今冬の文化庁メディア芸術祭で新人賞を受賞した、ダンサー吉開菜央(よしがい・なお)による中編映画『ほったまるびより』を、先日スーパーデラックス(東京・六本木)で見ることができた。画面には場所や人物たちが写っており、その映像がスクリーンに上映される、という点でやはりこれは一篇の映画であることには変わりがない。しかし本作は、映画であることを厭わずとも、それにとどまらぬ広がりが感じられた。
狭義のダンス映画である。そこには台詞らしい台詞はない。田舎にある一軒の日本家屋。そこに住む歌手の少女と、家に棲みつく霊的存在としての4人の少女ダンサーたち。タイトルの「ほったまる」とは、「放っておくと溜まるもの」の略語であり、少女から出る垢、髪の毛、爪、足の裏の皮など、身体の廃物との戯れが、ダンサーたちの運動をたちあげ、ミニマルにして宇宙的な広がりが画面から横溢する。ダンサーたちのダンスは、少女の皮膚感覚、生理感覚をダイナミックに表現しつつ、微細なる分子運動であると同時に、銀河系の配列でもあり、太古の儀式のようでもある。
今回の上映(というより上演と言った方がいいのかもしれない)は、単にこの作品がスクリーンに投影されたのではない。「自家製4DX」という、手作りの興味深い上映形式を採っていた。画面のダンサー本人たちが、映画内の衣裳そのままにスーパーデラックスに現れ、画面内で展開される舞踊が画面外に拡大される。スクリーンの付近には家具や調度品が置かれ、画面内/外が奇妙な同居をしているのである。私たち観客の周囲で香が焚かれ、私たちの周囲には白檀の香りが立ちこめていく。その時、私たち観客もまた、作品に包摂される。彼女たちの舞踊、映画のスクリーンの前に座り、あるいは立ち尽くす私たちの存在は、少女の髪の毛やかさぶたと等価となるのだ。
これは21世紀の連鎖劇ではないか。連鎖劇とは、映画の黎明期である1910年代の日本で流行した興行形式で、演劇公演の一部、特に屋外シーンの芝居を、舞台上の演者と同じキャスティングであらかじめ撮影しておき、舞台上の芝居とスクリーン上の屋外シーンをシームレスに連結させていくものである。フォーマットが固まりきらない初期ならでは形式と言えるが、そうした折衷的な形式を軽視するのもつまらないのではないか。『ほったまるびより』は100年後に突然変異として生まれた連鎖劇である。
吉開菜央(ダンサー/映像作家)HP
http://naoyoshigai.com
狭義のダンス映画である。そこには台詞らしい台詞はない。田舎にある一軒の日本家屋。そこに住む歌手の少女と、家に棲みつく霊的存在としての4人の少女ダンサーたち。タイトルの「ほったまる」とは、「放っておくと溜まるもの」の略語であり、少女から出る垢、髪の毛、爪、足の裏の皮など、身体の廃物との戯れが、ダンサーたちの運動をたちあげ、ミニマルにして宇宙的な広がりが画面から横溢する。ダンサーたちのダンスは、少女の皮膚感覚、生理感覚をダイナミックに表現しつつ、微細なる分子運動であると同時に、銀河系の配列でもあり、太古の儀式のようでもある。
今回の上映(というより上演と言った方がいいのかもしれない)は、単にこの作品がスクリーンに投影されたのではない。「自家製4DX」という、手作りの興味深い上映形式を採っていた。画面のダンサー本人たちが、映画内の衣裳そのままにスーパーデラックスに現れ、画面内で展開される舞踊が画面外に拡大される。スクリーンの付近には家具や調度品が置かれ、画面内/外が奇妙な同居をしているのである。私たち観客の周囲で香が焚かれ、私たちの周囲には白檀の香りが立ちこめていく。その時、私たち観客もまた、作品に包摂される。彼女たちの舞踊、映画のスクリーンの前に座り、あるいは立ち尽くす私たちの存在は、少女の髪の毛やかさぶたと等価となるのだ。
これは21世紀の連鎖劇ではないか。連鎖劇とは、映画の黎明期である1910年代の日本で流行した興行形式で、演劇公演の一部、特に屋外シーンの芝居を、舞台上の演者と同じキャスティングであらかじめ撮影しておき、舞台上の芝居とスクリーン上の屋外シーンをシームレスに連結させていくものである。フォーマットが固まりきらない初期ならでは形式と言えるが、そうした折衷的な形式を軽視するのもつまらないのではないか。『ほったまるびより』は100年後に突然変異として生まれた連鎖劇である。
吉開菜央(ダンサー/映像作家)HP
http://naoyoshigai.com