荻野洋一 映画等覚書ブログ

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加藤治子 著『ひとりのおんな』

2016-01-31 13:13:12 | 
 昨年の11月2日、92歳で死去した女優・加藤治子(1922-2015)のインタビュー本『ひとりのおんな』(1992 福武書店刊)を、古書で入手して読んでみた。聞き手は、向田邦子ドラマで共闘したディレクターの久世光彦。久世は加藤より一回り年下だが、2006年、一足先に鬼籍に入っている。この人も素晴らしい演出家だった。そして、この本の版元であり、かつては文芸誌「海燕」も出していた福武書店も今はもうなく、教育・就職情報のベネッセ・コーポレーションへと業態転換している。
 最後に見た加藤治子の姿は、山田洋次『おとうと』(2010)における吉永小百合の姑役だったか。非常に高齢まで現役を貫き、いつまでも美しく色気のある女優さんだった。向田邦子脚本のドラマ『阿修羅のごとく』(1979)を見ていて、寝間着姿の加藤治子がパアッと赤ワインを障子に投げつける瞬間のするどい色香を、少年の私はドキドキして見つめたものだ。あの色香は、夫に若くして自殺されたという彼女の来歴から来るものだと、ずっと思ってきた。若くして自殺した劇作家・加藤道夫(1918-1953)の影を、現場の第一発見者である加藤治子はずっと引きずってきた。久世は本書の聞き手をつとめるにあたり、遠慮をかなぐり捨てている。
久世「でもこうやってうかがっていると、やっぱり道夫さんのことは四十年、ずっと治子さんが今日まで引きずっている。水をいっぱい吸った砂袋みたいなんですね」
治子「そうですね。考えてみれば、捨てようとして捨てきれるものでもないし、そんなこと思ったこともないし、かといってそれが重荷で坐り込むわけにもいかないし……。私の身体の一部みたいなものでしょうね。(中略)いかだの上に後生大事に、家財道具みたいにつまらないものもみんな乗っけているのよねぇ。それで、いったいどこへ行くのでしょう……」
 加藤治子のあの異常なまでの色気、業の深さは、孤独の影ということになる。
治子「長い戦争があって、それが終わり、三人(加藤治子、加藤道夫、芥川比呂志という新演劇研究会のメンバー3人のこと──引用者注)がまた出会えたときが、私の人生の中で一番幸せだったような気がします。(戦地から婚約者の)道夫が帰ってきた夏、芥川さんが当時住んでらした鵠沼で芝居をすることになり、昼間はチェーホフの『熊』を学校の講堂でやり、夜は海岸を散歩しました。砂の上に身体を横たえると大きな夜空に光っている星の中に吸い込まれていくようでした。私達はこうしてまた会えた。ほら、手をのばせばそこに本当にいる。戦争は終わった。これから私達は芝居をやって生きてゆける。そう思うと嬉しくて誰にお礼を言っていいかわからなくて、私、月の光の中を、波打ち際を何か叫びながら、どこまでも走りました。もうするしかなかったんです」
 素晴らしい女優の青春、悲運、孤高、そして死──。これほどおのれの道をまっとうした役者もそうはいまい。彼女は、戦前東宝の名匠・石田民三監督の『花つみ日記』(1939)で、高峰秀子の女学校の同級生役としてデビューしている(当時の芸名は御舟京子)。言わば石田民三ゆかりの最後の生き残りだった。加藤治子が元気なうちに石田民三のことを訊いておいた方がいいと、私は一度ならずと拙ブログなどで主張してきた。それは、空しい掛け声に終わった。

アンドレ・バザン 著『オーソン・ウェルズ』

2016-01-26 23:04:26 | 
 フランスの有名な映画評論誌「カイエ・デュ・シネマ」の創刊者アンドレ・バザンの、これまで邦訳されていなかった『オーソン・ウェルズ』(1950)が、原書の刊行からなんと65年後にしてようやく陽の目を見た(堀潤之訳 インスクリプト 刊)。
 ただ、今回の邦訳刊行が遅きに失しているかというと、その熟慮の上の編集方針にかんがみて、この遅延は賢明なものだったとさえ思える。これまで世界各国語に翻訳されてきた同書は、彼の弟子にあたる映画作家フランソワ・トリュフォーの監修による1972年版が出回っている。しかし、今回の邦訳は改訂前の1950年版。どんな違いがあるかというと、まるで違うのだと本書巻末の訳者解説に詳述されている。
 1950年版は当然、それ以前のウェルズの作品──『市民ケーン』『偉大なるアンバーソン家の人々』『恐怖への旅』『ザ・ストレンジャー ナチス追跡』『上海から来た女』『マクベス』──までしか言及の対象となっていない。いっぽう、その後にアメリカで刊行されたウェルズの評伝を参照し、部分的には筆写した上で、それ以後の作品に対する言及もまじえつつ増補改訂したものが、1972年版として現在、フランス本国をふくめて流布している。しかし訳者解説によれば、1972年版は内容的にかなり薄められたものであり、バザンの批評的な実力が必ずしも発揮されておらず、ウェルズ作品に対する洞察という点では1950年版の方がはるかに内容が濃いという。もしその通りなのだとすれば、遅延された受け手であるわれわれは一発逆転、世界でも数少ない幸運な真のバザンの読み手たり得るわけである。
 それだけではない。同時代に世に問われた、ウェルズをめぐるフランスにおける重要な批評が本書には収められており、それによってスリルが増した。1950年版にもあったジャン・コクトーによる序文はもちろん、ウェルズ映画を、生意気な若造による使い古された奇抜な手法の品評会だと手厳しく非難したジャン=ポール・サルトルの「レクラン・フランセ」誌に掲載された記事、そしてジョルジュ・サドゥールによる「ラ・レットル・フランセーズ」誌の記事が追加され、ついでロジェ・レーナルトとバザンによるウェルズ擁護の記事が続く。
 こんにち興味深く思われるのは、レーナルトとバザンの文体がどことなく、論敵のサルトルやサドゥールに似かよっている点である。レーナルトとバザンは、のちのヌーヴェルヴァーグの連中にとって兄貴筋にあたるはずであるが、戦中派のレーナルトとバザンとは違って、ゴダールやトリュフォーら「カイエ・デュ・シネマ」につどった血気盛んな若造どもは、いわばアプレゲールであって、バザンはヌーヴェルヴァーグの生みの親かもしれないが、そこには否定しようもない溝がある。しかしこの溝がおもしろくもあるのだ。ゴダール、トリュフォーの文章が攻撃的なら、バザンの文章は防御的である。呪われた映画に対する救命道具たろうとする悲愴な使命感が、バザンの文章をヌーヴェルヴァーグ的な痛快さから隔てる。
 今から1年くらい前に「週刊読書人」紙上で蓮實重彦と伊藤洋司がバザン批判、ドゥルーズ批判の対談をおこなっていて、あれはあれでおもしろくはあったが、あの対談を鵜呑みにして、バザンなんてダメだなどと早合点することほど愚かなことはない。溝をおもしろがる方がいい。ウィリアム・ワイラーを顕揚するあまり、ジョン・フォードの偉大さについての理解が不十分だなどという指摘は、選択の倫理性を楯にした言いがかりで、いやむしろそういう言いがかりをつけて批評を活性化したいだけなのである。それに対するわれわれ受け手が取るべきリアクションは、単なる鵜呑みであってはならない。本書は、同時代の横糸を的確に提示したことにより、スリリングな読書体験、批評体験が約束される。そしてその体験が、現在と隔絶されているとはとうてい思えないのである。

『モヒカン故郷に帰る』 沖田修一

2016-01-22 23:26:27 | 映画
 松田龍平を起用して、コミュニケーション不全のアスペルガー的主人公をずるずるべったりな共同体の中に投げ込む、というモティーフがNHKドラマ『あまちゃん』以後、続いている。石井裕也『舟を編む』(2013)、松尾スズキ『ジヌよさらば』(2015)がそうだったし、今回の新作『モヒカン故郷に帰る』もそうである。
 松田龍平の父親を演じる柄本明がすさまじく、これほど狂った柄本明を見るのはいつ以来か。山田洋次が新作『母と暮せば』で吉永小百合に死体を模倣させてやまず、こんな倒錯性が山田洋次にあったのかと見る者を吃驚させた。84歳の山田洋次よりさらに20歳以上も年上のマノエル・ド・オリヴェイラも、『アンジェリカの微笑み』でピラール・ロペス・デ・アジャラを寝台に横たわらせ、死体を演じさせている。死体、死体。出来すぎではないかと疑わしくも思うが、『モヒカン故郷に帰る』の柄本明も死体としての横臥を反復する。そして鈴木清順の映画におけるがごとく、おのがじし肉体を完璧にゴム人形のように変容させるのだ。
 その柄本明の変容過程を、息子の松田龍平と前田敦子のバカップルがニヤニヤしながら囃し立てる。惜しむらくは前田敦子の役柄で、『モヒカン故郷に帰る』が『カルメン故郷に帰る』(1951)のパスティーシュなのだとすれば、モヒカンの松田龍平は、故郷に帰るカルメン・高峰秀子で、前田敦子はカルメンに付き従ってくる小林トシ子ということになる。だとすれば、田舎の素朴な食事に耐えていたらしい小林トシ子が東京に帰るラストシーンで「ああ、ワンタン食べたい!」と実感を込めた台詞を吐いていたが、前田敦子にもあれくらいに強烈な台詞を用意してあげてもよかったのではないか。小林トシ子のあのワンタン発言が、田舎の牧歌性礼讃の建前を一発で吹き飛ばしていたのである。ただし、どんな田舎にもラーメン屋くらいは存在する現代では、そもそも成立しない台詞ではある。
 息子の帰郷に、そのカノジョが同伴するというシナリオは、おそらく監督自身の旧作『横道世之介』(2012)から思いついたものだろう(最近ではゲス&ベッキーがその例として有名)。松田龍平+前田敦子カップルは高良健吾+吉高由里子カップルの後継だと言える。故郷が離島である点も共通する。ライオンズファンの父親(きたろう)が今回、カープファンの柄本明となる。『横道世之介』の域にふたたび到達するのは簡単ではないはずだが、沖田修一にはぜひ頑張ってもらいたい。


3/26より広島県先行公開、4/9より全国拡大公開
http://mohican-movie.jp

『白鯨との闘い 3D』 ロン・ハワード

2016-01-17 12:46:07 | 映画
 この映画は、まだデビューしたばかりの小説家ハーマン・メルヴィルが1850年代のある晩、マサチューセッツ州の船宿に元漁師を訪ね、金銭をはずんで小説の元ネタを求めるところから始まる。これがのちの『モビー・ディック(白鯨)』である。漁師の経験談が小説となり、映画となる。物語の内容は純然たる海洋ロマンであるが、これを受容するわれわれ21世紀の観客は何を受け取るべきなのか。聖なる怪獣モビー・ディックの前にあえなく敗走する漁民たちの無残を通じて、日本やノルウェーなどの現代に残存する捕鯨国に圧力をかけたいのか。それとも、反捕鯨のオピニオンを形成する側がとっくに拭い去ったかに見える、過去の罪状を告発するものなのか。
 1975年の『ジョーズ』に端を発し、同じくピーター・ベンチリー原作の『ザ・ディープ』(1977)、あるいはエンニオ・モリコーネの堂々たる劇伴以外は『白鯨』の稚拙な焼き直しに終わったリチャード・ハリス主演の『オルカ』(1977)など、1970年代に海洋ロマンが流行った時期があった。そんな傍流的映画史の上に、ロバート・ゼメキス『キャスト・アウェイ』(2000)、アン・リー『ライフ・オブ・パイ』(2013)など近年のVFX技術による精緻な遭難ものの成果を付け合わせて、今回の一大パニック叙事詩を、名手ロン・ハワードが作りあげた。
 何よりすばらしいのは豪快な撮影であるが、前作『ラッシュ プライドと友情』(2014)に引き続き、アンソニー・ドッド・マントルが撮影監督をつとめる。『スラムドッグ$ミリオネア』ほかダニー・ボイル作品、『アンチクライスト』ほかラース・フォン・トリアー作品でも知られるイギリス出身のマントルが、苛酷な試練に遭う捕鯨船エセックス号の船体を微に入り細に入り撮りまくる。そして水しぶきをかぶって悲鳴を上げる船舶の部分を切り出して見せる。嵐や海獣の襲来。3D画面に食い入る私たちは、監督のロン・ハワードになり代わり、「もっと回せ!」と甲板上の撮影クルーたちに命じてまわるだろう。カットの連鎖は『ラッシュ プライドと友情』の、富士スピードウェイにおける大雨のレースと同じような緊迫感を醸す。
 本作は、いまなお続く商業捕鯨に対する叱責というよりも、鯨油~石油~原子力と変遷してきたエネルギー供給のヘゲモニーを、象徴主義的に再提示したものであろう。幕末日本にペリーの黒船が来航したのも、もともと捕鯨産業の補給基地欲しさゆえだったではないか。作品の中盤で、主人公たちの乗る捕鯨船エセックス号が火事につつまれ、焼け落ちていく。絶対的価値観が崩落していくのを、人間はただ眺めるばかりである。エネルギーの終焉が画面に描かれる。つまり、エセックス号の崩落は、チェルノブイリと福島第一なのだ。われわれはそれを呆然と眺める。クリス・ヘムズワースとベンジャミン・ウォーカーの2人と共に、金鉱や油田など、アメリカ映画史における一攫千金を狙う男どもの果てなき夢、そして古典的な呉越同舟とが辿られたのち、現代に通じる示唆的な後日譚に続く。それを見届けるべきだろう。


1/16(土)より丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)ほか全国で公開
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『アンジェリカの微笑み』 マノエル・ド・オリヴェイラ

2016-01-14 23:37:16 | 映画
 大雨の夜、突然に呼び出された若者イザーク(リカルド・トレパ)は、町の有力者の城館に連れて行かれ、城の女主人(レオノール・シルヴェイラ)に求められるまま、ある被写体にむけてカメラを構える。その被写体は、城館の美しき令嬢アンジェリカ(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)。ロペス・デ・アジャラはポルトガルの女優ではなく、スペイン出身。『シルビアのいる街で』に引き続き、男性の欲望の視線を独占する役だ。しかも今回は最初から死んでおり、死体役である。なぜこの令嬢が死んだのか、その理由さえ説明されない。ただ彼女は死体としてその城館に寝かされ、美しく着飾っている。まるで生け花のように、残酷なる鑑賞の対象となっている。
 それにしても、なぜこの主人公が選抜されたのか。はじめこの若者が城館に到着したとき、尼僧である死体の姉はこの若者の「イザーク」というユダヤ名を聞くや、顔を曇らせ、そんな経験を何度となくしている彼は「信仰の違いにはこだわりはありません」と答え、相手を懐柔する。スペイン、ポルトガルに残存したユダヤ人「セファルディム」という単語が飛び出す。そんな単語の行き来が静かなる号令になったのか、イザーク青年、彼の構えるカメラのファインダ、着飾ってオブジェと化したアンジェリカのあいだに、霊的な現象が作動してしまう。この3点が織りなすメタモルフォーズこそ、映画そのものの変奏である。
 イザーク青年が見る甘美なる悪夢、彼女の幽霊にいざなわれるがまま、彼は手と手を携えて中空を飛び回り、ドウロ川の水上を、胡蝶のごとく飛び回る。イラストレーターの宇野亞喜良は、このシーンを評して「シャガールの絵みたいでもあり、ちょっとクリムトのようでもある」と書いている。たしかにシャガールやクリムトにこのイメージはある。私が最初に想起したのは、『児雷也』の尾上松之助が姫を賊から奪還して空を飛び回る、映画芸術の黎明期に見た、原初的な夢魔である。アンジェリカの名を虚しく叫びながら目覚めたイザークは自問する。「これが話に聞く絶対空間なのか?」と。絶対空間とは何か? 絶対空間とは映画そのものであろう。
 絶対空間とは幸福な場所であろうか。どちらかと言えば、身を滅ぼすような抜き差しならぬイメージの迷宮かもしれない。だからこの、あいかわらず悪い冗談のごとく人を食ったオリヴェイラ映画『アンジェリカの微笑み』は、見る人を残酷に選別する。執着する対象と手と手を携えて「あっちの世界」に行ってしまうことを、その喪失をよしとする、そんな不遜な心構えの人にこそ、この映画は開かれ(イザーク青年が泊まる下宿の窓が、つねに開放されていたように…)、差し向けられている。選ばれし人々よ、どうぞ遠慮なく夢想の翼を広げ、孤高なるアヴァンチュールと共に破滅せられよ!


Bunkamuraル・シネマ(東京・渋谷東急本店)ほかにて公開中
http://www.crest-inter.co.jp/angelica/