荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『中原昌也の人生相談 悩んでるうちが花なのよ党宣言』

2015-06-29 00:41:07 | 
 かなり下品な映画『酒中日記』(2015)を見ればいかんともし難く明らかになってしまうのは、文壇のあらゆる名士たちに比して、ひいき目でなく中原昌也の上品さがきわだつことだ。傍若無人と自暴自棄、狂犬呪詛のかたまりのごとく思われている中原昌也であるが、そしてそれもあながち間違いでもないのだろうが、もうひとつの顔──そしてそれがより重要な要素なのだ──は、風まかせのつつしみ、そして愛くるしいような忽然たるオト(=コトバ)のダイナモである。
 中原昌也からこのたび、新書サイズの本が現れた。タイトルは『中原昌也の人生相談』。「これは何かの冗談だ」誰もがそう思うだろう。発行元のリトルモア社の仕かけはたしかに悪い冗談かもしれない。だけどそんなこと、送り手はみな最初から分かっている。どこから集められたとも知れぬ、へんてこな質問の数々がすばらしい。いま、バッターボックスにいる打者はアクが強い。だからバッティングピッチャーもくせ者でなければならない。
 びっくりするほどすがすがしい一冊である。ジョン・カサヴェテス『こわれゆく女』ラストの、長い苦悶の夜のあとの朝焼けのごとくすがすがしい。中原昌也がファスビンダー映画の座付き作曲家ペーア・ラーベンの魅力について、一冊かけてしゃべり倒す、というのをこの新書シリーズの第2弾に希望したいところである。

(相談例)
Q- 落ち込んだとき、回復するためにする定番の方法はありますか? (サウナ従業員・42歳・男)
A- (前略)昔は散々な目に遭ってとことん落ち込んで、安定剤とジャック・ダニエルをがぶ飲みしたこともありましたけど、何も解決しなかったな。酒と薬に頼るのが一番ダメだ。(中略)バッハを聴く。バッハは深い悲しみも喜びも何も表していないから。音の起伏はただの模様でしかないと思えて、気持ちをフラットにしてくれるんです。僕はずいぶんバッハに救われたかもしれません。

Q- 貧乏から抜け出したい、というハングリー精神で生きていった方がいいのか、それとも貧乏なりに楽しみを見つけて生きていくのがいいのか。フリーランスの34歳が身につけるべき態度とはいったいどのようなものなのでしょうか? (ライター・34歳・女)
A- (前略)結局その両極端しかないんですかね。第三の道はないのかなあ。そういうことから解放されるために、映画や音楽や文学があると思うんですがね。(後略)

『誤発弾』 ユ・ヒョンモク(兪賢穆)

2015-06-28 01:26:32 | 映画
 韓国文化院(東京・四谷)で一週間にわたって開催された〈1960・70年代日韓名作映画祭〉は、開幕日に『糞礼記』(1971)、会期最終日に『誤発弾』(1961)と、まさにユ・ヒョンモクに始まり、ユ・ヒョンモクに終わったイベントであった。両ユ作品以外では、シン・サンオク『ロマンスパパ』(1960)、既見作品ではハ・ギルチョン『馬鹿たちの行進』(1975)を再見したもののイ・ジャンホ『星たちの故郷』、キム・ギヨン『下女』は回避した。イ・マニの遺作『森浦への道』(1975)をスケジュールの都合で逸したのは痛かった。生きているうちに『森浦への道』を見る機会は再びやって来るだろうか? たとえば私が最初に『馬鹿たちの行進』を見た時から現在までの年数を、私がこれから生きるとは思えないから…。
 ユ・ヒョンモクク(兪賢穆 1925-2009)の『誤発弾』は、朝鮮戦争の帰還兵たちがソウルでの市民生活に適応できない、そういう男たちがバーのような雀荘のようなところでうだうだしている、そのメランコリーで胸が痛くなってくる。彼らはひがな一日を酒に酔ったまま過ごし、定職に就く者は誰もいない。彼らのうちの一人に恋をした娘にもメランコリーが伝染し、売春婦に身をやつしていく。この娘の兄は安月給のサラリーマンで、母は狂気の世界に生きている。兄嫁は分娩時に出血多量で死ぬ。弟の帰還兵はずさんな銀行強盗を試み、失敗する。
 母が狂い、弟が銀行強盗で逮捕され、妹が売春に走り、妻が産婦人科で死ぬ。安月給のサラリーマンの身にいっぺんに降りかかる不幸の連鎖。「いくらなんでもこんなことある?」という疑問は、観客の誰もが抱くだろうが、それにしてもユ・ヒョンモクの、不幸に絡めとられるにまかせた、集中したマゾヒズムに呆気にとられたまま、眺めることしかできない。
 留置された弟に面会するために警察署に行き、妻の死顔に会うためにソウル大学病院の霊安室に行ったあと、彼はなぜか、ずっと痛んでいた親知らずを抜歯するために歯科医に行く。彼はタクシーに乗車して警察署に戻ってみたり、ソウル大学病院に戻ってみたり、行き先が定まらない。タクシー運転手が言う「誤発弾みたいな客だ」というセリフ。それはまるで、ロベルト・ロッセリーニの悲愴なる傑作『ドイツ零年』(1948)ラスト、父を殺してしまった主人公の少年のあてどない絶望的なベルリン徘徊を思い出させるものだった。


韓国文化院(東京・四谷)の〈1960・70年代日韓名作映画祭〉にて上映
http://www.koreanculture.jp/

驚くべきドラッカー・コレクション

2015-06-26 23:55:00 | アート
 先日NHKの『日曜美術館』でピーター・F・ドラッカー(1909-2005)のコレクションが来日中であることを特集していた。あの『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの~』のドラッカーである。マネジメント理論の帝王が日本美術の熱狂的なコレクターだと、今回初めて知った。しかも番組でコレクション作品を確認するかぎり、どうやらそうとう眼が高い。
 帝王は生前、マネジメント・セミナーで経営者たちを相手に玉畹凡芳(ぎょくえん・ぼんぽう)のすばらしさを力説したりして受講者を煙に巻いたのであろうか? だとしたら、さぞ痛快な光景だったろう。往時こそ経営者は茶人であったり、美を分かる傑物も多くいたが、いまの経営者に玉畹凡芳のすごさを理解できる人間はどれほどいるのだろうか? 数年前、私は自分の演出したビデオ作品の後援者だった某有名製薬会社の社長と台本チェックのために会ったのだが、南方熊楠も知らぬ蛮人だったのを思い出す。

 千葉市美術館で開催中の〈ドラッカー・コレクション〉は、ドラッカー初来日の1959年以降、死ぬまで飽きることなく続いた日本美術蒐集が、度肝を抜くレベルであることを証明する。コレクションは大きく分けて3つある。室町水墨画、禅画、そして江戸文人画の3ジャンルである。これに少々の伊藤若冲と琳派、人物画、花鳥画が加わる。今回来日した室町水墨画にはびっくりさせられた。彼の鑑識眼(と、もちろん購買力)もさることながら、優れた助言者たちが彼の周囲にいたことは明らかだ。雪村、秋月等観、等碩、周耕など有名無名の雪舟の弟子たちの作品。私も知らない画家の名前がたくさん出てくるので、興奮を禁じ得ない。そして雪舟の愛弟子、如水宗淵(じょすい・そうえん)。この人は修行を終えて去るときに『破墨山水図』(国宝 東京国立博物館)を雪舟の手から餞別として受け取った人物なのである。
 そして鉄舟徳済、玉畹梵芳など夢窓派の禅僧画家たち。白隠和尚や仙などの禅画もいっぱいある。そして、江戸文人画。谷文晁の『月夜白梅図』はすばらしい傑作で、こんなものがアメリカに流れてしまったのだなと。久隅守景なんて、これまで『納涼図屏風』(国宝 東京国立博物館)に匹敵する絵を見たことがなかったのだが、今回何枚か見ることができて、やっぱりすごい人だったのだと再認識した。
 そのほか池大雅、浦上玉堂、木村兼葭堂、そして先日サントリー美術館(東京・乃木坂)でレトロスペクティヴをやったばかりの与謝蕪村(画家としての)、それから出光美術館(東京・丸の内)で没後180年展がはじまったばかりの田能村竹田(たのむら・ちくでん)など、本展は質量ともに賞讃に値する。私の力量ではこれらを手短に紹介することができない。上記の画家たちの幾人かについては、折にふれ拙ブログで取りあげてきたので、もしよければ右上の検索窓(PCのみ)にて名前をサーチしていただきたい。とにかく、よくもこんなにいい物ばかり集めたものだと、ただただ感心するしかない。


〈ドラッカー・コレクション〉は千葉市美術館で6/28(日)まで
http://www.ccma-net.jp/

『馬鹿たちの行進』 ハ・ギルチョン(河吉鐘)

2015-06-21 11:48:59 | 映画
 37歳で夭折した韓国の映画作家ハ・ギルチョン(河吉鐘 1941-1979)の代表作『馬鹿たちの行進』(1975)を、学生時代以来久しぶりに再見した。37歳での死というのはまさにライナー・ヴェルナー・ファスビンダーと同じ享年であるが、その作風もどこか共通する点もなくはない。狂騒感とその裏腹の倦怠感。合コンで知り合った大学生カップルたちの愚行を追った『馬鹿たちの行進』は、単なる明朗快活な青春映画ではない。UCLA映画学科でフランシス・F・コッポラの後輩学生だったハ・ギルチョンによる、1970年代の閉塞せる韓国社会の自画像である。泥酔した大学生が帰りそびれて警察に逮捕されるという、他の国では見られない珍しい戒厳令の様子がリアルタイムで描かれる。
 主人公の大学生ピョンテと合コンで知り合った女子大生ヨンジャの恋の進展は、はかばかしくない。泥酔に終わるダブルデート、ミスで敗れるサッカー大会、学部対抗のイッキ飲み大会など、大学生の滑稽な日常がさしたる脈絡もなく語られ、最後には親友の自殺、徴兵による主人公の入隊で、青春の時間は不意に終わりを迎える。検閲でめった斬りにされた本作だが、それでも「社会の矛盾が遠回しに表現された」とも評された。ハ・ギルチョンに関する秀逸な言及は、四方田犬彦の『われらが〈他者〉なる韓国』にあったか、それとも『リュミエールの閾』だったか。私は大学生当時、その文章を熱狂しながら読んだ思い出があるが、現在は両書とも手元にはない。それにしても、本作に写るソウルの街並みは、とても現在のソウルと同じ街とは思えないほどみすぼらしい。本作の続編にしてハ・ギルチョンの遺作となる『ピョンテとヨンジャ』(1979)もいつかまた、再見できる日が来るだろうか?
 この『馬鹿たちの行進』『ピョンテとヨンジャ』は共にチェ・イノ(崔仁浩)の原作・脚本である。チェ・イノはまた、1980年代の韓国映画をリードしたペ・チャンホ監督の『鯨とり コレサニャン』『ディープ・ブルー・ナイト』『天国の階段』の原作・脚本家でもある。民主化以前の鬱々たる韓国の青春映画ジャンルは、チェ・イノなくして語れまい。
 ついでに言い足しておくと、イム・グォンテクの傑作で、韓国映画史上の傑作でもある『族譜』(1978)で主人公の日本人役人を演じた俳優のハ・ミョンジュンは、ハ・ギルチョンの弟である。ミョンジュンは兄の死後、兄の遺志を継いで監督に進出している。世代交代の波が苛酷で、ベテラン監督がすぐに過去の遺物扱いを受けてしまう韓国映画界で、今なおかろうじて活動し得ている数少ない人だが、傑作の誉れ高い『胎(テ)』(1985 ビデオ邦題『愛に流されて』)は残念ながら未見である。韓国文化院への要望として、こんどはこのハ兄弟の特集をやっていただきたい。


韓国文化院(東京・四谷)の〈1960・1970年代日韓名作映画祭〉にて上映
http://www.koreanculture.jp/

『三里塚 五月の空 里のかよい路』 小川紳介

2015-06-19 00:29:35 | 映画
 総括ならざる総括。終焉ならざる終焉。この映画がなぜこれほど悲惨なのかというと、人生に、人生の中のありふれた別離に、あまりにも似すぎているためではないか。
 『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968)から始まるかくも熱き三里塚のドキュメンタリーも、もはや片手間のような様相を呈している。小川プロダクションはそのころ、「寿」班と「山形」班に分かれていた。「寿」班からは、横浜のドヤ街・寿町についての作品『どっこい人間節 寿・自由労働者の街』(1975)が産み出され、一方、本隊たる「山形」班からはこのあと、農業をめぐる豊穣なる映画水脈が発見されようとしている。1970年代半ば、小川プロダクションはまさに過渡期を迎えていた。
 そんな状況下のニッチな取材として三里塚ロケが久しぶりにおこなわれたのは、空港建設反対闘争がいよいよ緊迫した危機を迎えようとしたからである。ただし、ロケには小川紳介本人はほとんど参加していない。そのころ小川はメンタルの病に苦しんでいた。この三里塚シリーズ最終編『三里塚 五月の空 里のかよい路』(1977)では、機動隊の特殊工作員によってついに鉄塔が倒壊させられる。といっても、倒壊の決定的な瞬間は写っていない。その事件は夜陰に乗じておこなわれた。画面はもっぱら、前夜の衝撃を語る活動家たちの証言や、倒壊現場に集まってきた農婦の井戸端会議をとらえるばかりである。農婦たちは持ち寄ったにぎりめしを分け合っている。にぎりめしには悲しみがない。つまり、行方不明の感情が写し出されているのだ。
 感情が行方不明であることの代償として、田村正毅が撮影した、機動隊員が平行の角度でデモ隊に催涙弾を打ち込むスクープ的ショットが写し出される。平行角度による射撃で、ひとりの死者が出た。催涙ガスは、皮膚やまぶたの中や、肺の内部にかさぶたと水ぶくれを起こさせる猛毒である。決して騒乱鎮火のための無害な空砲ではない。催涙弾を受けた者は、皮膚や内臓に長患いし、死ぬ可能性もある。催涙ガスについて説明する医師は言う。「これは放射能のようなものだ。」
 この映画の製作の翌年、1978年に成田空港は開港する。


アテネ・フランセ文化センター〈小川紳介と小川プロダクション 全作品上映とレクチャー〉にて上映
http://www.athenee.net/culturalcenter/