荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

『ほったまるびより』 吉開菜央

2016-02-27 23:59:56 | 映画
 今冬の文化庁メディア芸術祭で新人賞を受賞した、ダンサー吉開菜央(よしがい・なお)による中編映画『ほったまるびより』を、先日スーパーデラックス(東京・六本木)で見ることができた。画面には場所や人物たちが写っており、その映像がスクリーンに上映される、という点でやはりこれは一篇の映画であることには変わりがない。しかし本作は、映画であることを厭わずとも、それにとどまらぬ広がりが感じられた。
 狭義のダンス映画である。そこには台詞らしい台詞はない。田舎にある一軒の日本家屋。そこに住む歌手の少女と、家に棲みつく霊的存在としての4人の少女ダンサーたち。タイトルの「ほったまる」とは、「放っておくと溜まるもの」の略語であり、少女から出る垢、髪の毛、爪、足の裏の皮など、身体の廃物との戯れが、ダンサーたちの運動をたちあげ、ミニマルにして宇宙的な広がりが画面から横溢する。ダンサーたちのダンスは、少女の皮膚感覚、生理感覚をダイナミックに表現しつつ、微細なる分子運動であると同時に、銀河系の配列でもあり、太古の儀式のようでもある。
 今回の上映(というより上演と言った方がいいのかもしれない)は、単にこの作品がスクリーンに投影されたのではない。「自家製4DX」という、手作りの興味深い上映形式を採っていた。画面のダンサー本人たちが、映画内の衣裳そのままにスーパーデラックスに現れ、画面内で展開される舞踊が画面外に拡大される。スクリーンの付近には家具や調度品が置かれ、画面内/外が奇妙な同居をしているのである。私たち観客の周囲で香が焚かれ、私たちの周囲には白檀の香りが立ちこめていく。その時、私たち観客もまた、作品に包摂される。彼女たちの舞踊、映画のスクリーンの前に座り、あるいは立ち尽くす私たちの存在は、少女の髪の毛やかさぶたと等価となるのだ。
 これは21世紀の連鎖劇ではないか。連鎖劇とは、映画の黎明期である1910年代の日本で流行した興行形式で、演劇公演の一部、特に屋外シーンの芝居を、舞台上の演者と同じキャスティングであらかじめ撮影しておき、舞台上の芝居とスクリーン上の屋外シーンをシームレスに連結させていくものである。フォーマットが固まりきらない初期ならでは形式と言えるが、そうした折衷的な形式を軽視するのもつまらないのではないか。『ほったまるびより』は100年後に突然変異として生まれた連鎖劇である。


吉開菜央(ダンサー/映像作家)HP
http://naoyoshigai.com

『SHERLOCK 忌まわしき花嫁』 ダグラス・マッキノン

2016-02-24 01:10:43 | 映画
 キムタク主演のドラマ『HERO』は一度として見たことがないのにもかかわらず、わが盲従的なる映画至上主義によって、昨年スピンオフの映画版を見に行ったのだが、あまりのつまらなさに呆れ、その旨をきのう仕事仲間に話したら「ドラマ版は面白かったんですよ」と言われて「そんなものかな」と、しばし黙考しつつ、性懲りもなくその足で劇場に向かい、NHK海外ドラマ『SHERLOCK』(これも一度として視聴したことがない)のスピンオフ『忌まわしき花嫁』を見に行く。
 英国BBC製作の本作は、本国では正月用の特番だったそうだが、日本では劇場公開作品に格上げとなった。『HERO』に限らず、あらゆるテレビドラマのスピンオフが予想外の大ヒットを飛ばしてしまうこの日本列島でその尻馬に乗ろうという配給会社側の魂胆は見え見えである。
 ところが意外や意外、尺制限のある正月特番ゆえにきっちり90分を守った本作には、プログラムピクチャーが宿す小気味よさがあった。ふつう映画ではもはや誰もやらないディゾルヴでの場面転換やら、いかにもオシャレさを演出するタイポグラフィ(これは私もテレビ仕事では血道をあげてしまうのだが)やら、テンポのいいストーリーテリングやら、いかにもイギリス的なゴシックホラー演出やらである。そこには、現代のアメリカ映画が揃いも揃ってVFXをダラダラと垂れ流しているのとは正反対の心地よさがある。傑作だ必見だと吹聴して回るほどではないけれど、こういうのは嫌いじゃない。
 BBCドラマ『SHERLOCK』はシャーロック・ホームズとワトソン医師の活躍を現代のロンドンに置き換え、MacBookやらiPhoneやらを駆使しつつ事件を解決するシリーズなのだそうだが、『忌まわしき花嫁』では同じキャスト(ベネディクト・カンバーバッチ、マーティン・フリーマンなど)のまま、原作どおりヴィクトリア朝時代に舞台を戻している。コナン・ドイルの原作にとってはまず21世紀という未来のコスチュームプレイがドラマで試行され、この特別編ではその現代版ホームズ&ワトソンが再びヴィクトリア朝時代の衣裳に着替える。つまり、そこでは二重のコスチューム・プレイが可逆的な転倒をへており、リュミエール兄弟が映画を発明した1895年という時空と、いまここの2015年という時空が120年の隔たりを倒錯的に越境しながら、しかしそれでも、「忌まわしき」海溝がガバリと大口を開けているのである。ちなみに、この1895年という年号は映画誕生の年号であると同時に、ヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見した年であり、つまり映画と原子力は同じ年齢なのである。
 本作の前後に、脚本家によるプロダクションノート(5分)と主要キャスト・スタッフのインタビュー番組(15分)が併映される。最近TOHOシネマズの限定劇場で断続的に上映されている、ロンドンの演劇をスクリーンで見せるシリーズ企画「National Theatre Live」でも、インターミッションで似たようなオマケ映像が付いてくる。イギリスらしい心遣いで、こういうのは作品理解を助けてくれていい。


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)ほか全国で公開中
http://sherlock-sp.jp

涙ガラス制作所+中村早 二人展《Photoglass》

2016-02-19 02:49:25 | アート
 東京・西荻窪の「ギャラリーみずのそら」へ、涙ガラス制作所+中村早(なかむら・さき)の二人展《Photoglass》を見に行ってきた。私事だが、西荻窪の駅で下車したのはかれこれ20年以上ぶりになる。そのころ新人だった私は、バイダイビジュアル持ちこみの大工原正樹監督の長編映画のシナリオを依頼され、初稿か第2稿に意見してもらうために村上修さんに会いに行ったのが西荻だった。あれ以来である。なんとも映画化に向いていない原作で、この企画は残念ながら、第6稿くらいのところで立ち消えとなった。力不足を痛感した数ヶ月であった。
 そんな追憶に耽りながら西荻の通りを10分ほど歩くと、「ギャラリーみずのそら」があった。中村早さんの新作を見るためである。最近も新著『資本の専制、奴隷の叛逆』を上梓した友人・廣瀬純の前著『暴力階級とは何か』(2015 航思社)の表紙(写真1)を飾っていたのが、この女性写真家による作品だった。黒バックを背景に片照明を当てられた花卉が、妖しく、そして冷厳にその姿を留めている。往年の中川幸夫の生け花のようで、非常に感銘を受けた。池袋ジュンク堂で廣瀬君のトークイベントが催された打ち上げの際に、中村さんにはそんな簡単な感想をしゃべったりした。
 そして今回、ようやくこの作家の個展を訪れる機会が来たことになる。今回の新作「Flowers」の連作も『暴力階級とは何か』と同じモチーフの花卉写真である。言うまでもなく写真芸術は当然、二次元であるが、彼女の写真はどちらかというと彫刻のように三次元的である。花卉の顔だけでなく、脇腹や尻が写っている。いや、むしろ彫刻以上に三次元的かもしれない。先日、世田谷美術館でフリオ・ゴンサレスの20世紀彫刻を見ていて、その過度の正面性にいささか呆れてもいたから、よけいにそう思う。
 中村早の花卉写真を見ながら、私が想像したのは、宮内庁三の丸尚蔵館の伊藤若冲『梅花皓月図』のような、夜景に浮かび上がる花卉図だ。「ボタニカル・アートをいろいろ見たが、たいがいは白バックばかり。自分としてはいろいろ試してみて、やはり黒バックが一番しっくりきた」と中村さんは言う。夜の闇に浮かび上がる花という主題は、異常なまでに妖しさ、生々しさを放つ。以前に大阪の正木美術館で見た室町時代の禅僧・絶海中津が賛を寄せた『墨梅図』などは、私がもっとも愛する黒い絵である。清の蒋廷錫という人の『杜鵑』という作品も黒バックに花びらがあざやかに浮かび上がっている。これは台北の故宮博物院に見に行った《満庭芳 歴代花卉名品特展》の図録(民国九十九年刊)に出ているものだ。
 陶磁の世界にもある。宋代の磁州窯では「黒掻き落とし」の技法が異彩を放ったし、建窯の禾目天目茶碗や吉州窯の木葉天目茶碗(写真2)のように、植物の油分がそのまま天然の釉薬となって、黒陶を焼成する際に植物の像を文様に結んでいる。そんなふうに、今回見た中村早による黒バックの花卉写真の数々は、私の勝手気ままな想像を広げてやまないのである。
 新たな出逢いもあった。涙ガラス制作所によるガラス工芸である。ガラス工芸と言っても、コップや花生けのような実用品ではなく、涙とガラスを等化とした、きわめてメランコリックかつ小さなオブジェである。微細だが見過ごすことのできないガラスの涙の数々。涙ガラス制作所の涙の簾ごしに中村早の黒バックの花卉写真を見る。今回の作品群には、急死された「ギャラリーみずのそら」の女性オーナーへの追悼も込められているのだと作者の方が話してくれた。おのれの孤独と向き合う契機となる作品群だった。思いの外、長時間滞在して楽しませていただいた。

ギャラリーみずのそら(東京・杉並区)
http://www.mizunosora.com

『緑はよみがえる』 エルマンノ・オルミ

2016-02-15 23:15:45 | 映画
 ロンバルディア州出身のエルマンノ・オルミ監督は徹頭徹尾、北イタリアのアンチ地中海的な風土と共にある。同州中部の都市ベルガモで生まれ、やがて同州最大都市ミラノで活動することになる彼は、まず北イタリアの電力会社エディソンに就職し、水力発電などについてのドキュメンタリーを40本も撮っている。フランスのヌーヴェルヴァーグと同世代の彼は、やや遅れて1978年の『木靴の樹』で確固たる地位を築いた。
 しかし、私が作って1994年に中野武蔵野ホールで公開してもらった16ミリ短編に出演してくれた某イタリア人女性いわく、「エルマンノ・オルミは真のイタリアを写していない」「『木靴の樹』はイタリア映画ではない」とのことだった。われわれ外国人には見当もつかぬリアリティ論議だが、確実に言えることは、真のイタリアが描かれていようといまいと、『木靴の樹』が規格外の傑作であること、そして多少の好不調はあったにせよ、オルミが近作の『ポー川のひかり』(2006)、『楽園からの旅人』(2011)に至るまで、すばらしい映画をいまなお作り続けている、ということである。
 最新作『緑はよみがえる』は、第一次世界大戦の激戦地として知られるヴェネト州の山深いアジアーゴ高原の塹壕をもっぱら舞台とする。大戦末期の雪深いこの地で、兵士たちの体力、気力は限界に来ている。南イタリアのナポリ出身の陽気な兵士がカンツォーネを朗々と歌いあげ、敵のオーストリア帝国軍の兵士からも喝采の声が飛ぶシーンで、いきなり惹きつける。美に対する感受性が、敵と味方を結びつける。ジャン・ルノワール『大いなる幻影』(1937)のごとき人間性の謳歌であったが、それは長くは続かない。
 あとは、食糧配給、内地からの手紙、本部による理不尽な作戦命令、敵からの一斉砲火、塹壕爆発と、精神的なショックが延々と続く。塹壕の受難についての映画、敗走についての映画。つまり戦争映画によくある、占領地の中心に自国の国旗を打ち立てるとか、そんな痛快なものはいっさい写っていない。逃げ道のない恐怖と悲しみが、登場人物たちをひたすら痛めつける。そして、「戦争映画は活劇だ」みたいなことを得意げに吹聴する輩のクリシェを、本作は静かに撃つだろう。


4/23(土)より岩波ホール(東京・神田神保町)で公開予定(旧作『木靴の樹』も3/26よりリバイバル公開予定)
http://www.moviola.jp/midori/(緑はよみがえる)
http://www.zaziefilms.com/kigutsu/(木靴の樹)

『ブラック・スキャンダル』 スコット・クーパー

2016-02-13 01:37:30 | 映画
 昨年『ラン・オールナイト』で高い筆力を発揮したシナリオライター、ブラッド・イングルスビーの脚本デビュー作『ファーナス 訣別の朝』(2013)は、彼の故郷ペンシルヴァニアの不況に苦しむ鉄鋼の町を舞台とする犯罪映画の佳作だったが、その『ファーナス』で名を上げたのは脚本のイングルスビーばかりでなく、『クレイジー・ハート』(2009)で監督デビューした脇役俳優出身のスコット・クーパーもまた、次代をになう人材として覚えておいていいのかもしれない。
 スコット・クーパーは実録マフィアものとなった今回の監督最新作『ブラック・スキャンダル』で持ち味を発揮しようと試みる。一見して分かるのは、クーパーが自作に安直な映画的美学を持ちこまぬこと、そして非情な画面作りに徹することである。彼はいわゆる日本で言うところの任侠映画を作ろうとは考えていない。起こった事柄を無愛想に並べ立て、彼らの生きざまを冷淡に写し出す。昨年のマフィア映画の佳作2本『ラン・オールナイト』『ジョン・ウィック』が醸す任侠映画的な美学とは、本作は無縁である。あえて言うなら、『プリンス・オブ・シティ』(1981)、『評決』(1982)、『デストラップ 死の罠』(1982)と連作していた時代のシドニー・ルメットに近いように思える。
 イタリア系マフィア組織と抗争を演じるアイルランド系ギャングの親分(ジョニー・デップ)、そして彼の幼なじみのFBI捜査官(ジョエル・エドガートン)、親分の弟の州議会議員(ベネディクト・カンバーバッチ)、この3人の危うい親愛と忠誠心、結託のしくみが最後の最後まで温存される。いろいろな惨劇、悲劇は起こるが、その忠誠心だけは傷つくことを拒絶する。善悪の判定もなく、状況による思い直しもなく、彼らは悲愴な覚悟でおのれの義侠心と心中する。ところが、そこには美はない。見返りとしての多少の富と、量刑の甘受があるのみである。
 大西洋に面するボストン市内南部に巣くうアイルランド系住民それぞれの生の一本道を、突き放した態度で映画にした。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』『007スペクター』の共同脚本も手がけたジェズ・バターワースがこの冷酷なシナリオをマーク・マルークと共同で書き上げ、監督の前作『ファーナス 訣別の朝』だけでなく、『THE GREY 凍える太陽』(2011)や、ジェニファー・ローレンスにアカデミー主演女優賞をもたらした『世界にひとつのプレイブック』(2012)の撮影も担当し、評価を高めるマサノブ・タカヤナギ(高柳雅暢)が、今回も1970年代、80年代、そして90年代それぞれのボストンの(大学街の一般的イメージとはおよそ無縁な)禍々しく空々しい表情をハードボイルドに切り取って見せている。


TOHOシネマズ日本橋(東京・三越前)ほか全国劇場で公開中
https://warnerbros.co.jp/c/movies/blackmass/