荻野洋一 映画等覚書ブログ

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モランディについて

2016-04-26 17:57:15 | アート
 作家が全人生をかけてものにした作品たちを、2時間ほどそぞろ歩いて見て回り、分かった気になるのが美術館におけるわが行動である。偽善とまでは言わないが、いささか不当なまでに合理的なシステムによって、作家の芸術という芸術を、私たちはむさぼり食っている。
 ジョルジョ・モランディのように終生変わることのない主題と共にあり続けた作家の場合、そのむさぼり具合は洒落にならない状態となる。ちょっと離れて主題やモチーフの傾向を探ってみたり、気になる作品についてはぐっと近づいて、彼(彼女)の絵の具の乗せ方や筆さばきの後を追ってみたりする。マチエールへの耽溺が鑑賞のアクセントとなる。もちろんそこに畏敬の念は存在してはいるにせよ。
 東京ステーションギャラリー(東京駅構内)で開催された《ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏》が、さる4月10日に会期終了した。夥しい数の同じ主題の反復。つまりモランディ家の彼のアトリエに大事に保管されたいくつかの瓶や水差し、缶といったいわゆる「静物」が、角度を変え、配置を換え、組み合わせを換え、光線のあたり具合を調整しながら、何度も何度も描かれ続ける。あたかも主題の限定がかえって「ヴァリアツィオーネ(変奏)」を力強くすると言わんばかりに。
 いや、実際ここでは同じモチーフの反復と(微細な)差異によって、作家の無際限な変奏が保証されている。瓶や水差し、缶といった人工の無機物が、そのつど役柄を交感しながら異なる演技を試し続けている。
 「絵画にとっての小津だな」とか「静かな狂気」なんて安易な形容が頭をよぎってしまうが、規則性と戯れつつ、生が抽象化していき、マチエールの無限な二重コピーを増殖させていく。たおやかで、見た目に美しいその静物たちの中間色や原色が、それじたいの無限性と有限性を同時に肯定し、それじたいの消滅を予告し、また鑑賞者の死と消滅を逆照射している。しかしそれを悲しいとは思わない。メメント・モリ。虚栄とは無縁のまま、たおやかに死滅する静物たちは、美を美と名づけないままに戯れて、そして殉死していく。
 これまでよく知っていた油彩だけでなく、今回展示された作品群にあって、構造性がよりあらわとなるエッチング、モノとモノの関係性、モノとモノでない境目の関係が混ざり合う水彩画がすばらしく、この作家に対する嗜好にあらたな面をつくってくれた。

千葉泰樹関連記事の一覧

2016-04-19 16:50:07 | 映画
 千葉泰樹作品の記事をインデックス化してみました。そもそもブログなんていう素性の賤しい媒体は、未整理のままポンと投げ出された程度でちょうどいいのであって、わざわざカタログめいたふるまいに及ぶのは、手前味噌もいいところなのは承知しておりますが、少しは便宜なんてものを図ったもいいのではなどと考えてしまいまして。


『義人呉鳳』(1932)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/9d495f380269df6cdd0ba1da0ec06e6f

『生きている画像』(1948)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/e3ca15a677c83dada24e8a672bae3176

『夜の緋牡丹』(1950)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/8bc41fd7785e1c255b98a29729a75516

『下町(ダウンタウン)』(1957)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/07c6db425aee6fb59de14ae91a0c3e7c

『がめつい奴』(1960)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/48e38ce5af8189a1d458162bef428080

『二人の息子』(1961)
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/c5517187483cf0b8f07010d9f4bcf554

森繁久彌追悼文(2009)
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『二人の息子』 千葉泰樹

2016-04-17 17:10:18 | 映画
 シネマヴェーラ渋谷の千葉泰樹特集で『二人の息子』(1961)を初見。かねてより1960年代千葉では屈指の作品と友人から聞かされていたが、噂にたがわぬ素晴らしい作品だった。
 すでに暗くなっているヴェーラの場内に入り、急いで席に座ると、流れてくるのは数秒で伊福部昭とわかる音楽。ざっと「日本映画データベース」で検索しただけだが、本作が公開された1961年11月に伊福部昭が音楽を担当した作品は、11/1 三隅研次『釈迦』、11/8 伊藤大輔『反逆児』、11/12 千葉泰樹『二人の息子』と続いている。なんだろう、このすごさは。さらに翌年2/21には三隅研次『婦系図』、4/18 三隅『座頭市物語』、6/10 田坂具隆『ちいさこべ』もやっている。あまりにも偉大な音楽家である。その年の夏休みには当然『キングコング対ゴジラ』もある。

 一家の父の藤原釜足が嘱託の裁判所勤めをクビになったことから、長男・宝田明、次男・加山雄三、末っ子の藤山陽子の人生も狂わせていく。
 藤山陽子に捨てられて傷心の田浦正巳がカード占いで凶を引いて、やはりこれは悲劇に終わるのかと観客を不安にさせるのがいい。エリート社員の不誠実さに愛想を尽かし、元の鞘におさまって、貧しいながらも幸福をつかむ女性──というシナリオになるケースは多いが、今回、東宝の通常メジャー作品であっても、松山善三の筆は酷薄さをどこまでも失わない。
 はるか以前、シネフィリー全盛期に成瀬巳喜男の『乱れる』について、「松山善三のシナリオなのにすごい」とか「加山雄三でさえすごく見える」とかいう話がシネフィルのあいだで飛び交ったりしたのだが、そういう痛快な皮肉は『二人の息子』の前にあえなく否定される。田浦正巳の結末は凄惨である。
 この凄惨さ、私の勝手な連想に過ぎないのだけれど、昨夏に韓国文化院で見たユ・ヒョンモク(兪賢穆)の『誤発弾』に似通っていると思った。偶然にも同じ1961年の作品である。ソウルの貧困家庭を襲う不幸の連鎖。起こることの悲惨さ、救いのなさでは『誤発弾』に軍配が上がるが、画面から漂うエグミみたいなものは共通している気がする。作風が同じとか同時代性とかそういうことではまったくないのだけれど。


シネマヴェーラ渋谷(東京・渋谷円山町)千葉泰樹特集は4/22まで開催
http://www.cinemavera.com/

『デッドプール』 ティム・ミラー

2016-04-14 01:08:51 | 映画
 昨今のハリウッドはスーパーヒーロー物のオンパレードで、かなり食傷気味である。『アベンジャーズ』なんて、ハリウッド社会も日本のAKB商法を笑えない段階に来ている。この氾濫ぶりは、少年時代の夢を後生大事に守る成人男性が世界中に蔓延し、自我の温存に余念がないという時代が到来したことが唯一の理由だろう。
 食傷から身を守るには、確固とした映画観にもとずく腑分けしかない。そこで私は『トランスフォーマー』『ミュータント・タートルズ』のマイケル・ベイに汚い言葉を投げ、『アイアンマン』のジョン・ファヴローや『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のルッソ兄弟、あるいは『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』のマシュー・ヴォーンに甘すぎる依怙贔屓をしてみたのだが、それも果たしていつまでもつことやら。
 『X-MEN』シリーズの最新スピンオフ『デッドプール』は、スーパーヒーロー物やアメコミ原作物に興味のない映画観客にとっては、コスチュームさえ『スパイダーマン』と見分けがつかないだろう。スーパーヒーローのヒロイズムそのものを否定し、ミュータント手術を施した敵をただただ追いかけ回す。遅かれ早かれ、こうした内部批判的、かつメタフィジカルな異色作が誕生するのは、誰でも予想のつくことで、そんな文脈から『アイアンマン』に輝きがあったのだ。
 今回の『デッドプール』は、『アベンジャーズ』環境ではなく、『X-MEN』環境の中でアイアンマンごっこをしようとするものだ。『X-MEN』の外伝といえば誰でも思い出すのは『ウルヴァリン』だろうが、異端派を気取ってもなんだかんだ言ってジャスティスを体現するウルヴァリンとも違って、デッドプールは個人的な遺恨やリビドーによってアクションを引き起こす。ウルヴァリンは外伝の登場人物から始まり、ジェームズ・マンゴールドによる日本遠征『ウルヴァリン:SAMURAI』(2013)ではいったん味噌を付けたものの、翌年の『X-MEN:フューチャー&パスト』(2014)では一転、正規メンバーのエースに躍り出ている。
 『デッドプール』はそれら『X-MEN』のセンターポジションとはおよそ無縁な、補欠レベルの物語である。『アイアンマン』に喩えたのは、さすがに褒め過ぎかもしれない。その精神性はむしろ『テッド』にさえ近いものだ。でもポテンシャルはある。本作に登場するX-MENメンバーも、ネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドという小太りの少女と、その用心棒の垢抜けない超合金男コロッサスのみ。二人ともX-MENの中では、あまりランキングが高くなさそう。デッドプールは言う。「このプロジェクト、予算ないんだね」。シニシズムからだって、なにかの歴史が始まる可能性はある。スーパーヒーロー物の嫌いな人にこそ見てもらいたい一篇である。


6/1(水)よりTOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国ロードショー予定
http://www.foxmovies-jp.com/deadpool/

ウンベルト・エーコ 著『プラハの墓地』

2016-04-09 07:23:25 | 
 ナチスにとってホロコーストの根拠になったとされる史上最悪の偽書『シオン賢者の議定書』の成立過程を、19世紀後半ヨーロッパのさまざまな事象を張りめぐらせながら、まことしやかに解き明かした書が現れた。『プラハの墓地』(東京創元社)。さる2月19日にガンで亡くなったイタリアの記号学者・文学者ウンベルト・エーコ(1932-2016)最後から2番目の小説である(遺作『ヌメロ・ゼーロ』の邦訳は今秋刊行予定)。この邦訳本は作家の死の数日後に発売され(イタリア語原書は2010年刊)、図らずも追悼出版のような形となった。
 パリの犯罪地区に住む主人公シモニーニの自宅兼店舗に、帝政ロシアの秘密警察 “オフラーナ” の長ピョートル・ラチコフスキーが訪ねてくる。主人公シモニーニはエーコの創作だが、ラチコフスキーは実在の人物である。

「あなたは隠れ蓑として古物商を選んだ。ということは、一度使われ、売り払われたものを新品より高く売りつけるのが商売です。しかし数年前『ル・コンタンポラン』誌に、あなたのおじいさんから受け取った危険な文書を載せていますね」

 こうしてシモニーニは帝政ロシアのクライアントのために、幼いころ祖父からくり返し刷りこまれた、イエズス会神父による狭量かつきわめて保守反動的な説を元にしたホラ話めいた陰謀論をあらゆる尾ひれで粉飾し、プラハのゲットーにうずくまる共同墓地にユダヤの長老たちが夜に集まって、おそるべき世界征服の方針を議決したという報告書を執筆する。
 この小説は、エキサイティングなピカレスクロマン(悪漢小説)でもある。ガリバルディによるイタリア統一(1860)、普仏戦争とパリ・コミューン(1870-71)、ドレフュス事件(1894)など、19世紀後半のヨーロッパの重大事件に主人公のシモニーニはことごとく関与しつつ、おもに公文書偽造の分野で暗躍する。そして、主人公は社会正義、平等、平和、進歩思想、民主主義に背を向け、つねに保守反動の側につく。これが祖父の影響によるものなのかは微妙だが、現代世界がやはりどんどん保守反動へと傾斜し、狭量な原理主義的唯神論へと傾斜していくなかで、ある種異様なリアリティを持っている。
 黒魔術、近代啓蒙思想、フリーメイソン、ジャコバン派(フランス革命の主体)、イルミナティ(バイエルン啓明結社)、マルクス主義、フロイト精神分析、それらすべては、ユダヤ人がディアスポラの復讐を果たすために、世界征服の手段として編みだしたものに過ぎない、とこの小説の登場人物たちは主張する。反ユダヤ主義の台頭はこんなふうに準備されたとエーコは苦笑まじりに書きまくる。エッフェル塔の建設、地下鉄の建設さえもがすべて、ユダヤ人の陰謀なのだという。シモニーニのような反動的人物が面白いように暗躍し、虫酸の走る猛毒を世界に注入して回っている。ウンベルト・エーコの筆致は、露悪趣味の上で冴えに冴える。
 しかし、よくよく考えるなら、ガリバルディ一味を失脚させようというサルデーニャ王国の旧体制派の試みは失敗に終わり、ガリバルディがイタリア統一の英雄となっただけでなく、ナポレオン3世のフランス第二帝政も崩壊し、20世紀に入ると、ラチコフスキーの思想統制もむなしくロシアでは社会主義革命が成功する。つまり、主人公シモニーニはヨーロッパ列強のスパイ組織を渡り歩きながら高収入を享受し、パリのグルメとなったが、結局のところ彼が与した側はすべて敗れ去っているのである。小説ではシモニーニの敗走は描かれない。しかし、エーコの露悪趣味の裏の裏をかきながら読み進めるべきである。ましてや主人公は二重人格の症状を呈し、どうやらフロイト博士の治療を受けているらしいのだから、小説の地の文そのものはつねに再審に付されていくかのような疑惑と不穏さに彩られているのだ。