という制約の中で、監督の瀬々敬久はすばらしい仕事をしている。小説にしろ漫画にしろ、原作のファンは必ずといってその映画化の内容に不満を持つ。彼らの不満に耳を貸すのもいいが、映画作家はそれでも我が道を行くべきである。小説や漫画の原作よりも映画そのものの方が大事だからだ。

 群馬県のある街で、身代金目的の少女誘拐、殺害事件が迷宮入りする。時効を1年後にひかえ、いっきに事件解決になだれ込む後編のストーリーラインがやや凡庸に思えた。しかし前編における、事件当時の焦燥が募っていく迫真の描写がすばらしい。事件捜査は失敗に終わり、少女はポンコツ車の後部ボンネットから絞殺死体で発見される。
 地方都市を舞台とする少女誘拐と殺害。映画はヒッチコック寄りに(楽器演奏のように)作ることも可能だし、シャブロル寄りに(タナトスの品評会のように)作ることも可能であった。しかし、瀬々敬久はそのどちらの戦術も採らない。内田吐夢の『飢餓海峡』のような悪夢残存劇を採用しつつ、瀬々自身の作風へと強烈に引きつけていく。この作品は、瀬々自身の最高傑作『ヘヴンズ ストーリー』(2010)のメジャーにおけるリメイクであり、セルフ・トリビュートでもあるだろう。
 事件に対する悔恨と悲しみはその後も、被害者一家の残りの人生を支配し、捜査を担当した刑事たちの人生をも狂わせていった。むしろこの映画は事件そのものではなく、この波及効果の描写への注力によって定義づけられていく。事件当時の刑事で、いまは群馬県警の広報官である主人公(佐藤浩市)がどれほど奮闘し、もがこうと、さらには警察組織とマスコミ各社が事件の後始末でどれほど紛糾しようと、すべては被害者への慰霊へと、レクイエムへと帰着するほかはない。そして、「大事な子どもを失った家族」の「子どものいない時間」が抽象化し、普遍化し、人も場所もその時間を休みなく見つめ、その静謐な地獄に留まり続ける。


TOHOシネマズ日劇ほか全国で上映
http://64-movie.jp

『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』 ジェイ・ローチ

2016-06-12 10:26:40 | 映画
 映画作家という存在は不思議なもので、時に受け手たる私たちが彼らに抱くイメージを大幅に狂わせて、たじろがせる。『オースティン・パワーズ』2部作、『ミート・ザ・ペアレンツ』3部作などでとちらかというと大衆迎合的な作風で鳴らしたかに見えるジェイ・ローチが、こんなクリティカルな作品にタッチするのかと思わせるのだ。
 『トランボ』。1930年代後半から1970年代にいたる長期間にわたり第一線で活躍したシナリオライター、ダルトン・トランボ(1905-1976)の伝記映画である。たとえば成瀬巳喜男と同世代の人で、第二次世界大戦後、最も高額ギャランティを取るライターに上りつめたが、冷戦が開始された1947年、非米活動調査委員会、いわゆるHUAC(フアック)からワシントンに召喚された。しかし自身の共産主義思想、友人の左翼活動などについての議会証言を拒否して、議会侮辱罪に問われ、獄につながれる。
 ダルトン・トランボがブラックリストに載って、公式的には活動が許されなくなった1950年代における、彼のサバイバルがおもしろい。いわゆる「フロント」と呼ばれる、名前貸しを許してくれた友人ライターたちの背後に隠れて、低予算のB級映画である意味、全盛期以上に精力的に書きまくる。周知のごとく『ローマの休日』が最も有名なブラックリスト時代の作品だ。この作品におけるオスカーは「フロント」が代理受賞した。
 赤狩りは歴史なのだろうか? とんでもない。これは依然として現在の事象である。それどころか、特に安倍政権誕生後の日本においては、身に覚えのあることとして潜在する状況が、この映画には予言的に写っている。きわめて現在的な危機についての映画である。スタンリー・キューブリック監督『スパルタカス』(1960)とオットー・プレミンジャー監督『栄光への脱出』(1960)という同時期の2作が彼の名誉回復となった作品で、この2作以降、彼は本名でクレジットされるようになる。暗黒時代があり、その暗黒時代がゆっくりではあるが終わりを告げる。このリコンシリエーション(寛解)を跡づける一連が、この作品の最も感動的な部分である。何人かの登場人物は複数の人物をまとめて単一の人物として描かれるが、必要悪的な措置であろう。
 いくら呵責なき史実を描いたところで、作品はあくまでピース・オブ・ケイクに留まる。しかしながら、この『トランボ』は、それ自身があたかもダルトン・トランボによって書かれたシナリオのごとく巧み、かつ時局的であった。殊に、アカデミー賞授賞式でほんとうの受賞者が登壇しないという描写がゾクゾクするほどおもしろい。
 サブタイトルの『ハリウッドに最も嫌われた男』というのは、事実誤認を引き起こす恐れがあるように思う。中流階級以上の出身が多く、高学歴が多いシナリオライター界にあって、珍しく労働者階級の家庭に生まれた彼は、節を曲げないことによってイバラの道を歩んだ反面、業界で最も慕われた存在である。したがって「ハリウッドで最も心配をかけた男」ではあったかもしれないが、『ハリウッドに最も嫌われた男』というのは、宣材として以上の意味を持たない。なお、原作本となったトランボの伝記ノンフィクションの邦訳が、7月に刊行されるそうである。


7/22(金)よりTOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)ほか全国で公開予定
http://trumbo-movie.jp

『クレールの膝』 エリック・ロメール

2016-06-03 03:44:36 | 映画
 冒頭の、ジャン=クロード・ブリアリがアヌシー湖から悠々とモーターボートをすべらせ、そのまま市街地の運河に入っていき、河口の第一橋である “恋人橋” なる暗示的な名前をもつ橋の下を通過しようとした時に、橋上の女性から「ジェローム!」と声をかけられる一連からして、あまりにもすばらしい流れである。この映画では一貫して、モーターボートの水上での運動感が画面を活気づけることになる。
 橋上から主人公の名を呼んだブルネットの女性は小説家で、オーロラという名前らしい。このAURORAという単語を聴くと、F・W・ムルナウ監督『サンライズ』(1927)のフランス語題名『L’Aurore』を思い出す。もちろん、あの伝説的なサイレント・フィルムに出てくる小舟が醸すシリアスな象徴性と、この『クレールの膝』のモーターボートが醸すブルジョワ的な悦楽姓とは180°ちがうけれども。
 このオーロラという女性小説家と、主人公ジェローム(ジャン=クロード・ブリアリ)のふたりは結局、映画全体を通して「危険な情事」ごっこをからめつつ、恋愛や貞操観念、性欲について議論を深めてゆく。「R」はじめ子音が過剰に強調されるオーロラの訛ったフランス語の豊かさ。会話の中で、ジェロームのブカレスト赴任時に知り合ったようなことが語られていたので、オーロラはルーマニア人なのだろう。共産化した母国を嫌ってフランスの高級別荘地に蟄居し、執筆活動ににいそしむ元貴族令嬢といったところか。戦後フランスに移住したルーマニアの文化人たち──たとえばイヨネスコ、シオラン、そして『コッポラの胡蝶の夢』の原作者ミルチャ・エリアーデなど──がただよわせる危険な香り、一筋縄ではいかぬたたずまいをめぐり、エリック・ロメールがそれまで感じてきたことを、このオーロラという登場人物に込めたのかもしれない。
 一方で、タイトルロールのクレールという少女がいっこうに出てこない。クレールの妹のローラは(こう言ってよければ)「刺身のつま」のような存在だったはずなのに、この少女と主人公のランデヴーが意外なほど長く延長される。撮ってみると可愛いし、いいシーンがいっぱい撮れてしまうので、まるでそれにまかせたかのように。この延長はロメール独特の観客への悪戯、ややサディスティックな焦らしであろう。肝心のクレールについては「そういえば、もうひとり」などと言いたげな、ついでに語っておこうという態度である。
 とはいえ、本作のクライマックスというのか、主人公ジェロームの手とクレールの「膝」がついに接触をはたす、「アウトドアのバルテュス」とでも評言したいこの上もなくエロティックな午後──地元の気象は、登場人物たちの深層心理に対し「図星だろう」と言いたげににわかに悪化し、軽い雷鳴をともなった通り雨がアヌシー湖に叩きつける。湖畔の水草が雨風にたよりなく揺れる実景ショット一発が、非常に利いている。いちど見たら、観客の誰もが生涯忘れられない雨のシーンとなるはずである。


本作をふくむ特集〈ロメールの女たち〉が角川シネマ有楽町で6/10(金)まで開催
http://mermaidfilms.co.jp/rohmer2016/